天方伯爵の訪欧に随行してきた相沢との再会後、文書の翻訳を依頼された豊太郎は伯爵らが宿泊するホテル、カイゼルホウフへ出入りすることが多くなる。一月ほど過ぎたある日、天方伯は豊太郎にロシア訪問の通訳としての随行を依頼する。例によって豊太郎は咄嗟に肯うことしかできない。
ロシア旅行の間、エリスは毎日豊太郎宛に手紙を書き送る。11章には、最初の一通目と、出発後二十日ほど経ってからの手紙についての記述がある。後者の手紙は「否といふ字にて起こ」されている。
この奇妙な(そして重要な)手紙について考察したい。
「いいえ」「そうじゃない」「違うわ」…、口語訳はいくつも考えられるが、いずれにせよ否定する前部がないのに否定の言葉から始まる文章の奇妙さにもかかわらず、この書き出しが持つ切迫感は確かに読者にも感じ取れる。
そしてその論理もまた、わかっているような気がする。まるでわかっていなければその謎がもっと強く意識されるはずだ。
だがその論理を明晰に語ることはそれほど易しくはない。
この「否」は、何が「そうではない」といっているのか? 何に対する否定か?
同様の考察を、カイゼルホオフへ向かう前の身支度の場面のエリスの科白でも考えた。科白の冒頭が「否」で始まるが、その前後にはどのような逆接があるか。あれはこの考察の準備運動だったのだ。
その論理を語るには慎重に本文を追わねばならない。
これは何に対する否定なのか?
直前に記述されているのは一通目の手紙であり、これとただちに逆接するわけではない。一通目は豊太郎の出発の翌日に書かれており、問題の手紙は「二十日ばかり」経ってからの手紙だ。そして手紙は「日ごとに」書かれている。つまり二十通目前後の「ほど経ての書」なのである。
とはいえ、二通目以降も同じようなことが繰り返し書かれていたとすると、この一通目に対して「否」という逆接でつながる論理を説明すればいいのかもしれない。
また、豊太郎からの返信に対する逆接かもしれない。その頻度は明らかではないが、豊太郎もまたエリスに手紙を書いている。「書き送りたまひしごとく、大臣の君に重く用ゐられたまはば」と、ロシアでの通訳の仕事ぶりについて、エリスに知らせている。これらの返信の内容に対する反対の意志表明なのだろうか。
だとすればこの逆接から、豊太郎の手紙の内容を推測すべきなのだろうか?
おそらくそうではあるまい。「否」から豊太郎の手紙の内容を推測させるような迂遠な論理を読者に期待しているとは考えにくいからだ。
では何か?
手紙を書き出す前にあれこれと考えをめぐらせ、それを自分自身で否定したのがこの冒頭の「否」なのだろう、とは思われる。それは自身のこれまでの手紙にも書かれたような内容であったかもしれない。同様の内容をまた書こうとして、それを否定したというのならやはり、書き出す前に頭をよぎったあれこれ、ということで、逆接の論理を捉えよう。
エリスの頭にはどのような思いがよぎったのか?
論理の組み立て方のアイデアは一つではない。手紙の内容のどこまでに視野を拡げて考えるか。
まず一つは、「否」に続く書き出しの一文「否、君を思ふ心の深き底をば今ぞ知りぬる。」を素直に逆転させるアイデア。
a 「今までも豊太郎を思う心については充分その深さを知っていたつもりだった。だがその思いがこんなにも深かったのだと今初めて知った(今まで自分でも知らなかった)。」ということ。
エリスの手紙は、一通目から「あなたが恋しい」ということを訴えているに過ぎない。それは自分でも自覚している。だがこれほどとは思わなかった、と言っているのだ。いつも通りに「あなたが恋しい」と書きそうになり、それでは足りないと思う思考が「否」に表われているのだと考えられる。これはすこぶる論理的な説明だ。
もう少し視野を拡げる。続く手紙全体からしかるべき趣旨を抽出した上で、それを逆転させる。これには、ポジティブな方向とネガティブなな方向が考えられる。「否」の前後でネガ/ポジが逆転するように論理を想定する。
一通目の手紙に示されているのは、豊太郎との別離の不安だ。それは問題のこの手紙にも通底している。それに対し、この手紙には何が書かれているか?
まずネガ/ポジの逆転。
b 豊太郎の帰りを待つ不安が心に兆して、つい弱気な泣き言を書きそうになる。それを打ち消し、「我が愛もてつなぎとめではやまじ」という強い意志を表明している。
もう一つ、ポジ/ネガの逆転。
c 不安の裏返しとして安易な希望的観測(「大丈夫、あなたはきっと帰ってくる」など)にすがりそうになるのを自ら打ち消し、自分の意志で事態を変えることを宣言するため「それもかなはで東に還りたまはんとならば、親とともに行かん」と具体的な対抗策を提示する。
これらの説明には、論理を整理して語ることと、表現のニュアンスに気を配ることが求められる。
繰り返すが、入試で問われるのもそれなのだ。
ところで、話題に挙がっていた班もあったようなので附言する。
美川憲一という歌手に「さそり座の女」というヒット曲がある。
その歌い出しは「いいえ」で始まる。
いいえ 私は さそり座の女
お気のすむまで 笑うがいいわ
あなたはあそびの つもりでも
地獄のはてまで ついて行く
思いこんだら いのち いのち
いのちがけよ
そうよ私は さそり座の女
サソリの星は 一途な星よ
この歌詞を取り上げたとあるサイトでは、この前に男が星座の話題をふったのだろうと考察している。つまり「君の星座を当ててみよう。乙女座かな?」などというチャラい問いかけに対して「いいえ私はさそり座の女なのよ」と答えているのだ、というのだ(これを美川憲一の声で言われたところを想像すると怖い)。
しかし1番の歌詞全体を見ると、「笑うがいいわ」「ついて行く」などから、何を否定しているかが見えてくる。
男は、棄てようとしている愚かな女の思いを軽く見ているのだ。あなたは気軽な遊びのつもりでたやすく棄てられると思っているかもしれないけれど、軽く見ないで頂戴、私はさそり座の女=一途な女なのよ、「地獄のはてまで ついて行く」わ、というわけだ。
「地獄のはてまで」って!
この逆接の論理は、まるで上で想定したエリスの手紙の「否」と同じだ。
エリス=「さそり座の女」!
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