2025年12月25日木曜日

羅生門 18 終わりに

 ここまで8回の授業で「羅生門」を読んできた。

 小説の読解は、ある意味では評論やその他の実用的文章を読むことと変わらない。テキスト細部から必要な情報を拾い上げて全体を構造化することだ。

 同時に構造の中において初めて持つ細部の表現の意味を捉えることでもある。全体の構造化と細部の意味づけは相補的に働く。

 「羅生門」の読解においてやってきたのはそういうことだ。

 全体の構造をどう組み立てるかと、細部の表現をどう意味づけるかといった思考を相互に整合的に働かせる。 

 そうして現状で納得できる「構造」「意味づけ」が前回までに見てきた「羅生門」解釈だ。


 以上のように示してきた「羅生門」の読解が難しい原因は三点あるのだと、今年腑に落ちた。

  1. 「老婆の論理」が下人の行為を引き起こしているという理路が揺るぎない前提として疑われないこと。
  2. 行為の必然性を生じさせる要因が問題なのではなく、行為を阻んでいた要因こそ問題なのだということがわかるのは、後ろから遡るしかないという構造上の必然からくる認識の困難。
  3. 高校生は「観念」という語彙を持ってはいないこと。

 3はつまり「スキーマ」と「ゲシュタルト」の問題だ。

 スキーマがないと、ゲシュタルトは構成されず、認識されない。

 「小説を理解する」ことも「認識」の一種だから、それはつまり、あるスキーマによってゲシュタルトが成立したということだ。「エゴイズム」はそのようなスキーマであり、しかも近代文学を理解する上ではきわめて頻繁に用いられるスキーマだと言ってよい。

 「羅生門」もまたそうして「極限状況におけるエゴイズムを描いた小説」というゲシュタルトで人々に認識されている。むしろ「羅生門」は、高校1年生で読むことで、「エゴイズム」というスキーマを高校生に装塡する役割を担っていたというべきかもしれない。

 だがそのようなゲシュタルトとしての「羅生門」は、底の浅い、弱い小説だ。全然大した作品には思えない。

 といって別のゲシュタルトを構成するためのスキーマが授業者には長らく見つからなかった。スキーマがないとゲシュタルトは構成されない。像を結ばないばらばらな情報群として、「羅生門」というテキストは繰り返し読まれてきた。

 「観念」という語は、そこに像を結ぶためのスキーマであり、そうしてできたのがここまで示してきたゲシュタルトだ。

 だがこのスキーマは、高校生には装備されていない。

 エゴイズムも装備されてはいなかったろうが、エゴイズムは「なぜしたか」と結びつくから、授業によってその解釈が示されると理解することは比較的容易だ。

 それに比べて「観念」というスキーマは「なぜできなかったか」と結びつくから、上記2の困難によって発想されにくい。

 それだけでなく、その語の持つ平凡さによっても、かえって想起されにくい(「エゴイズム」という目立つ言葉はそのことによって想起されやすい)。

 さまざまな必然性によって、「観念」をスキーマとする「羅生門」理解は、成立が難しい。


 引剥ぎという行為の必然性は、それを容認する「老婆の論理」によって発動するのでも、「極限状況」の深刻化によって発動するのでもなく、ただその行為を阻んでいた幻想が消滅することによって生じている。むしろ、下人がそうした幻滅の自覚を、行為の実行によって自ら確認している、と言うべきかもしれない。

 引剥ぎという行為は現実的な実用性に基づいていると同時に、それが他ならぬ老婆に向けられることで、下人の現実認識を宣言するための象徴的な行為になっているとも言える。


 以上のような授業者の結論は、実際はここまで述べてきたような問題設定に基づく考察の積み重ねによるものではない。発想は、下人のうちに最初に燃え上がった①の「憎悪」の描写が表す奇妙さを何とか言葉にしようと考えているときに、突然、結論として「降りて」きたのだった。それが「幻想・観念としての悪」という表現として形になったとき、下人が最初「悪」に踏み出すことを躊躇ってのはこのためだったのだと気づいたのだった。そこから、行為の必然性に至る論理、「羅生門」の主題へと結びつく論理が一気に開けた。

 だからここまでたどってきた問題設定は、本当は解答から遡って逆順に設定されている。

 「なぜ引剥ぎをしたか?」が「なぜ最初はできなかったか?」という問題であることは、その答えから遡ってしか発想できない。「なぜできるようになったのか?」と問う限り、それは例えば「老婆の論理」に拠るしかない。

 だが授業ではみんな自身が考えることに意味がある。だから考えるべき問題が何なのかを明らかにした上で、その糸口を示す必要があった。最終的な到達地点がどこなのかを示した上で、そこにいたる道筋を辿ってきた。

 この問題設定は、結論まで一気にたどりつくようには、簡単に展開されはしない。長い時間をかけて、8回の授業展開として構成されたものだ。

 「羅生門」の「主題」を捉えるためには、引剥ぎという行為の必然性を当面の問題として設定すべきであること。

 その論理を明らかにするためにこそ「心理の推移」を追うべきであること。

 「羅生門」の授業を貫く問いはこうして構想される。


 これで、今年唯一の小説の読解を終える。


2025年12月24日水曜日

羅生門 17 答え合わせと検算

 この結論に基づいて、ここまで考察してきた問題を捉え直してみよう。

 物語の冒頭、門の下で下人の頭にあった「悪」はいわば観念としての、幻想として「悪」であった。冒頭の部分ではまだ、そのことはわからない。それはあくまで物語の結末から遡ってみてわかることだ。

 最初にそのことが読者の前に示されるのは、①「憎悪」の描写を通してだ。

 授業で分析した①「憎悪」の描写は全て、対象となる「悪」が観念的であるということを示している。作者の形容はすべてそこへ向かって重ねられている。

 「あらゆる悪に対する反感」という憎悪の一般化、抽象化は、憎悪の対象が具体的ではなく、実体のない幻想としての「悪」であることを表している。

 「それだけですでに許すべからざる悪であった」という独断的な決めつけも、「合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった」も、具体的な検証抜きに「悪」が認定されていることを表す。

 「もちろん、下人は、さっきまで、自分が、盗人になる気でいたことなぞは、とうに忘れている」のも、冒頭の問題設定がそもそも観念的だったからだ。「忘れる」ことは「もちろん」だ、というのは、現実に依拠してない難問を、下人が頭の中だけで弄んでいたことに作者が自覚的であることを示している。

 「この雨の夜に、この羅生門の上で」という読者には理解しがたい(だが微妙にわかったような気もする)条件が「悪」を認定する根拠となっているのもそれが気分的なイメージに過ぎないことを示している。そしてそれが「予断・先入観」であるということは、物語冒頭の迷いにおいて「正義」と拮抗していたのが既にそうした「観念としての悪」だったことを示している。

 そこに老婆という容れ物が形を与える。憎悪が燃え上がる。だがそれは実は幻想としての「悪」という観念に対する憎悪だ。

 だからこそそれは、過剰になりやすい。観念は現実から遊離しているがゆえにしばしば激情を誘発する。イデオロギー闘争が激化しがちなのは、イデオロギーが観念的だからだ。老婆を取り押さえる時に下人を支配する勇気は、観念に支配された者の蛮勇だ。


 観念としての「b.悪」が幻想で膨れあがるとき、それに拮抗する「a.正義」もまた釣り合いをとるべく膨れあがる。それは内実を伴わない空虚な泡である。下人の憎悪は空疎な正義感を燃料として燃え上がる。下人は自分もまた盗人になることを迷っていたことなどすっかり忘れて、自分を「正義」の側に置いている。

 続いて「得意と満足」がおとずれる。その変化は、理由が明らかになる前に生じている。つまりそれは対象の善悪についての現実的・合理的な判断に基づいていないのである。その「満足」は、事態の根本的な改善には何ら関係のない自己満足だ。

 現実に依拠していない激情は熱しやすく冷めやすい。老婆を取り押さえただけであたかもその「悪」が消滅したかのように冷めてしまう義憤も、対象となる「悪」が最初から空虚な幻想だったからだ。


 ここまでくれば先に保留した問いにも答えられる。

 なぜ下人は「老婆の答えが存外、平凡なのに失望した」か?


 先程は答えまでに距離があるからと保留にした問いだ。

 ここまでの展開で、「大きいと思っていた幻想としての悪が、つまらない現実の悪であることを知ったから」などと答えられるようにはなっている。

 だがもう一歩、それになぜ「失望」するのか?

