2022年12月15日木曜日

視点を変える 4 少女たちの「ひろしま」

  さて「木を見る…」と、教科書のいう「関連教材」、「少女たちの『ひろしま』」をどのように読み比べるか?

 まず、両者の主旨を、共通する一文で表現してみよう。関連しているとは、共通部分があるということだ。

視点を変えると物事は違って見える。

 だいたいこんな言い方になるはずだ。これをスキーマとゲシュタルトという語を使って言うと?

スキーマが変わると違ったゲシュタルトになる。

 「スキーマ」と「ゲシュタルト」という言葉がどんな概念なのか、だんだんつかめてきたろうか。

 「スキーマ」とは言ってみれば「見方」のことで、「ゲシュタルト」は「見え方」だ。見方を変えると見え方は変わるのだ。


 さて、そうした言い方では、両者は共通しているが、では、それぞれの文章は、具体的にはどのように見方を変えると、どのように見え方が変わると言っているのか? 両者に相違はあるんだろうか?

 対応している要素を比べてみよう。

 だが何を比べるのか? 何と何の「対応」を比較するのか?


 こういう時には例によって対比を捉える。

 ただし今回の対比は「対立」ではなく「並列」だ。

 対比の多くは「対立」だ。「AではなくB」というとき、「A/B」は対立構造にある。Bのことを言いたいときに、Aを対立項として比較することでBの輪郭が明確になる(こうした対立構造もスキーマのひとつ)。

 一方、複数の項目をそれぞれ対等に扱うのが「並列」や「類比」だ(「並列」と「類比」の違いはまたいずれ)。

 今回の「視点を変える」では、どのような「視点」なのかを対比的に捉えよう。


 「木を見る…」では「視点」の「角度」と「倍率」を変える、と述べられている。対比としては「角度」についての言及は少ないので割愛して「倍率」の方のみ書き出してみる。

  全体/一部

遠くから/近づいて

 ひいて/寄って

といったところか。

 一方、見え方がどう変わるかといえば、「全体」を見るときには「まとまり」として見るのだと言っているが、それに対比される「一部」を見るとにどう見えているかは詳述されていない。「葉っぱの一枚一枚」「瞬間ごとに移りゆく模様」「光と影のゆらめき」といったイメージは提出されているが、それを抽象化した言葉が見つからない。むしろ「アリの目に世界はどう見えているか」と、疑問を呈して終わっている。


 さて問題は「少女たちの『ひろしま』」の方だ。ここではどのような「視点」が対比されているか?

 これは簡単にはいかないはずだ。一単語の対比で済むわけではないし、文中から容易く抜き出せるものでもない。いろんなレベルの表現を重ねることで、しだいにその視点の違いが捉えられる。

 対比が「視点(スキーマ)を変える」と「見え方(ゲシュタルト)が変わる」のどちらなのかを考えながら挙げてみよう。

 例えば

暗い/明るい

という対比が挙がるが、これはそのように視点を変えたというより、ある視点から見たときの印象の違いを表している。

 ではどのような視点の違いがここでは対比されているか?

 対比を挙げる時は、概念レベルを揃えよう。例えば名詞、動詞、形容詞などと品詞を揃えるとか。なるべく。

 一人三つ以上、班で5~6個、などと言ってみると、クラス全体では十数個の対比的な表現が挙がってくる。そのようにいくつもの言葉を重ねることで、視点の違いによる見え方の違いが捉えられてくる。

  歴史/生活

  戦争/日常

  悲惨/美しい

  史料/日用品

 これをひとつなぎにしてみると、「歴史」といった大きく物事を捉えようとすると、その服は「戦争」の「悲惨」な爪痕を示す「史料」と見えるが、一「生活」者の視点から見ればそれは戦時下を生きる少女たちの「日常」を想起させる「日用品」として「美しい」ものに見える…。

 実は挙げてみると、思いのほか「見方」と「見え方」の区別は明確ではない。「戦争」は「見方」か「見え方」か。どちらともいえる。「歴史」とか「政治」とかいうスキーマで見たときにそれが「戦争」というゲシュタルトを現すのだと言ってもいいし、「戦争」というスキーマから見たときに、服が「悲惨な過去」を示す「史料」として見えると言ってもいい。

 クラスによっては面白い対比が提起されたりもした。

  作家/一女性

 という対比は、まさしく視点の違いを指摘している。これは筆者・梯さんの中の視点の対比だが、これを

 梯さん/石内さん(写真家)

 という対比で表現した人もいた。なるほど。梯さんには服が「悲惨な戦争の史料」に見えているが、写真を撮った石内さんは「若い娘の密かなおしゃれ」として見ている。その時、その服の主は、

 被爆者/一少女

としてその姿を現す。


2022年12月4日日曜日

要約というトレーニング

 「現代の国語」教科書に収録されている文章で、今年度の授業で扱えるかどうかが微妙で、しかし読まずに済ますのは惜しい、という文章について、要約することを家庭学習課題とする。

 国語の現代文分野は一般に、学習の方法がわかりにくい科目だと言われている。それは理科や社会や英語のように「覚える」ことが即勉強であるような科目ではなく、数学のように問題演習が有効かどうかもわからないからだ。国語科でも漢字や語句や古典分野には覚えることがそれなりにあるし、問題演習は、とにかく慣れるために有効だ。現代文分野も慣れるための問題演習はそれなりに有効だが、その効果が実感しにくいために「勉強の仕方がわからない」という世人の嘆きとなっている。

 とりあえず、それなりに手応えのある文章を読むだけで学習になっているのだが、それをより有効にする場が授業だ。読んだことについて他人と語るという状況が、読むことに明確な目標を与える。一人で読むのなら、いくらでも頭を弛緩させることができてしまう。わかろうがわかるまいが「流して」しまえる。だが自分で何かを語るとなれば否応なく頭を使わざるを得ない。発信が厳しく求められる授業が最良の学習の場なのだ。

 出来合いの問題集や大学入試の過去問などの問題演習も、意味はある。頭を使わざるを得ないという意味では。ただ、テスト問題というのは、「正解」を設定せざる得ないから、考えるべきことが狭く限定されていて、授業ほど多様な階層の思考をする余地がない。

 したがって、入試問題の演習をするような塾・予備校の現代文の授業は、それが一方的に聞いているだけのものならば、解説の充実した問題集で問題演習をする以上の意味はない。


 話が迂回したが、独りで行う現代文の学習として最も有効なのが要約だ、という話につなげたかったのだった。

 文章の要約というのは、独りで行う現代文の学習方法として、最も包括的・総合的で確実に効果的な方法だ。

 要約は、それをしようとし、実際にできたことが目に見える形になる。時間がかかったり、あまり適切でなかったとしても、要約文を書くことはできる。「理解する」という入力で終わる学習は形が外に表われないので手応えがないが、要約という出力まで求められる学習は手応えがある。

 文章を要約する過程では、言語を用いたさまざまな思考が必要になる。文章の枝葉や幹を見分け、文章中の各部分を相互に関係づけることで有意味化し、文章全体の構造を把握したうえで、そのエッセンスをすっきりとわかりやすい文章にまとめる。国語力を高める練習として必要な要素の多くが一連の過程に詰まっている。


 今回の課題では一橋大学の大問3にならって、200字に要約する。

 200字というのは絶妙な長さだ。読解力と文章表現力がともに高いレベルで問われる。

 良い要約文は次の条件を満たしているものをいう。

  • 原文の内容と合致している。
  • 原文の内容をバランスよく含んでいる。
  • 日本語として自然に読める。

 とりわけ大事なのは三つ目の「自然な文章であること」だ。

 100字では、本当に核心部分を語ることしかできない。ある意味で、掬えない内容については諦められる。

 400字あれば原文の内容をあれこれと盛り込むことができる。要約文の長さにも余裕があるから、それほど表現の細部に気を遣わなくても書ける。

 それに比べて200字は、あれこれと内容を盛り込むことができて、かつ表現を切り詰めないと収まらない。原文のあちこちを接ぎはぎしたような文章では日本語として不自然になってしまう。自分で文章を書き下ろすしかない。内容を精選して、重複しないように、読みやすい自然な日本語の文章にする。

 高い読解力と表現力が必要だ。


 具体的方法として、次のように進めるとよい。

  1. 読み進めながら、自分の読解力・把握力の限界がきそうなところで一旦切って、そこまでを一文にしてみる。
  2. 先を読み進めながら上記と同じように次の文をつくる。その際、前の文とどのような関係になっているか把握できているか自覚する。
  3. 最後まで読み進めてから、できた文を通読し、中心的な内容を一文で考えておく(書いても良いが書かなくても良い。できあがっている文の中に「中心的な内容」といえる文があるかもしれないが、ないかもしれない)。
  4. 全体をあらためて3~4文に再構成する。

 問題は「自分の読解力・把握力の限界がきそうなところ」の見極めができるかどうかだ。最初から文章全体の4分の1くらいずつが把握できていれば、それで4文ができあがる。あとはそれをもとに調整して200字におさめればいい。上記の3と4にそれほどの飛躍がない。

 それが、3の段階で5文以上になっている場合は、そこまでに既に時間がかかっているだろうし、再構成にも時間がかかることになる。

 場数を踏んで慣れてほしい。


2022年12月3日土曜日

問いを立てる

  テストの後、出題した問題の文章について再考した。

 出題した小坂井敏晶の文章は、去年までの1年生の「国語総合」には、またとびきり読解しがいのある文章が載っていたのだが、今年の「現代の国語」には載っていない。

 高1に不適切なほど難しい文章なのは申し訳ないが、これもまた4月から考えてきた「近代的個人」への疑い、という趣旨の文章のひとつではあるのだった。

 テスト問題について再考するのも、全体の構造を捉えるために、キーワードを探したりするのも楽しくて有益な議論になったが、「問いを立てる」という課題もまた有益だという手応えがあった。

 4月から度々、「問いを立てよ」という問題提示をしている。

 評論の読解のためには、その文章の筆者がどのような問いを立てているのかを、結論から遡って明確にする。この文章はどのような問いを立てているか?

 小説では、読者がその小説を読解するために考えるべきことを明確にするために問いを立てた。「羅生門」では「下人はなぜ引剥をしたか?」だ。


 さらに今回の課題では、単に「わからない」と感じているはずの文章のどこが「わからない」かを明らかにしろ、という要求をした。

 「どこがワカラナイかがワカラナイ」というありがちな嘆きは人情としては共感できるが、そんなことを言ってないで、とりあえず問いを立ててみて、答えられそうなら次の問いに進めばよい。

 「ワカラナイ」ことを明らかにしようとすることは、「わかった」ことと「わからない」ことを切り分け、「わかった」ことの領土をひろげていこうとする思考だ。

 「問いを立てる」という課題は、それ自体が、深いところまで読解を促そうという試みなのだ。

 まあ確かにこの文章はいかんせん難易度が高く、どこもかしこも「ワカラナイ」とこだらけだとも言える。だから「なぜ~だと言えるのか?」とか「~とはどういうことか?」という問いは量産できる。それでもいい。それがなぜ「ワカラナイ」のかを考えているうちに、いつしかわかってしまうかもしれない。それも狙いのうちだ。

 また、これはという文章を扱ったときには同じような課題を課してみよう。


 気になったのは、なぜそれが疑問なのかを説明する文中に「矛盾」という言葉が頻出したことだ。こちらでは「責任は個人に内在する」と言っているが、ここでは「責任は個人に内在しない」と言っていて矛盾している、それはなぜか? などと。

 それらの多くは「矛盾」ではない。

 文章内にはそもそも対比がある。自分の言いたいことを明らかにするため、それと対立した見解が文中に語られるのは当然だ。それらを取り上げて「矛盾」と言うのは、単に文章の構造が把握されていないだけだ。対比構造を捉えていれば「矛盾」でもなんでもない。

 そうではなく、構造的に同一側に置かれている見解に食い違いがあるようなら「齟齬がある」「乖離がある」「相反している」などと言いようはある。


 さて、8クラス中で最も真摯な考察をした上で疑問を呈したのはB組のMさんの班だ。

 「行為が決定論的に生ずるかどうかは責任と本来関係ない」のはなぜか?

 これはまさに問うにふさわしい、すぐには腑に落ちにくい一節だ。他にこれを挙げた班はなかったのだが、ではみんなはこれを疑問に思わなかったかといえばそんなことはありえない。これを問いとして立てたMさんの班はその「わからなさ」に真摯に向き合ったことは、下の考察からもひしひしと感じられる。

 近代社会では、個人には自由があり、その自由意志が行為を起こすため、その行為の結果に対しては個人が責任を負う必要があるという論理が成り立っている。決定論は自由の否定であると考えられるため、「行為が決定論的に生ずるかどうかは責任と本来関係ない」は「行為が自由意思によって生ずるかどうかは責任と本来関係ない」と言い換えられる。しかし行為が自由意思によって生ずるかどうかは責任と大いに関係しているように思われる。なぜなら、個人→自由→行為→結果という一連の因果関係の一部である自由→行為(自由意思が行為を起こす)が成立しなければ責任を個人に負わせることができないからだ。「行為が~本来関係ない」以前の本文では「行為が自由意思によって生じない」と結論付けたうえ、「なら、責任をどう考えるべきか。」と問題提起し、直後の段落で偶然の導入を用いてその問題に対する検討までしている。しかしすぐに「このアナロジーは的外れだ」と述べ、「行為が~本来関係ない」へと論を急転させている。「このアナロジーは的外れ」な理由として「人間は自己の行為を~制御できるのか」という点を指摘し、さらにその後「偶然生ずる行為」には責任を問えないと主張してはいるが、これらに素直に納得し「行為が~本来関係ない」を受け入れることは難しい。また「行為が~本来関係ない」直後の本文において、ギリシャ哲学やキリスト教においては社会や神によって罰が要請されていたと説明があるが、それがなぜ「行為が~本来関係ない」につながるのかわからない。このように難解な点が多かったため、私たちの班では『「行為が決定論的に生ずるかどうかは責任と本来関係ない」のはなぜか?』について議論した。その結果、この問いの「本来関係ない」の「本来」はギリシャ哲学やキリスト教に基づいて罰が下されていた時代を指すのだと考えた。その時代では、大した根拠なしに犯罪を象徴する責任者を選び、罰を下すことで社会秩序を回復してきた。このような時代において「責任」は存在するが、「責任」を導くまでに自由意思と行為の因果は用いられていない。ゆえに「行為が決定論的に生ずるかどうかは責任と本来関係ない」と言えるのではないかと考えた。するとこの問題は本文全体に関わる重要な問いに思える。そのため、クラス全体で議論したい。


 残念ながら議論する時間がとれなかったが、これは本当に考えるに価する問いだし、しかも上の考察は既に実によく考えている。ただ下線部の

決定論は自由の否定であると考えられるため、「行為が決定論的に生ずるかどうかは責任と本来関係ない」は「行為が自由意思によって生ずるかどうかは責任と本来関係ない」と言い換えられる。

は飛躍があってわかりにくい。「決定論的に生ずる」がなぜ「自由意志によって生ずる」に言い換えられるのか。「決定論」と「自由意志」は完全に対立項目なのに。

 「行為が決定論的に生ずるかどうかは責任と本来関係ない」は「行為が仮に決定論的に生じたのだとしても責任を問うことはできる」という意味だ。行為が自由意志に基づいていなければ責任を問えないという前提に立てば、決定論は責任を否定しうるけれど、そもそも決定論に立ってさえ責任を問うことは可能だと言っているのだ。

 これは、いったん「決定論」によって「自由意志」を否定する可能性を検討しておいて、それができないことを示した揚句に、そもそも「決定論」諸共「自由意志」が「責任」と関係ないことを示そうとしているのである。

 「決定論」を「自由意志」に「言い換えられる」と言うM班はそうした論理構造が理解できていることになる。

 見事な読解だ。


 それにしても、こうして文章を読んでも、授業と違って集中力を欠いた状態では、ほとんど何を言っているかわからないはずだ。

 そういう意味で、授業に勝る学習は、なかなか一人ではできない。自分の意見を表明しなければならないというプレッシャーが、考えることに集中力を強いるのだ。

2022年11月26日土曜日

夢十夜 17 運慶が生きている意味

 問題は「明治」という時代なのだと先に確認した。

 そして小論文を書く前に、漱石の講演録「現代日本の開化」の一部を読んだ(もっと長いものが2,3年生が使っている「現代文」の教科書に収録されている)。

 これは「夢十夜」の3年後に行われた講演だ。そこで漱石は、明治の日本の開化は、外国の圧力によって「外発的」に起こった開化だと言っている。そしてそのような開化を「皮相上滑り(表面的で中身の伴っていない)の開化」だと皮肉っている。

 これはもはや種明かしのようなものだ。ここで語っている主張を「第六夜」の主題だと考えると、すんなり腑に落ちる。外発的で急激な開化によって、「明治の木」にはもはや仁王は埋まっていないのだ。

 こうした結論は、ネットに溢れる「第六夜」論にもいくつも見ることができる。

 答えは既に出ているのだ。

 だから問題は語り方だ。論の組み立て方、表現の選び方だ。


 「第六夜」の主題は「西洋文明の流入によって、日本古来の文化が失われつつある『明治』という時代に対する冷ややかな眼差し」とでもいったようなものだ。「皮肉」と言ってもいいし「嘆き」と言ってもいいし、ストレートに「批判」と言ってもいい。

 こうした主題を語る上で「芸術」という語がどれほど有効だろう。世に溢れる「第六夜」論が、主題については大方妥当な見方をしているにもかかわらず、多くが「芸術」に言及しているのは、若い男の言葉からミケランジェロの言葉や、それが一般にひろまった「芸術」神話を連想するからだろう。だがそれはどんな論理的整合性をもつのか。

 芸術家と職人という対比で象徴される概念として、「才能/技術」以外にどんな語を想起すると、論を組み立てる上で有効か?


