2022年12月15日木曜日

視点を変える 4 少女たちの「ひろしま」

  さて「木を見る…」と、教科書のいう「関連教材」、「少女たちの『ひろしま』」をどのように読み比べるか?

 まず、両者の主旨を、共通する一文で表現してみよう。関連しているとは、共通部分があるということだ。

視点を変えると物事は違って見える。

 だいたいこんな言い方になるはずだ。これをスキーマとゲシュタルトという語を使って言うと?

スキーマが変わると違ったゲシュタルトになる。

 「スキーマ」と「ゲシュタルト」という言葉がどんな概念なのか、だんだんつかめてきたろうか。

 「スキーマ」とは言ってみれば「見方」のことで、「ゲシュタルト」は「見え方」だ。見方を変えると見え方は変わるのだ。


 さて、そうした言い方では、両者は共通しているが、では、それぞれの文章は、具体的にはどのように見方を変えると、どのように見え方が変わると言っているのか? 両者に相違はあるんだろうか?

 対応している要素を比べてみよう。

 だが何を比べるのか? 何と何の「対応」を比較するのか?


 こういう時には例によって対比を捉える。

 ただし今回の対比は「対立」ではなく「並列」だ。

 対比の多くは「対立」だ。「AではなくB」というとき、「A/B」は対立構造にある。Bのことを言いたいときに、Aを対立項として比較することでBの輪郭が明確になる(こうした対立構造もスキーマのひとつ)。

 一方、複数の項目をそれぞれ対等に扱うのが「並列」や「類比」だ(「並列」と「類比」の違いはまたいずれ)。

 今回の「視点を変える」では、どのような「視点」なのかを対比的に捉えよう。


 「木を見る…」では「視点」の「角度」と「倍率」を変える、と述べられている。対比としては「角度」についての言及は少ないので割愛して「倍率」の方のみ書き出してみる。

  全体/一部

遠くから/近づいて

 ひいて/寄って

といったところか。

 一方、見え方がどう変わるかといえば、「全体」を見るときには「まとまり」として見るのだと言っているが、それに対比される「一部」を見るとにどう見えているかは詳述されていない。「葉っぱの一枚一枚」「瞬間ごとに移りゆく模様」「光と影のゆらめき」といったイメージは提出されているが、それを抽象化した言葉が見つからない。むしろ「アリの目に世界はどう見えているか」と、疑問を呈して終わっている。


 さて問題は「少女たちの『ひろしま』」の方だ。ここではどのような「視点」が対比されているか?

 これは簡単にはいかないはずだ。一単語の対比で済むわけではないし、文中から容易く抜き出せるものでもない。いろんなレベルの表現を重ねることで、しだいにその視点の違いが捉えられる。

 対比が「視点(スキーマ)を変える」と「見え方(ゲシュタルト)が変わる」のどちらなのかを考えながら挙げてみよう。

 例えば

暗い/明るい

という対比が挙がるが、これはそのように視点を変えたというより、ある視点から見たときの印象の違いを表している。

 ではどのような視点の違いがここでは対比されているか?

 対比を挙げる時は、概念レベルを揃えよう。例えば名詞、動詞、形容詞などと品詞を揃えるとか。なるべく。

 一人三つ以上、班で5~6個、などと言ってみると、クラス全体では十数個の対比的な表現が挙がってくる。そのようにいくつもの言葉を重ねることで、視点の違いによる見え方の違いが捉えられてくる。

  歴史/生活

  戦争/日常

  悲惨/美しい

  史料/日用品

 これをひとつなぎにしてみると、「歴史」といった大きく物事を捉えようとすると、その服は「戦争」の「悲惨」な爪痕を示す「史料」と見えるが、一「生活」者の視点から見ればそれは戦時下を生きる少女たちの「日常」を想起させる「日用品」として「美しい」ものに見える…。

 実は挙げてみると、思いのほか「見方」と「見え方」の区別は明確ではない。「戦争」は「見方」か「見え方」か。どちらともいえる。「歴史」とか「政治」とかいうスキーマで見たときにそれが「戦争」というゲシュタルトを現すのだと言ってもいいし、「戦争」というスキーマから見たときに、服が「悲惨な過去」を示す「史料」として見えると言ってもいい。

 クラスによっては面白い対比が提起されたりもした。

  作家/一女性

 という対比は、まさしく視点の違いを指摘している。これは筆者・梯さんの中の視点の対比だが、これを

 梯さん/石内さん(写真家)

 という対比で表現した人もいた。なるほど。梯さんには服が「悲惨な戦争の史料」に見えているが、写真を撮った石内さんは「若い娘の密かなおしゃれ」として見ている。その時、その服の主は、

 被爆者/一少女

としてその姿を現す。


2022年12月4日日曜日

視点を変える 2 認識とは

 「木を見る、森を見る」はまた、授業の考察内容とも共通した趣旨が述べられている。茂木も小林も授業の一環で読んだのだから、まあそれを扱った授業の内容と重なってくるのは当然だが。

 さて、「夢十夜」の授業ではどんな考察をし、それが「木を見る」のどんな論旨と重なるか?


 あまりにあてもないと考えようがないので、「第一夜」の最初の2時限だ、と誘導した。教えられる前に気づいた人は偉い。

 茂木・小林の文章は4回目あたりに配ったものなので、その前、「形容と描写を抜く」の前だ。授業ではどんな問いを発して考えさせたか?

「主題」を考えることと「要約」することはどう違うか?

「物語」とは何か?

 これら二つの問いによって、もっと大きな枠組としては何について考えたか?


 「第一夜」に入って繰り返してきたのは次のような問いだ。

「小説を読む」とはどういうことか?

 上の二つの問いに対する考察から、この問いについてどのような知見が得られたか?

 一方で「木を見る、森を見る」の何をこれと重ねることができるか?


 「木を見る、森を見る」からは次の問いに対する答えを抽出すれば良い。

「ものを見る」とはどういうことか?

 

 実は「小説を読む」と「ものを見る」を重ねることは、上記の、茂木・小林との比較でも考えたことだ。「見る」ことは「要約」と「視覚的アウェアネス」の両面があり「小説を読む」もそうだ、という。

 だが「第一夜」の最初の2時限はまだ「視覚的アウェアネス」の面について考察する前の部分だ。そこではどんなことを考察したか?


 さて、もう一つ条件をつけた。「ゲシュタルト」と「スキーマ」という語を使え、という条件だ。この際だからこの二つの心理学用語を使い回して、その概念を自分のものにしよう。使える語彙は多い方が良い。


 重ねる上での見当をつけるために「小説を読む」と「ものを見る」に共通する、一段抽象度の高い言い方をしておく。

 こういう時に適切な表現を思いつくかどうかが、何度も言っている通り国語力の高さを示す。各クラスでそれを指摘できた人は偉い。


 両者は「認識」という言い方で重ねることができる。つまり「物事を認識するとはどういうことか?」という問いに、「ゲシュタルト」と「スキーマ」という語を使い、それを、一方では「第一夜」の考察結果から、一方では「木を見る、森を見る」から、適切な具体例を挙げて説明すれば良い。


視点を変える 1 木を見る、森を見る

 新シリーズ「視点を変える」に入る。

 これは教科書冒頭の単元名だ。国語の教科書の「単元」というのが何を意味しているかはよくわからない。何となく共通したテーマがあるということなのだが、といって読み比べに有効なほどの関連性は想定されていない。それができたのは唯一「共に生きる」だったので、そこから今年度の授業を始めたのだった。

 この「視点を変える」も、三つの文章をまとめていて、それなりには「視点を変える」というテーマが共通しているとは言えるが、どうも有効な読み比べの見通しが立たない。

 それよりも教科書の目次を見ると「視点を変える」の第一編、つまり教科書冒頭教材の「木を見る、森を見る」と、教科書後半の「鳥の眼と虫の眼」というのが、題名からすると関連づけられそうだ。「見る」と「眼」だし、「木/森」と「鳥/虫」という対比も重なりそうだ(ところで「鳥の眼と虫の眼」が収められている単元は「近代の先へ」で、あとの二編は「暇と退屈の倫理学」と「〈私〉時代のデモクラシー」なのだ。その二編とのつながりはあるんだろうか?)。


 さてそう思って「木を見る、森を見る」の第一頁を開くと、「関連教材」として名を挙げられているのは豈図らんや「少女たちの『ひろしま』」という教材なのだった。教科書編集部の設定する「関連教材」としては前に「多層性と多様性」と「暇と退屈の倫理学」をつなげたことがあったが、まあ確かに「関連」はしているものの、それほど有効な読み比べができたわけでもなかった(それに「関連教材」だというのならなぜ同じ単元に収録しないのだろう?)。

 さて「木を見る、森を見る」と「少女たちの『ひろしま』」はどうか。


 だがその前に、「木を見る、森を見る」を読むと、新シリーズと言いながら、ここまでの授業ともつながりがあることに気づく(気づいてほしい)。

 どこが、何と?


 あまり遠い過去の話ではない、最近の授業だと誘導して、多くの者が思い至る。茂木健一郎の「見る」はそのまま「見る」で共通しているではないか。ということは小林秀雄もつながるんだろう。そういえばどちらも絵画を見ることが話題になっている。

 具体的に本文を引用しながら、対応していることを示すよう指示し、あちこちから共通した趣旨と考えられる記述が見つかった。

デッサンでは、物を「何か」として「認知」する前の一次的な視覚情報、すなわち「知覚」を描こうとする。まとまりではなく、部分に注目するということだ。でも部分だけに注目して描いていると、全体のプロポーションにひずみが出やすい。だからときどきキャンバスから離れて全体を確認する。

 上の一節の 物を「何か」として「認知」する が茂木の「要約」に、 「認知」する前の一次的な視覚情報、すなわち「知覚」 が「視覚的アウェアネス」に対応している。デッサンでは視覚的アウェアネスを描こうとするが、バランスを見るために、ときどきは離れて「要約」することも必要だということだ。

 茂木の「要約」は小林の「言葉に置き換える」に対応しているのだったから、画家は言葉にならない見たままの「花の美しさ」を描こうとしているのだという小林の趣旨はそのまま上の一節と重なる。

私たちは、いったん「何か」としてまとまりで認知すると、細かい部分を見落としがちだ。

の 「何か」としてまとまりで認知する が「言葉に置き換える」だから、それを「菫の花だ」と言ったとたんに、花の美しさを見なくなる、つまり 細かい部分を見落としがち になるのだ。

目に入るものを常に「何か」としてラベル付けして見ようとする、人間の認知的な癖

 の 「何か」としてラベル付け(する) はもちろん「要約」であり「言葉に置き換える」だ。


 共通していることを示すには、対応する表現を同じ文型に置いて並べるといい。

 狙ったわけではないが「夢十夜」の後に「視点を変える」シリーズに入ったら、はからずも同じ論旨の文章が並んだのだった。


要約というトレーニング

 「現代の国語」教科書に収録されている文章で、今年度の授業で扱えるかどうかが微妙で、しかし読まずに済ますのは惜しい、という文章について、要約することを家庭学習課題とする。

 国語の現代文分野は一般に、学習の方法がわかりにくい科目だと言われている。それは理科や社会や英語のように「覚える」ことが即勉強であるような科目ではなく、数学のように問題演習が有効かどうかもわからないからだ。国語科でも漢字や語句や古典分野には覚えることがそれなりにあるし、問題演習は、とにかく慣れるために有効だ。現代文分野も慣れるための問題演習はそれなりに有効だが、その効果が実感しにくいために「勉強の仕方がわからない」という世人の嘆きとなっている。

 とりあえず、それなりに手応えのある文章を読むだけで学習になっているのだが、それをより有効にする場が授業だ。読んだことについて他人と語るという状況が、読むことに明確な目標を与える。一人で読むのなら、いくらでも頭を弛緩させることができてしまう。わかろうがわかるまいが「流して」しまえる。だが自分で何かを語るとなれば否応なく頭を使わざるを得ない。発信が厳しく求められる授業が最良の学習の場なのだ。

 出来合いの問題集や大学入試の過去問などの問題演習も、意味はある。頭を使わざるを得ないという意味では。ただ、テスト問題というのは、「正解」を設定せざる得ないから、考えるべきことが狭く限定されていて、授業ほど多様な階層の思考をする余地がない。

 したがって、入試問題の演習をするような塾・予備校の現代文の授業は、それが一方的に聞いているだけのものならば、解説の充実した問題集で問題演習をする以上の意味はない。


 話が迂回したが、独りで行う現代文の学習として最も有効なのが要約だ、という話につなげたかったのだった。

 文章の要約というのは、独りで行う現代文の学習方法として、最も包括的・総合的で確実に効果的な方法だ。

 要約は、それをしようとし、実際にできたことが目に見える形になる。時間がかかったり、あまり適切でなかったとしても、要約文を書くことはできる。「理解する」という入力で終わる学習は形が外に表われないので手応えがないが、要約という出力まで求められる学習は手応えがある。

 文章を要約する過程では、言語を用いたさまざまな思考が必要になる。文章の枝葉や幹を見分け、文章中の各部分を相互に関係づけることで有意味化し、文章全体の構造を把握したうえで、そのエッセンスをすっきりとわかりやすい文章にまとめる。国語力を高める練習として必要な要素の多くが一連の過程に詰まっている。


 今回の課題では一橋大学の大問3にならって、200字に要約する。

 200字というのは絶妙な長さだ。読解力と文章表現力がともに高いレベルで問われる。

 良い要約文は次の条件を満たしているものをいう。

  • 原文の内容と合致している。
  • 原文の内容をバランスよく含んでいる。
  • 日本語として自然に読める。

 とりわけ大事なのは三つ目の「自然な文章であること」だ。

 100字では、本当に核心部分を語ることしかできない。ある意味で、掬えない内容については諦められる。

 400字あれば原文の内容をあれこれと盛り込むことができる。要約文の長さにも余裕があるから、それほど表現の細部に気を遣わなくても書ける。

 それに比べて200字は、あれこれと内容を盛り込むことができて、かつ表現を切り詰めないと収まらない。原文のあちこちを接ぎはぎしたような文章では日本語として不自然になってしまう。自分で文章を書き下ろすしかない。内容を精選して、重複しないように、読みやすい自然な日本語の文章にする。

 高い読解力と表現力が必要だ。


 具体的方法として、次のように進めるとよい。

  1. 読み進めながら、自分の読解力・把握力の限界がきそうなところで一旦切って、そこまでを一文にしてみる。
  2. 先を読み進めながら上記と同じように次の文をつくる。その際、前の文とどのような関係になっているか把握できているか自覚する。
  3. 最後まで読み進めてから、できた文を通読し、中心的な内容を一文で考えておく(書いても良いが書かなくても良い。できあがっている文の中に「中心的な内容」といえる文があるかもしれないが、ないかもしれない)。
  4. 全体をあらためて3~4文に再構成する。

 問題は「自分の読解力・把握力の限界がきそうなところ」の見極めができるかどうかだ。最初から文章全体の4分の1くらいずつが把握できていれば、それで4文ができあがる。あとはそれをもとに調整して200字におさめればいい。上記の3と4にそれほどの飛躍がない。

 それが、3の段階で5文以上になっている場合は、そこまでに既に時間がかかっているだろうし、再構成にも時間がかかることになる。

 場数を踏んで慣れてほしい。


2022年12月3日土曜日

問いを立てる

  テストの後、出題した問題の文章について再考した。

 出題した小坂井敏晶の文章は、去年までの1年生の「国語総合」には、またとびきり読解しがいのある文章が載っていたのだが、今年の「現代の国語」には載っていない。

 高1に不適切なほど難しい文章なのは申し訳ないが、これもまた4月から考えてきた「近代的個人」への疑い、という趣旨の文章のひとつではあるのだった。

 テスト問題について再考するのも、全体の構造を捉えるために、キーワードを探したりするのも楽しくて有益な議論になったが、「問いを立てる」という課題もまた有益だという手応えがあった。

 4月から度々、「問いを立てよ」という問題提示をしている。

 評論の読解のためには、その文章の筆者がどのような問いを立てているのかを、結論から遡って明確にする。この文章はどのような問いを立てているか?

 小説では、読者がその小説を読解するために考えるべきことを明確にするために問いを立てた。「羅生門」では「下人はなぜ引剥をしたか?」だ。


 さらに今回の課題では、単に「わからない」と感じているはずの文章のどこが「わからない」かを明らかにしろ、という要求をした。

 「どこがワカラナイかがワカラナイ」というありがちな嘆きは人情としては共感できるが、そんなことを言ってないで、とりあえず問いを立ててみて、答えられそうなら次の問いに進めばよい。

 「ワカラナイ」ことを明らかにしようとすることは、「わかった」ことと「わからない」ことを切り分け、「わかった」ことの領土をひろげていこうとする思考だ。

 「問いを立てる」という課題は、それ自体が、深いところまで読解を促そうという試みなのだ。

 まあ確かにこの文章はいかんせん難易度が高く、どこもかしこも「ワカラナイ」とこだらけだとも言える。だから「なぜ~だと言えるのか?」とか「~とはどういうことか?」という問いは量産できる。それでもいい。それがなぜ「ワカラナイ」のかを考えているうちに、いつしかわかってしまうかもしれない。それも狙いのうちだ。

 また、これはという文章を扱ったときには同じような課題を課してみよう。


 気になったのは、なぜそれが疑問なのかを説明する文中に「矛盾」という言葉が頻出したことだ。こちらでは「責任は個人に内在する」と言っているが、ここでは「責任は個人に内在しない」と言っていて矛盾している、それはなぜか? などと。

 それらの多くは「矛盾」ではない。

 文章内にはそもそも対比がある。自分の言いたいことを明らかにするため、それと対立した見解が文中に語られるのは当然だ。それらを取り上げて「矛盾」と言うのは、単に文章の構造が把握されていないだけだ。対比構造を捉えていれば「矛盾」でもなんでもない。

 そうではなく、構造的に同一側に置かれている見解に食い違いがあるようなら「齟齬がある」「乖離がある」「相反している」などと言いようはある。


 さて、8クラス中で最も真摯な考察をした上で疑問を呈したのはB組のMさんの班だ。

 「行為が決定論的に生ずるかどうかは責任と本来関係ない」のはなぜか?