 この「失望」は髪を抜くという行為に何か禍々しい理由があることを期待していたことの裏返しだ。これもまた、「悪」が幻想として膨れあがっていたことを示している。下人がなぜそれを期待していたかといえば、「悪」が大きいほどに、それに拮抗する自分の「正義」の幻想も大きくなるからだ。

 「悪」が現実的な、卑小なものであることがわかると、幻想に拮抗して膨れあがった自らの「正義」もまた同様に萎んでしまう。「正義」の幻想に酔っていた下人はがっかりする。自分が正義であると信ずることは快感だったのだ。


 そして浮上してくるのは再び③「憎悪」だ。

 ①がふくれあがった幻想としての「悪」に向けられた燃え上がるような「憎悪」であるのに対して、③の「憎悪」は、その卑小さが露わになった現実的な「悪」に向けられた冷ややかな「憎悪」だ。悪はここでは「憎悪」の対象であるとともに「侮蔑」の対象にもなったのだ。

 先ほどの①と③の「憎悪」の比較によって確認された共通点と相違点は、こうした差違を示している。

 そうした下人の変化がわかっていない老婆は、さらに自分が「悪」くないことを言いつのる。状況が現実的に認識されるにつれ、下人の心はいっそう冷めていく(老婆の話を「冷然として」聞く)。


 物語冒頭の下人の現状認識は観念的だった。

 「極限状況」は現実の問題でもあるはずなのに、それが小説中で肉体的な感触として描かれないことは、下人の現状認識が観念的であることを証拠立てる。

 だからこそ「飢え死にするか盗人になるか」という問題設定もまた観念的だ。飢え死にすることが選択肢になる時点で、それは差し迫ってはいないし、もう一方の選択肢である「盗人になる」=「悪」という選択肢は幻想でふくれあがっている。こんな選択肢の間で逡巡するようなアポリア(難問)は下人の観念の中にしかないことが、今や明らかになったのだ。


 老婆の言葉は下人にとって決して新しい認識ではない。だがそれは最初、門の下で下人が抱いていた幻想が潰えた後であらためて確認される卑小な現実だ。

 「きっと、そうか」という念押しは、下人の苦い現実認識の確認だ。

 ここに付せられた「嘲るような」という形容について、「老婆の論理」の考察のくだりでは、正当化の論理が自分に向けられてしまうことに気づかない老婆への皮肉として説明した。

 だが今ではそれよりもむしろ、露わになった現実認識に対する不快の表れであり、幻想を見ていた自分に対する自嘲だと捉える方がしっくりいく。

 つまりこの嘲りは、矮小な悪の論理を語る老婆にのみ向けられたものではなく、まさにこれからそれをしようとする自らにも向けられていることになる。

 老婆に対する攻撃性は、言わば八つ当たりだ。


 下人の頬の「にきび」はどう考えればいいか?
 「エゴイズム」論によれば、にきびが象徴するものは例えば、正義感、良心、道徳…といったところだろう。これらは、引剥ぎが「生きる為になす悪」を肯定する行為だとみなす主題把握と対応している。下人はモラルを棄てて、悪にはしったのだ。
 そしてここまでの結論によれば、にきびはそのまま「観念」の象徴だと言える。頬ににきびをもつ下人は空疎な観念に支配された人間であり、その象徴たる「にきび」から離れた下人の右手は、もはや阻むもののなくなった現実的な選択を実行にうつすしかない。

羅生門 16 結論

 授業者が①に入る言葉として提示するのは「観念」だ。

 そう聞いてもみんなはただちにピンとはこまい。

 この語彙は高校生にはない。言葉としては知っているはずだ。だが「語彙」というのは「知っている言葉」ではなく「使える言葉」だ。「観念」という言葉を高校生は想起しない。知っているが使えない。

 だがこの小説を捉えるために、これより的確な言葉を思い浮かべることが、今のところ授業者にはできない。

 「観念」とは何か?


 辞書的な意味を確認するより対比の考え方を用いる。「観念」の対義語は?

 だが通常「観念」の対義語は辞書にはない。

 むしろ「観念」という形容で考えてみるとわかりやすい。空欄の下に「的な」をつけたのはそのための誘導だ。

 「観念」の対義的な形容は「現実」である。「お前の言ってることはどうも観念的で、ちっとも現実的ではない」などという。

 「観念」とは、頭の中だけに存在する現実離れした考え、というニュアンスで使われる言葉だ。「観念的」とは「頭でっかち」とか「地に足が着いてない」とか「机上の空論」といったニュアンスの否定的な形容だ。「観念的な議論はいい加減にして、現実的な解決策を探ろう」などという。

 これで結論は出る。


 下人が門の下で「勇気」を持てなかったのは、下人が「悪」というものに過剰な幻想を見ていたからである。

 それはいわば現実性を欠いた観念としての「悪」だ。

 「a.正義(飢え死に)/b.悪(盗人)」の拮抗状態からbに進めない理由は、「正義が引っ張る力」か「悪に対する抵抗」が強かったからだ。左向きの力が強かったのだ。

 それが、老婆の答えを聞いた後に弱まる。それは下人の「悪」に対する認識が「① 観念 的な悪」から「③ 現実的な悪」に変わったからだ。左向きの力が弱まって、「盗人になる」右向きの力にしたがうしかなくなったのだ。

 「羅生門」という小説は、ある幻想が消滅し、現実に覚める物語なのである。


羅生門 15 最終考察までもう一歩

 下人はなぜ引剥ぎをしたか?

 これは「正義」の引力と「悪」の抗力の釣り合いが変化したことによる。

 それを引き起こしたのは老婆の「平凡」な答えだ。下人は老婆の長い言い訳を聞いたから引剥ぎをしたのではなく、端的に言えば平凡な引剥ぎの理由を聞いたから引剥ぎをしたのだ(まだ何のことかはわからないだろうが、そう結論できるのだ)。

 その時下人の裡に起こった変化を捉えるのに有効なのは、「心理の推移」の分析の際に行った、二つの「憎悪」の比較だ。その際の番号に従って①「憎悪」と③「憎悪」と呼ぼう。

 ①は「一般化した対象に向けた熱い憎悪」、③は「限定された対象に向けた冷たい憎悪」だと捉えられる。両者に共通しているのは「悪に対する憎悪」だということだ。ここで共通点を確認した伏線の理由が明らかになる。この時上記のバランスが変わったのは、すなわち「悪」に対する認識が変化したことと対応しているのだ。

 ①と③の相違を次のように整理する。

   としての悪に対する憎悪 または ①   的な悪に対する憎悪

   としての悪に対する憎悪 または ③   的な悪に対する憎悪


 空欄に入る言葉は何か?


 これは生徒が自ら考えつくような思考法ではない。

 実は授業者もこのように問題設定をして思考したわけではなく、これはむしろ説明のために発想したものだ。それを最後の誘導に利用する。

 この比較を可能にするために「憎悪」の共通点を「に対する憎悪」であると確認することが必要だったのだ。

 先の相違点を、その対象の違いとして表現する言葉を探す。①③の空欄にはどんな言葉が充てられるか?


 対義語としては「主観/客観」が思い浮かぶことが多い。

 だが、①③のどちらにも「主観」「客観」が入りうるし、どちらでももっともらしい説明ができてしまう。つまりこの対比は有効ではない。

 「絶対/相対」も挙がるが、この言葉でも論理がつながるとは言い難い。

 ①と③の比較では①「対象が一般化されている」、③「対象が老婆に限定されている」という表現を使った。ここから「一般/個別(限定)」も発想されるし、「抽象/具体」に置き換えることもできる。

 この対比は悪くないが、ここから主題の把握までには距離がある。


 さて、ギリギリのヒント。

 ①に入りうるのは「幻想」「虚像」「イメージ」などの言葉だ。

 だがそれより適切な言葉がある。


 先の「相違」が示す相違を、その対象の違いとして表現する言葉①③を探す。

 大詰めだ。

 下人はなぜ引剥ぎをしたのか?


羅生門 14 最終考察に向けて

 さらに問いを言い換えよう。言い換えのバリエーションは論理の結びつきの可能性を高める。

 「なぜ引剥ぎをしたか?」という問いを、引剥ぎの実行の直前の本文の記述を使って言い換えよう。

 最初にも確認したとおり「なぜ盗人になったのか?」は避けたい。それは解釈が既に含まれてしまっている。

 それよりも本文の言葉を使うなら「なぜ勇気が生まれてきたか?」だ。実際、ここまでの授業でも何度もそのような言い換えが、特に意識することなくなされてきた。この表現は「なぜ引剥ぎをしたか?」と完全に置き換えが可能で、なおかつ本文に即している。

 そしてさらに次の言い換え。

 「なぜ勇気が生まれてきたか?」を裏返すと、どのような問いに言い換えられるか?


 「裏返す」の意図がよくわからないが、聞いてみれば思いつく者はいる。

 「なぜ今までは生まれなかったのか?」は悪くない。が、もう一歩。「今」とはいつ?

 この「勇気」は「さっき門の下で、この男に欠けていた勇気である。」と説明されている。すなわち「なぜ勇気が生まれてきたか?」は次のようにと言い換えられる。

物語の最初はなぜ勇気が出なかったのか?

 これで論理の結びつく可能性は高まる。


 さらに誘導する。

 最初の「a.正義/b.悪」の拮抗は、実は等分な選択肢として下人の前にあるのではない。abが引き合っている、などと言ったのはミスリードだ。

 門の下で下人が置かれていたのは、どのような力とどのような力の拮抗か?


 「飢え死にをするか盗人になるか」という表現は本文にも出てきているが、これが既にミスリードだ。

 下人は何もないまっさらな状態からこの選択肢の前に置かれて迷っているわけではない。現状このままではa「飢え死に」してしまうのだから、下人にとってはb「盗人になる」を実行できるかどうかが問題だ。

 とすると、拮抗しているのは、bを実行する力(①)とaの引力もしくはbの抗力(②)だということになる。

 「盗人になる」を実行する力①→

飢え死に/盗人

  正義/悪

 ←②正義感+悪への抵抗感

 バランスが変わるとすれば、この右へ向かう力①と左へ向かう力②のどちらか強くなるか弱くなるか、だ。

 どちらであるかは明らかだ。①が変わっているわけではないことは直観的にわかる。①が変わるとは例えば「極限状況」が物語の後半に向かって高まっていくような変化によってだろう。それは確認したとおり描かれていない。とすれば②が変わったということだ。

 この拮抗がバランスを変えたのは、どの時点で、何によってか?


