2022年12月15日木曜日

視点を変える 4 少女たちの「ひろしま」

  さて「木を見る…」と、教科書のいう「関連教材」、「少女たちの『ひろしま』」をどのように読み比べるか?

 まず、両者の主旨を、共通する一文で表現してみよう。関連しているとは、共通部分があるということだ。

視点を変えると物事は違って見える。

 だいたいこんな言い方になるはずだ。これをスキーマとゲシュタルトという語を使って言うと?

スキーマが変わると違ったゲシュタルトになる。

 「スキーマ」と「ゲシュタルト」という言葉がどんな概念なのか、だんだんつかめてきたろうか。

 「スキーマ」とは言ってみれば「見方」のことで、「ゲシュタルト」は「見え方」だ。見方を変えると見え方は変わるのだ。


 さて、そうした言い方では、両者は共通しているが、では、それぞれの文章は、具体的にはどのように見方を変えると、どのように見え方が変わると言っているのか? 両者に相違はあるんだろうか?

 対応している要素を比べてみよう。

 だが何を比べるのか? 何と何の「対応」を比較するのか?


 こういう時には例によって対比を捉える。

 ただし今回の対比は「対立」ではなく「並列」だ。

 対比の多くは「対立」だ。「AではなくB」というとき、「A/B」は対立構造にある。Bのことを言いたいときに、Aを対立項として比較することでBの輪郭が明確になる(こうした対立構造もスキーマのひとつ)。

 一方、複数の項目をそれぞれ対等に扱うのが「並列」や「類比」だ(「並列」と「類比」の違いはまたいずれ)。

 今回の「視点を変える」では、どのような「視点」なのかを対比的に捉えよう。


 「木を見る…」では「視点」の「角度」と「倍率」を変える、と述べられている。対比としては「角度」についての言及は少ないので割愛して「倍率」の方のみ書き出してみる。

  全体/一部

遠くから/近づいて

 ひいて/寄って

といったところか。

 一方、見え方がどう変わるかといえば、「全体」を見るときには「まとまり」として見るのだと言っているが、それに対比される「一部」を見るとにどう見えているかは詳述されていない。「葉っぱの一枚一枚」「瞬間ごとに移りゆく模様」「光と影のゆらめき」といったイメージは提出されているが、それを抽象化した言葉が見つからない。むしろ「アリの目に世界はどう見えているか」と、疑問を呈して終わっている。


 さて問題は「少女たちの『ひろしま』」の方だ。ここではどのような「視点」が対比されているか?

 これは簡単にはいかないはずだ。一単語の対比で済むわけではないし、文中から容易く抜き出せるものでもない。いろんなレベルの表現を重ねることで、しだいにその視点の違いが捉えられる。

 対比が「視点(スキーマ)を変える」と「見え方(ゲシュタルト)が変わる」のどちらなのかを考えながら挙げてみよう。

 例えば

暗い/明るい

という対比が挙がるが、これはそのように視点を変えたというより、ある視点から見たときの印象の違いを表している。

 ではどのような視点の違いがここでは対比されているか?

 対比を挙げる時は、概念レベルを揃えよう。例えば名詞、動詞、形容詞などと品詞を揃えるとか。なるべく。

 一人三つ以上、班で5~6個、などと言ってみると、クラス全体では十数個の対比的な表現が挙がってくる。そのようにいくつもの言葉を重ねることで、視点の違いによる見え方の違いが捉えられてくる。

  歴史/生活

  戦争/日常

  悲惨/美しい

  史料/日用品

 これをひとつなぎにしてみると、「歴史」といった大きく物事を捉えようとすると、その服は「戦争」の「悲惨」な爪痕を示す「史料」と見えるが、一「生活」者の視点から見ればそれは戦時下を生きる少女たちの「日常」を想起させる「日用品」として「美しい」ものに見える…。

 実は挙げてみると、思いのほか「見方」と「見え方」の区別は明確ではない。「戦争」は「見方」か「見え方」か。どちらともいえる。「歴史」とか「政治」とかいうスキーマで見たときにそれが「戦争」というゲシュタルトを現すのだと言ってもいいし、「戦争」というスキーマから見たときに、服が「悲惨な過去」を示す「史料」として見えると言ってもいい。

 クラスによっては面白い対比が提起されたりもした。

  作家/一女性

 という対比は、まさしく視点の違いを指摘している。これは筆者・梯さんの中の視点の対比だが、これを

 梯さん/石内さん(写真家)

 という対比で表現した人もいた。なるほど。梯さんには服が「悲惨な戦争の史料」に見えているが、写真を撮った石内さんは「若い娘の密かなおしゃれ」として見ている。その時、その服の主は、

 被爆者/一少女

としてその姿を現す。


2022年12月4日日曜日

視点を変える 3 「わかる」とは

 「スキーマ」という語は文中に一度しか出てこないが、語注を参考にするとして「枠組・図式」と言い換えが可能だと心に留めておく。5頁の記述では「パターン」がこれにあたる。「型」もいい。

 「ゲシュタルト」は語注では「まとまり」「構造」と言い換えられている。

 さて、これらを使って、「認識とはどういうことか?」に答えてみよう。


 認識とは、外界の情報を、あるスキーマにあてはめて、ゲシュタルトを構成することである。

 こうしたシンプルな表現がまず難しいのだが、そこがまあ国語的練習だ。

 これを「見る」と「読む」の例に適用する。


 「木を見る、森を見る」では次のように言えば良い。

人は、例えば「顔というスキーマ」にあてはめて、外界の様々なものを「顔」というゲシュタルトとして見る。

 「顔というスキーマ」とは、何かの要素が逆三角形に並んでいるということだ。何かの要素がそういう配置に並んでいると「顔」に見える。人物の背景に幽霊が写っているといったような心霊写真に見られる現象だ。それがゲシュタルト(まとまり・構造)ができている状態だ。

 授業で考察した「小説を読む」も同じように表現してみる。

人は小説を「物語」の型にあてはめて「物語」として理解する。

 必ずしも厳密にスキーマがどの語に対応している、ということではない。

人は小説を「欠落→回復」の型にあてはめて「物語」として理解する。

でも

人は「第一夜」を「物語」の型にあてはめて「ハッピーエンド」として理解する。

でも良い。「物語」はスキーマでもありゲシュタルトでもある。

 「~として」捉えるときに採用する枠組・型・図式が「スキーマ」で、つまりスキーマとは様々な抽象度で、いくつもあるものであり、予め用意されているものだ。そしてそれによって構成された構造が「ゲシュタルト」だ。つまりその都度、そこにできるものだ。


 これをもっと敷衍して言えば、一般的に我々が何かを「わかる」とは、対象をあるスキーマにあてはめるということだと言える。あてはまるようなスキーマをもたないとき、対象はゲシュタルトを形成できず、「わからない」。

 例えば国語では読解力があるとかないとか言うが、読解できるということは、何かの枠組・型・スキーマに、文章の情報をあてはめることができるということだ。そうしたスキーマを豊富にもっていて、うまくあてはめられることが「読解力が高い」ということだ。


 これは、その理解が正しいことを意味しない。誤解もまた主観的には「わかる」ということだからだ。

 「羅生門」を「エゴイズム」というスキーマにあてはめて「人が生きるために持たざるをえないエゴイズムを描いた小説」だと理解することも、「観念」というスキーマにあてはめて「支配されていた観念から抜け出て現実を直視する小説」だと理解することも、それぞれに「わかる」ということだ。

 実際にはスキーマは様々なレベルで複合的に働いていて、それらの様々な「理解」の整合性が全体としての「理解」の正しさを保証する。「羅生門」を「エゴイズム」で読むことは、他の様々なスキーマ(例えば「登場人物の心理を描くことには相応の意味がある」とか)による理解と不整合だから間違っているのだ(たぶん)。


 「夢十夜」の「第六夜」、「先だっての暴風(あらし)で倒れた樫」が、「外国文化の流入でなぎ倒された明治日本文化を隠喩している」と読むのも、「第六夜」を「明治文化批判」というスキーマで読んだときに構成されるゲシュタルトだ。不規則な白黒模様が「ダルメシアン犬」というスキーマを与えられたとたんにゲシュタルトを成すように、この「あらし」は文明開化のことを意味していると考えると、もう、そうだとしか思えない。

 それは、3点の配置を無理やり「顔」に見立てる怪しげな心霊写真とは違って、「ダルメシアン犬」の絵くらいには信用して良い。それに比べれば「暁の星」は女の象徴だというような解釈は心霊写真レベルだ。


視点を変える 2 認識とは

 「木を見る、森を見る」はまた、授業の考察内容とも共通した趣旨が述べられている。茂木も小林も授業の一環で読んだのだから、まあそれを扱った授業の内容と重なってくるのは当然だが。

 さて、「夢十夜」の授業ではどんな考察をし、それが「木を見る」のどんな論旨と重なるか?


 あまりにあてもないと考えようがないので、「第一夜」の最初の2時限だ、と誘導した。教えられる前に気づいた人は偉い。

 茂木・小林の文章は4回目あたりに配ったものなので、その前、「形容と描写を抜く」の前だ。授業ではどんな問いを発して考えさせたか?

「主題」を考えることと「要約」することはどう違うか?

「物語」とは何か?

 これら二つの問いによって、もっと大きな枠組としては何について考えたか?


 「第一夜」に入って繰り返してきたのは次のような問いだ。

「小説を読む」とはどういうことか?

 上の二つの問いに対する考察から、この問いについてどのような知見が得られたか?

 一方で「木を見る、森を見る」の何をこれと重ねることができるか?


 「木を見る、森を見る」からは次の問いに対する答えを抽出すれば良い。

「ものを見る」とはどういうことか?

 

 実は「小説を読む」と「ものを見る」を重ねることは、上記の、茂木・小林との比較でも考えたことだ。「見る」ことは「要約」と「視覚的アウェアネス」の両面があり「小説を読む」もそうだ、という。

 だが「第一夜」の最初の2時限はまだ「視覚的アウェアネス」の面について考察する前の部分だ。そこではどんなことを考察したか?


 さて、もう一つ条件をつけた。「ゲシュタルト」と「スキーマ」という語を使え、という条件だ。この際だからこの二つの心理学用語を使い回して、その概念を自分のものにしよう。使える語彙は多い方が良い。


 重ねる上での見当をつけるために「小説を読む」と「ものを見る」に共通する、一段抽象度の高い言い方をしておく。

 こういう時に適切な表現を思いつくかどうかが、何度も言っている通り国語力の高さを示す。各クラスでそれを指摘できた人は偉い。


 両者は「認識」という言い方で重ねることができる。つまり「物事を認識するとはどういうことか?」という問いに、「ゲシュタルト」と「スキーマ」という語を使い、それを、一方では「第一夜」の考察結果から、一方では「木を見る、森を見る」から、適切な具体例を挙げて説明すれば良い。


視点を変える 1 木を見る、森を見る

 新シリーズ「視点を変える」に入る。

 これは教科書冒頭の単元名だ。国語の教科書の「単元」というのが何を意味しているかはよくわからない。何となく共通したテーマがあるということなのだが、といって読み比べに有効なほどの関連性は想定されていない。それができたのは唯一「共に生きる」だったので、そこから今年度の授業を始めたのだった。

 この「視点を変える」も、三つの文章をまとめていて、それなりには「視点を変える」というテーマが共通しているとは言えるが、どうも有効な読み比べの見通しが立たない。

 それよりも教科書の目次を見ると「視点を変える」の第一編、つまり教科書冒頭教材の「木を見る、森を見る」と、教科書後半の「鳥の眼と虫の眼」というのが、題名からすると関連づけられそうだ。「見る」と「眼」だし、「木/森」と「鳥/虫」という対比も重なりそうだ(ところで「鳥の眼と虫の眼」が収められている単元は「近代の先へ」で、あとの二編は「暇と退屈の倫理学」と「〈私〉時代のデモクラシー」なのだ。その二編とのつながりはあるんだろうか?)。


 さてそう思って「木を見る、森を見る」の第一頁を開くと、「関連教材」として名を挙げられているのは豈図らんや「少女たちの『ひろしま』」という教材なのだった。教科書編集部の設定する「関連教材」としては前に「多層性と多様性」と「暇と退屈の倫理学」をつなげたことがあったが、まあ確かに「関連」はしているものの、それほど有効な読み比べができたわけでもなかった(それに「関連教材」だというのならなぜ同じ単元に収録しないのだろう?)。

 さて「木を見る、森を見る」と「少女たちの『ひろしま』」はどうか。


 だがその前に、「木を見る、森を見る」を読むと、新シリーズと言いながら、ここまでの授業ともつながりがあることに気づく(気づいてほしい)。

 どこが、何と?


 あまり遠い過去の話ではない、最近の授業だと誘導して、多くの者が思い至る。茂木健一郎の「見る」はそのまま「見る」で共通しているではないか。ということは小林秀雄もつながるんだろう。そういえばどちらも絵画を見ることが話題になっている。

 具体的に本文を引用しながら、対応していることを示すよう指示し、あちこちから共通した趣旨と考えられる記述が見つかった。

デッサンでは、物を「何か」として「認知」する前の一次的な視覚情報、すなわち「知覚」を描こうとする。まとまりではなく、部分に注目するということだ。でも部分だけに注目して描いていると、全体のプロポーションにひずみが出やすい。だからときどきキャンバスから離れて全体を確認する。

 上の一節の 物を「何か」として「認知」する が茂木の「要約」に、 「認知」する前の一次的な視覚情報、すなわち「知覚」 が「視覚的アウェアネス」に対応している。デッサンでは視覚的アウェアネスを描こうとするが、バランスを見るために、ときどきは離れて「要約」することも必要だということだ。

 茂木の「要約」は小林の「言葉に置き換える」に対応しているのだったから、画家は言葉にならない見たままの「花の美しさ」を描こうとしているのだという小林の趣旨はそのまま上の一節と重なる。

私たちは、いったん「何か」としてまとまりで認知すると、細かい部分を見落としがちだ。

の 「何か」としてまとまりで認知する が「言葉に置き換える」だから、それを「菫の花だ」と言ったとたんに、花の美しさを見なくなる、つまり 細かい部分を見落としがち になるのだ。

目に入るものを常に「何か」としてラベル付けして見ようとする、人間の認知的な癖

 の 「何か」としてラベル付け(する) はもちろん「要約」であり「言葉に置き換える」だ。


 共通していることを示すには、対応する表現を同じ文型に置いて並べるといい。

 狙ったわけではないが「夢十夜」の後に「視点を変える」シリーズに入ったら、はからずも同じ論旨の文章が並んだのだった。


要約というトレーニング

 「現代の国語」教科書に収録されている文章で、今年度の授業で扱えるかどうかが微妙で、しかし読まずに済ますのは惜しい、という文章について、要約することを家庭学習課題とする。

 国語の現代文分野は一般に、学習の方法がわかりにくい科目だと言われている。それは理科や社会や英語のように「覚える」ことが即勉強であるような科目ではなく、数学のように問題演習が有効かどうかもわからないからだ。国語科でも漢字や語句や古典分野には覚えることがそれなりにあるし、問題演習は、とにかく慣れるために有効だ。現代文分野も慣れるための問題演習はそれなりに有効だが、その効果が実感しにくいために「勉強の仕方がわからない」という世人の嘆きとなっている。

 とりあえず、それなりに手応えのある文章を読むだけで学習になっているのだが、それをより有効にする場が授業だ。読んだことについて他人と語るという状況が、読むことに明確な目標を与える。一人で読むのなら、いくらでも頭を弛緩させることができてしまう。わかろうがわかるまいが「流して」しまえる。だが自分で何かを語るとなれば否応なく頭を使わざるを得ない。発信が厳しく求められる授業が最良の学習の場なのだ。

 出来合いの問題集や大学入試の過去問などの問題演習も、意味はある。頭を使わざるを得ないという意味では。ただ、テスト問題というのは、「正解」を設定せざる得ないから、考えるべきことが狭く限定されていて、授業ほど多様な階層の思考をする余地がない。

 したがって、入試問題の演習をするような塾・予備校の現代文の授業は、それが一方的に聞いているだけのものならば、解説の充実した問題集で問題演習をする以上の意味はない。


 話が迂回したが、独りで行う現代文の学習として最も有効なのが要約だ、という話につなげたかったのだった。

 文章の要約というのは、独りで行う現代文の学習方法として、最も包括的・総合的で確実に効果的な方法だ。

 要約は、それをしようとし、実際にできたことが目に見える形になる。時間がかかったり、あまり適切でなかったとしても、要約文を書くことはできる。「理解する」という入力で終わる学習は形が外に表われないので手応えがないが、要約という出力まで求められる学習は手応えがある。

 文章を要約する過程では、言語を用いたさまざまな思考が必要になる。文章の枝葉や幹を見分け、文章中の各部分を相互に関係づけることで有意味化し、文章全体の構造を把握したうえで、そのエッセンスをすっきりとわかりやすい文章にまとめる。国語力を高める練習として必要な要素の多くが一連の過程に詰まっている。


 今回の課題では一橋大学の大問3にならって、200字に要約する。

 200字というのは絶妙な長さだ。読解力と文章表現力がともに高いレベルで問われる。

 良い要約文は次の条件を満たしているものをいう。

  • 原文の内容と合致している。
  • 原文の内容をバランスよく含んでいる。
  • 日本語として自然に読める。

 とりわけ大事なのは三つ目の「自然な文章であること」だ。

 100字では、本当に核心部分を語ることしかできない。ある意味で、掬えない内容については諦められる。

 400字あれば原文の内容をあれこれと盛り込むことができる。要約文の長さにも余裕があるから、それほど表現の細部に気を遣わなくても書ける。

 それに比べて200字は、あれこれと内容を盛り込むことができて、かつ表現を切り詰めないと収まらない。原文のあちこちを接ぎはぎしたような文章では日本語として不自然になってしまう。自分で文章を書き下ろすしかない。内容を精選して、重複しないように、読みやすい自然な日本語の文章にする。

 高い読解力と表現力が必要だ。


 具体的方法として、次のように進めるとよい。

  1. 読み進めながら、自分の読解力・把握力の限界がきそうなところで一旦切って、そこまでを一文にしてみる。
  2. 先を読み進めながら上記と同じように次の文をつくる。その際、前の文とどのような関係になっているか把握できているか自覚する。
  3. 最後まで読み進めてから、できた文を通読し、中心的な内容を一文で考えておく(書いても良いが書かなくても良い。できあがっている文の中に「中心的な内容」といえる文があるかもしれないが、ないかもしれない)。
  4. 全体をあらためて3~4文に再構成する。

 問題は「自分の読解力・把握力の限界がきそうなところ」の見極めができるかどうかだ。最初から文章全体の4分の1くらいずつが把握できていれば、それで4文ができあがる。あとはそれをもとに調整して200字におさめればいい。上記の3と4にそれほどの飛躍がない。

 それが、3の段階で5文以上になっている場合は、そこまでに既に時間がかかっているだろうし、再構成にも時間がかかることになる。

 場数を踏んで慣れてほしい。


2022年12月3日土曜日

問いを立てる

  テストの後、出題した問題の文章について再考した。

 出題した小坂井敏晶の文章は、去年までの1年生の「国語総合」には、またとびきり読解しがいのある文章が載っていたのだが、今年の「現代の国語」には載っていない。

 高1に不適切なほど難しい文章なのは申し訳ないが、これもまた4月から考えてきた「近代的個人」への疑い、という趣旨の文章のひとつではあるのだった。

 テスト問題について再考するのも、全体の構造を捉えるために、キーワードを探したりするのも楽しくて有益な議論になったが、「問いを立てる」という課題もまた有益だという手応えがあった。

 4月から度々、「問いを立てよ」という問題提示をしている。

 評論の読解のためには、その文章の筆者がどのような問いを立てているのかを、結論から遡って明確にする。この文章はどのような問いを立てているか?

