さて、先ほどのEの対応から見えてくる物語把握として、「不作為による悲劇」という表現を提示したが、さらに②の役割に照明を当てて、もう一つ「無作為による悲劇」という表現を提示したい。
なんのことか?
ここには、「奥さん―相沢」という対応から導かれる、さらにもうちょっと興味深い考察の可能性がある。
「不作為」は「私」と豊太郎が、重要な事実や意志を「言わなかった」ことを指している。そして主人公を「不作為」に追いやるのは、主人公達の弱さのみならず、奥さんと相沢の「無作為」の介入だ。
なんのことか?
「私」と豊太郎は、「不作為=言わない」ことを選択したわけではなく、常にどうしようどうしようと先送りしていただけだ。豊太郎は「帰ってエリスに何と言おう」と思って帰り着いた途端、意識を失って、気づいたときにはエリスは廃人となっている。「私」が、とりあえず明日どうするか決めようと思った夜にKが死んでしまう。
そして主人公が明かさなければならないと思っていた秘密を、③の二人に告げてしまうのが奥さんと相沢の行為は、殊更に「作為」のあるようなものではない(ように見える)。
二人は、③のKとエリスがそのことを既に知っていると思っているからだ。
二人は相手が当然知っているはずという前提で、その事実を告げる。つまり二人の行為は「無作為」であるはずだ。二つの物語は、②の「無作為」の介入によって①が「不作為」になるほかない事態によって③の陥る悲劇を描いているのだと言える。
そうしてみると、奥さんと相沢はギリシャ悲劇における「不条理な運命」の象徴のようだとも言える。悲劇はある時に突然訪れ、そのことは、それが起こってしまった後で人はもう取り返しがつかない結末を知るしかない。そこには人為的なはたらきはない。
「無作為の悲劇」とはそのような様相を捉えた表現だ。
だが、近代小説としての仕掛けはそれだけにとどまらない裏読みの可能性をほのめかしている。
奥さんと相沢の介入は本当に「無作為」なのだろうか?
無作為というのは、②(奥さんと相沢)が③(Kとエリス)に告げたことについて、③がまだ知らないということを②が知らない(③は既に知っていると②は思っている)ことを意味している。
だがそうか?
奥さんについては、明らかにそうではない。「私」がまだ婚約成立のことをKに話していないことを、奥さんはほとんど確信しているはずだ。自分がそのことをKに話したときのことを「道理で変な顔をしていた」と言っているのだから。「道理で」というのは、Kにとってそれが初耳であることを充分に予想していたことが示されている。
もちろんこの推論には別の論理も成立しうる。奥さんはKの反応を意外に思い、まだ聞いていなかったということなのだろうかと解釈し、それを「私」に確かめたところ確かに「私」がまだ話していないことを確認して「道理で」と言ったのだ。「道理で」は、事前の推測が当たっていたこととともに、事後の推測が当たっていたことをも意味しうる。
だがおそらく事態は前者のはずだ。Kがまだ知らないはずだという奥さんの推測は、婚約成立以降の夕飯での「私」の態度から生じている。
めでたく婚約は成立したが「私」はなかなかこの事実をこの共同体の中で公認のものとしない。こうした状態に対して〈奥さんの調子や、お嬢さんの態度が、始終私を突ッつくように刺戟する〉。つまり婚約の件を早くKに話すよう促しているのだ。
だがその話題は一向に夕飯の席にのらない。奥さんは、いかなる理由によってか、「私」がそのことをKに言わないでいるらしいことを充分察している。
その上で、「私」が友人であるKに話すのは当然であるという建前から、自分の暴露が「無作為」であったふうを装って「私」に対している。
一方相沢についても、豊太郎がエリスに帰国のことを話せないでいることは察していたと考える方が自然だ。相沢は、豊太郎とエリスの関係がまだ続いていたことを知っている。人事不省の豊太郎を見舞うためにエリスの家を訪れることができるのだから。
そして、豊太郎がエリスに帰国の意志、またそのことについての大臣との口約束を伝えていないことは、あるいは長い付き合いである豊太郎の性格から、あるいは訪問した際のエリスの態度から、充分察せられただろうことは想像に難くない。
にもかかわらず、相沢は「既に話は豊太郎からきいているはずだが」という前置きとともに、もはや既定事実として豊太郎の帰国をエリスに伝えたに違いない。そうした態度をとることによって豊太郎とエリスの破局を決定的なものにしたいのだから。
二人はなぜ「無作為」に見える暴露をするのか?
そこにはおそらく二人の利己的な動機がある。
奥さん=母親からしてみると、娘の結婚相手は、実家から離縁されて金のないKより遺産を相続して金に困らない「私」の方が良いに違いない。娘もそのつもりであることはとうに確認済みだ。
なのに婚約の事実は一向に公認の話題とならない。奥さんは不安を抱いている。そもそも下宿にKを招くことにも反対したのは、娘に対して男が二人というのがトラブルを引き起こす可能性について懸念したからだ。奥さんの暴露は、不安の解消のためでもある。何やらためらっている「私」を出し抜いて、Kに婚約のことを告げてしまう奥さんに、どうやらこちらも娘に気があるらしいKへの牽制として、婚約を公然のものとすることで事態を安定化しようという意図があったのだと読むことは充分可能である。
だが娘の相手にふさわしいのはどちらかという選択に、経済的な事情が考慮されていると考えるのは無理なことではない。
それをことさらに「利己的」などと言って奥さんを糾弾する必要はないが、少なくとも、奥さんが自分に都合の良いように、かつ自らの責任を追及されるおそれのないようにふるまっていたと考えることは十分に可能だ。
一方、相沢にとって豊太郎は友人ではあるが、日本に連れて帰れば、自分にとって「使える」人材になることは間違いない。語学に優れ、ドイツの事情に通じ、なおかつ一旦は官職を罷免された身として、その後、仕事の世話や帰国にあたって便宜を図った自分に恩を感じるべき立場にいる豊太郎は、相沢のその先の日本での活動にとって、便利な存在になるはずである。
とすれば、病気に言寄せて豊太郎を見舞った折に、状況を把握するとともに事態をのっぴきならない方向に向かって押し遣った相沢に利己的な動機があったのではないかと考えることは十分できる。
この推測は、「舞姫」末尾の一文の解釈にも新しい光を投げかける。末尾に記された「彼(相沢)を憎む心」は、読者にとっては不可解だ。自らを罪人と認めていた豊太郎が、なぜ最後に唐突に相沢を憎む心情を吐露するのか。
それは相沢の隠れた利己的動機について、豊太郎が気づいていたことの表れではないかと考えるのは穿ち過ぎだろうか。
二人の行為はその「無作為」に疑いの余地がある。「無作為」に見えるような巧妙な隠蔽を図る「作為」のあったという疑いが。
二つの物語はそう読むことが可能な、近代小説としての深みを備えている。