 最初に左に振り切ったのは、最初に「憎悪」が心に燃え立った時だ。これは老婆の行為を目撃したことによる。この時急に②が強くなって①を完全に凌駕してしまう。

 問題は右に振り切った時だが、これは厳密にはいつか。その変化を引き起こした契機が老婆の長広舌だと考える一般的解釈によれば聞いた後ということになるが、それよりも前に契機があるとすれば、二度目の「憎悪」の時点しかない。つまり具体的には老婆から髪を抜く理由を聞いたことによってだ。

 繰り返すが、それは①が強くなったわけではない。

 ②が弱くなって、①が優勢になったのだ。

 バランスの変化の局面には同じ「憎悪」がある。②の力は「正義/悪」の力の釣り合いの変化で強さが変わる。それがどのようにして起こるのかを明らかにすれば良い。

 この二度目の変化がなぜ起こったかという問いは、すなわち最初の問い「なぜ引剥ぎをしたか?」に他ならない。


2025年12月10日水曜日

羅生門 13 最終考察のヒント

 下人の「心理の推移」が、どのような論理によって引剥ぎという「行為の必然性」を導き出すのか?

 「老婆の論理」に拠ってだ、と考えるとそこで思考停止してしまう。だが、「老婆の論理」を否定して、「心理の推移」が「行為の必然性」にいたる論理を見出すことには、やはりある発想の飛躍が必要だ。

 ここまでの心理の分析のすべてがその手がかりになるはず。丁寧にたどって、それが「降りて」くるのを待とう。


 考える手がかりをいくつか提供する。

 AB論争から明らかになったことを思い出そう。「なぜ引剥ぎをしたか」という問いには「なんのために引剥ぎをするか」と「なぜできなかった引剥ぎができるようになったのか」という問いが重なっている。一般的な解釈の「極限状況」は前者に対応し、「老婆の論理」は後者に対応している。また、ディベートにおけるA支持者は後者に答えようとしており、B支持者は前者に答えようとしているように見える。

○なんのために引剥ぎをするか

→極限状況=B「生きるため」

○なぜできなかった引剥ぎができるようになったのか

→老婆の論理=A「相手もしているなら」

 問題は下の問いだ。これを「老婆の論理」からではなく、「心理の推移」によって後者の問いに答える論理を考えよう。


 さてこの問いに対する答えがそれなりに用意できたら、そこから「主題」として抽象化する飛躍の前に、一段階、次のような問いを置いたことを思い出そう。

引剥ぎという行為の意味は何か?

 「意味」を語るためには抽象的な把握を必要とする。

 授業ではこれを考えるために、例えば「実用/象徴」という対比で考えてみることを提案した。

 「実用」だとみなすのは先のB支持だが、それだけで説明することはできない。

 「象徴」のみで解釈する立場はAのみを重視するということだが、これも難しい。

 「実用」を否定せず、そこにAではない、どんな「象徴」性を認めるか?


 それを表現した先に、さらに主題へと抽象化する。


 さて、門の下で下人の中にあったのは、どのような論理・価値の拮抗か?

 具体的には「a.飢え死にをする/b.盗人になる」という選択肢の間で逡巡している。これを抽象化する。

 「死/生」が挙がるが、下人は「死」を「選択」しようとしているわけではない。

 選択すべき価値としては「善/悪」も悪くないが「a.正義/b.悪」がいいだろう。「a.良心・倫理/b.利己心・エゴイズム」などもいい。

 最初の時点で「a.飢え死に/b.盗人」に迷うということは、上の価値が拮抗しているということだ。

 この拮抗のバランスは、途中完全にa「飢え死に」に傾く。

下人は、なんの未練もなく、飢え死にを選んだことであろう。

 そして最後には完全にb「盗人」に傾く。

飢え死になどということは、ほとんど考えることさえできないほど、意識の外に追い出されていた。

 つまり最初の「a.正義/b.悪」の拮抗は一度完全にaに振り切れ、その後完全にbに振り切る。

 この変化は極端だ。

 「老婆の論理」説は最後にbを選ぶ必然性を説明しているだけで、aに振り切る極端な変化はなぜ生じているのか、なぜそのことを執拗に書くのかという疑問には答えていない。

 二度の極端な変化は、いずれも重要だ。不自然なことには意図がある。

 それらは何を示すか?


2025年12月8日月曜日

羅生門 12 「得意と満足」「失望」「憎悪」

 奇妙な「憎悪」は、最後に言及される「勇気」(この場面では「勇気」という言葉は使われていない)を下人の心に生み出す。それに動かされて下人は老婆を取り押さえる。

 その後におとずれる②「安らかな得意と満足」もまた不自然だ。

 どのように?


 この「得意と満足」は「老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されているということを意識した」からだと言われているし、「ある仕事をして、それが円満に成就したときの」という形容がついている。説明はされている、にもかかわらずちっとも腑に落ちない。そんな場合か、と思う。この脳天気さは到底「極限状況」に置かれた者の心理ではない。

 これは老婆の行為を「悪」と判断する理由が「この雨の夜に、この羅生門の上で」と述べられることに似ている。書いてはあるが、どうしてそれが理由になるのかが読者にはわからない。読者にわからない理由が、あえて述べられている。

 だがもっと明確にこの不自然さを指摘しよう。

 この不自然さは、ある順序の転倒によって生じている。

 ②「安らかな得意と満足」が不自然だと感じられるのは、何より前に「得意と満足」が生じているからか?

 当然あるべき何がないことが不自然なのか?


 老婆の返答をまだ聞いていないのだ(各クラスでこれを答えた者たちは自慢して良い)。

 下人は「何をしていた」と問うが、老婆の答えを聞く前に「満足」している。これが違和感の理由だ。

 これもまた、①「憎悪」の分析と対になっている。「悪」であると判断する合理的理由はないまま断定して燃え上がった「憎悪」は、その理由についての疑問が氷解する前に消滅する。

 つまり、髪の毛を抜く「理由」が「憎悪」の当為を支えるものではないということだ。

 このことが意味するのは何か?


 次の③「失望」ももちろん不自然だ。

 この「失望」から何が考えられるか?


 この「失望」も読者の自然な共感・理解を超えている。だから「なぜ下人は失望したか?」と訊きたくなるが、この問いでは答えまでの距離が遠すぎる(だが後でもう一度訊く)。

 まずこう考えよう。この記述を反転させるとどうなる?


 「平凡」であることに「失望」しているのだから、下人は「非凡(特殊・異常…)」な答えを「期待」していたことになる。

 では下人はなぜ異常なことを期待するのか? そして「非凡」な答えとはどのようなものか? というより、このことは何を示しているか?


 「失望」とともにまた再び「憎悪」が浮上してくる。

 ここでの分析には対比を使う。①「憎悪」と③「憎悪」を比較する。

 両者の共通点と相違点は何か?


 比較するためには共通性が前提となるのだが、みんなには相違点を挙げる方が容易だ。

 では相違点は何か?

 ①が、老婆の行為の理由がわかる前に生じた「憎悪」であるのに対し、③は、わかってから生じた「憎悪」である。また、①が「あらゆる悪に対する」という、奇妙に拡散した対象に向けられているのに対し、③は老婆という限定した対象に向けられている。

 対象が「不特定」(一般化)か「特定」(限定的)か。

 また、①が燃え上がるような「憎悪」であるのに対して、③の「憎悪」は、「冷ややかな侮蔑」とともにある。

 「熱い憎悪」と「冷たい憎悪」。

 こうした差異は何を示しているか?


 一方、共通点は何か?

 「また前の」という形容がわざわざ付されているのは、明らかに①の「憎悪」と③の「憎悪」に共通性があることを示している。そう書く意図があるはずなのだ。それが何であるかを理解しなければならない。

 だがこれを言葉にするのは難しい。聞いてみるとあっさり出てくることがある一方、なかなか出てこないで時間がかかる場合もある(これもまた、各クラスでこれを答えた者たちは自慢して良い)。

 実は拍子抜けするほど簡単な答えだ。

 共通点は、どちらも「悪に対する憎悪」だということである。

 このことをなぜ確認する必要があるかというのは、最終的な考察で明らかになる。


 またこの憎悪は「冷ややかな侮蔑といっしょに」下人の心に入り込む。

 この「冷ややかな」は、老婆の話を聞く下人の態度「冷然と」に、また「侮蔑」は「嘲るように」につながっているように思える。

 それなら「かみつくように」「手荒く」という老婆に対する敵意は「憎悪」からつながっていると言ってもいいかもしれない。

 それを認めるならば、先の「嘲る」「かみつく」「手荒く」「冷然と」といった、引剥ぎの実行周辺の形容からうかがい知れる下人の心情は、老婆の長広舌を聞く前に、既に生じているということになる。

 となると「嘲る」について前に一度考えた説明も、あらためて考え直す必要がある。


 ここまで見たような念入りに書き込まれた不自然は、それがこの小説にとって意味のあることだということを示している。

 「行為の必然性」は脆弱な「老婆の論理」に拠るのではなく、「心理の推移」によって準備され、その論理的帰結によって導かれている。

 とすればその論理とは何か?