 「芸術家=独創」はどうか? 芸術家にはオリジナリティが必要だ。

 「独創」の対義語は「模倣」だ。だが運慶を「独創」と表現することは可能だろうが、「模倣」と見なすことはそもそもできない。だから選択にならない。

 「芸術家=独創」に対する別の対比を考える。

 次の発想ができれば論が展開できる(あるいは先の見通しがあればこのような発想ができる)。

芸術家=独創/職人=伝統


 この運慶は時代を超越するような形で出現する独創的な天才芸術家ではなく、熟練した職人として描かれている。運慶の仕事ぶりが芸術家としての創作だとしたら、②の問いの「明治の木には」という限定に何の意味があるのかがわからない。運慶の技を伝統的な職人技の発現としてのルーチン・ワークだと考えることによって「明治の」という条件が理解できる。

 職人の技術とは、単に繰り返した修練によって彼個人が体得した技術、というだけではない。それはその技を磨き上げてきた数知れない先人の営みの分厚い積み上げの上に成り立つものだ。運慶が体現しているのは、そうした職人集団の伝統なのだ。

 そして明治の文明開化によって脅かされているものは、天才の芸術ではなく、職人一個人が体得した技術でもなく、日本人の伝統であるはずだ。


 ただ「独創」の語を活かそうとするなら、外国の文化の「模倣」ばかりする明治に対して、運慶が日本固有の文化を体現しているという文脈で論理に組み込むことが可能ではある。「自分」が仁王を彫ろうとする動機も、若い男の言葉に誘導されて運慶の「模倣」をしようとしたのだ。

 だがそれは運慶の体現しているものを(あるいは「自分」に欠けているものを)「芸術」の語で語るということではない。


 では「開化」という名の文化的な断絶を経験する時代状況において「運慶が今日まで生きている理由」とは何か? 「自分」は「なぜ生きていられるか」「なぜ生きていなければならないか」どちらの理由に納得したのか?

 実はもはや①の問いの答えは大した問題ではない。

 上記の読解に従って言えば、そのような技を受け継いでいるからこそ運慶は今も「生きていられる」のだと言ってもいいし、運慶が体現する伝統の技は、この明治にこそ「生きていなければならない」と言ってもいい。後者のように言うなら、それは運慶がそう考えているのではなく、やはり我々が運慶に託した期待である。我々が運慶に生きていてほしいと思っているのだ。

 そのとき運慶は、時代を越えて継承されるべき伝統文化の象徴である。


 「第六夜」はこんなふうに「運慶」や「仁王が埋まっていない」を象徴と見なす、物語内の具体レベルから一段抽象度の高い「主題」を想定することで、「意味」がわかったと感じられる小説だ。それは、そのような「主題」を必要としない「第一夜」を受容することとはかなり違った読解体験である。

 これが授業者にとっての一応の結論だが、それは、これ以外の解釈が成立する可能性がないということではない。

 小論文は、説得力に応じた評価をしていい。


 さて、評価直前に一つの「種明かし」をしたのだが、これ、明かされる前に気づいた人はいたろうか? いたら是非名乗り出てほしい。みんなの前で賞讃したい。

 以上のように「第六夜」の主題を捉えた時、次の一節も意味あるものとして物語の文脈に位置づけられる。

裏へ出てみると、先だっての 暴風 あらし で倒れた樫を、薪にするつもりで、木挽きに挽かせた手ごろなやつが、たくさん積んであった。

 仁王の埋まっていない「明治の木」は「先だっての暴風で倒れた樫」なのだ。

 この「先だっての暴風」とは何のことか?


 もはや明らかだ。「暴風」とは1853年の黒船来航に続く幕末の動乱とそれに続く文明開化のことに他ならない。西洋文明の流入は、「あらし」のように日本人の精神を、日本文化を薙ぎ倒したのだ。

 この付合が偶然であるとは到底思えない。「明治の木」の来歴としてさりげなく書き込まれたこのような形容を、漱石が意識せずに書き付けているはずはない。全体を貫く論理が見えてきた時にのみ、その意味がわかるように、漱石はさりげなく、だが明らかに意図的に、こうした形容を付すのである。



2022年11月15日火曜日

夢十夜 16 運慶が意味するもの

  もう一つ、運慶の存在が意味するものを考える。

 鎌倉時代の人物が明治という時代に現れるという設定は、夢らしい荒唐無稽さであるというより、むしろ小説としての意図がありそうである。「夢十夜」の他の話でも明治以外の時代の人物が登場したりそうした時代が舞台になっていたりするが、登場するのは誰ともわからない人々だ。だがこの篇に限って運慶という誰もが知っている実在の人物を登場させる意味を捉えることが、この小説の主題につながるかもしれない。

 歴史に名を残す天才仏師の偉大さを誉め称えることがこの物語の主題だとは誰も思わない。問題は運慶の仕事ぶりと、それを見た明治の人々の反応だ。

 なぜか「自分」は、いったんは自分にも仁王が彫れるはずだと思い、彫れない理由を「明治の木には仁王は埋まっていない」からだと考える。

 この「埋まっていない」=「彫れない」が意味することを考えるために、掘り出せる=彫れる運慶を「自分」と対比する必要がある。運慶が仁王を掘り出せて、自分が掘り出せない必然性を考えるのである。

 前項の考察に拠れば、問題は運慶という傑出した個人と、平凡な「自分」という対比ではない。

 歴史に名を残す鎌倉人と、一明治人との対比である。


 糸口として運慶が芸術家なのか職人なのかと問うた。

 実は授業者がこの問いを思いついたのは、世の「第六夜」論に「芸術」の語が頻出するのを知っていることによる。

 運慶の迷いのない彫刻作業を、若い男が「あのとおりの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまで」と表現する。

 こういった表現は、ある種の「芸術」創造についての語り口として見覚えがある。

 実はこの表現はミケランジェロの以下のような言葉から発想されていると考えられる。

  • まだ彫られていない大理石は、偉大な芸術家が考えうるすべての形状を持っている。
  • どんな石の塊も内部に彫像を秘めている。それを発見するのが彫刻家の仕事だ。
  • 余分の大理石がそぎ落とされるにつれて、彫像は成長する。

 おそらく「若い男」の言っているのはこれらの受け売りだ。

 このように表現される創作活動とは「天啓」として降りてくるインスピレーションを形にする行為であり、その時、芸術家は神の声を聴く預言者である。作品は彼自身が作ったものではなく彼の手を通じて神が地上にもたらしたのだ、あるいは本人にもコントロールできない衝動が内側から湧き出して、それが形を成したのだ。


 だがこうした言い方は、授業者には芸術創造についての神話、神秘思想とでもいったもののように思える。芸術家を、凡人とは違った特別な存在として神秘化しているのだ。


 そもそも上記のようなことを言ったミケランジェロは芸術家か職人か?

 答えは「どちらでもある」だ。

 もちろんミケランジェロの作品を芸術であると言うことを否定する人はいまい。

 だが彼は明らかに職人である。工房に入って親方の元で修行して技術を身につけ、独立してからも自らの工房を開いて弟子をもった。教会や貴族の依頼によって作品を制作した。そのような在り方を普通「職人」と呼ぶ。

 これは例えばレオナルド・ダ・ヴィンチも同じだ。「モナリザ」や「最後の晩餐」は偉大な芸術作品だと見なされているが、それらは注文に応じて制作されたものだ。彼自身、工房で親方について修行し、後に自らの工房をもって弟子とともに作品を制作した。

 運慶もそうだ。仏師とは寺社や貴族の注文に応じて仏像を彫るのが仕事だ。運慶は親方について修行し、後に多くの弟子を率いる棟梁となった。これは我々がイメージする「職人」そのものだ。

 これは何を意味するか?


 芸術家と職人を区別するのは近代以降の発想なのだ。近代以前には芸術作品と工芸品に区別はなかったのだ。職人を意味するフランス語の「アルチザン」は「アーティスト」と語源が同じだ。

 近代以降「個人」の成立とともに、作品は「個人」の内面を表現するものと見なされるようになる。

 一方でそうした作品を、産業革命によって誕生した経済市場に乗せられる「商品」と区別する意識が生まれる。芸術作品は、本来売り買いされることを目的とした商品ではなく、芸術家個人の創作意欲の発露だというのである。一方で職人が作るものは「商品」だ。そうして「アーティスト」と「アルチザン」も対立的な概念として分岐していく。

 そうした前提によって運慶が芸術家か職人かを考えることには意味がない。

 では芸術家と職人をどのような違いとして捉えることが有効か?


 この問題について論ずるには、芸術家と職人が意味するものをまず対比的な言葉に置き換える必要がある。

 ただちに想起されるのは「芸術家=才能/職人=技術」といったところだ。

 ミケランジェロもレオナルドも運慶も、間違いなく天才なのだろう。

 だが運慶が迷いなく仁王を掘り出せるのは、何万回と重ねてきた技術の研鑽の結果ではないか? それが見る者に神秘的な技と見えるほどに高められた熟練の技術の賜物なのではないか?

 だがむろん「自分」は芸術家でも職人でもない。天才を有しているわけでもないし、熟練の技術を持っているわけもない。

 「自分」個人についてもそれは明らかであるというだけでなく、そもそも「自分」は一個人ではなく「明治人」として物語に登場している。そして「明治人」が特定の「才能」や「技術」を有しているべき必然性はない。

 したがって「芸術家」とは才能を持った者、「職人」は技術を身につけた者と捉えることには、それほど発展的な考察は期待できない。「自分」にそれらが欠けているのは自明なことである上に、「明治の木には」という限定が意味をなさないからだ。

 ここに登場する運慶を捉えるために、「芸術家=才能/職人=技術」ではなく、どんな概念を想定すれば良いか?


2022年11月10日木曜日

夢十夜 15 第六夜再考

  さて「第六夜」については小論文としてまとめた。

 みんな、満足のいくものが書けただろうか。


 保留してある論点のうち、②「明治の木には仁王は埋まっていない」については、執筆の前に考える糸口を示しておいたクラスもあった。

 「埋まっていない」とは実際には「彫れない」ということだ。だがそれを「埋まっていない」と表現することにどんな意味があるのか?


 「明治の木には仁王は埋まっていない」とは「運慶には彫れるが自分には彫れない」ということなのか「鎌倉時代の木には仁王が埋まっているが明治の木には埋まっていない」ということなのか、と言い換えることができる。前者を「木のせい」、後者を「自分のせい」と表現しておいた。

 そして、再考においては、この区別がそもそも意味を成していないのだという授業者の見解を示しておいた。

 どういうことか?

 上の問いは「運慶にも、明治の木から仁王を掘り出すことはできないのか?」という問いを背後に隠し持っている。裏返して言えば鎌倉の木からなら自分にも掘り出すことができるということになる。

 だが運慶にそれができないとは思えないし、自分にできるとも思えない。

 それはつまり問題の立て方が間違っているということだ。


 「自分」が「仁王は埋まっていない」と思ったのは「明治の木」だ。

 「明治の木」とは何か?

 それは運慶にも仁王が掘り出せないような木なのか。では山門で彫っているのは「鎌倉の木」なのか。

 そんな想定が無意味に思えるということは、つまり「明治の木」とは明治人であるところの「自分」が彫っている木のことなのであって、運慶が掘ればそれはすなわち「鎌倉の木」ということになるのだ。明治人の「自分」が彫ろうとすれは、木には仁王が「埋まっていない」のであり、それは明治人の「自分」には「彫れない」ことを意味する。したがって「埋まっていない」と「彫れない」は同じことを意味している。

 ここから導かれる結論は、問題は「明治の」という条件付けであり、「自分」個人の問題ではなく、「明治」という時代なのだ、ということである。


夢十夜 14 夢の論理

 「暁」とは夜明けのことだ。

 「暁の星を見た」と表現される事態は、精確に言うと、「星を見た」→「『あれは暁の星だ』と認識した」と二段階に分解される。

 そして、あれは「暁の」星なのだという認識は、もう夜が明けるのだ、という認識にほかならない。

 夜明け?

 だがそれまで「赤い日」がいくつも通り過ぎていった。そのたびに夜は明けていたではないか?

 そうは思えない。「赤い日」はただ書き割りのような空を背景として通り過ぎていくだけだ。昼に対応する夜も描かれていない。「自分」が眠ったり起きたりする様子もない。したがって、日が昇ったり沈んだりするからには、その度ごとに「暁」はあったはずなのだろうが、結局のところ時間がいくら経過していても、そこに本当の夜明けが来ていたような印象はない。

 「自分」はただ、女を埋めた時のまま、夜の底にひとり座り続けていたのではないか?

 そして「自分」が「暁の星」を見た瞬間にようやく夜明けがおとずれる。

 その時、そこまでの女をめぐるあれこれ、すなわち一夜の夢が終わる。


 「百年」とは、物語内部の論理レベルでは「女が来るまで」である。「百年が来た」とは、すなわち「女が来た」ということだ。

 一方で例えば「百年」とは「永遠」を意味している、などという解釈もある。女の約束に「待っている」と答えてひたすら待つ男から「永遠の愛」が主題だなどと言ってみたり、「百年経ったら会いに来る」とは、もう会えないという意味であり、結末で男は死んでいるのだなどと解釈して、そこから「愛の不可能性」が主題だと言ってみたりする。

 「百年」とは「永遠」という意味だ、という解釈は、物語内部の論理レベルを超えた抽象度で、その意味を捉えようとしている。「象徴」あるいは「隠喩」である。「第六夜」で試みたのもそのような解釈だ。

 だが「第一夜」については、そうした解釈は、小説読者が純粋に小説を読むことから乖離した「解釈ごっこ」になっていると思う(「暁の星」が女の象徴だと言ったりする解釈もそうだ)。

 一方、上で示した解釈は「百年」を「夢の終わりまで」を意味しているとするものだ。これもまた、物語内部の具体レベルを超えた解釈ではある。

 「百年がもう来ていたことに気づいた」とは、夢が終わることを悟る刹那の気配を示している。

 「夢オチ」という表現があるが、それが夢だと気づく視点は、世界を外側から見ている。メタな視点からこの物語を「夢」として捉えている(「メタ」とは上の次元から対象を見る高次の階層だ)。

 それはちょうど、我々読者がこの物語を「小説」としてどう読んだかということと入れ子構造をなしている。


 夢は、目が覚めて思い出すときに作られるという。我々の語る夢は多かれ少なかれ、覚醒時から遡って解釈される。

 解釈とは何らかの合理化だ。そこに論理を見出すのである。

 そして夢の中の納得は、目覚めてから思い出すと、何だか奇妙な論理で成立していることがある。

 目覚めるということは夢が終わるということだ。夢が終わるからには、女との約束が果たされなければならない。すなわち百年が来なければならない。だとするとこの百合が女の生まれ変わりなのだ。

 こうした奇妙な納得のありようは夢の感触として我々には覚えがあるはずだ。ああ、これは…なんだなあ、と何だかよくわからない納得をしている。「百年はもう来ていた」の「もう」という副詞も、「来ていた」の過去完了も、既に終わったことを今になって思い出す時の既視感のようなニュアンスをうまく表現している。冒頭近くの「確かにこれは死ぬな」にもそうした感触が鮮やかに表現されている。


