2025年7月9日水曜日

共に生きる 15 空虚な〈私〉時代2

  身近な人々の間で展開される承認ゲームはなぜ「空しい」か?

 この問いは「なぜ空しくなったか?」という問いではない。それは「共通前提」からの論理展開で示される。

 そうではなく、そのような事態をなぜ筆者は「空虚」と表現するのか? を問うている。

 題名にあるというのに、なぜ「空虚」なのかは判然としない。端的に書いてある箇所はない。全体の論理から、筆者の言う「空虚」さを読み取らなければならない。

 そしてそれを端的に表現する。「~から。」で終わるように。

 そうして発表を聞くと、その表現は、大きく言って2種類に分かれるのだった。

  1. 身近な人々の承認を得るために演じている「自分」は本意ではないから。
  2. 身近な人々の承認を得るために合わせている「価値」は、社会全体に共有されたものではないから。

 各クラスで聞いてみると、多くは1、たまに2が挙がる。

 この二つの理由はどう違うのか?


 だがそもそも上の1,2を「違う」と意識できるか、すべきかもさだかではない。

 図式化して違いを示そう。

 「身近な人々」は「小集団」とも言い換えられている。

 「小集団」は何と対比されるか?

 三層の対比になると言えば皆すぐに以下の対比構造を想起できる。

個人/小集団/社会

 問題は、これらの対比の間のズレ・食い違い・乖離・齟齬から生じている。とすると、それは「個人/小集団」「小集団/社会」どちらの対比の間で生じているか?

 つまり1は「個人/小集団」の間のズレから問題が生じていると言っていて、2は「小集団/社会」のズレが問題だと言っているのだ。

 さてどっちなのだろう。本文の論旨によると。


 一方「〈私〉時代のデモクラシー」の「難しさ」はどこから生じているか?

 これはいわば次の間のズレからだと言える。

〈私〉/〈私たち〉

 この「問題」は、上の1,2,どちらの「問題」と重ねられるか?


 小論文では、具体例を挙げて、その問題の「難しさ」を説明することが条件だった。

 例えば「米不足問題」では、生産者、消費者、流通業者、政府など、いくつかの立場の「当事者」が考えられる。そしてその利害は一致しない。消費者は安く米を買いたいが、生産者は高く売りたい。流通業者も、JAと大型商業施設と街の小さな米屋では利害が異なる。政府は選挙向けに有権者の不満を解消することばかりに腐心しているが、俗に言う「農水族」の思惑は違うかもしれない。

 これは「小集団/社会」のズレの問題と重なる。小集団がそれぞれの利害に従っていると、民主主義が成り立たない、という問題だ。


 だがそもそも「空しさ」の原因である1と2は「違う」のだろうか?

 異なった二つの「原因」が語られているのだろうか?

 むしろその関係を考えるべきなのでは?


 1と2は、「端的に言う(授業では「15字くらいで」という条件だった)」から違って見えるだけであって、もっと長ければ実は一続きで言える。

身近な人々の承認を得るために本当の「自分」を偽って演じているのに、その小集団内に通じる「価値」は、社会全体に共有されたものではなく、本心では自分でも信じていないから。

 これが空しさの理由だ。

 このことを本文では「自由と承認の葛藤」と表現している。

 これはすなわち「〈私〉と〈私たち〉の葛藤」であり、それはすなわちデモクラシーの困難なのだ。


 あえて違いを言うなら、言えないこともない。

 「〈私〉時代のデモクラシー」の宇野重規は政治学者であり、「空虚な承認ゲーム」の山竹伸二は心理学者・哲学者だ。ここから、「〈私〉時代~」は社会の問題に重点が置かれ、「空虚な~」は心の問題に重点が置かれている、とは言える。「難しい」は社会が直面している問題で、「空しい」は個人が直面する問題だ、と。


 「〈私〉時代のデモクラシー」は、時代の変遷を三層で語っている。

前近代/前期近代/後期近代

 これは次のような時代区分にあたる。

近世/近代/現代

 一方、「空虚な承認ゲーム」も、前近代から近代への論理展開は共通していて、かつ、問題は現代だ。近代から現代への変遷が語られている。

 この時代区分における変遷という切り口で、二つの文章を重ねてみよう。


 前近代から近代への変化は、自由な個人の成立ということで両者共通している。

 近代から現代への変化は?


 「空虚な承認ゲーム」はこれを「大きな物語」の喪失として語る。

 「大きな物語」は、現代には失われたもの、だ。

 これは「〈私〉時代のデモクラシー」では何に対応しているか?


 まず宗教が想起されるべきではある。だがそれは前近代からある「大きな物語」だ。

 近代に特有の「大きな物語」は?

 「空虚な承認ゲーム」で例として挙がっているのは「ナチズムやスターリニズムといったイデオロギー」だ。それとてそれなりにはでかいとはいえ「小集団」ではないかという突っ込みはできるだろうが、とりあえず一国の社会全体を覆い尽くすくらいにはでかい。

 これにあたるのは「〈私〉時代のデモクラシー」では?


 「自由な個人」も確かに近代になって生まれた「大きな物語」だが、これは現代には喪失したとも言いにくい。

 もう一つ、文中から挙げるなら「公正で平和な社会」だ。

 これとても「喪失した」とは言い難いものの、「社会正義」より「個人の自由」と言っているのが現代だと言えば、ある意味で「喪失した」とはいえる。

 それもまた近代におけるイデオロギーなのだ。

 社会共通のイデオロギーの喪失が「空虚」さを生んでいる。

 そしてイデオロギーの喪失は〈私たち〉を作ることを難しくさせている。

 ここでも「空しい」=「難しい」だ。


共に生きる 14 空虚な〈私〉時代

 次は予告通り「空虚な承認ゲーム」と「〈私〉時代のデモクラシー」を読み比べる。


 筆者が最も言いたかったことを、その文章の「結論」「主旨」などと言っておこう。

 それを言うまでには、ある「前提」があり、そこから「結論」まで、なにがしかの「論理展開」をする。

 二つの文章の「前提」と「論理展開」が共通していることを言うのは比較的容易だ。ここまでに確認されている共通前提がここにもある。そのまま文中から、共通して使われているキーワードを三つ、と指定すれば、すぐにみんなは「近代」「個人」「自由」を挙げることができる。

 この三語を使って、どのような「前提」からどのように「論理展開」しているかを語ってみる。


 前近代には、宗教や伝統などの「大きな物語」が人々の共通前提となり、人々はそれに拘束されていた。

 「近代」になるとそれが崩れ、人々は「自由」な「個人」となった。

 ここまでは二つの文章に共通する「前提→論理展開」。

 では「結論・主旨」は?


 できるだけ短く、と指定して次のようなフレーズを共有した。

「空虚な承認ゲーム」

現代人は身近な人からの承認を求めている。

「〈私〉時代のデモクラシー」

〈私〉時代とも言える現代において〈私たち〉を作らねばならない。

 共通前提から出発して、途中までの論理展開が共通しているからには、これらの結論・主旨にも、何らかの共通点があると考えるのは無理がないはずだ。どのような共通点があるか? というか、これら二つの結論・主旨は、どのような関係になっているのか?


 「関係」?

 関係を考えるためには共通点がなければならない。接点がなければ関係づけられない。

 その上で「関係」を語る。因果関係? 時系列? 並列? 言い換え? 包含関係?


 文章は「認識」を語るか「主張」を語るかに大別できる。「認識」を語らないということはありえないが、とくだん「主張」らしいことを言わない文章はある。

 上で言えば「~を求めている」は「認識」を語っているが、「主張」らしい言い方にするのが難しい。一方「作らねばならない=作るべきだ」は「主張」っぽい。

 「認識」と「主張」を関係づけようとするなら、因果関係に持ち込むのが有望?


 もう一つ。文章はなにがしかの「問題」があるときに書かれるものだ。何も「問題」がなければ、多くの文章は書かれない。

 それぞれの文章の「問題」を示す、否定的ニュアンスの形容は何か?


 それぞれ、上記の主旨の後に、次のような形容を足せば良い。

現代人は身近な人からの承認を求めているがそれは空虚だ

〈私〉時代とも言える現代に〈私たち〉を作ることは難しい

 この「空しい」と「難しい」の関係は?


共に生きる 13 空虚な承認ゲーム2 偽の/偽りの自分

  「共通している」とは、両者に「対応している」要素があるということだ。

 ということで次の一節を比べてみる。

このような鬱屈した気分のなかで、子どもたちは何もできなくてもじぶんの存在をそれとして受け容れてくれるような、そういう愛情にひどく渇くようになるのだろう。(…)上手に「条件」を満たすさなかに、もしこれを満たせなかったらという不安を感じ、かつそれを(かろうじて?)上手に克服しているじぶんを「偽の」じぶんとして否定する、そういう感情を内に深く抱え込んでいるはずだ。「『つながり』と『ぬくもり』」

一般的に、承認に対する不安が強い人間ほど、他者に承認されるための過剰な努力、不必要なまでの配慮と自己抑制によって、自由を犠牲にしてしまいやすい。自分の自然な感情や考え(本当の自分)を抑圧し、「偽りの自分」を無理に演じてしまうのだ。その結果、心身ともに疲弊してうつ病になったり、心身症や神経症を患ってしまうケースも少なくない。「空虚な承認ゲーム」

 この「『偽の』自分」と「偽りの自分」は、同じことを言っているか? 違うか?


 同じか、違うかと訊いて挙手させると、どこのクラスでも違うに多く手が挙がる。

 だが実は「同じ/違う」は排他的な二択とは言い切れない。

 「違う」というためには比較をしなければならず、比較をするためには共通した土俵に両者を載せなければならない。まったく共通する要素がなければ比べることもできず、「違い」を言うこともできない。

 従って両者は共通している要素がある。前回対応を確認した「肯定/承認」されるために、「本当の自分」を偽って演ずるのが「偽の/偽りの自分」だ。それがいずれも否定的に表現されている。そういう意味で「同じ」であることは認めなければならない。

 ではどこが違うか?


 違いを言うことができなければ上記の通り、両者は同じだということになる。

 だが違いを言うのは簡単ではない。それぞれの文章から、それぞれの説明をして、それを並べれは違いを示したことになるわけではない。

 例えばAとBは違うと言うために、それぞれの文章から次のような表現を切り取ったとする。

  • Aは大きい。
  • Bは軽い。

 これでは違いを示したことにはならない。それぞれが大きさと重さを表現していて、同じ軸上の比較になっていない。軽いものは総じて小さいが、風船のように比重が小さければ、軽くても「大きい」。だからまず「軽い」を解釈して「小さい」ことを示す必要がある。

 だが「Aは大きい/Bは小さい」と言えれば違いを示したことになるかと言えば、それもまだ確かにそうだとは言えない。

 「大きい/小さい」は相対的な捉え方であって、基準が揃っている保証はないからだ。二つの文章はもとより別々の文章なのだから、互いが比較対象な訳ではないし、互いを対象として相対的に「大きい/小さい」を言ったとて、それが何の「違い」なのかは、まだ明らかではない。Aは何かを基準として「大きい」と表現され、Bは何かを基準に「小さい」のだ。その基準が同じである保証はない。


 「違い」を言うためにはそうした精細な思考が求められる。だからこの問題は意外にみんな手こずった。というより思いのほか盛り上がって、ほとんどのクラスで1時限以上の話し合いになったのだった。しかも多くのクラスでは自主的にどんどん発言者が出現する、というような。

 とても結構なことだ。楽しい。


 さて、各クラスで、「違う」と言うためのさまざまな切り口が提案された。漫然と言うのではなく、切り口を明示することは重要だ。思考が整理されて、議論が有意義になる。

 例えば「強制/自発」という対比が提案された。「偽の/偽りの自分」を演じるのは強制されたからか自発的になのか。

 だが結局、どちらをどちらに割り振ることもできないという結論に落ち着いた。「偽の/偽りの自分」を演ずることには、どちらもなにがしかの強制力が働いており、それにしたがうことはどちらも自発的でもある。そうすると決めた時点で、自発的でない演技というのはそもそもありえない。


 「自覚がある/ない」で、違いが言えるだろうか?

 だがこれも「偽の/偽りの」と言う以上、自覚がないことはありえない。


 そうした「自分」が「」にあるか「」からできるか、では?

 これも、再帰的な循環の中で、いつが「先」か「後」かを言うことは難しい。


 そうした「偽の/偽りの自分」は「自分」の一部全体と重なっているかで言い分けられる?

 これもなんとも言い難い。

 こうした試行錯誤は議論を明確にするためには有益だ。

 

 結局、違いを言うためにかろうじて有効らしいと合意を得たのは、「演ずる」ことが何に従っているのかに、「違い」と言える相違があるのでは、という案だった。

 「『偽の』じぶん」は「条件(資格)」に合わせることによって「本当のじぶん」ではなくなる。

 「偽りの自分」でこれにあたるのは?

 「価値」が相当する。

 では「条件」(「つながり」と…)と「価値」(空虚な…)の相違点は?


 目の前の誰かに「肯定」されるために「『偽の』じぶん」が満たすべき「条件」は、しかし社会が突きつけてくる「条件」でもある。子供にとって、勉強ができることは、親や先生が突きつけてくる「条件」だが、それは社会が認める「価値」だ

 一方、身近な人=小集団に「承認」されるために守るべき「価値」は、むしろ「社会」全体が認める「価値」ではない、というのが「空虚な承認ゲーム」の主旨だ。その「価値」は小集団の内部でしか「価値」たりえない。だから「空虚」なのだ。

 「偽りの自分」はそのようなものに合わせて演じられたものだ。

 「偽りの自分」をやめることは、小集団からの離脱を意味するが、「『偽の』じぶん」をやめることは社会からの離脱を意味する。


 このあたりが、「違い」としてとりあえず言える切り口として納得できるところではある。

 が、同じか違うかと問うたときにみんなが「違う」と感じた印象は、これを読みとったからでは、たぶんない。それはそれで文脈上違っているように感じられる理由が別にあり、だが、では何が違うかを言おうとすると、同じであることばかりが確かめられる、両者はそのような表現なのだった。

 精密に読み、精密に表現することの難しさが考察の面白さにつながる、興味深い問題だった。



共に生きる 12 空虚な承認ゲーム

 4月以来ここまで6本の評論を読んできて、7本目、山竹伸二「空虚な承認ゲーム」をここに合わせる。ここまでの論者と共通するどんな問題意識があるのだろうか。

 共通した論旨が読み取れそうなのはどれ? という問いに挙がったのは「『つながり』と『ぬくもり』」が最も多かった。次が「〈私〉時代のデモクラシー」。

 まずは「『つながり』…」から考える。


 「共通した論旨」は、いろんなレベルで指摘できる。

 論の前提となる認識、論理展開、結論、途中で言及される部分的な論旨…。

 まずは「似ている」という印象を手がかりに、どこに注目するかを探る。その時点でその「印象」を語ってもいい。おそらくそれぞれの文章を、自分なりに解釈して説明することになる。それはそれで有益な国語的言語活動ではある。

 さらに精細に考えるためには「対応する」記述を探す。

 「共通する」とは、双方に対応する記述があるということだ。文字通り「共通する」、どちらにも同じ語を使った、ほとんど同じ趣旨であることが明らかな一節があればそれが「共通」している。だが、同一の語でなくとも、解釈して同趣旨と見なせるならば、それは「共通」していると見なそう。そのような「対応」している語、表現を指摘しよう。


 さて、指摘できるのは次のような表現。

「『つながり』と『ぬくもり』」

親密な個人的関係の中で肯定されることを求める

「空虚な承認ゲーム」

身近な人々に(小集団の中で)承認されることを求める

 対応している「肯定/承認」は、どちらもそれを人々が欲していることで「対応している」と感じられる。

 さらに、単に同一ということで「対応している」のは、またしても「近代」「個人」だ。

 この「前提」と「結論」を結ぶ論理展開はどのようなものか?


 「近代」と「個人」が登場したら、言うべきことは決まっている。前近代には人々を縛る「くびき」があったが、そこから解放されて、人々が「自由な個人」となったのが近代だ。

 だが自由になったことで拠り所を失った人々は、身近な人からの肯定/承認を求めるようになったのだ。

 そうした状況を鷲田は「さびしい」と表現し、山竹は「空虚」と表現する。


 両者ともに、近代化に伴う社会と個人の変化がもたらす問題を、現代的な状況として描いている。


2025年5月25日日曜日

共に生きる 11  〈私〉時代の 2 近代のプロジェクト

 全体をつかんだところで細部の解釈の練習。事前課題にした次の一節を、ここまでの読解の成果を活かして解像度を上げて再考察する。

「近代」のプロジェクトが成功し、成功したためにこそ、その効果が自分自身に跳ね返り、「近代」そのものが新たな段階に達しつつある。

 これはどういうことを言っているか?