羅生門 11 「憎悪」の分析

 「羅生門」の顕著な特徴である執拗な心理描写を有意味化し、そこから「行為の必然性」を導き出す論理を見出す。

 ここで考察すべき「心理」を以下の三点に整理する。梯子を登ってから老婆と応答するうちに下人の心に訪れる大きな変化である。

①「老婆に対する激しい憎悪」

②「安らかな得意と満足」

③「失望」「憎悪」「冷ややかな侮蔑」

 ①の直前の「六分の恐怖と四分の好奇心」までは不審な点はない。状況から自然に生じていることが納得される心理だ。③の後の「嘲るような」「かみつくように」は後ほど考察する。

 これらの心理の描写や形容、すなわち記述そのものを分析せよ、と要求したいのだが、「分析」とは何を考えることなのか?


 ①の「憎悪」に、読者はついていけないものを感ずる。どうみても不自然だ。解釈と納得が要請される。

 思いつきやすい問いは「なぜ憎悪が湧いてきたか」だが、これは難しい。書いてあることは指摘できる。だがそれが腑に落ちないからこそ、それについて考えようとしているのだ。そもそも読者はこの「憎悪」に共感することができずにいる。だから自分の心を探って、それと照らし合わせて推測することができない。

 「憎悪」がこのように書かれていることの意味を捉えたい。

 そこでまずこう考えよう。

 読者が①「憎悪」の描写に感ずる不自然さはどこから生じているか?


 「憎悪」はまずその不自然さ故に考察すべきであると感じられている。その不自然さを分析する。

 分析というのは、ある種の抽象化をすることだ。そしてこれができることが「説明」という行為にとって欠かせない条件となる。

 「どこがおかしいか?」と問うたとき、本文の一節をそのまま引用して「だからおかしい」と言ったのでは「説明」にならない。それが「おかしい」というのがどういう論理に基づくのか、一段抽象度を上げる。

 こういうときにも「対比」の考え方を使う。どうだったら「自然」なのか、どうでないから「不自然」なのか、という説明を考えるのだ。


 授業で提示されたのは次のような諸点。

  • 急すぎる。いきなり。
  • 激しすぎる。過剰。極端。
  • 憎悪の対象がなぜか一般化する(「あらゆる悪」)。
  • 自分が被害を受けるわけでもないのに憤っている。
  • 自分が盗人になるかどうか迷っていた事実が棚上げされている。
  • 老婆の行為の理由がわかっていないのに「悪」と決めつけている。

 これらの特徴は、相反する方向性をもっている。

 対象の一般化自分が害を受けないこと理由の不明といった特徴は、その「憎悪」が激しいことに反している。「憎悪」すべきことが納得されれば激しいのも当然だと思えるかもしれないがそうした納得はない。だからこそそれが「過剰」だと感じられるのだ。こうした矛盾する方向性が、この「憎悪」を不自然だと感じさせている。

 作者はそうした不合理を充分承知の上であえてそのことを読者に明言してみせる。

従って、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。

 悪であるとする理由がわからないまま下人が「憎悪」する不自然さに作者は意図的であり、なおかつ意図的であることを読者に伝えようとしている。


 下人の「憎悪」は確かにおかしい。よくわからない。

 といって完全に理解することができなかったら、もっと読者の注意を引くはずだ。

 だから読者は下人の「憎悪」をそれなりに了解してもいる。

 死体の髪の毛を抜くことはなぜ悪いのか? とりあえず読者はどう理解しているのか? 通読したときには自分はどのように理解したのか?


 「他人のものを盗むのは良くないことだから」ではない。本文には「下人には、もちろん、なぜ老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。」と書いてある。下人は老婆の行為を「盗み」だと判断して「悪」と決めつけているわけではない。


 とりあえずこんなふうに言えればいい。

 死体の損壊を、死者への冒瀆と感じて憤っているのだ。

 だがそんなことを感じていられる状況ではなかったはずだ。下人は生きるか死ぬかという状況ではなかったか。羅生門は死者が投げ捨てられるのが日常化するほど荒れ果てた場所ではなかったか。そんな状況で今更死人の髪の毛を抜くことに、突如「憎悪」が燃え上がってしまうというのは当然のことなんだろうか。

 だからこそ、ここには「極限状況」などないのだ、とも言えるのだが、ともあれ読者はこの「憎悪」に違和感を感じつつも、下人が老婆を「悪」と決めつける判断は全く理解不可能というわけではないから、この「憎悪」の不自然さがどのような意味をもっているかを本気で追究することから巧妙に目を逸らされている。

 読者が先回りしてこうした推測でひとり合点する一方、下人にはそれを判断することはできない、と作者はわざわざ明言する。

 では作者は下人が判断した根拠を何と書いているか?


 かろうじてそうと認められるのは「この雨の夜に、この羅生門の上で」という一節だ。それに続けて「それだけで既に許すべからざる悪であった」という、これもまたよくわからない断定がなされている。

 わかろうと思えば、確かにそれは不気味な雰囲気を醸し出している舞台設定だし、もうちょっと合理的に言っても、死体がごろごろ放置されているような場所に、わざわざ雨の夜にやってくるのは、何か不穏当なことをするつもりだからだろう、といった納得をすることはできる。

 だがこれがなぜ「悪」と判断する根拠なのか、すんなりとは腑に落ちない。読者はわかったようなわからないような曖昧な気分にさせられる。

 これは上記の、下人が老婆の行為を悪と判断した理由を読者が先回りして推測してしまうことと似ている。死人の髪の毛を抜くことは確かに悪いことのように感じる。そして「この雨の夜に、この羅生門の上で」しているのだから、確かに悪いことなのかもしれない


 さて、注意すべきはこの表現が羅生門の上層に上る途中にも見られることである。

この雨の夜に、この羅生門の上で、火をともしているからは、どうせただの者ではない。

 この反復は何を意味するか?

 こう言ってみよう。


 これは、下人には   があったことを示している。

 さて空欄には何が入る?


 「予断」が思い浮かんだら大したもんだ。高校生からは出てこない語彙だ。

 「思い込み」「前提」あたりが出てくれば上出来。

 「先入観」が出ればOK。

 下人は既に老婆の行為を目撃する前に、それが異常なことであると決めつけているのだ。

 これは下人が老婆の行為のわけがわからないまま悪と決めつけていることと正しく整合している。


 下人の「憎悪」は、老婆の行為を「悪」と決めつけるために、読者がかろうじて了承できるような「死者への冒瀆」といった理解の余地を残しながら、一方でそうした納得できるような理由は注意深く否定され、代わりによくわからない理由が置かれる。読者は宙吊り状態におかれる。なのに、とりあえずの納得もできるから、それ以上には考えようとしない。

 だが注意深く読むと「憎悪」についての描写、形容は、やはり意図的に不自然に書かれている。この不自然さは、下人の心に生じた「憎悪」が読者にとって共感できないという意味でも不自然だが、それだけではなく、こうした情報をどのような論理に組み込むべきかがわからないことが、この部分を「不自然」と感じさせている。下人の心理が共感しにくいという以上に、それを不自然に描こうとする作者の意図がわからないことが「不自然」なのだ。

 こうした分析は、すべて「行為の必然性」につながるべきであり、その論理の中でこうした違和感を感じさせる表現がなぜ必要なのかは明らかにされねばならない。


羅生門 10 「心理」を考える意味

 一般的解釈において未解決な問題とは何か?

 これがみんなからすんなりとは出てこなかったのは、やはり注意深く小説を読んでいないのだとも言えるし、全体をバランス良く客観視することができていないとも言える。

 実はそれは生徒ばかりの問題ではない。世の国語の先生も似たようなものだ。

 どれほど繰り返し「羅生門」を読んでいても、それが問題であることが意識できないのは、小説を読んでいるのではなく、「一般的解釈」によってこの小説がわかっていると思い込んでいるからだ。

 一小説読者として素朴に読めば、それが気にならないはずはない。


 いや、気になっていたことを表明していた人もいる。最初の課題で「羅生門」最大の「謎」として既に「憎悪」や「得意と満足」や「失望」についての疑問が散発的に挙がってはいる。

 それらのどれかを単独でとりあげるのではなく、まずこれらを一括して、一段抽象度を挙げて表現したい。

 「羅生門」を読むと、その詳細で異様な心理描写に誰もが違和感を抱くはずだ。執拗に描写される下人の心理は、その一つ一つに共感できないばかりか、にわかには理解しがたい飛躍によって急変する。

 これを、一つ一つばらばらにではなく、まとめて「心理描写」「心理の推移」といった抽象度で表現できることが重要だ。そうした抽象的・包括的な把握こそ国語力というのだ。

 ところでようやく思考がそのような抽象度に届いたときに、それを「下人の心情」と表現する人は多い。だがここは「心理」という言葉を使いたい。特にここから先の考察には「理」を明らかにすることが重要なのだ。「心情・気持ち」という言葉は国語科教育が論理よりも共感を重視することの表れかもしれない。だがそうした表現は曖昧な読解を許容することになる。共感も、まず適切な読解の上にしか生じ得ないはずだ。

 小説に書かれていることには必ず意味がある。特別な意味はない、という「意味」でさえ、そう確定されるまでは、それは「完全な」解釈にはいたっていないということだ。まして「羅生門」の異様な心理描写が特別な意味を持たないとは到底考えられない。

 一般的な「エゴイズム」論的「羅生門」把握では、最初の「極限状況」と最後の「老婆の論理」を短絡させてしまえば、それだけで下人の「行為の必然性」は説明されてしまう。そこに中間部分の「心理の推移」が意味するものは組み込まれておらず、宙に浮いている。

 これが、従来の「エゴイズム」論が「羅生門」という小説を適切に捉えているとは思えない最大の理由だ。

 こうして描写される「心理の推移」には何の意味があるのか?


