2024年6月12日水曜日

博士の愛した数式 2 考える手がかり

 ルートの「気持ち」を考えてみよう。

 単に「怒り」というなら、次の一節がその端的な説明になっている。

「ママが博士を信用しなかったからだよ。博士に僕の世話は任せられないんじゃないかって、少しでも疑ったことが許せないんだ。」

 これが具体的にどの場面のことを指しているかはもちろん把握していなければならない。「私」が買い物に出る前、ルートに「大丈夫かしら」と問いかける場面だ。このやりとりがルートの「怒り」の伏線となっていることは把握しておく。

 ここには、母親の問いかけに対し「ぶっきらぼうに」答え、「私など相手にせず」に博士の書斎に駆けていくルートが描かれている。

 ここに「不機嫌」の萌芽を読み取ることは確かにできる。この伏線とその回収は明らかに意図的なものだ。作者はルートの「怒り」を描く上でこの場面を想起するように読者に求めている。

 だがこれだけで「なぜか」が説明され尽くしていると考えることは、まっとうな小説読者としてはできない。それは、そんなに単純な感じではないな、という違和感だ。

 その違和感とは何か?

 言い換えれば、何に答えられなければこの部分のルートの心理が説明できたことにはならないか?


 この違和感のわけを言葉にしてみるなら、こんな感じだ。これがルートの怒りの理由であるとすると、それはこのやりとりの後で、怪我して病院に運ばれて、帰りに外食してアパートへ戻る、という展開がこの怒りに関係ないことになってしまう。博士への「私」の懸念はこれらの展開の前に既にルートに表明されているからだ。仮にルートが怪我などせずに、「私」が買い物から戻ったとしても、ルートの怒りはやはり爆発しただろうか。そうした想像は困難だ。

 したがって、「私」の博士への懸念は、ルートにとって母親への不満として心に留まってはいるが、それを激情に変えたのはその後の展開であると考えられる。何がルートの心を波立たせているのか?


 さらに、なぜ「とたん」なのか? この急な態度の変化はどうして起きたのか?

 同様の問いとしてこの疑問は次のようにも言える。

 理由があるのなら、問われてすぐ答えればいいのに、なぜこの後1ページあまり黙って泣いたりしているのか?


 さらに、考える材料として注目したいのは、ルートと「私」のやりとりに、随時挿入されるラジオの野球中継だ。

 これが注目に値する要素だということは意識できなければならない。小説や詩を読解する上では必須の作法だ。

 この野球中継はルートと「私」の会話の無意味な背景ではない。どうみても意図的な挿入だ。といって「不機嫌の原因がタイガースでないのは明らかだった。」「ルートの耳には何も届いていなかった。」とあるから、この野球中継が直接、ルートや「私」の心情に影響しているというわけではない。

 むしろこれが意味するものは、読者に向けて物語の方向性を指示することだ。

 とはいえ単純に事実関係は理解しておきたい。

 「私」は不機嫌なルートの態度に「タイガース、負けてるの?」と問う。ここからは、ルートがタイガースに肩入れしていることが確認できる。

 続いて試合の状況。この場面の序盤で、ゲームは九回表、巨人とタイガースは同点。ルートは不機嫌の理由を聞かれて、答えることなく怪我をした手を机に打ち付ける自傷的なふるまいをする。中盤でタイガースの「亀山」がバッターとなる。「亀山」が「桑田の球威に押され……二打席連続三振を喫しています…」という状況を伝えるアナウンスが挿入されたあと、ルートは「声も漏らさず、体も震わせず」「涙だけをこぼしていた」。タイガースは「負けてる」わけではないが、劣勢だ。

 そして、ルートの怒りの訳がルート自身の口から語られた後、それに対する「私」の反応についての説明・描写を一切差し挟まずに、次のようにこの章は終わる。

亀山が二球目を右中間にはじき返した。和田が一塁から生還し、サヨナラのホームを踏んだ。アナウンサーは絶叫し、歓声はうねりとなって私たち二人を包んだ。

 この描写は何を意味しているか?


 もうひとつ。ルートの流す涙について述べた次の一節。

けれど今回は、かつて目にしたどの涙とも違っていた。いくら手を差し出しても、私が拭うことのできない場所で、涙は流されていた。

 問題は「私が拭うことのできない場所」という一種の比喩表現が意味しているものをどう捉えるか、だ。


 これらは「手がかり」であり、同時に、ルートの心理を説明し得たというための関門でもある。これらの問題に答えられていることが、ルートの心理を分析できていると言える条件だ。


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