「舞姫」冒頭の一文「石炭をばはや積み果てつ。」の意味を考える。それが指し示す事態と、この情報が冒頭におかれて果たす機能について考察する。
複数人で検討すると、まずは「何のことか」についての了解がされるはず。本当はその妥当性は「なぜ」まで結びついて初めて納得されるのだが、そこまで一息に届く前に、とりあえず「何のことか」についての見当がつく。「石炭ストーブ」よりも可能性のありそうな解釈が。
さて、何のことか?
いくつかのクラスでこの段階で「船に乗っているということ」「船が出発するということ」という答が発せられるのでとまどった。そのたび、単に書いてあることから跳ばないで、間を埋めてくれ、と要求した。
書いてあるのは「石炭は積み終えた」だ。これと「船が出発する」のつながりを明示する。
すなわち「石炭」とは、蒸気船の燃料のことなのだ。部屋の石炭ストーブの燃料ではなく。その積み込みが終わったということは、船が出航する準備ができたということだ。
話し合いの過程では「そういうことなの?」などという声があちこちで聞こえるから、授業者同様、全員が直ちにそうした解釈にたどり着いているわけではない。確かに情報としてはこの一文では不充分だから、推測によって補う必要がある。
「石炭をば」の「をば」は、対象を示す格助詞「を」と題目を示す係助詞「は」が付いたものだ。
これを単に「石炭を」だと考えると、誰が? ということになるから主語が省略されていることになり、その主語に語り手を補ってしまう誤解も生じる余地がある。
実際に、石炭が蒸気船の燃料のことだと解釈した上で、語り手がそれをしたのだと考える者はいる。それらしい誤解の声が聞こえてくるのは、省略された主語が語り手であると想定する、という基本作法を守ったのは授業者だけではないということなのだろう。
だが語り手の「余(=私)」=豊太郎は一乗客だから、作業自体は船員と港湾作業員がやったのだと考えていい。
「をば」は強調だから、「石炭をば積み果てつ」は「石炭を積み終えた」であるとともに「石炭は積み終わった」というニュアンスでもある。「は」は主語を表す単なる格助詞ではなく、題目語を提示する係助詞だ。「をば」を「は」と考えれば必ずしも主語を欠いているとも言えない。「石炭はもう積み終わった。」のだ。
同時に、「船は」という主語(題目語)が隠れているとも言える。つまり「船は石炭をもう積み終えたところだ」という意味で考えてもいい。二文目も「中等室の卓のほとりは」「熾熱灯の光の晴れがましきも」と、実は主語が語り手ではない。
さて、多くの者が正解にたどり着くのは、わざわざこの文の意味を考察させたからであるとも言える。そこに「意味」を見出そうとする思考が、文脈を意識させる。そしてそれによっておそらく上の答えが、さらに「なぜ冒頭にこの一文が置かれているか。」という問いの答えにつながりそうだという予想を感じているからだろう(と、自分では自然には辿り着かなかった授業者は負け惜しみで言う)。
だが予感された論理を実際にたどるのは、それほど易しくはない。
もう一つの問い、なぜ冒頭にこの一文が置かれているか? にはどう答えたらいいか。「船の燃料となる石炭の積み込み作業が終わった」から何だと言うのか?
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