 わずかに「心理の推移」が主題に関わるとすれば、下人のその変わりやすい心理こそが「行為の必然性」を支えている、とする立論だ。

 根拠の貧弱な老婆の論理を鵜呑みにしたのも、不安定故の気の迷いだ。主題は「移ろいやすい不安定な人間心理」とでもいうことになる。

 確かに、推移の一環としてこの「行為」をとらえるならば、そのような理解における「必然性」はあるといえる。

 だがそれでは、結局の所、物語の決着点としての「行為の必然性」は逆に、むしろ薄弱になる。単にふらふらと一貫性のない人物がたまたま、ある時点でそちらに傾いた、ということになるのだから。そのような人物は、次の瞬間にはまた、自分の行為を反省して恥じるかもしれない。

 だが、「冷然と」老婆の話を聞いて、「きっと、そうか」と念を押し、「右の手をにきびから離して」引剥ぎをする下人の行為には、何かしら、この物語における決着点を示しているという手応えを感ずる。

 それは、途中に描かれる心理のような「推移」の一過程とは違う、この物語の主題に関わる決着点であるという感触だ。それは「不安定な心理」説とは相容れない。


 詳細な心理の描写には、主題の把握に関わる重要な意味があるはずだ。そう考えると、老婆の長台詞に至る前までの「心理の推移」こそが「勇気を生む」必然性を用意しているのであって、老婆の言葉は、単なるBGMとまではいわなくとも、下人の心が定まる間の時間経過ということになる。

 「老婆の論理」ではなく「心理の推移」が「行為の必然性」に決着する論理を考えなければならない。



羅生門 9 未解決の問題

 「極限状況」+「老婆の論理」=行為の必然性という一般的な解釈は、一見確かにわかりやすい。だが上記に見たように、詳細に考えてみるとそれは脆弱な論理によってわかった気になっているにすぎない。

 だがこうした論理による「羅生門」理解に納得しがたい理由は他にもある。

 それは、 ある重要な小説要素がまだ解釈も、言及さえされていないまま、一般的「羅生門」解釈では論理が完結していることだ。

 それは何か?


 気になることはいくつもある。

 なぜ突然フランス語が使われるのか。

 なぜ「作者」がたびたび登場するのか。

 なぜ下人が一場面だけ「一人の男」と表現されるのか。

 だがこれらの疑問は些細なことだ。大学生だった芥川が技巧を凝らそうと工夫したのだろう、というくらいで看過して良い。

 なぜ「羅城門」が「羅生門」と書かれるのか。

 「羅生門」とも書くのだ。そこに「生死がテーマだから」などと説明するのはいたずらに理屈をこねているに過ぎない(しかも解釈できてしまったし)。


 下人の行方は?

 ある意味ではわからなくても良いのだが、わかる、とも言える。

 「羅生門」が最初に雑誌に載ったとき、最後の一文は「下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつゝあつた。」だった。芥川は下人の最後の引剥ぎを、盗人になる決意として描いている。

 それを「下人の行方は、誰も知らない。」にしたからといって、そこまでの作品の論理が全く変わるわけではない(もちろん、重要な変更が全体の解釈の変更を要請するケースがありえないとは言わないが)。

 少なくとも「行為の必然性」は変わらない。それに対する作品全体でのメッセージがいくらか変わることがあるにしても。

 だからまあ何となく余韻をもった終わり方にしたかったのだろう、くらいでいい。

 他に動物比喩が多用されているという指摘もあったが、再重要ではない。生が剥き出しになった動物的な世界を描こうとしている、などと説明すれば一般的解釈に収まる。


 「にきび」は?

 これは確かに解決が必要な問題だ。

 それは、とにかくそれが意味ありげだということに拠っている。繰り返し言及される「にきび」はどうみても単なる生理現象以上の何かだ。とりわけ結末で老婆に襲いかかるときに「にきびから手を離す」ことには、明らかに何らかの意味がある。

 「にきび」は何を表わしているか?

 ここでは「にきび」を「象徴」と捉えることが必須だ。

 「象徴」とは何か?


 「象徴」という言葉は誰でも知っているだろうが、それを次のように明快に答えることは難しい。

ある具体物がある抽象概念を表わしていると見なされること

 「鳩は平和の象徴だ」というとき、という具体物平和という抽象概念を表わしている。

 もちろん、鳩が単なる鳥類の一種である鳩そのものでしかないこともある。鳥類図鑑に載っている鳩はただの鳩だ。だが、「平和式典」のニュース映像などで青空を背景に飛ぶ鳩の群は、それが「平和」への祈念を表わしていることが視聴者に了解されている。そういう了解が表現者と享受者の間に成り立っているとき、それは「象徴」と見なされる。

 小説などの虚構では、作者がそれを「象徴」として描くことが意図的であるかどうかはともかく、読者がそれを「象徴」として捉えることはある。「羅生門」の「にきび」などは、具体物として読むべきではない。「烏(カラス)」は「荒廃」や「不気味さ」だろうし、「きりぎりす」は「秋」であり「時間」だ(きりぎりすが姿を消すことで時間の経過が表現されている)。

 では「羅生門」における「にきび」は何の象徴か?

 引剥ぎの実行にあたって手を離すのだから、それは「迷い」「葛藤」の象徴だといえる。

 あるいはここまでの「一般的解釈」からすれば「良心」「正義」「道徳」「倫理観」あたりか。そこまで心にあった「良心」から手を離して引剥ぎをするのだ。

 あるいはそれを「若さ・未熟」などと表現することもできる。「倫理観に縛られて悩む若さ故の葛藤」などと言えば一続きに言える。

 そこから手を離させたのは「エゴイズム」だと言えば、「にきび」の解釈は従来の一般的解釈の枠内で可能だ。


 では何が?

 まだ重要な未解決要素とは何か?

 それは「にきび」以上に、読者にとってはあからさまに気になるはずであり、なおかつ一般的解釈の論理にまだ組み込まれていない小説要素だ。

 それは何か?


羅生門 8 「老婆の論理」はあるか

 では行為の必然性を支えるもう一つの柱「老婆の論理」はどうか?


 先のAB論争は、「老婆の論理」と引剥ぎという行為の必然性との関係、ひいては行為の意味を問い直すことにつながる。ABのどちらを重視するかは、下人の引剥ぎを「自己正当化の論理を老婆自身に投げ返す行為」と捉えるか「悪の容認の論理を受けて盗人になる決意」と捉えるかの選択につながる。

 従来の理解は下人の行為を後者として説明しているのだが、実際に訊いてみると前者を支持する者の方が多い。これは、後者のように考えることは、実はそれほど読者の実感に沿ってはいないことを示している。「極限状況」同様「老婆の論理」もまた、小説を読む読者の実感と乖離している。

 丁寧に論理をたどろう。先に三つに整理した立場のうち、3、引剥ぎは「生きるため」であり、それを語るBの論理が下人を動かしたのだとする理解はどうか?

 だがBは最初からわかっていたことだ。実際に、物語冒頭の下人は次のような認識をもっている。

この「(飢え死にしないために手段を選ばないと)すれば」のかたをつけるために、当然、そのあとに来るべき「盗人になるよりほかにしかたがない。」ということを、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。

 下人は物語の最初から「(生きるために悪を肯定する)よりほかにしかたがない」ことがわかっている。わかっていてできなかったのだ。老婆が何かしら下人の知らなかった認識や論理を語っているわけではない。したがって下人を動かしたのはBではない。

 この主張は実に論理的だ。やらなければ「しかたがない」とわかっているのにできずにいたことがなぜできたかというと、やることは「しかたがない」とわかったからだ、というのは無意味な循環論法だ。

 この論理はやはり脆弱であり、議論が進むとほとんど支持者がいなくなった。

 それでもなお次のように考えるのならば、かろうじてBの解釈も可能かもしれない。

 「羅生門」は、自分でわかっているのに実行できなかったことでも、実際に実行している者を見、その言葉を聞くとできるようになるということもあるという人間心理を描いているのだ、人は大義名分によって動く、他人の言葉を免罪符として実行しにくい行為に踏み切ることがある、「羅生門」はそうした人間心理を描くことを主題としているのだ。

 こうした解釈は、「生きるために持たざるを得ないエゴイズム」などという大仰な主題設定よりはよほど気が利いている。芥川なら書きそうだという感じもする。

 だがこれも簡単には納得できない。仮にそのような心理を主題とする小説であるならば、最後の引剥ぎの直前に、老婆の語ることは既に自分もわかっていたことだという認識を下人に語らせるか、気づかない下人に代わって「作者」が解説してしまうはずである。そうでなければこうした心理が行為の必然性を支えているという、小説の主題の在処が読者には伝わらない。周到な芥川がそこに気を配らないとは考えにくい。

 それに、これでは「嘲る・かみつく・手荒く」の説明ができない。老婆と同じように「生きるため」の悪を受け容れるならば、せめて開き直りの後ろめたさを老婆と共有してもよさそうだ。