 ということは先ほどの論理は転倒している。

 百合が女の生まれ変わりだと気づいたから「百年はもう来ていたんだな」と気づいたのではなく、むしろ百年が来ていたという結論から、百合が女の生まれ変わりだったのだという解釈が生まれたのだ。「百合が女の生まれ変わりであることに気づいた」という認識は、いわば遡って捏造されたのだ。そして振り返ってみた時にはそれが忘れられているのである。


 そしてそれは我々読者の思考である。上の捏造は「自分」がしたのではなく、読者がしたのだ。「自分」がそれに「気づいた」と、小説中に書かれてはいない。

 我々読者もまた、百合が女の生まれ変わりだと気づいたりはしなかった。最後の一文で百年が既に来ていたことを知らされ、そこから遡って百合が女であると解釈したのだ。それ以外の読解がされようはずがない。

 だがそのことは忘れられてしまう。

 最初の要約課題の際に、「百合の花が咲いた」ことと「百年が来ていたことに気づいた」ことを、明らかな因果関係として記述した人は多い。例えば「咲いたので~」などという記述は珍しくない。「女が百合に生まれ変わって」とはっきり書いている者もいる。

 だがそうした因果関係もそのような事実も、小説に書かれているわけではない。読者がそう解釈したのだ。

 もちろん漱石はそうした解釈を誘導するように意図的に書いている。だからある意味ではそれは「正しい」解釈だ。誘導にのってそのように解釈するとき、「物語」は完結する。


 こうして、いかにも夢らしい感触を感じさせる「夢の論理」は、同時に、我々が小説を読むということの三つ目の側面をも照らし出す。

 夢が終わるからには百年が来なければならないという「夢の論理」は、「物語」が終わるからには「欠落」が「回復」しなければならないという小説享受の論理と同型だ。我々は物語を完結させんとする要請によって、百年の到来=女の再来という結末をまず受け入れたのだ。その後で、女が百合に生まれ変わって会いに来たのだと信じたのだ。

 そのことを思い出すとき、「自分」が気づいた百年の到来が夢の終わりを意味しているという解釈も「思い出す」ように腑に落ちる。


 ずっと待っていた女の再来によって百年の終わりが来たという結末は、基本的には「欠落」→「回復」という型で認識されるハッピーエンドとして認識される。

 だが一方で夢の女とは夢の中でしか会えない。だから夢の終わりとは夢の女との永遠の訣別でもある。

 ここには約束の成就と約束成就の不能、「回復」の成功と失敗という正反対の論理が階層を違えて同居している。

 「第一夜」のハッピーエンドは喪失の切なさを内包して成立している。


夢十夜 13 暁の星を見る

 「自分」はなぜ「百年がもう来ていたことに気づいた」のか?

 先に示したのは「①女がまだ来ないから」と裏表で整合する「②女が会いに来たから」という論理だ。こうした論理によって我々は「第一夜」が欠落→回復という「物語」の構造を成していると見なしていたのだった。

 ではbの「暁の星を見た」から「百年が来ていたことに気づいた」と考えることは、どのような解釈を成立させるか?

 

 「暁の星」とは何を意味するか。もちろん、意味を見出せない要素は、この小説の中にいくらでもある。「真珠貝」然り、「星の破片」然り。あるいはそれらは、小説の構造を支える明確な「意味」をもった構成要素なのかもしれない。だが今のところ授業者の目には、それらはその「意味」について考えても仕方のないような単なる「ロマンチックな」ガジェットに過ぎないように映っている。

 「暁の星」も同様のギミックに過ぎないのだろうか?


 例えば暁の星を女の象徴としてみる解釈が世間にはある。

 「暁の星」は「明けの明星」つまり「金星」を意味する。金星は西欧ではローマ神話に由来して「ヴィーナス」と呼ばれる。すなわち「美の神」だ。

 つまり「暁の星」こそが女なのである

 こういうことは、好事家のネット記事というだけでなく、大学の教授やら文芸評論家やらが言ってたりもする(たぶん。あろうことか、まさしくそういう解説を中学時代に教わったという話をF組で聞いた。まるっきりそのまんまのノートを見せてもらった)。

 なんなんだ? この解釈は?

 百合が女をイメージさせるように意図的に書いてあることは明白なのに、なんでこんな解釈をする必要があるのか?


 そこで、もうちょっと辻褄を合わせるために更に理屈をこねる。

 女は「昇天」したのだから天にいる。真珠貝に月の光が射したり、星の破片や露が天から落ちてくるのは女との交感を暗示している。

 百合は、男の疑いに対して、自分が約束を忘れていないことを示す女の身代わりで、露はそれが自分であることを悟らせるための合図だ。

 つまり女は天から、いつだって自分を見守ってくれていたのだ。

 そう気づいた時に「もう百年は来ていた」と気づくのだ。

 よし、もっともらしい解釈になった。


 だが、このような解釈は授業者には何のカタルシスももたらさない。なるほど、という腑に落ちる感じはない。「第一夜」は既によく「わかっている」というのに、まるで人工的な、こんな解釈をすべき必要がわからない。

 「暁の星」にスポットを当てて、もう一度考えさせたのは別な狙いがある。

 

 ところで「暁」とは上に見たとおり、夜明けのことだ。

 とすると、これから上っている太陽こそが女なのか?

 もちろんこんな解釈もばかばかしい。

 とすると?


2022年11月6日日曜日

夢十夜 12 なぜ気づいたのか

  「第一夜」は「死んだ女が百合の花として帰ってくることで、百年待っているという約束が成就する物語」であると読める。

 だが本文を見直してみると、明確にそのようには書かれていない。

 「自分」は本当に百合が女の生まれ変わりであると気づいたのだろうか?


 なぜこんな疑問をわざわざ投げかけるのか不審に思うかもしれない。百合の描写からは、それが女の生まれ変わりであることは自明であるように感じられる。「首を傾けていた」という擬人的表現も「骨にこたえるほど匂った」という比喩も女の官能性を感じさせる。「自分」が思わず接吻してしまうのも、それが女の生まれ変わりだからだ。花弁に露が落ちるのは、女が死ぬ瞬間の「涙が頬へ垂れた。」のイメージと重ねられているのだろう。明らかに作者はそのような印象を読者に与えようとしている。

 したがって、百合が女の生まれ変わりであることに気づく=女との約束が成就したことに気づく=百年が来ていたことに気づく、という論理に疑問はない。だからこそ「第一夜」を「物語」として読めるのだ。

 だが、あらためて読んでみると「自分」がそのことに気づいたとは直截的には書いてはいない。

 その間隙を衝くために次のような問いを投げる。

自分は首を前へ出して、冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。「百年はもう来ていたんだな。」とこの時初めて気がついた。
 ③「この時」とはいつか?


 上の論理に従えば、「この時」とは、百合に接吻してから顔を離した「時」のことだ。

 だが素直に本文を見直してみると、「気がつ」く直前に「自分」は「暁の星がたった一つ瞬いてい」るのを見ている。

 もちろんこの二つは同じ「時」だ。「顔を離す拍子に思わず遠い空を見た」のだから。

 だが問題は「時」と指定されるある時点というより、「この」が指している事実が何かだ。

 そしてその事実と「気がついた」におそらく因果関係があるのである。

 とすれば、上の二つの可能性は、ただちに次のように問い直される。


「なぜ『百年はもう来ていた』ことに気づいたのか?」答えは次のどちらか?

a 百合が女だと気づいたから

b 暁の星を見たから


 どちらが正解か、という問いではない。aとbはどのような関係になっているか?


2022年11月4日金曜日

夢十夜 11 第一夜も解釈する

 「第一夜」を素材に、皆に考えてほしかったのは、小説を読むという体験がいかなるものであるか、だ。ここまでの作業を通してその二つの側面を浮かび上がらせた。「構造」を捉え、細部の豊穣を源泉掛け流しの温泉のように身に浴びる(そして「第六夜」のように抽象化された「意味」を捉えることもまた小説を読むという行為の別の側面だ)。

 だが「第一夜」を読むことからは、もう一つ興味深い体験になりうる可能性が引き出せる。それはやはりある種の「解釈」だ。だがそれは「第六夜」で考察したような、主題を抽象したり、象徴を読み取ったりする「解釈」ではない。

「第一夜」には、ある種の夢の構造が表出している。そして「夢を見る」ことと「小説を読む」ことを重ねてみることで、「小説を読む」ことのまた別の側面が明らかになる。


 考える糸口は次の問い。

なぜ「自分」は

①「百年がまだ来ない」と考えたのか?

②「百年はもう来ていた」と気づいたのか?


 物語の最後で白い百合が咲く前に「自分」は女に欺されたのではなかろうかと考える。①はその直前に置かれた記述。②は百合に接吻して物語が終わる最後の一文だ。

 二つの問いに、整合的な論理で答える。


 まず①。

 カウントが「百年」に達していないということではない。なぜか?


 自分は途中で数えることを放棄しているからである(「いくつ見たかわからない」)。

 ではなぜ「まだ来ない」と考えられるのか?


 ①「女がまだ会いに来ないから」である。

 女は「百年経ったらきっと会いに来る」と言った。その女が現れないから、百年はまだ来ていないと考えたのだ。

 これを裏返せば、「百年がもう来ていたことに気づいた」のは②「女が会いに来たから」ということになる。

 これはつまり、百合を女の再来と認めたということにほかならない。

 ①と②は裏表に補完し合っている。


 先に、読者はこの小説を完結した「物語」として読める、と述べた。それは①②の論理を了解しているということだ。喪失によって生じた「欠落」は、試練の末「回復」したのだ。


 こんな明白な論理について問答をしたのはさらに次のように問うためだ。

本当に「女が百合になって会いに来た」と本文に書いてあるのか?


 答えは、、である。


夢十夜 10 「小説を読む」とは

 ここで茂木健一郎の「見る」と、小林秀雄の「美を求める心」を読む。

茂木健一郎「見る」

 「見る」という体験は、その時々の意識の流れの中に消えてしまう「視覚的アウェアネス」と、概念化され、記憶に残るその時々に見ているものの「要約」という二つの要素からなる複合体なのである。(略)

 視野の中に見える「モナ・リザ」の部分部分が集積してある印象を与えることで人間の脳は深い感銘を受ける。印象を結ぶ脳の編集、要約作業の過程で、ある抽象的な「要約」が生まれるからこそ、「モナ・リザ」は特別な意味を持つ。

 しかし、その「要約」だけでは、「モナ・リザ」の前に立つという体験を再現することはできない。その絵の前に立つとき、さまざまな要約が脳の中では現れ、深化し、変貌し、記憶される。その一方で、絵を構成する色や形などの細部は、決してそのすべてをとどめておくことができない「意識の流れ」の中で、時々刻々失われていく体験として、私たちの魂を通り過ぎる。

 何かをつかみつつも、指の間から砂がこぼれ落ちるように圧倒的に失われつつあるもの。その豊穣な喪失こそが、絵を見るという体験の本質である。 


小林秀雄「美を求める心」

 見ることは喋ることではない。言葉は眼の邪魔になるものです。例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫(すみれ)の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるのでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに入ってくれば、諸君はもう眼を閉じるのです。菫の花だと解るということは、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えてしまうことです。言葉の邪魔のはいらぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗て見たこともなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。

 これらの論旨とここまでの授業の考察を重ねてみる。

 それらには何が共通しているか?


 まず、二つの文章に共通した論旨をつかむ。

 「共通している」とは両者が「対応している」ということだ。

 何と何が?


 茂木のいう「要約」が小林のいう「言葉に置き換える」に対応しているというのが最も重要な対応としてまず指摘されなければならない。

 だがそれはどのような論旨の把握によって「対応している」と考えられるのか?


 二つの文章に共通した問題を問いの形で表すなら、どちらも「『見る』とはどういうことか?」と表現できる。このような把握ができれば、その「こういうこと」の共通点は何か? を考えればいいとわかる。

 また、授業のテーマが何だったのかを、同じように問いの形にする。

 何度か繰り返した。「小説を読むとはどういうことか?」だ。となれば、その「こういうこと」を共通した言い方でいえばいい。


 茂木は「見る」ことは「視覚的アウェアネス」と「要約」の複合体だと言う。

 小林の例えば「花の姿や色の美しい感じ」が「視覚的アウェアネス」に、「言葉で置き換える(「お喋り」はその比喩的表現)」が「要約」に対応している。

 茂木は両方をそれぞれ述べているが、小林は後者を否定している。だが、それは二つのうちの「要約」のみが「見る」ことだと思っているような人を批判するためだ。

 「言葉で置き換える」ことが見ることだとしか考えていない人はちゃんと「見る」ことをしていないのだ、というのが小林の論の力点だ。そしてただ「見る」こと=「視覚的アウェアネス」で捉えていることは簡単だと人は思っているが、そこには訓練がいるのだ、とも言っている。

 だが「言葉で置き換える」ことがなければ、茂木の言うように見たことは「消え去って」「失われて」しまう。「菫の花だ」と言ってそれ以上見ることをやめてしまう人は本当に「見て」はいないのかもしれないが、「菫の花だ」とも言わなければ、見たこと自体が流れ去ってしまう。

 こうした論旨とここまでの授業でやってきたことは同型である。 


 「絵を見る」「花を見る」ことが「小説を読む」と対応しているのである。

 「要約」なくして「絵を見る」ことはできないが、「絵を見る」という体験は同時に「絵を構成する色や形などの細部」が「時々刻々失われていく体験として、私たちの魂を通り過ぎる」ことでもある。

 「夢十夜」を読んで、それが何を語っている小説なのかを認識するために、我々は「第六夜」で試みたように抽象化した「意味」「主題」を捉えるために「解釈」したり、「第一夜」で試みたように「構造」を捉えて「要約」したりする。そうしなければ読んだ小説はとりとめもないものとして流れ去ってしまう。それらの「解釈」は意識するとせざるとを問わず必ず行われている。

 だが一方で、その時「指の間から砂がこぼれ落ちるように圧倒的に失われ」てしまうものこそが小説の「豊穣」でもあるのである。

 そうした「花の姿や色の美しい感じ」そのものを見ないで、小説が「わかる」ことは、本当に小説を「読んでいる」ことにはならない。

 「第一夜」の過剰とも言える描写や形容を施されたイメージ豊かな文章を読むことは、湯量の豊富な「源泉掛け流しの温泉」の湯を浴びるように贅沢なことだ。

 漱石の紡ぐ物語は、そうした細部の「豊穣」によってこそ魅力的な小説たりえている。


2022年11月1日火曜日

夢十夜 9 小説の「骨」と「肉」と「皮」

  「第一夜」の文体の特徴は、いわば過剰な「叙景」だ。

 「第一夜」には読者に映像を喚起させる描写が、しつこいほどに念入りに語られている。そしてさらにそれが異様とも言える密度で、形容詞や形容動詞や副詞によって修飾されている。

 実際にそのようにして「詰め」てみた文章を通読する。

こんな夢を見た。/枕元に坐っていると、女が、もう死にますと言う。死にそうには見えない。しかし女は、もう死にますと言った。自分もこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、ときいてみた。死にますとも、と言いながら、女は眼を開けた。 /自分はこの目を眺めて、これでも死ぬのかと思った。それで、死ぬんじゃなかろうね、大丈夫だろうね、とまたきき返した。すると女は、でも、死ぬんですもの、しかたがないわと言った。/じゃ、私の顔が見えるかいときくと、見えるかいって、そら、そこに、映ってるじゃありませんかと、笑ってみせた。自分は、顔を枕から離した。どうしても死ぬのかなと思った。/女がまたこう言った。/「死んだら、埋めてください。そうして墓のそばに待っていてください。また逢いに来ますから。」/自分は、いつ逢いに来るかねときいた。/「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。―日が東から西へと落ちてゆくうちに、――あなた、待っていられますか。」/自分はうなずいた。女は「百年待っていてください。きっと逢いに来ますから。」と言った。/自分は、待っていると答えた。女の眼が閉じた。もう死んでいた。/自分はそれから庭へ下りて、穴を掘った。女をその中に入れた。そうして土をかけた。/それから星の破片の落ちたのを拾ってきて、土の上へのせた。/自分は苔の上に坐った。これから百年の間、こうして待っているんだなと考えながら、墓石を眺めていた。/そのうちに、日が東から出た。それがやがて西へ落ちた。一つと自分は勘定した。/しばらくするとまた天道が上ってきた。そうして沈んでしまった。二つとまた勘定した。/自分は日をいくつ見たか分からない。勘定しつくせないほど日が頭の上を通り越していった。それでも百年がまだ来ない。しまいには、自分は女に欺されたのではなかろうかと思い出した。/すると石の下から茎が伸びてきて、百合が開いた。自分は花弁に接吻した。空を見たら、暁の星が瞬いていた。/「百年はもう来ていたんだな。」とこの時はじめて気がついた。

 これで850字くらい。原文は1800字くらいなので、半分以下に原文を詰めてみても、ストーリーを追う上ではほとんど支障がないどころか、物語的には原文とほとんど変わらないような印象があるはずだ。

 逆に言えば「第一夜」には、ストーリーを語る上で必須とは言えない描写や形容が、過剰とも言える量・密度で書き込まれているのだ。


 さて結局のところ、作品は何でできているか?