 小説では、読者がその小説を読解するために考えるべきことを明確にするために問いを立てた。「羅生門」では「下人はなぜ引剥をしたか?」だ。


 さらに今回の課題では、単に「わからない」と感じているはずの文章のどこが「わからない」かを明らかにしろ、という要求をした。

 「どこがワカラナイかがワカラナイ」というありがちな嘆きは人情としては共感できるが、そんなことを言ってないで、とりあえず問いを立ててみて、答えられそうなら次の問いに進めばよい。

 「ワカラナイ」ことを明らかにしようとすることは、「わかった」ことと「わからない」ことを切り分け、「わかった」ことの領土をひろげていこうとする思考だ。

 「問いを立てる」という課題は、それ自体が、深いところまで読解を促そうという試みなのだ。

 まあ確かにこの文章はいかんせん難易度が高く、どこもかしこも「ワカラナイ」とこだらけだとも言える。だから「なぜ~だと言えるのか?」とか「~とはどういうことか?」という問いは量産できる。それでもいい。それがなぜ「ワカラナイ」のかを考えているうちに、いつしかわかってしまうかもしれない。それも狙いのうちだ。

 また、これはという文章を扱ったときには同じような課題を課してみよう。


 気になったのは、なぜそれが疑問なのかを説明する文中に「矛盾」という言葉が頻出したことだ。こちらでは「責任は個人に内在する」と言っているが、ここでは「責任は個人に内在しない」と言っていて矛盾している、それはなぜか? などと。

 それらの多くは「矛盾」ではない。

 文章内にはそもそも対比がある。自分の言いたいことを明らかにするため、それと対立した見解が文中に語られるのは当然だ。それらを取り上げて「矛盾」と言うのは、単に文章の構造が把握されていないだけだ。対比構造を捉えていれば「矛盾」でもなんでもない。

 そうではなく、構造的に同一側に置かれている見解に食い違いがあるようなら「齟齬がある」「乖離がある」「相反している」などと言いようはある。


 さて、8クラス中で最も真摯な考察をした上で疑問を呈したのはB組のMさんの班だ。

 「行為が決定論的に生ずるかどうかは責任と本来関係ない」のはなぜか?

 これはまさに問うにふさわしい、すぐには腑に落ちにくい一節だ。他にこれを挙げた班はなかったのだが、ではみんなはこれを疑問に思わなかったかといえばそんなことはありえない。これを問いとして立てたMさんの班はその「わからなさ」に真摯に向き合ったことは、下の考察からもひしひしと感じられる。

 近代社会では、個人には自由があり、その自由意志が行為を起こすため、その行為の結果に対しては個人が責任を負う必要があるという論理が成り立っている。決定論は自由の否定であると考えられるため、「行為が決定論的に生ずるかどうかは責任と本来関係ない」は「行為が自由意思によって生ずるかどうかは責任と本来関係ない」と言い換えられる。しかし行為が自由意思によって生ずるかどうかは責任と大いに関係しているように思われる。なぜなら、個人→自由→行為→結果という一連の因果関係の一部である自由→行為(自由意思が行為を起こす)が成立しなければ責任を個人に負わせることができないからだ。「行為が~本来関係ない」以前の本文では「行為が自由意思によって生じない」と結論付けたうえ、「なら、責任をどう考えるべきか。」と問題提起し、直後の段落で偶然の導入を用いてその問題に対する検討までしている。しかしすぐに「このアナロジーは的外れだ」と述べ、「行為が~本来関係ない」へと論を急転させている。「このアナロジーは的外れ」な理由として「人間は自己の行為を~制御できるのか」という点を指摘し、さらにその後「偶然生ずる行為」には責任を問えないと主張してはいるが、これらに素直に納得し「行為が~本来関係ない」を受け入れることは難しい。また「行為が~本来関係ない」直後の本文において、ギリシャ哲学やキリスト教においては社会や神によって罰が要請されていたと説明があるが、それがなぜ「行為が~本来関係ない」につながるのかわからない。このように難解な点が多かったため、私たちの班では『「行為が決定論的に生ずるかどうかは責任と本来関係ない」のはなぜか?』について議論した。その結果、この問いの「本来関係ない」の「本来」はギリシャ哲学やキリスト教に基づいて罰が下されていた時代を指すのだと考えた。その時代では、大した根拠なしに犯罪を象徴する責任者を選び、罰を下すことで社会秩序を回復してきた。このような時代において「責任」は存在するが、「責任」を導くまでに自由意思と行為の因果は用いられていない。ゆえに「行為が決定論的に生ずるかどうかは責任と本来関係ない」と言えるのではないかと考えた。するとこの問題は本文全体に関わる重要な問いに思える。そのため、クラス全体で議論したい。


 残念ながら議論する時間がとれなかったが、これは本当に考えるに価する問いだし、しかも上の考察は既に実によく考えている。ただ下線部の

決定論は自由の否定であると考えられるため、「行為が決定論的に生ずるかどうかは責任と本来関係ない」は「行為が自由意思によって生ずるかどうかは責任と本来関係ない」と言い換えられる。

は飛躍があってわかりにくい。「決定論的に生ずる」がなぜ「自由意志によって生ずる」に言い換えられるのか。「決定論」と「自由意志」は完全に対立項目なのに。

 「行為が決定論的に生ずるかどうかは責任と本来関係ない」は「行為が仮に決定論的に生じたのだとしても責任を問うことはできる」という意味だ。行為が自由意志に基づいていなければ責任を問えないという前提に立てば、決定論は責任を否定しうるけれど、そもそも決定論に立ってさえ責任を問うことは可能だと言っているのだ。

 これは、いったん「決定論」によって「自由意志」を否定する可能性を検討しておいて、それができないことを示した揚句に、そもそも「決定論」諸共「自由意志」が「責任」と関係ないことを示そうとしているのである。

 「決定論」を「自由意志」に「言い換えられる」と言うM班はそうした論理構造が理解できていることになる。

 見事な読解だ。


 それにしても、こうして文章を読んでも、授業と違って集中力を欠いた状態では、ほとんど何を言っているかわからないはずだ。

 そういう意味で、授業に勝る学習は、なかなか一人ではできない。自分の意見を表明しなければならないというプレッシャーが、考えることに集中力を強いるのだ。

2022年11月26日土曜日

夢十夜 17 運慶が生きている意味

 問題は「明治」という時代なのだと先に確認した。

 そして小論文を書く前に、漱石の講演録「現代日本の開化」の一部を読んだ(もっと長いものが2,3年生が使っている「現代文」の教科書に収録されている)。

 これは「夢十夜」の3年後に行われた講演だ。そこで漱石は、明治の日本の開化は、外国の圧力によって「外発的」に起こった開化だと言っている。そしてそのような開化を「皮相上滑り(表面的で中身の伴っていない)の開化」だと皮肉っている。

 これはもはや種明かしのようなものだ。ここで語っている主張を「第六夜」の主題だと考えると、すんなり腑に落ちる。外発的で急激な開化によって、「明治の木」にはもはや仁王は埋まっていないのだ。

 こうした結論は、ネットに溢れる「第六夜」論にもいくつも見ることができる。

 答えは既に出ているのだ。

 だから問題は語り方だ。論の組み立て方、表現の選び方だ。


 「第六夜」の主題は「西洋文明の流入によって、日本古来の文化が失われつつある『明治』という時代に対する冷ややかな眼差し」とでもいったようなものだ。「皮肉」と言ってもいいし「嘆き」と言ってもいいし、ストレートに「批判」と言ってもいい。

 こうした主題を語る上で「芸術」という語がどれほど有効だろう。世に溢れる「第六夜」論が、主題については大方妥当な見方をしているにもかかわらず、多くが「芸術」に言及しているのは、若い男の言葉からミケランジェロの言葉や、それが一般にひろまった「芸術」神話を連想するからだろう。だがそれはどんな論理的整合性をもつのか。

 芸術家と職人という対比で象徴される概念として、「才能/技術」以外にどんな語を想起すると、論を組み立てる上で有効か?


 「芸術家=独創」はどうか? 芸術家にはオリジナリティが必要だ。

 「独創」の対義語は「模倣」だ。だが運慶を「独創」と表現することは可能だろうが、「模倣」と見なすことはそもそもできない。だから選択にならない。

 「芸術家=独創」に対する別の対比を考える。

 次の発想ができれば論が展開できる(あるいは先の見通しがあればこのような発想ができる)。

芸術家=独創/職人=伝統


 この運慶は時代を超越するような形で出現する独創的な天才芸術家ではなく、熟練した職人として描かれている。運慶の仕事ぶりが芸術家としての創作だとしたら、②の問いの「明治の木には」という限定に何の意味があるのかがわからない。運慶の技を伝統的な職人技の発現としてのルーチン・ワークだと考えることによって「明治の」という条件が理解できる。

 職人の技術とは、単に繰り返した修練によって彼個人が体得した技術、というだけではない。それはその技を磨き上げてきた数知れない先人の営みの分厚い積み上げの上に成り立つものだ。運慶が体現しているのは、そうした職人集団の伝統なのだ。

 そして明治の文明開化によって脅かされているものは、天才の芸術ではなく、職人一個人が体得した技術でもなく、日本人の伝統であるはずだ。


 ただ「独創」の語を活かそうとするなら、外国の文化の「模倣」ばかりする明治に対して、運慶が日本固有の文化を体現しているという文脈で論理に組み込むことが可能ではある。「自分」が仁王を彫ろうとする動機も、若い男の言葉に誘導されて運慶の「模倣」をしようとしたのだ。

 だがそれは運慶の体現しているものを(あるいは「自分」に欠けているものを)「芸術」の語で語るということではない。


 では「開化」という名の文化的な断絶を経験する時代状況において「運慶が今日まで生きている理由」とは何か? 「自分」は「なぜ生きていられるか」「なぜ生きていなければならないか」どちらの理由に納得したのか?

 実はもはや①の問いの答えは大した問題ではない。

 上記の読解に従って言えば、そのような技を受け継いでいるからこそ運慶は今も「生きていられる」のだと言ってもいいし、運慶が体現する伝統の技は、この明治にこそ「生きていなければならない」と言ってもいい。後者のように言うなら、それは運慶がそう考えているのではなく、やはり我々が運慶に託した期待である。我々が運慶に生きていてほしいと思っているのだ。

 そのとき運慶は、時代を越えて継承されるべき伝統文化の象徴である。


 「第六夜」はこんなふうに「運慶」や「仁王が埋まっていない」を象徴と見なす、物語内の具体レベルから一段抽象度の高い「主題」を想定することで、「意味」がわかったと感じられる小説だ。それは、そのような「主題」を必要としない「第一夜」を受容することとはかなり違った読解体験である。

 これが授業者にとっての一応の結論だが、それは、これ以外の解釈が成立する可能性がないということではない。

 小論文は、説得力に応じた評価をしていい。


 さて、評価直前に一つの「種明かし」をしたのだが、これ、明かされる前に気づいた人はいたろうか? いたら是非名乗り出てほしい。みんなの前で賞讃したい。

 以上のように「第六夜」の主題を捉えた時、次の一節も意味あるものとして物語の文脈に位置づけられる。

裏へ出てみると、先だっての 暴風 あらし で倒れた樫を、薪にするつもりで、木挽きに挽かせた手ごろなやつが、たくさん積んであった。

 仁王の埋まっていない「明治の木」は「先だっての暴風で倒れた樫」なのだ。

 この「先だっての暴風」とは何のことか?


 もはや明らかだ。「暴風」とは1853年の黒船来航に続く幕末の動乱とそれに続く文明開化のことに他ならない。西洋文明の流入は、「あらし」のように日本人の精神を、日本文化を薙ぎ倒したのだ。

 この付合が偶然であるとは到底思えない。「明治の木」の来歴としてさりげなく書き込まれたこのような形容を、漱石が意識せずに書き付けているはずはない。全体を貫く論理が見えてきた時にのみ、その意味がわかるように、漱石はさりげなく、だが明らかに意図的に、こうした形容を付すのである。



2022年11月15日火曜日

夢十夜 16 運慶が意味するもの

  もう一つ、運慶の存在が意味するものを考える。

 鎌倉時代の人物が明治という時代に現れるという設定は、夢らしい荒唐無稽さであるというより、むしろ小説としての意図がありそうである。「夢十夜」の他の話でも明治以外の時代の人物が登場したりそうした時代が舞台になっていたりするが、登場するのは誰ともわからない人々だ。だがこの篇に限って運慶という誰もが知っている実在の人物を登場させる意味を捉えることが、この小説の主題につながるかもしれない。

 歴史に名を残す天才仏師の偉大さを誉め称えることがこの物語の主題だとは誰も思わない。問題は運慶の仕事ぶりと、それを見た明治の人々の反応だ。

 なぜか「自分」は、いったんは自分にも仁王が彫れるはずだと思い、彫れない理由を「明治の木には仁王は埋まっていない」からだと考える。

 この「埋まっていない」=「彫れない」が意味することを考えるために、掘り出せる=彫れる運慶を「自分」と対比する必要がある。運慶が仁王を掘り出せて、自分が掘り出せない必然性を考えるのである。

 前項の考察に拠れば、問題は運慶という傑出した個人と、平凡な「自分」という対比ではない。

 歴史に名を残す鎌倉人と、一明治人との対比である。


 糸口として運慶が芸術家なのか職人なのかと問うた。

 実は授業者がこの問いを思いついたのは、世の「第六夜」論に「芸術」の語が頻出するのを知っていることによる。

 運慶の迷いのない彫刻作業を、若い男が「あのとおりの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまで」と表現する。

 こういった表現は、ある種の「芸術」創造についての語り口として見覚えがある。

 実はこの表現はミケランジェロの以下のような言葉から発想されていると考えられる。

  • まだ彫られていない大理石は、偉大な芸術家が考えうるすべての形状を持っている。
  • どんな石の塊も内部に彫像を秘めている。それを発見するのが彫刻家の仕事だ。
  • 余分の大理石がそぎ落とされるにつれて、彫像は成長する。

 おそらく「若い男」の言っているのはこれらの受け売りだ。

 このように表現される創作活動とは「天啓」として降りてくるインスピレーションを形にする行為であり、その時、芸術家は神の声を聴く預言者である。作品は彼自身が作ったものではなく彼の手を通じて神が地上にもたらしたのだ、あるいは本人にもコントロールできない衝動が内側から湧き出して、それが形を成したのだ。


 だがこうした言い方は、授業者には芸術創造についての神話、神秘思想とでもいったもののように思える。芸術家を、凡人とは違った特別な存在として神秘化しているのだ。


 そもそも上記のようなことを言ったミケランジェロは芸術家か職人か?

 答えは「どちらでもある」だ。

 もちろんミケランジェロの作品を芸術であると言うことを否定する人はいまい。

 だが彼は明らかに職人である。工房に入って親方の元で修行して技術を身につけ、独立してからも自らの工房を開いて弟子をもった。教会や貴族の依頼によって作品を制作した。そのような在り方を普通「職人」と呼ぶ。

 これは例えばレオナルド・ダ・ヴィンチも同じだ。「モナリザ」や「最後の晩餐」は偉大な芸術作品だと見なされているが、それらは注文に応じて制作されたものだ。彼自身、工房で親方について修行し、後に自らの工房をもって弟子とともに作品を制作した。

 運慶もそうだ。仏師とは寺社や貴族の注文に応じて仏像を彫るのが仕事だ。運慶は親方について修行し、後に多くの弟子を率いる棟梁となった。これは我々がイメージする「職人」そのものだ。

 これは何を意味するか?


 芸術家と職人を区別するのは近代以降の発想なのだ。近代以前には芸術作品と工芸品に区別はなかったのだ。職人を意味するフランス語の「アルチザン」は「アーティスト」と語源が同じだ。

 近代以降「個人」の成立とともに、作品は「個人」の内面を表現するものと見なされるようになる。

 一方でそうした作品を、産業革命によって誕生した経済市場に乗せられる「商品」と区別する意識が生まれる。芸術作品は、本来売り買いされることを目的とした商品ではなく、芸術家個人の創作意欲の発露だというのである。一方で職人が作るものは「商品」だ。そうして「アーティスト」と「アルチザン」も対立的な概念として分岐していく。

 そうした前提によって運慶が芸術家か職人かを考えることには意味がない。

 では芸術家と職人をどのような違いとして捉えることが有効か?


 この問題について論ずるには、芸術家と職人が意味するものをまず対比的な言葉に置き換える必要がある。

 ただちに想起されるのは「芸術家=才能/職人=技術」といったところだ。

 ミケランジェロもレオナルドも運慶も、間違いなく天才なのだろう。

 だが運慶が迷いなく仁王を掘り出せるのは、何万回と重ねてきた技術の研鑽の結果ではないか? それが見る者に神秘的な技と見えるほどに高められた熟練の技術の賜物なのではないか?

 だがむろん「自分」は芸術家でも職人でもない。天才を有しているわけでもないし、熟練の技術を持っているわけもない。

 「自分」個人についてもそれは明らかであるというだけでなく、そもそも「自分」は一個人ではなく「明治人」として物語に登場している。そして「明治人」が特定の「才能」や「技術」を有しているべき必然性はない。

 したがって「芸術家」とは才能を持った者、「職人」は技術を身につけた者と捉えることには、それほど発展的な考察は期待できない。「自分」にそれらが欠けているのは自明なことである上に、「明治の木には」という限定が意味をなさないからだ。

 ここに登場する運慶を捉えるために、「芸術家=才能/職人=技術」ではなく、どんな概念を想定すれば良いか?


2022年11月10日木曜日

夢十夜 15 第六夜再考

  さて「第六夜」については小論文としてまとめた。

 みんな、満足のいくものが書けただろうか。


 保留してある論点のうち、②「明治の木には仁王は埋まっていない」については、執筆の前に考える糸口を示しておいたクラスもあった。

 「埋まっていない」とは実際には「彫れない」ということだ。だがそれを「埋まっていない」と表現することにどんな意味があるのか?


 「明治の木には仁王は埋まっていない」とは「運慶には彫れるが自分には彫れない」ということなのか「鎌倉時代の木には仁王が埋まっているが明治の木には埋まっていない」ということなのか、と言い換えることができる。前者を「木のせい」、後者を「自分のせい」と表現しておいた。

 そして、再考においては、この区別がそもそも意味を成していないのだという授業者の見解を示しておいた。

 どういうことか?

 上の問いは「運慶にも、明治の木から仁王を掘り出すことはできないのか?」という問いを背後に隠し持っている。裏返して言えば鎌倉の木からなら自分にも掘り出すことができるということになる。

 だが運慶にそれができないとは思えないし、自分にできるとも思えない。

 それはつまり問題の立て方が間違っているということだ。


 「自分」が「仁王は埋まっていない」と思ったのは「明治の木」だ。

 「明治の木」とは何か?

