この詩の冒頭、なぜ一度「おばあちゃん」と言っておいて、それを「おばあちゃんとは/ノブコちゃんのことで」と言い直す必要があるのか?
そもそも自分の母親を「おばあちゃん」と呼ぶのはなぜか?
「おばあちゃん」とは孫の存在によって相対的に規定される呼称だ。家族間の呼称は、その家族の最年少の構成員に合わせて変化する(この説明を最初に公的に発表したのは、去年言語論で読んだ鈴木孝夫だそうだ。)。
こうした家族間の呼称は日本語に特有の言い方だという。
つまり、この言い直しが示しているのは、「はるか」が「ノブコ」にとっての初孫なのだという設定だ。
今までこの兄弟の間では、母親を「ノブコちゃん」と呼んできた。だが孫が生まれると、日本人の家族間呼称の習慣に従って、「ノブコちゃん」は今後「おばあちゃん」と呼ばれるようになる。とりわけここでは、この後で「まご」が話題に上るから、その力学で「ノブコちゃん」は「おばあちゃん」として話題に登場する。だがその呼び名はまだこの兄弟には馴染みがなく、一応確認が必要に感じられているのだ。
そこから、「はるか」に兄姉はいないこと、そして語り手には子供がまだいないことがわかる。語り手と弟が二人だけの兄弟なのかどうかは不明だが(おそらく他の兄弟はいまい)、彼らにも恐らく子供はいないということになる。
この解釈による「初孫誕生」という背景設定は、先の「父の再婚」や「曾祖母の存命」という設定に比べて、わざわざ言及しないことが不自然でない程度に自然であり、かつこの詩全体の主題解釈にかかわるからこそ整合性が高い。
さて、授業ではもうひとつ、Oさんから別のアイデアが提示された。
「おれ」には子供がいるのだ。だから「おれ」は「おばあちゃん」という呼称に慣れており、だからつい「おばあちゃん」と言ってしまう。だが弟にはこれまで子供がないから、「おばあちゃんとは」という確認が必要なのだ。
これは「父の再婚」や「曾祖母の存命」に比べれば想定されても良い自然さがある。弟にとっての初めての子供だという点は「初孫説」と共通している。
だがどちらが適切かと言えばやはり「初孫説」だろう。
単なる突っ込みとしては、「おれ」が妻子のある身で、「北」に「夢」を見に行くという無責任さは何事だ!? と言いたくなる、という問題もある。
あるいは建前を言えば「速達」という文面で、うっかり相手がわかりにくい、自分だけが慣れた言い方をして、わざわざそれを確認することも不自然だ。
さらに言えばこの「おばあちゃん」は、この話題を共有する弟と自分の間での共通認識として使われるべき発語だから、2人にとって「ノブコちゃん」がこれから「おばあちゃん」と呼ばれることになるのは、2人に共通した事態なのだと考える方が詩の読解としてふさわしい、と言える。
この詩は、初孫の誕生にあたって、名前を考える老婦人について、その息子が、もう一人の息子に書き送った手紙、という設定なのだ。
こうした細部の設定の解釈は、一読後ただちに読者に了解されるわけではない。上記のような問いによってあらためて考えなければ、読者の裡に生成されはしないはずの読みだ。
授業で詩を読むことに意義があるのは、こういう読みの更新が起こることが期待されるときだ。
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