 我々がそれを「物語」として感じる基本的「構造」を言わば「骨」としてみると、その周りに、細かいプロットの展開が言わば「肉」として付随している。最初の課題、100字要約はそれをぎりぎりまで削ぎ落として、ほとんど骨だけにしたものだ。

 逆に、そこに肉付けされた身体が上のような文章で表される小説の原形だとすると、その上に衣服を着せ、化粧さえ施したものが完成された小説作品だ。

 「第一夜」は、ずいぶんな厚着、厚化粧なのだ。

 「肉」や「衣装」「化粧」はどんな働きをしているか?

 感情移入させる、臨場感を増す、視覚的想像を喚起する…。

 いろいろな言い方が可能だ。


 完成された作品としての小説は次のようないくつかの層で成立している。

骨組み   ↓

細かい展開 ↓

映像的描写 ↓

形容    ↓

完成した小説

 こうした小説を我々はどのように読んでいるか?

夢十夜 8 「第一夜」の文体の特徴

  さらに小説を読むとはどのような行為かを考える。

 「物語」として読むことが可能な「第一夜」は、主題を考えるのではなく、その小説としての魅力の源泉について考えてみたい。

 注目すべきは文体の特徴である。


 小説の要約においては「物語」的な因果関係を把握する必要がある。「欠落」と「回復」という骨組みを示せれば、ひとまずは端的な要約ができる。

 さて、こうした要約において抽出したいわば骨組みと、完成された元の作品の間にあるものが何なのかを考える。

 作品とは骨以外に何でできているか?


 「第一夜」の冒頭を次のように音読して聞かせた。

枕元に坐っていると、女が、もう死にますと言う。死にそうには見えない。しかし女は、もう死にますと言った。自分もこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、ときいてみた。死にますとも、と言いながら、女は眼を開けた。その眸の奥に、自分の姿が浮かんでいる。

 これは原文とどう違うか?

腕組みをして枕元に坐っていると、仰向きに寝た女が、静かな声でもう死にますと言う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。真っ白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色はむろん赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますとはっきり言った。自分も確かにこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにしてきいてみた。死にますとも、と言いながら、女はぱっちりと眼を開けた。大きな潤いのある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真っ黒であった。その真っ黒な眸の奥に、自分の姿が鮮やかに浮かんでいる。

 授業ではこの変更を二段階に分けて読み聞かせた。

 まず太字部分、「静かな」「長い」「柔らかな」「真っ白な」「温かい」「はっきり」「ぱっちり」「鮮やかに」などを抜いた。

 次に下線部「腕組みをして」「女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。真っ白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色はむろん赤い。」などを抜いた。

 これら太字部分と下線部は何か? 何を削ったのか?

 太字については「修飾」が削られている、という意見が圧倒的に多かった。悪くないが「修飾」という概念はちょっと広過ぎる。
 下線部は「様子」や「状態」を表す部分だ。これも悪くない。
 だがより的確に言うなら「形容」「描写」がいいか。どちらもサ変動詞にできる。
 太字は、品詞としては形容詞・形容動詞・副詞・連体詞など、ある動詞や名詞を「形容」する一単語だ。
 下線部は映像的「描写」。何をした、何が起きた、というだけでなく、それがどんな「様子」だったかを視覚的に伝える情報だ。
 もちろん「形容」と「描写」の境目は明確ではないが、ともかくも例えば「形容」「描写」という言葉で表現できるかどうかもまた国語の力だ。

 さて、「第一夜」から、取り除いて前後を詰めてしまってもストーリーの把握の上で支障のない「形容」および「映像的描写」を削除してみよう。タブレット上でテキストを一度コピーして、その一方をいじる。元のテキストは残しておく。
 「取り除いてもかまわない」かどうかというのは判断が揺れる。また「形容」と「映像的描写」も厳密な区別ではない。
 だから「正解」は一つに決まらない。だがともあれ、考えることで、この小説の文体の特徴を実感することができる。
 できあがったら隣の人と読み合って、互いが消した部分の違いを比べてみる。そこも消せるのか、そこを削ると話がつながらなくなるよ、などと話し合ううち、この小説の特徴が炙り出される。
 この作業を通して浮かび上がるこの小説の文体の特徴とは何か?

2022年10月28日金曜日

夢十夜 7 「物語」の構造

  我々が「第一夜」を完結した「物語」として感じられる要因は何か?

 どうみても「虚構」だし、展開は因果関係によって継起していく。墓を掘るのも待つのも女との約束だからだということは読者に了解されている。

 さらに、ここには「物語」が持っている、ある普遍的な構造がある。それを「起承転結」などとそれを表現してもいいが、では「起」だの「結」だのがあると感じるとはどういうことか?


 こういう本質的な「そもそも」問題は、いろんな切り込み方があって考えてみると面白い問題なのだが、ここではそのうちの一つの考え方を紹介する。

 「物語」に広く見られる構造を汎用性のある言い方で言うなら「欠落」「回復」と表現できる。

 物語は欠けたものを埋めようとして駆動(起承)し、埋め合わされることによって決着(結)する。

 知っている様々な物語(民話・神話・童話・おとぎ話)で、そのことを確かめてみよう。

 多くの民話・神話の主人公は旅をする。欠けた物を探す旅だ。それを見つけて帰ることで物語が終わる。「桃太郎」は村から収奪された財宝を鬼ヶ島から取り返して戻ってくる。同型の「一寸法師」でも鬼から宝を取り戻すのだが、さらに彼の場合は身長が「欠落」していたのだとも言える。結末では打出の小槌によって身長が「回復」してお姫様と結婚する(ここでみんながどんなお話を例に挙げて考察したかは興味深い。教えてほしい。聞こえてきた「浦島太郎」と「マッチ売りの少女」はなかなか分析が難しいなあと思った)。

 一方で悲劇の場合は、そのように期待される「回復」が裏切られることが、やはり物語の決着として感じられる。

 「羅生門」では?

 確かに食も職も「欠落」しているが、直接その「回復」が果たされるわけではない(下人が再就職する話ではない)。

 「主題」にからむように構造を把握するなら、最初門の下で下人に「欠落」していたのは盗人になる「勇気」であり、最後それは「回復」する(勇気が出る)。

 「第六夜」は、運慶が明治の世に現れている不思議が「欠落」で、その理由がわかることが「回復」(この物語性はそれほど強くはない)。

 では「第一夜」は?


 言うまでもなく女の死が「欠落」を生み、再会によって「回復」する。

 このように理解するときこの物語は、女が百合に姿を変えて会いに来ることで、死に際の約束が成就するハッピーエンドの物語だと考えられる。

 物語前半の喪失による欠落が、試練の末に埋め合わされることで回復するというのは、「物語」の基本的なドラマツルギー(作劇技法)として完璧な要件を備えている。

 もちろん女がそのままの「女」でないことに、ハッピーエンドとしての十全な満足はない。だがその不全感も、喪失感として小説の味わいを増しているのであって、前半の約束が結末への推進力としてはたらく欠落補充の要請は、確かに満たされて終わる。

 だから読者はこの小説を、一編の「物語」として捉えることができている。


 こうした「欠落」→「回復」を大きな背骨とした構造を捉えることは、要約において必要な把握だ。だがそれは「意味」を捉えるような抽象化を伴っているわけではない。

 「第一夜」は「主題」を考えることなく「物語」として読める。



2022年10月26日水曜日

夢十夜 6 「物語」とは何か

  「主題」は作品が可能性として潜ませている抽象的な「意味」である。「第一夜」にそんなものはなくてもいいとも言える(あってもいいが)。

 だがそれでも我々は「第一夜」を「物語」として読むことができる。読んで、まるでとりとめもないイメージが散乱するばかりの、それこそ「夢」のようでしかない体験として読み終えるわけではない。

 『夢十夜』の「第一夜」は、夢の感触を鮮やかに再現しつつ、だが創作物としての小説として完結している。

 そして我々はこれを「物語」として読んでもいる。


 「物語」とは何か?

 「第一夜」が「物語」として捉えられるとはどのような意味か?


 「物語」という概念にはさまざまな側面があり、したがっていろいろな定義の仕方がありうる。だからこの問いには「物語」という概念を何と対比するかによって様々な答え方がある。

 授業ではさしあたり「新聞記事」「歴史の教科書」と対比させた。

 「新聞記事」「歴史の教科書」との対比によって我々が「物語」という概念に見出す要素は「虚構性」である。「物語」を「現実」と対比しているのだ。

 さらに一人称の語り手」「登場人物の心情なども挙がった。確かに。

 そこで対比に「日記」も加えた。日記は一人称で「私」の心情を語る。だが「物語」ではない。

 さらに「とりとめもないイメージの羅列」を「物語」の対比として考える。虚構性も、そこから「物語」を区別する条件にはならない。

 では?


 複数クラスで提起されたのは「流れ」という言葉だが、「流れ」って何だ?

 確かに「日記」や「とりとめもないイメージの羅列」には「流れ」が感じられないかもしれない。「羅列」は「流れ」ていないということだ。

 「流れ」とは、時間軸に沿って提示される情報の間に、何らかの因果関係があるということだ。複数の出来事が時間軸に沿って起こり、それをただ並列的に述べていっても、我々はそれを「物語」とは感じない。それは「羅列」だ。それらのエピソードをつなげて、それらの出来事間に何らかの因果関係を見出す時に、我々はそこに「物語」の気配を感じる。


 だがまだそれだけでは「物語」といえる感触を捉えるには充分ではない。

 さらに「起承転結」という言葉も各クラスで挙がった。各要素は「因果関係」をもち、そこに「起承転結」といえるようなまとまりが備わったときに、それを「物語」と感じるのだ。

 では「起承転結」とは何か?


2022年10月25日火曜日

夢十夜 5 第一夜は解釈しない

 「第六夜」についての考察は、議論を聞いていると期待以上に充実しているので、これは小論文としてまとめさせたいと思えてきた。

 だがすぐに結論を出してしまうのは惜しい。時間調整に、先に「第一夜」を読むことにする。

 「第六夜」について「解釈」することは、これが「夢」そのものではなく「小説」という物語として語られる以上、可能なアプローチとして認めてもいいように思われる。

 同様に「第一夜」にもさまざまな謎が、いかにも「解釈」を求めているような顔で並んでいる。なぜ女が唐突に「死にます」などと言うのか、「百年経ったら会いに来る」とはどのような意味か、女は結局会いに来たのか?

 あるいは「真珠貝」「星の破片」「赤い日」「露」は何を象徴しているのか?

 そもそも「女」や「百年」「百合」は何を象徴しているのか?

 こうしたいかにも「謎めいた」ガジェットに意味を見出したくなる人情もわかる。文学研究の世界では精神分析の手法を使ったり、漱石の伝記的事実を調べたりして、様々な解釈が行われている。死んでしまう女には、漱石が密かに思いを寄せていた兄嫁のイメージが重ねられている、とか。

 だが結局のところ、これらの謎に明確な意味を見いだすことに手応えのある見通しは、授業者にはない。精神分析的解釈や伝記的事実に結びつける解釈はどれもこじつけじみて感じられる。小説を読む読者の感動と乖離している。

 あるいは普通の文学的解釈は?

 実は中学校や塾の授業で「夢十夜」を教わったという話を聞いた。そこでは「第一夜」の主題は「永遠の愛」だと教わったのだとか。

 これは中学校や塾の先生のオリジナルな解釈ではなく、どこぞの大学の先生あたりが言っていることなのだ。

 だがそんな解釈は阿呆らしい。「第一夜」はこのような解釈を必要とせず、すでに「わかっている」ように思える。

 だから授業では結局のところこの物語を、「解釈」を目的として「使う」つもりはない。

 では何をするか?

 授業では「第一夜」を教材として、小説を読むという行為どのようなものかについて考察する。これは「『第六夜』とはどのような小説か?」という問いよりも抽象度の高い問いだ。


 「第一夜」を、一〇〇字以内に要約することを予め課しておいた。

 上に「第一夜」は、「第六夜」のようには解釈しないと述べた。

 「第六夜」でやったのは、「主題」が何かを考える解釈だ。

 「主題」とは繰り返し言っているように「こんな話だ」という把握のことだ。

 一方で「要約」もまた、その小説が「どんな話?」という疑問に対して「こんな話だ」と答えるひとつの方法ではある。

 その過程にはある種の「解釈」が行われてはいる。テキストに書かれた何が重要な要素なのかという判断はある種の「解釈」だ。

 では「主題」を捉える解釈と「要約」する解釈はどう違うか?


 要約例をひとつ見てみよう。

百年経ったらきっとまた逢いに来ると言い残して死んでしまった女を墓の前で長い間待っていたが、そのうち女の約束を疑うようになった。すると墓の下から茎が伸びて百合の花が開いた。百年が来ていたことに気づいた。(100字)

 ここには「第一夜」の「主題」が捉えられている感触はない。

 だがこれもまた「第一夜」とは「こんな話だ」と言っているには違いない。

 「主題」と「要約」はどう違うか?


 「主題」は作品から作者の言いたいことを部分的に抜き出したもので「要約」は全体を圧縮したものだ、という意見が各クラスで出た。そういう側面は確かにある。

 また、「要約」は本文をなるべく客観的に分析しているのに対して、「主題」を捉える解釈には、読者の主体的な考察が入るから主観的だ、という意見も出た。これもなるほど。

 「主題」と「要約」の違いを捉える上で、作者読者客観主観といった対比的な要素が抽出できたのは良かった。

 だがもう一言ほしい。

 「主題」と「要約」の違いを語る上で使いたい対義語は「具体/抽象」だ。

 「要約」に必要な解釈とは、物語の各要素の論理的な因果関係を判断する思考だ。骨として選ばれた要素が、物語中の具体レベルのままでもいい。

 一方、「主題」とは抽象化された「意味」だ。つまり「主題」を語る言葉は作品内情報のレベルより抽象度が高い。

 「主題」と「要約」は、その抽象度に違いがある(とはいえ実際の「こんな話」ではそれらが混ざっている方が良い。どちらかだけでは相手にどんな話かが伝わりにくいのだ)。


夢十夜 4 運慶とは何者か

  もうひとつ考えておきたいことがある。「運慶」とはそもそも何者か?


 伝記的事実はWikipediaでも何でも調べられる。確かに運慶と聞いてまるで見当もつかない読者は、この読解には参加できない。一般常識として運慶を知っている必要はある。

 だがそこが問題なのではなく、この小説で描かれる運慶が問題なのだ。

 実際に書かれた小説のテクストの中から、運慶がどのように書かれているかを読み取るのだ。そこには何らかの作者の意図が読み取れる可能性がある。それを問いとして立てる。

③この小説における「運慶」とはどういう存在か?

 もう一つ、こういう問題を問いとして立てるためにはお決まりの言い方がある。何か?

③「運慶」は象徴するか?

 「どういう」という問いはどこをめざして考察すればいいのかがはっきりしない。一方の「何の象徴」は、最終的に名詞か名詞句で表現できればいいというゴールが明確だが、飛躍を必要とする難しさもある。両方を適宜行き来して考えよう。

 ①②は素直に「わからない」と感じるはずの謎を問いとして立てた。一方③のような問いの立て方は、小説の読み方として自覚的でないと思い浮かばない。


 運慶が何者であるかは、この小説に書かれていることから読み取らねばならない。

 「運慶は見物人の評判には委細頓着なく」「眼中に我々なし」といった描写から、見物人は運慶を見ているが、逆に運慶からはこちらが見えていないのではないか、と言った生徒がかつていた。単に運慶の集中力が高いという以上の意味を読み取ろうとすれば、これは「明治時代に鎌倉時代の運慶が現れた」ということではなく、運慶のいる時空と見物人のいる時空とが、本質的には違った位相にあって、それが一時重なっているように見えるだけだということかもしれない。

 面白い着眼点だが、この発想がどこに辿り着くのか、今のところ授業者にはわからない。それより注目したいのは次のくだりだ。

 運慶が仁王の鼻のあたりを鮮やかに彫り出す動きを描写した後、その手際について見物の若い男が「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あのとおりの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。」と語る。このように表現される行為は何を意味するか。


 考える、語り合う糸口として、ここでも問いを選択肢のある形に変形してみる。

③ここに登場する「運慶」は、「芸術家」「職人」か?

