2024年6月9日日曜日

弟に速達で 1 「おばあちゃん」とは

  今年度、総合現代文では、詩を取り上げる授業は予定していない。

 一方発展現代文では、総合現代文の方で全員対象に取り上げはしないが、しかし捨てるには惜しい「国語」的体験として、ディベート創作を行う予定だし、も読む。


 辻征夫「弟に速達で」は以前使っていた教科書に収録されていた詩で、授業で読解していくと、そこには意外な豊かな読解の世界が広がっていることに驚いたものだった。

  弟に速達で

                                  辻 征夫 

さいきん

おばあちゃんにはあったか?

おばあちゃんとは

ノブコちゃんのことで

ははおやだわれわれの


まごがうまれて

はるかという名を

かんがえたそうだなおばあちゃんは

雲や山が

遠くに見える

ひろーい感じ

とおばあちゃんは

いったのか電話で


おれはすぐに

すこしゆるゆるになったらしい

おばあちゃんの老眼鏡を 思い出した

あれはおれが 三十才で

なんとか定職についたとき

五回めか六回めかの賃銀で買ったのだ

おれのはじめてのおくりもので

とてもよろこんでくれた

なにしろガキのころから

しんぱいばかりかけたからなおれやきみは


じゃ おれは今夜の列車で

北へ行く

はるかな山と

平原と

おれがずっとたもちつづけた

小さな夢を

見てくる

よしんばきみのむすめが

はるかという名にならぬにしろ

こころにはるかなものを いつも

抱きつづけるむすめに育てよ


北から

電話はかけない


 授業で読み込むまで、個人的には、この詩に何かしら好もしい印象を抱いてはいたものの、とりわけわからないところはない、と思っていた。

 それでも、素直に感じた印象を言葉にしたり、その印象がどのような作用で成立したのかを分析したりすることも、国語科の授業としては有益ではある。微妙な感情を他人に向けて表現すること、その感情と言語の関係について考察すること…。

 だが「印象」はあくまで個人の内的なものであり、その分析は、その印象を抱いた人自身がするしかない。だが、どんな感じ? を言葉にするのはそれほど簡単なことではないし、さらに、どこからそんな感じがした? という機制を分析するのはさらに難しい。


 授業者には、この詩は、ユーモラスな感じと、クールな格好良さがある詩だと思われる。

 たとえば「ははおやだわれわれの」の不自然に平仮名ばかりの表記や、一字空けにすらしない倒置法をぬけぬけと読者の前にさらすふてぶてしさ(同様の詩行が何箇所もある)。

 「ははおや」を「ちゃん」付けで呼び、自身を「おれ」と呼ぶ。「ひろーい」「ガキ」「じゃ」といったくだけた口調。

 そうしたユーモラスな調子の一方で、弟には「おまえ」ではなく「きみ」と呼びかけ、「電話はかけない」と言い切ってすっぱりと鮮やかに詩を断ち切る。夢を見るために北へ向かうなどという行為は、格好良いというより、下手をすれば滑稽になりかねない。それをユーモアに転換させる軽やかな身のこなし。


 こうした、詩の「印象」と「分析」を語る行為は、いわゆる「鑑賞」と呼ばれる行為であり、それは詩を書くことと同じくらい創造的なことだ。どうしようもなく、それを語る人自身が問われてしまう。

 それはそれで楽しく、有意義なことでもあるが、今回は認識の共有を目指して、テキストを読解する。

 このテキストは、何を語っているか?


 さて、考える糸口も提供する。

 まずはすぐにわかることを確認する。

 ここに登場する人物はどういう関係になっているか?


 まずは語り手の「おれ」と、その「弟」であるところの「きみ」。

 2人の母親である「ノブコちゃん」。

 そして弟の娘である「はるか」(という名になるかどうかはまだわからないが)。



 もちろんこんなことは、誰でもわかるべきことだ。

 だがこれを問うのは、誰でも一瞬混乱する要因もあるからでもある。3・4行目「おばあちゃんとは/ノブコちゃんのことで/ははおやだわれわれの」のくだりだ。

 「おばあちゃん」が「ははおや」であることを理解するのはそれほど難しくないが、「ノブコちゃん」というくだけた言い方が違和感として、いくらか理解をさまたげる。

 とはいえつまるところ理解はできる。4人がそういう関係であることは。

 だが問題はそこではない。

 奇妙なことは、次のような疑問が生ずることだ。

 なぜ、一度「おばあちゃん」と言っておいて、それを「おばあちゃんとは/ノブコちゃんのことで」と言い直す必要があるのか?