 三つの要素に分けて、それぞれが説明できているかチェックする。

  • 「近代」のプロジェクト
  • その効果が自分自身に跳ね返る
  • 新たな段階


 まず、「『近代』のプロジェクト」とは?

 本文中で「近代の目標は」を受けているのは次の三箇所。

  1. 伝統からの解放
  2. 宗教からの解放
  3. 「公正で平和な社会」の実現

 1と2は並列だからまとめて扱うとして、それと3の関係はどうなっているのか?


 3は「など」と言われているから、一つの例なのだと考えられる。1と2の延長上に例えば3のような目標を達成しよう、と言っていると考えればいい。

 3は「平和な」がわかりにくい。「平和」の対義語は「戦争」だが、「戦争のない社会の実現」と言ってしまうと話が大きくて、これが「近代における個人の誕生」と何の関係があるのかわからない。ここでの「平和」は、「解決のために暴力的な手段を用いない」くらいの意味だ。例えば? 「法治国家」のイメージ。これなら「公正」と並列にできる。

 1・2で言うように、伝統や宗教から解放されたのが「個人」だ。そうした運動の方向の先に、例えば「公正な社会」があることがわかるだろうか?

 「公正で平和な社会」は「近代的個人」を構成員として前提しているのだ。

 さてその「運動」の「効果」が「自分自身に跳ね返る」という表現が何を意味するかは、先に「新たな段階」を掴んでから考えよう。

 文中から「新たな段階」を抽出できそうなのは次の箇所。

現代の社会理論で強調されるのは、むしろ「個人の差異」や「個人の選択」です。もはや社会的な理想は力を持たず、もっぱら一人一人の〈私〉の選択こそが強調されるのが、今の時代だと言うのです。

 「近代のプロジェクト」が「個人の解放」だとすると、新たな段階「一人一人の選択が強調される」までの因果関係は見やすい。

 だがこれはどこがどう「跳ね返」っているのだろうか?

 さらに「公正な社会の実現」とはどう関係しているのだろうか?


 「新たな段階」は「旧い段階」と比較するのが有効。対比の考え方だ。「後期近代」などと言っているから「前期近代」があるわけだ。

 「前期近代」は「前近代」ではない(まぎらわしい!)。「前近代/近代」という対立がまずあり、「近代」がさらに前期/後期に区別される。この「後期近代」は、ほとんど「現代」のことだと考えて良い。「現代」のことを「脱近代」とも呼ぶが、それだと「近代」とのつながりがないように感じられるから、「後期近代」という言い方でいこう、と宇野は宣言している。この「後期近代」が「新たな段階」だ。

 つまり「前近代→前期近代→後期近代」という三段階に分けて考える必要があるのだ。

 「前近代/近代」という対比については上に見たように「伝統・宗教による拘束/解放」と捉えられる。

 問題は「前期/後期」だ。ここを言い分けてみよう。

 前期/後期という対比はここで初めて登場するわけではない。前の文章中にも対比を示す表現がさりげなく置かれて、対比構造が示されている。

 だがそれらはいずれも明確な、取り出しやすい対比の形で置かれていないから、それと気づくのが難しい。この文章の読みにくさはそうしたことにも原因がある。

 例えば次の一節。

近代においても、最初の頃には歴史において実現されるべき目標の理念がありました。「公正で平和な社会」などというのが、それです。このような時代(=前期近代)においては、そのような社会の理想を実現するための「革命」という言葉には、独特の魅力がありました。しかしながら、現代(=後期近代)の社会理論で強調されるのは、むしろ「個人の差異」や「個人の選択」です。もはや社会的な理想は力を持たず、もっぱら一人一人の〈私〉の選択こそが強調されるのが、今の時代だと言うのです。

 ここには「最初の/もはや・今の」といった対比がある。これが「前期/後期」の対比に対応している。

 ここからどう対比を取り出せばいいのか?

 「理想に魅力があった/ない」? わかりにくい。

 下線部から次のように抽出できる。

「公正な社会」という理想/一人一人の〈私〉の選択

 これはどう対比になっているのやら、わかりにくいことはなはだしい。そしてこの変化、ないし推移には、「跳ね返り」と言えそうな因果関係があるというのだ。

 これを説明するのはけっこう厄介なはずだ。


 「前期/後期」の対比を表現している箇所は他にもある。例えば次の一節。

今や「ソーシャル・スキル」の時代です。人間関係は、一人一人の個人が「スキル(技術)」によって作りだし維持していかなければならないとされます。「社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)」という言い方もなされるようになりました。今日、人と人とのつながりは、個人にとっての財産であり、資本なのです。逆に言えば、自覚的に関係を作らない限り、人は孤独に陥らざるをえません。ここには、「伝統的な人間関係の束縛からいかに個人を解放するか。」という、近代の初めの命題は、見る影もありません。

 上の一節には「初めの/今や・今日」という対比が見つかる。これも「前期/後期」の対比だ。

 ここから抽出できる対比要素は、下線部より次のように整理できる。

束縛からの解放/関係を作る

 これは比較的「跳ね返り」が説明できそうだ。「束縛からの解放」によって、一人一人がばらばらな「個人」になった(前期)。ばらばらなままでは不都合なので(たとえば鷲田ふうに言うと「寂しい」ので)、かえって関係を作ろうとするようになっていった(後期)のだ。

 これなら確かに「跳ね返」っている。

 さてでは「『公正な社会』という理想/一人一人の〈私〉の選択」がこれと同じ対比であることを説明できるだろうか?

  • 前期近代→「束縛からの解放」=「『公正な社会』という理想」?
  • 後期近代→「関係を作る」=「一人一人の〈私〉の選択」?
 筆者の認識の中ではこれが一致しているはずなのだ。
 どういうことか?

 前期はどちらも「個人の誕生」のことだ。「個人」は束縛から解放されて成立した。そして「公正な社会」は「個人」によって構成される社会だ。公正であるとは、誰もが同じ権利を持っている状態だ。それこそ「個人」の条件だ。
 後期の「関係」は、前近代的な「関係」=社会的コンテクスト=伝統や宗教の拘束とは違って、一人一人の〈私〉の選択によって作る「関係」のことだ。「くびき」がなくなって、ばらばらになってしまったから、今度は自分で選択して関係を作り直さなければならないのだ。

 以上、本文で論じられている、前近代→前期近代→後期近代(現代)への推移が解像度を上げて見通せるようになっただろうか?

2025年5月23日金曜日

共に生きる 10 〈私〉時代の ー「近代」と「個人」

  「近代」と「個人」という概念に慣れるために、鷲田清一「『つながり』と『ぬくもり』」、宇野重規「〈私〉時代のデモクラシー」の以下の文章を読み比べてみよう。

 唐突にとおもわれるかもしれないが、近代の都市生活というのは寂しいものだ。「近代化」というかたちで、ひとびとは社会のさまざまなくびきから身をもぎはなして、じぶんがだれであるかをじぶんで証明できる、あるいは証明しなければならない社会をつくりあげてきた。すくなくとも理念としては、身分にも家業にも親族関係にも階級にもにも民族にも囚われない「自由な個人」によって構成される社会をめざして、である。「自由な個人」とは、彼/彼女が帰属する社会的なコンテクストから自由な個人ということだ。そして都市への大量の人口流入とともに、それら血縁とか地縁といった生活上のコンテクストがしだいに弱体化し、家族生活も夫婦を中心とする核家族が基本となって世代のコンテクストが崩れていった。そうして個人はその神経をじかに「社会」というものに接続させるような社会になっていった。いわゆる中間世界というものが消失して、個人は「社会」のなかを漂流するようになった。

 社会的なコンテクストから自由な個人とは、裏返していえば、みずからコンテクストを選択しつつ自己を構成する個人ということである。けれども、そういう「自由な個人」が群れ集う都市生活は、いわゆるシステム化というかたちで大規模に、緻密に組織されてゆかざるをえず、そして個人はそのなかに緊密に組み込まれてしか個人としての生存を維持できなくなっている。社会のなかにじぶんが意味のある場所を占めるということが、社会にとっての意味であってじぶんにとっての意味ではないらしいという感覚のなかでしか確認できなくなっているのだ。そこでひとは「じぶんの存在」を、わたしをわたしとして名ざしする他者との関係のなかに求めるようになる。こうして近代の都市生活とは、個人にとっては、社会的なもののリアリティがますます親密なものの圏内に縮められてゆく。(鷲田清一「ちくま評論入門」60~61頁)


 「そういう時代」とは何なのでしょうか。話が少々飛躍するようですが、「近代」という時代について考えてみたいと思います。

 「近代」の目標の一つは、これまで人々を縛り付けてきた伝統の拘束や人間関係から、個人を解放することでした。「近代」は、個人の自由を重視し、個人の選択を根本原則として、社会の仕組みやルールを作り替えようとしました。

 一例を挙げれば、伝統的な社会において、「家」の存続こそが、そこに属するメンバーにとっての至上命題でした。これに対し、「近代化」の結果、そのような意味での「家」は解体し、当事者の合意に基づく婚姻によって生みだされる「近代家族」が取って代わりました。与えられた人間関係を、自分で選んだ関係に置き換えていく過程こそが、「近代化」であったと言えます。

 そして、今や人間関係は、一人一人の個人が「スキル(技術)」によって作りだし、維持していかなければならないとされます。今日、自覚的に関係を作らない限り、人は孤独に陥らざるをえません。ここには、「伝統的な人間関係の束縛からいかに個人を解放するか。」という、近代の初めの命題は、見る影もありません。(宇野重規 教科書135~136頁)

 二つの文章を、近代化の流れをたどるくだりとして重ね合わせてみる。

 二人とも「現代」について話そうとする時に、妙な言い訳をして語り始める。切り出しに、鷲田は「唐突にとおもわれるかもしれないが」と語り始め、宇野は「話が少々飛躍するようですが」と始める。二人が揃って、読者に対して微妙な気遣いをしているところが可笑しい。

 二人とも「現代」の源流を「近代」として捉えているのだが、そう語り起こすことが読者に混乱を起こさないか心配しているのだ。

 さて、鷲田の文章では「くびき」という比喩で語られるものが「社会的コンテクスト」「中間世界」と言い換えられる。「身分~民族」「血縁・地縁」はその具体例だ。

 そうした「くびき」から「個人」を解放してきたのが「近代」だ。

 これは宇野が「これまで人々を縛り付けてきた伝統の拘束や人間関係から、個人を解放する」と言っていることに対応している。「くびき」=「拘束」だ。

 そうして生まれた「個人」は「みずからコンテクストを選択しつつ自己を構成する」(鷲田)ことを余儀なくされる。「個人の選択を根本原則と」(宇野)するようになったのだ。

 自分の居場所が「伝統的な社会における家」から「当事者の合意に基づく婚姻によって生みだされる近代家族」(宇野)へ変わったという推移は、「くびき」としての「家」から「親密なものの圏内」に推移した(鷲田)ことに対応している。

 「一人一人の個人が「スキル(技術)」によって作りだし、維持していかなければならない」(宇野)は、「緊密に、そして大規模にシステム化された社会というのは、「資格」が問われる社会である。」(鷲田)に対応している。「スキル」=「資格」=「できる」。

 そうすると「人は孤独に陥らざるをえない」(宇野)=「近代の都市生活というのは寂しい」「個人は社会のなかを漂流する」(鷲田)。

 二人が「近代化と個人の誕生」を語る一節は、見事に対応している。これは不思議なことではなく、誰でも、語ろうと思えば似たような論旨になってしまうのであり、それだけそうした認識が常識として前提されているということだ。

 「近代」にしろ「個人」にしろ、見慣れた言葉だが、こうした歴史的背景を背負っていることを認識しておきたい。


2025年5月4日日曜日

共に生きる 9  〈私〉時代の ー要約

 次は宇野重規の「〈私〉時代のデモクラシー」。

 宇野は、2020年の菅義偉政権下で問題になった「日本学術会議任命問題」で、政府に任命を拒否された6人の中の一人として話題になった政治学者(おりしも2025年5月現在、日本学術会議を特殊法人化する法案が国会で審議中だが、これは上の問題を引きずっていて、その帰結ともいえる。反対論も巻き起こって、デモが行われたりもしている)。

 駆け足で読み進めるために、要約を課題とした。

 要約は、現代文分野の学習方法として、最も簡便で最も有効な学習方法だ。とにかくやりさえすれば絶対に勉強になる。

 国語の学習は入力(勉強)と出力(テストでの回答)が明確に対応するような教科の学習と違って、やったこと点数の相関がわかりにくい。国語は教科の性質上、スポーツや楽器の練習などと同じ「実技」科目だから、今日の練習でいきなりうまくできるようになるわけではないからだ。

 それで、「国語の勉強は何やったら良いのかわからない」という意見が世に溢れていて、その揚句「国語は生まれつきの才能だから勉強しても無駄」などといった俗説も飛び交う。

 だが、練習しないよりした方が上達するのは間違いない。中学高校の部活だって、もちろんみんながオリンピック選手だのプロだのになれるわけではないが、部活外の人よりはまず上手くなるものだ。少なくとも昨年の自分よりは絶対うまくなる。その上達が一日二日では(あるいはテスト直前の勉強では)わかりにくいというだけだ。

 で、その練習方法として最も有効なのが要約だ。


 要約は、字数を変えると、いくらか効果の異なる学習になる。

 短くすれば原文の本質・核心をつかむ練習。

 長くするほど展開の論理的組み立てが必要になる。

 今回のはノート2行くらい、50~60字くらいに、という指定だった。みんなどんなふうに要約したろうか。


 試みに、ひとつ。

現代のデモクラシーは、一人一人他人とは違った〈私〉が集まって〈私たち〉をつくらなければならないという問題に直面している。(60字)

 最後の2頁の論旨を中心にしている。題名との関連も重視している。

 一度書く時間をとってから、今度は「近代」「個人」という言葉を入れて、もう少し長く、という条件をつけてみる。半分以上の人は最初から使っていたが。

 例えばこんなの。

近代、古い伝統や宗教から自由な「個人」が生まれた。一方で誰もが同じような〈私〉になってしまう中で、かえって自分の個性を求めるようになっている。

 最後の2頁より以前の趣旨は、こちらの要約の方が適切に表現しているように感じる。両者の趣旨は、これだけ見ると結構異なっている。

 みんなはどちらの論点を中心に要約しただろうか。もっと長ければ両方の趣旨を含む要約を書けば良い。だが短いときにどちらの趣旨を採るかは判断に迷う。

 つまり要約に正解はない。とにかく要約しようとすることが練習になる。


共に生きる 8 「近代的個人」とは

  教科書の三つの文章の共通テーマが「自立」だとすると、「ちくま評論入門」の二つの文章の共通テーマは何か?


 「私という存在」といった表現が適当だろうか。あるいは「自分・自己」あたり。

 ここに6本目の文章「〈私〉時代のデモクラシー」を並べてみる。

 「私」が接点になりそうなのはすぐわかる。

 「ほんとうの『わたし』とは?」は題名の通り「私という存在」についての新しい見方を提示しているし、「『つながり』と『ぬくもり』」は「私という存在」があやうくなった現代人の問題を論じている。

 では「〈私〉時代のデモクラシー」の論旨はそこにどう絡んでくるか?

 接点を増やそう。次の一節を読み比べてみよう。

ほんとうの「わたし」とは?

自分がつねに同一の存在であり続けるというのは、まさに近代個人主義的な人間観です。

それ以上分割不可能な存在という意味が込められています。この西洋近代的な個人とは…


「つながり」と「ぬくもり」

近代化」というかたちで、ひとびとは社会のさまざまなくびき、「封建的」といわれたくびきから身をもぎはなして、じぶんがだれであるかをじぶんで証明できる、あるいは証明しなければならない社会をつくりあげてきた。身分にも家業にも親族関係にも階級にも性にも民族にも囚われない「自由な個人」によって構成される社会をめざして、である。

近代都市生活とは、個人にとっては、社会的なもののリアリティがますます親密なものの圏内に縮められてゆく、そういう過程でもある

 これらの一節に繰り返し出てくるキーワードは「個人」「近代」だ。

 この二つの言葉がいわゆるキーワードというほどの重要な語句であることは、高一のみんなには意識しにくいはずだ。

 「個人」が「私」というテーマに関係しそうなことは予想できる。「私」は一「個人」だ。

 だが「個人」などという言葉はつい、何の気なしに使ってしまうものだ。それが特別に重要なのか?

