冒頭の「石炭は積み終わった」が「日記を書きたい/書けない→書こう」に決着する論理を構築する。
この経路は二つ想定できる。冒頭の一文は二重の意味で1章の決着に必然性を与えている。
まずは演繹的に、つまり前方から論理を発展させてみる。
- 船の燃料となる石炭の積み込み作業が終わった
↓
- 出航間近
「間近」とはいつのことか?
↓
- 明朝
なぜそう考えられるか?
「今宵は夜ごとにここに集ひ来る骨牌仲間もホテルに宿りて、舟に残れるは余一人のみなれば。」とあるからだ。
ここは少々の推察を必要とする。おそらく船の長旅では、寄港の最後の晩はみな陸(おか)で過ごすのが習いなのだ。だから船客だけでなく最小限の船員を除く乗員のほとんどが下船しているということなのだ。
だから何だというのか?
↓
- 今夜は一人きり
それまではトランプ仲間が毎晩語り手を訪ねてくる。それが今晩はない。つまり燃料の積み込み終了は「舟に残れるは余一人のみ」であるという状況を必然的に作り出しているのだ。
さらに、一人だから何だというのか?
日記を書くことによって、深い「悔恨」を消したい。だが筆は進まない。そこに毎晩トランプ仲間が訪ねてくる。となれば、書けないことに対する言い訳ができてしまう。
だが今晩のこの状況は、そうした言い訳を自らに許さない。
書き出すしかない。
さて、もう一方の経路を辿ってみよう。
上記の通り、日記を書き出せずにいる。具体的には「買ひし冊子もまだ白紙のままなる」に、二十日あまりが経過している。
とすると?
場所と移動経路を確認する。
この港はどこにあるか?
- セイゴン
どこの国か?
- ベトナム
脚註にある。では最初の出航地はどこか?
- ブリンヂイシイ
同じくこれはイタリアだと註にある。
そもそもどこから旅立ったのか?
- ドイツ
陸路でスイス→イタリアに向かい、そこから船に乗ったと考えられる。
ここまでにどれほどの日時がかかっているか?
- 二十日あまり
どこへ向かうのか?
- 日本
つまり、おそらくここが日本に向かう最後の寄港地なのだ。ヨーロッパ―アジアの位置からそう推測するのは自然だし、「五年前のことなりしが(略)このセイゴンの港まで来し頃は」が、日本を出て最初の寄港地がセイゴンだったような印象を与えることも、そうした解釈を支持する。
この地理関係から何が言えるか?
つまり、冊子を買ったものの書けないまま二十日以上が経って、今ベトナムにいて、ここを出ると日本まではそれほど猶予はないのである。
この文章が、ある「恨み」(=悔恨)を消すために書かれるのだとすると、それは日本に着くまでに書かれなければならない。日本ではその「恨み」を飲み込んで新しい生活が始まるからだ。
「明朝には出航する」という状況は、ためらったまま手をこまねいている語り手に焦燥感を与えて、書き出すよう促す。
これで、冒頭にこの一文が置かれていることの必然性が納得できた。
セイゴンの港で燃料の積み込みが終わった夜、という状況設定は、語り手が、書けずにいる手記を書き出すにあたって、書き出さねばならないという動機に切迫感を与え、かつ書くのに都合の良い状況を作ることで書き出すことに誘導している。
そして語り手が書こうとしている手記とは何か?
これはメタな問いで、勘の良い人が各クラスにいてくれて助かった。
そう、この日記こそ、この「舞姫」という小説そのものだ。
つまりこの冒頭の一文は、この小説がまさに存在を始めるための必然性を与える契機となっているのだ。
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