販売促進のために最も効力のある文学賞といえば、「直木賞」「芥川賞」とともに、まず「本屋大賞」が挙がる。毎年ニュースになる。
その第1回と第2回の受賞者の作品を、今年は授業で読む。第2回受賞者の恩田陸の作品は、本屋大賞受賞作品「夜のピクニック」ではなく、独立した短編「オデュッセイア」を発展現代文で読んだ。そして総合現代文の方で、第1回受賞作品、小川洋子の「博士の愛した数式」を読む。
「博士の愛した数式」と「オデュッセイア」を読むには、それぞれかなり違った作法が必要になる。もちろんどちらもただ読むことで楽しめる良質なエンターテイメントとして享受することにいささかの不都合もない。だが授業という場でそれを取り扱うには、読むことにおいて必要とされるそれぞれに適切な作法を意識化しておくことが望ましい。
たとえば「オデュッセイア」では、ファンタジーとしてその世界観を捉えながら、最終的にはそれを神話や寓話のように読む必要がある。そして、その象徴性についての考察へと展開した。
一方「博士の愛した数式」では、小学生の時からさんざん授業で訊かれてきた問い、「この時の登場人物の気持ちを考えよう」という作法が適切だ。
「博士の愛した数式」は、完結した短編ではなく、長編の一部、しかも今回読むのはその真ん中あたりの一節だ。したがって、小説全体をメタな視点から捉えることはしない。「どういう枠組みで読むか」は問題にならない。
また、「博士の愛した数式」という小説にとって、記憶が80分間しか保てないことと、数学をこの上なく愛しているという、「博士」に施された二つの特殊な設定が肝であるのは確かだが、小説の世界が我々の現実とかけ離れたところ(平安時代とか中国とか夢の中)に設定されているわけではない。現代の日本だ。だから、この小説を読むには、その小説世界の人間関係、状況に読み手自身を重ねながら、その喜怒哀楽を感じ取るのがふさわしい。
こういう作法で小説を読解をするのは、3年目にして初めてだ。
何を取り上げるか?
この切り取り方で提示して考察するとすれば、焦点は明らかだ。
ルートの怪我と病院への搬送、待合室の三角数から三人での外食まで、言わばこの部分における物語のクライマックスとも言えるイベントの後、一行の空白を挟んで、物語は意外な展開をみせる。
博士と別れ、アパートまで帰り着いたとたん、なぜかルートは不機嫌になった。
ここから始まるシークエンスは時間をかけて考察するに値する、実に小説的な読解力を要求される場面だ。
ここに見られる「ルート」の奇妙なふるまい、感情の発露をどう受け止めれば良いのか?
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