 この問いはいささか突飛なものと感じられるかもしれない。問①②を変形して選択肢を作るには、単に日本語としての多義性を利用して、その意味合いを明確にしようとしたのだった。だが問③の選択肢はそのように、言葉に元々含まれる可能性から発想されたのではない(この問題は後述する)。

 迷いなく仁王を彫れるのは運慶が芸術家だからなのか、職人だからなのか?

 仁王が彫れないのは、「自分」が芸術家ではないということなのか、職人ではないということなのか?

 むろん「自分」はどちらでもない。だがここでは、どちらでないことが重要なのか?


 こういう時はやはり、語るにふさわしい言葉を思い浮かべることができると語り易い。

 「芸術家」「職人」それぞれが備えていて「自分」に備わっていないものは何か?

 これを対比的な言葉で捉えると論じやすくなる。


 話し合いの中で面白い視点を知ることができた。

 G組Aさんは「仁王とは?」を語っていた。これは授業者の発想にはなかった。

 ここで運慶の彫っているのが阿弥陀如来像や阿修羅像でなく鮭を咥えた熊などでなく、仁王像であることには意味があるのか?

 授業者はこの答えを持っていないが、それが結論まで結びつくならどんな着眼点も検討しても良い。

 もう一つ、「運慶が生きている理由」は「運慶にとって」なのか「自分(達)にとって」なのかと問うていたら、C組Tさんが「仁王にとって」という解釈を考えついた。仁王にとっては、自分が世に出るためには運慶さんが必要なのであり、それが「運慶が生きている理由」なのだ、と。

 それならばやはり「仁王とは何者か?」を問わねばなるまい。

 どういう解釈に決着するんだろうか?


2022年10月24日月曜日

夢十夜 3 問いを分解する

 前回の問い「主題」を考えるために、より具体的な小説中の謎(①②)を考えようとした。抽象度の高い問いをいきなり考えようとしても手がかりがないかもしれないからだ。

 同様に、①②を考える上で、さらに問いを分解・変形して考える糸口をつかむ。


①「運慶が今日まで生きている理由」とは何か?

 「生きている」のニュアンスを「生きているべき」と強調してみると、「べし」の意味「すいかとめてよ」のどのニュアンスが含意されているかを考えることができる。

 「今日まで生きている理由」とは「生きていなければならない理由」なのか、「今日まで生きていられた理由」なのか?

 複数の選択肢に分けて考えることは、思考を活性化させるために有効だ。人間の思考は、物事の対比において、差異線をなぞるようにしか成立しない。

 結論がどちらかを決定しようとしているわけではない。どちらが適切だろうか、と考えることで、文中から根拠となるべき情報を読み取ろうとするのだ。


 また「運慶が今日まで生きている理由」とは、誰にとっての「理由」なのか?

 運慶自身にとっての「理由」なのか、我々(語り手にとっての「理由」なのか? つまり「運慶にとって自分が今日まで生きている理由」なのか、「我々にとって運慶が生きている理由」なのか?

 「生きていられる」は「べし」を可能の意味で解釈している。「生きていなければ」のニュアンスの場合、運慶自身にとってならば「べし」は意志だろうし、我々にとってならば「べし」は当然か適当だ(「命令」? むしろ「願望」?)。

 これらは単に日本語の解釈の可能性を押し広げて創作した問いだ。二つの選択肢の組み合わせで4つの解釈ができる。「運慶が考える、自身が生きていられる理由」「運慶が考える、自身が生きていなければならない理由」「運慶が生きていられると『自分』が考える理由」「運慶は生きていなければならない、と『自分』が考える理由」である。


 同様に②についても分解・変形を試みる。

②「明治の木には到底仁王は埋まっていない」とはどういうことか?

 「どういうことか」という問いは、包括的であることに意義がある一方で、目標が定まらないから思考や論議が散漫になるきらいがある。

 ②は、「仁王が彫れない」であるはずなのに、なぜ「仁王は埋まっていない」と表現されるのか? という疑問でもある。

 そこで問②を次のように変形する。

②仁王が彫れないのは、「自分のせい」か、「木のせい」か?

 本文は「明治の木には到底仁王は埋まっていない」といっているのだから、言葉通りには「木のせい」ということになるが、どうもすんなりと納得はしがたい。なんとなく無責任に過ぎるような気もして、ではどういう意味で「自分のせい」だと言えるかと考えると、ことはそれほど簡単ではない。

 本当は「自分のせい」なのに、それを「木のせい」と勘違いの悟りを得たということなのか、本当にこの小説の中では「木のせい」だということを意味しているのか?


 上記の二択すべて、とりあえず現状の考えを聞いてみると、皆の立場は分かれる。

 自分は最初からあるニュアンスでその表現を読み取ってしまって、その上でその先を考えていたはずだ。そうでないニュアンスを読み取る可能性を検討した上で選んだわけではない。だから違った可能性も公平に考えてみる。

 といってこれらの選択肢は、どれかを排他的に正解とすることを目指すのではない。どちらであるかを考えることが、思考を推し進めていくことに資すれば良い。

 このようにニュアンスを細分化することで、ここで明らかにしなければならないことを互いに共有するのだ。

 あるいは主張の違いを利用して有効に議論を展開するのだ。


夢十夜 2 問いを立てる

 読解にあたって最初に立てるべき問いは決まっている。

「第六夜」の主題は何か?

 常にテキスト読解にとって必要最小限にして最大の問いだ。「第六夜」はつまり何を言っている小説なのか?

 いきなりこの問いに答えるのは難しい。時折この問いを思い出して、現在の位置付けや全体の意味づけを確かめる。


 もっと具体的に、本文から導かれる問いを立てる。「羅生門」でいえば「下人はなぜ引剥をしたか?」だった。「羅生門」がとりあえず「わかった」と思えるために最低限解かねばならぬ謎だ。

 「第六夜」でこれにあたる問いは自明だ。

①「運慶が今日まで生きている理由」とは何か?

 読んでいて、これを疑問に思わぬ者はいまい。

 末尾の一文で、「自分」はこの「理由」が「ほぼわかった」という。だが読者にはそれが自明なわけではない。なのにそれが何かを語ることなく小説は終わる。語り手が「わかった」というものを読者がわからないままに済ますわけにはいかない。いかんともしがたく「解釈」の欲求を誘う記述だ。

 これは「なぜ運慶が今まで生きているのか?」という問いではない。読者がその「理由」に納得したわけではないし、すべきかどうかも定かではない。夢なのだから何でもアリだ、そんなことに理由はないのだ、などと答えてもいい。

 ただ「自分」は何事かを得心したのだ。それがどのようなものであるのかを問うているのだ。

 そうだとしてもやはり「答えは、ない」と答えることもできる。夢で我々は何かに奇妙な納得をしていて、だが起きてから考えても、なぜ夢の中ではそんな納得ができたのかが不思議であるような不思議な思考をしている。その不条理をとりあえず引き受けたところに「夢」の感触がある。とすれば「自分」は何事かを納得しているが、そこに読者が共感できるような中身はないかもしれない。

 だがそう即断せずに、漱石は何らかの「理由」を想定していて、それにあわせて物語の展開や描写をしている可能性も考えてみる。だとすればこの「理由」は、この小説が何を言っている小説なのか、という全体の理解の中に位置づけられるべきである。物語の締めくくりに置かれたこの「自分」の悟りが小説全体の「意味」を支えていると思われるからだ。

 ではその「理由」とは何なのか?


 さらに補助的な問いを立てておく。これもまた全ての読者に共感されるはずだ。


②「明治の木には到底仁王は埋まっていない」とはどういうことか?


 ①を明らかにするためには、まず②を解決する必要がある。②の悟りによって、「それで」①が「わかった」と「自分」は言っているからだ。

 「仁王は埋まっていない」とは、「仁王が掘り出せない=仁王像を彫れない」の隠喩である。だが隠喩で表される認識が「彫れない」という認識と同じだというわけではない。

 なぜ「仁王が彫れない」ではなく「仁王は埋まっていない」なのか? なぜそれが「到底」なのか?


 論理の順としては②→①→主題だが、これは「全体の理解」と「部分の理解」のように、互いを根拠として成立する論理なので、補い合って一筋の論理となるよう考えを進める。


2022年10月23日日曜日

夢十夜 1 第六夜は解釈する

 「文豪」という名称に真にふさわしい小説家は、日本では夏目漱石と森鷗外が双璧だ。芥川龍之介も太宰治も、ノーベル文学賞を受賞した川端康成も大江健三郎も、受賞を期待されていた三島由紀夫も村上春樹も、漱石鷗外ほどには「文豪」の名称には似つかわしくない。

 別格二人の作品がどのようなものかは、来年度に漱石「こころ」、再来年度に鷗外「舞姫」を読む時にたっぷりと味わってほしい。

 「こころ」に比べると小品だが、今年は漱石の「夢十夜」を読んでおこう。


 「夢十夜」は、夢(ということになっている)お話を、原稿用紙4~5枚の長さでまとめた連作短編であり、114年前の新聞に十日間にわたって連載された。

 テキストは「青空文庫」にもある。100年以上前の作品だ。著作権も切れている。

→青空文庫「夢十夜」

 テキストを見易い画面で見せてくれるサイトもある。

→えあ草紙

 YouTubeには朗読動画もいっぱいある。



 教科書採録に際しては、以前は「第三夜」が収録されていることもあったが、近年は「第一夜」と「第六夜」のみの収録が一般的だ。できれば十編すべて読んでほしいとも思うが、今回の授業でもこの二編を読む。

 最初の通読は「第一夜」「第六夜」の順でいいが、読解は「第六夜」から行う。これは、「第六夜」の方が一般的なイメージとしての「読解」に適しているからだ。「第一夜」は、ただ読んで味わえば良い、といったたぐいの小説であるように思える。それ比べて「第六夜」は「解釈」ができそうなのである。

 といって、授業で小説を読むことは、その小説の「解釈」を「理解する」ことではない。「羅生門」でも、「羅生門」の理解が目的だったのではない。「とりあえず」理解を目指すことでテキスト読解をすること、それにまつわる議論をすること自体が国語の学習なのだ。結果としてある種の理解もできたかもしれないが、それが「羅生門」にとって何か「正解」のようなものであるわけではない。

 ともかく、読んだだけでは何かわりきれない感触が残る小説には、何らかの「解釈」が欲求される。それは読者としての人情というだけでなく、国語科学習の好機だ。「解釈」は小説読解にとって必須の行為ではなく、国語科学習にとっての好機なのである。それは決して教師によって提示されるべきものではなく、生徒自身が取り組むべき課題だ。


 「夢十夜」は「夢」という体裁をとった小説だから、物語の筋立てにせよ、情景の描写にせよ、いちいち明瞭な、見慣れた、自明の「意味」をもたない記述に満ちている。「夢」だという建前を信ずるならば、それらを既存の「意味」に落とし込むようないたずらな「解釈」は必要ないかもしれない。単に不思議な話として受け取れば良いのかもしれない。

 だが、これが少なくとも「小説」という器に注がれて我々の前にある以上は、それに対して作者と読者である我々の間にコミュニケーションの成立する可能性はあるはずだ。夢そのものでさえ、語られる以上は精神分析という「解釈」の対象となりうるのである。

 まして授業という場では、その「意味」をめぐる考察は国語学習の好機となるべく期待をしても良いかもしれない。そして「第六夜」はそうした考察の対象となりそうな感触がある。なおかつ、そうした「解釈」をすることは、後に続く「第一夜」の読解の特殊さを意識するための伏線にもなる。


2022年10月16日日曜日

没落する「個」4 責任と個

 もう一箇所、考える手応えがあって楽しいのは次の一節。

急速に広まった情報のネットワークを支えているコンピュータ技術自体がプログラム上に原理的に欠陥をもつことによって、「責任」の所在はおろか、その概念の意味さえ曖昧になっているといわれる。近代思想のなかで「責任」が、悪にも傾く自由をもった同一の行為主体としての自己存在のメルクマールだったことからすれば、「責任」概念の曖昧化は、自己存在が情報の網目へと解体されていくことを示唆する現象であろう。いずれにせよ、自己が情報によって組織化されるという、この傾向は、ますます一層促進されていくにちがいない。

 個人的な娯楽を目的としてこんな文章は読まないし、何かを学ぶための読書ならば、こんな読みにくい文章は勘弁してほしい。ましてテストを解かなければならない切迫した状況では、こんな言い回しは本当に迷惑だ(それでもこういう書き方をしてしまうのは、ある種の美意識なのだろう。こういうのがカッコイイと思っているのだ)。

 だが余裕のある授業ならばじっくり考えて、みんなと話し合いながら解きほぐしてく過程はむしろ楽しい。考えていった先に、風景がクリアに見える瞬間はカタルシスだ。


 まず「コンピュータ技術自体がプログラム上に原理的に欠陥をもつ」がピンとこないが、そこはそういうものだと受け取ろう。確かに何のことを指しているのかがわからない。授業者はゲーデルの不完全性定理(または→)のことを指しているのだろうと推測して読み進めた。気になってネットで「バグが無くならない理由」などと検索してみると、プログラマーの書いた記事が山のように出てくる。つまるところそれは「人間の作ったものだから」というのだ。プログラムは実用的な目的で作られるが、コスト的にどこかで切り上げて納期に間に合わせるしかないから、無限のテストによってバグ(欠陥)をなくすことはできない。だからプログラムにはバグが絶対にどこかに残るのだそうだ。

 いずれにせよ、そのままそういうものだと受け取って先を読み進める。

 とにかく、プログラムに欠陥があると「責任」が曖昧になるのだそうだ。

 なぜ?

 何せ「原理的に欠陥を持つ」のだから、誰かの「責任」ではないのだ。

 そのことから何が言えるのか?