 これはまさに問うにふさわしい、すぐには腑に落ちにくい一節だ。他にこれを挙げた班はなかったのだが、ではみんなはこれを疑問に思わなかったかといえばそんなことはありえない。これを問いとして立てたMさんの班はその「わからなさ」に真摯に向き合ったことは、下の考察からもひしひしと感じられる。

 近代社会では、個人には自由があり、その自由意志が行為を起こすため、その行為の結果に対しては個人が責任を負う必要があるという論理が成り立っている。決定論は自由の否定であると考えられるため、「行為が決定論的に生ずるかどうかは責任と本来関係ない」は「行為が自由意思によって生ずるかどうかは責任と本来関係ない」と言い換えられる。しかし行為が自由意思によって生ずるかどうかは責任と大いに関係しているように思われる。なぜなら、個人→自由→行為→結果という一連の因果関係の一部である自由→行為(自由意思が行為を起こす)が成立しなければ責任を個人に負わせることができないからだ。「行為が~本来関係ない」以前の本文では「行為が自由意思によって生じない」と結論付けたうえ、「なら、責任をどう考えるべきか。」と問題提起し、直後の段落で偶然の導入を用いてその問題に対する検討までしている。しかしすぐに「このアナロジーは的外れだ」と述べ、「行為が~本来関係ない」へと論を急転させている。「このアナロジーは的外れ」な理由として「人間は自己の行為を~制御できるのか」という点を指摘し、さらにその後「偶然生ずる行為」には責任を問えないと主張してはいるが、これらに素直に納得し「行為が~本来関係ない」を受け入れることは難しい。また「行為が~本来関係ない」直後の本文において、ギリシャ哲学やキリスト教においては社会や神によって罰が要請されていたと説明があるが、それがなぜ「行為が~本来関係ない」につながるのかわからない。このように難解な点が多かったため、私たちの班では『「行為が決定論的に生ずるかどうかは責任と本来関係ない」のはなぜか?』について議論した。その結果、この問いの「本来関係ない」の「本来」はギリシャ哲学やキリスト教に基づいて罰が下されていた時代を指すのだと考えた。その時代では、大した根拠なしに犯罪を象徴する責任者を選び、罰を下すことで社会秩序を回復してきた。このような時代において「責任」は存在するが、「責任」を導くまでに自由意思と行為の因果は用いられていない。ゆえに「行為が決定論的に生ずるかどうかは責任と本来関係ない」と言えるのではないかと考えた。するとこの問題は本文全体に関わる重要な問いに思える。そのため、クラス全体で議論したい。


 残念ながら議論する時間がとれなかったが、これは本当に考えるに価する問いだし、しかも上の考察は既に実によく考えている。ただ下線部の

決定論は自由の否定であると考えられるため、「行為が決定論的に生ずるかどうかは責任と本来関係ない」は「行為が自由意思によって生ずるかどうかは責任と本来関係ない」と言い換えられる。

は飛躍があってわかりにくい。「決定論的に生ずる」がなぜ「自由意志によって生ずる」に言い換えられるのか。「決定論」と「自由意志」は完全に対立項目なのに。

 「行為が決定論的に生ずるかどうかは責任と本来関係ない」は「行為が仮に決定論的に生じたのだとしても責任を問うことはできる」という意味だ。行為が自由意志に基づいていなければ責任を問えないという前提に立てば、決定論は責任を否定しうるけれど、そもそも決定論に立ってさえ責任を問うことは可能だと言っているのだ。

 これは、いったん「決定論」によって「自由意志」を否定する可能性を検討しておいて、それができないことを示した揚句に、そもそも「決定論」諸共「自由意志」が「責任」と関係ないことを示そうとしているのである。

 「決定論」を「自由意志」に「言い換えられる」と言うM班はそうした論理構造が理解できていることになる。

 見事な読解だ。


 それにしても、こうして文章を読んでも、授業と違って集中力を欠いた状態では、ほとんど何を言っているかわからないはずだ。

 そういう意味で、授業に勝る学習は、なかなか一人ではできない。自分の意見を表明しなければならないというプレッシャーが、考えることに集中力を強いるのだ。

2022年10月16日日曜日

没落する「個」4 責任と個

 もう一箇所、考える手応えがあって楽しいのは次の一節。

急速に広まった情報のネットワークを支えているコンピュータ技術自体がプログラム上に原理的に欠陥をもつことによって、「責任」の所在はおろか、その概念の意味さえ曖昧になっているといわれる。近代思想のなかで「責任」が、悪にも傾く自由をもった同一の行為主体としての自己存在のメルクマールだったことからすれば、「責任」概念の曖昧化は、自己存在が情報の網目へと解体されていくことを示唆する現象であろう。いずれにせよ、自己が情報によって組織化されるという、この傾向は、ますます一層促進されていくにちがいない。

 個人的な娯楽を目的としてこんな文章は読まないし、何かを学ぶための読書ならば、こんな読みにくい文章は勘弁してほしい。ましてテストを解かなければならない切迫した状況では、こんな言い回しは本当に迷惑だ(それでもこういう書き方をしてしまうのは、ある種の美意識なのだろう。こういうのがカッコイイと思っているのだ)。

 だが余裕のある授業ならばじっくり考えて、みんなと話し合いながら解きほぐしてく過程はむしろ楽しい。考えていった先に、風景がクリアに見える瞬間はカタルシスだ。


 まず「コンピュータ技術自体がプログラム上に原理的に欠陥をもつ」がピンとこないが、そこはそういうものだと受け取ろう。確かに何のことを指しているのかがわからない。授業者はゲーデルの不完全性定理(または→)のことを指しているのだろうと推測して読み進めた。気になってネットで「バグが無くならない理由」などと検索してみると、プログラマーの書いた記事が山のように出てくる。つまるところそれは「人間の作ったものだから」というのだ。プログラムは実用的な目的で作られるが、コスト的にどこかで切り上げて納期に間に合わせるしかないから、無限のテストによってバグ(欠陥)をなくすことはできない。だからプログラムにはバグが絶対にどこかに残るのだそうだ。

 いずれにせよ、そのままそういうものだと受け取って先を読み進める。

 とにかく、プログラムに欠陥があると「責任」が曖昧になるのだそうだ。

 なぜ?

 何せ「原理的に欠陥を持つ」のだから、誰かの「責任」ではないのだ。

 そのことから何が言えるのか?


 一方で「近代思想のなかで『責任』が、悪にも傾く自由をもった同一の行為主体としての自己存在のメルクマールだった」のだそうだ。こういう、当然それはわかってるよね? と読者の了解を前提にしてしまう言い回しが、その業界の中にいるわけではない読者にはいちいち抵抗になる。

 だが切り取ってここだけを理解しようとすれば、できないわけではない。

 人間は「自由をもった同一の行為主体」だ。近代において、人は宗教や伝統から解放されて、自分の意志で自由に行為できるようになった(ということになっている。既習事項)。

  「同一の」という形容は、昨日の自分も今日の自分も一ヶ月後の自分も全て同一の自分である、という「自分」の存在の確かさを言っている。「アイデンティティ」の訳語である「自己同一性」の「同一」のことだ。

 すべてが「自由」なのだとすればそれは動物と変わらない。あるいはもはやそれは人の行為と言うより自然現象だ。とりわけそれが「悪にも傾く」とすれば、動物や自然現象を「悪」として裁くことはできない。その時、何が人間を人間たらしめるかといえば、「責任」だというのだ。何をしたかではなく、したことに「責任」をもつことが、彼のアイデンティティのメルクマールなのだ。

 そう理解すれば、

コンピュータ技術が「責任」を曖昧にする
したがって
「責任」によって保証される「個人」も曖昧になる
という論理がたどれる。


 この部分では「責任」が「個人」の存在を証し立てる条件として取り上げられているのだ、という論理を把握する必要がある。「責任」が曖昧なら、個人の存在も曖昧になる。

 同じように、この前の部分では「欲望」が「個人」の輪郭を捉えるのに使われている。「個人」とは、その人にしかない「欲望」を持っていることによって保証される。

 「欲望」が「個人」に属するものならば、「個人」の存在は確かにあると言える。だが「欲望」も情報の網の目に生ずるものだから、「個人」の存在を証し立てることはできない(若林幹夫が「誰かの欲望を模倣する」で言っていたことだ)。

 「責任」も「欲望」も、個人の存在を証し立てることはできない。

 これは前回の考察で「合意」が「集団性」を保証する条件として取り上げられ、それが作りものであることを言うことで集団が作りものであることを論じた論理と同じなのだ。

 これもまた全体の文脈に位置付けることで腑に落ちる感じを味わえるはずだ。


 ところでここを話し合わせているうちに面白い問題が見つかった。

自己存在が情報の網目へと解体されていく

自己が情報によって組織化される

 連続する二文の中で「解体/組織化」という、一見正反対の言葉が、何の説明も言い訳も無しにごく自然に置き換えられている。この奇妙さに、読者はついていかねばならない。

 上の二文は同じことの裏表なのだ。そのことが「そうだよな、当然」と思えることが、この文章を読めるということなのだ。

 個はそれ自体が独立した存在であるのではなく、情報によって組織化されたものだ。そのことは前にも言われている。

欲望の源泉は、相互に絡み合って生成消滅している情報であり、個人はその情報が行き交う交差点でしかない

 個人がそのように情報によって「組織化」されることで成立したものであるとすれば、「個」というものを捉えようとすれば、それはすなわち確固として既に存在していたものではなく、情報の中に「解体」されてしまうということにほかならない。

 情報によって組織化されることは情報の中に解体されるということだ。どちらも「確固として存在する独立した個」の対比として、同じ側の個のイメージを表現しているのだ。


2022年10月12日水曜日

没落する「個」3 ファケーレ/ファクト

 次の一節もひっかかるはずだ。

合意が達成され機能するとしても、それは当の合意が普遍的な基準を表現しているからではなく、「合意した」という事実だけが、それを合意として機能させているにすぎないそういう意味でいえば、「合意」とはまさに形成されたもの、作りものであり、それが「事実」と呼ばれるとしても、作る作用(ファケーレ)に支えられた事実(ファクト)でしかないのである。


 下線部は、東大の問題では「どういうことか説明せよ」と出題されている。

 読んでわからないわけではないがどうすれば「説明」になるのかわからない、というのがこういう問題の常だ。

 そこが「わかる」としてもその後で「そういう意味でいえば」以降への論理的接続がよくわからない。「そういう」や「それ」の指示内容も曖昧だし、「ファケーレに支えられたファクトでしかない」という結論がどこから出てきて、何を言いたいのかもわからない。

 どこから解きほぐすか。


 「『事実』と呼ばれるとしても」の「としても」は「合意が達成され機能するとしても」を受けている。「事実」は前の行の「『合意した』という事実」を受けている。

 こういう論理関係の追い方は、もちろん無意識にも行っているだろうけれど、意識してやってみてもいい。

 二つの対応から、論理的に次のことが言える。

「事実」=合意が達成され機能する(こと)=合意した(こと)

 これは何を意味する?


 文末はおそらく「ファクト」という英単語は、ギリシャ語がラテン語の「ファケーレ」が語源なのだという知識を前提にしているのだろう。そう思って調べてみるとやはりラテン語だった。「ファクトリー(Factory)=工場・製作所」もなるほど「作るところ」だ。

 それがどうした?


 「作る作用に支えられた事実でしかない」は、読者にある違和感を感じさせることを狙いつつ、その驚きの中でメッセージを伝えようという意図にもとづいた表現だ。

 「作る作用」と「事実」は日本語では反対のベクトルを持っているような印象がある。文中で繰り返し使われる「作りもの」は「非実体」「虚構」などの言い換えだ。それは本来「事実」と対立的な概念のはずだ。「事実=本物/虚構=偽物」なのだから。

 それが欧米語の語源に遡ると通じ合ってしまう、という豆知識をここでは「事実は作り物だ」と語るために用いられているのだ。 

 ではなぜ「事実は作り物」なのだ?



 下線部の終わり「~にすぎない」という言い方は、ある限定をすることで、それ以外の部分を否定的に想起させる表現だ。「これは始まりにすぎない」と言えば「始まり」の裏に「それ以降、終わりまで」が対比されていることを示すし、「そんなのは口先にすぎない」といえば「腹の底からの本心」が、その場限りの「口先」の対比として言外に表現されている。

 「『合意した』という事実だけが、それを合意として機能させているにすぎない」も、同じように、何かを限定をすることで言外の何かを否定している。

 ここにはどのような対比があるか?

 だが何を限定しているかも、言外に何を想起させているかも、表現することが難しい。ここを何とか言葉にしてみる。

本心/口先

の順に表現してみる。「本心ではなく口先に過ぎない」という文型に嵌まるように対比させてみよう。

 どう表現すれば良い?


 我々のテストでは、ここは説明ではなく、「これを表す例」を選択肢として出題した。正解率は6割くらい。これを利用する。正解と不正解の選択肢はどこが違っているか? 何が正解の目印なのか?

 使われている「臓器移植」「クローン人間」「人工妊娠中絶」「自動運転」といった例が問題なのではない。例自体には適否はない。

 ポイントは、②「価値観の一致に基づく」と、①「納得しているわけではない」、③個人の~観に反したもの」、④「解決を~放棄している」の違いだ。

 これが上記の「すぎない」の限定による対比と対応している。

 各クラスでそれぞれ試行錯誤して、この対比を表す言葉として挙がったのは次のような表現だ。

全員一致による合意/多数決による合意

  納得ずくの合意/不本意な合意

   本質的な合意/形式的・表面的な合意

 尤も、よく見れば下線部の前に「ではなく」があって、対比は明示されている。

当の合意が普遍的な基準を表現しているからではなく

 つまり「普遍的な基準による合意」だ。上記の左辺は適切であることがわかる。


 これが「ファケーレに支えられたファクト」と対応する。

 順序が逆だ。

事実/作る作用

 「『事実』と呼ばれる」のように括弧のついた表現は、そのニュアンスを適切に読み取る必要がある。「事実」は普通、本物のニュアンスだ。それは左辺のような合意でなければならないはずだ。

 ところが「事実」上、実際に機能しているのは右辺のような合意による。つまり「作りもの=偽物」なのだ。

 だから「事実」は「作る作用」に支えられていると言えるのである。


 ところで、なぜ「合意」が問題になっているのか?
 大きな文脈の中に位置付ける。
 「合意」は「社会的合意」として文中に登場する。
「社会的合意」の「社会」なるものが、いかに捉えどころのないものであるか
 つまり合意が「作りもの」であることを言うことは「社会」が「捉えどころがない」ことを言うことになり、それはつまり「集団」が不確かなものであることを言うことになるのだ。
 「合意」が作りものだから、その合意によって成立する「集団」も作りものだ。
 こうして全体の文脈に位置付けることで腑に落ちる。

没落する「個」2 比喩を分析する

 全体の把握と部分の解釈は相補的だ。全体の論旨は部分の理解の集積だが、逆に全体の論旨が把握できることで部分が理解できるようにもなる。

 そう思って全体の論旨を捉えた上で読み返してみると、どこかはすっきりしてかもしれないが、依然としてこの文章にはわからないところがあちこちにある。

 わからないことは、どんどん質問してほしい。むしろ鋭い質問で授業者を困らせるくらいのことをしてほしいところだが、ぼーっとしていると「どこがわからないのかわからない」などという腑抜けたことになる。


 あちこちから聞こえてくるポイントを全体で考えた。

 まず文末の比喩。

もとより個がそこへと溶解していく情報の網の目も、相互に依存し合い絶えず組み替えられ作られていく、非実体的なものにほかならない。そうだとすれば集団性のなかへ解体していったといっても、そこに個は、新たな別の大陸を見出したのではなく、せいぜいのところ波立つ大海に幻のように現われる浮き島に、ひとときの宿りをしているにすぎないのである。

 比喩と言えば「生物の多様性とは何か」の中の「自転車操業」について1クラスだけ考察を展開した。あれは面白かった。今回は全クラスで考えてみる。

 比喩を含む表現を考えるには、とりあえず、何が、何の、どのような性質・状態を喩えているか、を明らかにする。「綿のような雲」という比喩は、「綿」が「雲」の「白くてふわふわしているありさま」を喩えている。

 この部分で「綿」にあたるのは「大陸・大海・浮き島」だ。

 だが「何の」と「どのような性質」は表現が難しい。


 その中でもとりあえず文中の言葉に対応させられそうなのは「大海-情報」だ。「波立つ」という形容は「絶えず組み替えられ作られていく」イメージを喩えているように感じられる。

 「情報」が「大海」だとすると「網の目」が「浮き島」に喩えられているのだろうか?

 そう解釈しても悪くはないが、「網の目」でもまだ比喩なので、さらにそれが何を喩えているのかを考えよう。


 「大陸・大海・浮き島」の三つはどのような関係になっているか?

 「ではなく」型の文型は対比を示していることを忘れてはいけない。何と何が対比されているのか?

 「大陸/浮き島」だ。ということは、それがどのような性質を表すかも、対比的な形容で捉える必要があるということだ。

 どのように表現したらいいか?


 全体論旨の把握から使える形容としては「実体/非実体・虚構」がどのクラスでも挙がった。考え方としては間違っていない。上記文中で「非実体的なもの」だと言われているのは「情報の網の目」であり、上に述べたように「浮き島」が「網の目」を喩えたものだとも考えられるからだ。

 だが逆に「実体/非実体・虚構」を表そうとしたら、比喩として「大陸/浮き島」という喩えは想起しないはずだ。

 では?


 「個がそこへと溶解していく情報の網の目」と「集団性のなかへ解体していったといっても、そこに個は」は、「個」という主語と「溶解/解体」という述語が共通していて同一内容だと判断できる。すなわち「情報の網の目=集団性」ということになる。

 つまり「大海に浮かぶ浮き島=情報の網の目=集団性」である。

 ではこれはどのような性質・状態を喩えたものか?

 

 「安定/不安定」が挙がった。これは良い。もう一つ。

 「浮き島に、ひとときの宿りをしている」を利用するなら、「大陸」は「定住する」ものということになる。そこで「永続的・恒久的/一時的」という対比が想定できる。

 大陸/浮き島

 安定/不安定

永続的/一時的

 実体/非実体

 これでこの比喩全体を解釈できる。


 こういうことだ。

 個は情報の海に溶解していく。

 だがそこにある何らかの「集団性」に安住の地を見つけようと思っても、それは「大陸」ではなく「浮き島」のようなものだ。場所も移動してしまうし、下手をすれば沈んでしまうかもしれない。「情報」という「大海」に浮かぶ集団もまたそのような「不安定」で「一時的」なものなのだ(席替えをすれば今の班のメンバーはかわってしまうし、年度が替わればクラス替えをする)。

 こう言ってみれば、これはまったく全体の論旨そのままであることがわかる。

 丁寧に順序よく考えていけば、すっきりと腑に落ちるところまで考えることができる。


没落する「個」1 読むための技術

 第二回の一斉テストに出題した伊藤徹「柳宗悦 手としての人間」は東大入試で出題されたものだ。元の問題は「なぜか?」か「どういうことか?」を説明する記述問題で採点に手間だから、それを作り替えて、選択肢を作ったり、根拠や言い換えを文中から探させたりしている。

 これを出題したのは、高校一年生に東大の、しかもとりわけ読みにくい文章を出題してビビらせてやろうなどといった意地悪ではない。これもまた今まで読んできた文章の問題意識、認識と重なるところが多いからだ。

 テスト中には時間が足りなくてあまりに消化不良だったろうからと、テスト後の授業で読み返してみると、あちこち突つきき甲斐のあるところがあって楽しくなってきてしまった。1時限で終わるつもりが、どこのクラスでも2時限以上時間をかけてしまっている。


 それにしても読みにくい。これはもう原文が根っからそういう調子なのだということでもあるが、出題にあたっての切り取り方のせいでもある。問題文冒頭がもうわからない。それが後を引いてしまう。そこに、情報密度の高い、捻った表現が次々に出てくる。

 読みにくい文章を読むテクニックはいろいろあるが、意識的に使える技術として授業で三つ実践した。

 まずはテーマ・主題を定める

 これは掴み所のない物に把手をつけるということだ。丁度良い把手があればモノは扱いやすくなる。多少外れていても、把手が無いよりはいい。手がかりを見つけて、そこに手をかけて力が伝わるように(考えが集中するように)するのだ。

 10文字以内、2~3文節で、と指定したら、全クラスで中盤過ぎにある「集団への個の解体」が挙がった。最大公約数的にこれがテーマを表していると感じられるフレーズなのだ。

 そう思って冒頭を見るといきなり「個の没落」という言い方で、同じテーマが提示されている。2段落でも「個の稀薄化」とある。評論では、こうした言い換えが始終行われる。

 「個の解体」がテーマだと考えることで、まず「個の解体」と表現される事態がどのようなものか、なぜそれが起こったのか、それによってどのようなことが起こるのか、といったあたりに話が展開しそうだぞ、という予想が立つ。これが考える上での手がかりになる。

 ところで「没落・稀薄化・解体」はどれも一種の比喩だが、中でも「没落」が最もわかりにくい。「没落」? 前は貴族か何かだったのか?