 この問いを、疑問として自覚することは難しいはずだ。読者側から言うと、詩行を順番に読む中で、「おばあちゃん」と呼ばれる老婦人が「ノブコちゃん」と「ちゃん」づけで呼ばれることに驚きつつニヤリとさせられ、続けてそれが自分たちの母親だと言われて一瞬混乱する。「おばあちゃん」が「ノブコちゃん」なのも意外だが、母親を「ノブコちゃん」と呼ぶのもはなはだ突飛だ。祖母なのか母親なのか、驚きとともに一瞬混乱はするものの、二聯で「まご」が出たとたんに、先述の人間関係が、たちまち把握される。自分の母親を「おばあちゃん」と呼ぶ習慣は、日本人にはさして特殊なものではない。つまりこの詩行は、それなりに「わかる」。
 だがこうした納得の陰に隠れて、本当は生じなければならない疑問が看過される。それは三行目から四行目の展開の不自然さだ。
 よく考えると三行目「おばあちゃんとは」は奇妙だ。普通、聞き手が「どこの老婦人のことだ?」と思うような文脈で「おばあちゃんにはあったか?」などと聞いたりはしない。だから、「おばあちゃん」が誰のことを指しているかが、相手にとって必ずしも明確ではなく、誰のことかを特定する必要がある、という場面は普通ではない。
 だが読者にとっては一行ずつが新情報であり、解釈の可能性の幅は比較的開かれた状態になっている。それを解釈していく中では、その不自然さに気づきにくい。自然と不自然を分けるほどの情報が未だ得られていないからだ。
 といってこの「おばあちゃん」の特定、言い換えが、我々読者のために必要だったわけではない。この詩句の読者とは、題名からして弟であるという設定なのだから。
 とすれば、言い直しが必要な理由は、「おばあちゃん」と言えば誰を指すのかが、ある程度は明確であり、なおかつ一応は確認する必要もある、という微妙な状況であるということだ。
 それはどんな場合か?

 可能性はいくつか考えられる。だがそれらのいくつかは読解としては不適切だ。
 難しいのは、それが不適切である理由を自覚的に述べることだ。
 いくつかの解釈について検討しよう。
①「祖母」と呼ばれる人は、通常は母方と父方の二人いるから、どちらの「おばあちゃん」かを特定する必要があるのだ。
 この解釈に反駁してみよう。
 弟の奥さんの母親もまた「はるか(仮)」にとっては「おばあちゃん」には違いない。だが、語り手にとっては彼女は単なる他人だから、弟ならともかく語り手が「おばあちゃん」と呼ぶとは考えにくい。

②「はるか」にとっての曾祖母が存命中。つまり「おれ」と「きみ」にとっての「おばあちゃん」と「はるか」にとっての「おばあちゃん」を区別する必要があったのだ。
③「おれ」と弟には本当の母親と育ての母親の二人がいる。詩には登場しない父親は、2人の母親と離婚し、まだ2人が小さいうちに「ノブコ」と再婚したのだ。先妻は離婚後どこかにいて、彼女もまた「はるか」からみれば血のつながった「おばあちゃん」なのだ。
④2人は養子に出されて、「ノブコちゃん」はその養子先の母親なのだ。生みの親はどこかで存命中。

 これらはいずれも論理的には可能な解釈だ。だがそのように考えるのは不適切だ。なぜか?

 書いていないことを「論理的にはありうる」こととして想定していくと解釈の可能性は果てしなく拡散してとりとめがなくなってしまう。読者が自然な解釈をするために必要な情報は、基本的には作品中に書かれているはずだと一応は考えるべきなのだ(毎度の「登場人物が超能力者異星人異世界人である可能性はとりあえず考える必要がない」というやつだ)。
 もし父親の再婚や曾祖母の存命によって、その「おばあちゃん」と「ノブコちゃん」を区別する必要があったのだとすれば、それが作品中に書かれないはずはない。そのように書かれていない特殊な設定を根拠とするのは、不必要で不自然な解釈なのだ。
 では「おばあちゃんとは」という言い換えが必要な整合的で自然な解釈とは何か?

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