 それは運慶にも仁王が掘り出せないような木なのか。では山門で彫っているのは「鎌倉の木」なのか。

 そんな想定が無意味に思えるということは、つまり「明治の木」とは明治人であるところの「自分」が彫っている木のことなのであって、運慶が掘ればそれはすなわち「鎌倉の木」ということになるのだ。明治人の「自分」が彫ろうとすれは、木には仁王が「埋まっていない」のであり、それは明治人の「自分」には「彫れない」ことを意味する。したがって「埋まっていない」と「彫れない」は同じことを意味している。

 ここから導かれる結論は、問題は「明治の」という条件付けであり、「自分」個人の問題ではなく、「明治」という時代なのだ、ということである。


夢十夜 14 夢の論理

 「暁」とは夜明けのことだ。

 「暁の星を見た」と表現される事態は、精確に言うと、「星を見た」→「『あれは暁の星だ』と認識した」と二段階に分解される。

 そして、あれは「暁の」星なのだという認識は、もう夜が明けるのだ、という認識にほかならない。

 夜明け?

 だがそれまで「赤い日」がいくつも通り過ぎていった。そのたびに夜は明けていたではないか?

 そうは思えない。「赤い日」はただ書き割りのような空を背景として通り過ぎていくだけだ。昼に対応する夜も描かれていない。「自分」が眠ったり起きたりする様子もない。したがって、日が昇ったり沈んだりするからには、その度ごとに「暁」はあったはずなのだろうが、結局のところ時間がいくら経過していても、そこに本当の夜明けが来ていたような印象はない。

 「自分」はただ、女を埋めた時のまま、夜の底にひとり座り続けていたのではないか?

 そして「自分」が「暁の星」を見た瞬間にようやく夜明けがおとずれる。

 その時、そこまでの女をめぐるあれこれ、すなわち一夜の夢が終わる。


 「百年」とは、物語内部の論理レベルでは「女が来るまで」である。「百年が来た」とは、すなわち「女が来た」ということだ。

 一方で例えば「百年」とは「永遠」を意味している、などという解釈もある。女の約束に「待っている」と答えてひたすら待つ男から「永遠の愛」が主題だなどと言ってみたり、「百年経ったら会いに来る」とは、もう会えないという意味であり、結末で男は死んでいるのだなどと解釈して、そこから「愛の不可能性」が主題だと言ってみたりする。

 「百年」とは「永遠」という意味だ、という解釈は、物語内部の論理レベルを超えた抽象度で、その意味を捉えようとしている。「象徴」あるいは「隠喩」である。「第六夜」で試みたのもそのような解釈だ。

 だが「第一夜」については、そうした解釈は、小説読者が純粋に小説を読むことから乖離した「解釈ごっこ」になっていると思う(「暁の星」が女の象徴だと言ったりする解釈もそうだ)。

 一方、上で示した解釈は「百年」を「夢の終わりまで」を意味しているとするものだ。これもまた、物語内部の具体レベルを超えた解釈ではある。

 「百年がもう来ていたことに気づいた」とは、夢が終わることを悟る刹那の気配を示している。

 「夢オチ」という表現があるが、それが夢だと気づく視点は、世界を外側から見ている。メタな視点からこの物語を「夢」として捉えている(「メタ」とは上の次元から対象を見る高次の階層だ)。

 それはちょうど、我々読者がこの物語を「小説」としてどう読んだかということと入れ子構造をなしている。


 夢は、目が覚めて思い出すときに作られるという。我々の語る夢は多かれ少なかれ、覚醒時から遡って解釈される。

 解釈とは何らかの合理化だ。そこに論理を見出すのである。

 そして夢の中の納得は、目覚めてから思い出すと、何だか奇妙な論理で成立していることがある。

 目覚めるということは夢が終わるということだ。夢が終わるからには、女との約束が果たされなければならない。すなわち百年が来なければならない。だとするとこの百合が女の生まれ変わりなのだ。

 こうした奇妙な納得のありようは夢の感触として我々には覚えがあるはずだ。ああ、これは…なんだなあ、と何だかよくわからない納得をしている。「百年はもう来ていた」の「もう」という副詞も、「来ていた」の過去完了も、既に終わったことを今になって思い出す時の既視感のようなニュアンスをうまく表現している。冒頭近くの「確かにこれは死ぬな」にもそうした感触が鮮やかに表現されている。


 ということは先ほどの論理は転倒している。

 百合が女の生まれ変わりだと気づいたから「百年はもう来ていたんだな」と気づいたのではなく、むしろ百年が来ていたという結論から、百合が女の生まれ変わりだったのだという解釈が生まれたのだ。「百合が女の生まれ変わりであることに気づいた」という認識は、いわば遡って捏造されたのだ。そして振り返ってみた時にはそれが忘れられているのである。


 そしてそれは我々読者の思考である。上の捏造は「自分」がしたのではなく、読者がしたのだ。「自分」がそれに「気づいた」と、小説中に書かれてはいない。

 我々読者もまた、百合が女の生まれ変わりだと気づいたりはしなかった。最後の一文で百年が既に来ていたことを知らされ、そこから遡って百合が女であると解釈したのだ。それ以外の読解がされようはずがない。

 だがそのことは忘れられてしまう。

 最初の要約課題の際に、「百合の花が咲いた」ことと「百年が来ていたことに気づいた」ことを、明らかな因果関係として記述した人は多い。例えば「咲いたので~」などという記述は珍しくない。「女が百合に生まれ変わって」とはっきり書いている者もいる。

 だがそうした因果関係もそのような事実も、小説に書かれているわけではない。読者がそう解釈したのだ。

 もちろん漱石はそうした解釈を誘導するように意図的に書いている。だからある意味ではそれは「正しい」解釈だ。誘導にのってそのように解釈するとき、「物語」は完結する。


 こうして、いかにも夢らしい感触を感じさせる「夢の論理」は、同時に、我々が小説を読むということの三つ目の側面をも照らし出す。

 夢が終わるからには百年が来なければならないという「夢の論理」は、「物語」が終わるからには「欠落」が「回復」しなければならないという小説享受の論理と同型だ。我々は物語を完結させんとする要請によって、百年の到来=女の再来という結末をまず受け入れたのだ。その後で、女が百合に生まれ変わって会いに来たのだと信じたのだ。

 そのことを思い出すとき、「自分」が気づいた百年の到来が夢の終わりを意味しているという解釈も「思い出す」ように腑に落ちる。


 ずっと待っていた女の再来によって百年の終わりが来たという結末は、基本的には「欠落」→「回復」という型で認識されるハッピーエンドとして認識される。

 だが一方で夢の女とは夢の中でしか会えない。だから夢の終わりとは夢の女との永遠の訣別でもある。

 ここには約束の成就と約束成就の不能、「回復」の成功と失敗という正反対の論理が階層を違えて同居している。

 「第一夜」のハッピーエンドは喪失の切なさを内包して成立している。


夢十夜 13 暁の星を見る

 「自分」はなぜ「百年がもう来ていたことに気づいた」のか?

 先に示したのは「①女がまだ来ないから」と裏表で整合する「②女が会いに来たから」という論理だ。こうした論理によって我々は「第一夜」が欠落→回復という「物語」の構造を成していると見なしていたのだった。

 ではbの「暁の星を見た」から「百年が来ていたことに気づいた」と考えることは、どのような解釈を成立させるか?

 

 「暁の星」とは何を意味するか。もちろん、意味を見出せない要素は、この小説の中にいくらでもある。「真珠貝」然り、「星の破片」然り。あるいはそれらは、小説の構造を支える明確な「意味」をもった構成要素なのかもしれない。だが今のところ授業者の目には、それらはその「意味」について考えても仕方のないような単なる「ロマンチックな」ガジェットに過ぎないように映っている。

 「暁の星」も同様のギミックに過ぎないのだろうか?


 例えば暁の星を女の象徴としてみる解釈が世間にはある。

 「暁の星」は「明けの明星」つまり「金星」を意味する。金星は西欧ではローマ神話に由来して「ヴィーナス」と呼ばれる。すなわち「美の神」だ。

 つまり「暁の星」こそが女なのである

 こういうことは、好事家のネット記事というだけでなく、大学の教授やら文芸評論家やらが言ってたりもする(たぶん。あろうことか、まさしくそういう解説を中学時代に教わったという話をF組で聞いた。まるっきりそのまんまのノートを見せてもらった)。

 なんなんだ? この解釈は?

 百合が女をイメージさせるように意図的に書いてあることは明白なのに、なんでこんな解釈をする必要があるのか?


 そこで、もうちょっと辻褄を合わせるために更に理屈をこねる。

 女は「昇天」したのだから天にいる。真珠貝に月の光が射したり、星の破片や露が天から落ちてくるのは女との交感を暗示している。

 百合は、男の疑いに対して、自分が約束を忘れていないことを示す女の身代わりで、露はそれが自分であることを悟らせるための合図だ。

 つまり女は天から、いつだって自分を見守ってくれていたのだ。

 そう気づいた時に「もう百年は来ていた」と気づくのだ。

 よし、もっともらしい解釈になった。


 だが、このような解釈は授業者には何のカタルシスももたらさない。なるほど、という腑に落ちる感じはない。「第一夜」は既によく「わかっている」というのに、まるで人工的な、こんな解釈をすべき必要がわからない。

 「暁の星」にスポットを当てて、もう一度考えさせたのは別な狙いがある。

 

 ところで「暁」とは上に見たとおり、夜明けのことだ。

 とすると、これから上っている太陽こそが女なのか?

 もちろんこんな解釈もばかばかしい。

 とすると?


2022年11月6日日曜日

夢十夜 12 なぜ気づいたのか

  「第一夜」は「死んだ女が百合の花として帰ってくることで、百年待っているという約束が成就する物語」であると読める。

 だが本文を見直してみると、明確にそのようには書かれていない。

 「自分」は本当に百合が女の生まれ変わりであると気づいたのだろうか?


 なぜこんな疑問をわざわざ投げかけるのか不審に思うかもしれない。百合の描写からは、それが女の生まれ変わりであることは自明であるように感じられる。「首を傾けていた」という擬人的表現も「骨にこたえるほど匂った」という比喩も女の官能性を感じさせる。「自分」が思わず接吻してしまうのも、それが女の生まれ変わりだからだ。花弁に露が落ちるのは、女が死ぬ瞬間の「涙が頬へ垂れた。」のイメージと重ねられているのだろう。明らかに作者はそのような印象を読者に与えようとしている。

 したがって、百合が女の生まれ変わりであることに気づく=女との約束が成就したことに気づく=百年が来ていたことに気づく、という論理に疑問はない。だからこそ「第一夜」を「物語」として読めるのだ。

 だが、あらためて読んでみると「自分」がそのことに気づいたとは直截的には書いてはいない。

 その間隙を衝くために次のような問いを投げる。

自分は首を前へ出して、冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。「百年はもう来ていたんだな。」とこの時初めて気がついた。
 ③「この時」とはいつか?


 上の論理に従えば、「この時」とは、百合に接吻してから顔を離した「時」のことだ。

 だが素直に本文を見直してみると、「気がつ」く直前に「自分」は「暁の星がたった一つ瞬いてい」るのを見ている。

 もちろんこの二つは同じ「時」だ。「顔を離す拍子に思わず遠い空を見た」のだから。

 だが問題は「時」と指定されるある時点というより、「この」が指している事実が何かだ。

 そしてその事実と「気がついた」におそらく因果関係があるのである。

 とすれば、上の二つの可能性は、ただちに次のように問い直される。


「なぜ『百年はもう来ていた』ことに気づいたのか?」答えは次のどちらか?

a 百合が女だと気づいたから

b 暁の星を見たから


 どちらが正解か、という問いではない。aとbはどのような関係になっているか?


2022年11月4日金曜日

夢十夜 11 第一夜も解釈する

 「第一夜」を素材に、皆に考えてほしかったのは、小説を読むという体験がいかなるものであるか、だ。ここまでの作業を通してその二つの側面を浮かび上がらせた。「構造」を捉え、細部の豊穣を源泉掛け流しの温泉のように身に浴びる(そして「第六夜」のように抽象化された「意味」を捉えることもまた小説を読むという行為の別の側面だ)。

 だが「第一夜」を読むことからは、もう一つ興味深い体験になりうる可能性が引き出せる。それはやはりある種の「解釈」だ。だがそれは「第六夜」で考察したような、主題を抽象したり、象徴を読み取ったりする「解釈」ではない。

「第一夜」には、ある種の夢の構造が表出している。そして「夢を見る」ことと「小説を読む」ことを重ねてみることで、「小説を読む」ことのまた別の側面が明らかになる。


 考える糸口は次の問い。

なぜ「自分」は

①「百年がまだ来ない」と考えたのか?

②「百年はもう来ていた」と気づいたのか?


 物語の最後で白い百合が咲く前に「自分」は女に欺されたのではなかろうかと考える。①はその直前に置かれた記述。②は百合に接吻して物語が終わる最後の一文だ。

 二つの問いに、整合的な論理で答える。


 まず①。

 カウントが「百年」に達していないということではない。なぜか?


 自分は途中で数えることを放棄しているからである(「いくつ見たかわからない」)。

 ではなぜ「まだ来ない」と考えられるのか?


 ①「女がまだ会いに来ないから」である。

 女は「百年経ったらきっと会いに来る」と言った。その女が現れないから、百年はまだ来ていないと考えたのだ。

 これを裏返せば、「百年がもう来ていたことに気づいた」のは②「女が会いに来たから」ということになる。

 これはつまり、百合を女の再来と認めたということにほかならない。

 ①と②は裏表に補完し合っている。


 先に、読者はこの小説を完結した「物語」として読める、と述べた。それは①②の論理を了解しているということだ。喪失によって生じた「欠落」は、試練の末「回復」したのだ。


 こんな明白な論理について問答をしたのはさらに次のように問うためだ。

本当に「女が百合になって会いに来た」と本文に書いてあるのか?


 答えは、、である。


夢十夜 10 「小説を読む」とは

 ここで茂木健一郎の「見る」と、小林秀雄の「美を求める心」を読む。

茂木健一郎「見る」

 「見る」という体験は、その時々の意識の流れの中に消えてしまう「視覚的アウェアネス」と、概念化され、記憶に残るその時々に見ているものの「要約」という二つの要素からなる複合体なのである。(略)

 視野の中に見える「モナ・リザ」の部分部分が集積してある印象を与えることで人間の脳は深い感銘を受ける。印象を結ぶ脳の編集、要約作業の過程で、ある抽象的な「要約」が生まれるからこそ、「モナ・リザ」は特別な意味を持つ。

 しかし、その「要約」だけでは、「モナ・リザ」の前に立つという体験を再現することはできない。その絵の前に立つとき、さまざまな要約が脳の中では現れ、深化し、変貌し、記憶される。その一方で、絵を構成する色や形などの細部は、決してそのすべてをとどめておくことができない「意識の流れ」の中で、時々刻々失われていく体験として、私たちの魂を通り過ぎる。

 何かをつかみつつも、指の間から砂がこぼれ落ちるように圧倒的に失われつつあるもの。その豊穣な喪失こそが、絵を見るという体験の本質である。 


小林秀雄「美を求める心」

 見ることは喋ることではない。言葉は眼の邪魔になるものです。例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫(すみれ)の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるのでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに入ってくれば、諸君はもう眼を閉じるのです。菫の花だと解るということは、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えてしまうことです。言葉の邪魔のはいらぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗て見たこともなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。

 これらの論旨とここまでの授業の考察を重ねてみる。

 それらには何が共通しているか?


 まず、二つの文章に共通した論旨をつかむ。

 「共通している」とは両者が「対応している」ということだ。

 何と何が?


 茂木のいう「要約」が小林のいう「言葉に置き換える」に対応しているというのが最も重要な対応としてまず指摘されなければならない。

 だがそれはどのような論旨の把握によって「対応している」と考えられるのか?


 二つの文章に共通した問題を問いの形で表すなら、どちらも「『見る』とはどういうことか?」と表現できる。このような把握ができれば、その「こういうこと」の共通点は何か? を考えればいいとわかる。

 また、授業のテーマが何だったのかを、同じように問いの形にする。

 何度か繰り返した。「小説を読むとはどういうことか?」だ。となれば、その「こういうこと」を共通した言い方でいえばいい。


 茂木は「見る」ことは「視覚的アウェアネス」と「要約」の複合体だと言う。

 小林の例えば「花の姿や色の美しい感じ」が「視覚的アウェアネス」に、「言葉で置き換える(「お喋り」はその比喩的表現)」が「要約」に対応している。

 茂木は両方をそれぞれ述べているが、小林は後者を否定している。だが、それは二つのうちの「要約」のみが「見る」ことだと思っているような人を批判するためだ。

 「言葉で置き換える」ことが見ることだとしか考えていない人はちゃんと「見る」ことをしていないのだ、というのが小林の論の力点だ。そしてただ「見る」こと=「視覚的アウェアネス」で捉えていることは簡単だと人は思っているが、そこには訓練がいるのだ、とも言っている。

 だが「言葉で置き換える」ことがなければ、茂木の言うように見たことは「消え去って」「失われて」しまう。「菫の花だ」と言ってそれ以上見ることをやめてしまう人は本当に「見て」はいないのかもしれないが、「菫の花だ」とも言わなければ、見たこと自体が流れ去ってしまう。

 こうした論旨とここまでの授業でやってきたことは同型である。 


 「絵を見る」「花を見る」ことが「小説を読む」と対応しているのである。

 「要約」なくして「絵を見る」ことはできないが、「絵を見る」という体験は同時に「絵を構成する色や形などの細部」が「時々刻々失われていく体験として、私たちの魂を通り過ぎる」ことでもある。

 「夢十夜」を読んで、それが何を語っている小説なのかを認識するために、我々は「第六夜」で試みたように抽象化した「意味」「主題」を捉えるために「解釈」したり、「第一夜」で試みたように「構造」を捉えて「要約」したりする。そうしなければ読んだ小説はとりとめもないものとして流れ去ってしまう。それらの「解釈」は意識するとせざるとを問わず必ず行われている。

 だが一方で、その時「指の間から砂がこぼれ落ちるように圧倒的に失われ」てしまうものこそが小説の「豊穣」でもあるのである。

 そうした「花の姿や色の美しい感じ」そのものを見ないで、小説が「わかる」ことは、本当に小説を「読んでいる」ことにはならない。

 「第一夜」の過剰とも言える描写や形容を施されたイメージ豊かな文章を読むことは、湯量の豊富な「源泉掛け流しの温泉」の湯を浴びるように贅沢なことだ。

 漱石の紡ぐ物語は、そうした細部の「豊穣」によってこそ魅力的な小説たりえている。


2022年11月1日火曜日

夢十夜 9 小説の「骨」と「肉」と「皮」

  「第一夜」の文体の特徴は、いわば過剰な「叙景」だ。

 「第一夜」には読者に映像を喚起させる描写が、しつこいほどに念入りに語られている。そしてさらにそれが異様とも言える密度で、形容詞や形容動詞や副詞によって修飾されている。

 実際にそのようにして「詰め」てみた文章を通読する。

こんな夢を見た。/枕元に坐っていると、女が、もう死にますと言う。死にそうには見えない。しかし女は、もう死にますと言った。自分もこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、ときいてみた。死にますとも、と言いながら、女は眼を開けた。 /自分はこの目を眺めて、これでも死ぬのかと思った。それで、死ぬんじゃなかろうね、大丈夫だろうね、とまたきき返した。すると女は、でも、死ぬんですもの、しかたがないわと言った。/じゃ、私の顔が見えるかいときくと、見えるかいって、そら、そこに、映ってるじゃありませんかと、笑ってみせた。自分は、顔を枕から離した。どうしても死ぬのかなと思った。/女がまたこう言った。/「死んだら、埋めてください。そうして墓のそばに待っていてください。また逢いに来ますから。」/自分は、いつ逢いに来るかねときいた。/「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。―日が東から西へと落ちてゆくうちに、――あなた、待っていられますか。」/自分はうなずいた。女は「百年待っていてください。きっと逢いに来ますから。」と言った。/自分は、待っていると答えた。女の眼が閉じた。もう死んでいた。/自分はそれから庭へ下りて、穴を掘った。女をその中に入れた。そうして土をかけた。/それから星の破片の落ちたのを拾ってきて、土の上へのせた。/自分は苔の上に坐った。これから百年の間、こうして待っているんだなと考えながら、墓石を眺めていた。/そのうちに、日が東から出た。それがやがて西へ落ちた。一つと自分は勘定した。/しばらくするとまた天道が上ってきた。そうして沈んでしまった。二つとまた勘定した。/自分は日をいくつ見たか分からない。勘定しつくせないほど日が頭の上を通り越していった。それでも百年がまだ来ない。しまいには、自分は女に欺されたのではなかろうかと思い出した。/すると石の下から茎が伸びてきて、百合が開いた。自分は花弁に接吻した。空を見たら、暁の星が瞬いていた。/「百年はもう来ていたんだな。」とこの時はじめて気がついた。

 これで850字くらい。原文は1800字くらいなので、半分以下に原文を詰めてみても、ストーリーを追う上ではほとんど支障がないどころか、物語的には原文とほとんど変わらないような印象があるはずだ。

 逆に言えば「第一夜」には、ストーリーを語る上で必須とは言えない描写や形容が、過剰とも言える量・密度で書き込まれているのだ。


 さて結局のところ、作品は何でできているか?