 ここでは、「近代における個人の確立」が共通認識として前提されている。前期の授業で、そうした認識について書かれている文章をいくつか読んだ。「没落」という言葉は、裏にそうした認識があるという前提を理解していないと、何を意味しているかがまったく理解できない。


 もう一つの技術は対比をとることだ。

 「個」の対比は何か? 一段落に限定すると?

 二つと指定して探させた。

 一段落では、「個(人)」は「判断の基盤としての」と形容されるから、「判断の基盤」として「個」ではない何が言及されているか、と探す。

  • 未だ生まれぬ世代・後の世代とのなんらかの共同性・時間的広がりを含み込んだ人類
  • 人間以外の生物はもちろん、山や川などさえも超えて、「地球という同一の生命維持システム」

 が見つかればいい。

 もちろん「個」の対比は「集団」で、この対比は中盤以降に明示される。

 つまり以下の対比がアナロジー(類推)になっている。

  個/集団

現代人/後の世代を含む人類

 人間/地球・生態系

 社会を問題にするなら「個/集団」という対比でいいのだが、一段落では環境問題について語られるため、こんなわかりにくい、ズレた対比になっているのだ。


 さてもう一つは要約だ。なるべく短く言ってみる。

 例えばテーマが「個の解体」ならば、「個は解体している」と言えば文になる。そこにさらに対比を導入する。

個は解体しつつあるが、拠り所となる集団もまた想像力によって作られた虚構に過ぎない。

 授業で30字以内と言っていたわりに上のは40字くらいになってしまった。

 まず、要約しようとすることが考えるための集中力を支えてくれる。「わかろう」とするのではなく、その先に「言おう」とすることが、途中経過の「わかる」を促すのだ。

 かつ、コンパクトに言ってみると、その後で何か考えるための取り回しが楽になる。


 以上三つの技術、いたずらに「わからない」と手をこまねいているよりも、意識的に使ってみる。


2022年9月26日月曜日

パンとバラ 3 詩を読む

 吉原幸子「パンの話」をとりあげたのは言わばオマケで、多くのクラスでは結局ほとんど時間をとれなかったが、実は「暇と退屈の倫理学」と「多層性と多様性」を「関連」させるより面白い考察になっただろうなあと思って残念ではある。プリントを配付したとたんでどこのクラスでもザワめくのが面白かった。E組Nさんが「これ日本語!?」と言ったのは可笑しかった。一読してみんな、わけがわからん、と感じたはずだ。

パンの話

                        吉原 幸子 


まちがへないでください
パンの話をせずに わたしが
バラの花の話をしてゐるのは
わたしにパンがあるからではない
わたしが 不心得ものだから
バラを食べたい病気だから
わたしに パンよりも
バラの花が あるからです


飢える日は
パンをたべる
飢える前の日は
バラをたべる
だれよりもおそく パンをたべてみせる


パンがあることをせめないで
バラをたべることを せめてください――

 「パンの話」が思い浮かんだのは、「暇と退屈の倫理学」の次の一節と呼応するからだ。

人はパンがなければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない。

 パンとバラがセットで登場するところで、オッと思わされるのだが、それだけでなくそうした共通性は両者の読解にも参考になる。


 詩を読む上での作法、あるいは「お約束」と言っても過言ではないのは、詩の中の言葉は様々な象徴性を帯びているという前提だ。

 象徴?

 「羅生門」の主人公、下人の頬の「にきび」は単なる「にきび」ではない。ある具体物が、何らかの抽象概念を表していると考えられるとき、それは「象徴」と呼ばれる。「にきび」は下人を支配していた空疎な観念の象徴だ。

 「パンの話」において、そのように読むべきなのは何か?

 言うまでもなく「パン」と「バラ」である。


 「羅生門」の場合は、「にきび」は小説内現実に存在する具体物ではある。だがそれだけではない象徴性を持っているとわかるように、殊更に意味ありげに描写されていた。

 一方、詩の場合はそもそも詩中の言葉に具体性がない。「パンの話」でも「パン」も「バラ」も、最初から具体物としてのそれではないことが明らかだ。そうであればこそ「バラを食べる」などという表現を読むことができるのだ。

 こうした、最初から具体物ではない形で登場するモノは、象徴と言ってもいいが、比喩とも言える。「~ような」をともなわない比喩を「隠喩・暗喩・メタファー」などと言うが、「バラを食べる」という表現は、直接の言葉通りの意味ではなく、何事かを喩えているのだ。

 パンとバラにどのような象徴性を読み取り、詩全体をどう読むか?

 話し合いの中で「パン=生活必需品」「バラ=嗜好品・贅沢品」という対比が語られている様子が多くのクラスで見られた。

 みんなが持っている「ちくま評論入門」の姉妹本である「ちくま評論選」(2,3年生が持っている)に「暇と退屈の倫理学」の別の一節が収録されていて、その題名は「贅沢のすすめ」だ。とすれば國分がバラを顕揚していることは贅沢を奨めているということになるのだろうか。

 とするとこの詩はどのようなことを言ってると考えればいいか?


 上の対比も悪くないが「パン=生活」にしておいて、「バラ」は「暇と退屈の倫理学」から、モリスの言う「芸術」を使うのが簡便。「贅沢のすすめ」の「贅沢」は「暇と退屈の倫理学」の「豊かさ」に近いニュアンスで、資本社会の与えてくれるモノと対比される物によってもたらされるから、例えば大量生産品ではない「芸術」などもそれにあたると考えていい。

  • パン=生活(貧しさ)
  • バラ=芸術(豊かさ・贅沢)

 「芸術」はさらに、画家なら絵画、音楽家なら音楽と考えると、吉原幸子にとってはがそれにあたる。とすれば「バラの花の話をする」「バラを食べる」は「詩を書く」ことを意味していると考えよう。

 これでこの詩の表現を論理づけられるだろうか。


 詩は理解すべきものではなく味わうべきものだ、というようなことを言う人が世の中にはいるが、味わう前にまず読むことが必要なのは言うまでもない。どの程度かはさておき、わからないものを味わうことはできない。読解の末に「わからない」という結論に至って、その段階でそれなりに「味わう」ということはある。全ての詩がわかるわけではないし、わからないと味わえないということでもない。だがわかろうとしていない詩を味わうことはできないのは間違いない。

 したがってまずは読まなければならない。

 読むということはテキスト情報を論理づけるということだ。そうでなければパンについてもバラについても詩人の思いについても、何事も受け取ることができない。


 この詩の趣旨を端的に表現するなら「詩人としての自負」といったところだというのが授業者の解釈である(こうした端的な表現がまた国語力の表れだ)。

 この表現を聞いて、ああなるほどと思えたろうか。もちろんそれは「正解」というようなことではなく、授業者の論理とあなたの「論理」が幸いにもだいたい一致したということだ。

 吉原幸子は、自分が詩を書く、書かずにはいられないことを「わたしが 不心得ものだから」と言っているのだ。生活に余裕があるからではなく「病気だから」詩を書かずにはいられないのだ。

 そしてそこに矜持もある。

 「だれよりもおそく パンをたべてみせる」とは、生活のことを後回しにしても、まず詩のことを第一に考えるのだ、という詩人としての自負を語っているのだと思う。

 ただ最後、3聯の2行がすっきりしない。特に「パンがあることをせめないで」は、誰が「責める」のか、何を責めているのか、どのような意図で「責める」のか、すっきりと解釈できない。

 このあたりをつっこんで考えていくともっと面白い読みにたどりつくかもしれない。

 ともあれ残り時間の少なくなった授業では上記のような読みを早口で語るのが精一杯だった。

 ただ、C組では指名したSさんが、ほぼこれと同じことを淀みなく語ってみせたのは、その読解の的確さも説明の明晰さも実に見事で、発表を聞いて、ほとんど感動させられた。周りで「鳥肌が立った!」というような声が聞こえたのもむべなるかな、だった。


 冬にもうちょっと詩を読む時間をとる。その時にはまたそれぞれの読解を語ってほしい。


2022年9月25日日曜日

パンとバラ 2 認識と主張

 まず「多層性と多様性」と「暇と退屈の倫理学」の「関連」から考えよう。

 この「関連」は授業者が設定したものではなく、教科書編集部が「関連がある」と言っているものなので、どういう「関連」があると見なしているのかは推測するだけだ。だが読解というのはそもそも「正解」があるようなものではなく主体的に行われる一種の創作行為なので、こちらが納得いくように読めばいいのだ。


 共通して登場する言葉としては「豊か」や「退屈」がある。重要な接点だ。

 そしてもちろんここでも「近代」であり(「暇と退屈の倫理学」には直接は出てこないが)、近代の延長としての「現代」である。そして「近現代」の表れの一つである「資本主義社会」である。

 さてこれらの語をもちいて、両者を「関連」させよう。


 二人の主張を端的に取り出して比べてみる。まず「端的に」言うことが既に国語力を必要とする読解作業によって可能になる。さて。

 國分功一郎が言っているのは、生活はバラで飾られるべきだ、である。

 若林幹夫が言っているのは、多様である方が良い、である。

 これらは同じことを言っているのか? どう考えればこれらを「関連」させられるのか?


 論には「認識」の要素と「主張」の要素がある。これはまあ強引に分ければ、といったところで、もちろんある「認識」を語ること自体がある「主張」であるほかはないのだが。

 しばらく前に説明文と評論の違いとして、「主張」要素が強いのが評論だと言及したことがある。

 「主張」だけを端的に切り取ると上の通り、どう関連しているのかが見えにくい。そこで「認識」の部分を比べてみる。

 二人はどのように共通した認識を語っているか?

多層性と多様性

現実の近代社会は、資本制とそれに基づく産業社会を地球的な規模で押し広げ、世界中どこでも同じような建物が建ち、鉄道や自動車から家庭電化製品に至るまで同じような機械を用い、民族衣装を捨てて洋服を着る「同じような社会」と、そんな社会の目指す「同じような発展」や「同じような豊かさ」を世界化していった。

暇と退屈の倫理学

当時のイギリス社会では、産業革命によってもたらされた大量生産品が生活を圧倒していた。どこに行っても同じようなもの、同じようなガラクタ。モリスはそうした製品が民衆の生活を覆うことに我慢ならなかった。

 もちろんここでいう「当時のイギリス社会」の姿は広く近代社会の姿だ。二人が描く近代社会についての認識は共通している。

 共通した認識を語る二人は、それぞれどのような主張をしようとしているのか?


 「暇と退屈の倫理学」では、単純に言うと、現代は暇で退屈になった、と言っている。それは上のような社会がもたらす「同じような豊かさ」では埋められない空虚だ。

 モリスの言う「芸術」がそれを埋める。バラとは「芸術」を喩えたものだ。それは「産業革命によってもたらされた大量生産品」と対比される。したがって、「芸術」がただちに多様であるとは本来言えないものの、この論で対比されるものが「均質的」な工業製品であるということは、それと対比される「芸術」には独自性・固有性がもたらす「多様性」があるはずだということになる。

 こうして二人の論の主張は共通した方向性を持っていることが論証できる。

 芸術がもたらす「豊かさ」は、工業製品がもたらす「同じような豊かさ」とは違う、「退屈」に陥らない「豊かさ」であるはずだ。國分の「バラで飾ろう」はそういう主張だ。

 とすればそれは若林が「均質・単一」で「退屈」な世界で、多様性は重要だと主張することと同じなのだ。


パンとバラ 1 「関連教材」

 前回までの問題は、参照すべき項目が多く、まとめることが難しいはずで、授業数の少ないクラスに合わせて、テスト後に引き続き考察する。

 一方「多層性と多様性」には、教科書編集部によると「関連教材」として國分功一郎の「暇と退屈の倫理学」が挙げられている。

 「関連教材」というのがどういう意味かは定かではないが、単元「共に生きる」の三編は相互に「関連教材」ということになっている。当然だ。読み比べることが最初から意図された単元だからだ。だから今年度の授業は最初にその単元から入ったのだった。

 そこに「生物の多様性とは何か」を「関連」させたのだが、それは「関連教材」としては明示されていない。聞けば意識しているというのに、あまりに領域の違う文章を「関連教材」と銘打つのためらったのだろう。惜しいことだ。領域の違う文章を「関連」づけることにこそ意義があるのに。全く違った分野の問題に共通した構造を見出す時にこそ、世界に対する認識は拡がるというのに。

 そこから「多層性と多様性」に繋げるのは、またしても領域が違うから「関連教材」という扱いではない。さらに「〈私〉時代のデモクラシー」に繋げるのも授業者が設定した問題だ。

 では教科書編集部が設定した「多層性と多様性」と「暇と退屈の倫理学」の「関連」とは何か?


 実はそこにはそれほど豊かな読み比べの可能性が授業者には見出せないので、さらにそこに吉原幸子の詩「パンの話」をからめる。

 詩?

 パンの話

                        吉原 幸子 


まちがへないでください

パンの話をせずに わたしが

バラの花の話をしてゐるのは

わたしにパンがあるからではない

わたしが 不心得ものだから

バラを食べたい病気だから

わたしに パンよりも

バラの花が あるからです


飢える日は

パンをたべる

飢える前の日は

バラをたべる

だれよりもおそく パンをたべてみせる


パンがあることをせめないで

バラをたべることを せめてください――

 この詩は現在2,3年生が使っている「現代文B」の教科書に収録されているものだが、授業者は授業でこの詩を扱ったことはない。今回も、単独でこの詩を読解しようと考えたわけではない。

 今年度の授業では、冬頃に詩をいくつか読もうかと思っている。が、そもそも「現代の国語」は詩を扱わない想定なのだ。それが唐突に、ごりごりの評論を理屈っぽく読んでいる最中に詩を読もうというのはなぜか?

 ここに唐突に詩をからめようと企画したのは、「暇と退屈の倫理学」を読んでいればピンとくるはずだ。

 さて、どのような読み比べが可能か?

2022年9月22日木曜日

多様性をめぐって 7 問題を確認する

 保留中の問題も含め、考察すべき問題を総括する。

 まず「共に生きる」という単元から「生物の多様性とは何か」という文章に繋がる流れを捉えようとした。つまり「自立」「環境」をめぐる問題に同じ構造を読み取ろうというのだ。

 次に「多層性と多様性」を繋げることで、それを「社会」の問題としても展開する。そこから「〈私〉時代のデモクラシー」に繋げることで、「社会」の中でもとりわけ「民主制・民主主義」の問題を取り上げる。

 これらをつなぐためには、ある時は「多様性」あるいは「近代」を接点として、あるいは福岡の論にしか登場しない「動的平衡」という概念を応用して、全てを一続きの展望におさめる。


 考え方のガイドとして、それぞれの対比を確認しておく。

 対比の考え方は、考えを整理する上でも説明をわかりやすくするためにも極めて有効だということは、いくら繰り返し言っても言い過ぎではない。前回も「多層性と多様性」を読解するために次の対比を整理した。

多様性/単一性・均質性

 豊か/退屈・つまらない

 強い/脆弱

 「多様な方が強い」というためには、一度「均質だと脆弱だ」という言及が説明に説得力を持たせるためにも有効だし、「~ではなく~」という構文を使うのが、主張を明確にするにも有効だ。

 「自立」における対比は何だったか?

 「自立/依存」というのが一般的な対比だが、「共に生きる」の文章は「依存できることがより良い自立だ」という主旨なので、対立点を明確にするために言葉を換える。かつ左辺に肯定的な項「依存」を置く。どのように対比させるか?

 「依存」の対立項にはどのクラスでも「独立」という言葉が挙がったが「独立」という言葉はやや肯定的なニュアンスもあるので、対立を明確にするのには

 依存/孤立

と言い換えておこう。

 これと「多様/単一・均質」という対比は、対立している要素が違っている。「多様/単一・均質」は「種類が多い/少ない(一つ)」という要素の対立だが、「依存/孤立」はそうではない。

 では?

 「依存/孤立」の対立要素は「関係が繋がっている/切れている」といったところか(こういうところで適切に表現できることが国語力だ)。

 「繋がっている/切れている」と「種類が多い/少ない(一つ)」という対立はどのような関係か?


 「民主制・民主主義」の対立は?

 「社会主義・共産主義」が挙がったが、それらは「自由主義」の対立で、「自由主義」=「民主主義」は多くの場合は結びついているが、概念としては同じではない。

 ということで「民主制」の対立概念は「専制・独裁制」あたりがいいか。

 民主制/専制

という対立を、上の対立要素で語る。


 もう一度問題を確認する。

 「自立」「環境」「民主制」という三つの領域の問題を関連させて論じ、そこに共通した構造があることを明らかにする。それぞれは「多様性」で関連させられる。「動的平衡」は「環境」以外の領域の問題にも応用したい。

 その際に次のそれぞれの対比を意識しておくこと。対立項を考えることは主張を明確にする有効な手段だ。

自立→ 依存/孤立

環境→ 多様/単一・均質

社会→ 民主制/専制


 テスト前の授業で結論を出すつもりだったのだが、授業の少ないクラスに合わせて、結論はテストの後、小論文という形で全員が文章化することにする。


多様性をめぐって 6 近代と「多様性」

 福岡と若林を読み比べたところだが、問題を総合的に扱うためにもう一つの文章との読み比べをしておく。夏休みの課題にも指定した宇野重規「〈私〉時代のデモクラシー」を「多層性と多様性」につなげる。


 まずは共通点を探す。

 ここまでの流れで考察してきた「多様性」は、直接の用語としては「〈私〉時代のデモクラシー」には登場しない。だから「多様性」という概念に対応する論点が何かないか、と考える。

 それとともに、そもそも共通する言葉も登場している。しかも重要なキーワードとして。何か?


 これも、そう言われて探さないと意識できないのは、今までの学習成果が充分に活かせていないということだ。話し合いに時間をとっても、それが言及されていないグループが多かったのは残念。

 さて、共通する言葉は、またか、と思ってもらっていい、「近代」だ。近代という概念はそれくらいそこら中に関連する、様々な論の基礎になっている概念だということだ。

 つまり「近代」ないし「近代化」及びその果てに訪れる「現代」における「多様性」のありさま、という観点でそれぞれの文章を比較することが可能なのだ。

 さて、何が言えるだろう?


