初孫の誕生にあたって、ノブコは「はるか」という命名案を息子に提案する。
それを聞いたもう1人の息子である語り手は北へ行くことを「はるか」の父である弟に伝える。速達で。
そこにはどのような論理的な展開があるのだろう?
さて、思考を誘導するため、さらに糸口を提供しよう。
「おれ」は三十才まで何をしていたか?
「正解」はない。唯一の限定ができる条件はたぶんない。自由に想像していい。
メジャーデビューを目指してバンド活動していた。
俳優を目指して劇団に所属していた。
小説家を目指して投稿を繰り返していた。
研究職を目指して大学に残り続けていた。
起業家を目指して会社設立を企画していた。
NGO組織でボランティア活動をしていた…。
こうした「自由」な想像は、どこまでが許されるのか? どのような条件によって限定付けられるのか?
例えばフリーターは?
ニートは?
さらにいえば、「病気で入院していた」「犯罪を犯して収監されていた」は?
もう一つ。同じように詩のイメージを拡げるような思考をしてもらおう。
「おれ」は北に何をしに行くのか?
これもまた詩の論理に齟齬のない範囲内でなら自由に考えていい。
流氷の軋むオホーツク海を見る。
見渡すばかりのラベンダー畑に佇む。
大雪山頂から石狩川を見下ろす。
オーロラの空の下に立つ。
脱サラして北海道で牧場を営む。
どこまでの想像なら「小さな夢を/見てくる」の範囲内なのか?
この北への旅が、一時的な旅行なのか、北への永住の決意なのかは見解の分かれるところかもしれない。「小さな」を文字通りとるならば一時的な旅行であるように感じられるし、自らの夢に対する謙遜、自己卑下ならば永住を前提にしていてもいい(いや、それだと「電話はかけない」が弟との絶縁を意味してしまうからだめか)。
さまざまな想像が教室内に提出され、そのイメージの広がりと重なりのなかで「はるか」という名に込めた願いが、いくらかなりと実感されるのは悪くない。
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