 我々がそれを「物語」として感じる基本的「構造」を言わば「骨」としてみると、その周りに、細かいプロットの展開が言わば「肉」として付随している。最初の課題、100字要約はそれをぎりぎりまで削ぎ落として、ほとんど骨だけにしたものだ。

 逆に、そこに肉付けされた身体が上のような文章で表される小説の原形だとすると、その上に衣服を着せ、化粧さえ施したものが完成された小説作品だ。

 「第一夜」は、ずいぶんな厚着、厚化粧なのだ。

 「肉」や「衣装」「化粧」はどんな働きをしているか?

 感情移入させる、臨場感を増す、視覚的想像を喚起する…。

 いろいろな言い方が可能だ。


 完成された作品としての小説は次のようないくつかの層で成立している。

骨組み   ↓

細かい展開 ↓

映像的描写 ↓

形容    ↓

完成した小説

 こうした小説を我々はどのように読んでいるか?

夢十夜 8 「第一夜」の文体の特徴

  さらに小説を読むとはどのような行為かを考える。

 「物語」として読むことが可能な「第一夜」は、主題を考えるのではなく、その小説としての魅力の源泉について考えてみたい。

 注目すべきは文体の特徴である。


 小説の要約においては「物語」的な因果関係を把握する必要がある。「欠落」と「回復」という骨組みを示せれば、ひとまずは端的な要約ができる。

 さて、こうした要約において抽出したいわば骨組みと、完成された元の作品の間にあるものが何なのかを考える。

 作品とは骨以外に何でできているか?


 「第一夜」の冒頭を次のように音読して聞かせた。

枕元に坐っていると、女が、もう死にますと言う。死にそうには見えない。しかし女は、もう死にますと言った。自分もこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、ときいてみた。死にますとも、と言いながら、女は眼を開けた。その眸の奥に、自分の姿が浮かんでいる。

 これは原文とどう違うか?

腕組みをして枕元に坐っていると、仰向きに寝た女が、静かな声でもう死にますと言う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。真っ白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色はむろん赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますとはっきり言った。自分も確かにこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにしてきいてみた。死にますとも、と言いながら、女はぱっちりと眼を開けた。大きな潤いのある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真っ黒であった。その真っ黒な眸の奥に、自分の姿が鮮やかに浮かんでいる。

 授業ではこの変更を二段階に分けて読み聞かせた。

 まず太字部分、「静かな」「長い」「柔らかな」「真っ白な」「温かい」「はっきり」「ぱっちり」「鮮やかに」などを抜いた。

 次に下線部「腕組みをして」「女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。真っ白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色はむろん赤い。」などを抜いた。

 これら太字部分と下線部は何か? 何を削ったのか?

 太字については「修飾」が削られている、という意見が圧倒的に多かった。悪くないが「修飾」という概念はちょっと広過ぎる。
 下線部は「様子」や「状態」を表す部分だ。これも悪くない。
 だがより的確に言うなら「形容」「描写」がいいか。どちらもサ変動詞にできる。
 太字は、品詞としては形容詞・形容動詞・副詞・連体詞など、ある動詞や名詞を「形容」する一単語だ。
 下線部は映像的「描写」。何をした、何が起きた、というだけでなく、それがどんな「様子」だったかを視覚的に伝える情報だ。
 もちろん「形容」と「描写」の境目は明確ではないが、ともかくも例えば「形容」「描写」という言葉で表現できるかどうかもまた国語の力だ。

 さて、「第一夜」から、取り除いて前後を詰めてしまってもストーリーの把握の上で支障のない「形容」および「映像的描写」を削除してみよう。タブレット上でテキストを一度コピーして、その一方をいじる。元のテキストは残しておく。
 「取り除いてもかまわない」かどうかというのは判断が揺れる。また「形容」と「映像的描写」も厳密な区別ではない。
 だから「正解」は一つに決まらない。だがともあれ、考えることで、この小説の文体の特徴を実感することができる。
 できあがったら隣の人と読み合って、互いが消した部分の違いを比べてみる。そこも消せるのか、そこを削ると話がつながらなくなるよ、などと話し合ううち、この小説の特徴が炙り出される。
 この作業を通して浮かび上がるこの小説の文体の特徴とは何か?

2022年10月28日金曜日

夢十夜 7 「物語」の構造

  我々が「第一夜」を完結した「物語」として感じられる要因は何か?

 どうみても「虚構」だし、展開は因果関係によって継起していく。墓を掘るのも待つのも女との約束だからだということは読者に了解されている。

 さらに、ここには「物語」が持っている、ある普遍的な構造がある。それを「起承転結」などとそれを表現してもいいが、では「起」だの「結」だのがあると感じるとはどういうことか?


 こういう本質的な「そもそも」問題は、いろんな切り込み方があって考えてみると面白い問題なのだが、ここではそのうちの一つの考え方を紹介する。

 「物語」に広く見られる構造を汎用性のある言い方で言うなら「欠落」「回復」と表現できる。

 物語は欠けたものを埋めようとして駆動(起承)し、埋め合わされることによって決着(結)する。

 知っている様々な物語(民話・神話・童話・おとぎ話)で、そのことを確かめてみよう。

 多くの民話・神話の主人公は旅をする。欠けた物を探す旅だ。それを見つけて帰ることで物語が終わる。「桃太郎」は村から収奪された財宝を鬼ヶ島から取り返して戻ってくる。同型の「一寸法師」でも鬼から宝を取り戻すのだが、さらに彼の場合は身長が「欠落」していたのだとも言える。結末では打出の小槌によって身長が「回復」してお姫様と結婚する(ここでみんながどんなお話を例に挙げて考察したかは興味深い。教えてほしい。聞こえてきた「浦島太郎」と「マッチ売りの少女」はなかなか分析が難しいなあと思った)。

 一方で悲劇の場合は、そのように期待される「回復」が裏切られることが、やはり物語の決着として感じられる。

 「羅生門」では?

 確かに食も職も「欠落」しているが、直接その「回復」が果たされるわけではない(下人が再就職する話ではない)。

 「主題」にからむように構造を把握するなら、最初門の下で下人に「欠落」していたのは盗人になる「勇気」であり、最後それは「回復」する(勇気が出る)。

 「第六夜」は、運慶が明治の世に現れている不思議が「欠落」で、その理由がわかることが「回復」(この物語性はそれほど強くはない)。

 では「第一夜」は?


 言うまでもなく女の死が「欠落」を生み、再会によって「回復」する。

 このように理解するときこの物語は、女が百合に姿を変えて会いに来ることで、死に際の約束が成就するハッピーエンドの物語だと考えられる。

 物語前半の喪失による欠落が、試練の末に埋め合わされることで回復するというのは、「物語」の基本的なドラマツルギー(作劇技法)として完璧な要件を備えている。

 もちろん女がそのままの「女」でないことに、ハッピーエンドとしての十全な満足はない。だがその不全感も、喪失感として小説の味わいを増しているのであって、前半の約束が結末への推進力としてはたらく欠落補充の要請は、確かに満たされて終わる。

 だから読者はこの小説を、一編の「物語」として捉えることができている。


 こうした「欠落」→「回復」を大きな背骨とした構造を捉えることは、要約において必要な把握だ。だがそれは「意味」を捉えるような抽象化を伴っているわけではない。

 「第一夜」は「主題」を考えることなく「物語」として読める。



2022年10月26日水曜日

夢十夜 6 「物語」とは何か

  「主題」は作品が可能性として潜ませている抽象的な「意味」である。「第一夜」にそんなものはなくてもいいとも言える(あってもいいが)。

 だがそれでも我々は「第一夜」を「物語」として読むことができる。読んで、まるでとりとめもないイメージが散乱するばかりの、それこそ「夢」のようでしかない体験として読み終えるわけではない。

 『夢十夜』の「第一夜」は、夢の感触を鮮やかに再現しつつ、だが創作物としての小説として完結している。

 そして我々はこれを「物語」として読んでもいる。


 「物語」とは何か?

 「第一夜」が「物語」として捉えられるとはどのような意味か?


 「物語」という概念にはさまざまな側面があり、したがっていろいろな定義の仕方がありうる。だからこの問いには「物語」という概念を何と対比するかによって様々な答え方がある。

 授業ではさしあたり「新聞記事」「歴史の教科書」と対比させた。

 「新聞記事」「歴史の教科書」との対比によって我々が「物語」という概念に見出す要素は「虚構性」である。「物語」を「現実」と対比しているのだ。

 さらに一人称の語り手」「登場人物の心情なども挙がった。確かに。

 そこで対比に「日記」も加えた。日記は一人称で「私」の心情を語る。だが「物語」ではない。

 さらに「とりとめもないイメージの羅列」を「物語」の対比として考える。虚構性も、そこから「物語」を区別する条件にはならない。

 では?


 複数クラスで提起されたのは「流れ」という言葉だが、「流れ」って何だ?

 確かに「日記」や「とりとめもないイメージの羅列」には「流れ」が感じられないかもしれない。「羅列」は「流れ」ていないということだ。

 「流れ」とは、時間軸に沿って提示される情報の間に、何らかの因果関係があるということだ。複数の出来事が時間軸に沿って起こり、それをただ並列的に述べていっても、我々はそれを「物語」とは感じない。それは「羅列」だ。それらのエピソードをつなげて、それらの出来事間に何らかの因果関係を見出す時に、我々はそこに「物語」の気配を感じる。


 だがまだそれだけでは「物語」といえる感触を捉えるには充分ではない。

 さらに「起承転結」という言葉も各クラスで挙がった。各要素は「因果関係」をもち、そこに「起承転結」といえるようなまとまりが備わったときに、それを「物語」と感じるのだ。

 では「起承転結」とは何か?


2022年10月25日火曜日

夢十夜 5 第一夜は解釈しない

 「第六夜」についての考察は、議論を聞いていると期待以上に充実しているので、これは小論文としてまとめさせたいと思えてきた。

 だがすぐに結論を出してしまうのは惜しい。時間調整に、先に「第一夜」を読むことにする。

 「第六夜」について「解釈」することは、これが「夢」そのものではなく「小説」という物語として語られる以上、可能なアプローチとして認めてもいいように思われる。

 同様に「第一夜」にもさまざまな謎が、いかにも「解釈」を求めているような顔で並んでいる。なぜ女が唐突に「死にます」などと言うのか、「百年経ったら会いに来る」とはどのような意味か、女は結局会いに来たのか?

 あるいは「真珠貝」「星の破片」「赤い日」「露」は何を象徴しているのか?

 そもそも「女」や「百年」「百合」は何を象徴しているのか?

 こうしたいかにも「謎めいた」ガジェットに意味を見出したくなる人情もわかる。文学研究の世界では精神分析の手法を使ったり、漱石の伝記的事実を調べたりして、様々な解釈が行われている。死んでしまう女には、漱石が密かに思いを寄せていた兄嫁のイメージが重ねられている、とか。

 だが結局のところ、これらの謎に明確な意味を見いだすことに手応えのある見通しは、授業者にはない。精神分析的解釈や伝記的事実に結びつける解釈はどれもこじつけじみて感じられる。小説を読む読者の感動と乖離している。

 あるいは普通の文学的解釈は?

 実は中学校や塾の授業で「夢十夜」を教わったという話を聞いた。そこでは「第一夜」の主題は「永遠の愛」だと教わったのだとか。

 これは中学校や塾の先生のオリジナルな解釈ではなく、どこぞの大学の先生あたりが言っていることなのだ。

 だがそんな解釈は阿呆らしい。「第一夜」はこのような解釈を必要とせず、すでに「わかっている」ように思える。

 だから授業では結局のところこの物語を、「解釈」を目的として「使う」つもりはない。

 では何をするか?

 授業では「第一夜」を教材として、小説を読むという行為どのようなものかについて考察する。これは「『第六夜』とはどのような小説か?」という問いよりも抽象度の高い問いだ。


 「第一夜」を、一〇〇字以内に要約することを予め課しておいた。

 上に「第一夜」は、「第六夜」のようには解釈しないと述べた。

 「第六夜」でやったのは、「主題」が何かを考える解釈だ。

 「主題」とは繰り返し言っているように「こんな話だ」という把握のことだ。

 一方で「要約」もまた、その小説が「どんな話?」という疑問に対して「こんな話だ」と答えるひとつの方法ではある。

 その過程にはある種の「解釈」が行われてはいる。テキストに書かれた何が重要な要素なのかという判断はある種の「解釈」だ。

 では「主題」を捉える解釈と「要約」する解釈はどう違うか?


 要約例をひとつ見てみよう。

百年経ったらきっとまた逢いに来ると言い残して死んでしまった女を墓の前で長い間待っていたが、そのうち女の約束を疑うようになった。すると墓の下から茎が伸びて百合の花が開いた。百年が来ていたことに気づいた。(100字)

 ここには「第一夜」の「主題」が捉えられている感触はない。

 だがこれもまた「第一夜」とは「こんな話だ」と言っているには違いない。

 「主題」と「要約」はどう違うか?


 「主題」は作品から作者の言いたいことを部分的に抜き出したもので「要約」は全体を圧縮したものだ、という意見が各クラスで出た。そういう側面は確かにある。

 また、「要約」は本文をなるべく客観的に分析しているのに対して、「主題」を捉える解釈には、読者の主体的な考察が入るから主観的だ、という意見も出た。これもなるほど。

 「主題」と「要約」の違いを捉える上で、作者読者客観主観といった対比的な要素が抽出できたのは良かった。

 だがもう一言ほしい。

 「主題」と「要約」の違いを語る上で使いたい対義語は「具体/抽象」だ。

 「要約」に必要な解釈とは、物語の各要素の論理的な因果関係を判断する思考だ。骨として選ばれた要素が、物語中の具体レベルのままでもいい。

 一方、「主題」とは抽象化された「意味」だ。つまり「主題」を語る言葉は作品内情報のレベルより抽象度が高い。

 「主題」と「要約」は、その抽象度に違いがある(とはいえ実際の「こんな話」ではそれらが混ざっている方が良い。どちらかだけでは相手にどんな話かが伝わりにくいのだ)。


夢十夜 4 運慶とは何者か

  もうひとつ考えておきたいことがある。「運慶」とはそもそも何者か?


 伝記的事実はWikipediaでも何でも調べられる。確かに運慶と聞いてまるで見当もつかない読者は、この読解には参加できない。一般常識として運慶を知っている必要はある。

 だがそこが問題なのではなく、この小説で描かれる運慶が問題なのだ。

 実際に書かれた小説のテクストの中から、運慶がどのように書かれているかを読み取るのだ。そこには何らかの作者の意図が読み取れる可能性がある。それを問いとして立てる。

③この小説における「運慶」とはどういう存在か?

 もう一つ、こういう問題を問いとして立てるためにはお決まりの言い方がある。何か?

③「運慶」は象徴するか?

 「どういう」という問いはどこをめざして考察すればいいのかがはっきりしない。一方の「何の象徴」は、最終的に名詞か名詞句で表現できればいいというゴールが明確だが、飛躍を必要とする難しさもある。両方を適宜行き来して考えよう。

 ①②は素直に「わからない」と感じるはずの謎を問いとして立てた。一方③のような問いの立て方は、小説の読み方として自覚的でないと思い浮かばない。


 運慶が何者であるかは、この小説に書かれていることから読み取らねばならない。

 「運慶は見物人の評判には委細頓着なく」「眼中に我々なし」といった描写から、見物人は運慶を見ているが、逆に運慶からはこちらが見えていないのではないか、と言った生徒がかつていた。単に運慶の集中力が高いという以上の意味を読み取ろうとすれば、これは「明治時代に鎌倉時代の運慶が現れた」ということではなく、運慶のいる時空と見物人のいる時空とが、本質的には違った位相にあって、それが一時重なっているように見えるだけだということかもしれない。

 面白い着眼点だが、この発想がどこに辿り着くのか、今のところ授業者にはわからない。それより注目したいのは次のくだりだ。

 運慶が仁王の鼻のあたりを鮮やかに彫り出す動きを描写した後、その手際について見物の若い男が「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あのとおりの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。」と語る。このように表現される行為は何を意味するか。


 考える、語り合う糸口として、ここでも問いを選択肢のある形に変形してみる。

③ここに登場する「運慶」は、「芸術家」「職人」か?

 この問いはいささか突飛なものと感じられるかもしれない。問①②を変形して選択肢を作るには、単に日本語としての多義性を利用して、その意味合いを明確にしようとしたのだった。だが問③の選択肢はそのように、言葉に元々含まれる可能性から発想されたのではない(この問題は後述する)。

 迷いなく仁王を彫れるのは運慶が芸術家だからなのか、職人だからなのか?

 仁王が彫れないのは、「自分」が芸術家ではないということなのか、職人ではないということなのか?

 むろん「自分」はどちらでもない。だがここでは、どちらでないことが重要なのか?


 こういう時はやはり、語るにふさわしい言葉を思い浮かべることができると語り易い。

 「芸術家」「職人」それぞれが備えていて「自分」に備わっていないものは何か?

 これを対比的な言葉で捉えると論じやすくなる。


 話し合いの中で面白い視点を知ることができた。

 G組Aさんは「仁王とは?」を語っていた。これは授業者の発想にはなかった。

 ここで運慶の彫っているのが阿弥陀如来像や阿修羅像でなく鮭を咥えた熊などでなく、仁王像であることには意味があるのか?

 授業者はこの答えを持っていないが、それが結論まで結びつくならどんな着眼点も検討しても良い。

 もう一つ、「運慶が生きている理由」は「運慶にとって」なのか「自分(達)にとって」なのかと問うていたら、C組Tさんが「仁王にとって」という解釈を考えついた。仁王にとっては、自分が世に出るためには運慶さんが必要なのであり、それが「運慶が生きている理由」なのだ、と。

 それならばやはり「仁王とは何者か?」を問わねばなるまい。

 どういう解釈に決着するんだろうか?


2022年10月24日月曜日

夢十夜 3 問いを分解する

 前回の問い「主題」を考えるために、より具体的な小説中の謎(①②)を考えようとした。抽象度の高い問いをいきなり考えようとしても手がかりがないかもしれないからだ。

 同様に、①②を考える上で、さらに問いを分解・変形して考える糸口をつかむ。


①「運慶が今日まで生きている理由」とは何か?