 次のような一節は、互いに似たようなことを語っていると感じないだろうか?

多層性と多様性

一つであり、かつ多様である」という在り方は、社会の中のさまざまな事物に見いだされる。(略)社会を構成するそうしたさまざまなものによって、人間の社会自体が「一つであり、かつ多様であるもの」として存在している。

〈私〉時代のデモクラシー

〈私〉抜きに、社会を論じることはできなくなっています。そのような〈私〉は、一人一人が強い自意識を持ち、自分の固有性にこだわります。しかしながら、そのような一人一人の自意識は、社会全体として見ると、どことなく似通っており、誰一人特別な存在はいません。このようなパラドックスこそが〈私〉時代を特徴づけるのです。

 「多様性」という言葉は「〈私〉時代のデモクラシー」には登場しない。だが上の「一人一人が強い自意識を持ち、自分の固有性にこだわります」を「多様性」と置き換えることはできないだろうか。

 すると「一つである」が「全体として…似通っており、誰一人特別な存在はいません」と対応することになる。

 みんな「同じ」でみんな「違う」。

 こうした状態は「近代化」とどういう関係にあるか?


 例えばこんな一節。

多層性と多様性

〈近代性の層〉が人類史上持つ重要な意味の一つは、そのような多様な人間集団が「同じ人間の社会」であり、それゆえ集団を構成する個々人も民族や文化の拘束から自由な一人の人間として主体たりうるという、「普遍性としての人間と人間性」の理念を提示し、それを規準とする社会を実現しようとしてきたことだ。(略)人間とは基本的に同じものであり、それゆえどの人間の社会も同じ理想的状態を実現しうるという、普遍主義的な理念を基底に持っている。

〈私〉時代のデモクラシー

「近代」の目標の一つは、これまで人々を縛り付けてきた伝統の拘束や人間関係から、個人を解放することでした。(略)近代においても、最初の頃には歴史において実現されるべき目標の理念がありました。「公正で平和な社会」などというのが、それです。 

 どちらも、近代になって人間はみんな「同じ」という「普遍的」で「平等な」人間観という「理想・理念」が社会を動かしてきたと言っている。みんなが「同じ」であることは、近代に発見されたのだ。

 一方でそれは「理想・理念」といった肯定的な面ばかりではない。

だが現実の近代社会は、資本制とそれに基づく産業社会を地球的な規模で押し広げ、世界中どこでも同じような建物が建ち、鉄道や自動車から家庭電化製品に至るまで同じような機械を用い、民族衣装を捨てて洋服を着る「同じような社会」と、そんな社会の目指す「同じような発展」や「同じような豊かさ」を世界化していった。(「多層性と多様性」)

 若林の論は基本的に「多様性」を良しとする主張だから、こうした近代の均質化・画一化の方向は否定的に語られている。

 つまり近代になって人はみんな同じになれたが、みんな同じになることは好ましからざる事態でもあり、その反動として現代はまた多様化を目指している、と考えればいいだろうか。

 そして宇野はその多様化がまた別の難しさを生んでいることを最後に述べている。多様化する〈私〉は、みんなが一致団結した〈私たち〉を形成することが難しくなっているのだ。

 これは「多様化」と「民主制」に対してどのような議論を招来するのか?


2022年9月21日水曜日

多様性をめぐって 5 若林と福岡の「多様性」

 福岡伸一「生物の多様性とは何か」と若林幹夫「多層性と多様性」を読み比べる。

 読み比べる時には、まず共通点を探してそこを重ねる。そしてその周囲の重なり方にどの程度の広がりがあるか、そこに相違があるか、などと考えていく。

 「多様性」というキーワードが共通しているのは明らかだが、それがどのような意味で共通しているというのか?


 若林幹夫は社会学者だ。この文章も、扱っている領域は「社会と文化」だ。

 これと分子生物学者である福岡の論を「多様性」というキーワードでつなげる。

 福岡の論で扱われているのは「環境・生態系」といったところだ。

 それでも若林は生物学の「多様性」の概念を援用して社会や文化の多様性について語っている。したがって、比較は可能なのだ。


 まず明らかなことは両者が「多様性」を肯定的な概念として使っているということだ。そして「問いを立てる」で明らかにしたように、「生物の多様性とは」は、その概念自体の説明ではなく、それが大事であることの理由を説明した文章だった。

 一方若林の「多層性と多様性」では「多様性」はなぜ「良いもの」だということになっているのか?

 対比を使って文章の論理を整理してみよう。

 「多様性」の対比(対立項)はこの文章中ではどのような言葉で示されているか?

多様性/単一性・均質性

 左が肯定、右が否定という対立だ。

 それがなぜ肯定されるべきかを、若林はどのような形容で語っているか?

 文中から二組の形容の対比を拾う。

豊か/退屈・つまらない

強い/脆弱

 「形容」を探す、という問いに戸惑った者もいたが、話し合っているうちに上の対比でみんなの意見は一致した。

 こうした形容が、多様性を肯定する、いわば根拠だ。こうした「多様性が良いことだと言える根拠」は、福岡と一致しているか?

 そもそも「豊か」だから良いということと、「強い」から良いということの間にはどのような関係があるのか?


 若林が「強い」と言う意味は、次の一節に示されている。

一つの種の生物の遺伝子の多様性を保持することは、起こりうる種々の環境変化に適応する可能性を大きくすることになる。

 生き残る可能性が高いことが、それだけ「強い」ということだ。

 これと福岡の次の一節を比べる。

生物多様性の価値は、バリエーションが多ければそれだけ適応のチャンスが広がるから…

 両者は正確に対応している。だが福岡の文章は続けて言う。

…適応のチャンスが広がるから、というふうに漠然と理解されているけれど、それは生物多様性の一面でしかない

 若林が多様性を良しとする根拠は「一面でしかない」と言うのだ。

 これは二人の論に決定的な齟齬をもたらすのか?


 読み比べでとりわけ「相違点」に着目したのは「自立と市場」と「交換と贈与」を読み比べた時だった。二つの論には相反する方向性があるのではないかと一度は考え(授業者のミスリードによって)、その後でそれらを統合して、二人がどのような認識を共有しているのかを考察した。あれは第1回テスト前の考察では最も難易度の高い、それだけに充実感のある有意義な課題だった。

 同じように福岡と若林の論を互いに補完することはできないだろうか?


2022年9月7日水曜日

多様性をめぐって 4 もう一つの「多様性」

 ところで夏休み明けの最初の教材がこれだというのはどういう意図があるか。

 実はこれもまた「羅生門」以前に読んでいた文章が扱っていた主題に関連させようというのだ。

 どれと?


 この文章が載っている頁の直前が実は見慣れた「共に生きる」という単元だ。自立という主題をめぐる三つの文章の読み比べが企図された単元だった。

 「自立」と「生物多様性」?

 「共に生きる」の三つの文章、鷲田は哲学者、松井は経済学者、伊藤は美学者で、それぞれまったく異なった分野の専門家の文章だが、それでも「共に生きる」では「自立」という共通テーマを読み取ることができた。今度はそこに分子生物学者、福岡伸一の「環境」「生態系」をテーマにした文章を並べる。分野は違うのに、その論旨には奇妙な類似性がある。

 どんな?


 実は「生物多様性はなぜ大事か?」という問いに対する答えをここまで明示していないが、これはここで併せて表現してしまった方が面白いと思ったからだ。

 それは「どうしたらより良い自立ができるか?」とか「自立にとって市場はなぜ有効か?」とか「人が持っている力とはどのようなものか?」といった問いに対する答えと意外なほど共通しているのだ。

 これは偶然だろうか?

 そうではない。そのことは、この教科書を作った編集部も自覚的だ。編集者の一人に直接確かめてみた。こんなふうに共通する論旨をもった文章が単元違いで並んでいるのはわざとか?

 わかってやっているのだそうだ。


 その共通点が何かをここに語る前に、もう一つの文章を接続させる。

 若林幹夫の「多層性と多様性」は、そのまま「多様性」について述べているから、「生物の多様性とは何か」と読み比べることはもちろん可能だ(ただ、全体を充分に読解しようとするには難易度が高いので、ここでは「多層性」に絡む議論にはあまり踏み込まない)。

 この文章で語られる「多様性」を「生物の多様性とは何か」の議論と読み比べると何が言えるか?


多様性をめぐって 3 自転車操業

 授業数の多いH組のみで扱ったネタなのだが、思いの外面白かったので記しておく。

 文中で「動的平衡」を「永遠の自転車操業」と表現する箇所があるが、この意味はすんなりと腑に落ちているだろうか?


 必要ならば「自転車操業」を辞書で引いて、意味を確認しておく。その上で、この文章では何を言っているかを理解できているか、自らに問う。

 まず「自転車操業」という慣用表現は、「自転車」が「操業」の比喩になっている。そうしてできた「自転車操業」という言葉がさらにここで表わしたい何事かの比喩になっているという二重の比喩がここにはある。

 比喩というのは、二つの間に共通する特徴や構造があるときに成立する。「綿のような雲が空に浮かんでいる」といえば、綿と雲の間に「白くてふわふわする」という共通点があることで成立している。空一面を覆う雨雲には「綿のような」という比喩は使わない。

 ここでは次の三つにどのような共通点があるか?

  1. 自転車
  2. 操業
  3. ここで表したい何か

 まず、2の「操業」が何のことを指すのか、という問いに適切に答えられない人が多かった。ここで「操業」を辞書で引いてしまうと「機械設備を動かす」などという説明が出てくるのだが、それでは「自転車を運転するように機械を動かし続けること」ということになるが、これは何のことだ?

 ここでは「会社を経営する」か「お店を営業する」くらいの答えがほしい。「自転車操業」というのは、赤字で倒産寸前の企業の経営状態を指す慣用表現なのだ。「機械設備を動かす」に近いイメージでは「工場のラインを稼働する」といったところだが、工場の稼働を「自転車操業」と言ったりはしない。工場の稼働を含む会社の生産活動全体を指す表現だ。

 また、3は何か?

 端的にそれを表わす言葉を文中から指摘するなら「生命」ということになる。だが「自転車」と「操業」と「生命」の共通点は何? という問いは難しい。

 「生命」という単語では漠然としていて概念が広すぎる。一つ前の段落からの論旨のつながりをたどるなら「生命(または生態系)が動的平衡であること」あたりが適切か。

 あらためて三つを並べてみる。

  1. 自転車の運転
  2. 赤字企業の経営
  3. 生命の動的平衡

 共通した構造は?


 さしあたり「動き続けることでバランスを取っている」「止まると倒れる」くらいに言ってみる。

 これは自転車の運転についてはそのまま実感できる。それを2,3に適用してみると?

 2でいうなら「動き続ける」は営業を続けることであり、「倒れる」とは倒産することだ。借り入れの返済のために、営業して得られた収入をそのまま借金返済と次の営業のための資本に充てるという回転を続けないと、直ちに倒産する。

 これを3にあてはめると「倒れる」とは死ぬとか生態系が壊れる、ということだ。

 では3で「動き続ける」は?


 文中から指摘できるのは次の段落で「絶え間なく元素を受け渡しながら循環している」といった表現で表わされるような生命の在り方だが、これはいささか抽象度が高い。具体的には?

 植物が光合成をして、それを動物が食べ、その動物をさらに捕食者が食べ、死骸を微生物が分解する…といった様々な食物連鎖を想像したい。あるいは個体の身体ならば、食べたものが消化され、身体組織を作り、新陳代謝によって排泄される…という生命現象。

 そこでは、ある生物が死ぬことで別の生物に取り込まれるという元素の受け渡しが行われる。「自らを敢えて壊す。壊しながら作り直す」と表現されているのは、食物連鎖における個体の「死」と別の個体の「生」だ。「壊すことによって蓄積するエントロピーを捨てることができる」は、個体が死ぬことで「老化」というエントロピーをリセットして、新しい個体はエントロピーのない状態からスタートできる、ということだ。


 比喩表現は「何となくわかる」といったわかり方で伝わるものなのだが、こうして厳密に説明できるかどうかで「ちゃんとわかっている」かどうかが試される。というか、厳密に説明しようとすることで「ちゃんとわかる」ようになるところが授業としては有意義だ。

 以上の考察に、1時限を費やした。機会があればまた文中の比喩を使った考察をしたい(今の時点でも来年の授業で「永訣の朝」とか「こころ」とか、そういう考察をする予定はある)。

多様性をめぐって 2 問いと答え

 この文章が述べているのは、どのような問いに対する答えなのか?

 「環境保護のために人間には何ができる・すべきか?」といった問いも挙がった。この問いの答えによってこの文章の主旨が表現できるか?

 答えをどう想定しているのかと聞いてみると「動的平衡の考え方を理解する」というような答えが挙がったが、これは「動的平衡とは何か?」が「~とは何か?」型の問いとしてはまあ一番良いだろ、といったやりとりに影響されている。

 あるいは「生物多様性を守ること」といった答えはとても真っ当だが、これは最初の、題名をそのまま問いとして立てた時とそれほど変わらない把握に終わってしまう。そりゃそうだ、という感じ。


 総じて中学校の教科書に載っているのは「説明文」、高校の教科書に載っているのは「評論」と言われる。その違いは、どれほど筆者の主張が入っているかだ。説明文は何が書いてあるかを正確に読み取ることが要求され、評論では筆者の考えを(ある時には批判的に)読み取ることが要求される。

 「生物の多様性とは何か」を評論と見なすならば「生物の多様性を守るべきだ」が「筆者の主張」と言ってもいい。だが、そんな主張は自明のことで誰も反対はしないから、あらためてそうした主張をこの文章から読み取ることにそれほど意味はない。

 あるいは収録部分の末尾「パラダイム・シフトを考えねばならない」を主張だと見なすことはできるが、これはつまり「何をすべきか?→動的平衡の考え方を理解すべき」ということになり、まだ全体の主旨を捉えているというにはイマイチ。


 一方で科学説明文と見なしたとき、読者は何を「説明」されていると見なせばいいか?

 一つには上記の「動的平衡」だが、「動的平衡」の概念を理解すればこの文章の主旨を捉えたことになるかといえば上の通りまだ不十分だ。

 さてでは。


 元々は題名の「生物の多様性とは何か」がイマイチ、と思って考え始めたのだが、まずは素直にこの題名を使うのが発想しやすいはずだ。

なぜ生物の多様性が必要・大事か?

 これは、生物の多様性は大事だという一般常識に対して、ホントにその意味がわかってる? という問いを読者に投げかけているのだと考えられる。

 さてこの答えは?

 短い答えと長い答えを考えよ、と指示した。短いのは本文中にある。

地球環境という動的平衡を保持するため

 これを長くしようとすれば、「動的平衡」という概念について説明し、それを保持することと「生物多様性」の関係を説明し…、ということになる。そうなればもうこの文章の主旨は充分に捉えられていると言って良い。

 つまりこの文章は、生物学者による科学読み物として、説明文的に読んでもいいのだ。読者としては「動的平衡」という考え方を理解し、「生物の多様性の重要性」についてあらためて認識を確かにすることが求められている。


多様性をめぐって 1 問いを立てる

 福岡伸一「生物の多様性とは何か」を読む。

 読んだら「何が書いてある文章なのかな?」と自分で考える。考える癖をつける。「何が書いてあるの?」と質問されたら答えられるように準備する。

 「何が書いてあるか?」を適切に捉えるためのメソッドとして、「問いを立てる」練習をしたことがある。内田樹の労働論と「羅生門」を読解したときだ。

 小説と評論では「問いを立てる」意味合いが若干違う。

 「羅生門」において立てた「なぜ下人は引剥ぎをしたか?」は、その答えが小説中に書いてあるはずだが、それは直截的なものではなく、読者がそれを読み取ることを要求されている。何を読み取るべきかを明確にするために問いの形にする。読者がその問いに答える。

 一方評論では、その文章がどのような問いに答えようとしているか、を問いの形で表現する。読者ではなく、筆者がその問いに答えようとしているのだ。

 この問いは文中に明示されている場合とされていない場合がある。明示されてある場合は答えが何かを確認すればいい。それが最も重要な論点であると感じられれば、それで文章の主旨が理解できたということだ。

 ない場合は、書いてあることから遡って、それはどのような問いに答えようとしているのか、と考える。

 例えば内田樹の労働論で、見出しが既に「なぜ私たちは労働するのか?」という問いの形になっているにもかかわらず、それに対して「生き延びるためである」という結論を文中から探しても、何のことかはすっきりとは腑に落ちなかった。だから自分で問いを立てたのだった。

 結局「労働の利益は誰が享受するのか?」という問いが適切であることを皆で納得したのだが、それはこの文章が「労働の利益は個人ではなく集団が享受するものだ。」という趣旨を述べている文章なのだと読解することと表裏一体だ。

 一方で「個人/集団」という対比において「集団」を強調しているのがこの文章の主旨であると捉えると、主張が明確になる。

 問いと対比。どちらも文章の論旨を明確に捉えるために有効な方法だ。


 さて「生物の多様性とは何か」ではどうか?

 これもまた、題名が問いの形になっているにもかかわらず、その答えがこの文章の主旨であるとは読めない。

 「生物の多様性」は文字どおり、いろんな生物がいる、ということだ。それについての予断に反した説明はあらためてあるわけではない。

 「生物の多様性」はいわばテーマで、それをめぐって何事かを議論しているわけだが、「生物の多様性」という概念自体の説明をしているわけではないのだ。


 さてではどのような問いを立てるのが適切か?

 みんな同じ問いを思い浮かべるに違いないと想定していたら豈図らんや、けっこうとっちらかったのだった。

 まず「ニッチとは何か?」が挙がったのにびっくりした。確かにこの文章では「生物多様性」と比べれば「ニッチ」についての説明は、あると言っていい。しかも「ニッチ」についての一般的な理解とは違った意味合いを読者に伝えてもいる。だがそれが中心的な話題かといえば、イマイチだ。部分に過ぎる。

 「~とは何か?」という形で問いを立てるなら、それが一般には知られていない概念であるか、一般的な定義ではない、別な側面をとりあげようとするのがその文章の目的であると見なされる場合だ。「生物多様性」についてはそんなことはまるでなく、「ニッチ」については、一般的な「隙間」という訳語よりも一歩深掘りした「分際」という言葉を提案しているところが新鮮なのは確かなのだが、といってそれがこの文章で最も重要な概念だというわけではない。

 「~とは何か?」型の問いにするなら、一単語、何を取り上げる? 「生物多様性」でも「ニッチ」でもなく。

 社会一般への浸透度合いからしても「動的平衡とは何か?」が最も適切だと言っていいだろう。


 とはいえ「~とは何か?」型の問いは、結局のところある概念の説明がその文章の主旨なのだと見なしているということだ。それではどうしても文章の一部分になってしまう。

 ではどのような問いの型が適切か?