 ではこの攻撃性はやはりAが下人を動かしたことを示しているのか。

 1の解釈のように、「自己正当化」の理屈を言う老婆に、そっくりそれを投げ返したのだ、という皮肉の切れ味は確かに小説の味わいとしても悪くない。そしてこれは「極限状況」は実は描かれていないという見方にも整合する。

 だがこれも首肯できない。

 それでは物語の主人公がむしろ老婆ということになってしまう。利己的な自己正当化の論理、詭弁によって逆に自らが罰を受けるアイロニカルな因果応報譚として「羅生門」を捉えることになるからだ。そのとき、下人はいったい何者なのか。単に老婆の論理を反射する鏡なのか。下人はどのような立場で老婆の論理を投げ返しているのか。

 これでは結末におけるこの行為が、冒頭の下人にとっての「問題」と対応しなくなる。引剥ぎをするにあたって生まれてきた「勇気」とは「さっき門の下で、この男には欠けていた勇気である」と明確に書かれている。これはこの行為が冒頭の迷いに対する決着であることを示している。単に引剥ぎによって老婆を懲らしめたのだという解釈は、引剥ぎに踏み出す最後の場面の印象だけにとらわれて、小説全体を捉えてはいない。

 では2の立場はどうか。

 少なくともAはBを支える根拠にならない。生き延びるためには、いちいち相手もそのようなことをしていたかどうかを確かめることは実用的ではないからだ。

 では行為の原理はBだが、その契機がAであると考えることは可能か。それは少なくとも従来の「羅生門」理解とは随分違った解釈になるはずである。主題は「極限状況における生きるためのエゴイズム」などという大仰なものではなく、老婆の自己正当化の論理に見られる、いじましくもしぶとい人間の悪知恵の「エゴイズム」とでもいうことになろうか。

 だがそれは「羅生門」という小説全体の書き込みが示す空気感と不釣り合いに思える。「生きるための悪を肯定することへの迷い」という当初の問題がどう解決しているのかがわからない。


 「老婆の論理」はどのように考えても、結局下人を動かすには論理的に脆弱だ。にもかかわらず「老婆の論理」が行為の必然性を導いていると考えられていることには理由がある。

 それは何か?


 理由は明白だ。老婆の長広舌の後の次の一文。

これを聞いているうちに、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。

 ここには、老婆の言葉が下人の中に「盗人になる」勇気を生じさせていると書いてあるように見える。世の中の全ての「羅生門」論は「老婆の論理」が行為の必然性を支えているとして疑わない。

 本当にそうか?

 だがこの理路を否定するには、実際に別の論理を提示するしかない。後半で展開する予定の授業はそれを企図している。

 この時点では抜け道の可能性を示しておく。

 次の二つの表現はどう違うか?

1.これを聞いているうちに、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。

2.これを聞いて、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。

 並べてみればすぐにその違いは感じ取れる。

 といってその違いを適切に説明することが容易なわけではない。Aは「聞いている」途中に「生まれてきた」が、Bは「聞いた」後だ、などという説明はイマイチ。

 B「これを聞いて」は、老婆の言葉と「勇気が生まれてきた」の間に因果関係があることを示している。だが原文のA「これを聞いているうちに」は、言葉通りに解釈すれば、「勇気が生まれて」くる間の時間経過を示しているだけだ。因果関係はあってもいいが、ないと考えてもいい(これを、原文では老婆の言葉が単なるBGMであってさえ構わないということになる、と言った生徒がいた。巧みな表現だ)。

 一般的な「羅生門」解釈は、「これを聞いているうちに」を無自覚に「これを聞いて」と言い換えている。「老婆の論理」と行為の必然性の間にある因果関係は決して疑われることなく前提されてしまう。この思い込みによって、老婆の言葉がどのようにして下人に引剥ぎをさせたのかが説明される。これは論理が転倒している。老婆の言葉と引剥ぎの実行の間に論理的必然性を認めるから因果関係を認めているのではなく、先に因果関係があるはずだとみなして、その論理を説明しようとしている。

 だが上記に見たとおり実はそうした因果関係に、それほどの論理的強度はない。


 この小説に「極限状況」や「老婆の論理」はあるか?

 ある。だが「極限状況」を身体性において読者に感じさせようとはしていないし、「老婆の論理」は新たに「勇気が生まれてきた」という変化を下人に起こすほどの論理的必然性をもたない。この二つの要因で引剥ぎという行為の必然性を説明することはできない。

 生きるための悪の容認、などという主題が想定されうるとしても、それがおよそこのように説得力のない形で作品として成立させようと考える作者がいるなどとは到底信じられない。

 それでも単にこれが失敗作なのだと断じないのならば、下人が引剥ぎをすることの必然性を支える論理を、芥川が意識的に作品に書き込んでいることを信じなければならない。その信頼がなければ「羅生門」を読むことはできない。


2025年12月7日日曜日

羅生門 7 「極限状況」はあるか

 「極限状況に置かれた下人が老婆の論理を得る」ことで引剥ぎをした下人の行為を通して、「人が生きるために持たざるを得ないエゴイズム」を描いていると考える「羅生門」理解はネット記事をみても一般的だ。これはそもそもそのように考える文学者の研究論考が、学校教育を通じて一般化したものだ。つまり専門家も含めてみんなそう考えているのだ。

 こうした「羅生門」理解を「理解する」ことは、繰り返すが授業の目的ではない(そもそも「羅生門」自体を理解することすら授業の目的ではない)。そんなものは国語の学習としてはほとんど意味がない。

 それどころか、みんな気づいているとおり、これからこうした一般的な「羅生門」理解を否定するつもりなのだ。


 これまでたどってきたような「羅生門」の解釈に納得がいかないのは、端的に言って面白くないからだ。

 これは解釈が面白くないということではない。そのような主題が、小説の面白さとして想定されていると考えることができないということだ。

 このように理解される「羅生門」は浅はかで凡庸な小説だとしか思えない。このように書かれた小説が、そうした面白さを実現しているはずだと考える小説家がいるなどと思えない。

 こうした理解は小説を読んだ印象と乖離している。それはただ「羅生門」というテキストを、小説として読まず、理解のための理屈を立てているだけだ。

 授業を受ける生徒としてではなく、小説読者として考えよう。

 今までたどってきた「一般的な解釈」はどこがおかしいか?


 小説読者として違和感を覚えるのは、まず「行為の必然性」の根拠が「極限状況」だとする説明だ。

 この説明はどこがおかしいか?


 「極限状況」は、確かにテキスト中に書かれている。

 だがこれが読者に「極限状況」として感じられるはずはない。下人は物語中「腹が減った」の一言もない。動作は素早く、力強い。到底死にそうには見えない。

 つまり言葉の上では確かに「極限状況」ともいえるものは示されているが、下人に感情移入しながら読み進める読者が「極限状況」に置かれていると感じるような肉体的な感触は描かれてはいないのだ。

 小説を読むことは読者にとって一つの体験としてある。抽象的な問題設定が提示されて「思考実験をする」ことと、状況設定、描写、人物造型、様々な要素によってつくられた物語を生きる=「小説を読む」という体験は違う。

 そもそも授業者には昔から「飢え死にか盗人か」という問題設定が「問題」と感じられなかった。「生きるための悪は許されるか」などという「問題」は、随分と暢気なものだ。「極限状況」が本当ならば、そもそも迷う余地がない。だから素朴に言えば、この男は何を迷っているんだろう、と感じていた。

 小説読者が物語を受け取る上で、登場人物の不道徳な行為に対する抵抗のハードルは、現実よりもずっと低い。何せ虚構なのだ。そもそも小説は奇矯な世界を描くのだ。引剥ぎなど、「極限状況」という言い訳があればたやすく受け入れられる。そのような問題が「問題」となる倫理観など、小説読者は持ち合わせていない。だから「飢え死にか盗人か」という選択が問題になること自体がピンとこない。

 ここに「エゴイズム」という言葉をあてはめて主題を語るのも軽すぎる。「極限状況」であれば自分の命が優先されるのは当然であり、そのような根源的な生存欲求を、近代的個人が持つに至った「エゴイズム」などという自意識過剰な言葉で表わすのはまるでそぐわない。

 そもそも「エゴイズム」と「極限状況」を結びつけることに違和感がある。「エゴイズム」などという観念は近代的個人が持つに至った自意識過剰な自意識にすぎない。それは平和な日常においてこそ浮上する問題だ。本当に「極限状況」があるとしたら、そこでむきだしになるのは、もはやそのような言葉が追いつかないような生存欲求だろう。

 「羅生門」にそうした「極限状況」は描かれていない。


 「極限状況」も「エゴイズム」も、まるで内実を伴わない空疎な評語であるとしか感じられない。

 極限状況における悪は許されるか、人間存在のエゴイズムは肯定されるか、この小説の読者はそんな問いを生きはしない。ただ論者がそうした問題設定を観念的に弄んでいるだけだ。「小説の解釈」が「小説を読む」という体験から遊離している。

 だから「生きるために為す悪は許されるか」などという問いを掲げて、そこに「カルデアネスの舟板」を引用したり、法律概念である「緊急避難」などを持ち出したりするのは、なにやら深遠なテーマについて考えているようでいて、実際はこの小説を読むという体験とは何の関係もない(こういうことを言っている教師は世の中にいっぱいいる)。