 一方で「近代思想のなかで『責任』が、悪にも傾く自由をもった同一の行為主体としての自己存在のメルクマールだった」のだそうだ。こういう、当然それはわかってるよね? と読者の了解を前提にしてしまう言い回しが、その業界の中にいるわけではない読者にはいちいち抵抗になる。

 だが切り取ってここだけを理解しようとすれば、できないわけではない。

 人間は「自由をもった同一の行為主体」だ。近代において、人は宗教や伝統から解放されて、自分の意志で自由に行為できるようになった(ということになっている。既習事項)。

  「同一の」という形容は、昨日の自分も今日の自分も一ヶ月後の自分も全て同一の自分である、という「自分」の存在の確かさを言っている。「アイデンティティ」の訳語である「自己同一性」の「同一」のことだ。

 すべてが「自由」なのだとすればそれは動物と変わらない。あるいはもはやそれは人の行為と言うより自然現象だ。とりわけそれが「悪にも傾く」とすれば、動物や自然現象を「悪」として裁くことはできない。その時、何が人間を人間たらしめるかといえば、「責任」だというのだ。何をしたかではなく、したことに「責任」をもつことが、彼のアイデンティティのメルクマールなのだ。

 そう理解すれば、

コンピュータ技術が「責任」を曖昧にする
したがって
「責任」によって保証される「個人」も曖昧になる
という論理がたどれる。


 この部分では「責任」が「個人」の存在を証し立てる条件として取り上げられているのだ、という論理を把握する必要がある。「責任」が曖昧なら、個人の存在も曖昧になる。

 同じように、この前の部分では「欲望」が「個人」の輪郭を捉えるのに使われている。「個人」とは、その人にしかない「欲望」を持っていることによって保証される。

 「欲望」が「個人」に属するものならば、「個人」の存在は確かにあると言える。だが「欲望」も情報の網の目に生ずるものだから、「個人」の存在を証し立てることはできない(若林幹夫が「誰かの欲望を模倣する」で言っていたことだ)。

 「責任」も「欲望」も、個人の存在を証し立てることはできない。

 これは前回の考察で「合意」が「集団性」を保証する条件として取り上げられ、それが作りものであることを言うことで集団が作りものであることを論じた論理と同じなのだ。

 これもまた全体の文脈に位置付けることで腑に落ちる感じを味わえるはずだ。


 ところでここを話し合わせているうちに面白い問題が見つかった。

自己存在が情報の網目へと解体されていく

自己が情報によって組織化される

 連続する二文の中で「解体/組織化」という、一見正反対の言葉が、何の説明も言い訳も無しにごく自然に置き換えられている。この奇妙さに、読者はついていかねばならない。

 上の二文は同じことの裏表なのだ。そのことが「そうだよな、当然」と思えることが、この文章を読めるということなのだ。

 個はそれ自体が独立した存在であるのではなく、情報によって組織化されたものだ。そのことは前にも言われている。

欲望の源泉は、相互に絡み合って生成消滅している情報であり、個人はその情報が行き交う交差点でしかない

 個人がそのように情報によって「組織化」されることで成立したものであるとすれば、「個」というものを捉えようとすれば、それはすなわち確固として既に存在していたものではなく、情報の中に「解体」されてしまうということにほかならない。

 情報によって組織化されることは情報の中に解体されるということだ。どちらも「確固として存在する独立した個」の対比として、同じ側の個のイメージを表現しているのだ。


2022年10月12日水曜日

没落する「個」3 ファケーレ/ファクト

 次の一節もひっかかるはずだ。

合意が達成され機能するとしても、それは当の合意が普遍的な基準を表現しているからではなく、「合意した」という事実だけが、それを合意として機能させているにすぎないそういう意味でいえば、「合意」とはまさに形成されたもの、作りものであり、それが「事実」と呼ばれるとしても、作る作用(ファケーレ)に支えられた事実(ファクト)でしかないのである。


 下線部は、東大の問題では「どういうことか説明せよ」と出題されている。

 読んでわからないわけではないがどうすれば「説明」になるのかわからない、というのがこういう問題の常だ。

 そこが「わかる」としてもその後で「そういう意味でいえば」以降への論理的接続がよくわからない。「そういう」や「それ」の指示内容も曖昧だし、「ファケーレに支えられたファクトでしかない」という結論がどこから出てきて、何を言いたいのかもわからない。

 どこから解きほぐすか。


 「『事実』と呼ばれるとしても」の「としても」は「合意が達成され機能するとしても」を受けている。「事実」は前の行の「『合意した』という事実」を受けている。

 こういう論理関係の追い方は、もちろん無意識にも行っているだろうけれど、意識してやってみてもいい。

 二つの対応から、論理的に次のことが言える。

「事実」=合意が達成され機能する(こと)=合意した(こと)

 これは何を意味する?


 文末はおそらく「ファクト」という英単語は、ギリシャ語がラテン語の「ファケーレ」が語源なのだという知識を前提にしているのだろう。そう思って調べてみるとやはりラテン語だった。「ファクトリー(Factory)=工場・製作所」もなるほど「作るところ」だ。

 それがどうした?


 「作る作用に支えられた事実でしかない」は、読者にある違和感を感じさせることを狙いつつ、その驚きの中でメッセージを伝えようという意図にもとづいた表現だ。

 「作る作用」と「事実」は日本語では反対のベクトルを持っているような印象がある。文中で繰り返し使われる「作りもの」は「非実体」「虚構」などの言い換えだ。それは本来「事実」と対立的な概念のはずだ。「事実=本物/虚構=偽物」なのだから。

 それが欧米語の語源に遡ると通じ合ってしまう、という豆知識をここでは「事実は作り物だ」と語るために用いられているのだ。 

 ではなぜ「事実は作り物」なのだ?



 下線部の終わり「~にすぎない」という言い方は、ある限定をすることで、それ以外の部分を否定的に想起させる表現だ。「これは始まりにすぎない」と言えば「始まり」の裏に「それ以降、終わりまで」が対比されていることを示すし、「そんなのは口先にすぎない」といえば「腹の底からの本心」が、その場限りの「口先」の対比として言外に表現されている。

 「『合意した』という事実だけが、それを合意として機能させているにすぎない」も、同じように、何かを限定をすることで言外の何かを否定している。

 ここにはどのような対比があるか?

 だが何を限定しているかも、言外に何を想起させているかも、表現することが難しい。ここを何とか言葉にしてみる。

本心/口先

の順に表現してみる。「本心ではなく口先に過ぎない」という文型に嵌まるように対比させてみよう。

 どう表現すれば良い?


 我々のテストでは、ここは説明ではなく、「これを表す例」を選択肢として出題した。正解率は6割くらい。これを利用する。正解と不正解の選択肢はどこが違っているか? 何が正解の目印なのか?

 使われている「臓器移植」「クローン人間」「人工妊娠中絶」「自動運転」といった例が問題なのではない。例自体には適否はない。

 ポイントは、②「価値観の一致に基づく」と、①「納得しているわけではない」、③個人の~観に反したもの」、④「解決を~放棄している」の違いだ。

 これが上記の「すぎない」の限定による対比と対応している。

 各クラスでそれぞれ試行錯誤して、この対比を表す言葉として挙がったのは次のような表現だ。

全員一致による合意/多数決による合意

  納得ずくの合意/不本意な合意

   本質的な合意/形式的・表面的な合意

 尤も、よく見れば下線部の前に「ではなく」があって、対比は明示されている。

当の合意が普遍的な基準を表現しているからではなく

 つまり「普遍的な基準による合意」だ。上記の左辺は適切であることがわかる。


 これが「ファケーレに支えられたファクト」と対応する。

 順序が逆だ。

事実/作る作用

 「『事実』と呼ばれる」のように括弧のついた表現は、そのニュアンスを適切に読み取る必要がある。「事実」は普通、本物のニュアンスだ。それは左辺のような合意でなければならないはずだ。

 ところが「事実」上、実際に機能しているのは右辺のような合意による。つまり「作りもの=偽物」なのだ。

 だから「事実」は「作る作用」に支えられていると言えるのである。


 ところで、なぜ「合意」が問題になっているのか?
 大きな文脈の中に位置付ける。
 「合意」は「社会的合意」として文中に登場する。
「社会的合意」の「社会」なるものが、いかに捉えどころのないものであるか
 つまり合意が「作りもの」であることを言うことは「社会」が「捉えどころがない」ことを言うことになり、それはつまり「集団」が不確かなものであることを言うことになるのだ。
 「合意」が作りものだから、その合意によって成立する「集団」も作りものだ。
 こうして全体の文脈に位置付けることで腑に落ちる。

没落する「個」2 比喩を分析する

 全体の把握と部分の解釈は相補的だ。全体の論旨は部分の理解の集積だが、逆に全体の論旨が把握できることで部分が理解できるようにもなる。

 そう思って全体の論旨を捉えた上で読み返してみると、どこかはすっきりしてかもしれないが、依然としてこの文章にはわからないところがあちこちにある。

 わからないことは、どんどん質問してほしい。むしろ鋭い質問で授業者を困らせるくらいのことをしてほしいところだが、ぼーっとしていると「どこがわからないのかわからない」などという腑抜けたことになる。


 あちこちから聞こえてくるポイントを全体で考えた。

 まず文末の比喩。

もとより個がそこへと溶解していく情報の網の目も、相互に依存し合い絶えず組み替えられ作られていく、非実体的なものにほかならない。そうだとすれば集団性のなかへ解体していったといっても、そこに個は、新たな別の大陸を見出したのではなく、せいぜいのところ波立つ大海に幻のように現われる浮き島に、ひとときの宿りをしているにすぎないのである。

 比喩と言えば「生物の多様性とは何か」の中の「自転車操業」について1クラスだけ考察を展開した。あれは面白かった。今回は全クラスで考えてみる。

 比喩を含む表現を考えるには、とりあえず、何が、何の、どのような性質・状態を喩えているか、を明らかにする。「綿のような雲」という比喩は、「綿」が「雲」の「白くてふわふわしているありさま」を喩えている。

 この部分で「綿」にあたるのは「大陸・大海・浮き島」だ。

 だが「何の」と「どのような性質」は表現が難しい。


 その中でもとりあえず文中の言葉に対応させられそうなのは「大海-情報」だ。「波立つ」という形容は「絶えず組み替えられ作られていく」イメージを喩えているように感じられる。

 「情報」が「大海」だとすると「網の目」が「浮き島」に喩えられているのだろうか?

 そう解釈しても悪くはないが、「網の目」でもまだ比喩なので、さらにそれが何を喩えているのかを考えよう。


 「大陸・大海・浮き島」の三つはどのような関係になっているか?

 「ではなく」型の文型は対比を示していることを忘れてはいけない。何と何が対比されているのか?

 「大陸/浮き島」だ。ということは、それがどのような性質を表すかも、対比的な形容で捉える必要があるということだ。

 どのように表現したらいいか?


 全体論旨の把握から使える形容としては「実体/非実体・虚構」がどのクラスでも挙がった。考え方としては間違っていない。上記文中で「非実体的なもの」だと言われているのは「情報の網の目」であり、上に述べたように「浮き島」が「網の目」を喩えたものだとも考えられるからだ。

 だが逆に「実体/非実体・虚構」を表そうとしたら、比喩として「大陸/浮き島」という喩えは想起しないはずだ。

 では?


 「個がそこへと溶解していく情報の網の目」と「集団性のなかへ解体していったといっても、そこに個は」は、「個」という主語と「溶解/解体」という述語が共通していて同一内容だと判断できる。すなわち「情報の網の目=集団性」ということになる。

 つまり「大海に浮かぶ浮き島=情報の網の目=集団性」である。

 ではこれはどのような性質・状態を喩えたものか?

 

 「安定/不安定」が挙がった。これは良い。もう一つ。

 「浮き島に、ひとときの宿りをしている」を利用するなら、「大陸」は「定住する」ものということになる。そこで「永続的・恒久的/一時的」という対比が想定できる。

 大陸/浮き島

 安定/不安定

永続的/一時的

 実体/非実体

 これでこの比喩全体を解釈できる。


 こういうことだ。

 個は情報の海に溶解していく。

 だがそこにある何らかの「集団性」に安住の地を見つけようと思っても、それは「大陸」ではなく「浮き島」のようなものだ。場所も移動してしまうし、下手をすれば沈んでしまうかもしれない。「情報」という「大海」に浮かぶ集団もまたそのような「不安定」で「一時的」なものなのだ(席替えをすれば今の班のメンバーはかわってしまうし、年度が替わればクラス替えをする)。

 こう言ってみれば、これはまったく全体の論旨そのままであることがわかる。

 丁寧に順序よく考えていけば、すっきりと腑に落ちるところまで考えることができる。


没落する「個」1 読むための技術

 第二回の一斉テストに出題した伊藤徹「柳宗悦 手としての人間」は東大入試で出題されたものだ。元の問題は「なぜか?」か「どういうことか?」を説明する記述問題で採点に手間だから、それを作り替えて、選択肢を作ったり、根拠や言い換えを文中から探させたりしている。

 これを出題したのは、高校一年生に東大の、しかもとりわけ読みにくい文章を出題してビビらせてやろうなどといった意地悪ではない。これもまた今まで読んできた文章の問題意識、認識と重なるところが多いからだ。

 テスト中には時間が足りなくてあまりに消化不良だったろうからと、テスト後の授業で読み返してみると、あちこち突つきき甲斐のあるところがあって楽しくなってきてしまった。1時限で終わるつもりが、どこのクラスでも2時限以上時間をかけてしまっている。


 それにしても読みにくい。これはもう原文が根っからそういう調子なのだということでもあるが、出題にあたっての切り取り方のせいでもある。問題文冒頭がもうわからない。それが後を引いてしまう。そこに、情報密度の高い、捻った表現が次々に出てくる。

 読みにくい文章を読むテクニックはいろいろあるが、意識的に使える技術として授業で三つ実践した。

 まずはテーマ・主題を定める

 これは掴み所のない物に把手をつけるということだ。丁度良い把手があればモノは扱いやすくなる。多少外れていても、把手が無いよりはいい。手がかりを見つけて、そこに手をかけて力が伝わるように(考えが集中するように)するのだ。

 10文字以内、2~3文節で、と指定したら、全クラスで中盤過ぎにある「集団への個の解体」が挙がった。最大公約数的にこれがテーマを表していると感じられるフレーズなのだ。

 そう思って冒頭を見るといきなり「個の没落」という言い方で、同じテーマが提示されている。2段落でも「個の稀薄化」とある。評論では、こうした言い換えが始終行われる。

 「個の解体」がテーマだと考えることで、まず「個の解体」と表現される事態がどのようなものか、なぜそれが起こったのか、それによってどのようなことが起こるのか、といったあたりに話が展開しそうだぞ、という予想が立つ。これが考える上での手がかりになる。

 ところで「没落・稀薄化・解体」はどれも一種の比喩だが、中でも「没落」が最もわかりにくい。「没落」? 前は貴族か何かだったのか?

 ここでは、「近代における個人の確立」が共通認識として前提されている。前期の授業で、そうした認識について書かれている文章をいくつか読んだ。「没落」という言葉は、裏にそうした認識があるという前提を理解していないと、何を意味しているかがまったく理解できない。


 もう一つの技術は対比をとることだ。

 「個」の対比は何か? 一段落に限定すると?

 二つと指定して探させた。

 一段落では、「個(人)」は「判断の基盤としての」と形容されるから、「判断の基盤」として「個」ではない何が言及されているか、と探す。

  • 未だ生まれぬ世代・後の世代とのなんらかの共同性・時間的広がりを含み込んだ人類
  • 人間以外の生物はもちろん、山や川などさえも超えて、「地球という同一の生命維持システム」

 が見つかればいい。

 もちろん「個」の対比は「集団」で、この対比は中盤以降に明示される。

 つまり以下の対比がアナロジー(類推)になっている。

  個/集団

現代人/後の世代を含む人類

 人間/地球・生態系

 社会を問題にするなら「個/集団」という対比でいいのだが、一段落では環境問題について語られるため、こんなわかりにくい、ズレた対比になっているのだ。


 さてもう一つは要約だ。なるべく短く言ってみる。

 例えばテーマが「個の解体」ならば、「個は解体している」と言えば文になる。そこにさらに対比を導入する。

個は解体しつつあるが、拠り所となる集団もまた想像力によって作られた虚構に過ぎない。

 授業で30字以内と言っていたわりに上のは40字くらいになってしまった。

 まず、要約しようとすることが考えるための集中力を支えてくれる。「わかろう」とするのではなく、その先に「言おう」とすることが、途中経過の「わかる」を促すのだ。

 かつ、コンパクトに言ってみると、その後で何か考えるための取り回しが楽になる。


 以上三つの技術、いたずらに「わからない」と手をこまねいているよりも、意識的に使ってみる。


2022年9月26日月曜日

パンとバラ 3 詩を読む

 吉原幸子「パンの話」をとりあげたのは言わばオマケで、多くのクラスでは結局ほとんど時間をとれなかったが、実は「暇と退屈の倫理学」と「多層性と多様性」を「関連」させるより面白い考察になっただろうなあと思って残念ではある。プリントを配付したとたんでどこのクラスでもザワめくのが面白かった。E組Nさんが「これ日本語!?」と言ったのは可笑しかった。一読してみんな、わけがわからん、と感じたはずだ。

パンの話

                        吉原 幸子 


まちがへないでください
パンの話をせずに わたしが
バラの花の話をしてゐるのは
わたしにパンがあるからではない
わたしが 不心得ものだから
バラを食べたい病気だから
わたしに パンよりも
バラの花が あるからです


飢える日は
パンをたべる
飢える前の日は
バラをたべる
だれよりもおそく パンをたべてみせる


パンがあることをせめないで
バラをたべることを せめてください――

 「パンの話」が思い浮かんだのは、「暇と退屈の倫理学」の次の一節と呼応するからだ。

人はパンがなければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない。

 パンとバラがセットで登場するところで、オッと思わされるのだが、それだけでなくそうした共通性は両者の読解にも参考になる。


 詩を読む上での作法、あるいは「お約束」と言っても過言ではないのは、詩の中の言葉は様々な象徴性を帯びているという前提だ。

 象徴?

 「羅生門」の主人公、下人の頬の「にきび」は単なる「にきび」ではない。ある具体物が、何らかの抽象概念を表していると考えられるとき、それは「象徴」と呼ばれる。「にきび」は下人を支配していた空疎な観念の象徴だ。

 「パンの話」において、そのように読むべきなのは何か?