 もう一つ、「近代」もまた、みんなにとっても見慣れた言葉のはずなのだが、実は「近代」という言葉は中学生の語彙にはない。知ってはいるが、何を意味しているかをわかっている中学生はまずいない。

 見慣れているのにわかってはいない、という二重の理由で盲点になっていて、それが重要な言葉であることは意識されにくい。

 だが「近代」という言葉は、高校の評論を読む上では最大級に重要な言葉なのだ。高校で扱う(ということは入試で出題される)かなりの割合の評論が、何らかの意味で「近代」をめぐる問題を論じている。あるいは直接そうは言わないとしても背景として前提している。

 「個人」と「近代」という言葉をキーにして「ほんとうの『わたし』とは?」と「『つながり』と『ぬくもり』」を捉えなおしてみる。

 それぞれの文章で、「個人」と「近代」がどうだと言っているのか?


 ここでは「近代における〈個人〉とは…」と主語を揃え、述語を比較する。

 「ほんとうの『わたし』とは?」で述べられている「個人」とは、分割不可能な常に同一の存在だ。

 「『つながり』と『ぬくもり』」の「個人」とは、封建的な社会のくびき(コンテクスト)から解き放たれて「自由」になった存在だ。

 これらは共通した認識を語っているのだろうか?


 言い方の違いに惑わされないで、共通したイメージを抽象する。

 共通するのはやはり、独立した・孤立した・完結した「個人」というイメージだ。そういうイメージを心に留めながら上の一節を読み直してみよ。腑に落ちるはずだ。

 そしてこれは結局、全体の共通項である「人は他者とのつながりによって存在する」の裏返し「他者とのつながりを失った個人」の問題なのだ。


 さらに発展して「近代」「個人」を語る上で、松村と鷲田が、それぞれもう一つ、「近代」「個人」を何の問題として語っているかを把握するためのキーワードを一語ずつ文中から挙げよう。

 松村の論では「西洋」、鷲田の論では「都市」が「近代」と「個人」の近くに置かれている。

 これは何を意味するか?


 「西洋」「都市」は「近代」「個人」とどうつながるか?

 それぞれの対比をとろう。

 「個人」の対比は「社会」が普通だが、ここでは上で述べるとおり「他者とのつながり」。

 「近代」は「中世・近世」(「現代」が対比になることもあるが、今回は措く)。 

 あとは「西洋/東洋・アフリカ・アラブ」「都市/農村」という対比を考えておこう。

 これらの対比はすべて関連している。

近代/中世・近世

西洋/東洋・アフリカ・アラブ

都市/農村

個人/他者とのつながり

 近代といえば事の起こりは西洋における産業革命だ。

 工業化によって大量生産が可能になり、工場勤務の労働者が農村から都市に流入する。これが「社会的コンテクストから切り離される」という事態だ。

 松村・鷲田の文章に登場する「個人」という存在は、そうした近代西洋都市で誕生したのだ。


 「個人」という言葉は日本でも明治に翻訳語として使われるようになった言葉だ。江戸時代まで「個人」はいなかった。言葉が存在しなければ、そのように捉える認識自体が存在しない。

 松村と鷲田の共通テーマである「私という存在」も、そのような「近代的個人」として捉えられる「私」であり、そのようなイメージに対抗するものとして、松村の文章ではパプアニューギニアの人々の考え方が示されている。それは西洋近代以前の人間のありようをイメージさせるものであり、平野啓一郎の「分人」は、それを現代版にリニューアルしたものだ。

 こうした「個人」のイメージは近代にできあがったのだ、という認識はこの先3年間、さまざまな文章で繰り返される認識なので、心に刻んでおきたい。


2025年5月3日土曜日

共に生きる 7 「個人的関係」をめぐって

 さて、「『つながり』と『ぬくもり』」に「個人的関係」という言葉が出てくる。

こうして私的な、あるいは親密な個人的関係というものに、ひとはそれぞれの「わたし」を賭けることになる。近代の都市生活とは、個人にとっては、社会的なもののリアリティがますます親密なものの圏内に縮められてゆく、そういう過程でもあるのだ。


 ここから連想されるのはどの文章か?

 「自立と市場」(松井彰彦)が思い浮かんでいてほしい。ただし文中にはこの言葉は出てこない。だがテーマである「市場」の対比が「個人的関係」であることを授業で確認した。すぐに連想できただろうか。

 では「個人的関係」をめぐって、鷲田と松井の見解を比較してみよう。


 それぞれの文章で「個人的関係」と対比されている概念を確認する。

 松井の論では「市場/個人的関係」。

 鷲田の論では何か?

 「個人」の対比は「社会」だから、「個人的関係」の対比は「社会的関係」だろう。それにあたる言葉として「社会的コンテクスト」が挙がる。悪くない。だがここでは「システム」がさらにいい。

 農村の「社会的コンテクスト」から逃れて都市へ流入した「自由な個人」は「システム」の中に組み込まれる。そこから逃れようとする先が「個人的関係」だ。「社会的コンテクスト」は近代の「社会的関係」を指し、「システム」は現代の「社会的関係」を指している。したがって「システム/個人的関係」という対比がいい。

  市場/個人的関係

システム/個人的関係

 さてここから少々ミスリードする。

 二人の論は一見したところ反対のベクトルをもっているように見える。「個人的関係」は松井の論では否定的に、鷲田の論では肯定的に扱われているように感じる。

 二人の認識・見解・論旨・主張は相反しているのだろうか?


 対比の両辺がそもそも違うものを指しているのだろうか。そんなことはない。小十郎と商人の関係はともかく、熊谷さん親子は、鷲田の言う「個人的関系」の一例だろう。「市場」は「システム」の一側面と考えられる。

 ではどう考えたらいいのだろうか?


 二人が論じているテーマは何か?

 二人がそれぞれ「依存」について語っているらしいという感触は正しい。だがここでは二人の主題の違いを確かめておこう。

 「依存」ということは、松井は「自立」について語っているのか。確かにそうだ。

 一方鷲田は「自立」の話はしていない。鷲田の話は松村圭一郎と同じく「わたし」がテーマになっている。もうちょっと言い換えると自分の存在意義とか自分の価値とか。

 「自立」と「自分の存在意義」ではまだ違いがわかりにくい。もうちょっと比較できる言葉で表現しよう。

 「生活」と「心」と言ってみよう。松井は「生活」が自立するかどうかの話をしているのであり、鷲田は自分の存在をどう捉えるかという「心」の話をしているのだ。 

 そうすると上の対比における肯定/否定のベクトルが反対方向に見えることも、「相反している」ではなく、相違として語れるだろうか?


 生活を支える経済的な基盤として「個人的関係」は脆弱であり、市場の方が安定している。だがシステムの中で見失われそうな「自分」の存在を確かめるに、人は「個人的関係」にすがるのだ。

 二つの認識は、相反しているわけではない。


 そもそも松井は「個人的関係」への依存の危険に代わる「市場」を全面的に礼賛しているわけではない。

先立つものがないのはさすがに困るが、お金で手に入れることができないものもたくさんある。特に精神的な満足感は多くの場合、市場以外のところで手に入れるしかない。

 この「市場以外のところ」こそ「個人的関係」ではないか。


 一方の鷲田が、「個人的関係」にすがる若者を、単に肯定的に描いているわけでもない。「ますます親密なものの圏内に縮められてゆく」「だれかと『つながっていたい』というひりひりとした疼き」「だれかとの関係のなかで傷つく痛み」などという表現は、明らかに「個人的関係」の閉塞感を語っている。

 それは「個人的関係」が自立の妨げになる危険を述べる松井の論に見られる認識と違っているわけではない。 


 ここにはやはりいずれも「孤立した個人」のイメージがある。

 「自立」をめぐって、「個人的関係」の中で縛られてしまう危険と、そこから市場への緩い「つながり」に期待する松井の論。

 「自己」をめぐって、「孤立」の不安の中で「つながり」において自分を確かめようとする鷲田の論。

 これらはいずれも、近代において成立した「孤立した個人」を乗り越えることを企図している。

 そうした意味で、両者はやはり同じ認識を共有している。


2025年5月2日金曜日

共に生きる 6 「社会から選択される」

 さて、部分的な読解をしよう。部分の読解は常に全体の読解と相補的だ。

 次の一節はどういうことを言っているか?

じぶんで選択しているつもりでじつは社会のほうから選択されているというかたちでしかじぶんを意識できない

 「どういうことか」という問いは、何を言えばいいのかよくわからない。

 説明を求められている当該の一節がそもそもわからない場合には答えようがない。

 といって、逆にそのままでわかると感じている場合にも、それ以上何を言うべきかわからない。

 いずれにせよ「どういうことか」を説明するのは難しい。

 ほんとうは目の前に「わからない」と言う人がいて、その人を相手に対話を繰り返す中で、その人が何を「わからない」と感じているのかが徐々に明らかになって、初めて「どういうことか」を言うことができる。

 だからテストで、誰がどう考えて「わからない」と言ってるかもわからないのに、「どういうことか」を訊かれるというのは困った事態ではある。

 が、答えなくてはならない。どうするか?


 実は問題の一節は、その直前が「つまり、」で始まっている。つまりこの文の前の7行を受けているのだ。

 社会的なコンテクストから自由な個人とは、裏返していえば、みずからコンテクストを選択しつつ自己を構成する個人ということである。じぶんがだれであるかをみずから決定もしくは証明しなければならないということである。言論の自由、職業の自由、婚姻の自由というスローガンがそのことを表している。けれども、そういう「自由な個人」が群れ集う都市生活は、いわゆるシステム化というかたちで大規模に、緻密に組織されてゆかざるをえず、そして個人はそのなかに緊密に組み込まれてしか個人としての生存を維持できなくなっている。

 前半が「じぶんで選択しているつもりで」に対応していて、後半が「じつは社会のほうから選択されている」に対応している。ここから適当に表現を選んで継ぎ接ぎすればいい。

 逆にこの一節が「わからない」と感じていた人は、この一節が前の7行とほぼ完全な対応を見せていることを見ていないだけだ。視野を拡げてみればそれは一目瞭然なのに、部分を見ていると「わからない」と感ずる。


 さてこれを、後から語られる「資格」を例にして語ってみよう。

 「わかる」とは、ある意味では、それに対応する例が思い浮かぶ、ということだ。

 「例えば『資格』を例にしてみると…」ということができれば、それは「わかっている」ということだ。


 上の「みずからコンテクストを選択しつつ自己を構成する」「じぶんがだれであるかをみずから決定もしくは証明しなければならない」とは、例えば我々は「資格」をとることで自分が何者かを証明する、と言っているのだ。

 どんな資格をとることも我々は自由に選択できる。調理師免許をとって料理人になる、宅建(宅地建物取引士)資格をとって不動産屋になる、司法試験に合格して弁護士になる…。あるいは資格をとらないことも自分で選べる。

 だがそもそも資格とは社会が用意するものだ。社会を動かすための歯車に適した人材であること証明するものが「資格」だ。

 資格をとって何らかの仕事をするということは、その歯車として「システム化というかたちで大規模に、緻密に組織されてゆ」くということなのだ。

 資格をとることは自分が選択したことなのに、それはすなわち社会の要請する役割を果たすことになる。それが問題の一節で言っていることだ。

 例を用いて説明したときのこのスッキリ感を感じてほしい。


2025年4月30日水曜日

共に生きる 5 「つながり」と「ぬくもり」

 5つ目に読み比べる文章「『つながり』と『ぬくもり』」の筆者が鷲田清一(きよかず)だと聞いて、その名に反応してほしい。「真の自立とは」の筆者だ。

 授業で読んだ文章の筆者を覚えておくことは有益だ。次に問題集であれ模試であれ、大学入試であれ、同じ人の文章が出題されたときに、読むための構えができる。内容的に重なっていることも少なくない。初めて読む文章でも、そうした構えがあると入りやすい。鷲田清一は入試でも頻出の論者なので、できれば記憶にとどめておこう。


 さて、この文章を「読み比べ」よ、と要求されるのは、かなり難易度が高い、と感ずるはずだ。急に抽象度が増して、手応えがはっきりしない。こういう随筆的な文章は、論理的な評論文よりも趣旨がつかみにくいのだ。

 実はこの文章は旧課程(令和3年度まで)の2,3年生が使っていた「現代文」の教科書にも収録されていて、そこでは3年生が読む想定になっている。確かに1年生にはちょっと、とっつきにくい。

 だがまずは「同じこと」を探さないと「比べ」ようがない。

 共通点は?


 題名に「つながり」とある。もちろん他者と、だ。

 そう、これも「他者とのつながりは大事だ」という認識が共有されているのだ。

 さてもう一つ、いとぐちになりそうなのは「できる/できない」だ。ということは「真の自立とは」と「共鳴し引き出される力」とつなげて考えることができるかもしれない。

 だがそもそも「つながり」と「できる/できない」の関係が把握しにくい。これは「真の自立とは」でもそうだった。これまでの文章と関係づけるより前に、まず「『つながり』と『ぬくもり』」の内容把握が必要ならばやっておく。

 「つながり」「できる/できない」それぞれを使って、15字以内くらいの要約をしてみよう。その後、それらを関係づける。

  1.  現代人は「つながり」を求めている。
  2.  「できる/できない」で自分の価値を決められるのはつらい。

 これらはどういう関係か?

 感触として、逆接関係であると感じられるだろうか。同時に因果関係でもある。

 「できる/できない」が「自分の存在意義」を決めることと「つながり」が「自分の存在意義」を決めることは、反対方向だ。これを表現してみよう。

人は、ほんとうは「つながり」の中で自分の存在を確かめたいのに、「できる/できない」という条件付きでしか自分の価値を認めてもらえない。

 因果関係はどうか? 2が原因で、その結果として1になっていることを表現する。

現代人は「できる/できない」という条件付きでしか自分の価値を認めてもらえないので、無条件に自分を認めてくれる他者との「つながり」を求めている。


 さて、読み比べてみよう。

 「真の自立とは」は同じ鷲田の文章なので、ここは伊藤亜紗と鷲田が、「できる/できない」という対比と「つながり」を用いてどのような論を展開しているか比較してみよう。

 伊藤・鷲田に共通するのは、雑に言えば、「できる/できない」で分けてしまうのは良くない、といったような認識だ。「できない」と言われて排除されるのはつらい。

 鷲田の文章では、だから人は「つながり」を求めてしまうのだ、とつなげるか、それは人々の「つながり」が薄れてしまっている現代において起こった現象だ、とつなげるか。

 伊藤の文章では、個人で「できない」としても、他人との「つながり」の中で「できる」ことが大事だ、などとつなげることができる。


 ところで「できる/できない」を、それぞれの文章ではどのような言葉に言い換えているか?

 伊藤の文章では「能力」がそれにあたる。

 鷲田の文章ではそれが「資格・条件」という言葉で表現される。

 ここから「できる/できない」で分けるのは良くない、だからどうすると言っているのか、と考えてみる。

 伊藤は、「できる/できない」は、個人の「能力」のことを言っているから良くないのであって、他人との共鳴の中で「できる」ようになることもあるといい、そのような「能力」観を提示している。ここでは「能力」をめぐって「個人/他人との共鳴」という対比がある。

 鷲田は「資格・条件」で価値付けられるような社会の息苦しさから、若者は「他者による無条件の肯定」を求めるようになっている、と言っている。「できる/できない」という評価基準そのものからの離脱を述べているのだ。対比は「資格・条件/他者による無条件の肯定」だ。


 さてだが、単に「並べる」ことと「比べる」ことは違う。並べられても、だからどうだというのかわからない、ということもある。関連づける観点を示さないと、「問題」が見つからない。

 例えば、伊藤の主張は「できない」としても誰かの助けでできればいいのだ、という「行動」面についての主張をしていて、鷲田は「できる」ことを求められるとつらいので他人との「つながり」によって自分の存在を確かめたくなるといった「精神」面について論じているなどとまとめることができる。「行動/精神」といった対比を用いて、二人の論の違いを示す。

 あるいは、伊藤の「できる/できない」は障害のある方が「できる/できない」ことを問題にしており、鷲田は若者や子供が「できる/できない」で悩んでいることを問題にしている、と対比することもできる。論の対象となっている対象者の範囲の違いを示す。

 こうした、対比的な言葉をそれぞれの文章に対応させて比較するのも有効だ。


2025年4月24日木曜日

共に生きる 4 ほんとうの「わたし」とは?

 「自立」をめぐる三つの文章は、最初から読み比べることを意図して並べられている。そこに、読み比べることが適切かどうかが保証されていない文章をぶつけてみる。

 「ちくま評論入門」の「ほんとうの『わたし』とは?」(松村圭一郎)を読み比べる。そういう意識で読んでみると、ただ単独で読むのとは違ったように読めるはずだ。文章を読むという行為は、こちらの姿勢次第でかわる主体的なものなのだ。

 ここで論じられている問題は、自立をめぐる三つの文章とどう「読み比べ」られるだろうか?