 「生きている」のニュアンスを「生きているべき」と強調してみると、「べし」の意味「すいかとめてよ」のどのニュアンスが含意されているかを考えることができる。

 「今日まで生きている理由」とは「生きていなければならない理由」なのか、「今日まで生きていられた理由」なのか?

 複数の選択肢に分けて考えることは、思考を活性化させるために有効だ。人間の思考は、物事の対比において、差異線をなぞるようにしか成立しない。

 結論がどちらかを決定しようとしているわけではない。どちらが適切だろうか、と考えることで、文中から根拠となるべき情報を読み取ろうとするのだ。


 また「運慶が今日まで生きている理由」とは、誰にとっての「理由」なのか?

 運慶自身にとっての「理由」なのか、我々(語り手にとっての「理由」なのか? つまり「運慶にとって自分が今日まで生きている理由」なのか、「我々にとって運慶が生きている理由」なのか?

 「生きていられる」は「べし」を可能の意味で解釈している。「生きていなければ」のニュアンスの場合、運慶自身にとってならば「べし」は意志だろうし、我々にとってならば「べし」は当然か適当だ(「命令」? むしろ「願望」?)。

 これらは単に日本語の解釈の可能性を押し広げて創作した問いだ。二つの選択肢の組み合わせで4つの解釈ができる。「運慶が考える、自身が生きていられる理由」「運慶が考える、自身が生きていなければならない理由」「運慶が生きていられると『自分』が考える理由」「運慶は生きていなければならない、と『自分』が考える理由」である。


 同様に②についても分解・変形を試みる。

②「明治の木には到底仁王は埋まっていない」とはどういうことか?

 「どういうことか」という問いは、包括的であることに意義がある一方で、目標が定まらないから思考や論議が散漫になるきらいがある。

 ②は、「仁王が彫れない」であるはずなのに、なぜ「仁王は埋まっていない」と表現されるのか? という疑問でもある。

 そこで問②を次のように変形する。

②仁王が彫れないのは、「自分のせい」か、「木のせい」か?

 本文は「明治の木には到底仁王は埋まっていない」といっているのだから、言葉通りには「木のせい」ということになるが、どうもすんなりと納得はしがたい。なんとなく無責任に過ぎるような気もして、ではどういう意味で「自分のせい」だと言えるかと考えると、ことはそれほど簡単ではない。

 本当は「自分のせい」なのに、それを「木のせい」と勘違いの悟りを得たということなのか、本当にこの小説の中では「木のせい」だということを意味しているのか?


 上記の二択すべて、とりあえず現状の考えを聞いてみると、皆の立場は分かれる。

 自分は最初からあるニュアンスでその表現を読み取ってしまって、その上でその先を考えていたはずだ。そうでないニュアンスを読み取る可能性を検討した上で選んだわけではない。だから違った可能性も公平に考えてみる。

 といってこれらの選択肢は、どれかを排他的に正解とすることを目指すのではない。どちらであるかを考えることが、思考を推し進めていくことに資すれば良い。

 このようにニュアンスを細分化することで、ここで明らかにしなければならないことを互いに共有するのだ。

 あるいは主張の違いを利用して有効に議論を展開するのだ。


夢十夜 2 問いを立てる

 読解にあたって最初に立てるべき問いは決まっている。

「第六夜」の主題は何か?

 常にテキスト読解にとって必要最小限にして最大の問いだ。「第六夜」はつまり何を言っている小説なのか?

 いきなりこの問いに答えるのは難しい。時折この問いを思い出して、現在の位置付けや全体の意味づけを確かめる。


 もっと具体的に、本文から導かれる問いを立てる。「羅生門」でいえば「下人はなぜ引剥をしたか?」だった。「羅生門」がとりあえず「わかった」と思えるために最低限解かねばならぬ謎だ。

 「第六夜」でこれにあたる問いは自明だ。

①「運慶が今日まで生きている理由」とは何か?

 読んでいて、これを疑問に思わぬ者はいまい。

 末尾の一文で、「自分」はこの「理由」が「ほぼわかった」という。だが読者にはそれが自明なわけではない。なのにそれが何かを語ることなく小説は終わる。語り手が「わかった」というものを読者がわからないままに済ますわけにはいかない。いかんともしがたく「解釈」の欲求を誘う記述だ。

 これは「なぜ運慶が今まで生きているのか?」という問いではない。読者がその「理由」に納得したわけではないし、すべきかどうかも定かではない。夢なのだから何でもアリだ、そんなことに理由はないのだ、などと答えてもいい。

 ただ「自分」は何事かを得心したのだ。それがどのようなものであるのかを問うているのだ。

 そうだとしてもやはり「答えは、ない」と答えることもできる。夢で我々は何かに奇妙な納得をしていて、だが起きてから考えても、なぜ夢の中ではそんな納得ができたのかが不思議であるような不思議な思考をしている。その不条理をとりあえず引き受けたところに「夢」の感触がある。とすれば「自分」は何事かを納得しているが、そこに読者が共感できるような中身はないかもしれない。

 だがそう即断せずに、漱石は何らかの「理由」を想定していて、それにあわせて物語の展開や描写をしている可能性も考えてみる。だとすればこの「理由」は、この小説が何を言っている小説なのか、という全体の理解の中に位置づけられるべきである。物語の締めくくりに置かれたこの「自分」の悟りが小説全体の「意味」を支えていると思われるからだ。

 ではその「理由」とは何なのか?


 さらに補助的な問いを立てておく。これもまた全ての読者に共感されるはずだ。


②「明治の木には到底仁王は埋まっていない」とはどういうことか?


 ①を明らかにするためには、まず②を解決する必要がある。②の悟りによって、「それで」①が「わかった」と「自分」は言っているからだ。

 「仁王は埋まっていない」とは、「仁王が掘り出せない=仁王像を彫れない」の隠喩である。だが隠喩で表される認識が「彫れない」という認識と同じだというわけではない。

 なぜ「仁王が彫れない」ではなく「仁王は埋まっていない」なのか? なぜそれが「到底」なのか?


 論理の順としては②→①→主題だが、これは「全体の理解」と「部分の理解」のように、互いを根拠として成立する論理なので、補い合って一筋の論理となるよう考えを進める。


2022年10月23日日曜日

夢十夜 1 第六夜は解釈する

 「文豪」という名称に真にふさわしい小説家は、日本では夏目漱石と森鷗外が双璧だ。芥川龍之介も太宰治も、ノーベル文学賞を受賞した川端康成も大江健三郎も、受賞を期待されていた三島由紀夫も村上春樹も、漱石鷗外ほどには「文豪」の名称には似つかわしくない。

 別格二人の作品がどのようなものかは、来年度に漱石「こころ」、再来年度に鷗外「舞姫」を読む時にたっぷりと味わってほしい。

 「こころ」に比べると小品だが、今年は漱石の「夢十夜」を読んでおこう。


 「夢十夜」は、夢(ということになっている)お話を、原稿用紙4~5枚の長さでまとめた連作短編であり、114年前の新聞に十日間にわたって連載された。

 テキストは「青空文庫」にもある。100年以上前の作品だ。著作権も切れている。

→青空文庫「夢十夜」

 テキストを見易い画面で見せてくれるサイトもある。

→えあ草紙

 YouTubeには朗読動画もいっぱいある。



 教科書採録に際しては、以前は「第三夜」が収録されていることもあったが、近年は「第一夜」と「第六夜」のみの収録が一般的だ。できれば十編すべて読んでほしいとも思うが、今回の授業でもこの二編を読む。

 最初の通読は「第一夜」「第六夜」の順でいいが、読解は「第六夜」から行う。これは、「第六夜」の方が一般的なイメージとしての「読解」に適しているからだ。「第一夜」は、ただ読んで味わえば良い、といったたぐいの小説であるように思える。それ比べて「第六夜」は「解釈」ができそうなのである。

 といって、授業で小説を読むことは、その小説の「解釈」を「理解する」ことではない。「羅生門」でも、「羅生門」の理解が目的だったのではない。「とりあえず」理解を目指すことでテキスト読解をすること、それにまつわる議論をすること自体が国語の学習なのだ。結果としてある種の理解もできたかもしれないが、それが「羅生門」にとって何か「正解」のようなものであるわけではない。

 ともかく、読んだだけでは何かわりきれない感触が残る小説には、何らかの「解釈」が欲求される。それは読者としての人情というだけでなく、国語科学習の好機だ。「解釈」は小説読解にとって必須の行為ではなく、国語科学習にとっての好機なのである。それは決して教師によって提示されるべきものではなく、生徒自身が取り組むべき課題だ。


 「夢十夜」は「夢」という体裁をとった小説だから、物語の筋立てにせよ、情景の描写にせよ、いちいち明瞭な、見慣れた、自明の「意味」をもたない記述に満ちている。「夢」だという建前を信ずるならば、それらを既存の「意味」に落とし込むようないたずらな「解釈」は必要ないかもしれない。単に不思議な話として受け取れば良いのかもしれない。

 だが、これが少なくとも「小説」という器に注がれて我々の前にある以上は、それに対して作者と読者である我々の間にコミュニケーションの成立する可能性はあるはずだ。夢そのものでさえ、語られる以上は精神分析という「解釈」の対象となりうるのである。

 まして授業という場では、その「意味」をめぐる考察は国語学習の好機となるべく期待をしても良いかもしれない。そして「第六夜」はそうした考察の対象となりそうな感触がある。なおかつ、そうした「解釈」をすることは、後に続く「第一夜」の読解の特殊さを意識するための伏線にもなる。


2022年10月16日日曜日

没落する「個」4 責任と個

 もう一箇所、考える手応えがあって楽しいのは次の一節。

急速に広まった情報のネットワークを支えているコンピュータ技術自体がプログラム上に原理的に欠陥をもつことによって、「責任」の所在はおろか、その概念の意味さえ曖昧になっているといわれる。近代思想のなかで「責任」が、悪にも傾く自由をもった同一の行為主体としての自己存在のメルクマールだったことからすれば、「責任」概念の曖昧化は、自己存在が情報の網目へと解体されていくことを示唆する現象であろう。いずれにせよ、自己が情報によって組織化されるという、この傾向は、ますます一層促進されていくにちがいない。

 個人的な娯楽を目的としてこんな文章は読まないし、何かを学ぶための読書ならば、こんな読みにくい文章は勘弁してほしい。ましてテストを解かなければならない切迫した状況では、こんな言い回しは本当に迷惑だ(それでもこういう書き方をしてしまうのは、ある種の美意識なのだろう。こういうのがカッコイイと思っているのだ)。

 だが余裕のある授業ならばじっくり考えて、みんなと話し合いながら解きほぐしてく過程はむしろ楽しい。考えていった先に、風景がクリアに見える瞬間はカタルシスだ。


 まず「コンピュータ技術自体がプログラム上に原理的に欠陥をもつ」がピンとこないが、そこはそういうものだと受け取ろう。確かに何のことを指しているのかがわからない。授業者はゲーデルの不完全性定理(または→)のことを指しているのだろうと推測して読み進めた。気になってネットで「バグが無くならない理由」などと検索してみると、プログラマーの書いた記事が山のように出てくる。つまるところそれは「人間の作ったものだから」というのだ。プログラムは実用的な目的で作られるが、コスト的にどこかで切り上げて納期に間に合わせるしかないから、無限のテストによってバグ(欠陥)をなくすことはできない。だからプログラムにはバグが絶対にどこかに残るのだそうだ。

 いずれにせよ、そのままそういうものだと受け取って先を読み進める。

 とにかく、プログラムに欠陥があると「責任」が曖昧になるのだそうだ。

 なぜ?

 何せ「原理的に欠陥を持つ」のだから、誰かの「責任」ではないのだ。

 そのことから何が言えるのか?


 一方で「近代思想のなかで『責任』が、悪にも傾く自由をもった同一の行為主体としての自己存在のメルクマールだった」のだそうだ。こういう、当然それはわかってるよね? と読者の了解を前提にしてしまう言い回しが、その業界の中にいるわけではない読者にはいちいち抵抗になる。

 だが切り取ってここだけを理解しようとすれば、できないわけではない。

 人間は「自由をもった同一の行為主体」だ。近代において、人は宗教や伝統から解放されて、自分の意志で自由に行為できるようになった(ということになっている。既習事項)。

  「同一の」という形容は、昨日の自分も今日の自分も一ヶ月後の自分も全て同一の自分である、という「自分」の存在の確かさを言っている。「アイデンティティ」の訳語である「自己同一性」の「同一」のことだ。

 すべてが「自由」なのだとすればそれは動物と変わらない。あるいはもはやそれは人の行為と言うより自然現象だ。とりわけそれが「悪にも傾く」とすれば、動物や自然現象を「悪」として裁くことはできない。その時、何が人間を人間たらしめるかといえば、「責任」だというのだ。何をしたかではなく、したことに「責任」をもつことが、彼のアイデンティティのメルクマールなのだ。

 そう理解すれば、

コンピュータ技術が「責任」を曖昧にする
したがって
「責任」によって保証される「個人」も曖昧になる
という論理がたどれる。


 この部分では「責任」が「個人」の存在を証し立てる条件として取り上げられているのだ、という論理を把握する必要がある。「責任」が曖昧なら、個人の存在も曖昧になる。

 同じように、この前の部分では「欲望」が「個人」の輪郭を捉えるのに使われている。「個人」とは、その人にしかない「欲望」を持っていることによって保証される。

 「欲望」が「個人」に属するものならば、「個人」の存在は確かにあると言える。だが「欲望」も情報の網の目に生ずるものだから、「個人」の存在を証し立てることはできない(若林幹夫が「誰かの欲望を模倣する」で言っていたことだ)。

 「責任」も「欲望」も、個人の存在を証し立てることはできない。

 これは前回の考察で「合意」が「集団性」を保証する条件として取り上げられ、それが作りものであることを言うことで集団が作りものであることを論じた論理と同じなのだ。

 これもまた全体の文脈に位置付けることで腑に落ちる感じを味わえるはずだ。


 ところでここを話し合わせているうちに面白い問題が見つかった。

自己存在が情報の網目へと解体されていく

自己が情報によって組織化される

 連続する二文の中で「解体/組織化」という、一見正反対の言葉が、何の説明も言い訳も無しにごく自然に置き換えられている。この奇妙さに、読者はついていかねばならない。

 上の二文は同じことの裏表なのだ。そのことが「そうだよな、当然」と思えることが、この文章を読めるということなのだ。

 個はそれ自体が独立した存在であるのではなく、情報によって組織化されたものだ。そのことは前にも言われている。

欲望の源泉は、相互に絡み合って生成消滅している情報であり、個人はその情報が行き交う交差点でしかない

 個人がそのように情報によって「組織化」されることで成立したものであるとすれば、「個」というものを捉えようとすれば、それはすなわち確固として既に存在していたものではなく、情報の中に「解体」されてしまうということにほかならない。

 情報によって組織化されることは情報の中に解体されるということだ。どちらも「確固として存在する独立した個」の対比として、同じ側の個のイメージを表現しているのだ。


2022年10月12日水曜日

没落する「個」3 ファケーレ/ファクト

 次の一節もひっかかるはずだ。

合意が達成され機能するとしても、それは当の合意が普遍的な基準を表現しているからではなく、「合意した」という事実だけが、それを合意として機能させているにすぎないそういう意味でいえば、「合意」とはまさに形成されたもの、作りものであり、それが「事実」と呼ばれるとしても、作る作用(ファケーレ)に支えられた事実(ファクト)でしかないのである。


 下線部は、東大の問題では「どういうことか説明せよ」と出題されている。

 読んでわからないわけではないがどうすれば「説明」になるのかわからない、というのがこういう問題の常だ。

 そこが「わかる」としてもその後で「そういう意味でいえば」以降への論理的接続がよくわからない。「そういう」や「それ」の指示内容も曖昧だし、「ファケーレに支えられたファクトでしかない」という結論がどこから出てきて、何を言いたいのかもわからない。

 どこから解きほぐすか。


 「『事実』と呼ばれるとしても」の「としても」は「合意が達成され機能するとしても」を受けている。「事実」は前の行の「『合意した』という事実」を受けている。

 こういう論理関係の追い方は、もちろん無意識にも行っているだろうけれど、意識してやってみてもいい。

 二つの対応から、論理的に次のことが言える。

「事実」=合意が達成され機能する(こと)=合意した(こと)

 これは何を意味する?


 文末はおそらく「ファクト」という英単語は、ギリシャ語がラテン語の「ファケーレ」が語源なのだという知識を前提にしているのだろう。そう思って調べてみるとやはりラテン語だった。「ファクトリー(Factory)=工場・製作所」もなるほど「作るところ」だ。

 それがどうした?


 「作る作用に支えられた事実でしかない」は、読者にある違和感を感じさせることを狙いつつ、その驚きの中でメッセージを伝えようという意図にもとづいた表現だ。

 「作る作用」と「事実」は日本語では反対のベクトルを持っているような印象がある。文中で繰り返し使われる「作りもの」は「非実体」「虚構」などの言い換えだ。それは本来「事実」と対立的な概念のはずだ。「事実=本物/虚構=偽物」なのだから。

 それが欧米語の語源に遡ると通じ合ってしまう、という豆知識をここでは「事実は作り物だ」と語るために用いられているのだ。 

 ではなぜ「事実は作り物」なのだ?



 下線部の終わり「~にすぎない」という言い方は、ある限定をすることで、それ以外の部分を否定的に想起させる表現だ。「これは始まりにすぎない」と言えば「始まり」の裏に「それ以降、終わりまで」が対比されていることを示すし、「そんなのは口先にすぎない」といえば「腹の底からの本心」が、その場限りの「口先」の対比として言外に表現されている。

 「『合意した』という事実だけが、それを合意として機能させているにすぎない」も、同じように、何かを限定をすることで言外の何かを否定している。

 ここにはどのような対比があるか?

 だが何を限定しているかも、言外に何を想起させているかも、表現することが難しい。ここを何とか言葉にしてみる。

本心/口先

の順に表現してみる。「本心ではなく口先に過ぎない」という文型に嵌まるように対比させてみよう。

 どう表現すれば良い?


 我々のテストでは、ここは説明ではなく、「これを表す例」を選択肢として出題した。正解率は6割くらい。これを利用する。正解と不正解の選択肢はどこが違っているか? 何が正解の目印なのか?