2022年9月1日木曜日

夏季休暇課題

 夏休みの宿題は、まあ漢字テキストなんかは自主的に進めていることを信じるとして、提出を求めたのは「『〈私〉時代のデモクラシー』『空虚な承認ゲーム』と4,5月に読んだ9本の文章のいずれかの論旨の関連を600字以内でまとめる」だった。みんなどれくらいの時間をかけて取り組んだのだろうか。授業である程度は読み込んである文章だとはいえ、自分でもう一度文章にまとめるのは、相当に手応えがあったと思う。

 提出された課題は、クラスを入れ替えて生徒自身が相互評価した。これもまた、集中力を必要とする、難しい課題だったと思う。

 評価を他人任せにせず、自分の生み出したものを自分で評価する意識を持ってほしいということもあるが、どんな文章がどのような評価に値する文章なのかを判断する意識は、今後自分が文章を書くことにフィードバックする。これも重要な学習なのだ。

 そういえば入学直後の課題テストも相互採点したが、漢字テストを採点すると、どういうところで漢字を書き間違えるのかを意識するようになる。


 さて、みんなの文章について、いくつか気になったこと。

 課題を提示する時点で、文章の引用は必ず「 」で括る、と注意した。意識したろうか。ひどいものは文章の題名にすら括弧を付けていない者もいた。

 そういえばスマホのフリック入力では、「 」をつけるのが面倒だから、みんなは文章に括弧を付ける習慣がつかないのかなあ、などと思っていたが、フリック入力でも「や」から括弧の入力ができるのだと、調べて初めてわかった。まあこのブログの文章などを見てわかるとおり、授業者はやたらと括弧を付ける傾向にあるが、それが引用の言葉なのかどうかを意識することは重要だ。自分が発想して自分が発信する言葉と、他人が言っている言葉を区別する意識。

 知的な英語話者は、喋りながら、頭の両脇で人差し指と中指でチョキを作って少し曲げたポーズをとることがある。その言葉は「” ”」がついた、「いわゆる」というニュアンスですよ、というメッセージだ。

 外向けの文章では、必要に応じて適切に括弧を使う習慣をつけたい。


 「価値」を「価値」と書く誤字が多く見られた。最近では「価値感」を許容する傾向もあるのだが、原文では「価値観」となっている。

 「価値観」とは「価値」に対する「見方(観)」。


 特に書き出しの部分で「私は~と思う。」と書いている者が多かったが、論文中に「私」が出てくる必要は、原則的には、ない。書かれた内容は全て「私」が「思った」ことに決まっているので、書く必要がない。「思った」内容だけを書けば良い。

 「私は~と思う。」と書きたくなるのは、断言することに自信のないときでもある。

 だが論文では責任をもって断言する覚悟を持つべき。この部分は個人の好みや立場に過ぎないということをよほど強調したいというときにだけ限定して使うとして、基本は「私は~と思う。」という書き方はしない。

 単に「~と思う。」という文末でもNG。

 せめて「私は」と書かず、「~について述べる。」とだけ書く。


 さて、評価する前に複数の他人の文章を読んで、「相場感」をとらえておいた。これくらいできれば上出来、というつもりでこちらも同じ課題に取り組んでみた。


例1

 「〈私〉時代のデモクラシー」で宇野は社会学者バウマンの言葉を借りて「私たちの生きる近代は(…)〈個人〉や〈私〉中心の近代だ」と述べる。「近代の目標」はそれまでの社会的伝統や宗教からの「個人」の解放だった。そうして出現した「個人」が自由な近代社会を作っている。だがそうした自由の中で「自覚的に関係を作らない限り、人は孤独に陥らざるをえ」ないと宇野は言う。解放を目指していた近代は、その反動で個人に、人間関係の維持を強いるようになっているのだ。

 山竹「空虚な承認ゲーム」では、「宗教やイデオロギーなど、個人が生きる意味を見出だすための社会共通の価値観」=『大きな物語』が信用を失」っているのが現代だと言う。これは「伝統・宗教」から「個人」を解放してきたのが近代だと宇野が言うのと同じことだ。そしてその反動で人間関係を自分で選択して構築・維持しなくてはならないのが宇野の言う「後期近代」=現代だ。そうした人間関係の維持を、山竹は「空虚な承認ゲーム」と呼ぶ。

 鷲田清一が「『つながり』と『ぬくもり』」の中で次のように言うのも同じだ。「『近代化』というかたちで、ひとびとは社会のさまざまなくびき(…)から身をもぎはなして、じぶんがだれであるかをじぶんで証明(…)しなければならない社会をつくりあげてきた」。ここで述べられている「近代化」は宇野や山竹の言う「近代化」と完全に同一である。こうしておとずれる「親密な個人的関係というものに、ひとはそれぞれの『わたし』を賭けることになる」(鷲田)という状況は山竹の「空虚な承認ゲーム」にほかならず、宇野が「人間関係は、一人一人の個人が(…)維持していかなければならない」という状況とも重なる。

710字

例2

 宇野重規「〈私〉時代のデモクラシー」と山竹伸二「空虚な承認ゲーム」と鷲田清一「『つながり』と『ぬくもり』」に共通して述べられている現状認識は、概ね次のように要約することができる。近代は、伝統や宗教といった、多くの人が信じていた「大きな物語」のくびきから人々を解放し、自由にしてきた過程である。そうして生まれた「自由な個人」は、かえって自分の存在に不安を覚え、今度はあらためて身近な人々との人間関係の中で、自らそれを再確認しようとする。

 三者は、そうした「後期近代」=「現代」に生じている問題について、それぞれ次のように述べる。

 鷲田はそうした他人との「つながり」を求める人々のありようをシンプルに「さびしい」という言葉で表現する。若者たちが他人との「つながり」を求めるのは、断絶しているという感覚の裏返しであると言う。

 山竹は「大きな物語」が既に失われている中で個人が身近な人々の承認を得ようとつながりを求めることを「空虚な承認ゲーム」と呼ぶ。そうして承認を求めるために時に自分を抑圧することから、個人の自由と承認の間に葛藤が生ずると述べている。

 そして宇野は、それぞれが「自由な個人」=「私」になった社会で、一人一人がユニークになっているはずなのにかえってみんながそれぞれ似通ってしまう皮肉を指摘し、併せてバラバラな「私」を集めて社会問題を解決しなけれならない民主主義制度の難しさにも言及している。

601字

 例1と例2はどう違う、と授業では訊いた。内容の適否だけでなく、それがどのように書かれているかについても分析的に把握できることが望ましい。

 書き出す前には、例2の一段落のようなことが「共通点」として想定されていた。

 それを実際に文章におこすにあたっては、それぞれの文章でそうした論旨が、どのような表現で書かれているかを実際に引用するつもりだった。そうして書いたのが例1だ。

 だが書いているうちに600字に収まらないことがわかった。引用もしつつそれぞれの文章の主旨をまとめる。しかも相互の対応を示しながらだ。短くまとめるのは難しい。

 そこで例2では、最初に共通した論旨を作文してまとめた。もちろんいくつかの文中の語は括弧を付してそのまま使っている。それでも相当に300字までに余裕があるくらいだったので、その後に、それぞれの文章で、重なっていない、その文章独自の論旨についてそれぞれ短くまとめていった。「関連を示す」ということでは、共通点を示すことが前提で、その上でそれぞれに共通していない論旨がなんなのかを示すことも有効だ。


 さてみんなの文章には、とてもよく書けていて、上の例と遜色ないものもあった。今回の課題は、それほどオリジナリティの出るタイプのものではなく(だからこそ「私は~思う」はいらない)、いわば「正解」があるようなものなので、あとはどれくらい的確に、手際よくまとめるかが評価の分かれ目になった。

 一つ、目を引いた文章を紹介する。C組Sさん。

 私は「〈私〉時代のデモクラシー」「空虚な承認ゲーム」「『つながり』と『ぬくもり』」の三作は、近代における他者からの承認という点で関連していると思う。

 近代では「個人の自由」を求め、「伝統や宗教からの解放」という動きが広まった。しかし、解放された人々は次第に不安を抱き、学校や会社などで集団を作る。

 宇野は、「平等」な個人の集団の中で「一人一人の〈私〉」を、つまり「『このままの』じぶん」を承認してくれることを人々は求めていると述べている。鷲田も、何かが「できる」資格が求められている社会の中で、何もできなくても「『このままの』じぶん」を受け容れてくれる愛情を求めていると述べている。対して山竹は、本当に信じているわけではないような形式的な行為をしている「偽りの自分」を承認してもらおうとしている人が多いと述べている。

 宇野の「〈私〉時代のデモクラシー」、鷲田の「『つながり』と『ぬくもり』」は「『このままの』じぶん」を、山竹の「空虚な承認ゲーム」は「偽りの自分」をそれぞれ承認の対象としている。人々は「『このままの』じぶん」が承認されることを求めているが、実際は「偽りの自分」が承認される自体が蔓延してしまっているのだ。

 このように、三つの文章は近代における他者からの承認について述べている点で関連していると考えられる。

 出だしが早速「私は~思う」型になっているがそれはさておき、「他者からの承認」を三つを関連させるキーワードとして使い、その中で「『このままの』じぶん」と「偽りの自分」という対比に注目して論を展開しているところが鋭い。


2022年7月20日水曜日

空虚な承認ゲーム

 ここに、5月に課題として読んでそのまま授業で取り上げ損なっている山竹伸二「空虚な承認ゲーム」を合わせる。

 もう残り時間もないので、最低限の読解ということで、シンプルに問う。

 「空虚な承認ゲーム」って何?

 題名になっているくらいだから本文中に端的な定義があるかと思いきや、どうも見つからない。自分で作文しなければならない。

 こういうのは問いに対する答えが重要なのではない。「何か」を理解するのではなく、「何か」を表現しようとする。答えようとすると否応なく頭を使わざるをえず、それが国語的な練習になっているということなので、ともかくも自分で考えてみる。そして書く。喋る。

 最もシンプルには次のように言えばいい。

自分の所属する小集団の中でメンバーからの承認を得ようとすること


 さてもう一つの問い。

 この表現にはなぜ「空虚な」「ゲーム」といった否定的な表現が使われているのか?

 「空虚な承認ゲーム」を説明しようとすれば必然的に「空虚」「ゲーム」のニュアンスにも言及せざるをえないが、それを意識的に、なぜ「空虚」? なぜ「ゲーム」?と説明してみる。もちろんこれらは共通した意味合いをもっているのだが、二つに分けることで考える手がかりができる。

 こういうときにも対比の考え方を使う。

 「空虚」の対比として「中身が充実している」状態を想定し、それとの相違を表現する。「ゲーム」ならば「現実」を対置する。


 さて、上のように表現される行為(?)はなぜ「空虚」なのか?

 上の表現からその要素を取り出そうとするなら「小集団の中で」くらいだろうか。

 これがなぜ「空虚」なのかは、どうならば空虚じゃないかを考える。

 「小集団」の対比は「社会全体」。社会全体が信じている価値を追うのなら自信を失うこともないが、その価値は所詮この集団の中だけで通用するものだとわかっていることが「空虚」なのだ。

 さらに、その集団の目指す価値を本気で信じていないにもかかわらず、承認を失うことは避けたいので形式的に承認を求め続ける。

 こうした言い方では「本気で信じていない/信じる」「形式的/実質的」という対比が意識されている。

 また「ゲーム」という比喩のニュアンスは?

 上のように「空虚」であることが説明できれば既にそれが「現実ではない」ことを示しているとは言える。「ゲーム」は、それが現実であるとは本気では信じていないことを言っているのだ。

 さらにB組では、そうした行為を演じさせられてしまっている様が、何かに操られているようだから、という意見もあった。本文に直接そう書いてあるわけではないが、「ゲーム」という比喩を使って筆者が表現したいニュアンスをうまく表わしている。

 同様に、それが「空虚」だとわかっているのに、そこから抜け出せない、やめられない様が「ゲーム」のようだ、という意見もあった。なるほど、ゲームの中毒性・依存性がこの比喩から連想されてくるわけだ。


 さて、この文章を「〈私〉時代のデモクラシー」と比較し、さらに4,5月に読んだ文章と関連づけて論ずる、というのが夏休みの課題。正直に言えば「羅生門」の考察の方が面白かったかもしれないが、授業展開の都合でここで夏休みとなった。

 そしてなおかつ、この課題は簡単ではない。まずどちらの文章も読みにくい。なんとなく一致点を掴めたような気がしても、それを文章におこすのは容易ではない。

 かつ、文章を書く上でやっかいなのは、その文章がそうした趣旨を述べていると自分が書く際には、必ず引用をしなければならないということだ。確かこんなことを筆者は言っているよなあ…で代弁してしまうと不正確なことになりやすい。可能な限り本文を引用する。

 本文を引用することで、それぞれの文章が、正確にはどのように対応しているかが明確に見えてくる。どの言葉とどの言葉、どのフレーズとどの表現が対応しているか。

 ここまでの学習の成果を確かめるためにも、真摯に取り組んで欲しい。

2022年7月13日水曜日

羅生門 20 終わりに

 ここまで7回の授業で「羅生門」を読んできた。定期考査が終わってから、ほぼ一ヶ月、今年度初で、最後かもしれない小説の読解を体験してきた(いや、もう一編くらい読みたい)。

 そういえば「羅生門」の認知度調査に回答してくれた69名の皆様、ご協力ありがとう。

 読んだことがあるというご家族は58名、約84%だった。やはりこれだけ読まれている小説は他にない。

 一方で「ない」と断言した方が7名。約1割のご家族は「羅生門」を扱わない高校生活を送ったのだ。

 「生きるためのエゴイズム」というテーマについては半分が「そんな感じだと聞いた」と答えている一方、半分は「よくわからない」だそうだ。確かに高校生の頃の授業の内容を覚えているかといえば授業者も怪しい。

 一方で「違う話を聞いた」と6名が答えている。気になる。どんな話だったのだろう。

 「エゴイズム」というテーマについては、多くの方が「そう聞けばそうだと思う」か、「わからない」と答えているが、5名が「そうは思わない」だそうだ。これも気になる。上記の方と重なっているのだろうか。

 授業者が「一般的な解釈」と言っているのは、文学研究や国語科教材研究の世界での話で、それこそ「一般」の方の認識はどうなっているのかは知りたいところだ。上記の少数派の話を聞いた方、教えてほしい。


 小説の読解は、ある意味では評論やその他の実用的文章を読むことと変わらない。テキスト細部から必要な情報を拾い上げて全体を構造化することだ。

 同時に構造の中において初めて持つ細部の表現の意味を捉えることでもある。全体の構造化細部の意味づけは相補的に働く。

 「羅生門」の読解においてやってきたのはそういうことだ。

 全体の構造をどう組み立てるかと、細部の表現をどう意味づけるかといった思考を相互に整合的に働かせる。 

 そうして現状で納得できる「構造」「意味づけ」が前回までに見てきた「羅生門」解釈だ。

 「生きるために人が持つエゴイズム」について書いてあるのだという「羅生門」理解は、例えば下人の心理の描写を充分に「意味づけ」ておらず、そうした「構造」は言わば基礎工事が手抜きされた砂上の楼閣に過ぎない。

 そうした「羅生門」理解に従って「生きるための悪は許されるか」などという問題について考えることは、むしろそうした観念的アポリア(難問)からの脱却を描いているという小説の主題に反している。それは国語の授業ではなく「道徳」の授業だ(もちろん「道徳」の授業にもまた別の意味があるので、「羅生門」に関係なく行うのならそれも良い)。


 上で「ある意味では」と書いたが、小説の読解は、そこに書いてある具体的な事柄から、一段抽象度を上げて、それを意味づける必要がある。「主題」と言っていたのがそのことだ。小説中の5W1Hをただ確認しても意味がない。そこからどのような「意味」を酌み取るかが「構造化」であり「主題」の考察だ。

 一方評論は、本文の言葉と抽象度を変えずに「全体の構造化/細部の意味づけ」を行う。本文が既に抽象度が高いからだ。

 だがそこで論じられている問題が、我々の現実とどう関わっているかを考える、という意味で、やはり本文から一段抽象度を上げることが必要でもある。


 ちょうど「羅生門」の読解の終わりに参院選があり、その最中に前首相の銃撃事件があったのは、何だか不思議な巡り合わせだった。

 事件直後は、選挙演説中の政治家を銃撃することは「言論を封殺するテロリズムだ」といった言説がマスコミに流れ、多くの政治家もマイクを向けられるとそう語っていた。

 だが少しずつ伝わってくる犯人像は、どうもそうした政治的テロリズムのイメージと乖離しているようだ。自分の家族がある宗教団体のために不幸になり、その団体と前首相が関係していることから恨んでいた、という話などを聞くと、犯人には何か政治的な理念があるようには感じられない。

 それが筋違いや勘違いの逆恨みだとすれば不幸なことだが、そうでなくとも少なくとも自分の家族の不幸を一人の政治家に向けるのはどうみても現実的ではない。

 つまり彼が撃ちたかったのは、現実的な肉体や家族をもった一人の人間ではなく、彼の「観念」の中にしかない「悪」だったとしか思えない(もはや「観念」と言うより「妄想」でしかないが)。

 一方で、政治的テロリズムとしての確信犯もまた、やはりある観念としての「敵」を排除しようとしているのだとも言える。政治的テロリズムがしばしば「ジハード(聖戦)」の名の下に行われるのは、そうした観念が人を動かすことを示している。

 いずれにせよ、芥川の描こうとしたモラルの虚妄は、こうした現実の悲劇と根を同じくしている。


 「羅生門」の後は「現国」の教科書に戻って「〈私〉時代のデモクラシー」を読む。

 これもまた参院選の後に読むことが感慨深い。ここに提起された問題は、まさしく文章の内部で完結するわけではなく、まぎれもなく現実の、今ここで起こっている問題なのだ。


2022年7月9日土曜日

羅生門 19 モラル・にきび

 下人の現状認識は最初から観念的であった。「極限状況」は現実の問題でもあるはずなのに、それが小説中で肉体的な感触として描かれないことは、下人の現状認識が観念的であることの証左だ。

 だからこそ「飢え死にするか盗人になるか」という問題設定もまた観念的だ。飢え死にすることが選択肢になる時点で、それは差し迫ってはいないし、もう一方の選択肢である「盗人になる」=「悪」という選択肢は幻想でふくれあがっている。こんな選択肢の間で逡巡するようなアポリア(難問)は下人の観念の中にしかないことが、今や明らかになったのである。

 老婆の言葉は下人にとって決して新しい認識ではない。だがそれは最初、門の下で下人が抱いていた幻想が潰えた後であらためて確認される卑小な現実だ。

 だから「きっと、そうか」という念押しは、下人の苦い現実認識の確認だ。

 ここに付せられた「嘲るような」という形容について、「老婆の論理」の考察のくだりでは「正当化の論理が自分に向けられてしまうことに気づかない老婆への皮肉」として説明した。

 だがそれよりもむしろこれは、露わになった現実認識に対する不快の表れであり、幻想を見ていた自分に対する自嘲だと捉える方がしっくりいく。

 つまりこの嘲りは、矮小な悪の論理を語る老婆にのみ向けられたものではなく、まさにこれからそれをしようとする自らにも向けられているのである。


 あらためて、このような読解による「羅生門」とはどんな小説か?

 「羅生門」の主題とは何か?

 芥川本人による主題「moral of philistine」をどう考えたらよいか?