 「読み比べ」によって何か考えるためには、まずは共通点が入口となる。どうやって共通点を見つけたらいいか。

 自然とみんなの中に想起されたフレーズは「他者とのつながり・かかわり」という表現だ。

 教科書の三つの文章を読んだ後の頭で「ほんとうの~」を読めば「他者とのつながり」(=ネットワーク)という表現がアンテナに引っかかるはずだ。


 ではそれぞれの文章のテーマ(モチーフ)を一単語で言うと?

 「真の自立とは」は、そのまま「自立」がテーマ。

 「自立と市場」を「市場」がテーマだということはできない。「市場とは?」という問いを掲げているわけではないのだ。言うならば、「市場」が「自立」に果たす役割とは? といったところだろうか。

 さらに「共鳴し引き出される力」は「能力」がテーマだ。「能力とは?」が問われている。

 同様に「ほんとうの「わたし」とは?」では「わたし」がテーマなのだと言える。「ほんとうの『わたし』とは?」と「真の自立とは」という題名は同じ構文ではないか!

 「自立」と「能力」と「わたし」が、どのような意味で同一視できるのか?


 ここに「他者とのつながり」を使えば「自立」「能力」「わたし」がそれぞれ説明できる。

 共通性を示すためには、それぞれを同じ文型で表現してみる。

 「真の自立とは」では「真の自立とは相互依存ができることだ」というのが、その主旨の最もシンプルな表現だった。「相互依存ができる」とは「他者とのつながりがある」ことそのものだ。また「市場」とは、多くの他者と緩いつながりができる場だ。

 「能力」は「他者とのつながり」によって「引き出される」。

 「わたし」は「他者とのつながり」によってできあがっている。


 「自立」「能力」「わたし」が主語となる文を共通して作れることはわかったが、では「自立」「能力」「わたし」の三つは、そもそもどういう関係にあるか?


 ここでは、共通する述語の部分を反転させて対比をとる。「他者とのつながりがある」の反対は「ない」だ。つまり「個人は独立している」というテーゼだ。完結した個人、というイメージ。

 すなわち、「能力」は完結した個人に属するのであり、そうした「能力」を持つ者こそ「自立」できる。「わたし」のアイデンティティは完結した個人としてイメージされるが、それは例えばある「能力」を持った者、という形で把握される。私は料理ができる、サッカーが上手い…。

 こうしたイメージを反転したのがこれら4つの文章だ。


 もう一つ、共通点といえば「ほんとうの~」の文中に「引き出される」という言葉が傍点付きで登場する。当然「共鳴し引き出される力」が連想される。

 この連想は有効か?


 直ちに同じことを言っていると断言することはできない。何が「引き出される」かが違う。

 「共鳴し~」では、そのまま「力」だ。能力が「引き出される」のだ。

 「ほんとうの~」では「わたし」が「引き出される」。

 引き出される対象は同一ではない。だがそれらを重ねていくことはできる。

 「能力」は「わたし」を構成する一要素であり、それは「わたし」の中に完結するものではなく、他者とのつながりの中で形成されるものだ。

 個人として優れたサッカープレーヤーでなくとも、自分のいるチームがチームとして強ければ(別に強くなくても楽しければ)、その一員としての「わたし」のアイデンティティは成立する。伊藤亜紗が提示しているのはそうした「能力」であり、松村圭一郎はそうした「わたし」を「分人」というイメージで語っているのである。


2025年4月20日日曜日

共に生きる 3 自立と市場

  読み比べのもう一つは、教科書では二つ目に収録されている「自立と市場」(松井彰彦)だ。

 「自立/依存」をめぐる論旨と「市場」は、何の関係があるか?


 端的には、自立に有益な依存先のとして市場が挙げられている、と捉えられればいい(こういう言い方がすぐにできるのが、国語力の高い人だ)。

 さてそのように捉えられる市場の特質は文中でどう言われているか?

 2点に分けて挙げる。

 文章の中ではこの「2点」は文脈に埋もれてしまって目立ちにくい。あえて二つの要素を分離する。

 ここで述べられている市場の特質とは次の2点。

  • 選択肢が多いこと
  • つながりが緩いこと(文中では「しがらみがない」)

 これらが市場の特質だというのだが、それぞれ対比をとるなら

  • 少ない/多い
  • きつい/ゆるい

 の左辺が、自立にとって好ましからざる性質であるということだ。

 そうした性質をもっているのは何か? すなわち、「市場」と対比されるのは何か?


 文中に適切な言葉はない。

 文中では対比的な位置に「命綱」という言葉がある。

太いが切れたら終わる一本の命綱に頼っていた生活から、緩いつながりで形成された支援の市場の網の目に支えられる生活となる

 確かにここでは「命綱」と「市場」が構文上、対比されているが、「命綱」は比喩だ。「市場」という言葉と、概念の階層が揃っていない。

 例えば「命綱よりも市場の方が自立の助けになることがある」という文は、何を言っているか、よくわからない。これは「命綱」が「市場」と対立的な概念として揃っていないことを表わす。


 「市場」と対比される側に、二つの例が挙げられている。何か?


 文中で語られる例は、前半の「熊谷さん親子」と、中盤の「小十郎と商人」だ。これらを括って一般的に言える言い方を考えよう。

 対比をとるには、概念レベルを揃えることが大切だ。

 「親子/市場」「小十郎と商人/市場」は対比的だが、それらをまとめて、「市場」と釣り合う言葉で表そう。

 ということで「個人的な関係」あたりがいいだろうか。「個人的な関係」という表現は、抽象度を一段上げた概念を表わしていて、「親子」も「小十郎と商人」もその具体例だ。

  • 個人的な関係/市場
  • 選択肢が少ない/多い
  • 結びつきがきつい/ゆるい

 この対比を前の二つの文章の対比と結びつけてみよう。

 「リーダー/フォロワー」の左辺が否定的であることと、上記の対比の左辺が否定的であることはどのように並べられるか?

 「リーダー/フォロワー」の左辺の否定的側面は「社会・組織のもろさ」だった。「自立と市場」ではまず何が問題になっているかを適切な言葉で考える必要がある。

 熊谷さんと小十郎の何が問題か?

 「生活」くらいの言葉がちょうどいい。

 さて、うまく並ぶか?


 左辺に共通しているのは、依存先が少ないことだ。リーダーが強い集団は、それだけリーダーへの依存が強くなる。

 すると、「組織」も「生活」も「もろくなる」。依存先に不都合が起こったら、あるいは関係が悪化したら、組織も生活も存続が危うくなる。


 もう一つ、「予防/予備」もこの文章の例とうまくむすびつく。どちらか?

 もちろん「なめとこ山」よりも熊谷さん親子だ。

 どう結びつける?


 熊谷さんの母親は、もちろん息子の自立を目指して厳しい教育をした。だが現実的な限界もあって、時には熊谷さんのチャレンジの機会は制限されただろう。心ならずもリスクに対する「予防」をしたのだ。

 それに対して、上京した熊谷さんは多くの支援者を得た。これこそ、自立を助ける「予備」のネットワークだ。


 つながりが強い・きついと過度の「依存」に陥る。多くの「依存」先とゆるくつながっている状態が安定した相互依存を可能にする。

 つまり「市場」は、ある時には「自立」の助けになるのである。


2025年4月17日木曜日

共に生きる 2 共鳴し引き出される力

  「共鳴し引き出される力」(伊藤亜紗)には「自立」という言葉は出てこない。だがその主張は上の二つの文章と濃厚に重なっているように思える。

 この文章の主張をまとめ、それと「自立」というテーマの関わりを示そう。


 この文章にも「できる/できない」「ネットワーク」がキーワードとして登場する。そこにもう一つ、この文章独自の論点を表わすキーワードを加えて、それらを使ってこの文章の論旨を語ってみよう。

 どこのクラスでも共通して挙げられたのは「能力」という言葉だ。これは題名の「引き出される」のことだろうという見当はつくし、「できる/できない」との関わりも明らかだ。

 これらのキーワードを使って本文の趣旨を語り下ろす。


 「能力」は普通は個人に属するものだと考えられている。だが、他人との「共鳴」の中で引き出される力を、あらためてその人の「能力」と言ってしまってもいいのではないか。

 つまり独りで「できない」のなら他人との「ネットワーク」の中でできるようになってしまえばいいのだ。

 そのような新たな「能力」観を提示しているのがこの文章だ。


 ところで文中には「予防/予備」という対比も登場する。

 では「予防/予備」という対比を使って語られているのは?


 「能力」を「個人に属するもの」と考えるのが「予防」思想だ。その人が「できない」なら、困らないよう守らなきゃ、と考える。障害を「防ぐ」思想になる。

 だが「能力」を「ネットワークに属するもの」と考えるのなら、そのネットワークによって失敗に「備える」ことが重要なのだ。ネットワークは失敗への「備え」だ。

 したがって、この対比は、能力観をめぐる「個人/ネットワーク」という対比に対応しているということになる。


 これを「真の自立とは」の「リーダー/フォロワー」の対比とつなげて考えてみよう。

 まず、鷲田が「リーダー/フォロワー」という対比を用いて語ろうとしていることと、伊藤が「予防/予備」という対比を用いて語ろうとしていることが、とても似ている、という感触を、自分の中で確かめてみよう。

 両者はどんなふうに「似ている」か?


 「リーダー/フォロワー」の対比は「大事なのは予防ではなく予備だ」と同じく「大事なのはリーダーシップではなくフォロワーシップだ」と表現される対立的対比だ。この形で並べるときには、右辺を肯定的に取り上げるために、左辺が対比的に否定される。

 対比の左辺、「予防」と「リーダー」を直接結びつけることは難しい。だが右辺の方が容易だ。両者の共通性はどう表現できるか?

 右辺の共通性が語れたら、左辺がどのような意味で否定されるのかを本文から確認しておこう。「予防」「リーダーシップ」はどうして否定されるか?

 最後にそうした左辺の問題に潜む共通性を語る。


 本文では「失敗を未然に防ぐよりも失敗が起きたときにそれをネットワークの中で解決できるように備えておくこと。」の後に「予防ではなく予備」と言っている。単なる言い換えだということはわかる。

 「予備」とは、まさしく何かあったときにみんな(ネットワーク)で「フォロー」するというリスク管理のあり方だ。

 鷲田が重要視する「フォロワーシップ」もネットワークのことだ。

 両者は同じ主張をしている。


 さて「予防」が否定的に語られるのはなぜか?

 直前の「そうした忖度(=予防)が結局、当事者の自由やチャレンジする機会を奪い、ますます無力にしていく」に「から」をつけるだけでいい。

 一方「リーダーシップ」が否定的なのは?

 文中には「もろい」という否定的な形容が使われている。

 この「予防」「リーダーシップ」両者の否定的側面を直接繋ぐことは難しい。どのクラスの発表を聞いても、適切で自然な説明がすぐに提示されることはほとんどない。

 なぜか?

 

 人称が違うからだ。

 各クラスで発表を聞いていても、しばしばひっかかるのは、「リーダー/フォロワー」が直接の主語になりすぎることだ。

 「リーダー/フォロワー」で語られる趣旨の主語は前項で確認したとおり「社会組織・集団」だ。

 「予防/予備」の対比は、個人的な関係において語られているから、その人称の違いを意識して並べないと「リーダーが成長できない」などといった微妙にずれた表現が相次ぐことになる。


 人称を意識して、両者を繋ぐ。

予防によって危険を避けることは、当事者をますます無力にする。
リーダーシップが重視される社会・組織は、リーダーへの依存が高まってもろくなる。

 これで二つの対比の左辺を繋ぐことができた。

 ここからさらにもう一つの「自立と市場」を参照して、この問題を再考する。


2025年4月14日月曜日

共に生きる 1 真の自立とは

  我々が使用する東京書籍「現代の国語」教科書の読解編4「共に生きる」という単元には三つの文章が並べられている。

 「単元」?

 授業の流れのあるまとまりを「単元」と言う。教科書は三つくらいの文章をひとまとめにして一つの単元として編集されている。

 この単元は「共に生きる」というテーマの共通性によって括られているのだが、実はこの単元はそれ以外に明らかな企図がある。

 文章の読み比べだ。


 授業で評論を読むときには、ほとんどの場合、複数の文章を読み比べる。

 最初の「授業を始めるにあたって」で、教材の文章を理解することは授業の最終的な目的ではないと述べた。とはいえ、理解しようと思って読むべきではある。だが「理解しようと思って読む」というのが、何をすれば良いのかは、実はわかったようでわからない。

 そこで何かしらの課題を投げる。問いをかける。

 それに答えようとすると、その前提として理解せざるをえないように課題を設定するのだ。「理解する」を最終目標ではなく、途中経過に置く。

 その課題の一つとして、文章の読み比べを設定する。

 比べることは人間の頭の働きの基本的な形式だ。

 それそれであることは、それ以外のものとそれを比べることによってしか認識することができない(意識的にであれ無意識的にであれ)。

 単に一つの文章を「理解する」のではなく、複数の文章を読み比べると、読み比べることによってその文章を明晰に読むことができる。

 

 読み比べる時には、まず共通点を探す。

 違う文章は違うことを言っているに決まっているので、まずは比べるために共通の土俵を用意する。共通点がなければ比べることはできない。

 この単元の三つの文章は読み比べるために設定されているので、共通点が比較的容易に意識できる。それは何かと聞きたいところだが、教科書で既に解説されている。

 しかし敢えて訊く。20字以内くらいの簡潔な一文で言え。


 これもまあ教科書に書いてはある。三つの文章に共通した主旨は例えば次のように表現できる。

自立とは相互に依存することだ。

 文章が書かれるには、書かれるべき動機があるはずだ。文章は通常、そのことを知らない人か、そのことに反対する人に向けて書かれる。知らない人がいない、反対する人がいないことを文章に書く必要はない。だから文章の主旨は、潜在的にであれそれに反する主旨に対立するように書かれている。それを意識すると、その文章の主旨は明確になる。

 これは、どのような主張に反しているか?

 実は教科書では丁寧に、これがどのような通説に反しているかも解説している。通常「自立」とは「依存しないこと」という意味だが、それを敢えて逆転させて「依存すること」と言っているのだ。

 そこで、上記を「~ではなく~」という文型で言ってみる。

自立とは依存しないことではなく、相互に依存することだ。

 このように、本文の主張がどのような見解に対する反論なのかを意識することは、上の「読み比べ」同様、比べることの重要性そのものである。


 さて、共通点が既に指摘されてしまっているので、あとはそれぞれの文章独自の論旨・論理展開を概観しよう。



 三つの文章は共通して「自立とは相互に依存することだ」という論旨を語っている。

 ではそれぞれの文章は、どのようなモチーフ、どのようなキーワード、どのような観点から、そうした主旨を述べているか?


 ここでも「比べる」ことを意識する。文中に登場する対比を手がかりに使う。

 評論における対比の重要性は、上の「読み比べ」の有効性と同じ原理だ。それが何であるかは、それ以外のものとの比較でしか捉えられない。

 最も重要な対比は言うまでもなく「自立/依存」だ。「自立」について語ろうと思ったら「依存」との対比において語るのは必然なのだ。それは既に上の「共通した論旨」で語られている。

 あと二つ、と言えばすぐに見つかる。

できる/できない

リーダー/フォロワー

 これらの対比を使って、上の主旨を語ってみよう。


 まず「できる/できない」。

 自立とは通常、独りで「できる」ことだと見なされる。「できない」のなら依存するしかない。

 だが必ずしも独りで「できる」必要などないのだ。独りで「できない」のなら誰かと協力して、相互に依存しながら「できる」ようにすればいい。それが「自立とは相互に依存できること」なのだ。


 「リーダー/フォロワー」の方がやや難しい。

 いくつかのクラスでは「リーダーとフォロワーが互いに依存しあって『できる』ようになればいいのだ」といった言い方で説明する発表が相次いだ。

 まちがってはいない。だがこの言い方では「リーダー/フォロワー」という対比がどうして措定される必要があるのかわからない。リーダーかフォロワーかに限らず誰でも、互いに依存しあうのが良いのだから。

 ここは例えばこんな風に言ってみる。

 リーダーシップが大切だと世間では言われている。だが本当に大切なのはフォロワーシップだ。フォロワーは「依存」する存在ではなく、相互に助け合う役割をもっているのだ。

 このように「普通は~だと考えられているが」とか「~ではなく」といった言い方こそ、繰り返し言っている通り、比べることで意味が明確になる、の実例だ。


 ところでこれは誰の「自立」のことを言っているのか?