 意識されてはいるものの確かな肉体的感触として下人に(そして読者に)生きられてはいない「極限状況」は、「行為の必然性」を支えてはいない。

 それはすなわち、作者が下人の「行為の必然性」を「極限状況」に拠るものとは考えていないことを示す。芥川のような巧みな書き手が本当にこうした問題を提起したいなら、そうした問題の前に読者を立たせるはずである。読者を「極限状況」に曝すはずである。下人の窮状を体感させるはずである。

 それをしていない以上、「極限状況」が「行為の必然性」を根拠づけるという説明は説得力をもたない。

 「老婆の論理」をめぐる議論で、Aを支持する者が多かったのは、たぶんそのためだと思う。


 そうはいっても「極限状況」はやはり書かれてはいる。実際に下人は「そうしなければ、飢え死にをする」と言っている。事実としての「状況」の存在そのものは否定できない。

 だが今問うている「なぜ引剥ぎをしたか」は、単に「何のために引剥ぎをしたか」ではなく「なぜできなかった引剥ぎができるようになったのか」という問いでもある。つまり行為の必要性だけではなく、変化の必然性をこそ問うている。

 だから、引剥ぎをしたのが「生きるため」だとしても、そうした「極限状況」が行為の必然性をもたらすという物語の論理を支えるためには、「極限状況」が物語の進行に従って次第に下人の身に迫って――どんどん腹が減って――こなければならない。

 そうした変化が描かれていない以上、「極限状況」は行為の必然性を支えてはいない。


羅生門 6「老婆の論理」を検討する

 ディベートは楽しかった。

 対立は盛り上がる。

 だがどのクラスでも1時間では決着がつかなかった。検討も十分とは言えない。

 だが重要な考察をするいとぐちにもなった。

 「老婆の論理」と引剥ぎの関係を見直すことを企図したこうした検討から明らかになることは、問題は、単に下人がAとBのどちらに動かされているか、ではないということだ。

 この議論を通して、何が明らかになるのか?


 これはあてのない問いだ。だが議論が自己目的化しないために、自分たちが考えていることの意味を俯瞰して捉えるのは望ましいことだ。

 問題はAかBのどちらが正解か、ではない。ABそれぞれを支持することがどのような意味をもっているかを自覚することだ。


 最初に述べたとおり、この議論は「老婆の論理」と引剥ぎという行為の関係を詳細に検討することを目的にしている。

 「ABのどちらが強く下人を動かしたか?」という問いに対して、A:Bの割合が3:7だとしたら、Bの方がより強い、と言うことはできる。

 だがA=3は、この時初めて下人にもたらされた認識なのだから、Aこそが下人を動かしたのたのだと言うこともできる。

 共通した認識から二つの結論が導かれている。


 ここから、実は最初の問い「なぜ引剥ぎをしたか?」には、少なくとも二つの層があることが明らかになる。

 「なぜ引剥ぎをしたか?」には「下人は何に動かされたか?」という問いと「何のために引剥ぎをしたか?」という問いが重なっているのである。後者は言わば「行為の必要性」、前者は「変化の必然性」を問うている。Aは前者に答え、Bは後者に答えている、とも言える。とすれば、問題を整理すればA支持とB支持は融合できるのかもしれない。

 もちろんそうではない、という立場もある。

 あらためて立場を三つほどに整理してみよう。

  1. 下人の心を動かしたのはAの論理であり、この行為は老婆の論理をなぞることで老婆を処罰する意味合いがある。
  2. 行為は「生きるため」だが、下人は老婆のAの論理によって動くことができるようになった。
  3. 行為は「生きるため」であり、Aの論理は下人に不快感を与えてはいるが強く動かしてはいない。あくまでBの論理によって動いている。

 下人の行為を123どれで捉えるかは、「羅生門」の捉え方、つまり主題に直結する。従来の「羅生門」理解は2と3を区別していない。引剥ぎはすなわち、これから生きるために盗人になることを意味する。

 だが1では、この時の老婆に対して行われる行為だというところに重点がある。「生きるため」ではない。

 元々A支持者だった者が支持する2でさえ、従来の「羅生門」理解とは違った理解を示しているはずだ。しかも12を支持する者の方がずっと多い。それは何を意味するかが問われなければならない。


 考えるべきことを抽象的な表現で言うなら、引剥ぎという行為の「意味」が問われている、ということになる。

 議論から見えてきた解釈の相違を選択肢として示すなら、例えば引剥ぎを実用的な行為と見なすか、象徴的な行為とみなすか、とでもいえる。3は「実用」、1は「象徴」だ。


 議論をすることはそれ自体、国語科授業としては意義のあることでもある。議論が盛り上がるのは楽しい。その盛り上がりを読解につながる考察に発展させられればなお意義深い。


2025年12月5日金曜日

羅生門 5 ディベート

 「羅生門」読解のための最大にして最低限の問題について考え、それを主題として表現した。つまりどんなことを言っている小説なのか、はわかった。

 ではこれからは細かい問題か発展的な問題について考察していくのか?

 そうではない。やろうとしているのはやはり最大にして最低限の読解、すなわち「羅生門」とはどんな小説なのかを考えることだ。

 つまり「一般的」解釈を再検討しようというのだ。


 端緒として「老婆の論理」の二つの要素を検討する。

 下人が引剥ぎをする直前の老婆の言葉は「悪の容認の論理」「自己正当化の論理」などと呼ばれる論理を語っているが、ここには二つの理屈が混ざって語られている。

A 相手もしたことなら許される。

B 生きるためなら許される。

 このうち、どちらがより強く下人を動かしているか?

 行為の必然性を支えるのはどちらか?


 一般的な解釈によればBこそ行為の必然性を支えていることになるはずだ。下人は「生きるため」にやらなければならないという状況で、それをやったのだ。

 だが支持者は、学年全体ではA:B=8:2くらいの割合だった。

 Aを支持する者が多いことは、「一般的」解釈が実は複雑な問題を看過したところに成り立っていることを示している。

 「老婆の論理」と行為の実行にはどのような関係があるか、慎重に考える必要がある。


 ここをとりあげるのは、この問題を考えるいとぐちになることが期待されるからでもあるが、意見が分かれるので議論が盛り上がって面白いからでもある。

 これを簡易ディベート形式で議論する。


 さてAを支持する根拠としてどのクラスでも挙げられたのは次の一節。

その時の、この男の心持ちから言えば、飢え死になどということは、ほとんど、考えることさえできないほど、意識の外に追い出されていた。

 これがなぜAを支持することになるのか?


 「飢え死に」を「考えることさえできない」というのだから、生死が問題ではないのだいうことになる…。

 だがそうか?


 「飢え死に」と選択になっているのは「盗人になる」であり、「飢え死にを考えない」は「盗人になることしか考えない」ということだ。

 これは単に心が決まったと言っているだけであり、別にどちらかの根拠になるわけではない。


 ではAを支持する根拠として何が挙がるか?

 原話『今昔物語』の盗人が老婆の抜いた死人の髪や死人の着物も一緒に持ち去るのに対して、小説「羅生門」の下人は老婆の着物だけを剥ぎ取る。引剥ぎが生きるための実用的な行為であるなら、なるべく多くの物を奪うはずだ。これは引剥ぎが「生きるため」ではないことを示している。

 また、老婆が髪を抜く死体の女の身元は、原話では老婆の主人だったと書かれている。これが小説では『今昔』の別の挿話からもってきた、蛇を魚と偽って売っていた女に差し替えられている。原話ではAの論理がそもそも成立しない。この設定の変更によってAの論理が生じているのだから、この差し替えは、Aの論理の重要性を示している。

  • 男が奪った物
  • 死体の女の身元

 これらはA支持と論理的に整合するが、だからAの方が重要であると直ちに根拠づけられるわけではない。その改変には別の意味があるとか、大した意味はないなどということも可能だからだ。

 そもそもA支持者はこれらの論理によってAが重要だと感じたわけではないはずだ。まずAが重要だと感じ、それを補強する論理を探して、右の二点が有効だと考えたはずだ。


 一方B支持者は次の下人の言葉を挙げることができる。

では、俺が引剥ぎをしようと恨むまいな。俺もそうしなければ、飢え死にをする体なのだ。

 言葉通りとればこれは「生きるためにするのだ」と言っているのだから、Bを支持する根拠になる。

 だがこれに対してA支持者は、そんなのは単なる口実に過ぎない、と返すこともできる。

 これでは水掛け論だ。

 だがそれよりも、実はこのセリフこそ、A支持者の「感じ」の根拠なのではないか?

 これを説明するのは難しい。だがこうした小説の微妙な表現のニュアンスを分析的に語ることこそ重要な国語力だ。

 下人はまず「では」と、老婆の言葉を受けていることを強調し、相手が「恨まない」はずであることを念押ししている。その上で「俺も」と、自分と老婆が同じ立場であることを、すなわち自分の行為が相手の論理に則っていることを殊更に主張している。つまりこのセリフは、下人が本当に生きるために引剥ぎをすることを述べているというより、老婆に自分の行為の正当性を認めさせようとしているところに重点があるように感ずるのだ。

 むしろこのセリフの印象こそA支持者がAだと感ずる大きな理由なのかもしれない。


 さらにA支持の根拠を挙げよう。

 必ず指摘すべき重要な論点は、下人が老婆の言葉を聞いた後「きっと、そうか」と念を押す声に付せられた「嘲るような」という形容だ。

 さらにこの場面から、注目すべき形容をあと二つか三つ指摘したい。

 まずは「かみつくように」「手荒く」「冷然と」が挙がってもいい。

 これらの形容は何を意味しているか?

