エリスの心理に続いて、豊太郎の心理を考察しよう。
「不興なる面もち」「余は微笑しつ」という二つの描写はそれぞれ、豊太郎のどのような心理を表わしているか?
「不興」と「微笑」には正反対のニュアンスが含まれている。これら二つの語の齟齬・矛盾・変化をどう考えるか?
ここでの豊太郎の心理を的確に説明することは少々難しい。
これは、読み取るのが難しいということではない。大抵の読者はここでの二人の心理を正しく読み取っている。だがそれを適切に表現するのが難しいのだ。
それでもそれなりに表現できるのは「微笑」だろうと思っていたが、今年度の授業で聞いてみると様々な解釈・表現が提示されて、これもまた意外な難問だということが明らかになった。例えば次のような解釈が次々と提出された。
・強がり…大臣に会うことに対する怯みを押し隠そうとしている。
・その場しのぎ…真意を悟られ図星をつかれてごまかす。
・自嘲…金持ちを期待できる立場ではない自分をあざ笑う。
・嘲笑・冷笑…エリスの勘違いに呆れている。
・気遣い…不安がっているエリスを安心させたい。
いや、いろいろ出るものだ。予想外だった。
一方「不興」は?
エリスの科白によって「不興な面持ち」をした豊太郎の様子を読者に報せておいて、なのにその内面を、地の文では解説しない。
だがこの「不興なる面持ち」は、わざわざ書かれている、と思わざるをえない。となれば「書いてあることには意味がある」の法則に従って解釈しないわけにはいかない。
こちらも、「説明」のためには抽象化した言葉を挙げよう。
それとともに、「なぜ不興な面持ちになったのか?」にも答えよう。もちろんこれは「不興な面持ちは、どのような心理を表しているのか?」と表裏一体だ。
なぜ「不興な面持ち」になったか?
例えばこれを、朝から腹を下し気味だったのだ、などと考える者はいない。
だが、そもそも何も明示的には説明されてはいないという意味で、この可能性は一つの選択肢として検討すべきはずだ。
にもかかわらずなぜそれを誰も支持しないのか?
解釈が妥当であるかどうかという判断は、それが置かれた文脈が、その可能性についてどのような限定をしているかに依存する。限定がなければ、どんな解釈も可能であり、それはそもそも解釈の必要がないということだ。
だから文脈が解釈の範囲を限定する。文脈の中でその妥当性を判断する。
「腹痛」説を誰も支持しないのは、そう考えることの妥当性を示す標識が文中にないからだ。
支持するも何も、そもそも誰もそんな発想をしない。それを発想させる情報が文中にない。
では、エリスの締めるネクタイがきつすぎて苦しかったから顔をしかめたのだ、というのは?
これは「腹痛」説と違って、書いてあることから導かれる解釈だ。科白の直前に「エリスが手ずからネクタイを結んでくれた」とある。
だがやはり依然としてそれを本気で支持する人はいまい。なぜか?
そうしたことをなぜ文中に載せるのかという必然性がやはり腑に落ちないからだ、とは言える。例えばエリスががさつな女であることを示しているのだとか、この身支度の様子をコミカルに描きたいのだ、などという意図が感じ取れるなら、その必然性はわかる。だがそのようにも見えない。
ではあるいはエリスが豊太郎の大臣謁見に対して少々気負いすぎであることを表現している?
もう一つ。さらにシンプルに、この解釈が支持できない理由が言える。
それは逆に言えば、どういう説明なら適切かを判断する条件とは何か? という問題でもある。
何か?
解釈の妥当性を支える条件の一つは、「不興なる面持ち」についてエリスから「なぜ?」と問われたのに豊太郎が答えないということと整合的であるべきだという点だ。
「腹痛」説はこうした点でも条件から外れる。「ネクタイが苦しい」も。そうならば豊太郎は「そんなことはないよ」と答えればいいのだし、少なくとも、地の文で読者に対して説明される必要がある。
例えば「不興なる面持ち」は、エリスからそう見えているだけで、豊太郎にとっては別に意味はなく、これはむしろエリスの心理を表わしているのだ、という説もちらほらと聞こえる。これは去年の「こころ」の読解が活かされた発想だ。
だがこれも、そうならば豊太郎がエリスの不安を打ち消せばいいのだし、少なくとも地の文で訂正される必要がある。
さらにもう一つ、この「不興なる面持ち」の解釈が適切であると判断するための条件を挙げてみよう。これは少々、読解という行為のテクニカルな側面を示している。
それは、先のエリスのAからBへの心理の変化に整合的だという条件だ。
豊太郎は「なぜ?」と問われて答えない。だが、答えないことも含めて、エリスは豊太郎の不興な面持ちから不穏な気配を感じとっている。それがまったく勘違いであるならば「意味ありげ」が単に的を外した「げ」でしかなくなる。ここには、エリスを不安にさせるのにもっともな理由がなくてはならない。
例えば「具合の悪いエリスの体調を心配している。」などという(これも文脈から導かれる可能な)解釈は、こうした点で条件に適わない。
さてでは他の解釈は?
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