 「リーダー/フォロワー」という対比が示すことがらが捉えにくいのは、それが誰の「自立」のことを言っているのかがわからないからだ。リーダーが自立するのか? フォロワーが自立するのか?

 どちらでもない。

 これは本文から一語、という指定をすると「社会」という言葉が飛び交った。

 ことは個人の自立にとどまらず、「社会」の問題なのだ。


2025年3月31日月曜日

特別講座Ⅱ 更新終了

  本ブログの更新を終了する。

 前項の後は「特別講座」で「舞姫」と「檸檬」の読み比べをした。ほんのちょっとだけ「羅生門」との読み比べに言及したクラスもある。これらについても、過去に文章化したものはある。→https://gendaibunkyousitu.blogspot.com/

 だがこれを今年度版に書き直して更新することに費やす時間は、もうそれらの授業が終わって3ヶ月以上経ってしまった今となっては、ちょっと虚しい気もしている。


 それよりも書き残しておきたいのは、年明けにやった特別講座Ⅱだ。クラス単位で展開した、センター試験の小説問題の読解もそれなりに楽しかったが、その後、選択者対象に開講したⅡは得がたい経験だった。

 共通テスト直前の4日間、毎日2時限通しだから、計8時限分―2単位では1ヶ月あまりにあたる―授業時間を、わずか4日間で駆け抜けたのだった。「こころ」や「舞姫」は、10月から年末までで17~8時限で展開したから、その半分ほどの授業時間だ。それが4日間。結構な手応えだ。

 基本は毎日2時限で完結しつつ、ゆるやかに前日の内容も参照する、といった展開だった。以下、詳細な考察は割愛するが、概要を記しておく。


1日目

  1. プラスチック膜を破って(梨木香歩)
  2. 異なり記念日(齋藤陽道)
  3. 未来をつくる言葉(ドミニク・チェン)
  4. ある〈共生〉の経験から(石原吉郎)

 年末の紅白における星野源の「ばらばら」に絡めて予告した「分断と多様性、そして共生」を通底するテーマとして読み進んだ。1,2は心震えるエッセイとして是非読んでもらいたかったので、ここで取り上げられて良かった。

 2年時に読んだ「未来をつくる言葉」もこのテーマの中で再考した。


2日目

  1. バイリンガリズムの政治学(今福龍太)
  2. ファンタジー・ワールドの誕生(今福龍太)
  3. ピジンという生き方(菅啓次郎)

 今福龍太は唯一「文学国語」「論理国語」両方に文章が収録されている文化人類学者。ここでは異文化との「共生」がモチーフになっていて、前日のテーマを継承しているともいえる。

 2は「観光」がテーマだったが、そうしたテーマの文章が3日後の共通テストの大問1でも扱われたので、受講者は問題文の主題を把握しやすかったと思う。新聞で問題を見て内心、快哉を叫んだ。


3日目

  1. ファッションの現象学(河野哲也)
  2. 広告の形而上学(岩井克人)
  3. 過剰性と稀少性(佐伯啓思)
  4. 贅沢のススメ(國分功一郎)
  5. 貨幣共同体(岩井克人)

 2は1年時の「現代の国語」収録の文章。4は「ちくま評論選」収録の文章で、「論理国語」の「暇と退屈の倫理学」(パンとバラの話の)と同じ書籍の中の文章。

 1、2日目とは何人かメンバーが入れ替わっての3日目。2時間で5本の評論を読むのはかなりきつい。さらに「他者の欲望を模倣する」(若林幹夫)なども話題に上がった。

 「広告の形而上学」は1年の時に、授業数に余裕のあった3クラスでのみ読んだ。講座の受講者には、読んだ覚えのあるという人も多かった。これと1を読み比べる。

 とりあえず「ファッション」と「広告」が対応していることがわかる。その共通性を捉える。

 それだけではなく、2では「広告」と「貨幣」と「言語」が共通の論理で括られているので、それをガイドに「ファッション」まで通観する。言語を扱うとなれば昨年度の言語論の考察が活かされるはずだし、毎度毎度のスキーマとゲシュタルトも繋がってくる。

 それら四つのモチーフは、象徴性・虚構性・恣意性などといった言葉で繋げられる。そこから3の「過剰性」につなぎ、「過剰」から4の「贅沢」に繋げる。

 5も、単独で読むには難しい文章だが、ここまでくればもう、その論理を捉えることも可能になっている。


4日目

  1. トリアージ社会(船木亨)
  2. ビッグデータ時代の「生」の技法(柴田邦臣)
  3. 何のための「自由」か(仲正昌樹)

 3日目の「貨幣共同体」の考察は時間不足で、ちょっと惜しい気もしたので、4日目の最初に、論旨を思い出して話し合う時間をとった。ただし「貨幣」を「言語」に置き換えて、文章の論旨を再展開するという条件を課した。こうして、考え方を型として把握すると、スキーマとして次の読解や考察に向かう武器となるはずだ。

 さて4日目、最終日は共通テストの前日。3日目の5本に比べると少ないが、この3本はそれぞれに読みにくさもひとしおで、2時間という制約は本当にキツかった。

 それでも、この3本を併せて読むという企画は、現代社会を考える上で重要な視点を与えてくれる、実に手応えのある比較読みだった。レギュラーの授業の方で、もっと時間をとってやりたかったと、本当に残念に思われた。

 我々の社会が、どのような機制に拠って成り立っているか、そしてそれがいかに我々の気づかぬうちに我々の「生」を規制しているか。「自由」のあり方を変えているか。

 そしてそれはみんなにとって実におなじみのあの校是「自主自律」にも深く関わることでもある。我々の「主体性」や自律という感覚が幻想かも知れないという近年あちこちで見られる主題については、小坂井敏晶の文章などでも触れてきた。


 せわしなく、あっという間に過ぎて、それでいて長い時間を過ごしたような、凝縮された議論の展開する、実に充実した4日間だった。

 参加してくれたメンバーに感謝します。

 これをこの次の新入生たちの授業にどう活かすかは、私の今後の課題です。

2025年3月4日火曜日

舞姫 32 比較読解「こころ」6 無作為の悲劇

 さて、先ほどのEの対応から見えてくる物語把握として、「不作為による悲劇」という表現を提示したが、さらに②の役割に照明を当てて、もう一つ「無作為による悲劇」という表現を提示したい。

 なんのことか?


 ここには、②「奥さん―相沢」という対応から導かれる、さらにもうちょっと興味深い考察の可能性がある。

 「不作為」は「私」と豊太郎が、重要な事実や意志を「言わなかった」ことを指している。そして主人公を「不作為」に追いやるのは、主人公達の弱さのみならず、奥さんと相沢の「無作為」の介入だ。

 なんのことか?

 「私」と豊太郎は、「不作為=言わない」ことを選択したわけではなく、常にどうしようどうしようと先送りしていただけだ。豊太郎は「帰ってエリスに何と言おう」と思って帰り着いた途端、意識を失って、気づいたときにはエリスは廃人となっている。「私」が、とりあえず明日どうするか決めようと思った夜にKが死んでしまう。

 そして主人公が明かさなければならないと思っていた秘密を、③の二人に告げてしまうのが②奥さんと相沢だ。

 二人の行為は、殊更に「作為」のあるようなものではない(ように見える)。二人はKとエリスがそのことを既に知っていると思っているからだ。奥さんはKに伝えたことを「私」に話したときに「道理で私が話したら変な顔をしていましたよ」と言っている。これはKがその件を知らなかったことを、その時に知った、という意味だ。Kの「変な顔」を見てはじめて、Kがまだ知らなかったのかと意外に思った、という意味なのだから。

 二人は相手が当然知っているはずという前提で、その事実を告げる。つまり二人の行為は「無作為」であるはずだ。二つの物語は、②の「無作為」の介入によって①が「不作為」になるほかない事態によって③の陥る悲劇を描いているのだと言える。

 そうしてみると、奥さんと相沢はギリシャ悲劇における「不条理な運命」の象徴のようだとも言える。悲劇はある時に突然訪れ、そのことは、それが起こってしまった後で人はもう取り返しがつかない結末を知るしかない。そこには人為的なはたらきはない。

 「無作為の悲劇」とはそのような様相を捉えた表現だ。


 だが、近代小説としての仕掛けはそれだけにとどまらない裏読みの可能性をほのめかしている。

 奥さんと相沢の介入は本当に「無作為」なのだろうか?


 無作為というのは、②(奥さんと相沢)が③(Kとエリス)に告げたことについて、③がまだ知らないということを②が知らない(③は既に知っていると②は思っている)ことを意味している。

 だがそうか?

 奥さんについては、明らかにそうではない。「私」がまだ婚約成立のことをKに話していないことを、奥さんはほとんど確信しているはずだ。

 めでたく婚約は成立したが「私」はなかなかこの事実をこの共同体の中で公認のものとしない。こうした状態に対して〈奥さんの調子や、お嬢さんの態度が、始終私を突ッつくように刺戟する〉。つまり婚約の件を早くKに話すよう促している。

 だがその話題は一向に夕飯の席にのらない。奥さんは、いかなる理由によってか、「私」がそのことをKに言わないでいるらしいことを充分察している。

 一向に進展しない予想外の事態に、奥さんは焦っている。よくわからない男二人の関係が、娘に暗雲をもたらすのではないかと不安に駆られている。

 だから、いっそのこと自分でKに伝えてしまおうと思い立つ。

 だがもちろん、「私」が言わずにいることを自分がKに伝えてしまうのは、なんらかの不都合があるかもしれない。責められるかもしれない。だから、「私」が友人であるKに話すのは当然であるという建前から、自分の暴露が「無作為」であったふうを装って「私」に話しているのだ。

 先述の「道理で」というのは、奥さんはKの反応を意外に思い、まだ聞いていなかったということなのだろうかと解釈し、それを「私」に確かめたところ確かに「私」がまだ話していないことを確認して「道理で」と言ったのだ、とも解釈できる。本当に「無作為」だったのだ。

 だがそれよりも、上記のような推論の蓋然性の方がずっと腑に落ちる。奥さんの「道理で」は演技、もっと言えば嘘なのだ。


 一方相沢についても、豊太郎がエリスに帰国のことを話せないでいることは察していたと考える方が自然だ。相沢は、豊太郎とエリスの関係がまだ続いていたことを知っている。人事不省の豊太郎を見舞うためにエリスの家を訪れることができるのだから。

 そして、豊太郎がエリスに帰国の意志、またそのことについての大臣との口約束を伝えていないことは、あるいは長い付き合いである豊太郎の性格から、あるいは訪問した際のエリスの態度から、充分察せられただろうことは想像に難くない。

 にもかかわらず、相沢は「既に話は豊太郎からきいているはずだが」という前置きとともに、もはや既定事実として豊太郎の帰国をエリスに伝えたに違いない。そうした態度をとることによって豊太郎とエリスの破局を決定的なものにしたいのだから。


 二人はなぜ「無作為」に見える暴露をするのか?

 ①の二人が伝えないでいることを自分が伝えてしまうことで、後で責められることを回避したい、という明らかな動機だけではない。そこにはおそらく二人の利己的な動機がある。

 奥さん=母親からしてみると、娘の結婚相手は、実家から離縁されて金のないKより遺産を相続して金に困らない「私」の方が良いに違いない。娘もそのつもりであることはとうに確認済みだ。

 なのに婚約の事実は一向に公認の話題とならない。奥さんは不安を抱いている。そもそも下宿にKを招くことにも反対したのは、娘に対して男が二人というのがトラブルを引き起こす可能性について懸念したからだ。奥さんの暴露は、不安の解消のためでもある。何やらためらっている「私」を出し抜いて、Kに婚約のことを告げてしまう奥さんに、どうやらこちらも娘に気があるらしいKへの牽制として、婚約を公然のものとすることで事態を安定化しようという意図があったのだと読むことは充分可能である。

 だが娘の相手にふさわしいのはどちらかという選択に、経済的な事情が考慮されていると考えるのは無理なことではない。

 それをことさらに「利己的」などと言って奥さんを糾弾する必要はないが、少なくとも、奥さんが自分に都合の良いように、かつ自らの責任を追及されるおそれのないようにふるまっていたと考えることは十分に可能だ。

 一方、相沢にとって豊太郎は友人ではあるが、日本に連れて帰れば、自分にとって「使える」人材になることは間違いない。語学に優れ、ドイツの事情に通じ、なおかつ一旦は官職を罷免された身として、その後、仕事の世話や帰国にあたって便宜を図った自分に恩を感じるべき立場にいる豊太郎は、相沢のその先の日本での活動にとって、便利な存在になるはずである。

 とすれば、病気に言寄せて豊太郎を見舞った折に、状況を把握するとともに事態をのっぴきならない方向に向かって押し遣った相沢に利己的な動機があったのではないかと考えることは十分できる。

 この推測は、「舞姫」末尾の一文の解釈にも新しい光を投げかける。末尾に記された「彼(相沢)を憎む心」は、読者にとっては不可解だ。自らを罪人と認めていた豊太郎が、なぜ最後に唐突に相沢を憎む心情を吐露するのか。

 それは相沢の隠れた利己的動機について、豊太郎が気づいていたことの表れではないかと考えるのは穿ち過ぎだろうか?


 二人の行為はその「無作為」に疑いの余地がある。「無作為」に見えるような巧妙な隠蔽を図る「作為」のあったという疑いが。

 二つの物語はそう読むことが可能な、近代小説としての深みを備えている。


舞姫 31 比較読解「こころ」5 不作為の悲劇

  さてここまでは考えるための準備運動だ。本当に検討したいのは、次のEの対応である。比較のために前回のDの対応も再掲する。

 ① 先生 ―豊太郎

 ②お嬢さん―相沢

 ③  K ―エリス

 ① 先生 ―豊太郎

 ② 奥さん―相沢

 ③  K ―エリス

 Eの対応はどのような作品把握を表しているか。

 ①と③はDと同じ。①の語り手と③の悲劇の犠牲者が同じであることから、これもまた物語の骨格を捉えうる十分な必然性がある。

 ところが②の相沢に対応する人物が「お嬢さん」から「奥さん」に変わることで、物語の把握はまるで違ったものになる。

 「お嬢さん―相沢」という対応を想定するDの把握を〈選択による悲劇(選択されなかった者の悲劇・排除される者の悲劇)〉とでも名付けるとすると、「奥さん―相沢」という対応を想定するEの把握はどのように捉えられるだろうか。「~による悲劇」という形にあてはまるように表現してみよう。

 みんなからは「すれ違いによる悲劇」「コミュニケーション不全による悲劇」などの表現が挙がった。

 悪くない。前回の考察によれば、二つの物語の悲劇はそのように表現していい。

 だがこれだけでは②の役割の共通性が不明確だ。


 ここからは少々もってまわった迂回路をたどった。

 「さくい」という言葉を漢字にしてみよう。ただちに「作為」が想起されれば良いが、「さくい」というのは「わざわざする=意図する」ことだから「作意」という漢字が想起されてもいい。実際に「作意」という言葉はある。「作品の創作意図」という意味だが、辞書には「たくらみ」ともあるから、これは随分「作為」に近い。

 次に「さくい的」と書くのは? と訊いた。

 これは「作為的」しかない。

 さてこの「作為」に否定の接頭辞を付す。

 ただちに想起されるのは「無作為」だが、「不作為」という言葉もある。

 この二つの言葉はそれぞれどういう意味か? 辞書を引かずにこの二つの言葉の違いを言い分けてみよう。

 …というところまで話が及んだら、G組で突如異様な反応が起こり、何事かと聞くと、日本史で話題になった言葉なのだそうだ。「想像の共同体」といい、今年は妙に日本史とシンクロする。

 話題になったのは「不作為」の方だという。「無作為」に比べ、「不作為」という言葉が使われる機会は少ない。だからこそ、わざわざ授業で紹介されたのだろう。

 「不作為」とは、すべき行為をしないことを意味し、法律用語として使われることが多い。そのままでは死ぬかも知れない怪我人・病人を放置して死に至らしめたら、その可能性の認識によって「未必の故意」を認定されれば「不作為犯」として罪に問われる可能性がある。作為について責任が明確な場合は直ちに不作為犯が成立するから、育児放棄=ネグレクトによる乳幼児の死亡は直ちに罪に問われる。

 授業で取り上げられたのは、公害やいじめ、その他の社会問題で、これらは、みんなが知っているのに、誰もそのことを言わずにいるから解決に向かわずに事態の悪化を招く。それを「不作為の問題」というのだそうだ。


 さて、授業者がこの言葉をとりあげたいのは、「こころ」と「舞姫」、二つの物語を「不作為による悲劇」と表現しようと思ったからだ。

 Kとエリスの悲劇は、「私」と豊太郎の、〈選択〉という〈作為〉によって生じたものではなく、むしろ〈選択〉しなかった〈不作為〉によって生じている。その〈不作為〉とは、具体的には両者が「言わない」ということだ。

 この〈不作為〉こそ、二つの物語の悲劇の決定的な引き金になっている。「私」が言っていればKは死なず、豊太郎が話していればエリスは発狂していない。

 そして①主人公が〈作為〉に至る前にその可能性を断ち切ってしまう役割を担うという点で②の奥さんと相沢が対応する。


 もし「私」がKに、自分もお嬢さんが好きなのだと言っていれば、あるいはお嬢さんとの婚約について、その経緯もふくめて告白していればどうなったか?