 言うまでもなく「パン」と「バラ」である。


 「羅生門」の場合は、「にきび」は小説内現実に存在する具体物ではある。だがそれだけではない象徴性を持っているとわかるように、殊更に意味ありげに描写されていた。

 一方、詩の場合はそもそも詩中の言葉に具体性がない。「パンの話」でも「パン」も「バラ」も、最初から具体物としてのそれではないことが明らかだ。そうであればこそ「バラを食べる」などという表現を読むことができるのだ。

 こうした、最初から具体物ではない形で登場するモノは、象徴と言ってもいいが、比喩とも言える。「~ような」をともなわない比喩を「隠喩・暗喩・メタファー」などと言うが、「バラを食べる」という表現は、直接の言葉通りの意味ではなく、何事かを喩えているのだ。

 パンとバラにどのような象徴性を読み取り、詩全体をどう読むか?

 話し合いの中で「パン=生活必需品」「バラ=嗜好品・贅沢品」という対比が語られている様子が多くのクラスで見られた。

 みんなが持っている「ちくま評論入門」の姉妹本である「ちくま評論選」(2,3年生が持っている)に「暇と退屈の倫理学」の別の一節が収録されていて、その題名は「贅沢のすすめ」だ。とすれば國分がバラを顕揚していることは贅沢を奨めているということになるのだろうか。

 とするとこの詩はどのようなことを言ってると考えればいいか?


 上の対比も悪くないが「パン=生活」にしておいて、「バラ」は「暇と退屈の倫理学」から、モリスの言う「芸術」を使うのが簡便。「贅沢のすすめ」の「贅沢」は「暇と退屈の倫理学」の「豊かさ」に近いニュアンスで、資本社会の与えてくれるモノと対比される物によってもたらされるから、例えば大量生産品ではない「芸術」などもそれにあたると考えていい。

  • パン=生活(貧しさ)
  • バラ=芸術(豊かさ・贅沢)

 「芸術」はさらに、画家なら絵画、音楽家なら音楽と考えると、吉原幸子にとってはがそれにあたる。とすれば「バラの花の話をする」「バラを食べる」は「詩を書く」ことを意味していると考えよう。

 これでこの詩の表現を論理づけられるだろうか。


 詩は理解すべきものではなく味わうべきものだ、というようなことを言う人が世の中にはいるが、味わう前にまず読むことが必要なのは言うまでもない。どの程度かはさておき、わからないものを味わうことはできない。読解の末に「わからない」という結論に至って、その段階でそれなりに「味わう」ということはある。全ての詩がわかるわけではないし、わからないと味わえないということでもない。だがわかろうとしていない詩を味わうことはできないのは間違いない。

 したがってまずは読まなければならない。

 読むということはテキスト情報を論理づけるということだ。そうでなければパンについてもバラについても詩人の思いについても、何事も受け取ることができない。


 この詩の趣旨を端的に表現するなら「詩人としての自負」といったところだというのが授業者の解釈である(こうした端的な表現がまた国語力の表れだ)。

 この表現を聞いて、ああなるほどと思えたろうか。もちろんそれは「正解」というようなことではなく、授業者の論理とあなたの「論理」が幸いにもだいたい一致したということだ。

 吉原幸子は、自分が詩を書く、書かずにはいられないことを「わたしが 不心得ものだから」と言っているのだ。生活に余裕があるからではなく「病気だから」詩を書かずにはいられないのだ。

 そしてそこに矜持もある。

 「だれよりもおそく パンをたべてみせる」とは、生活のことを後回しにしても、まず詩のことを第一に考えるのだ、という詩人としての自負を語っているのだと思う。

 ただ最後、3聯の2行がすっきりしない。特に「パンがあることをせめないで」は、誰が「責める」のか、何を責めているのか、どのような意図で「責める」のか、すっきりと解釈できない。

 このあたりをつっこんで考えていくともっと面白い読みにたどりつくかもしれない。

 ともあれ残り時間の少なくなった授業では上記のような読みを早口で語るのが精一杯だった。

 ただ、C組では指名したSさんが、ほぼこれと同じことを淀みなく語ってみせたのは、その読解の的確さも説明の明晰さも実に見事で、発表を聞いて、ほとんど感動させられた。周りで「鳥肌が立った!」というような声が聞こえたのもむべなるかな、だった。


 冬にもうちょっと詩を読む時間をとる。その時にはまたそれぞれの読解を語ってほしい。


2022年9月25日日曜日

パンとバラ 2 認識と主張

 まず「多層性と多様性」と「暇と退屈の倫理学」の「関連」から考えよう。

 この「関連」は授業者が設定したものではなく、教科書編集部が「関連がある」と言っているものなので、どういう「関連」があると見なしているのかは推測するだけだ。だが読解というのはそもそも「正解」があるようなものではなく主体的に行われる一種の創作行為なので、こちらが納得いくように読めばいいのだ。


 共通して登場する言葉としては「豊か」や「退屈」がある。重要な接点だ。

 そしてもちろんここでも「近代」であり(「暇と退屈の倫理学」には直接は出てこないが)、近代の延長としての「現代」である。そして「近現代」の表れの一つである「資本主義社会」である。

 さてこれらの語をもちいて、両者を「関連」させよう。


 二人の主張を端的に取り出して比べてみる。まず「端的に」言うことが既に国語力を必要とする読解作業によって可能になる。さて。

 國分功一郎が言っているのは、生活はバラで飾られるべきだ、である。

 若林幹夫が言っているのは、多様である方が良い、である。

 これらは同じことを言っているのか? どう考えればこれらを「関連」させられるのか?


 論には「認識」の要素と「主張」の要素がある。これはまあ強引に分ければ、といったところで、もちろんある「認識」を語ること自体がある「主張」であるほかはないのだが。

 しばらく前に説明文と評論の違いとして、「主張」要素が強いのが評論だと言及したことがある。

 「主張」だけを端的に切り取ると上の通り、どう関連しているのかが見えにくい。そこで「認識」の部分を比べてみる。

 二人はどのように共通した認識を語っているか?

多層性と多様性

現実の近代社会は、資本制とそれに基づく産業社会を地球的な規模で押し広げ、世界中どこでも同じような建物が建ち、鉄道や自動車から家庭電化製品に至るまで同じような機械を用い、民族衣装を捨てて洋服を着る「同じような社会」と、そんな社会の目指す「同じような発展」や「同じような豊かさ」を世界化していった。

暇と退屈の倫理学

当時のイギリス社会では、産業革命によってもたらされた大量生産品が生活を圧倒していた。どこに行っても同じようなもの、同じようなガラクタ。モリスはそうした製品が民衆の生活を覆うことに我慢ならなかった。

 もちろんここでいう「当時のイギリス社会」の姿は広く近代社会の姿だ。二人が描く近代社会についての認識は共通している。

 共通した認識を語る二人は、それぞれどのような主張をしようとしているのか?


 「暇と退屈の倫理学」では、単純に言うと、現代は暇で退屈になった、と言っている。それは上のような社会がもたらす「同じような豊かさ」では埋められない空虚だ。

 モリスの言う「芸術」がそれを埋める。バラとは「芸術」を喩えたものだ。それは「産業革命によってもたらされた大量生産品」と対比される。したがって、「芸術」がただちに多様であるとは本来言えないものの、この論で対比されるものが「均質的」な工業製品であるということは、それと対比される「芸術」には独自性・固有性がもたらす「多様性」があるはずだということになる。

 こうして二人の論の主張は共通した方向性を持っていることが論証できる。

 芸術がもたらす「豊かさ」は、工業製品がもたらす「同じような豊かさ」とは違う、「退屈」に陥らない「豊かさ」であるはずだ。國分の「バラで飾ろう」はそういう主張だ。

 とすればそれは若林が「均質・単一」で「退屈」な世界で、多様性は重要だと主張することと同じなのだ。


パンとバラ 1 「関連教材」

 前回までの問題は、参照すべき項目が多く、まとめることが難しいはずで、授業数の少ないクラスに合わせて、テスト後に引き続き考察する。

 一方「多層性と多様性」には、教科書編集部によると「関連教材」として國分功一郎の「暇と退屈の倫理学」が挙げられている。

 「関連教材」というのがどういう意味かは定かではないが、単元「共に生きる」の三編は相互に「関連教材」ということになっている。当然だ。読み比べることが最初から意図された単元だからだ。だから今年度の授業は最初にその単元から入ったのだった。

 そこに「生物の多様性とは何か」を「関連」させたのだが、それは「関連教材」としては明示されていない。聞けば意識しているというのに、あまりに領域の違う文章を「関連教材」と銘打つのためらったのだろう。惜しいことだ。領域の違う文章を「関連」づけることにこそ意義があるのに。全く違った分野の問題に共通した構造を見出す時にこそ、世界に対する認識は拡がるというのに。

 そこから「多層性と多様性」に繋げるのは、またしても領域が違うから「関連教材」という扱いではない。さらに「〈私〉時代のデモクラシー」に繋げるのも授業者が設定した問題だ。

 では教科書編集部が設定した「多層性と多様性」と「暇と退屈の倫理学」の「関連」とは何か?


 実はそこにはそれほど豊かな読み比べの可能性が授業者には見出せないので、さらにそこに吉原幸子の詩「パンの話」をからめる。

 詩?

 パンの話

                        吉原 幸子 


まちがへないでください

パンの話をせずに わたしが

バラの花の話をしてゐるのは

わたしにパンがあるからではない

わたしが 不心得ものだから

バラを食べたい病気だから

わたしに パンよりも

バラの花が あるからです


飢える日は

パンをたべる

飢える前の日は

バラをたべる

だれよりもおそく パンをたべてみせる


パンがあることをせめないで

バラをたべることを せめてください――

 この詩は現在2,3年生が使っている「現代文B」の教科書に収録されているものだが、授業者は授業でこの詩を扱ったことはない。今回も、単独でこの詩を読解しようと考えたわけではない。

 今年度の授業では、冬頃に詩をいくつか読もうかと思っている。が、そもそも「現代の国語」は詩を扱わない想定なのだ。それが唐突に、ごりごりの評論を理屈っぽく読んでいる最中に詩を読もうというのはなぜか?

 ここに唐突に詩をからめようと企画したのは、「暇と退屈の倫理学」を読んでいればピンとくるはずだ。

 さて、どのような読み比べが可能か?

2022年5月21日土曜日

共に生きる 11 〈私〉時代のデモクラシー 3 再帰的

 ところで「後期近代」は「再帰的近代」でもあるという。「再帰的」とは「跳ね返ってくる」ことだそうだ。わかりにくい。

 どういうことか?

 「再帰的」とは、そのことの結果が、それ自身の原因になるような構造を言う。結果が「跳ね返って」原因になるわけだ。

 授業では「鶏が先か卵が先か」を例に出した。

 卵が「原因」、そこから孵って育った鶏が「結果」だと言うことは可能だが、その鶏が卵を産むのである。その場合は鶏が「原因」、卵が「結果」だ。この構造は循環している。「再帰性」とは例えばこういう構造を言う。

 上の「後期近代」はどうか?

束縛からの解放/関係の維持

では、解放されればされるほど、バラバラになってしまった不安から関係をつくらずにはいられない。「解放」という「結果」が、「関係の維持」の「原因」として「跳ね返ってくる」。

社会的な理想/一人一人の〈私〉の選択

 「公正な社会」などの「理想」の実現には、みんなが同じ理想を抱く必要がある。そうして「個人」の権利が保障される社会では、それと裏腹の自己責任が一人一人にかかってくる。自分でそれぞれ違った「選択」をすることが求められてくるのだ。つまり「同じ」であろうとすると「違う」ことが求められ、「違う」からこそ「同じ」であること求められる。

 このように、近代化の運動による前期近代成立の「結果」が、今度はそれとは違った後期近代へと移行する「原因」となる。そのような循環構造を「再帰的」と呼んでいる。


 時間のあるクラスでは最後の見開きで扱われている「問題」について論じた。

 後期近代たる「現代」の我々は、〈私〉時代におけるデモクラシーという難題に直面している。

 〈私〉個の確立を目指すが、逆に、デモクラシー集団の形成を必要とする。相反する方向性が「問題」を生む。

 そうした「問題」を、本文で挙げられているいくつかの問題、あるいは前回の衆院選でいえば「ジェンダー平等」の問題、今回の参院選後なら「改憲」問題といった具体的な問題にあてはめて考えることができるだろうか?

 評論が「読める」というのは、ある意味では、抽象的に論じられている事柄が、どのような現実と対応しているかの見当がつくということだ。小説の読解が「具体」から「抽象」を目指すのに比べ、評論の読解は「抽象」から「具体」を目指しているとも言える。

 授業ではいくつかの班の発表を聞き、いずれも適切に問題を捉えていると感じた。本文で論じられている「問題」と現実の「問題」、両者が適切に捉えられ、かつその対応が適切に捉えられる必要があるのだ。

 これは実に、入試の「小論文」のテーマっぽい課題だった。


2022年4月19日火曜日

未来の他者と連帯する 3

 「未来の他者と連帯する」の3段落、「双曲割引」の話から筆者が導き出す見解を次のように表現してみよう。

  他者/自分の違いよりも、未来/現在の違いの方が大きい

 これはなぜ「悲観的」なのか?

 むろん「連帯することは難しい」ということになるからだ。

 何と?

 「他者と」ではなく「未来と」なのだ。


 この文章の論理展開はやはり不自然だと思う。わかったようなわからんような理屈で結論を導き出しているように授業者には感ぜられる。

1.未来の他者と連帯することはできるのか?

2.人間は未来の他者のために働くことができる(希望的)

3.未来と連帯することは難しい(悲観的)

4.未来の他者と連帯することはできる(希望的)

 2で既に1の問いに「できる」と答えられるはずなのに、3がなぜ必要なのかもわからないし、3を2とあわせるとなぜ4の結論にいたるのかわからない。

 どういう論理の流れならば筋が通るか?


 2が原文のような趣旨では、すぐに1の問題に対する回答が得られてしまう。論理的に可能な2を創作しよう。

 結論4で述べられているのは以下のような論旨だ。

4.難しいのは「他者と連帯すること」ではなく「未来と連帯すること」だ。未来の「自分」も「他者」なのだから、「自分」のためにがんばることは(難しいにしても)できないわけではないとすれば、「他者」のためにがんばる(連帯する)ことができないわけではない。

 そして3の肝が、「他者との連帯の難しさ」ではなく「未来との連帯の難しさ」を述べる点にあるということは、まさにそこで否定されるべきことがらを、2で述べておけば良いということになる。

 つまり2では原文のような「希望的なこと」を語らずに、2でも「悲観的なこと」を述べればいい。

 授業者の提案はこうだ。

1.未来の他者と連帯することはできるのか?

2.我々は他者のためにがんばることは難しい(悲観的)

3.我々は未来の自分のためにがんばることも難しい(悲観的)

4.難しいのは「他者と連帯すること」ではなく「未来と連帯すること」だ。だが未来の「自分」も「他者」なのだから、「自分」のためにがんばることは(難しいにしても)できないわけではないとすれば、「他者」のためにがんばる(連帯する)ことができないわけではない。

 2の「悲観的」前提と3の「悲観的」前提をあわせると、かろうじて「希望的」な結論にいたる…、という論理なら、それなりに納得することができる。

2022年4月18日月曜日

未来の他者と連帯する 2

  授業では「双曲割引」の概念をさらに厳密に説明するために、それがどんなグラフで表わされるかを説明しあった。みんなの手つきから適切なグラフを想起していることはわかった。








 グラフは名前の通り曲線を描く。

 だが前回の「未来の価値は現在感じる価値より低くなる」という説明では単なる右下がりのグラフでもよいことになる。

 グラフが曲線を描くことは、単なる直線的な右下がりと違った、どのような意味をもっているか?


 「わかっている」ことがただちに「適切な言葉で言える」ことになるとは限らない。ここは、グラフが意味している現象を言葉に置き換える国語の学習だ。

 グラフが曲線であることによって示されているのは、その価値の下がり方が、時間が経つほど緩やかになるということだ。近い未来「明日と明後日」では大きな違いだが、それより遠い未来「99日後と100日後」の違いはそれほど大きくない。

 ここから筆者が導き出す見解を次のように表現してみよう。

      の違いよりも      の違いの方が大きい

 空欄には何が入るか?

 それはなぜ「悲観的」か?

 それはどのようにして4「結論」を導くか? 