 使われている「臓器移植」「クローン人間」「人工妊娠中絶」「自動運転」といった例が問題なのではない。例自体には適否はない。

 ポイントは、②「価値観の一致に基づく」と、①「納得しているわけではない」、③個人の~観に反したもの」、④「解決を~放棄している」の違いだ。

 これが上記の「すぎない」の限定による対比と対応している。

 各クラスでそれぞれ試行錯誤して、この対比を表す言葉として挙がったのは次のような表現だ。

全員一致による合意/多数決による合意

  納得ずくの合意/不本意な合意

   本質的な合意/形式的・表面的な合意

 尤も、よく見れば下線部の前に「ではなく」があって、対比は明示されている。

当の合意が普遍的な基準を表現しているからではなく

 つまり「普遍的な基準による合意」だ。上記の左辺は適切であることがわかる。


 これが「ファケーレに支えられたファクト」と対応する。

 順序が逆だ。

事実/作る作用

 「『事実』と呼ばれる」のように括弧のついた表現は、そのニュアンスを適切に読み取る必要がある。「事実」は普通、本物のニュアンスだ。それは左辺のような合意でなければならないはずだ。

 ところが「事実」上、実際に機能しているのは右辺のような合意による。つまり「作りもの=偽物」なのだ。

 だから「事実」は「作る作用」に支えられていると言えるのである。


 ところで、なぜ「合意」が問題になっているのか?
 大きな文脈の中に位置付ける。
 「合意」は「社会的合意」として文中に登場する。
「社会的合意」の「社会」なるものが、いかに捉えどころのないものであるか
 つまり合意が「作りもの」であることを言うことは「社会」が「捉えどころがない」ことを言うことになり、それはつまり「集団」が不確かなものであることを言うことになるのだ。
 「合意」が作りものだから、その合意によって成立する「集団」も作りものだ。
 こうして全体の文脈に位置付けることで腑に落ちる。

没落する「個」2 比喩を分析する

 全体の把握と部分の解釈は相補的だ。全体の論旨は部分の理解の集積だが、逆に全体の論旨が把握できることで部分が理解できるようにもなる。

 そう思って全体の論旨を捉えた上で読み返してみると、どこかはすっきりしてかもしれないが、依然としてこの文章にはわからないところがあちこちにある。

 わからないことは、どんどん質問してほしい。むしろ鋭い質問で授業者を困らせるくらいのことをしてほしいところだが、ぼーっとしていると「どこがわからないのかわからない」などという腑抜けたことになる。


 あちこちから聞こえてくるポイントを全体で考えた。

 まず文末の比喩。

もとより個がそこへと溶解していく情報の網の目も、相互に依存し合い絶えず組み替えられ作られていく、非実体的なものにほかならない。そうだとすれば集団性のなかへ解体していったといっても、そこに個は、新たな別の大陸を見出したのではなく、せいぜいのところ波立つ大海に幻のように現われる浮き島に、ひとときの宿りをしているにすぎないのである。

 比喩と言えば「生物の多様性とは何か」の中の「自転車操業」について1クラスだけ考察を展開した。あれは面白かった。今回は全クラスで考えてみる。

 比喩を含む表現を考えるには、とりあえず、何が、何の、どのような性質・状態を喩えているか、を明らかにする。「綿のような雲」という比喩は、「綿」が「雲」の「白くてふわふわしているありさま」を喩えている。

 この部分で「綿」にあたるのは「大陸・大海・浮き島」だ。

 だが「何の」と「どのような性質」は表現が難しい。


 その中でもとりあえず文中の言葉に対応させられそうなのは「大海-情報」だ。「波立つ」という形容は「絶えず組み替えられ作られていく」イメージを喩えているように感じられる。

 「情報」が「大海」だとすると「網の目」が「浮き島」に喩えられているのだろうか?

 そう解釈しても悪くはないが、「網の目」でもまだ比喩なので、さらにそれが何を喩えているのかを考えよう。


 「大陸・大海・浮き島」の三つはどのような関係になっているか?

 「ではなく」型の文型は対比を示していることを忘れてはいけない。何と何が対比されているのか?

 「大陸/浮き島」だ。ということは、それがどのような性質を表すかも、対比的な形容で捉える必要があるということだ。

 どのように表現したらいいか?


 全体論旨の把握から使える形容としては「実体/非実体・虚構」がどのクラスでも挙がった。考え方としては間違っていない。上記文中で「非実体的なもの」だと言われているのは「情報の網の目」であり、上に述べたように「浮き島」が「網の目」を喩えたものだとも考えられるからだ。

 だが逆に「実体/非実体・虚構」を表そうとしたら、比喩として「大陸/浮き島」という喩えは想起しないはずだ。

 では?


 「個がそこへと溶解していく情報の網の目」と「集団性のなかへ解体していったといっても、そこに個は」は、「個」という主語と「溶解/解体」という述語が共通していて同一内容だと判断できる。すなわち「情報の網の目=集団性」ということになる。

 つまり「大海に浮かぶ浮き島=情報の網の目=集団性」である。

 ではこれはどのような性質・状態を喩えたものか?

 

 「安定/不安定」が挙がった。これは良い。もう一つ。

 「浮き島に、ひとときの宿りをしている」を利用するなら、「大陸」は「定住する」ものということになる。そこで「永続的・恒久的/一時的」という対比が想定できる。

 大陸/浮き島

 安定/不安定

永続的/一時的

 実体/非実体

 これでこの比喩全体を解釈できる。


 こういうことだ。

 個は情報の海に溶解していく。

 だがそこにある何らかの「集団性」に安住の地を見つけようと思っても、それは「大陸」ではなく「浮き島」のようなものだ。場所も移動してしまうし、下手をすれば沈んでしまうかもしれない。「情報」という「大海」に浮かぶ集団もまたそのような「不安定」で「一時的」なものなのだ(席替えをすれば今の班のメンバーはかわってしまうし、年度が替わればクラス替えをする)。

 こう言ってみれば、これはまったく全体の論旨そのままであることがわかる。

 丁寧に順序よく考えていけば、すっきりと腑に落ちるところまで考えることができる。


没落する「個」1 読むための技術

 第二回の一斉テストに出題した伊藤徹「柳宗悦 手としての人間」は東大入試で出題されたものだ。元の問題は「なぜか?」か「どういうことか?」を説明する記述問題で採点に手間だから、それを作り替えて、選択肢を作ったり、根拠や言い換えを文中から探させたりしている。

 これを出題したのは、高校一年生に東大の、しかもとりわけ読みにくい文章を出題してビビらせてやろうなどといった意地悪ではない。これもまた今まで読んできた文章の問題意識、認識と重なるところが多いからだ。

 テスト中には時間が足りなくてあまりに消化不良だったろうからと、テスト後の授業で読み返してみると、あちこち突つきき甲斐のあるところがあって楽しくなってきてしまった。1時限で終わるつもりが、どこのクラスでも2時限以上時間をかけてしまっている。


 それにしても読みにくい。これはもう原文が根っからそういう調子なのだということでもあるが、出題にあたっての切り取り方のせいでもある。問題文冒頭がもうわからない。それが後を引いてしまう。そこに、情報密度の高い、捻った表現が次々に出てくる。

 読みにくい文章を読むテクニックはいろいろあるが、意識的に使える技術として授業で三つ実践した。

 まずはテーマ・主題を定める

 これは掴み所のない物に把手をつけるということだ。丁度良い把手があればモノは扱いやすくなる。多少外れていても、把手が無いよりはいい。手がかりを見つけて、そこに手をかけて力が伝わるように(考えが集中するように)するのだ。

 10文字以内、2~3文節で、と指定したら、全クラスで中盤過ぎにある「集団への個の解体」が挙がった。最大公約数的にこれがテーマを表していると感じられるフレーズなのだ。

 そう思って冒頭を見るといきなり「個の没落」という言い方で、同じテーマが提示されている。2段落でも「個の稀薄化」とある。評論では、こうした言い換えが始終行われる。

 「個の解体」がテーマだと考えることで、まず「個の解体」と表現される事態がどのようなものか、なぜそれが起こったのか、それによってどのようなことが起こるのか、といったあたりに話が展開しそうだぞ、という予想が立つ。これが考える上での手がかりになる。

 ところで「没落・稀薄化・解体」はどれも一種の比喩だが、中でも「没落」が最もわかりにくい。「没落」? 前は貴族か何かだったのか?

 ここでは、「近代における個人の確立」が共通認識として前提されている。前期の授業で、そうした認識について書かれている文章をいくつか読んだ。「没落」という言葉は、裏にそうした認識があるという前提を理解していないと、何を意味しているかがまったく理解できない。


 もう一つの技術は対比をとることだ。

 「個」の対比は何か? 一段落に限定すると?

 二つと指定して探させた。

 一段落では、「個(人)」は「判断の基盤としての」と形容されるから、「判断の基盤」として「個」ではない何が言及されているか、と探す。

  • 未だ生まれぬ世代・後の世代とのなんらかの共同性・時間的広がりを含み込んだ人類
  • 人間以外の生物はもちろん、山や川などさえも超えて、「地球という同一の生命維持システム」

 が見つかればいい。

 もちろん「個」の対比は「集団」で、この対比は中盤以降に明示される。

 つまり以下の対比がアナロジー(類推)になっている。

  個/集団

現代人/後の世代を含む人類

 人間/地球・生態系

 社会を問題にするなら「個/集団」という対比でいいのだが、一段落では環境問題について語られるため、こんなわかりにくい、ズレた対比になっているのだ。


 さてもう一つは要約だ。なるべく短く言ってみる。

 例えばテーマが「個の解体」ならば、「個は解体している」と言えば文になる。そこにさらに対比を導入する。

個は解体しつつあるが、拠り所となる集団もまた想像力によって作られた虚構に過ぎない。

 授業で30字以内と言っていたわりに上のは40字くらいになってしまった。

 まず、要約しようとすることが考えるための集中力を支えてくれる。「わかろう」とするのではなく、その先に「言おう」とすることが、途中経過の「わかる」を促すのだ。

 かつ、コンパクトに言ってみると、その後で何か考えるための取り回しが楽になる。


 以上三つの技術、いたずらに「わからない」と手をこまねいているよりも、意識的に使ってみる。


2022年10月3日月曜日

なぜ成績評価をするのか

  前期末でいったん成績評価をする。その具体的方法や基準については授業で説明するとして、その前提となる原理的な考え方について述べておく。

 成績評価とは何のためにするのか?

 一般的なイメージとしては、成績評価は、その学習成果(達成度や能力)を示す指標であり、それに対する公的な保証、といったところだ。

 試験を合格したことで得られる免許や資格もそうだ。ここでは成績評価は、どこかで線引きされて合否で二分される。

 入学試験なども同様に、得点は満点から0点までばらつくが、合否はどこかで線引きして二分される。合格した者は、その能力が公的に保証されたのだ。

 普段の学校の学習活動に対する成績評価にもこれと同じ機能もある。いわゆる推薦入試などでは、高校側が算出した成績評価が大学によって合否の判断に一部、使用される。

 だがそうした機能は、成績評価の一部でしかない。

 問題は、成績評価が誰のためにあるのか、だ。上の機能は、合否を判断したい側のために成績が評価される、という側面を語っている。

 では評価される側にとって成績評価は何のためにあるのか。また、学校での学習活動の場合、評価する側である教師にとって成績評価は何のためにあるのか。

 例えば企業が製品を販売する場合、「成績」とは売り上げのことだ。売り上げが好調なら製品の開発や販売がうまくいっているということだ。だが売り上げが不調なら開発や生産や販売について見直さなければならない。

 この場合、売り上げとは、企業の活動にとってモニターの役割を果たしている。

 同様に、成績評価の機能とは、学習成果の評価を学習活動にフィードバックすることで、学習活動を修正することにある。良い評価がされた学習活動は強化される。低評価の学習活動は見直される。学習評価はそうした反省のためのモニターだ。

 学習と評価は互いにフィードバックするサイクルを成している。

 この場合、成績評価は、学習する生徒のためにある。学習活動が適切であるかどうかを確認するモニターの役割。


 新課程における成績評価は、文科省の定めた学習指導要領に基づいて、次の三つの観点をそれぞれA~Cの3段階で評価することになっている。

  1. 「知識・技能」
  2. 「思考力・判断力・表現力等」
  3. 「主体的に学習に取り組む態度」

 三つの観点は、学習にはそれぞれの側面がいずれもおろそかにされることなく重視されるべきであるという認識を、学習者と支援者(生徒と教師)が共有しようという理念をあらわしている。生徒は評価によって自らの学習態度を見直す。教師は三つの観点がそれぞれ必要な要素であることを自覚しながら授業を計画したり課題を設定したりして生徒の学習を誘導する。

 この機能は、教師がそれぞれの観点で生徒を評価することによっても働くかもしれないが、実際にそれぞれの学習成果において、1・2・3がどのように相互作用しているかを教師が判断することはできない。

 例えば「主体的に学習に取り組む態度」を評価することはどうすれば可能か?

 しばしば生徒の挙手の回数を数えるというような方法が、揶揄されるために例としてあげられる。それは滑稽で非現実的だ。そんなことを実際に行うのは甚だしく手間がかかる上に教育的でもない。それが馬鹿馬鹿しいことは誰もがわかっているのに、ではどんな方法が現実的に可能で妥当かは誰からも納得できるようには提案されない。せいぜい提出物や出欠席の数をもとに評価するくらいだ。それらは挙手の回数と違って算出可能だが、同じくらいに馬鹿馬鹿しい。例えば提出された論文の評価などはどうみても2「思考力…」によって評価されるべきだ。提出したかしないかを3「主体的に…」として評価し、内容を2で評価する? 可能だが不必要な二度手間だ。

 「主体的に学習に取り組む態度」などというものは、明らかに個人間でその強弱や濃淡、存否の差違があるにもかかわらず、同時に明らかに内面的なものであって、外側から適切に評価することは絶望的に不可能だ。それが適切にできるなどと思っている人はどこにもいないはずなのに、それをやることになっている。公式には。

 また例えば1・2は、これもまたそれぞれに学習の別の側面であるにもかかわらず、外側に表れている結果(例えばテストでの得点)ではそれらが混ざった形で作用している。これを切り分けることの合理的な方法はない(例えばこの小問は「知識」で、こちらは「思考力」だ、などと振り分けることは可能だが多分に不合理だ)。そしてそこに3「主体的態度」が重なっている。高得点は1・2の能力が発揮されたからでもあるが、主体的に学習に取り組んだ成果でもある。テストの点数を1・2・3に分けることは原理的には不可能で、実際に設問によってそれを振り分けたりすることには、どうしたって現実的でない不合理が生ずるのだ。


 三観点を教師が適切に評価することは不可能だが、一方、生徒自身はそれを自覚できる。知識があるから漢字の問題を正解できたのか、努力して正解できたのかは自分でわかる。知っているからできたのか、考えて正解に辿り着いたのか、あるいはまた自分が主体的であるかどうかは、自分にはわかる。

 学習へのフィードバックという評価の目的は、本人にそれができるならば、機能はしている。

 教師は、三観点に分けた評価に手間をかけるよりも、三つの側面を意識した授業や学習課題を企画することに注力すべきである。例えば一問一答式に瑣末な知識を問うような問題ばかりのテストで成績を評価するのは1に偏りすぎている。一方的な知識の伝達に過ぎない授業は2・3の観点が欠落しているし、わいわい賑やかだが必要な知識の伝達されない授業も見直されるべきだ。

 三観点評価への移行には、そうした反省が期待されている。


 実際にこの学習評価とフィードバックが最も有効に働いているのは授業中だ。

 授業ではグループでの話し合いと、そこでの考察をクラス全体で検討する活動が繰り返される。話し合いに参加する姿勢や発表の意欲は3の観点から評価される。生徒同士は常にそれを評価し合っているし、当然自己評価もしている(授業者も内心評価しているのだが、全員に対する公平な評価はできない)。あいつは積極的に発言しているなあとクラスメイトを評価し、自分が評価されていることを明確に感じ取っている。

 そこでの発言は、ある時には「よく知っているな!」(1「知識」)、あるいは「ああ、なるほど、そうか!」(2「思考力・表現力」)などと、自分の発言に対する相手の反応で、常に評価され、フィードバックしている。

 いずれはこれらの評価が何らかのテクノロジーによって自動的に数値化される未来もあるだろうが、少なくとも現状でもこうした評価は常時、歴然と行われている。

 したがって、学習と評価のサイクルは充分効果的に機能している。

 例えば教師がひたすら講義していて、生徒はひたすら板書をノートに書き写している、というような授業ではこうしたフィードバックは起こらない。

 三観点評価はそうした昔ながらの一斉講義式授業の改革を企図しているのだ。


2022年9月26日月曜日

パンとバラ 3 詩を読む

 吉原幸子「パンの話」をとりあげたのは言わばオマケで、多くのクラスでは結局ほとんど時間をとれなかったが、実は「暇と退屈の倫理学」と「多層性と多様性」を「関連」させるより面白い考察になっただろうなあと思って残念ではある。プリントを配付したとたんでどこのクラスでもザワめくのが面白かった。E組Nさんが「これ日本語!?」と言ったのは可笑しかった。一読してみんな、わけがわからん、と感じたはずだ。

パンの話

                        吉原 幸子 


まちがへないでください
パンの話をせずに わたしが
バラの花の話をしてゐるのは
わたしにパンがあるからではない
わたしが 不心得ものだから
バラを食べたい病気だから
わたしに パンよりも
バラの花が あるからです


飢える日は
パンをたべる
飢える前の日は
バラをたべる
だれよりもおそく パンをたべてみせる


パンがあることをせめないで
バラをたべることを せめてください――

 「パンの話」が思い浮かんだのは、「暇と退屈の倫理学」の次の一節と呼応するからだ。

人はパンがなければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない。

 パンとバラがセットで登場するところで、オッと思わされるのだが、それだけでなくそうした共通性は両者の読解にも参考になる。


 詩を読む上での作法、あるいは「お約束」と言っても過言ではないのは、詩の中の言葉は様々な象徴性を帯びているという前提だ。

 象徴?

 「羅生門」の主人公、下人の頬の「にきび」は単なる「にきび」ではない。ある具体物が、何らかの抽象概念を表していると考えられるとき、それは「象徴」と呼ばれる。「にきび」は下人を支配していた空疎な観念の象徴だ。

 「パンの話」において、そのように読むべきなのは何か?

 言うまでもなく「パン」と「バラ」である。


 「羅生門」の場合は、「にきび」は小説内現実に存在する具体物ではある。だがそれだけではない象徴性を持っているとわかるように、殊更に意味ありげに描写されていた。

 一方、詩の場合はそもそも詩中の言葉に具体性がない。「パンの話」でも「パン」も「バラ」も、最初から具体物としてのそれではないことが明らかだ。そうであればこそ「バラを食べる」などという表現を読むことができるのだ。

 こうした、最初から具体物ではない形で登場するモノは、象徴と言ってもいいが、比喩とも言える。「~ような」をともなわない比喩を「隠喩・暗喩・メタファー」などと言うが、「バラを食べる」という表現は、直接の言葉通りの意味ではなく、何事かを喩えているのだ。

 パンとバラにどのような象徴性を読み取り、詩全体をどう読むか?

 話し合いの中で「パン=生活必需品」「バラ=嗜好品・贅沢品」という対比が語られている様子が多くのクラスで見られた。

 みんなが持っている「ちくま評論入門」の姉妹本である「ちくま評論選」(2,3年生が持っている)に「暇と退屈の倫理学」の別の一節が収録されていて、その題名は「贅沢のすすめ」だ。とすれば國分がバラを顕揚していることは贅沢を奨めているということになるのだろうか。

 とするとこの詩はどのようなことを言ってると考えればいいか?