 Kがなぜ自殺をしたかという問題は、簡単に説明することが難しいのでここでは詳述しない。

 端的に言って、Kはお嬢さんを失ったり、それが友人に奪われてしまったりしたから「淋しくって仕方がなくなった」のではなく、意思疎通の断絶による孤独を自覚したときに、〈覚悟〉していた自己処決を実行に移すのである。

 とすれば、「私」がKに自らの行為を告白することは、裏切りに対する謝罪という意味合いにおいてではなく、Kを独りにしないという意味で、この悲劇を回避する決定的な手段であったはずなのだ。

 つまり「私」は、「裏切り」によってではなく、自らの心の裡を語らなかったことによって、Kを死に追いやったのだ。


 一方「舞姫」では、確かに豊太郎は、エリスとの生活と帰国を選択肢として意識している。だが、そうした選択肢に対して自らどちらかを選ぶという決断をすることはない。豊太郎はただ目の前にいる者に恭順しているだけだ。

 だから、決定的な悲劇の起こる直前にエリスに対して事の次第を問い質されていれば、エリスの涙や懇願や恨み言を前にして、豊太郎があくまで帰国を選び通すことはできまい。

 あるいは仮に、万が一、豊太郎が帰国を選んだとしても、それを直接エリスに告げていれば、実は発狂という最悪の事態は避けられたはずだ。エリスが叫んだ「わが豊太郎ぬし、かくまでに我をば欺きたまひしか。」には、ただ豊太郎に選択されなかった悲しみよりも、それを自分に黙っていた豊太郎の裏切りこそが衝撃であったことが示されている。豊太郎の告白があれば、二人の話し合いは言わば、ありきたりな愁嘆場、健全な痴話喧嘩とでもいったやりとりになって、最悪の悲劇には至らなかっただろうと想像される。

 とすれば、ここでもやはり選択という〈作為〉ではなく、自分自身で選択をしなかった(言わなかった)という〈不作為〉こそが悲劇を招いているのである。


 「舞姫」の結末は、前に述べたとおり、発狂したエリスを置いて帰国するという、ある意味でバランスを欠いた奇妙な悲劇に終わる。このような展開にする必然性が読者にはわからない。小説が全体として豊太郎という人物の非倫理的な行為を道徳的に批難しているようには見えないからだ。

 だが上のように考えると、エリスの発狂は豊太郎を日本に帰すことを結末とする限り、やむをえない展開だったと言える。豊太郎には主体的な選択がなく、その帰郷をめぐって相沢とエリスが対立した場合、豊太郎に対する執着において、相沢がエリスに勝るとは思えない。

 鷗外には豊太郎をこのような性格の人物に設定し、かつ日本に帰す結末を描く必然性があった(事実鷗外が帰国しているのだから)。そのように物語を描くには、エリスを発狂させるしかなかったのだ。


舞姫 30 比較読解「こころ」4 ≠選択の悲劇

 「こころ」と「舞姫」において、確かに主人公の二人はある選択の前に葛藤している。そして悲劇的な結末に心を痛め、罪悪感と後悔に苛まれる。

 にもかかわらずこれらの物語を、主人公のエゴによる選択の悲劇として捉えることは不適切だと言える。なぜか?


 「舞姫」におけるエリスの発狂は、エリスの主観からすれば、選択されなかった絶望であるとも言えるのだが、物語の展開としてはむしろ、エリスは発狂したから選択されなかったのだと言える。豊太郎はその時、選択しなかった。意識を失っていたのだ。

 エリスと相沢の邂逅に豊太郎が立ち会って、その場で二人が選択を迫ったら、と考えるのは恐ろしい仮定だ。読者は、豊太郎がエリスを棄てる言明をする想像ができない。エリスが面と向かって豊太郎の非を責めるならば、豊太郎がそれに抗い続けることはできないだろう。お腹に赤ん坊がいればなおさらだ。

 つまり「舞姫」における悲劇は単に、豊太郎の〈エゴイズムによる選択〉によるものではないのだ。


 一方「こころ」についてはどうか。

 K自身にとっての自殺の動機は、エリスの発狂とはまるで性質を異にする。Kは選択の敗者になったから自殺したのではない。Kはあくまで自分の問題として自己処決を実行している。「私」がそのことを理解していないだけだ。

 さらに「私」が選択しようとしているのはKかお嬢さんかではない。

 通常はこの選択肢は「友情/愛情」の対立として捉えられる。さらに気が利いていると「倫理観/エゴイズム」などとも言われる。

 だが実際に小説を読んでみると、「私」がKとお嬢さんを選択の秤にかける逡巡を具体的に指摘できる箇所は、本文中からは見つからない。

 「私」は一度としてKを選ぶかどうかに迷ったりはしていない。「愛情と友情の選択」などという物語把握がそもそも錯覚なのだ。

 では「私」はどのような選択の前で葛藤しているか?


 物語の進行につれて葛藤の様相は変化する。下宿に住み始めてから。Kが居候を始めてから。またKが恋心を自白してから。また奥さんに談判をした後。談判の結果をKが知った後。Kが自殺した後。

 それぞれの局面を詳細に分析するのも興味深いのだが、ここでは割愛するとして、すべての状況下に共通する葛藤は何か?


 「こころ」において「私」が葛藤するのは「言うか言わないか」という選択だ。それぞれの局面では「私」は言おう、言わねばならないと思い続け、だがその実行を先送りする。全編に渡ってそうした葛藤が続く。

 この葛藤が、巷間「友情か愛情か」という選択と同一視されてしまう。隠し立てをせずに「言う」ことが「友情」、策略から「言わない」ことが「愛情」を選択しているかのように誤解される。あるいは正直に「言う」「倫理」と、利己的動機から「言わない」「エゴイズム」が綱引きしているかのように。

 だがちょっと考えればそうでないことはすぐにわかるはずだ。

 「私」が「言わない」のは自己保身と戦況を有利に運ぼうとする計算によるものだから、それをエゴイズムと呼んでもいいのだが、一方の「言う」べき動機は倫理観によるものではない。実はそれもまた別の利害に基づいたエゴイズムなのだ。

 言わねばならないとしたら、それは友情のためではなく「公明正大」であるという対面を保つためだ。また「私」が最後まで言えないのは友情を選ばなかったということではなく、言うことによる戦況の悪化を怖れ、世間体が傷つくことを怖れたからだ。

 いずれにせよ「愛情」を得る上でどちらが有利かを考えて、その選択に迷っていただけであり、「友情/愛情」=「K/お嬢さん」は最初から選択の天秤に載ってはいない。


 「こころ」と「舞姫」を選択による悲劇と捉えることは間違っている。

 では二つの物語の悲劇はどのようにして起こったのか?


舞姫 29 比較読解「こころ」3 選択の悲劇

 「舞姫」と「こころ」の人物を対応させることによって考察したいのは、実はこれから提示する二つの対応DEがどのような物語把握を意味しているかという問題だ。ここまではその準備運動ともいえる。

  ①  K ―豊太郎

  ② 先生 ―相沢

  ③お嬢さん―エリス

 ①お嬢さん―豊太郎

 ② 先生 ―相沢

 ③  K ―エリス

 BCは、登場人物たちの関係の、あるいは物語中でのふるまいの、ある一面を捉えてはいるが、物語の核心部分を捉えているとは言い難い。それに比べて、次に示すDは二つの物語を全体として捉えた構造を示しうる。

D

 ① 先生 ―豊太郎

 ②お嬢さん―相沢

 ③  K ―エリス

 二つの物語を全体として捉えるには、BよりもCが、さらにDの対応が適切だ。

 なぜか? どこが問題なのか?


 重要なのはCDにおける③「K―エリス」の対応だ。なぜか?

 二つの物語がどんな物語なのかを表現しようとすれば、それは必然的に③の身に起こる悲劇へと収斂することになる。

 だから、それを表現することのできないBよりもCDの方が、物語全体を表現することができる。

 さらにDでは?

 ①の対応も重要だ。①は物語の主人公であり、一人称小説の語り手として、登場人物の中でも特権的な位置にある。その二人を対応させることによって、物語を全体として表現できる可能性は高まる。

 ではなぜ②お嬢さんと相沢が対照されるのか?

 二つの物語はどのように表現されるのか?


 「①と③の間に②が介入することで、その関係が悪化する」などということは可能だ。お嬢さんと相沢はそのような存在として対応している。

 だがこのような言い方ではまだABCの対応によって表現される物語把握とそれほどかわらない。

 Dの把握は、主人公の行為と、その結果としての悲劇を表現しうる点でABCよりも優位だったはずだ。それを表現してみよう。

①が②と③の選択に迷い、②を選んだから、③が死ぬ。

 「こころ」において、先生はKに対する友情と、お嬢さんに対する愛情という選択に悩み、最終的にお嬢さんを選んだために、Kを死に追いやる。

 一方「舞姫」において、豊太郎はエリスとの愛と、相沢に象徴される故郷や栄達との選択に悩み、最終的に後者を選んだためにエリスを狂気に追い込む。

① 先生 ―豊太郎(エゴイズムによる選択)

②お嬢さん―相沢(選択する価値の象徴)

       ↑

      主人公による選択

       ↓

③  K ―エリス(選択されなった悲劇)

 一般的には「こころ」は友情と愛情の選択の物語として、「舞姫」は愛情と栄達の選択の物語として紹介される。世間的には、二つの物語をそのように説明しても不審には思われないはずだ。そして浮上してくるのは、主人公①の選択に見出せる「エゴイズム」という主題だ。

 だが、Dの対応を発想した者は実は必ずしも多くなかった。それはこうした把握が間違っていることが、ここまで授業を受けてきた皆にはわかってしまうからかもしれない。

 上の文には三カ所、不適切な部分がある、どこ? と訊くと、間違い探しだ、と言ってみんなたちまち上の文の問題点を指摘する。

先生がお嬢さんとKの選択に迷い、お嬢さんを選んだから、Kが死ぬ。

豊太郎が相沢とエリスの選択に迷い、相沢を選んだから、エリスが死ぬ(狂う)。

 下線部がそれぞれ不適切だ。「こころ」では、先生の選択はお嬢さんとK(愛情と友情)ではないし、Kは先生がお嬢さんを選んだことで死んだわけではない。

 「舞姫」では、豊太郎は相沢を「選んで」はいない。その場面で豊太郎が意識を失っている間にエリスは廃人になっていたのだ。


 だが一般的には「こころ」や「舞姫」を上のように紹介する言説はありふれているし、それを聞いても、世間の人は不審に思いはしない。

 それは、二つの物語をDのように把握させる強い必然性があるからだ。

 何か?


 二つの物語はいずれも、主人公の語る手記だ。語り手は自分の内面を吐露する。その時どのような心理が読者に強く印象づけられるか?


 一つは主人公の葛藤だ。確かに彼らはある選択の前で迷っている。

 さらにもう一つは、彼らの抱く「罪悪感」「後悔・悔恨」だ。

 「私」はKに黙って自分とお嬢さんとの婚約を画策したことについて、自らを〈卑怯〉〈倫理的に弱点をもっている〉と認識している。そしてKが自殺した翌朝、目を覚ました奥さんに向かって、〈すみません。私が悪かったのです〉と告白してしまう。さらに葬式の後でも〈早くお前が殺したと白状してしまえ〉という〈良心〉の声を聞く。Kの自殺より後の部分は教科書には載っていないことも多いが、自殺の時点で既に「私」の抱く罪悪感は充分に読者にも感得される。

 一方豊太郎は天方伯爵に日本への帰国の意志を問われ、「承りはべり」と答えてしまった自分を〈我は許すべからぬ罪人なり〉と責める。

 そして一人称の語り手による手記という体裁によって、これらはいわば罪の告白=懺悔として読者の前に開陳される。

 「こころ」では「先生」が年下の大学生に対して「暗い人世の影」を伝えようとする。これは自らの犯した罪の告白だ。

 「舞姫」では手記を綴る動機を〈恨み〉によるものだと書き起こす。これは相沢に対するいわゆる「恨み=怨み」ではなく、むしろ自らの行為に対する「悔恨=罪悪感」が述べられていると考えられる。

 つまりDのような把握は、語り手の主観から見た物語構造として適切なのだ。一般的な読解が語り手の主観に沿ったものになるのは、一人称小説の享受として当然のことだ。


舞姫 28 比較読解「こころ」2 人物の関係

 「こころ」と「舞姫」の登場人物を対応させて、物語の骨格を示す。だがAに示した4人を入れ替えて全員を対応させるのは難しい。4人の中から3人を選び、その対応を考えよう。比較のために、どちらかを固定しておくのが良い。「舞姫」の①豊太郎、②相沢、③エリスを固定し、「こころ」の人物を入れ替える。④老媼を登場させるアイデアは今年も出なかった。

 かつて生徒から提出された対応関係のアイデアを紹介する(だがやはり今年も皆の中にこれらを発想した人はいた)。

  ①  K ―豊太郎

  ② 先生 ―相沢

  ③お嬢さん―エリス

 これはどのような物語把握に基づいた対応か?


 こうした対応に基づく物語把握を一文で表す。

・①が③に心惹かれて求めようとするのを②が妨害する

「こころ」

Kがお嬢さんに心惹かれて求めようとするのを先生が妨害する

「舞姫」

豊太郎がエリスに心惹かれて求めようとするのを相沢が妨害する

 それぞれの物語を、恋愛に係わる駆け引きという点から捉えている。


・①が③によって「道を外れる」のを②が引き戻す

「こころ」

Kがお嬢さんによって「道を外れる」のを先生が引き戻す

「舞姫」

豊太郎がエリスによって「道を外れる」のを相沢が引き戻す

 多くのクラスで同様の表現が提起された。おそらくKにおける「道」というキーワードを想起したとき、それが豊太郎にとってのエリートコースをも指しうることに気づいて、いける、と思うのだろう。

 ここで興味深いのは、そんなことをする②の動機だ。②は純粋に①のためを思う友情から①を引き戻すのだろうか? もちろん「こころ」の「私」はそうではない。そこには私利がある。そして相沢は? これは興味深い問題として後で振り返る。


 次の対応はどのような構造を示すか?

 ①お嬢さん―豊太郎

 ② 先生 ―相沢

 ③  K ―エリス


 Bに比べ、「こころ」の①と③が入れ替わっている。

 この対応をたとえば「①と③の関係を②が妨害する」などと表現することは可能だが、同時にこの表現はBにもあてはまる。BとCでは「こころ」の①と③が入れ替わっているだけだから、「①と③の関係」というふうに①と③を並列させる表現では、どちらも同じことになってしまう。

 だがKと豊太郎を対応させる把握(B)と、お嬢さんと豊太郎を対応させる把握(C)が同じであるはずはない。別の表現においては、その適否が問題になるはずだ。

 例えばどのような表現が可能か?


 クラスによって様々な表現が提案された。

  1. ③の①への思いを②が妨げる
  2. ②は①といたくて③が邪魔になる
  3. ①が②を選んだせいで③がダメになる
  4. ①は②と③の選択を最後まで明かさない
  5. ①と②の関係に③が介入し①が選択を迫られる

 1はBと同じだからいいとして、2はその「妨げる」動機について述べている。「先生はお嬢さんといたくて」はいいとして、「相沢は豊太郎といたくて」はどうか。これもまた相沢が豊太郎と日本で仕事を一緒にしたがっていることを指していると考えればあながち言えない表現でもない。

 5は面白い。まずは「①と③の関係に②が介入し」と言いたくなる。先生はお嬢さんとKの間に介入しようとしているし、豊太郎からすれば自分とエリスの間に相沢が介入して事態が複雑になっているのだ。1が示しているのはそれだ。

 だが5はそうではない。豊太郎と相沢の関係にエリスが介入しているというのだ。なるほど、豊太郎がエリートコースを歩んでいるうちは、相沢とは学友同士として安定した関係でいられたはずなのだ。

 だがそうか? エリスの存在によって豊太郎は相沢と道を違えたのか?