 「羅生門」とはつまるところ、空疎な観念による幻想から醒めて現実を認識する、である。

 芥川自身が「moral of philistine」について書きたいと言うのは、つまり世人の「モラル」に対する皮肉だ。「善」と「悪」をめぐる価値の対立こそ「モラル」である。だが人々の言う「モラル」など、頭の中にある図式に過ぎず、それが現実ではなく空疎な観念でしかないから「時々の情動や気分」に容易く左右される。

 下人の心に突如燃え上がる異様な「憎悪」を通して、我々の持っている「モラル」がそのような歪で浮薄なものに過ぎないことを描く。

 それこそが芥川の意図する「羅生門」の主題である。


 下人の頬の「にきび」はどう考えればいいか?

 「エゴイズム」論によれば、にきびが象徴するものは例えば、正義感、良心、道徳…といったところである。これらは、引剥ぎが「生きる為になす悪」を肯定する行為だとみなす主題把握と対応している。下人はモラルを棄てて、悪にはしったのだ。

 そしてここまでの結論でも、それを「道徳=モラル」と言ってもいい。ただし一般的解釈における「道徳」は「エゴイズム」に対立する、そのままのいわゆる「モラル」である。

 だが芥川の言う「ペリシテ人のモラル」とは、空疎な観念に根拠づけられた歪で浮薄な、いわば「反モラル」である。

 頬ににきびをもつ下人は空疎な観念に支配された人間であり、その象徴たる「にきび」から離れた下人の右手は、もはや阻むもののなくなった現実的な選択を実行にうつすしかないのである。


羅生門 18 答え合わせと検算

 「羅生門」の論理構造は次のようにまとめられる。












 この結論に基づいて、ここまで考察してきた問題を捉え直してみよう。

 物語の冒頭、門の下で下人の頭にあった「悪」はいわば観念としての、幻想として「悪」であった。冒頭の部分ではまだ、そのことはわからない。それはあくまで物語の結末から遡ってみてわかることだ。

 最初にそのことが読者の前に示されるのは、①「憎悪」の描写を通してである。

 授業で分析した①「憎悪」の描写は全て、対象となる「悪」が観念的であるということを示している。作者の形容はすべてそこへ向かって重ねられている。

 「むしろ、あらゆる悪に対する反感」という憎悪の一般化、抽象化は、憎悪の対象が具体的ではなく、実体のない幻想としての「悪」であることを表している。

 「それだけですでに許すべからざる悪であった」という独断的な決めつけも、「合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった」も、具体的な検証抜きに「悪」が認定されていることを表す。

 「もちろん、下人は、さっきまで、自分が、盗人になる気でいたことなぞは、とうに忘れている」のも、冒頭の問題設定がそもそも観念的だったからだ。「忘れる」ことは「もちろん」だ、というのは、現実に依拠してない難問を、下人が頭の中だけで弄んでいたことに作者が自覚的であることを示している。

 「この雨の夜に、この羅生門の上で」という読者には理解しがたい(だが微妙にわかったような気もする)条件が「悪」を認定する根拠となっているのもそれが気分的なイメージに過ぎないことを示している。そしてそれが「予断・先入観」であるということは、物語冒頭の迷いにおいて「正義」と拮抗していたのが既にそうした「観念としての悪」だったことを示している。

 そこに老婆という容れ物が形を与える。憎悪が燃え上がる。だがそれは実は幻想としての「悪」という観念に対する憎悪である。

 だからこそそれは、過剰になりやすい。観念は現実から遊離しているがゆえにしばしば激情を誘発する。イデオロギー闘争が激化しがちなのは、イデオロギーが観念的だからだ。

 老婆を取り押さえる時に下人を支配する勇気は、観念に支配された者の蛮勇だ。

 観念としての「b.悪」が幻想で膨れあがるとき、それに拮抗する「a.正義」もまた釣り合いをとるべく膨れあがる。それは内実を伴わない空虚な泡である。下人の憎悪は空疎な正義感を燃料として燃え上がる。下人は自分もまた盗人になることを迷っていたことなどすっかり忘れて、自分を「正義」の側に置いている。

 続いて「得意と満足」がおとずれる。その変化は、理由が明らかになる前に生じている。つまりそれは対象の善悪についての現実的・合理的な判断に基づいていないのである。その「満足」は、事態の根本的な改善には何ら関係のない自己満足だ。「ある仕事をして、それが円満に成就したときの」という奇妙な喩えにふさわしい内実はどこにも存在しない。

 現実に依拠していない激情は熱しやすく冷めやすい。老婆を取り押さえただけであたかもその「悪」が消滅したかのように冷めてしまう義憤も、対象となる「悪」が最初から空虚な幻想だったからだ。


 ここまでくれば先に保留した問いにも答えられる。

 なぜ下人は「老婆の答えが存外、平凡なのに失望した」か?


 先程は答えまでに距離があるからと保留にした問いだ。

 ここまでの展開で、「幻想としての悪が、つまらない現実の悪であることを知ったから」などと答えられるようにはなっている。

 だがもう一歩、それになぜ「失望」するのか?

 この「失望」は髪を抜くという行為に何か禍々しい理由があることを期待していたことの裏返しだ。これもまた、「悪」が幻想として膨れあがっていたことを示している。

 下人がなぜそれを期待していたかといえば、「悪」が大きいほどに、それに拮抗する自分の「正義」の幻想も大きくなるからである。

 「悪」が現実的な、卑小なものであることがわかると、幻想に拮抗して膨れあがった自らの「正義」もまた同様に萎んでしまう。

 「正義」の幻想に酔っていた下人はがっかりする。

 自分が正義であると信ずることは快感だったのだ。


 そして浮上してくるのは再び③「憎悪」だ。

 ①がふくれあがった幻想としての「悪」に向けられた燃え上がるような「憎悪」であるのに対して、③の「憎悪」は、その卑小さが露わになった現実的な「悪」に向けられた冷ややかな「憎悪」である。悪はここでは「憎悪」の対象であるとともに「侮蔑」の対象にもなったのだ。

 先ほどの①と③の「憎悪」の比較によって確認された共通点と相違点は、こうした差違を示している。

 そうした下人の変化がわかっていない老婆は、さらに自分が「悪」くないことを言いつのる。状況が現実的に認識されるにつれ、下人の心はいっそう冷めていく(老婆の話を「冷然として」聞く)。


羅生門 17 結論



 空欄に入る語は何か?

 あちこちで「主観/客観」を挙げる声が聞こえる。

 だが聞いてみると、①③のどちらが「主観」でどちらが「客観」かは、班によってさかさまだったりする。

 どちらでももっともらしい説明ができてしまうのだ。

 つまりこの対比は有効ではない。


 「抽象/具体」も挙がりやすい。①の突然一般化された「悪」は確かに抽象的であると言ってもいい。一方③の、理由を聞いて認識される「悪」は具体的な老婆の行為を指している。

 この対比は適切だが、ここから主題の把握には距離がある。こうした下人の認識の変化がどのような主題を構成することになるのか。

 ①には、例えば「イメージ」などの言葉が入りうる。「虚像」を上げたのはH組K君。こちらからは「幻想」も挙げた。

 その上で、最も適切な言葉は「観念」だと思う。

 高校生はこの言葉を決して想起しない。言葉としてはみんなも知っている。だが「語彙」というのは「知ってる言葉」ではなく「使える言葉」だ。「観念」という語彙は高校生にはない。

 「観念」とは何か?


 辞書的な意味を確認するより対比の考え方を用いる。「観念」の対義語は?

 だが通常「観念」の対義語は辞書にはない。

 むしろ「観念的」という形容で考えてみるとわかりやすい。空欄の下に「的な」をつけたのはそのための誘導だ。

 「観念的」の対義的な形容は「現実的」である。「お前の考えはどうも観念的で、ちっとも現実的ではない」などという。

 「観念」とは、頭の中だけに存在する現実離れした考え、というニュアンスで使われる言葉だ。「観念的」とは「頭でっかち」とか「地に足が着いてない」とか「机上の空論」といったニュアンスの否定的な形容だ。「観念的な議論はいい加減にして、現実的な解決策を探ろう」などという。

 これで結論は出る。


 下人が門の下で「勇気」を持てなかったのは、下人が「悪」というものに過剰な幻想を見ていたからである。

 それはいわば現実性を欠いた観念としての「悪」だ。

 「a.正義(飢え死に)/b.悪(盗人)」の拮抗状態からbに進めない理由は、bに進む抵抗が強かったからだ。それが、老婆の答えを聞いた後に弱まる。それは下人の「悪」に対する認識が「① 観念 としての悪」から「③ 現実 としての悪」に変わったからである。

 「羅生門」という小説は、ある幻想が消滅し、現実に覚める物語なのである。



2022年7月6日水曜日

羅生門 16 最終考察のヒント

 下人の「心理の推移」が、どのような論理によって引剥ぎという「行為の必然性」を導き出すのか?

 「老婆の論理」に拠ってだ、と考えるとそこで思考停止してしまうのだが、「老婆の論理」を否定して、「心理の推移」が「行為の必然性」にいたる論理を見出すことには、ある発想の飛躍が必要だ。

 これはやはり解くには難しい問いだ。

 少々誘導しよう。

 「なぜ引剥ぎをしたか」という問いは「なんのために引剥ぎをするか」という問いではない。「行為の必然性」とは変化の必然性のことだ。すなわち、「なぜできなかった引剥ぎができるようになったのか」である。

 ここから問いを「なぜ門の下では盗人になる勇気が出ずにいたのか」と置き直しておこう。問題は二つの位相の相違と、それを生じさせたメカニズムである。

 

 さて、門の下で下人の中にあったのは、どのような論理・価値の拮抗か?

 具体的には「a.飢え死にをする/b.盗人になる」という選択肢の間での逡巡だ。

 これを抽象化する。

 「死/生」が挙がるが、下人は「死」を選択しようとしているわけではない。

 選択すべき価値としては「善/悪」も悪くないが「a.正義/b.悪」がいいだろう。

 最初の時点で「a.飢え死に/b.盗人」は拮抗している。この拮抗のバランスは、途中完全にa「飢え死に」に傾く。

下人は、なんの未練もなく、飢え死にを選んだことであろう。

 そして最後には完全にb「盗人」に傾く。

飢え死になどということは、ほとんど考えることさえできないほど、意識の外に追い出されていた。

 つまり最初の「a.正義/b.悪」の拮抗は一度完全にaに振り切れ、その後完全にbに振り切る。この変化は極端である。

 「老婆の論理」説は最後にbを選ぶ必然性を説明しているだけで、途中で一旦aに振り切る極端な変化はなぜ生じているのか、なぜそのことを執拗に書くのかという疑問には答えていない。

 最初の拮抗は、確かに拮抗してはいるのだが、現状はaでありこのままでは「飢え死に」してしまう。下人にとってはbを実行できるかどうかが問題だ。

 最初bに進む勇気が出なかったのはなぜか?

 最初にbを実行できないでいた理由としては、論理的にはaの引力が強かったからか、bの抗力が強かったから、の二択だ。

 「盗人」になるのをためらっていたのはa「正義感」が強かったからか、b「悪」に抵抗を感じていたからか?

 盗人になることを妨げていた下人の「a.正義」が力を失ったことで盗人になれたのか、「b.悪」に対する抵抗が弱まったことで盗人になる「勇気が生まれてきた」のか?


 手がかりになるのが先の「心理の推移」の考察の際に確認した①の「憎悪」と③の「憎悪」の比較だ。

 最初の迷いからaに極端に振れてしまったところに①の憎悪が生じている。

 そして、③の憎悪の後にbに振れる。

 ということは、先に考察した①と③の相違が、aからbへの変化に対応しているのではないか?


 ①と③の相違を次のように整理する。
















 この比較を可能にするために「共通点」を確認することが必要だったのだ。

 先の「相違」が示す相違を、その対象の違いとして表現する言葉を探すのである。

 問題は下人の「悪」に対する認識の変化である。

 大詰めだ。

 下人はなぜ引剥ぎをしたのか?


羅生門 15 「前の憎悪」

 老婆の答えを聞くと、下人はなぜかそれが平凡であることに「失望」する。それとともにまた再び「憎悪」が浮上してくる。

 さてここで分析したいのは①「憎悪」と③「憎悪」の比較である。

 両者の共通点と相違点は何か?


 比較するためには共通性が前提となるのだが、みんなには相違点を挙げる方が容易だ。

 では相違点は何か?

 ①が、老婆の行為の理由がわかる前に生じた「憎悪」であるのに対し、③は、わかってから生じた「憎悪」である。また、①が「あらゆる悪に対する」という、奇妙に拡散した対象に向けられているのに対し、③は老婆という限定した対象に向けられている。

 対象が「不特定」(一般化)か「特定」(限定的)か

 また、①が燃え上がるような「憎悪」であるのに対して、③の「憎悪」は、「冷ややかな侮蔑」とともにある。

 「熱い憎悪」と「冷たい憎悪」

 こうした差異は何を示しているか?


 一方、共通点は何か?

 「また前の」という形容がわざわざ付されているのは、①の「憎悪」を受けていることを示している。そう書く意図があるはずなのだ。それが何であるかを理解しなければならない。

 だがこれを言葉にするのは難しい。聞いてみるとあっさり出てくることがある一方、なかなか出てこないで時間がかかる場合もある(各クラスでこれを答えた者たちは自慢して良い)。

 実は拍子抜けするほど簡単な答えだ。

 共通点は、どちらも「悪に対する憎悪」だということである。

 このことをなぜ確認する必要があるかというのは、最終的な考察で明らかになる。


 先に言及された「嘲るように」「かみつくように」についても注意を促しておきたい。

 「嘲る」は一般的には先に触れたように、老婆の自己正当化の論理が自分に対する害をも容認することに老婆自身が気づいていないことを嘲っているのだ、などと説明される。

 だがこの形容が③の「侮蔑」と響き合っていることを認めるならば、この説明を受け入れることはできない。「侮蔑」は老婆の長広舌を聞く前だからだ。

 そして「かみつくように」という老婆に対する敵意は「憎悪」から続いていると考えてもいいはずだ。

 したがって、「嘲る」にせよ「かみつく」にせよ、老婆に対する下人の感情は、老婆の長台詞の前にその要因が準備されていると考えられる。


 ここまで見たような念入りに書き込まれた不自然は、それがこの小説にとって意味のあることだということを示している。


 「引剥ぎ」という「行為の必然性」は、従来「極限状況」と「老婆の論理」によって説明されてきた。

 「行為の必然性」は、先に確認したように「変化の必然性」だから、これは物語の構造を次のように捉えていることになる。




















 だが「行為の必然性」は脆弱な「老婆の論理」に拠るのではなく、「心理の推移」によって準備され、その論理的帰結によって導かれている。












つまり


 










という論理の中で捉えられるべきである。

 とすればその論理とは何か?


羅生門 14 「得意と満足」「失望」

 次に、文中には言及されない「勇気」が湧いて、下人は老婆を取り押さえる。その後におとずれる②「安らかな得意と満足」もまた不自然だ。

 どのように?


 この「得意と満足」は「老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されているということを意識した」からだと言われているし、「ある仕事をして、それが円満に成就したときの」という形容がついている。

 説明はされている。にもかかわらずちっとも腑に落ちない。そんな場合か、と思う。この脳天気さは到底「極限状況」に置かれた者の心理ではない。

 これは老婆の行為を「悪」と判断する理由が「雨の夜に」「羅生門の上で」と述べられることに似ている。書いてはあるが、どうしてそれが理由になるのかが読者にはわからない。読者にわからない理由が、わざわざ挙げられている。

 だがもっと明確にこの不自然さを指摘しよう。

 ②「安らかな得意と満足」が不自然だと感じられるのは、何より前に「得意と満足」が生じているからか?

 当然あるべき何がないことが不自然なのか?


 ①「憎悪」で言及された「なぜ老婆が死人の髪の毛を抜くか」という疑問が解消していないこと、である。

 下人は「何をしていた」と問うが、老婆の答えを聞く前に「満足」している。

 これもまた、①「憎悪」の分析と対になっている。「悪」であると判断する合理的理由はないまま断定して燃え上がった「憎悪」は、その理由についての疑問が氷解する前に消滅する。

 つまり、髪の毛を抜く「理由」が「憎悪」の当為を支えるものではないということだ。

 このことが意味するのは何か?


 次の③「失望」ももちろん不自然だ。

 この「失望」から何が考えられるか?


 この「失望」も読者の自然な共感・理解を超えている。だから「なぜ下人は失望したか?」と訊きたくなるが、この問いでは答えまでの距離が遠すぎる。

 まずこう考えよう。この記述を反転させるとどうなる?


 「平凡」であることに「失望」しているのだから、下人は「非凡」な答えを「期待」していたことになる。

 では下人はなぜ「非凡であることを期待する」のか? そして「非凡」な答えとはどのようなものか? というより、このことは何を示しているか?



羅生門 13 不自然な憎悪

 下人の「憎悪」は確かにおかしい。よくわからない。

 といって完全に理解することができなかったら、これはもっと読者の注意を引くはずだ。下人の「憎悪」を読者はそれなりに了解してもいる。

 死体の髪の毛を抜くことはなぜ悪いのか? とりあえず読者はどう理解しているのか? 通読したときには自分はどのように理解したのか?


 「他人のものを盗むのは良くないことだから」ではない。本文には「下人には、もちろん、なぜ老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。」と書いてある。下人は老婆の行為を「盗み」だと判断して「悪」と決めつけているわけではない。


 とりあえずこんなふうに言えればいい。

 死体の損壊を、死者への冒瀆と感じて憤っているのだ。

 だがこうした理由は、この「憎悪」の不自然さを解消するだけの納得をもたらさない。

 そんなことを感じていられる状況ではなかったはずだ。下人は生きるか死ぬかという状況ではなかったか、羅生門は死者が投げ捨てられるのが日常化するほど荒れ果てた場所ではなかったか、そんな状況で今更死人の髪の毛を抜くことに、突如「憎悪」が燃え上がってしまうというのは当然のことなんだろうか、そんな当惑を読者に残す。

 だからこそ、ここには「極限状況」などないのだ、とも言えるのだが、ともあれ読者はこの「憎悪」に違和感を感じつつも、下人が老婆を「悪」と決めつける判断は全く理解不可能というわけではないから、この「憎悪」の不自然さがどのような意味をもっているかを本気で追究することから巧妙に目を逸らされている。

 読者が先回りしてこうした推測でひとり合点する一方、下人にはそれを判断することはできない、と作者はわざわざ明言する。

 では作者は下人が判断した根拠を何と書いているか?


 かろうじてそうと認められるのは「この雨の夜に、この羅生門の上で」だ。なおかつ「それだけで既に許すべからざる悪であった」という、これもまたよくわからない断定がなされている。

 だが一方で半ばはわかるような気もする。確かにそれは不気味な雰囲気を醸し出している舞台設定だ。何か不穏なことが起こっていてもおかしくはない、といった読者の曖昧な納得を誘導する。

 これは上記の、下人が老婆の行為を悪と判断した理由を読者が先回りして推測してしまうことと似ている。

 といってそもそもこれが悪と判断する根拠なのかどうかも、文脈として明示されているわけではないから、厳密に問い質そうとすると「そんなことは言っていない」と作者は身を躱す。が、改めて考えてみればやはり変なのだ。


 さて、この表現には見覚えがないだろうか?