 上の対比も悪くないが「パン=生活」にしておいて、「バラ」は「暇と退屈の倫理学」から、モリスの言う「芸術」を使うのが簡便。「贅沢のすすめ」の「贅沢」は「暇と退屈の倫理学」の「豊かさ」に近いニュアンスで、資本社会の与えてくれるモノと対比される物によってもたらされるから、例えば大量生産品ではない「芸術」などもそれにあたると考えていい。

  • パン=生活(貧しさ)
  • バラ=芸術(豊かさ・贅沢)

 「芸術」はさらに、画家なら絵画、音楽家なら音楽と考えると、吉原幸子にとってはがそれにあたる。とすれば「バラの花の話をする」「バラを食べる」は「詩を書く」ことを意味していると考えよう。

 これでこの詩の表現を論理づけられるだろうか。


 詩は理解すべきものではなく味わうべきものだ、というようなことを言う人が世の中にはいるが、味わう前にまず読むことが必要なのは言うまでもない。どの程度かはさておき、わからないものを味わうことはできない。読解の末に「わからない」という結論に至って、その段階でそれなりに「味わう」ということはある。全ての詩がわかるわけではないし、わからないと味わえないということでもない。だがわかろうとしていない詩を味わうことはできないのは間違いない。

 したがってまずは読まなければならない。

 読むということはテキスト情報を論理づけるということだ。そうでなければパンについてもバラについても詩人の思いについても、何事も受け取ることができない。


 この詩の趣旨を端的に表現するなら「詩人としての自負」といったところだというのが授業者の解釈である(こうした端的な表現がまた国語力の表れだ)。

 この表現を聞いて、ああなるほどと思えたろうか。もちろんそれは「正解」というようなことではなく、授業者の論理とあなたの「論理」が幸いにもだいたい一致したということだ。

 吉原幸子は、自分が詩を書く、書かずにはいられないことを「わたしが 不心得ものだから」と言っているのだ。生活に余裕があるからではなく「病気だから」詩を書かずにはいられないのだ。

 そしてそこに矜持もある。

 「だれよりもおそく パンをたべてみせる」とは、生活のことを後回しにしても、まず詩のことを第一に考えるのだ、という詩人としての自負を語っているのだと思う。

 ただ最後、3聯の2行がすっきりしない。特に「パンがあることをせめないで」は、誰が「責める」のか、何を責めているのか、どのような意図で「責める」のか、すっきりと解釈できない。

 このあたりをつっこんで考えていくともっと面白い読みにたどりつくかもしれない。

 ともあれ残り時間の少なくなった授業では上記のような読みを早口で語るのが精一杯だった。

 ただ、C組では指名したSさんが、ほぼこれと同じことを淀みなく語ってみせたのは、その読解の的確さも説明の明晰さも実に見事で、発表を聞いて、ほとんど感動させられた。周りで「鳥肌が立った!」というような声が聞こえたのもむべなるかな、だった。


 冬にもうちょっと詩を読む時間をとる。その時にはまたそれぞれの読解を語ってほしい。


2022年9月25日日曜日

パンとバラ 2 認識と主張

 まず「多層性と多様性」と「暇と退屈の倫理学」の「関連」から考えよう。

 この「関連」は授業者が設定したものではなく、教科書編集部が「関連がある」と言っているものなので、どういう「関連」があると見なしているのかは推測するだけだ。だが読解というのはそもそも「正解」があるようなものではなく主体的に行われる一種の創作行為なので、こちらが納得いくように読めばいいのだ。


 共通して登場する言葉としては「豊か」や「退屈」がある。重要な接点だ。

 そしてもちろんここでも「近代」であり(「暇と退屈の倫理学」には直接は出てこないが)、近代の延長としての「現代」である。そして「近現代」の表れの一つである「資本主義社会」である。

 さてこれらの語をもちいて、両者を「関連」させよう。


 二人の主張を端的に取り出して比べてみる。まず「端的に」言うことが既に国語力を必要とする読解作業によって可能になる。さて。

 國分功一郎が言っているのは、生活はバラで飾られるべきだ、である。

 若林幹夫が言っているのは、多様である方が良い、である。

 これらは同じことを言っているのか? どう考えればこれらを「関連」させられるのか?


 論には「認識」の要素と「主張」の要素がある。これはまあ強引に分ければ、といったところで、もちろんある「認識」を語ること自体がある「主張」であるほかはないのだが。

 しばらく前に説明文と評論の違いとして、「主張」要素が強いのが評論だと言及したことがある。

 「主張」だけを端的に切り取ると上の通り、どう関連しているのかが見えにくい。そこで「認識」の部分を比べてみる。

 二人はどのように共通した認識を語っているか?

多層性と多様性

現実の近代社会は、資本制とそれに基づく産業社会を地球的な規模で押し広げ、世界中どこでも同じような建物が建ち、鉄道や自動車から家庭電化製品に至るまで同じような機械を用い、民族衣装を捨てて洋服を着る「同じような社会」と、そんな社会の目指す「同じような発展」や「同じような豊かさ」を世界化していった。

暇と退屈の倫理学

当時のイギリス社会では、産業革命によってもたらされた大量生産品が生活を圧倒していた。どこに行っても同じようなもの、同じようなガラクタ。モリスはそうした製品が民衆の生活を覆うことに我慢ならなかった。

 もちろんここでいう「当時のイギリス社会」の姿は広く近代社会の姿だ。二人が描く近代社会についての認識は共通している。

 共通した認識を語る二人は、それぞれどのような主張をしようとしているのか?


 「暇と退屈の倫理学」では、単純に言うと、現代は暇で退屈になった、と言っている。それは上のような社会がもたらす「同じような豊かさ」では埋められない空虚だ。

 モリスの言う「芸術」がそれを埋める。バラとは「芸術」を喩えたものだ。それは「産業革命によってもたらされた大量生産品」と対比される。したがって、「芸術」がただちに多様であるとは本来言えないものの、この論で対比されるものが「均質的」な工業製品であるということは、それと対比される「芸術」には独自性・固有性がもたらす「多様性」があるはずだということになる。

 こうして二人の論の主張は共通した方向性を持っていることが論証できる。

 芸術がもたらす「豊かさ」は、工業製品がもたらす「同じような豊かさ」とは違う、「退屈」に陥らない「豊かさ」であるはずだ。國分の「バラで飾ろう」はそういう主張だ。

 とすればそれは若林が「均質・単一」で「退屈」な世界で、多様性は重要だと主張することと同じなのだ。


パンとバラ 1 「関連教材」

 前回までの問題は、参照すべき項目が多く、まとめることが難しいはずで、授業数の少ないクラスに合わせて、テスト後に引き続き考察する。

 一方「多層性と多様性」には、教科書編集部によると「関連教材」として國分功一郎の「暇と退屈の倫理学」が挙げられている。

 「関連教材」というのがどういう意味かは定かではないが、単元「共に生きる」の三編は相互に「関連教材」ということになっている。当然だ。読み比べることが最初から意図された単元だからだ。だから今年度の授業は最初にその単元から入ったのだった。

 そこに「生物の多様性とは何か」を「関連」させたのだが、それは「関連教材」としては明示されていない。聞けば意識しているというのに、あまりに領域の違う文章を「関連教材」と銘打つのためらったのだろう。惜しいことだ。領域の違う文章を「関連」づけることにこそ意義があるのに。全く違った分野の問題に共通した構造を見出す時にこそ、世界に対する認識は拡がるというのに。

 そこから「多層性と多様性」に繋げるのは、またしても領域が違うから「関連教材」という扱いではない。さらに「〈私〉時代のデモクラシー」に繋げるのも授業者が設定した問題だ。

 では教科書編集部が設定した「多層性と多様性」と「暇と退屈の倫理学」の「関連」とは何か?


 実はそこにはそれほど豊かな読み比べの可能性が授業者には見出せないので、さらにそこに吉原幸子の詩「パンの話」をからめる。

 詩?

 パンの話

                        吉原 幸子 


まちがへないでください

パンの話をせずに わたしが

バラの花の話をしてゐるのは

わたしにパンがあるからではない

わたしが 不心得ものだから

バラを食べたい病気だから

わたしに パンよりも

バラの花が あるからです


飢える日は

パンをたべる

飢える前の日は

バラをたべる

だれよりもおそく パンをたべてみせる


パンがあることをせめないで

バラをたべることを せめてください――

 この詩は現在2,3年生が使っている「現代文B」の教科書に収録されているものだが、授業者は授業でこの詩を扱ったことはない。今回も、単独でこの詩を読解しようと考えたわけではない。

 今年度の授業では、冬頃に詩をいくつか読もうかと思っている。が、そもそも「現代の国語」は詩を扱わない想定なのだ。それが唐突に、ごりごりの評論を理屈っぽく読んでいる最中に詩を読もうというのはなぜか?

 ここに唐突に詩をからめようと企画したのは、「暇と退屈の倫理学」を読んでいればピンとくるはずだ。

 さて、どのような読み比べが可能か?

2022年7月13日水曜日

羅生門 20 終わりに

 ここまで7回の授業で「羅生門」を読んできた。定期考査が終わってから、ほぼ一ヶ月、今年度初で、最後かもしれない小説の読解を体験してきた(いや、もう一編くらい読みたい)。

 そういえば「羅生門」の認知度調査に回答してくれた69名の皆様、ご協力ありがとう。

 読んだことがあるというご家族は58名、約84%だった。やはりこれだけ読まれている小説は他にない。

 一方で「ない」と断言した方が7名。約1割のご家族は「羅生門」を扱わない高校生活を送ったのだ。

 「生きるためのエゴイズム」というテーマについては半分が「そんな感じだと聞いた」と答えている一方、半分は「よくわからない」だそうだ。確かに高校生の頃の授業の内容を覚えているかといえば授業者も怪しい。

 一方で「違う話を聞いた」と6名が答えている。気になる。どんな話だったのだろう。

 「エゴイズム」というテーマについては、多くの方が「そう聞けばそうだと思う」か、「わからない」と答えているが、5名が「そうは思わない」だそうだ。これも気になる。上記の方と重なっているのだろうか。

 授業者が「一般的な解釈」と言っているのは、文学研究や国語科教材研究の世界での話で、それこそ「一般」の方の認識はどうなっているのかは知りたいところだ。上記の少数派の話を聞いた方、教えてほしい。


 小説の読解は、ある意味では評論やその他の実用的文章を読むことと変わらない。テキスト細部から必要な情報を拾い上げて全体を構造化することだ。

 同時に構造の中において初めて持つ細部の表現の意味を捉えることでもある。全体の構造化細部の意味づけは相補的に働く。

 「羅生門」の読解においてやってきたのはそういうことだ。

 全体の構造をどう組み立てるかと、細部の表現をどう意味づけるかといった思考を相互に整合的に働かせる。 

 そうして現状で納得できる「構造」「意味づけ」が前回までに見てきた「羅生門」解釈だ。

 「生きるために人が持つエゴイズム」について書いてあるのだという「羅生門」理解は、例えば下人の心理の描写を充分に「意味づけ」ておらず、そうした「構造」は言わば基礎工事が手抜きされた砂上の楼閣に過ぎない。

 そうした「羅生門」理解に従って「生きるための悪は許されるか」などという問題について考えることは、むしろそうした観念的アポリア(難問)からの脱却を描いているという小説の主題に反している。それは国語の授業ではなく「道徳」の授業だ(もちろん「道徳」の授業にもまた別の意味があるので、「羅生門」に関係なく行うのならそれも良い)。


 上で「ある意味では」と書いたが、小説の読解は、そこに書いてある具体的な事柄から、一段抽象度を上げて、それを意味づける必要がある。「主題」と言っていたのがそのことだ。小説中の5W1Hをただ確認しても意味がない。そこからどのような「意味」を酌み取るかが「構造化」であり「主題」の考察だ。

 一方評論は、本文の言葉と抽象度を変えずに「全体の構造化/細部の意味づけ」を行う。本文が既に抽象度が高いからだ。

 だがそこで論じられている問題が、我々の現実とどう関わっているかを考える、という意味で、やはり本文から一段抽象度を上げることが必要でもある。


 ちょうど「羅生門」の読解の終わりに参院選があり、その最中に前首相の銃撃事件があったのは、何だか不思議な巡り合わせだった。

 事件直後は、選挙演説中の政治家を銃撃することは「言論を封殺するテロリズムだ」といった言説がマスコミに流れ、多くの政治家もマイクを向けられるとそう語っていた。

 だが少しずつ伝わってくる犯人像は、どうもそうした政治的テロリズムのイメージと乖離しているようだ。自分の家族がある宗教団体のために不幸になり、その団体と前首相が関係していることから恨んでいた、という話などを聞くと、犯人には何か政治的な理念があるようには感じられない。

 それが筋違いや勘違いの逆恨みだとすれば不幸なことだが、そうでなくとも少なくとも自分の家族の不幸を一人の政治家に向けるのはどうみても現実的ではない。

 つまり彼が撃ちたかったのは、現実的な肉体や家族をもった一人の人間ではなく、彼の「観念」の中にしかない「悪」だったとしか思えない(もはや「観念」と言うより「妄想」でしかないが)。

 一方で、政治的テロリズムとしての確信犯もまた、やはりある観念としての「敵」を排除しようとしているのだとも言える。政治的テロリズムがしばしば「ジハード(聖戦)」の名の下に行われるのは、そうした観念が人を動かすことを示している。

 いずれにせよ、芥川の描こうとしたモラルの虚妄は、こうした現実の悲劇と根を同じくしている。


 「羅生門」の後は「現国」の教科書に戻って「〈私〉時代のデモクラシー」を読む。

 これもまた参院選の後に読むことが感慨深い。ここに提起された問題は、まさしく文章の内部で完結するわけではなく、まぎれもなく現実の、今ここで起こっている問題なのだ。


2022年7月9日土曜日

羅生門 19 モラル・にきび

 下人の現状認識は最初から観念的であった。「極限状況」は現実の問題でもあるはずなのに、それが小説中で肉体的な感触として描かれないことは、下人の現状認識が観念的であることの証左だ。

 だからこそ「飢え死にするか盗人になるか」という問題設定もまた観念的だ。飢え死にすることが選択肢になる時点で、それは差し迫ってはいないし、もう一方の選択肢である「盗人になる」=「悪」という選択肢は幻想でふくれあがっている。こんな選択肢の間で逡巡するようなアポリア(難問)は下人の観念の中にしかないことが、今や明らかになったのである。

 老婆の言葉は下人にとって決して新しい認識ではない。だがそれは最初、門の下で下人が抱いていた幻想が潰えた後であらためて確認される卑小な現実だ。

 だから「きっと、そうか」という念押しは、下人の苦い現実認識の確認だ。

 ここに付せられた「嘲るような」という形容について、「老婆の論理」の考察のくだりでは「正当化の論理が自分に向けられてしまうことに気づかない老婆への皮肉」として説明した。

 だがそれよりもむしろこれは、露わになった現実認識に対する不快の表れであり、幻想を見ていた自分に対する自嘲だと捉える方がしっくりいく。

 つまりこの嘲りは、矮小な悪の論理を語る老婆にのみ向けられたものではなく、まさにこれからそれをしようとする自らにも向けられているのである。


 あらためて、このような読解による「羅生門」とはどんな小説か?

 「羅生門」の主題とは何か?

 芥川本人による主題「moral of philistine」をどう考えたらよいか?


 「羅生門」とはつまるところ、空疎な観念による幻想から醒めて現実を認識する、である。

 芥川自身が「moral of philistine」について書きたいと言うのは、つまり世人の「モラル」に対する皮肉だ。「善」と「悪」をめぐる価値の対立こそ「モラル」である。だが人々の言う「モラル」など、頭の中にある図式に過ぎず、それが現実ではなく空疎な観念でしかないから「時々の情動や気分」に容易く左右される。

 下人の心に突如燃え上がる異様な「憎悪」を通して、我々の持っている「モラル」がそのような歪で浮薄なものに過ぎないことを描く。

 それこそが芥川の意図する「羅生門」の主題である。


 下人の頬の「にきび」はどう考えればいいか?

 「エゴイズム」論によれば、にきびが象徴するものは例えば、正義感、良心、道徳…といったところである。これらは、引剥ぎが「生きる為になす悪」を肯定する行為だとみなす主題把握と対応している。下人はモラルを棄てて、悪にはしったのだ。

 そしてここまでの結論でも、それを「道徳=モラル」と言ってもいい。ただし一般的解釈における「道徳」は「エゴイズム」に対立する、そのままのいわゆる「モラル」である。

 だが芥川の言う「ペリシテ人のモラル」とは、空疎な観念に根拠づけられた歪で浮薄な、いわば「反モラル」である。

 頬ににきびをもつ下人は空疎な観念に支配された人間であり、その象徴たる「にきび」から離れた下人の右手は、もはや阻むもののなくなった現実的な選択を実行にうつすしかないのである。


羅生門 18 答え合わせと検算

 「羅生門」の論理構造は次のようにまとめられる。












 この結論に基づいて、ここまで考察してきた問題を捉え直してみよう。

 物語の冒頭、門の下で下人の頭にあった「悪」はいわば観念としての、幻想として「悪」であった。冒頭の部分ではまだ、そのことはわからない。それはあくまで物語の結末から遡ってみてわかることだ。

 最初にそのことが読者の前に示されるのは、①「憎悪」の描写を通してである。

 授業で分析した①「憎悪」の描写は全て、対象となる「悪」が観念的であるということを示している。作者の形容はすべてそこへ向かって重ねられている。

 「むしろ、あらゆる悪に対する反感」という憎悪の一般化、抽象化は、憎悪の対象が具体的ではなく、実体のない幻想としての「悪」であることを表している。

 「それだけですでに許すべからざる悪であった」という独断的な決めつけも、「合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった」も、具体的な検証抜きに「悪」が認定されていることを表す。

 「もちろん、下人は、さっきまで、自分が、盗人になる気でいたことなぞは、とうに忘れている」のも、冒頭の問題設定がそもそも観念的だったからだ。「忘れる」ことは「もちろん」だ、というのは、現実に依拠してない難問を、下人が頭の中だけで弄んでいたことに作者が自覚的であることを示している。

 「この雨の夜に、この羅生門の上で」という読者には理解しがたい(だが微妙にわかったような気もする)条件が「悪」を認定する根拠となっているのもそれが気分的なイメージに過ぎないことを示している。そしてそれが「予断・先入観」であるということは、物語冒頭の迷いにおいて「正義」と拮抗していたのが既にそうした「観念としての悪」だったことを示している。

 そこに老婆という容れ物が形を与える。憎悪が燃え上がる。だがそれは実は幻想としての「悪」という観念に対する憎悪である。

 だからこそそれは、過剰になりやすい。観念は現実から遊離しているがゆえにしばしば激情を誘発する。イデオロギー闘争が激化しがちなのは、イデオロギーが観念的だからだ。

 老婆を取り押さえる時に下人を支配する勇気は、観念に支配された者の蛮勇だ。

 観念としての「b.悪」が幻想で膨れあがるとき、それに拮抗する「a.正義」もまた釣り合いをとるべく膨れあがる。それは内実を伴わない空虚な泡である。下人の憎悪は空疎な正義感を燃料として燃え上がる。下人は自分もまた盗人になることを迷っていたことなどすっかり忘れて、自分を「正義」の側に置いている。

 続いて「得意と満足」がおとずれる。その変化は、理由が明らかになる前に生じている。つまりそれは対象の善悪についての現実的・合理的な判断に基づいていないのである。その「満足」は、事態の根本的な改善には何ら関係のない自己満足だ。「ある仕事をして、それが円満に成就したときの」という奇妙な喩えにふさわしい内実はどこにも存在しない。

 現実に依拠していない激情は熱しやすく冷めやすい。老婆を取り押さえただけであたかもその「悪」が消滅したかのように冷めてしまう義憤も、対象となる「悪」が最初から空虚な幻想だったからだ。


 ここまでくれば先に保留した問いにも答えられる。

 なぜ下人は「老婆の答えが存外、平凡なのに失望した」か?


 先程は答えまでに距離があるからと保留にした問いだ。

 ここまでの展開で、「幻想としての悪が、つまらない現実の悪であることを知ったから」などと答えられるようにはなっている。

 だがもう一歩、それになぜ「失望」するのか?