 「山月記」との比較で考察したのは、豊太郎は自我の目覚めによってこそ道を外れたのであって、エリスとの出会いはその後だ。もちろんエリスとの出会いがなければ豊太郎の惑いも一時のものだったかもしれないとも言えるが。

 一方「こころ」においては「お嬢さんと先生の関係にKが介入して、お嬢さんが選択を迫られる」というのは何のことか?

 これは教科書よりも前の部分の話だが、そもそもは先生が下宿していて、お嬢さんに好意を持っていたところへKを居候させることになって、お嬢さんがKに惹かれていかないか、先生は気を揉むようになったのだ。先生からするとKは自分よりも意志も強いし頭も良いし背も高いし、顔だって女にもてそうに思えている。つまり5は先生の主観による状況把握を表現しているといえる。


 こんなふうに、どちらかの物語の一断面を表現して、それをもう一方の物語に適用できないかと考えてみることが、それぞれの物語について考えることになる。

 それが物語の意外な一断面を浮かび上がらせるのも楽しい。


舞姫 27 比較読解「こころ」1 人物を対応させる

 読み比べ二つ目は「こころ」だ。

 共通=対応する要素は何か?


 「山月記」との比較では、まず主人公の共通点を確認した後、空間の対比を重ねることで二つの物語を重ね、それぞれの物語が新たに見える瞬間を捉えようとした。

 ここでは主人公以外の登場人物も挙げて、対応させてみる。

 ①私(先生)―豊太郎

 ②  K ―相沢

 ③お嬢さん―エリス

 ④ 奥さん―老媼

 これはどのような対応か?

 ①は主人公。それだけではなく、それぞれが手記であるような一人称小説における語り手(書き手)でもある。「山月記」が三人称小説であり、李徴が語り手ではないことに比べても大きな共通性が予想される。

 ②は主人公の友人。①にとって東大の学友でもある。

 ③は物語のヒロイン。

 ④はヒロインの母親。

 「山月記」比較同様、まずは人物造型の共通性を考えてみる。

 「私」と豊太郎は、似ていると言えなくもない。一人称の語り手は自らの心の裡を語るからどうしても内向的に見えがちだ。

 二人のヒロインもまた、ともに小悪魔疑惑のある魅力的な少女という点では似た印象もある。そしてそれが二人の賢さ故であって、その清純を疑うには至らない、といった巧みなバランスで描かれている。

 奥さんとエリスの母は、悪巧みをしていそうな雰囲気が似ていなくもない。もちろん二人とも生活上の知恵としてそうしているのであって、悪人というわけではない。

 そして二人のヒロインはともにみんなと同じく16-17歳で、なおかつ主人公の二人は25-26歳だ。

 このように主要な登場人物4人が、設定としては見事な対応を見せる。

 この対応を元に、物語を記述してみる。

 人物を示す番号を使って文を作る。例えば「①が③をめぐって②と争う」などという文だ。番号に、それぞれ二つの物語の登場人物名を代入する。

 だがこの文はうまくいかない。

 「先生がお嬢さんをめぐってKと争う」がかろうじて言えるとしても、「豊太郎がエリスをめぐって相沢と争う」はまるで「舞姫」の物語とは似ても似つかない(本当は「こころ」も、そういう物語だと言えはしないとみんなはわかっているはず)。

 ではどのような文なら、それぞれの物語が表現できるか?

 みんなの考えた文を挙げてみよう。

  1. ①が②と③の選択に悩む
  2. ①と③の関係に②が障害となる
  3. ①の③への思いを②が妨げる
  4. ①は③との関係を②に隠す

 1を翻訳すると次のようになる。

「こころ」

先生がKとお嬢さんの選択に悩む

「舞姫」

豊太郎が相沢とエリスの選択に悩む

 これもまた「こころ」については本当はそうは言えないとわかったうえで、かろうじて、というところではある。

 2ではこうだ。

「こころ」

先生とお嬢さんの関係にKが障害となる

「舞姫」

豊太郎とエリスの関係に相沢が障害となる

 この「関係」を明確にしたのが3だ。

「こころ」

先生のお嬢さんへ想いをKが妨げる

「舞姫」

豊太郎のエリスへの想いを相沢が妨げる


 このように、物語の構造を、人物の関係という点から抽出して、二つの物語を比較しようというのがこの試みだ。

 だが、実はAの対応はこれ以上、何らの発展的な考察を生まない。主人公の二人には共通したものも感じられるが、お嬢さんとエリスの印象はかなり違う。さらにKと相沢の対応には強い違和感がある。人物としての共通性は「優秀」くらいで、その人物造型はまるで似ていないし、何より物語上での役割が違いすぎる。

 登場人物を対応させるのは、物語を対応させるためだ。物語を重ね合わせようと考える思考と、登場人物の印象を重ねようとする思考を相補的にはたらかそうとすれば、このような対応はむしろ思いつかない。

 では、物語の構造を表現することを目的として人物を対応させるには、どのような組合わせが考えられるか?


2025年1月29日水曜日

舞姫 26 比較読解「山月記」4

 「舞姫」と「山月記」の物語構造を空間の対比として捉え、それぞれの空間の移行が意味するものを重ねることで、物語が新たな相貌を見せる。

 〈虎〉になった理由こそが主題になっている「山月記」に対して、「舞姫」は〈虎〉から人間に戻る逡巡とそこに起こる悲劇にこそ主眼が置かれている。

 豊太郎にとって〈虎〉とは「まことの我」、つまり「自我」の象徴だ。

 これを前提に、少々理屈をこねてみる。

 豊太郎は「本当の自分=自我」を見出すことで自由になったと錯覚したが、結局は相沢や天方伯とエリスとの綱引きの間で、何ら主体的な選択をしないまま流され、エリスを発狂させるにいたる。

 これは「本当の自分」などというものがそもそも幻想なのではないかという主題を示してはいないだろうか?

 一方、李徴が虎になるのは、いわば自我の暴走だ。制御を失った「解放」の中で、結局は本来の自我=〈人間〉が消滅してしまうのだ。

 とすると、正反対の結末を迎える二つの物語が、実はどちらも「本当の自分=自我」(という幻想)の挫折を描いた物語だということになる。

 「本当の自分=自我」といえば?

 そう、おなじみの「近代」における「個人の確立」だ。

 「舞姫」という作品は、近代化の入口に立った日本から西洋を見た鷗外が、西洋から流入する「近代」に対する違和を語った小説だとは言えないだろうか。

 これは実は「こころ」の主題にも重なる。

 「こころ」は選択の物語のように見えるが、実は「先生」はほとんど選択の余地などなく、そのようにしかできないといったふうに運命に流されている。これは「主体的な選択をする自我をもった人間」などという近代的な人間観に対する漱石の違和を語っているのではないか、という考察を、昨年の授業の最終盤でした。

 図らずも「こころ」との比較を先取りしてしまったが、こうした考察に導かれるのもまた一興ではある。


 あるいは袁傪と相沢という登場人物の比較を考察の糸口としてみよう。二人を比較すると、どのようなことが考えられるか。

 袁傪と相沢の共通点は何か?

 二人がそれぞれ主人公の旧友であることは指摘できる。だがそれだけではない。象徴的には二人をどのように捉えればいいか?


 二人はともに現在も官職に就いている。つまり二人は李徴と豊太郎が失っている「故郷」と「エリートコース」という二つの世界を象徴する人物なのだ。物語は、〈虎〉になった李徴/豊太郎に対して、〈人間〉を象徴する袁?/相沢が再会する、という共通の構図において展開する。

 こうした比較はどんな考察を可能にするか?


 たとえば、袁傪が山中に消えてゆく虎=李徴を見送るのに対し、相沢は豊太郎を日本に連れ帰る。こうした対応の違いはなぜ生じたか?


 物語中、袁傪と相沢はそれぞれどこで主人公と会うか?

 袁傪が李徴に会うのは山中、つまり〈虎〉の世界である。〈虎〉になった李徴を目の当たりにしている袁傪にとって、李徴を人間界に連れ戻すという選択肢が最初から無い。

 一方相沢が豊太郎と会うのはどこか。カイゼルホオフだ。つまり〈人間〉の世界なのだ。

 だから相沢には、そもそも豊太郎が〈虎〉になっていることが見えてはいない。それは相沢と豊太郎の置かれている位相の差がもたらす認識のずれだと言ってもよい。


 このことは、最初の通読の際に考察した、カイゼルホオフに向かう前の豊太郎の身支度の場面に象徴的に表われている。

 この場面はいわば、エリスのいる〈虎〉の世界から相沢のいる〈人間〉の世界へ越境するために豊太郎が変身する場面だ。

 身支度を整えた豊太郎を見てエリスが「何となく我が豊太郎の君とは見えず。」と言う。虎の娘であるエリスには人間の姿になった豊太郎は「私の豊太郎さん」ではないのだ。

 一方で相沢の目に映る豊太郎は単なる〈人間〉でしかない。だからこそ相沢は疑いもなく豊太郎が日本に帰るものと決めてかかる。


 また、〈人間〉の世界に妻子を残してきた李徴に対し、豊太郎はいわば〈虎〉の世界に妻子をつくったのだといえる。

 李徴は〈人間〉の世界に妻子を残して〈虎〉になってしまう。また豊太郎は〈虎〉の世界の妻子=エリスとお腹の子を残して豊太郎が〈人間〉の世界に戻る。それぞれに方向は反対だが、悲劇の構図としては同じだとも言える。

 〈人間〉の世界に残してきた妻子の面倒を請け負う袁傪が「良い人」に見えてしまうのに対し、相沢は悪役の印象を免れない。だが、相沢もまたエリスとお腹の子に対して相応の手当をしているし、なにより豊太郎の家族が日本にいたとすれば(母親が生きていたならば)、豊太郎を日本に連れ帰った相沢は恩人となるはずだ。読者が〈虎〉の世界の妻子=エリスとお腹の子に感情移入してしまっているがゆえに、「舞姫」が悲劇になり、相沢は悪役の汚名を被ってしまうのだ。

 こうした比較が授業にもたらすものは何か。そもそもそうした比較が可能なのかを検討すること自体が、それぞれの作品を「読む」ことになるのだ、とまずはいえる。同じだとか違うとかいう結論が重要なのではない。

 さらに、そうしてそれぞれの物語を透かして見たもう一方の物語に、新たな光をあてるのだ、といってもいい。

 「舞姫」とは豊太郎が虎になる話だ、というフレーズが浮上した瞬間、「舞姫」が新しく目に映ると同時に、何か腑に落ちるものがなかっただろうか。


 あるいはこんな想像をしてみるのも面白い。

公務でドイツのベルリンを訪れた袁傪は、夜になって、治安が悪いから気をつけろと忠告されていたクロステル巷に足を踏み入れる。残月の下歩いていると、街角で出会い頭にぶつかりそうになって謝る一人の男の声に聞き覚えがあってその姿をよくよく見ると、それはすっかりドイツ人と見まごう姿をした旧友、李徴だった。久闊を叙したあと、どうしてそんな姿になってしまったのかを李徴は袁傪に語り出す…。語り終わった李徴は故郷に残してきた妻子の面倒を袁傪に託し、ドイツ語で何やら一声叫ぶと、朝まだきクロステル巷の薄闇の中に消えてしまう…。

 あるいは、汝水のほとりを出張で訪れた相沢が、近くの山中で、行方知れずになって数年経つ豊太郎と再会する物語。

 これが「山月記」という物語だ。あるいは「舞姫」かもしれない。


舞姫 25 比較読解「山月記」3

 読み比べは、共通性を見ようとすることによって、「細部」を削ぎ落とした「構造」を浮かび上がらせる。

 「山月記」の主題に直結する問題は何か? 「山月記」とは何を言っている小説なのか?

 もちろんこれは既習事項でもあるが、素朴な読者として考えてみてもすぐにわかるはずだし、大方の読者には同意される。

 これに相当する問題が「舞姫」に見出せるか?


 「山月記」の問題とは「李徴はなぜ虎になったのか」だ。

 ということは「舞姫」の問題は「豊太郎はなぜ一度虎になり、再び人間に戻ったか」だ。

 「虎になる」とは何を意味しているか?


 これを考えるための手がかりが、「舞姫」「山月記」それぞれを、空間の対比によって捉える位相的分析であり、それらを並べてみることだ。

   日本/ドイツ

ウンテル・デン…/クロステル巷

カイゼルホオフ/エリスの家

人間の世界/虎の世界

  里・街/山の中

 左辺は李徴と豊太郎が元々所属していた世界を象徴する空間・場所であり、右辺は言わば異界だ。「山月記」は主人公が異類となる話であり、「舞姫」は異類となった主人公が人間に戻る話だ。

 二人はなぜ元々いた左の空間から右の異界に移行したのか?


 前回の二人の経歴の重ね合わせは妥当だろうか?

  • 李徴 「官吏→詩人→官吏」
  • 豊太郎 「官吏→通信員→官吏(?)」

 「山月記」では、この展開の後に虎になる。

 これを豊太郎の物語に合わせると、エリスを棄てて日本に帰ることになるが、その印象は適切だろうか?


 いささか誘導的に、以下の箇所を全員で読んだ。李徴が「虎」になった時のことを具体的に語る場面、袁傪との邂逅の後、比較的最初の辺りだ。

今から一年ほど前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊まった夜のこと、一睡してから、ふと目を覚ますと、戸外でだれかがわが名を呼んでいる。声に応じて外へ出てみると、声は闇の中からしきりに自分を招く。覚えず、自分は声を追うて走り出した。無我夢中で駆けて行くうちに、いつしか道は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地をつかんで走っていた。なにか体中に力が満ち満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えて行った。気がつくと、手先やひじのあたりに毛を生じているらしい。少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映してみると、既に虎となっていた。

 本文を読むことは、具体的な描写や形容によって感じ取れるニュアンスを掴む上で必須だ。そうして掴んだ印象は、作者がそれをどのようなものとして描こうとしているかを表している。

 闇の中から李徴を呼ぶ声などは気になるところだ。

 これが、李徴が「虎になる」場面だ。それは「舞姫」のどの展開と対応しているか?


 なかなか誘導通りにみんながすぐそこに目を付けたりはしなかったが、そもそも経歴が対応しているという指摘がミスリードなのだった。李徴が虎になるのは経歴の最後であり、豊太郎においては日本に帰るところにあたる。それをどう対応させるというのか。

 そうではない。もちろんこちらの想定と一致した重ね合わせを感じとってくれた人もそれぞれのクラスにはいた。

 授業者は、李徴の「虎になる」は、豊太郎の最初の免官と対応していると考えている。次の箇所を引こう。

かくて三年ばかりは夢のごとくにたちしが、時来れば包みても包みがたきは人の好尚なるらん、余は(…)自ら悟らざりしが、今二十五歳になりて、既に久しくこの自由なる大学の風に当たりたればにや、心の中なにとなく穏やかならず、奥深く潜みたりしまことの我は、やうやう表に現れて、昨日までの我ならぬ我を攻むるに似たり。(…)今までは瑣々たる問題にも、きはめて丁寧にいらへしつる余が、このころより官長に寄する書にはしきりに法制の細目にかかづらふべきにあらぬを論じて、ひとたび法の精神をだに得たらんには、紛々たる万事は破竹のごとくなるべしなどと広言しつ。

 闇の中から李徴を呼ぶ声は、何か超自然的なものでも、外部にあるものでもないだろう。李徴自身の心の声であると考えるのが素直だ。

 とすればそれは、ドイツ留学後三年経って豊太郎の〈やうやう表に現れ〉た〈奥深く潜みたりしまことの我〉ではないのか。

 声にいざなわれて闇の中に駆け出す李徴は〈なにか体中に力が満ち満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えて行〉く。こうした描写には何か充実感とともに解放感のようなものが感じられる。

 一方で豊太郎は学問の脇道に逸れつつ、官長に対しては、本質さえわかれば細かいことは一挙に片づくなどと尊大な態度をとる。

 これらは裏返して言えば、二人にとってそれ以前の生活が桎梏であったことを示している。

 李徴は妻子を養うために再び就いた地方官吏の職に満足できずにいたのだし、豊太郎は官長や母の期待を今更ながら抑圧と感じている(自分が受動的な機械のような人間だったと振り返る)。

 虎になって束の間の解放感と全能感に酔っていると、気がついたときにはこれまで手にしていたものを失っている。「虎になる」ことは二人にとって、桎梏と抑圧からの解放であるとともに、それまで手にしていたものの喪失でもある。

 李徴は虎になった自分に呆然としつつも、視界に入った兎を思わず喰らう。豊太郎もまた免官され、母を失い、茫然自失の中でエリスを喰らっていたのだ。


舞姫 24 比較読解「山月記」2

 読み比べのために、共通点を探し、対応関係を定位していくという以外の方法がある。評論では何度か使ってきたやり方だ。

 「無常ということ」と「場所と経験」には共通点が見出せない。どうやって比較したか?

