2024年10月18日金曜日

舞姫 5 諸説試行

 冒頭の一文の意味は、1章全体の意味から考えるべきであり、それは、ひいては作品全体にとっての1章の意味として考えるべきでもある。そこでまずは2~3章まで読み進めて、1章がどのような位置づけにあるかを把握する。


 こういった把握には広い文脈を捉える読解力が要求される。

 1章の終わりは「いで、その概略を文に綴りてみん。」だ。

 そして2章から始まるのがその「概略」なのだ。それがどこまで続くのかわからないが、ともかくも1章は2章以降に対して、これがある種の「手記(日記)」であることを宣言する、俯瞰する位置に語りの視座にあるといっていい。


 あるいは時間軸で語ってもいい。

 1章はこの手記を語っているいわば「現在」だ。

 試みに、1章は何歳? と訊いてみた。必要な情報を文中から探して数える。「こころ」の、曜日を特定した考察に似ている。

 27歳と推論できれば正解。

 2章で、19歳で大学を卒業して勤め始め、3年経ったとある。22歳だ。そこでドイツ留学を命ぜられる。

 1章で、5年前に日本を発ったとあるから、現在が27歳なのだ(実際の鷗外は26歳で帰国しているが)。

 3章の冒頭にそれから3年と書いてあるから、25歳になっている。差し引き2年前のことだとわかる。その延長で予想すれば、最後まで語られたところで「現在」にたどり着き、その後が1章になるのだ。つまりこの後3章から最後までがその2年間のことが書かれるのだろう。


 さて、1章がそのような位置にある部分であることを把握して、その冒頭におかれた一文の意味を改めて考えてみる。

 研究書や解説書を見ると、この一文について従来語られてきたのは次のような説だ。

  • 船室から船内の様子を描写する聴覚的な表現である。
  • 文末の「積み果てつ」の完了が、この先に語られるエリス=「舞姫」との物語が全て終わってしまった過去として語られることを象徴している。

 これらの解説を読んで授業者が思うのは「ふーん」だ。否定するものでもないが、恣意的な解釈だとも思う。だからこうした解釈を自分で思いつくことには価値があるが、みんなでこれを目指して考察することはできない。

 1は、語り手が自分の船室に閉じこもっているという解釈を採ったときのみ意味をもつ。騒がしかった積み込み作業の音が止んだことで、「積み果て」たことを知ったというのだ。

 だが語り手が手記を書き出す前に船内を歩き回って作業の終了を「視た」のではない、となぜ言えるのか。

 もちろん、船室に閉じこもっているのだと解釈する方が、この時の語り手の心情にふさわしいという「解釈」はそれなりに説得力がある。だがそれが、書き始める時点までのどれくらいからの時間を意味しているかは明らかではない。トランプ仲間は毎晩語り手の元を訪れている。

 2は、まず冒頭を読む読者にはわかりようのないことだ。既に「舞姫」全文を読み、振り返って冒頭の一文を目にしたときにそのような感慨を抱くのは読者の自由だ。だがそれが、この一文がここに置かれるべき理由を示しているわけではない。文末の完了形が問題なら「夕餉を食べ終えつ」でもいいのか? 

 「石炭を積み終える」ことが、なぜ示される必要があるのかという疑問はまだ解かれていない。

 

 では冒頭の一文は何を意味しているか?

 さしあたり、出航が近いということだ、と言ってみる。

 ここから「意味」らしきものを説明することはできる。つまり船の出航が物語の始まりを象徴しているのだ。

 これで十分ではないのか?


 だが「船は港を出て、海原に乗り出した」くらいならそれも言えるかもしれないが、まだ燃料の積み込みが終わったところだ。「出航が近い」というのはちょっと大雑把な言い方だ。さらに精確に言わなければ、第1章全体との関係は捉えられない。


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