 注目すべきは、この表現が羅生門の上層に上る途中にも見られることである。

この雨の夜に、この羅生門の上で、火をともしているからは、どうせただの者ではない。

 この反復は何を意味するか?

 こう言ってみよう。


 これは、下人には   があったことを示している。

 さて空欄には何が入る?


 「思い込み」「前提」あたりが出てくれば上出来。

 「先入観」が出ればOK。

 「予断」が思い浮かんだら大したもんだ。高校生からは出てこない語彙だ。

 つまり下人は既に老婆の行為を目撃する前に、それが異常なことであると決めつけているのだ。

 そしてその予断の根拠となる「この雨の夜に、この羅生門の上で」がなぜ根拠となるのか読者にはわからない。


 下人の「憎悪」は、老婆の行為を「悪」と決めつけるために、読者がかろうじて了承できるような理解(「死者への冒瀆」)の余地を残しながら、一方でそうした納得できるような理由は注意深く否定され、代わりにによくわからない理由(「雨の夜に羅生門の上で」)が置かれる。読者は居心地の悪い宙吊り状態におかれる。なのに、とりあえずの納得もできるから、それ以上には考えようとしない。

 だが注意深く読むと「憎悪」についての描写、形容は、相反する方向に引き裂かれて、ねじれている。この不自然さは、下人の心に生じた「憎悪」が読者にとって共感できないという意味でも不自然だが、それだけではなく、こうした情報をどのような論理に組み込むべきかがわからないことが、この部分を「不自然」と感じさせている。下人の心理が共感しにくいという以上に、それを不自然に描こうとする作者の意図がわからないことが「不自然」なのである。

 こうした分析は、すべて「行為の必然性」につながるべきであり、その論理の中でこうした違和感を感じさせる表現がなぜ必要なのかは明らかにされねばならない。


2022年7月5日火曜日

羅生門 12 「憎悪」の不自然さ

 「羅生門」の顕著な特徴である執拗な心理描写を有意味化し、そこから「行為の必然性」を導き出す論理を見出す。

 まずは下人の心理の読み取れる表現を、物語の時系列順に本文中から挙げてみよう。

  • 「Sentimentalisme」(→「憂鬱・感傷」など)
  • 「下人の考えは、何度も同じ道を低回したあげく」「勇気が出ずにいた」(→「迷い・逡巡」など)
  • 「息を殺しながら」「たかをくくっていた。それが」「ただの者ではない」「恐る恐る」(→「慎重・不審・緊張」など)
  • 「六分の恐怖と四分の好奇心」
  • ①「老婆に対する激しい憎悪」「あらゆる悪に対する反感」
  • ②「安らかな得意と満足」
  • ③「失望」+「前の憎悪」+「冷ややかな侮蔑」
  • 「冷然と」
  • 「(盗人になる)勇気」
  • 「嘲るように」「かみつくように」(→「老婆に対する反感・敵意」など)

 明らかに、問題は①の「憎悪」からだ。

 この「憎悪」に、読者はついていけないものを感ずる。どうみても不自然だ。解釈と納得が要請される。解釈を言葉にするのは容易ではないが、取り組む意義はある。この部分の考察こそが「羅生門」理解の鍵となるはずなのだ。

 考察にあたって「この時の下人の気持ちを考えてみよう」などと問うつもりはない。考えるべき焦点がまるで見えてこない。

 「なぜ憎悪が湧いてきたか」も難しい。書いてあることは指摘できる。だがそれが腑に落ちないからこそ、それについて考えようとしているのだ。

 そもそも読者はこの「憎悪」に共感することができずにいる。だから自分の心を探って、それと照らし合わせて推測することができない。これでは「わからない」というしかない。

 「憎悪」をめぐるあれこれの描写や形容を分析するのだ。

 だが、「分析」というのが何を考えることなのか?


 そこでこう問う。

 読者が①「憎悪」の描写に感ずる不自然さはどこから生じているか?


 分析というのは、ある種の抽象化をすることだ。そしてこれができることが「説明」という行為にとって欠かせない条件となる。

 「どこがおかしいか?」と問うたとき、本文の一節をそのまま引用して「だからおかしい」と言ったのでは「説明」にならない。それが「おかしい」というのがどういう論理に基づくのか、一段抽象度を上げる。

 こういうときにも「対比」の考え方を使う。どうだったら「自然」なのか、どうでないから「不自然」なのか、という説明を考えるのだ。


 各クラスの授業で皆から提示されたのは次のような諸点。

  • 激しすぎる。過剰
  • 憎悪の対象がなぜか一般化する。
  • 自分に害があるわけでもないのに憤っている。
  • 自分が盗人になるかどうか迷っていた事実が棚上げされている。
  • 老婆の行為の理由がわかっていないのに「悪」と決めつけている。

 これらの特徴は、相反する方向性をもっている。

 対象の一般化や自分が害を受けないことや理由の不明といった特徴は、その「憎悪」が激しいことに反している。「憎悪」すべきことが納得されれば激しいのも当然だと思えるかもしれないがそうした納得はない。だからこそそれが「過剰」だと感じられるのだ。こうした矛盾する方向性が、この「憎悪」を不自然だと感じさせている。

 下人の「憎悪」は不合理である。作者はそうした不合理を充分承知の上であえてそのことを読者に明言してみせる。

従って、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。

 悪であるとする理由がわからないまま下人が「憎悪」する不自然さに作者は意識的であり、なおかつ意識的であることを読者に伝えようとしているのである。


2022年6月28日火曜日

羅生門 11 「心理」を考える意味

 では一般的解釈において未解決な問題とは何か?

 これがみんなからすんなりとは出てこなかったのは、後に述べる理由もあるとはいえ、やはり注意深く小説を読んでいないからではある。

 みんなの目はフシアナだ、などと言ったが、実はそれは生徒ばかりの問題ではない。世の国語の先生も似たようなものなのだ。

 どれほど繰り返し「羅生門」を読んでいても、それが問題であることが意識できないのは、小説を読んでいるのではなく、「一般的解釈」によってこの小説がわかっていると思い込んでいるからだ。

 一小説読者として素朴に読めば、それが気にならないはずはない。

 「それ」とは何か?


 「羅生門」を読むと、その詳細で異様な心理描写に誰もが違和感を抱くはずだ。執拗に描写される下人の心理は、その一つ一つに共感できないばかりか、にわかには理解しがたい飛躍によって急変する。

 実は最初の課題で「羅生門」最大の「謎」として既に「下人の心理の変化」を挙げた人もいる(だがこれは最後の引剥ぎの時の「勇気が生まれてきた」のことだけを言っていたのだろうか?)。

 一方で上のように問うた時に、こうした答えがすんなり出てくるわけではない。何人もに発言を回しているうちに、以下に考察するような「憎悪」や「得意と満足」や「失望」についての疑問が散発的に挙がってくるが、それを「心理描写」「心理の推移」といった抽象度で把握することには、また特別な国語的訓練が必要とされる。

 これは重要な国語力だ。そして生徒はそれを教わって「理解」すべきなのではなく、問われて自分で考えるという「鍛錬」をすべきなのだ。

 また、ようやく思考がそのような抽象度に届いたときに「下人の心情」といった表現が多いことが気になった。これは小学校以来「登場人物の気持ち」を考えなさいと言われ続けてきた名残だろうか。

 授業者はこういう場合「心理」という言葉を使うことにしている。特にここから先の考察には「理」を明らかにすることが重要なのである。「心情・気持ち」という言葉で、論理よりも共感を求める日本の国語科授業の姿勢が、曖昧な読解を招いていると思う。


 小説に書かれていることには必ず意味がある。特別な意味はない、という「意味」でさえ、そう確定されるまでは、それは「完全な」解釈にはいたっていないということだ。まして「羅生門」の異様な心理描写が特別な意味を持たないなどとは、到底納得できるものではない。

 だが一般的な「エゴイズム」論的「羅生門」把握では、最初の「極限状況」と最後の「老婆の論理」を短絡させてしまえば、それだけで下人の「行為の必然性」は説明されてしまう。そこに中間部分の「心理の推移」が意味するものは組み込まれておらず、宙に浮いている。

 これが、従来の「エゴイズム」論が「羅生門」という小説を適切に捉えてはいないと言える最大の理由だ。

 念入りに描写される「心理の推移」に意味がないはずがない。

 それはどのような意味なのか?


 これまでの論で、わずかに「心理の推移」が主題に関わるとすれば、下人のその変わりやすい心理こそが「行為の必然性」を支えている、とする立論だ。

 根拠の貧弱な老婆の論理を鵜呑みにしたのも、不安定故の気の迷いである。主題は「移ろいやすい不安定な心理」とでもいうことになる。

 これは「ペリシテ人のモラル」とも整合的だ。「モラルは時々の情動や気分の産物」なのだ。気分次第でコロコロ変わる。

 確かに、推移の一環としてこの「行為」をとらえるならば、そのような理解における「必然性」はあるといえる。「心理の推移」こそ「行為の必然性」を説明している。

 だがそれでは、結局の所、物語の決着点としての「行為の必然性」は逆に、むしろ薄弱になる。単にふらふらと一貫性のない人物がたまたまある時点でそちらに傾いた、ということになるのだから。そのような人物は、次の瞬間にはまた、自分の行為を反省して恥じるかもしれない。

 だが、「冷然と」老婆の話を聞いて、「きっと、そうか」と念を押し、「右の手をにきびから離して」引剥ぎをする下人の行為には、何かしら、この物語における決着点を示しているという手応えを感ずる。

 それは、途中に描かれる心理のような「推移」の一過程とは違う、この物語の主題に関わる決着点であるという感触だ。それは「不安定な心理」説とは相容れない。

 詳細な心理の描写には、主題の把握に関わる重要な意味があるはずである。そう考えると、老婆の長台詞に至る前までの「心理の推移」こそが「勇気を生む」必然性を用意しているのであって、老婆の言葉は、単なるBGMとまではいわなくとも、下人の心が定まる間の時間経過と捉えればいいということになる。


 一般的な解釈は「行為の必然性」を「極限状況」と「老婆の論理」によって説明する。













 「行為の必然性」とは「変化の必然性」でもある。引剥ぎができなかった下人がどうして引剥ぎできるようになったのかという変化に必然性を与える必要がある。

 これを老婆の言葉によるのだと一般的には考える。













 だが「老婆の論理」は「行為の必然性」を支えられない。

 それよりも「心理の推移」が「行為の必然性」に決着する論理を考えなければならない。










 「羅生門」という物語の構造をこのように捉えて、「なぜ勇気が生まれてきたか?」を考える。


羅生門 10 未解決の問題

 「極限状況」と「老婆の論理」は「行為の必然性」を支えてはいない。

 一般的な解釈は、確かにわかりやすい。むしろあまりにわかりやすいとも言える。だが、論理的強度が足りない。引剥ぎという行為の意味について、確かにそうだと感じられる説得力がない。

 そして何より、そんな小説はちっとも面白くない

 だがこうした論理による「羅生門」理解に納得しがたい最も大きな理由は他にある。

 一般的「羅生門」理解では、重要な点の解釈が未解決なまま放置されてしまうのだ。それは何か?

 こういう訊き方はいささか無茶振りだ。だが一般的解釈を疑え、というのはそういうことなのだ。

 「羅生門」では明らかに意図的に書かれていて、読者は明らかにそのことが容易に腑に落ちないはずなのに、そのことの意味が一般的「羅生門」解釈には組み込まれていない、重要な小説要素は何か?


 気になることはいくつもある。

 なぜ突然フランス語が使われるのか?

 なぜ「作者」が登場するのか?

 なぜ下人が一場面だけ「一人の男」と表現されるのか?

 だがこれらの疑問は些細なことだ。大学生だった芥川が技巧を凝らそうと工夫したのだろう、というくらいで看過して良い。


 なぜ「羅城門」が「羅生門」と書かれるのか?

 「羅生門」とも書くのだ。そこに「生死がテーマだから」などと説明するのはいたずらに理屈をこねているに過ぎない(しかも解釈できてしまったし)。


 下人の行方はどこ?

 ある意味ではわからなくてもよいのだが、わかる、とも言える。

 「羅生門」が最初に雑誌に載ったとき、最後の一文は「下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつゝあつた。」だった。芥川は下人の最後の引剥ぎを、盗人になる決意として描いているのだ。

 それを後に「下人の行方は、誰も知らない。」にしたからといって、そこまでの作品の論理が全く変わるわけではない(もちろん、重要な変更が全体の解釈の変更を要請するケースがありえないとは言わない)。

 少なくとも「行為の必然性」は変わらない。それに対する作品全体でのメッセージがいくらか変わることがあるにしても。

 だからまあ何となく余韻をもった終わり方にしたかったのだろう、くらいでいい。


 「にきび」は?

 これは確かに解決が必要な問題だ。それは、とにかくそれが意味ありげだということに拠っている。繰り返し言及される「にきび」はどうみても単なる生理現象以上の何かだ。とりわけ結末で老婆に襲いかかるときににきびから手を離すことには、明らかに何らかの意味がある。

 「にきび」は何を表わしているか?

 だがこのように問うと、「生活が荒れていることを表わしている」などと焦点の定まらないことを考えてしまう。

 そうではなく、ここでは「にきび」を「象徴」と捉えることが必須だ。

 「象徴」とは何か?

 「象徴」という言葉を誰でも知っているだろうが、それを次のように明快に答えることは難しい。

ある具体物がある抽象概念を表わしていると見なされること

 「鳩は平和の象徴だ」というとき、「鳩」という具体物は「平和」という抽象概念を表わしている。

 もちろん文脈によっては、鳩が単なる鳥類の一種である鳩そのものでしかないこともある。だが「平和式典」などのニュース映像で青空を背景に飛ぶ鳩の群は、それが「平和」への祈念を表わしているという約束が放送者と視聴者の間で成り立っている。そういう了解が表現者と享受者の間に成り立っているとき、それは「象徴」と見なされるのだ。

 小説などの虚構では、作者がそれを「象徴」として描くことが意図的であるかどうかはともかく、読者がそれを「象徴」として捉えることはある。「羅生門」の「にきび」などは、具体物として読むべきではない。「烏(カラス)」は「荒廃」や「不気味さ」だろうし、「きりぎりす」は「秋」であり「時間」だ(きりぎりすが姿を消すことで時間の経過が表現されている)。

 では「羅生門」における「にきび」は何の象徴か?

 引剥ぎの実行にあたって手を離すのだから、それは「迷い」の象徴だといえる。

 あるいはここまでの「一般的解釈」からすれば「良心」「正義」「道徳」あたりか(それこそ「モラル」だ)。そこまで心にあった「モラル」から手を離して引剥ぎをするのだ。

 あるいはそれを「若さ・未熟」などと表現することもできる。下人は大人になったのだ。

 つまり「にきび」は従来の一般的解釈の枠内で解決が可能だ。


 では何が?

 まだ重要な未解決要素とは何か?


2022年6月26日日曜日

羅生門 9 「老婆の論理」はあるか

 では「老婆の論理」はどうか。

 先程の考察から、問題は、下人の引剥ぎを「A.自己正当化の論理」を老婆自身に投げ返す行為として捉えるか、「B.悪の容認の論理」を受けて盗人になる決意と考えるかという対立だということが明らかになった。そして従来の理解に拠れば下人の行為をBに従って理解しなければならないはずだが、実際に訊いてみるとAを支持する者の方が多い。

 このことをどう考えるか?


 端的に言えば、Bのように考えることはそれほど説得力はないということを示しているのだ。

 だからといってAを認めるべきでもない。

 先の議論において2を支持する立場から1に対する反論として挙がった論は、Aに対する反論としても有効だ。

 確かにAのように「自己正当化」の理屈を言う老婆に、そっくりそれを投げ返したのだ、という皮肉の切れ味は、小説の味わいとしても悪くない。これは「極限状況」は実は描かれていないという前項の見方にも整合する。

 だがそれでは物語の主人公が老婆ということになってしまう。利己的な自己正当化の論理、詭弁によって逆に自らが罰を受けるアイロニカルな因果応報譚として「羅生門」を捉えることになるからだ。

 そのとき、下人はいったい何者なのか。単に老婆の論理を反射する鏡なのか。下人はどのような立場で老婆の論理を投げ返しているのか。

 これでは結末におけるこの行為が、冒頭の下人にとっての「問題」と対応しなくなる。引剥ぎをするにあたって生まれてきた「勇気」とは「さっき門の下で、この男には欠けていた勇気である」と明確に書かれている。これはこの行為が冒頭の迷いに対する決着であることを示している。

 単に老婆を懲らしめたのだという解釈は、引剥ぎに踏み出す最後の場面だけに注意していて、小説全体を捉えてはいない。


 ではやはり従来の解釈どおりBだと考えるべきか。

 だがこの論理は、上に述べたように「極限状況」が肉体的な感触として描かれていないことから既に破綻している。

 それだけではない。先の検討において、1を支持する立場から2を否定する根拠として挙げられていた根拠は、そのままBを否定する根拠となる。

 盗人にならなければ飢え死にをしてしまう、という状況は最初から変わっていない。それがわかっているにもかかわらず踏み出せなかったのだ。

 だから今更老婆が2の論理(「生きるためならしかたがない」)を語ったからといって、そのことによって下人の心が動く道理がない。とすればそれを動かしたのは、ここで新たに提示された1(「悪人相手ならしかたがない」)の論理しかないということになる、というのが1支持者の主張だった。

 具体的には、物語冒頭の下人はどのような認識をもっていたか。

この「(飢え死にしないために手段を選ばないと)すれば」のかたをつけるために、当然、そのあとに来るべき「盗人になるよりほかにしかたがない。」ということを、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。

 下人は物語の最初から「(生きるために悪を肯定する)よりほかにしかたがない」ことがわかっている。わかっていてできなかったのだ。老婆が何かしら下人の知らなかった認識や論理を語っているわけではない。したがって下人は2に動かされているわけではない。

 この主張は実に論理的である。ただし、だから1だという結論にはならない。2ではなく、やはり1でもないのである。つまりBは「行為の必然性」を支えられない。


 それでもBを延命させるならば、次のような解釈が可能かもしれない。

 人は、自分でわかっているのに実行できなかったことでも、他人の言葉で聞くと動けるようになるということもある。他人の言葉を免罪符として、実行しにくい行為に踏み切るのだ。「羅生門」はそういう人間心理を描いているのだ(F組Kさんなどの解釈)。

 この解釈は、「生きるために持たざるを得ないエゴイズム」などという大仰な主題設定よりはよほど気が利いている。芥川ならそういうのを書きそうだという感じもする。

 だがこれも簡単には納得できない。仮にそのような心理を主題とする小説であるならば、最後の引剥ぎの直前に、老婆の語ることは既に自分もわかっていたことだという認識を下人に語らせるか、気づかない下人に代わって「作者」が解説してしまうはずである。そうでなければこうした心理が「行為の必然性」を支えているという、小説の主題の在処が読者には伝わらない。


 いずれにせよ「老婆の論理」は「行為の必然性」を支える説得力はない。やらなければ「しかたがない」とわかっているのにできずにいたことがなぜできたかというと、やることは「しかたがない」とわかったからだ、というのはパラドクス(自家撞着)である。あるいは無内容なトートロジー(同語反復)である。

 にもかかわらず「老婆の論理」が「行為の必然性」を導いているという理路がまるで疑われないことには理由がある。それは何か?


