2024年11月12日火曜日

舞姫 14 母の手紙

 公使館から告げられた免官の宣告から、態度を決定する一週間の猶予の間に、日本から手紙が届く。母の手紙と母の死を知らせる親族の手紙だ。

 母の手紙の内容を「ここ(手記)に反復するに堪えず」と書かれているのは、むしろ読者に内容を考えろと言っているのも同然だ。

 何が書いてあったか?


 まず確認しておかなければならないのは、母の手紙が、その死を知らせる手紙と「ほとんど同時に」出されたという記述だ。

 これは何を意味するか?


 この問いに、直ちにあれこれと解釈したことを答えてしまう人が多かったが、段階を追ってまず明らかなことを共有しよう。

 ここから解釈できる事実は、母の手紙が死の直前に書かれたということだ。

 母が手紙を書いた直後に不慮の事故に遭った可能性がないとは言えない。が、不慮の死であったというのは「わざわざ書かれるべき特別な事由」だろうから、母親は自らの死を知っていて、息子に手紙を書いたと考える方が自然だ。つまりこれは遺書なのだ。

 それが殊更に悲しいとしたら、そこにはどのようなことが書かれていたと考えるのが整合的か?


 病気で死期が迫った母が息子に残す言葉として、単なるその死以上に息子を悲しませるとしたら、この息子の現状との対比がそこにある場合だろう。

 ここでの豊太郎はちょうど、事実とは言い難い(だが「無根」とも言えない)中傷によって免官になったところだ。

 そこから考えると、死期の迫った母は、息子の将来に希望と期待を述べ、あなたは太田家の誇りです、くらいのことを書いていたと考えるのが、そのコントラストによって、より豊太郎を悲しませるにふさわしい。


 さてこの問題には、もう一つの解釈の可能性がある。

 最初からその発想はみんなの脳裡に浮かんでいたに違いないが、そうでなければ誘導するのは簡単だ。

 遺書と言えばどのような死因が連想されるか?

 そう、自死の可能性だ。


 当然、動機は何かが問題になる。ここで、本文に情報のない動機を想定するのは不適切だろうから、既に読者にも与えられている情報からならは、豊太郎の免官しか考えられない。

 しかしこう考えることには問題もある。

 何か?


 母は豊太郎の免官を知っていたか、という問題だ。

 手紙が届いたのは、ドイツで豊太郎が免官の宣告を受けてから一週間のうちだ。

 当時は電話も航空便もない。船便による郵便は日独間で1ヶ月ほどかかったという。とすると母親の死は、豊太郎の免官より3週間ほど前のことではないのか?

 母親は息子の免官を知らず、したがってその死は病死としか考えられないのではないか?


 だがそう即断する前に検討すべきなのは以下の記述だ。

…余がしばしば芝居に出入りして、女優と交はるといふことを、官長のもとに報じつ。さらぬだに余がすこぶる学問の岐路に走るを知りて憎み思ひし官長は、つひに旨を公使館に伝へて、我が官を免じ、我が職を解いたり。公使がこの命を伝ふる時余に言ひしは、御身もし即時に郷に帰らば、路用を給すべけれど、もしなほここに在らんには、公の助けをば仰ぐべからずとのことなりき。余は一週日の猶予を請ひて、…

 さらさらと記述されているが、「官長のもとに報じつ」や「旨を公使館に伝へて」が文書の船便によるものだとするとに、それぞれ1ヶ月ほどの時間が経過しているのだ。

 事態の推移を、その想定にしたがって並べてみよう。

 ドイツにいる留学生からの讒言によって、日本にいる官長が豊太郎の免官を決定する。それが官報に載り、母親が知る(後の章で相沢が豊太郎の免官を官報で知った、とある)。

 そして自死。

 免官の決定がドイツ公使館に伝えられるのに1ヶ月、それを追うようにして母の死の知らせがドイツに伝えられる…。

 可能なのだ。


 ただ、電信は実用されていた。このころ既に大西洋を海底ケーブルが渡されていて、大陸間で電信を送ることが可能だった。

 だがもちろん現在の電話やインターネット通信のように誰もが気軽に使えるわけではない。一留学生の罷免が、電信を使う必要性があるほど急を要する重要事項なのかどうかがさだかではない。

 免官の知らせが電信によるものであるとすると、母が免官を知って自死をしたことがこの時点で手紙で知らされることはありえない。となれば先の想定どおり病死であり、手紙には息子への期待や励ましなどが書かれていたのだろう。

 だがそれが、母や親類の手紙と同じく、文書による通知であったとすると、母は免官を知って自死を選んだという想定が可能になり、その場合は息子に対する落胆や憤慨が書かれていたのだと考えられる。


 授業では「諫死」という言葉を紹介した。

 諫死とは、死をもって相手に忠告することだ。豊太郎の行状に対し、母親がその死をもって息子を諫めたのだと考えることは、この時代の親子、とりあわけ家庭教育の賜物としての立身出世を期待していた息子に対する母親の身の処し方としては考えられるところである。

 自分の行いのせいで母親が死んだのだとすれば、それが豊太郎にとってどれほど辛いかは想像に難くない。諫死という死因は豊太郎の悲しみに対してきわめて整合的であると感じられる。

 母親の死が既に1ヶ月以上も前のことであったことを知って、その間もエリスとの交際に胸をときめかせて暢気に日々を送っていた豊太郎がどれほど胸を痛めたか。

 あらためて想像されるその悲痛は、この時間経過を考えることで、より強く迫ってくる。


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