 対比だ。

 それぞれの論の対比をとり、その対比同士が対応しているかどうか、と考えたのだった。もちろん対比の中に共通要素があれば、対応もすぐにそれとわかる。だが、直接的な共通要素でなくとも、対比の上下(例えば「肯定的/否定的」)を揃えて並べれば、それぞれが対応しているかどうかを考えることができる。

 さて「舞姫」と「山月記」で、それぞれどのような対比を見出すことができるか?

 

 物語の構造分析でしばしば用いられる手法として、物語中の空間を対比的に捉えることがある。位相的=トポロジカルな把握、といってもいい。

 「舞姫」の物語には位相的な空間の対比が設定されている。その対比を、抽象度の違いに応じて「大/中/小」三段階に分けて抽出してみよう。

 みんなからすぐ挙がったのは「日本/ドイツ」という対比。

 豊太郎は日本からドイツに来て、最後に日本に帰る。勘の良い人はここで「ドイツ留学」が豊太郎にとって「虎になる」ことだと考えられると気づくかも知れない。

 これが「大」だ。「中/小」を挙げる。対比においては抽象度を揃えることが重要だ。ここでは指し示す範囲、といってもいい。

 何か?


 「公使館」「大学」「モンビシュウ街」など、あれこれの場所や地名が挙がったりもするが、やはり問題は対比構造を成立させる対立要素が明確であり、抽象度が統一されているという条件に適ったペアを見つけることだ。

 「舞姫」において象徴的な空間の対比が「ウンテル・デン・リンデン/クロステル巷」であることは、ドイツに着いてすぐのウンテル・デン・リンデンの描写と、エリスが登場する場面のクロステル巷の描写を読んでみれば明瞭に感じられるはずだ。

 そしてとりわけその対比を象徴する場所は「ホテル・カイゼルホオフ/エリスの家」だ。

 日本/ドイツ

 ウンテル・デン・リンデン/クロステル巷

 ホテル・カイゼルホオフ/エリスの家

 とはいえ「ウンテル…」も「カイゼルホオフ」も「ドイツ」にあるのだから、この三つのペアが同じ対比として並列されるのは理屈に合わない。

 だがもちろんこれらは物理空間としての対比ではなく、象徴としての「場所」の対比、意味の対比だ。

 いったいどのような?


 一方の「山月記」における空間の対比を考えよう。

 「山月記」にもあれこれの地名が出ないこともないが、それらにいちいち注意を払う必要はない。実は「山月記」の文中には空間的な対比的は、明示的に登場しない。

 だから本文から探そうとせず、物語全体を俯瞰して、物語の構造を示す空間・場所を表現しようとすれば、その一方が、題名にもある「山」だと気づく。それは李徴が虎になるときに駆け込んだ空間であり、現在虎として過ごす場所だ。とすれば、その対比を表す言葉は「里・街」とでもいっておこう。  

 里・街/山の中

 「山月記」は「虎になる話」、つまり空間的には左から右に移行する物語だ。対比を重ねれば、「舞姫」は左から右に行くが、最後には左に戻る、ということになる。

 つまり「舞姫」とは、豊太郎が〈人間〉からいったんは〈虎〉になり、再び〈人間〉に戻る話なのだ。

 「虎になる」とは何のことか?


舞姫 23 比較読解「山月記」1

 比較読解の最初にとりあげるのは中島敦「山月記」。

 どう比較するか?

 評論の読み比べでも毎度、まず何を考えるかといえば? と訊くと、主題だ、要約だ、対比だ、と今までやってきたことが次々と挙がった。もちろんそれらも有効な方法だが、まず、といえば「共通点を定位する」だ。

 両者の共通点を探してそこをピン留めして、その周囲に拡がる構造を徐々に重ね合わせていく。そうすることで双方の構造が明らかになっていく。一方で重ならないところ=違いが明らかになっていくところも、それぞれの文章の読解として有益だ。

 読み比べは、読み比べることによってそれぞれの文章が、ある姿で立ち上がってくる読解のメソッドだ。


 さて「山月記」と「舞姫」、両作品を思い浮かべ、その共通点が何かと考える。すぐにわかる。主人公のキャラクターがあまりに似ている。

 まずはその人物造型の共通性を具体的な表現の中で跡付けていく。そして、きわめて似通った性格をもった主人公がどのような物語の中に置かれているのかを考察する。


 文章中から必要な情報を探して目的に沿った再構成をする力というのは、必要とされる国語力の中でもとりわけ基本的であり、重要なものだ。李徴と豊太郎の人物造型の共通性を述べるためには、どのような設定、どのような挿話、どのような形容を物語中から探し出して併置すればよいか?

 授業では「属性」「性格」「言動」「経歴」などとタグ付けして項目立てることを提案した。排他的な項目ではない。きれいに分類せずとも、あれこれ考えるための手がかりにすればいい。


 二人はともに優秀で、いわゆるエリートである。

 李徴は〈博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられた〉。

 豊太郎は〈旧藩の学館にありし日も、東京に出でて予備黌に通ひし時も、大学法学部に入りし後も、太田豊太郎といふ名はいつも一級の首に記されたり〉。

 二人はともに高級官吏となるが、やがてその職を辞する。

 経歴だけではない。性格もきわめて似ている。

 二人はともに強い自尊心をもっている。

 李徴は最初の任官の折は〈自ら恃むところすこぶる厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった〉ために官を退き〈詩家としての名を死後百年に遺そうとした〉がかなわず、二度目の奉職の折は〈彼が昔、鈍物として歯牙にもかけなかったその連中の下命を拝さねばならぬことが、往年の儁才李徴の自尊心をいかに傷つけたかは、想像に難くない〉としてついに発狂する。

 一方豊太郎は、官命により〈わが名を成さんも、わが家を興さんも、今ぞと思ふ心の勇み立ちて〉、洋行したがひそかに〈幼き心に思ひ計〉っていた〈政治家になるべき〉道にすすむこともかなわず、三年もたつと〈このころより官長に寄する書にはしきりに法制の細目にかかづらふべきにあらぬを論じて、ひとたび法の精神をだに得たらんには、紛々たる万事は破竹のごとくなるべしなどと広言しつ〉と尊大な態度をとったり、免官されたあと、新聞社の通信員となると〈今まで一筋の道をのみ走りし知識は、おのづから総括的になりて、同郷の留学生などのおほかたは、夢にも知らぬ境地に至りぬ〉と同輩を軽侮する。

 一方で二人はともに自尊心と表裏一体の怯懦(臆病で意志薄弱)を心にひそませている。

 李徴は〈己の珠にあらざることを惧れるがゆえに、あえて刻苦して磨こうともせず、また、己の珠なるべきを半ば信ずるがゆえに、碌々として瓦に伍することもできなかった〉と告白する。

 豊太郎は留学生仲間と〈勇気なければ、かの活発なる同郷の人々と交はらんやうもなし〉と告白する。

 これらの「弱さ」が、どちらも物語中で重要な自己発見として語られるのも共通している。

 「山月記」の最重要フレーズ「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」は、まったくそのまま豊太郎をも表わしている。

 こうした性格故に、二人とも人づきあいが悪い。友達は少ない(だが、一方で重要な友人が物語中に配されているところも共通している。あの二人だ)。


 二つの物語の主人公は、できすぎではないかと思われるほど似ている。

 主人公が似ているということは、そうした主人公を中心とする物語に、共通した構造がある可能性を示している。物語を「~が~する話」「~が~となる話」などと要約するとき、その主語は述語に必然性をもたせるように造型されるはずだ。

 そう考えたとき、「山月記」と「舞姫」を重ね合わせることが可能になる。


 例えば二人の経歴を重ねてみる。李徴の「官吏→詩人→官吏」という経歴と、豊太郎の「官吏→通信員→官吏(?)」という経歴を重ねると、何が見えてくるか?

 こうした経歴は一見似たような軌跡を辿っている。だが最初の転職は李徴にとって辞職だが豊太郎にとっては免職である、といった差違は指摘できる。

 それよりも、二度目の官吏への復職の際の二人の葛藤を重ねてみよう。

 李徴が復職しようとするのは「詩人としての名声/妻子の生活」という選択の上で後者を選んだからだ。同様に豊太郎は「名誉の回復/エリスとの生活」という選択で前者を選んでいるように見える。

 そしてこのように考えたときに、二つの物語の共通性よりもむしろ違いが見えてくる。一見したところ、二人が選ぶものがともに官吏への復職であるにも関わらず、それは逆の価値観に基づいているようにも見える。一方、両者とも「実生活」に重心があるいう点では共通していると言えなくもない。

 だがそれよりも相違として指摘したいのは、一つは、豊太郎の復職の可能性が、豊太郎自身の選択によるものであったか、という問題と、もう一つは、棄てられたものの意味合いである。前者の問題は「こころ」との比較で検討するので措くとして、後者の問題において比較されるのは何か。

 李徴にとっての詩と豊太郎にとってのエリスの意味だ。


 李徴にとっての詩の意味とは何か?

 世の中の「山月記」論の中には、李徴の発狂を詩への執着に起因すると論じているものもあるが、李徴にとっての詩とは、文学=芸術としての詩ではない。

  ・下吏となって長く膝を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺そうとした

  ・俺は、俺の詩集が長安風流人士の机の上に置かれているさまを、夢に見ることがあるのだ。

 これらの表現から感じられるのは、李徴にとっての詩が、それ自体目的ではなく名声を得る為の手段に過ぎないということだ(去年の授業でこのことは確認した)。

 それ以外に、李徴が本当に良い詩を書こうとしていたとか、詩の魅力に取り憑かれていたと読めるような記述はない。袁傪が李徴の詩に「どこか(非常に微妙な点において)欠けるところがあるのではないか」と感じたという「山月記」の重要な論点の一つを、ここから説明することも可能だ。

 一方豊太郎にとってのエリスの意味は、「舞姫」全体の主題把握に関わる大きな問題であり、「檸檬」との比較で論ずる予定なのでここでは深く立ち入らないが、上のように把握される李徴にとっての詩とはまるで印象が違う、とは言える(ただし、エリスもまた目的ではなく手段だったのだ、という言い方は、また新たな「舞姫」論につながりそうな予感もある)。

 共通性よりも相違の方が強く感じられるという意味で以上の考察は授業者の意図したものとは違っているが、それでもこのような考察を可能にするという意味では、それ自体が比較読みの意義ではある。


2025年1月16日木曜日

舞姫 22 全体を捉える

 さて、ここまで10時限ほどかけて、全編を読み終えた。

 「舞姫」は、高校の国語科授業にとって「羅生門」「こころ」「山月記」に次ぐ「定番」小説教材だ。授業者も高校時代に授業で読んだ。

 だがこの小説は、その文体と長さから読むに難渋するわりには、物語にカタルシスがなく、むしろ不快と言ってさえいい。「舞姫」が近代文学の出発点に位置する、文学史的に価値の高い作品であることをいくら喧伝されても、単にエンターテイメントとして享受するにはコストとベネフィットのバランスが悪すぎる。

 だがこうして途中に考察をはさみつつ時間をかけて読み進めてきた過程は、それなりに面白かったはずだ。みんなで考察し合うことは楽しい。

 だがそれは日常で「小説を読む」行為とはだいぶ違う。半ばは勉強と思って粘り強く取り組むうちに、じわじわと感じられてくるような面白さだ。

 ここまでは、そうして読み進めること自体に楽しみを見出してきたが、ここからいよいよ「舞姫」という小説を全体として捉える。


 「舞姫」という小説の主題は何か? 「舞姫」というのは、何を言っているテクストなのか?

 高校生であった頃の授業者には、授業において提示された「愛か出世かの選択」というテーマ設定は凡庸なものに思えた。積極的にそうではないと考えていたわけではなく、まあそうなんだろうと思いつつも、それが自分の身に迫るような問題として捉えられたりはしなかった(もちろん「羅生門」の〈生きるために為す悪は許されるか〉とか、「こころ」の〈友情か愛情かを巡るエゴイズム〉などといったテーマも、同様につまらない。今ではこうした把握自体が間違っていると思っているわけだが)。


 物語には型があり、読者はそれぞれの物語の終わりを、いくつかの型に合わせて予想したり期待したりする。その型に収まることが期待される定番の物語もあるし、型を破る「型破り」な物語もある。

 そもそもこうしたテーマとして「舞姫」を描くなら、結末は3通りにしかならないはずだ。

1.大臣と相沢の誘いを断ってドイツに残る(ハッピーエンド)

2.悲しみ暮れるエリスをおいて帰国する(悲劇)

 だが最終盤のエリスの発狂という意外な展開を受けるなら、結末はもう一つにしかならない。

 それはいわばギリシャ悲劇的な結末だ。

3.発狂したエリスを抱えて失意の中でドイツに残る

 これは、豊太郎がドイツに残るという、ヒロインにとってのハッピーエンドのはずの結末が最悪のかたちで実現するという、ギリシャ悲劇的、「こころ」的アイロニーを示している。

 ところが「舞姫」の結末はどれでもない。4.発狂した女をおいて帰国する という不可解な決着を迎えるのだ。

 この結末が選択されていることの不全感は、西洋列強に伍して立国していこうとしている明治という状況をいくら勘案して、豊太郎にとって「やむを得ない選択だった」という判断に落ち着こうとしても、到底無理だった。

 だから「舞姫」をテキストとして「自分だったらどうするか」を問うのは的外れだ。自己を豊太郎の立場において問うのなら先の3択のうちの1・2であり、悲劇を享受という意味では、どうにもならない3を受け止めるという姿勢もありうるが、現実にそのような立場に置かれれば4を選ぶかも知れない。だがいずれにせよ、この小説が示す結末は選択に迷うような釣り合いにはない。


 ではこの小説をどう読めばいいか。

 アカデミックな「舞姫」研究の多くは、鷗外の伝記的事実から「舞姫」の執筆動機や主題を考察するものだが、そうした、テクスト外部の情報を「教える」ことが高校の国語科授業の使命ではない。

 とはいえ、「舞姫」を読むための構えとして、知っておくべき最低限の基礎的知識はおさえておこう。

 「舞姫」が鷗外の実体験に基づいているということは、たびたび触れてはいた。だがそれだけを知っていると、うっかりすると豊太郎と鷗外・森林太郎を同一視してしまいかねない。鷗外はなんてひどいやつだ、エリスはなんてかわいそうなんだ…。

 事実はどうか。


 まず豊太郎が19歳で東大を主席で修了したことは、鷗外=森林太郎の実話だ。東大開校以来のことだという。

 その後豊太郎は法律を扱う省庁に勤めるが、典医の家に生まれた林太郎は医学を学んで陸軍軍医となる。その後、豊太郎は法律を、林太郎は医学を学ぶためドイツへ官費留学する。時期も大体事実に基づいている。

 天方伯爵は山県有朋のことで、その大陸視察旅行も事実に基づく。もちろん相沢謙吉のモデルらしき人物も同定されている。

 このあたりの異同に大きな意味はないかもしれないが、以下は重要かもしれない。

 豊太郎は一人っ子で早くに父を亡くし、物語中で母を亡くす。頼りになる親族はいない。

 だが林太郎の両親は帰国時も健在で、弟妹もいる(妹の孫はSF作家の星新一)。

 こうした違いは、結末の豊太郎/林太郎の選択にどのように影響しているか。


 林太郎と恋愛関係にあったエリスもまた実在する。本人と思われる写真も見つかっている。

 そして、現実のエリーゼは、帰国した林太郎を追って来日するのである。名前を記した船員名簿が見つかっている。

 つまり、実在のエリーゼは発狂してはいない。妊娠もしていないかもしれない。

 来日したエリーゼは横浜のホテルに一ヶ月ほど滞在する。その間、森家の説得により、諦めてドイツに戻る。

 翌年、林太郎は軍関係者の娘と結婚する。


 史実が小説ほど酷いことにはなっていないと知ったことで、読者の不快感はいくらか減じるかもしれないが、そのぶん、ではなぜ小説をこのように描いたのか、という謎はいっそう深くなる。

 その謎がすっきりと解けるという保証はできない。そもそも問題は、なぜ鷗外は「舞姫」を書いたか、ではなく、「舞姫」という小説をどう読むか、だ。

 ここからは、評論でも用いた「読み比べ」という方法を使う。

 その相手は、高校の国語の授業で読む小説としては「舞姫」以上の「定番」と言っていい「山月記」「こころ」「檸檬」「羅生門」である(「羅生門」は時間次第)。


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