 理由は明白である。老婆の長台詞の後の次の一文である。

これを聞いているうちに、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。

 「ある勇気」とは「盗人になる」勇気である。この「勇気」が引剥ぎという形で実行される。老婆の話が下人の中に「盗人になる」勇気を生じさせているのだ。そして、勇気が生まれさえすればそれを実行するだけの動機は「極限状況」によって保証されている。論理は明白だ。

 だが老婆の言葉がどのように下人を動かしたのか、上に見たとおり、実はよくわからない。にもかかわらず「老婆の論理」が「行為の必然性」を支えているはずだという前提から、こうした理屈が生み出されている。

 これは論理が転倒している。老婆の言葉が、なるほど下人に引剥ぎをさせる論理を備えていると感じられるからそこに「行為の必然性」の根拠を見出しているのではなく、そこに根拠があるはずだと考えるから、その論理を捻り出しているのである。

 確かに、下人が引剥ぎをしたのは老婆の長広舌を聴いたからだと考えることには疑いの余地がないように見える。世の中の全ての「羅生門」論は「老婆の論理」が「行為の必然性」を支えているとして疑わない。

 この論理を否定することは難しい。実際に別の論理を提示することでしか、この因果関係を否定することはできない。

 この時点で考えられる抜け道の可能性を示しておく。


次の二つの表現はどう違うか?

1.これを聞いているうちに、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。

2.これを聞いて、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。

 並べてみればすぐにその違いを感じ取れるはずだ。

 だがそれを適切に説明することが容易なわけではない。

 聞いてみると、1は「聞いている」途中に「勇気が生まれてきた」が、2は「聞いた」後だ、という説明が多かった。間違っていないがポイントを捉えてはいない。

 次のように二つの違いを表現できた人はすばらしい(即座に反応したB組Mさんなど)。

 2「これを聞いて」は、老婆の言葉を聞くことと「勇気が生まれてきた」の間に因果関係があることを示している。

 だが原文の「これを聞いているうちに」は、言葉通りに解釈すれば、「勇気が生まれて」くる間の時間経過を示しているだけなのだ。因果関係はあってもいいが、ないと考えてもいい(これを、原文では老婆の言葉がBGMのようなものであってさえ構わないということになる、と表現した生徒が去年いた)。

 一般的な「エゴイズム」論は、「これを聞いているうちに」を無自覚に「これを聞いて」と言い換えているのである。一度そうなると、「老婆の論理」と「行為の必然性」の間にある因果関係は決して疑われない。

 だが上記に見たとおり実はそうした因果関係に、それほどの論理的強度はない。


 この小説は「極限状況」を身体性において読者に感じさせようとはしていないし、「老婆の論理」は新たに「勇気が生まれてきた」という変化を下人に起こすほどの論理的必然性をもたない。

 といって授業者は、正直に言えば、そうした論理の脆弱さによって、「なぜ引剥ぎをしたか」がわからないと考えていたわけではない。「極限状況」も了承していたし、老婆の言葉によって「勇気が生まれてきた」のだろうとぼんやり思いつつ、それではこの小説の主題が何なのかがわからない、と感じていたのだ。

 「下人はなぜ引剥ぎをしたのか」がわからないというより、そのように説明される「行為の必然性」から導かれる「主題」=「エゴイズム」が面白いとは思えないのだ。

 「羅生門」が人間のエゴイズムを描いているなどという捉え方は、この小説をぼんやり読んでいるに過ぎない。


羅生門 8 「極限状況」は描かれているか

 ところで、「一般的」だとか「疑問はないように見える」とか「ひとまずは」とかいう表現から、これは、あいつはここまでの考えを否定しようとしているなと、皆はとうに勘付いているはず。

 そのとおりだ。

 「極限状況に置かれた下人が老婆の論理を得る」ことで引剥ぎをした下人の行為を通して、「人が生きるために持たざるを得ないエゴイズム」を描いていると考える「羅生門」理解は、先のネット事典をみても一般的だといって差し支えないと思う。

 ここまで提示した「羅生門」解釈を「理解する」ことは、繰り返すが「羅生門」を授業で読むことの目的ではない。「羅生門」が巷間そのように語られていることを知ることは、一般教養としてはささやかな「言語文化」の継承に資するとも言える。だが国語の学習としてはほとんど意味がない。

 それどころか、既に皆が気づいているとおり、そんな解釈は間違っている、と言うつもりなのだ。


 これまでたどってきたような「羅生門」の解釈に納得がいかないのは、端的に言って面白くないからだ。

 これは授業者個人がそれを面白いと感じないという意味ではなく、それが面白さとして想定されていると考えることができないということだ。

 このように理解される「羅生門」は浅はかで凡庸な小説だとしか思えない。このように書かれた小説が、そうした面白さを実現しているはずだと考える小説家がいるなどと思えない。

 こうした理解は、「羅生門」というテキストを、小説として読まず、ただ理解のための理屈を立てているだけだ。小説を読んだ印象と乖離している。

 授業を受ける生徒としてではなく、いち小説読者として考えよう。

 今までたどってきた「一般的な解釈」はどこがおかしいか?


 小説読者として受け容れ難いのは、まず「行為の必然性」の根拠の前提、「極限状況」の捉え方をめぐる違和感だ。

 「行為の必然性」は、下人が置かれている「極限状況」が根拠となるという。だが小説読者としてはどうもそうだと思えない。

 この説明はどこがおかしいか?


 「極限状況」は、確かにテキスト中に書かれている。

 だがこれが読者に「極限状況」として感じられるはずはない。下人は物語中「腹が減った」の一言もない。動作は素早く、力強い。到底死にそうには見えない。

 つまり言葉の上では確かに「極限状況」ともいえるものは示されているが、下人に感情移入しながら読み進める読者が「極限状況」に置かれていると感じるような肉体的な感触は描かれてはいないのだ。

 そもそも「飢え死にか盗人か」という問題設定は、読者にとって本当にリアルな「問題」と感じられるだろうか?

 「生きるための悪は許されるか」などという「問題」は、随分と暢気なものだ。「極限状況」が本当ならば、そもそも迷う余地がない。だから素朴に言えば、この男は何を迷っているんだろう、と昔から授業者は感じていた。迷う余地があるということは「極限状況」などではないということだ。

 小説読者が物語を受け取る上で、登場人物の不道徳な行為に対する抵抗のハードルは、現実よりもずっと低い。何せ虚構なのだ。そもそも小説は現実離れした奇矯な世界を描くのだ。引剥ぎなど、「極限状況」という言い訳があればたやすく受け入れられる。そのような問題が「問題」となる倫理観など、小説読者は持ち合わせていない。だから「飢え死にか盗人か」という選択が問題になること自体が不可解なのである。

 ここに「エゴイズム」という言葉をあてはめて主題を語るのも軽すぎる。「極限状況」であれば自分の命が優先されるのは当然であり、そのような根源的な生存欲求を、近代的個人が持つに至った「エゴイズム」などという自意識過剰な言葉で表わすのはまるでそぐわない。

 このように「極限状況」も「エゴイズム」も、まるで内実を伴わない空疎な評語であるとしか感じられない。

 小説の読解は読者にとって一つの体験としてある。抽象的な問題設定が提示されて「思考実験をする」ことと、状況設定、描写、人物造型、様々な要素によってつくられた物語を生きる=「小説を読む」という体験は違う。先の「問題」はそうした違いを無視して、観念的に設定されている。

 極限状況における悪は許されるか、人間存在のエゴイズムは肯定されるか、この小説の読者はそんな問いを生きはしない。ただ論者がそうした問題設定を観念的に弄んでいるだけだ。「小説の解釈」が「小説を読む」という体験から遊離しているのである。

 だから「生きるために為す悪は許されるか」などという問いを掲げて、そこに「カルデアネスの舟板」を引用したり、法律概念である「緊急避難」などを持ち出したりするのは、この小説を読むという体験とは何の関係もない(こういうことを言っている教師は世の中にいっぱいいる)。

 確かな肉体的感触として下人に(そして読者に)生きられてはいない「極限状況」は、「行為の必然性」を支えてはいない。

 それはすなわち、作者が下人の「行為の必然性」を「極限状況」に拠るものとは考えていないことを示す。芥川のような巧みな書き手が本当にこうした問題を提起したいなら、そうした問題の前に読者を立たせるはずだ。読者を「極限状況」に曝すはずだ。下人の窮状を体感させるはずだ。

 それをしていない以上、「極限状況に露呈される人間存在の悪」などという大仰な主題設定はこの小説を読んだ実感とはかけ離れていると考えるべきなのだ。芥川には、そんなつもりはない。このような読みは単に小説をまともに読んでいないというだけなのだ。

 「老婆の論理」をめぐる議論で、1もしくはAを支持する者が多かったのは、そうした皆の、小説読者としての素朴な感覚を表している。そして2もしくはBを支持する者が少なかったのは、「一般的な解釈」が読者の感覚を無視していることを証明している。


 そうはいっても「極限状況」は書かれてはいる。肉体的感触としては描かれていないが、下人の行為を動機付けるものとして意識されてはいる。

 これは否定できないのではないか?

 だが今問うているのは、何のために引剥ぎをしたかではなく、なぜできなかったことができるようになったのかだ。何らかの論理的決着の上で、物語の最後に引剥ぎが行われることをどう納得するかだ。行為の必要性ではなく、変化の必然性だ。

 だから、「極限状況」が「行為の必然性」をもたらすという物語の論理を表現するなら、「極限状況」が物語の進行に従って次第に下人の身に迫って―どんどん腹が減って―こなければならない。

 そうした変化が描かれていない以上、「極限状況」は「行為の必然性」を支えない。

 これは「老婆の論理」を検討した際に、「生きるため」を否定する根拠として「老婆を罰する」支持者から指摘された根拠だ。


 下人の行為を「生きるためのエゴイズム」の発露と考える根拠の一方がこれで揺らいだ。さらにもう一方の根拠を検討する。


2022年6月23日木曜日

羅生門 7 「老婆の論理」を検討する

 「羅生門」とはどんなことを言っている小説なのか、一般的な理解を辿ってきた。

 ここまでの流れの中で「老婆の論理」についてさらに突っ込んで考察すると、面白いことが明らかになる。

 下人が引剥ぎをする直前の老婆の長台詞には二つの理屈が混ざって語られている。

 これを「極限状況」と同じく、二つに分けてみよう。

1.相手が悪人ならば悪が許される。

2.生きるためならば悪が許される。

 このうち、どちらがより強く下人を動かしているか?

 「行為の必然性」を支えるのはどちらか?


 一般的な解釈によれば2こそ「行為の必然性」を支えていることになる。生命の危機に直面しているという「極限状況」を正しく受けているのは2だ。やらなければ死んでしまうという状況で、やってもいいのだというお墨付きをもらったからやったのだという理屈は理に落ちすぎるほどだ。

 だが1を支持する者は意外に多かった。というかむしろ1の方が優勢だった。

 1を支持する根拠としてどのクラスでも挙げられたのは次の一節。

その時の、この男の心持ちから言えば、飢え死になどということは、ほとんど、考えることさえできないほど、意識の外に追い出されていた。

 これがなぜ1を支持することになるのか?

 「飢え死に」と選択になっているのは「盗人になる」であり、「飢え死にを考えない」は「盗人になることしか考えない」ということだ。

 これは別にどちらかの根拠になるわけではない。「盗人になる=生きる」だから、むしろ2を支持しているようにさえ思われる。

 それなのになぜ1支持者がこれを挙げるのか?

 B組S君の解説によると、「飢え死に」が「意識の外」だというのは、生死が問題ではない、つまり「生きるため」ではないということなのだ。だから2ではなく1が問題だということなのだ。

 なるほど。だがそうか?


 さらに、引剥ぎをするにあたって下人が口にする台詞も検討された。

「では、俺が引剥ぎをしようと恨むまいな俺もそうしなければ、飢え死にをする体なのだ。」

 言葉通りとればこれは「生きるためにするのだ」と言っているのだから、2を支持する根拠ということになる。実際にこれを挙げたのは2支持者だった。

 だが「俺も」とは、自分と老婆が同じ立場であることを殊更に強調している。そしてそれによって、自分の行為を相手が「恨まない」ことが念押しされている。

 つまり下人は、自分の行為の差し迫った必要(生きるため)よりも、自分の行為が相手の言った論理に則っているということを示して、相手が自分の行為を了承するしかないことを言い立てているのである。

 1が支持されるのは、この台詞の印象に基づいているのではないか?


 こうした検討から明らかになることは、本当の問題は、下人が1と2のどちらに動かされているか、という対立ではないということだ。

 問題は下人の引剥ぎを、次のどちらの意味合いで捉えるかなのだ。

A.老婆の自己正当化の論理を老婆自身に投げ返す。

B.老婆の悪の容認の論理を受け入れて引剥ぎを実行する。 

 Bならば引剥ぎはすなわち「今後生きるために盗人になる」ことを意味するが、Aでは、この時の老婆に対してのみ行われる行為だということになる。

 最初1を支持している者は、実は1と2のどちらかというより両方を含めた「老婆の論理」に含まれる「自己正当化の論理」に対する怒りや不快が下人を動かしていると感じているのだ。授業では「老婆を懲らしめる・老婆を罰する」などの表現が使われた。

 一方Bもまた1と2の両方を含むものであり、2と一致しているわけではないが、「容認」されるべき正当性はおもに2に負っていると考えるから、2支持だということは下人の行為をBだと感じているということなのだろう。

 ABではそれぞれの表現する「エゴイズム」も様相を異にする。

 Bならば、「エゴイズム」とは、老婆と下人が等しく持っている「生きるためのエゴイズム」であり、物語はその容認(あるいは必然)を表現していることになる。これは従来の「羅生門」理解だ。

 だがAならば、例えば「エゴイズム」とは、老婆の語る自己正当化のエゴイズムであり、物語は老婆への処罰という形でそうしたエゴイズムを痛烈に批判していることになる、などと言える。ただしこれは一般的な「羅生門」の主題とは一致していない。それをどう表現したらいいか。A支持者は考えなければならない。


 さてAを支持する根拠をさらに挙げよう(もともと1支持の根拠として挙げられたものだ)。

 『今昔物語』の原話の盗人が老婆の抜いた死人の髪や死人の着物も一緒に持ち去るのに対して、「羅生門」の下人は老婆の着物だけを剥ぎ取る。つまり盗人の行為が生活のための実用的な行為であるのに対して、下人の行為は老婆にのみ向けられている。「生きるため」ではなく「老婆を罰する」なのである。

 また上記の台詞を言う際に「かみつくようにこう言った」という形容がある。「生きるために」引剥ぎをするのなら、老婆に対する感情を表わす「かみつくように」という形容がなぜ必要なのかわからない。下人は老婆に対する敵愾心で動いている(H組K君の指摘)。

 さらに重要な論拠なので必ず指摘したいのは、下人が老婆の言葉を聞いた後「きっと、そうか」と念を押す声に嘲るような」という形容が付せられていることだ。これがどうしてAを支持する根拠になるのかを説明することには、意外とみんな苦労した。

 これは自己正当化の論理がそのまま自分に返ってくることに気付かない老婆を嘲っているのだ、と考えられる。お前、そういうこと言うなら自分がされてもいいよな?

 これらの形容は、作者が意図して付加しているのであり、その意味は必ず解釈されなければならない。そしてそれはAを支持しているように思われる。


 Aを支持するには、積極的にAを支持する根拠を挙げるだけでなく、Bを否定する論拠を挙げてもいい。ここで挙がった根拠については後述する。


 一方、Bを支持することは、「極限状況」と「老婆の論理」を結ぶ論理の線上に素直に乗ることであって、それ以上に積極的な根拠を言う必要がない。

 そしてBを否定する論拠は後に述べる。


 この議論は盛り上がった。両陣営に分かれて論戦をする中で、積極的に発言をする人が現れるのは楽しかった。

 そして、それぞれを支持する論拠、それぞれを否定する論拠が提出される中で、問題が1と2の対立なのではなく、AとBの対立なのだということがわかってきた。

 こうしたAとBとの対立を最初から設定することはできない。1と2の対立をめぐる議論の中で初めてそうした相違が浮上してきたのだ。これに気づかされたのは、授業者にとって今年度の大いなる収穫だった。

 これは後の展開に繋がる重要な考察だ。


2022年6月15日水曜日

羅生門 6 ペリシテ人のモラル

 ところで芥川本人が「羅生門」の主題を「moral of philistine」だとノートに書いた覚え書きがあることが公になったのは比較的最近のことだ。

「羅生門」は私の人生観の一端を具現化しようとした短篇である。(略)ここで私が扱いたかったのは「モラル」である。私の考えでは、「モラル」(少なくとも、“moral of philistine”=「教養のない俗物のモラル」)は時々の情動や気分の産物であって、それもまた時々の状況の産物である。(英文で書かれたメモ「Defence for “Rasho-mon”」を和訳)

 これと「エゴイズム」を主題とする「羅生門」解釈の関係はどうなっているのか?


 「モラル=道徳」と「エゴイズム」は馴染みの良い言葉だ。「生きるための悪は許されるか」というのは確かに「道徳」的な問いに違いない。

 これは「道徳」がどうだと言っているのか。それと「エゴイズム」が主題だと考えることは一致するのかしないのか。

 ひとまずはこう考えられる。通常「道徳」と「エゴイズム」の方向性は反対だ。「生きるためのエゴイズム」が描かれているということは、「道徳」が否定される状況だということなのだ。

 ところでこれは一体何のことを言っているのか?

 「道徳」とは具体的には「羅生門」の中の何を指しているか?

 この問いに適切な答えが提出されるまでに妙に手間がかかったのは、頭からの論理の辿り方のせいで、みんなが「引剥ぎ」と「道徳」を結びつけようとしていたせいだろう。

 冷静に考えれば、物語冒頭で下人が盗人になることを躊躇うことを指していると考えるのが素直な解釈だ。悪を為さないことで飢え死にの可能性があることを承知で迷っているのは「モラル」があるからだ。そしてその延長として、死人の髪の毛を抜く老婆を憎悪する心理がある。

 なぜそうした「モラル」を芥川は否定するのか?

 ところで芥川が書いた「philistine=ペリシテ人」は「俗物、実利主義者、教養のない人」を指す慣用表現だ。

 「俗物の道徳」とは何のことか?


 「俗物の道徳」は「時々の情動や気分の産物」だと芥川は言う。

 だからコロコロと変化する。生きるためには仕方がないという「老婆の論理=実利」を得たとたんにあっさりと「意識の外に追い出され」てしまうほど脆弱、浮薄なものだ。

 「ペリシテ人のモラル」が主題であるとは、そのような芥川の道徳観を表わしているのだ、と理解することができる。

 ひとまずは。


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