 この「失望」は髪を抜くという行為に何か禍々しい理由があることを期待していたことの裏返しだ。これもまた、「悪」が幻想として膨れあがっていたことを示している。

 下人がなぜそれを期待していたかといえば、「悪」が大きいほどに、それに拮抗する自分の「正義」の幻想も大きくなるからである。

 「悪」が現実的な、卑小なものであることがわかると、幻想に拮抗して膨れあがった自らの「正義」もまた同様に萎んでしまう。

 「正義」の幻想に酔っていた下人はがっかりする。

 自分が正義であると信ずることは快感だったのだ。


 そして浮上してくるのは再び③「憎悪」だ。

 ①がふくれあがった幻想としての「悪」に向けられた燃え上がるような「憎悪」であるのに対して、③の「憎悪」は、その卑小さが露わになった現実的な「悪」に向けられた冷ややかな「憎悪」である。悪はここでは「憎悪」の対象であるとともに「侮蔑」の対象にもなったのだ。

 先ほどの①と③の「憎悪」の比較によって確認された共通点と相違点は、こうした差違を示している。

 そうした下人の変化がわかっていない老婆は、さらに自分が「悪」くないことを言いつのる。状況が現実的に認識されるにつれ、下人の心はいっそう冷めていく(老婆の話を「冷然として」聞く)。


羅生門 17 結論



 空欄に入る語は何か?

 あちこちで「主観/客観」を挙げる声が聞こえる。

 だが聞いてみると、①③のどちらが「主観」でどちらが「客観」かは、班によってさかさまだったりする。

 どちらでももっともらしい説明ができてしまうのだ。

 つまりこの対比は有効ではない。


 「抽象/具体」も挙がりやすい。①の突然一般化された「悪」は確かに抽象的であると言ってもいい。一方③の、理由を聞いて認識される「悪」は具体的な老婆の行為を指している。

 この対比は適切だが、ここから主題の把握には距離がある。こうした下人の認識の変化がどのような主題を構成することになるのか。

 ①には、例えば「イメージ」などの言葉が入りうる。「虚像」を上げたのはH組K君。こちらからは「幻想」も挙げた。

 その上で、最も適切な言葉は「観念」だと思う。

 高校生はこの言葉を決して想起しない。言葉としてはみんなも知っている。だが「語彙」というのは「知ってる言葉」ではなく「使える言葉」だ。「観念」という語彙は高校生にはない。

 「観念」とは何か?


 辞書的な意味を確認するより対比の考え方を用いる。「観念」の対義語は?

 だが通常「観念」の対義語は辞書にはない。

 むしろ「観念的」という形容で考えてみるとわかりやすい。空欄の下に「的な」をつけたのはそのための誘導だ。

 「観念的」の対義的な形容は「現実的」である。「お前の考えはどうも観念的で、ちっとも現実的ではない」などという。

 「観念」とは、頭の中だけに存在する現実離れした考え、というニュアンスで使われる言葉だ。「観念的」とは「頭でっかち」とか「地に足が着いてない」とか「机上の空論」といったニュアンスの否定的な形容だ。「観念的な議論はいい加減にして、現実的な解決策を探ろう」などという。

 これで結論は出る。


 下人が門の下で「勇気」を持てなかったのは、下人が「悪」というものに過剰な幻想を見ていたからである。

 それはいわば現実性を欠いた観念としての「悪」だ。

 「a.正義(飢え死に)/b.悪(盗人)」の拮抗状態からbに進めない理由は、bに進む抵抗が強かったからだ。それが、老婆の答えを聞いた後に弱まる。それは下人の「悪」に対する認識が「① 観念 としての悪」から「③ 現実 としての悪」に変わったからである。

 「羅生門」という小説は、ある幻想が消滅し、現実に覚める物語なのである。



2022年7月6日水曜日

羅生門 16 最終考察のヒント

 下人の「心理の推移」が、どのような論理によって引剥ぎという「行為の必然性」を導き出すのか?

 「老婆の論理」に拠ってだ、と考えるとそこで思考停止してしまうのだが、「老婆の論理」を否定して、「心理の推移」が「行為の必然性」にいたる論理を見出すことには、ある発想の飛躍が必要だ。

 これはやはり解くには難しい問いだ。

 少々誘導しよう。

 「なぜ引剥ぎをしたか」という問いは「なんのために引剥ぎをするか」という問いではない。「行為の必然性」とは変化の必然性のことだ。すなわち、「なぜできなかった引剥ぎができるようになったのか」である。

 ここから問いを「なぜ門の下では盗人になる勇気が出ずにいたのか」と置き直しておこう。問題は二つの位相の相違と、それを生じさせたメカニズムである。

 

 さて、門の下で下人の中にあったのは、どのような論理・価値の拮抗か?

 具体的には「a.飢え死にをする/b.盗人になる」という選択肢の間での逡巡だ。

 これを抽象化する。

 「死/生」が挙がるが、下人は「死」を選択しようとしているわけではない。

 選択すべき価値としては「善/悪」も悪くないが「a.正義/b.悪」がいいだろう。

 最初の時点で「a.飢え死に/b.盗人」は拮抗している。この拮抗のバランスは、途中完全にa「飢え死に」に傾く。

下人は、なんの未練もなく、飢え死にを選んだことであろう。

 そして最後には完全にb「盗人」に傾く。

飢え死になどということは、ほとんど考えることさえできないほど、意識の外に追い出されていた。

 つまり最初の「a.正義/b.悪」の拮抗は一度完全にaに振り切れ、その後完全にbに振り切る。この変化は極端である。

 「老婆の論理」説は最後にbを選ぶ必然性を説明しているだけで、途中で一旦aに振り切る極端な変化はなぜ生じているのか、なぜそのことを執拗に書くのかという疑問には答えていない。

 最初の拮抗は、確かに拮抗してはいるのだが、現状はaでありこのままでは「飢え死に」してしまう。下人にとってはbを実行できるかどうかが問題だ。

 最初bに進む勇気が出なかったのはなぜか?

 最初にbを実行できないでいた理由としては、論理的にはaの引力が強かったからか、bの抗力が強かったから、の二択だ。

 「盗人」になるのをためらっていたのはa「正義感」が強かったからか、b「悪」に抵抗を感じていたからか?

 盗人になることを妨げていた下人の「a.正義」が力を失ったことで盗人になれたのか、「b.悪」に対する抵抗が弱まったことで盗人になる「勇気が生まれてきた」のか?


 手がかりになるのが先の「心理の推移」の考察の際に確認した①の「憎悪」と③の「憎悪」の比較だ。

 最初の迷いからaに極端に振れてしまったところに①の憎悪が生じている。

 そして、③の憎悪の後にbに振れる。

 ということは、先に考察した①と③の相違が、aからbへの変化に対応しているのではないか?


 ①と③の相違を次のように整理する。
















 この比較を可能にするために「共通点」を確認することが必要だったのだ。

 先の「相違」が示す相違を、その対象の違いとして表現する言葉を探すのである。

 問題は下人の「悪」に対する認識の変化である。

 大詰めだ。

 下人はなぜ引剥ぎをしたのか?


羅生門 15 「前の憎悪」

 老婆の答えを聞くと、下人はなぜかそれが平凡であることに「失望」する。それとともにまた再び「憎悪」が浮上してくる。

 さてここで分析したいのは①「憎悪」と③「憎悪」の比較である。

 両者の共通点と相違点は何か?


 比較するためには共通性が前提となるのだが、みんなには相違点を挙げる方が容易だ。

 では相違点は何か?

 ①が、老婆の行為の理由がわかる前に生じた「憎悪」であるのに対し、③は、わかってから生じた「憎悪」である。また、①が「あらゆる悪に対する」という、奇妙に拡散した対象に向けられているのに対し、③は老婆という限定した対象に向けられている。

 対象が「不特定」(一般化)か「特定」(限定的)か

 また、①が燃え上がるような「憎悪」であるのに対して、③の「憎悪」は、「冷ややかな侮蔑」とともにある。

 「熱い憎悪」と「冷たい憎悪」

 こうした差異は何を示しているか?


 一方、共通点は何か?

 「また前の」という形容がわざわざ付されているのは、①の「憎悪」を受けていることを示している。そう書く意図があるはずなのだ。それが何であるかを理解しなければならない。

 だがこれを言葉にするのは難しい。聞いてみるとあっさり出てくることがある一方、なかなか出てこないで時間がかかる場合もある(各クラスでこれを答えた者たちは自慢して良い)。

 実は拍子抜けするほど簡単な答えだ。

 共通点は、どちらも「悪に対する憎悪」だということである。

 このことをなぜ確認する必要があるかというのは、最終的な考察で明らかになる。


 先に言及された「嘲るように」「かみつくように」についても注意を促しておきたい。

 「嘲る」は一般的には先に触れたように、老婆の自己正当化の論理が自分に対する害をも容認することに老婆自身が気づいていないことを嘲っているのだ、などと説明される。

 だがこの形容が③の「侮蔑」と響き合っていることを認めるならば、この説明を受け入れることはできない。「侮蔑」は老婆の長広舌を聞く前だからだ。

 そして「かみつくように」という老婆に対する敵意は「憎悪」から続いていると考えてもいいはずだ。

 したがって、「嘲る」にせよ「かみつく」にせよ、老婆に対する下人の感情は、老婆の長台詞の前にその要因が準備されていると考えられる。


 ここまで見たような念入りに書き込まれた不自然は、それがこの小説にとって意味のあることだということを示している。


 「引剥ぎ」という「行為の必然性」は、従来「極限状況」と「老婆の論理」によって説明されてきた。

 「行為の必然性」は、先に確認したように「変化の必然性」だから、これは物語の構造を次のように捉えていることになる。




















 だが「行為の必然性」は脆弱な「老婆の論理」に拠るのではなく、「心理の推移」によって準備され、その論理的帰結によって導かれている。












つまり


 










という論理の中で捉えられるべきである。

 とすればその論理とは何か?


羅生門 14 「得意と満足」「失望」

 次に、文中には言及されない「勇気」が湧いて、下人は老婆を取り押さえる。その後におとずれる②「安らかな得意と満足」もまた不自然だ。

 どのように?


 この「得意と満足」は「老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されているということを意識した」からだと言われているし、「ある仕事をして、それが円満に成就したときの」という形容がついている。

 説明はされている。にもかかわらずちっとも腑に落ちない。そんな場合か、と思う。この脳天気さは到底「極限状況」に置かれた者の心理ではない。

 これは老婆の行為を「悪」と判断する理由が「雨の夜に」「羅生門の上で」と述べられることに似ている。書いてはあるが、どうしてそれが理由になるのかが読者にはわからない。読者にわからない理由が、わざわざ挙げられている。

 だがもっと明確にこの不自然さを指摘しよう。

 ②「安らかな得意と満足」が不自然だと感じられるのは、何より前に「得意と満足」が生じているからか?

 当然あるべき何がないことが不自然なのか?


 ①「憎悪」で言及された「なぜ老婆が死人の髪の毛を抜くか」という疑問が解消していないこと、である。

 下人は「何をしていた」と問うが、老婆の答えを聞く前に「満足」している。

 これもまた、①「憎悪」の分析と対になっている。「悪」であると判断する合理的理由はないまま断定して燃え上がった「憎悪」は、その理由についての疑問が氷解する前に消滅する。

 つまり、髪の毛を抜く「理由」が「憎悪」の当為を支えるものではないということだ。

 このことが意味するのは何か?


 次の③「失望」ももちろん不自然だ。

 この「失望」から何が考えられるか?


 この「失望」も読者の自然な共感・理解を超えている。だから「なぜ下人は失望したか?」と訊きたくなるが、この問いでは答えまでの距離が遠すぎる。

 まずこう考えよう。この記述を反転させるとどうなる?


 「平凡」であることに「失望」しているのだから、下人は「非凡」な答えを「期待」していたことになる。

 では下人はなぜ「非凡であることを期待する」のか? そして「非凡」な答えとはどのようなものか? というより、このことは何を示しているか?



羅生門 13 不自然な憎悪

 下人の「憎悪」は確かにおかしい。よくわからない。

 といって完全に理解することができなかったら、これはもっと読者の注意を引くはずだ。下人の「憎悪」を読者はそれなりに了解してもいる。

 死体の髪の毛を抜くことはなぜ悪いのか? とりあえず読者はどう理解しているのか? 通読したときには自分はどのように理解したのか?


 「他人のものを盗むのは良くないことだから」ではない。本文には「下人には、もちろん、なぜ老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。」と書いてある。下人は老婆の行為を「盗み」だと判断して「悪」と決めつけているわけではない。


 とりあえずこんなふうに言えればいい。

 死体の損壊を、死者への冒瀆と感じて憤っているのだ。

 だがこうした理由は、この「憎悪」の不自然さを解消するだけの納得をもたらさない。

 そんなことを感じていられる状況ではなかったはずだ。下人は生きるか死ぬかという状況ではなかったか、羅生門は死者が投げ捨てられるのが日常化するほど荒れ果てた場所ではなかったか、そんな状況で今更死人の髪の毛を抜くことに、突如「憎悪」が燃え上がってしまうというのは当然のことなんだろうか、そんな当惑を読者に残す。

 だからこそ、ここには「極限状況」などないのだ、とも言えるのだが、ともあれ読者はこの「憎悪」に違和感を感じつつも、下人が老婆を「悪」と決めつける判断は全く理解不可能というわけではないから、この「憎悪」の不自然さがどのような意味をもっているかを本気で追究することから巧妙に目を逸らされている。

 読者が先回りしてこうした推測でひとり合点する一方、下人にはそれを判断することはできない、と作者はわざわざ明言する。

 では作者は下人が判断した根拠を何と書いているか?


 かろうじてそうと認められるのは「この雨の夜に、この羅生門の上で」だ。なおかつ「それだけで既に許すべからざる悪であった」という、これもまたよくわからない断定がなされている。

 だが一方で半ばはわかるような気もする。確かにそれは不気味な雰囲気を醸し出している舞台設定だ。何か不穏なことが起こっていてもおかしくはない、といった読者の曖昧な納得を誘導する。

 これは上記の、下人が老婆の行為を悪と判断した理由を読者が先回りして推測してしまうことと似ている。

 といってそもそもこれが悪と判断する根拠なのかどうかも、文脈として明示されているわけではないから、厳密に問い質そうとすると「そんなことは言っていない」と作者は身を躱す。が、改めて考えてみればやはり変なのだ。


 さて、この表現には見覚えがないだろうか?

 注目すべきは、この表現が羅生門の上層に上る途中にも見られることである。

この雨の夜に、この羅生門の上で、火をともしているからは、どうせただの者ではない。

 この反復は何を意味するか?

 こう言ってみよう。


 これは、下人には   があったことを示している。

 さて空欄には何が入る?


 「思い込み」「前提」あたりが出てくれば上出来。

 「先入観」が出ればOK。

 「予断」が思い浮かんだら大したもんだ。高校生からは出てこない語彙だ。

 つまり下人は既に老婆の行為を目撃する前に、それが異常なことであると決めつけているのだ。

 そしてその予断の根拠となる「この雨の夜に、この羅生門の上で」がなぜ根拠となるのか読者にはわからない。


 下人の「憎悪」は、老婆の行為を「悪」と決めつけるために、読者がかろうじて了承できるような理解(「死者への冒瀆」)の余地を残しながら、一方でそうした納得できるような理由は注意深く否定され、代わりにによくわからない理由(「雨の夜に羅生門の上で」)が置かれる。読者は居心地の悪い宙吊り状態におかれる。なのに、とりあえずの納得もできるから、それ以上には考えようとしない。

 だが注意深く読むと「憎悪」についての描写、形容は、相反する方向に引き裂かれて、ねじれている。この不自然さは、下人の心に生じた「憎悪」が読者にとって共感できないという意味でも不自然だが、それだけではなく、こうした情報をどのような論理に組み込むべきかがわからないことが、この部分を「不自然」と感じさせている。下人の心理が共感しにくいという以上に、それを不自然に描こうとする作者の意図がわからないことが「不自然」なのである。

 こうした分析は、すべて「行為の必然性」につながるべきであり、その論理の中でこうした違和感を感じさせる表現がなぜ必要なのかは明らかにされねばならない。


2022年7月5日火曜日

羅生門 12 「憎悪」の不自然さ

 「羅生門」の顕著な特徴である執拗な心理描写を有意味化し、そこから「行為の必然性」を導き出す論理を見出す。

 まずは下人の心理の読み取れる表現を、物語の時系列順に本文中から挙げてみよう。

  • 「Sentimentalisme」(→「憂鬱・感傷」など)
  • 「下人の考えは、何度も同じ道を低回したあげく」「勇気が出ずにいた」(→「迷い・逡巡」など)
  • 「息を殺しながら」「たかをくくっていた。それが」「ただの者ではない」「恐る恐る」(→「慎重・不審・緊張」など)
  • 「六分の恐怖と四分の好奇心」
  • ①「老婆に対する激しい憎悪」「あらゆる悪に対する反感」
  • ②「安らかな得意と満足」
  • ③「失望」+「前の憎悪」+「冷ややかな侮蔑」
  • 「冷然と」
  • 「(盗人になる)勇気」
  • 「嘲るように」「かみつくように」(→「老婆に対する反感・敵意」など)

 明らかに、問題は①の「憎悪」からだ。

 この「憎悪」に、読者はついていけないものを感ずる。どうみても不自然だ。解釈と納得が要請される。解釈を言葉にするのは容易ではないが、取り組む意義はある。この部分の考察こそが「羅生門」理解の鍵となるはずなのだ。

 考察にあたって「この時の下人の気持ちを考えてみよう」などと問うつもりはない。考えるべき焦点がまるで見えてこない。

 「なぜ憎悪が湧いてきたか」も難しい。書いてあることは指摘できる。だがそれが腑に落ちないからこそ、それについて考えようとしているのだ。

 そもそも読者はこの「憎悪」に共感することができずにいる。だから自分の心を探って、それと照らし合わせて推測することができない。これでは「わからない」というしかない。

 「憎悪」をめぐるあれこれの描写や形容を分析するのだ。

 だが、「分析」というのが何を考えることなのか?


 そこでこう問う。

 読者が①「憎悪」の描写に感ずる不自然さはどこから生じているか?


 分析というのは、ある種の抽象化をすることだ。そしてこれができることが「説明」という行為にとって欠かせない条件となる。

 「どこがおかしいか?」と問うたとき、本文の一節をそのまま引用して「だからおかしい」と言ったのでは「説明」にならない。それが「おかしい」というのがどういう論理に基づくのか、一段抽象度を上げる。

 こういうときにも「対比」の考え方を使う。どうだったら「自然」なのか、どうでないから「不自然」なのか、という説明を考えるのだ。


 各クラスの授業で皆から提示されたのは次のような諸点。

  • 激しすぎる。過剰
  • 憎悪の対象がなぜか一般化する。
  • 自分に害があるわけでもないのに憤っている。
  • 自分が盗人になるかどうか迷っていた事実が棚上げされている。
  • 老婆の行為の理由がわかっていないのに「悪」と決めつけている。

 これらの特徴は、相反する方向性をもっている。

 対象の一般化や自分が害を受けないことや理由の不明といった特徴は、その「憎悪」が激しいことに反している。「憎悪」すべきことが納得されれば激しいのも当然だと思えるかもしれないがそうした納得はない。だからこそそれが「過剰」だと感じられるのだ。こうした矛盾する方向性が、この「憎悪」を不自然だと感じさせている。

 下人の「憎悪」は不合理である。作者はそうした不合理を充分承知の上であえてそのことを読者に明言してみせる。

従って、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。

 悪であるとする理由がわからないまま下人が「憎悪」する不自然さに作者は意識的であり、なおかつ意識的であることを読者に伝えようとしているのである。


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