未来の他者と連帯する 1

  春休みの課題で読むよう指示した「ちくま評論入門」所収の文章の一つ「未来の他者と連帯する」を課題テストに出題し、そのまま初回授業で軽く読解した。

 折しも、この文章の筆者の大澤真幸が、自分の恩師の訃報に接して思いを綴った文章が先週の新聞に載った(Teams「ファイル」に記事の写真を置いてある。興味があったら見てほしい。大澤は現在毎週土曜日の書評ページに連載枠をもっているので、寄稿しやすかったのだろうと思われる)。

 ここで語られる恩師、見田宗介の文章は、現在2,3年生が使っている「現代文」教科書に載っていて、実に手応えのある文章として面白い授業が展開できたものだった。教育課程がかわってしまった今の1年生にはおそらくそれができないだろうと思われるのは残念だが、「ちくま評論入門」にも別の文章が載っていて、これを授業で扱うことができるかどうかはまだわからない。

 ともあれ、授業で読んだばかりの文章の筆者が書いた文章が新聞に載り、そこで語られているのが、授業でも何度も読んだ思い入れのある文章の筆者にまつわるものだったことがなんとも感慨深かったのだった。


 さて「未来の他者と連帯する」は、論理構成を大づかみにすることに絞って読解した。

 評論の多くが、書き出し近くで「問題提起」をし、それに対する何らかの「結論」を述べて終わる。教科書やテストに使われるのは、しばしば元々長い文章であるようなものの一部を切り取っていることが多いのだが、そのような場合でも、「問題」-「結論」を酌み取れるように切り取っている場合が多い。あるいは目の前にあるテキストから、とにかくその範囲で「問題」-「結論」を読み取るようにすることが、こちらの「読解」であるともいえる。

 「未来の他者と連帯する」はこの「問題」-「結論」の対応が明確で、もしかしたら元々これで全文なのかもしれない(長い文章の一部なのではなく)。

 さらに、この文章では論理の流れを読者に伝えようとする意図が明確だ。途中の展開もはっきりと段階的に並べられている。

 そこで授業ではその流れを「枠組」として提示し、それぞれの内容をできるかぎり簡潔に述べよ、という課題を掲げた。

 「枠組」とは次のような論理の流れだ。

1.問題提起

2.第1前提-希望的なこと

3.第2前提-悲観的なこと

4.結論

 4「結論」部では「希望的なこと」と「悲観的なこと」を併せて考えると得られる「もうひとつの希望」が語られる。


 さて、「できる限り簡潔に」とは、具体的には、なるべくシンプルな一文にするということだ。シンプルである方が使い回しが楽になる。覚えておくにせよ書き出すにせよ口に出すにせよ、短い方が楽だ。

 もちろん、必要に応じてそれがどういうことなのかは解説できるようにしておく。それができなければ、その一文が適当であるかどうかは判断できない。


 こうした課題を「本文を見ないで」やるという条件にしたのは、一つの読解のためのテクニックだ。

 本文の文言を見過ぎてしまうと、全体が見えなくなってしまうおそれがある。構造や流れを捉えるには、意識的に視点を上にもっていき、全体を見るようにして、部分的な文章の一節はむしろ「ぼんやり」見るようにするか、いっそ一旦視線を本文から外して、頭の中かノートの上で考えるようにする方がいい。


 さて、そのまま本文を見ないで、話し合いの中でこの課題に取り組む。

 「問題提起」は本文にそのままあるので挙げるのも容易だ。

1.未来の他者と連帯することはできるのか?


 この「問題」の形は「結論」が「できる」であることと対応しているだろうことを予想させる(もちろん「できない」でもいい。この文章の場合は「できる」の方だったよなあ、と皆すぐに思い当たるということだ)。

 となれば問題は、どういう論理でそれが「できる」ということになるか、だ。


 次の「希望的なこと」も容易にまとまる。

2.人間は未来の他者のために働くことができる


 「悲観的なこと」の部分には少々条件をつけた。「双曲割引」という馴染みのない言葉が出てくるので、それがどういうことなのかを一文に、またなぜそれが「悲観的」なのかがわかるようにもう一文。

 「双曲割引」とは何か。本文から直接引用できる一節を探すのは難しい。どの一節も、それだけではわかりにくい。そこで作文する。とりあえずこんな文で表すことに異論はなかったと思う。

未来の価値は現在感じる価値より低くなる

 これはなぜ「悲観的」か?

 未来のために努力することは難しいということになるからだ。

 ここから「悲観的」テーゼを次のように表現しておく。

3.未来と連帯することは難しい


 これら「希望的なこと」と「悲観的なこと」を合せると「未来の他者と連帯することはできる」という結論になるのだが、この論理には違和感を覚えないだろうか?


 2「希望的なこと」が、既に「できる」という結論に至る根拠を述べているではないか。 

 それなのに、なぜ「悲観的なこと」が語られ、それと合せる必要があるのか?


 あちこちから聞こえてきたのはこんな解釈だ。

 まず「できる」と言い、次に「難しい」と言い、結局「やっぱりできる」と言っているのだ。つまり最初に持ち上げてから一旦落とし、それからもう一度持ち上げるのだ。

 だがそんなに単純な読者の心理操作を狙っているのだろうか?

2022年4月10日日曜日

授業開始にあたって 3

3 授業の意義


 授業という場では何が行われるのか?

 国語の授業はどんな存在意義が期待される場なのか?


 上記の趣旨からすれば少なくとも、受身で臨む授業には、ほとんど意義はないということになる。

 国語の授業とは、何かを「教わる」場ではない。授業者の立場から言えば「教える」つもりはない、ということだ。国語、特に現代文には「教える」べき学習内容などほとんどない。

 それよりも、実技である国語の授業とは、みんなで集まって、独りではできないトレーニングを行う場だ。

 国語学習にも、スポーツにおける筋トレや柔軟体操や走り込みや、それぞれの競技の基礎練習にあたるものもある。例えば漢字学習などはこれにあたる。それらの中には、独りで取り組むことが可能な練習もある(もちろんそうした基礎練習でも、他人と一緒にやる方が効果的だ。単純にその方が楽しいとか励みになるということもある。地道な筋トレや走り込みを続けるには強い克己心が必要になる。みんなでやれば、みんなについていくことでそれなりにトレーニングを続けることができる。参加者の姿勢次第では、そこに楽しさすら生まれる)。


 それだけではない。習得しようとしている技術が対人スキルである場合は、そもそも他人の存在が練習には欠かせない。楽器の練習には合奏を、対戦スポーツは試合の一場面を想定した対人練習をしなければ、充分に有効な練習にはならない。

 国語という実技はコミュニケーションの手段である。だから当然、実際に誰か他人を相手にしたトレーニングが有効だ。

 授業という場は、そうした対人トレーニングの場なのだ。

 自分の話は相手を納得させているか、隣の席の人の言うことが理解できるか、実技としての国語の力が試され、磨かれる場だ。

 自主トレによる基礎練習は間違いなく必要であり有効だが、実戦的なチーム練習は、自主トレだけでは身につけられない技術を向上させる場なのだ。

 それが授業である。


 したがって何より、積極的な参加こそが求められる。

 そういう意味で、国語学習は本質的に「アクティブラーニング」でなければならない。国語の授業における話し合いや発表は、それ自体が必須の学習行為なのだ。

 国語の学習は、結果として「わかる」ことを目指しているのではなく、これからの生活に活きる国語力の伸張、すなわち「できる」ことを目指しているのだから、「能動的」で「積極的」で「主体的」であることは必須なのだ。

 「わかる」という言葉に縛られた「受動的」な姿勢ではなく、「できる」という言葉で表現される「能動的」な姿勢で授業に臨まなければならない。


 以上、国語の学習の基本的イメージについて述べてきた。

 だが実は(ここまで長々と語っておきながら)、授業は単なる「練習」というだけのものではない、とも思っている。

 授業で、あるテキストを読み込み、そこに見出される問題に周囲のみんなと立ち向かっていった先には、ある劇的な認識の変容が訪れることがある。

 それはクラスの皆に対する、隣の誰かに対する、テキストの向こうに広がる「世界」に対する、認識の変容だ。それは授業という場にとどまらず(もちろん大学入試という一過程にとどまらず)、その先の、大げさに言えば人生に影響を及ぼす認識の変容でさえありえる。

 そうした場としての授業とは、単なるトレーニングの時間というだけなく、ましてそこでそれなりにそこに書いてあることが「わかった」と思えているだけでは得られない、読解の、表現の、思考の、テキストの、人間の深淵を覗き見ることになる「体験」でありうると信じている。

 授業とは自ら参加する意志によってはじめて成立する「体験」なのだ。

授業開始にあたって 2

2 「目的」と「手段」の関係


 国語の授業で何かの文章を読むとき、授業の目的はその文章の内容が「わかる」ことではない。

 だから授業者は生徒にその文章を理解させることを目的に授業はしない。

 だが生徒はその文章を理解しようとしなくてはならない。

 どういうことか?


 国語の授業の目的は国語力を高めること。言うまでもない。あたりまえだ。疑問はない。

 「国語力」とは何か?

 具体的な場面で分類するならば「聞く」「話す」「読む」「書く」力、ということになる。そしてそれらの行為に通底する「言葉を使って考える」力である。

 これらはすべて「わかる」ではなく「できる」と表現できるような「力」だ。

 では

  • a・国語力を高めること
  • b・ある文章の内容を理解すること

 これら二つの関係はどうなっているか?


 b「ある文章の内容を理解すること」は、a「国語力を高める」ための「練習」にあたる。つまりbはaという目的を達するための手段である、ということになる。

 この「目的」と「手段」を意識することは重要だ。というのは、人はしばしば本来の目的を忘れて、手段(今まさに行っていること)が目的であるように錯覚してしまうからだ。

 この、本来の目的を見失って、手段に過ぎなかったものを目的のように錯覚してしまうことを「自己目的化」と言う。


 例えば「バーベルを上げる」という行為は「筋力を高める」という目的の為の手段だ。

 「筋力を高める」ことは、「競技力を高める」「美しいボディラインを手に入れる」「健康な生活を送る」等の上位目的のための手段だ。

 もちろんこれらの「目的」も、それより上位の「目的」を設定すれば、そのための「手段」と見なすことができる。「目的」と「手段」はこうした階層構造になっている。


 b「ある文章の内容を理解する」は、a「国語力を高める」という目的のための手段に過ぎない。これはちょうど上の例のb「バーベルを上げる」=手段、a「筋力を高める」=目的と同じ関係にある。


 a「国語力を高める」=目的/b「ある文章の内容を理解する」=手段

 a「筋力を高める」=目的 /b「バーベルを上げる」=手段


 つまり教科書などのテキストは筋トレにおけるバーベルだ。バーベルの存在意義は、筋肉に負荷をかけることだ。テキストは脳味噌に負荷をかけるためにある。


 バーベルを上げるとき、人はそれが筋力を高めるための手段であることを意識しているはずだ。バーベルが上がること自体に価値があるのなら、機械を使ってでも持ち上げればいい。だがもちろんそんなことには意味がないことはわかりきっているから誰もしない。

 それなのに「文章を理解する」ことはしばしば自己目的化されてしまう。

 これは、勉強というものが「わかる」という言葉でイメージされることからくる錯覚に拠っている。

 その文章の内容を理解することが国語学習の目的であるように思えてしまうのは、バーベルが上がること自体を目的にしてしまう錯誤に等しい。


 だが筋トレにおいて、バーベルを持ち上げることはやはり当面の目的ではある。持ち上げようと力をこめなければトレーニングは成立しない。

 「バーベルが持ち上がる」ことは最終的な目的ではない。だが、当面の目的として、やはり持ち上げようとすることは必要なのだ。この違いを明確に意識しなければならない。

 他人がバーベルを上げる様子を眺めていても、自分の筋力が高まるわけではない。同様に、誰かに教えてもらって、ある文章の内容が理解されても、それで自分の国語力が高まるわけではない。


 自分でバーベルを上げようとすることによってのみ、自分の筋力は高まる。

 同様に、自分で文章を理解しようとすることによってのみ、国語力は高まる。


授業開始にあたって 1

1 勉強=「わかる」という誤解

 シラバスの一番下「担当者からのメッセージ」に次の文章を載せた。

国語科は体育や芸術科目と同じように実技科目です。国語の学習は、国語の科目の学習内容を「教わる」ものではなく、今みなさんが持っている国語力を伸ばす「練習」です。ですから、授業は受身ではなく、常に自ら能動的に参加してください。教科書を「読む」ことも、そこに見出される問題を「考える」ことも、みなさんが自分で行うことです。その上で、授業では自分の考えを「話す」こと、友人の意見を「聞く」こと、つまり話し合いによって活きた国語の力を高めます。他人の「練習」を眺めていても自分の力は伸びません。皆さんの積極的かつ主体的な学習への取り組みを期待します。

 「能動的」とか「積極的」とか「主体的」とかいう言葉はもはや手垢のついた、ふんわりした、とにかく肯定的なイメージを付け加える修飾語のようにしか感じられないかもしれないが、国語科の授業においてはゆるがせにはできない、本当に重要な姿勢だ(もちろんどんな教科だって「能動的」で「積極的」で「主体的」である方がいいに決まっているが)。

 それは最初のところで国語科が「実技科目」だといっていることに関わっている。


 「実技」という言葉は多くの場合「学科」と対になっている。雑なイメージとしては「実技」=体を動かす←→「学科」=頭を使うというような使い分けになっている。

 さてそういう意味では、普通は国語を「実技」とは言わない。


 だが、「現代の国語」のテストで測られる「国語力」というものがあるとすれば、そのほとんどは「知識」ではない。「読解力」や「表現力」やその上位概念である「思考力」だ。

 だから国語の学習は、何かを「知る」ことでも「覚える」ことでもない。

 では「わかる」ことか? 


 「わかる」という言葉は、「勉強(学習)」という行為の基本的なイメージを代表している。英語が「わかる」、数学が「わからない」、あの先生の授業は「わかりやすい」…。

 一方、実技科目に対して「わかる」という言葉は通常使わない。サッカーが、バスケットが、器楽演奏が「わかる」とは言わない(もちろんルールや練習方法を学ぶような場面では限定的に「わかる/わからない」とは言うだろうが)。

 「わかる」でなければ何か?


 実技科目や、部活動におけるトレーニングの目標は「できる」と表現される。サッカーが「わかる」よりも、上手いプレーが「できる」ように練習するのだし、楽器が「わかる」のではなく、上手く演奏「できる」ように練習する。

 国語という科目もそうだ。国語は、国語(日本語)をよりよく使うことが「できる」ことを目指している。

 そういう意味で国語は「実技科目」なのだ。


 ところが、勉強という行為とは何かを「わかる」ことだという思い込みは根強く、国語も何かを「わかる」ことを目指しているかのように誤解されている。

 何を?

 教材として読む文章の内容である。


 「わかる」という言葉の呪縛から、教師も生徒もその文章が「わかる」ことを目指して授業を行う。教師はその文章を「わかりやすく」解説し、「わかった?」などと聞く。「わかった」かどうかを確かめるために定期テストに出題したりする。

 だが、国語の授業で何かの文章を読むとき、授業の目的はその文章の内容が「わかる」ことではない。

 国語学習の目的は、例えば自分で「わかる」ようになる=「できる」ようになることだ。

2022年4月6日水曜日

ブログ「現国教室」

 授業者が高校生の頃は「語」という科目があり、国語の先生というのは、「古典の先生」か「現国の先生」でした。40年ほど前に教育課程が変わり、科目名は「国語Ⅰ・Ⅱ」などという無意味なものになり、その後の教育課程改訂で、昨年度までは1年生の「国語総合」の後は「古典」と「現代文」(と「国語表現」)でした。そこでは「現代文」は「現文(げんぶん)」と略称されていました。

 ところが今年度から新教育課程では「現代の国語」という科目が新設されて、「現国」という略称が40年振りに復活しました。一方で「現代の国語」とセットで「言語文化」という科目が新設され、この略称はおそらく「言文」ということになるのでしょう。「げんぶん」といえば去年まで「現代文」で、今年から「古典」を指すことになってしまったのです。

 まぎらわしい。


  可能な限り授業の様子を記録していきます。

 8クラスで授業を行いますので、基本的には最後のクラスでの授業が終わってから、その授業に関する記事をアップします。

 授業を振り返ってもほしいのですが、それは決して定期テスト向けの復習というようなことではありません。常に、次に考えるべき問題についての前提として、それまでに考えたことを確かにしてほしい、ということでもあります。

 まとめて休んでしまった時には、そこまでの授業の様子を知ることもできます。あるいは、自分のクラスでは時間数が少なくて割愛されてしまった内容や、自分のクラスより後で実施されたクラスで提起された(自分のクラスでは言及されなかった)論点などを知ることができたりするかもしれません。

 また、時には先行して、これから考えてほしい問題を提起して、目を通してもらうこともあるかもしれません。


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