 形容とは、ある記述に、ある傾向があることを示す。取り除いても意味は通ずる。形容の前後を詰めても文として読める。

 つまり形容がなくとも行為は表現できるが、形容によって、この場合は下人の心理状態が表現されるということだ。

 これらの形容は、作者が意図して付加しているのであり、その意味は必ず解釈されなければならない。

 解釈しよう。


 「冷然と」「嘲るように」からは、下人が老婆を見下していることが伺える。

 「嘲る・かみつく・手荒く」は、老婆に対する攻撃的な姿勢を示している。

 「生きるため」に引剥ぎをするのなら、これらの老婆に対する敵愾心が表現される理由はないはずだ。

 さらにこの中でも「嘲るような」はとりわけ的確な分析が求められる。「嘲るような」とは下人のどのような心理を表しているか?

 「老婆を見下している」「馬鹿にしている」は単なる言葉の言い換えにすぎないので不十分。なぜ「見下す」のかを説明しなければならない。

 ここでは、自己正当化の論理がそのまま自分に対する引剥ぎを容認する論理として跳ね返ってくることに気付かない老婆を嘲っているのだ、といった説明がほしい。

 お前、そういうこと言うなら自分がされてもいいよな?

 これこそAの論理の帰結だ。


 一方、Bの根拠を挙げるのは難しい。そのままBを言っている下人の言葉はむしろAを支持する根拠として解釈し直されてしまった。それ以外に挙がるのは次の箇所。

 この場面で「勇気が生まれてきた」と言われている「勇気」は、「門の下で欠けていた勇気」と説明される。

 これは物語のはじめの「『盗人になるよりほかに仕方がない』ということを積極的に肯定するだけの勇気」だ。つまり「生きるための悪」を肯定する勇気だ。Bによって肯定された「勇気」が下人を動かしたのだ。

 これは真っ当にBの論理を語っており、かつ下人の言葉ではなく語り手の言葉=地の文なので信頼できる。これに対するA側の反論はあるか?


 これに対する反論として切れ味鋭かったのはF組Tさんの言葉だった。

 「勇気」がBの勇気であることは認める。だが今問題にしているのは、何が下人を動かしたか、だ。その契機がAであると主張しているのだ。

 そもそもBは元々下人自身が自覚していたことであり、それでもできなかったのだから、この場面で下人を動かしたものは、門の下では下人になかった認識であるはずだ。それがAなのだ。

 この反論自体が、強力なA支持の根拠を示している。


 このやりとりは興味深い問題をはらんでいる。この議論の意味そのものが問われている。


2025年12月4日木曜日

羅生門 4 とりあえず解釈

 さて「下人はなぜ引剥ぎをしたか?」という問いに、現状で答えてみよう。

 謎だと言っているのに答えろとは矛盾した話だが、まあ現状で言えるだけ言ってみよう、と投げかけると、みんなあれこれ喋る。

 言えることがないわけではないのだ。全く支離滅裂な話ではない。それなりには引剥ぎにいたる条件や要因は言える。

 さてここでは、この条件・要因を二つに分けて言ってみよう。あるいは二つの要素を揃えて言おう。

 とりあえず「なぜ」と聞いているので、答えは「理由」だ。「~から。」で終わるように言う。

 そこに二つの要素を揃える。


 文型を指定する。

   において   を得たから。

 それぞれの空欄に当てはまる内容は?


 水色は言わば前提で桃色は言わば契機だ。

 こんなふうに言えば良い。

極限状況において老婆の論理を得たから。

 これはどのようなことを言っているのか?


 「極限状況」「老婆の論理」をそれぞれさらに二つの要素に分解しよう。

 三回の分解過程は、要するに分析的な思考をしようということなのだが、それによって考察を緻密にすることを企図している。

 難しくはない。答えを聞けばわかっていたことだと感じるようなことだ。

 とはいえ「極限状況」の方にどこのクラスも苦労した。抽象度を揃えて二つを並べるのが難しいのだ。「行き所がない」「腹が減った」「このままでは死んでしまう」はいずれも、それこそが「極限状況」なのであって、それを成立させる二つの条件ではない。

 さて、次の2点が揃えばOK。

  • 天災により都が荒廃していること。
  • 下人が主人に暇を出されていること。

 言わば社会的状況と個人的事情、二つが揃って「極限状況」を構成している。まず災害による人命の損失やそれにともなう人心の荒廃が語られる。仏具は打ち壊されて薪とされ、物語の舞台となる羅生門の上には引き取り手のない死体がごろごろと転がっている。そうした中で下人は失職して行くあてもない。それが「おれもそう(引剥ぎ)しなければ、飢え死にをする体なのだ」という、追い詰められた状況を招いている。


 では「老婆の論理」は?

 下人の引剥ぎの実行の直前、老婆が長々と語る理屈は「悪の容認の論理」「自己正当化の論理」などと言われるが、ここには二つの理屈が混ざっている。これを分ける。

A 相手もしたことなら許される。

B 生きるためなら許される。

 老婆は二つの理屈を混ぜてしゃべっている。


 さてこれで下人が引剥ぎをしたわけはわかった。

 だとすると、「羅生門」の主題はどのようなものだと考えられるか?

 「行為の理由」という具体レベルから、「小説の主題」という相対的に抽象度の高い問題に繋げるという抽象化の能力は、国語力にとどまらない重要な思考力の一つだ。

 どのように表現したら良いか?


 考えることは重要だが、これが一般的になんと言われているかをネットで調べることもできる。Yahoo!知恵袋やWikipediaで。あるいはAIに聞いてみてもいい。世の中には国語の先生のブログなどもあれこれある。

 いくつもの記事を読み比べてみると、共通した表現、頻出するワードがある。

人が生きるために持たざるを得ないエゴイズム

 「羅生門」は「エゴイズム」を描いた小説だ、というのが一般的な「羅生門」理解だ。

 「なぜ引剥ぎをしたか?」を「極限状況に置かれた下人が老婆の論理を得たから」だと考えることと、「羅生門」の主題を「生きるために持たざるを得ないエゴイズム」だと考えることにはどのような関係があるか? 

 生きるために悪いことをしなければならない状況に置かれた下人が、生きるためには悪いことをしてもいいのだという老婆の言葉を聞いて、それをしたのだ、人間にはそうした悪=エゴイズム(利己主義)があるということをこの小説は描いているのだ…。

 つまり下人の行為、引剥ぎが、エゴイズムの発露として理解されているのだ。


 このように、「極限状況」と「老婆の論理」は、二つ揃って行為の必然性を支え、それが「エゴイズム」という主題を具現化しているのだというのが、一般的な「羅生門」の捉え方だ。


 さてこれで「羅生門」はわかった。

 もしそうならば、「羅生門」の授業はもうおしまいだ。


 本当にそうか?


羅生門 3 行為の重要性

 ではなぜ、この行為=引剥ぎが「羅生門」を読むためには最も重要だと言えるか?


 どんな小説でも常に登場人物の特定の行為の必然性が物語の「主題」を支えるというわけではない。物語中にはとりたてて必然性に疑問のない大小様々な「行為」が描かれている。「羅生門」の下人は、雨止みを待ち、石段に腰掛け、老婆を取り押さえ、羅生門の梯子を上がったり下がったりする。その中には特別に理由を問う必要のないほど当然の行為も、理由の明示されている行為もある。その中で、「引剥ぎ」は特権的に重要な位置にある。


 下人の心が大きく変化した瞬間だから?

 だが「大きく変化」は他にもある。


 だが引剥ぎは悪への変化であり、これが主題につながるから?

 それは、重要だから重要だと言っているのだ。もちろん重要そうな見通しができることは重要であるという判断の根拠として自然であるとも言えるのだが、いや解釈をする前に重要であることは言えるのだ。

 確かにこの実行には、ある飛躍が感じられる。この行為は何を意味しているのか、そこに必然性を見出さないまま読み終えることができない謎が読者に提示されている。

 引剥ぎが重要だと見なせる理由はその飛躍の大きさとともに、単に物語の終わり近くの行為だから、でもある。

 だがだがそれだけではない。これこそが問題の焦点だと感じられるのは、この行為が冒頭近くの問題提起に対応しているからだ。

 その対応を示すのは、二つの箇所に共通する単語だ。

 何?


 「勇気」だ。

 「羅生門」では冒頭で行為に対する迷いが「勇気が出ない」と提示され、その行為が実行される場面で「勇気が生まれてきた」と語られる。

 つまり物語全体をこの問題と結論をつなぐ論理の中で把握するよう促されているのだ。

 この物語の構造は、明確にその論理を作者が読者に対して提示しているように見える。読者は下人が引剥ぎをすることの論理的必然性を理解しなければならない。


 「なぜ下人は引剥ぎをしたか?」という問いは「何が下人に引剥ぎをさせたか?」という問い、すなわち下人に引剥ぎをさせた物語的な力は何か、を問うている。

 それはつまり「羅生門」という物語における引剥ぎという行為の必然性が問われているということであり、すなわち行為の意味が問われているということだ。


羅生門 2 原話との比較

 「行為」に焦点を絞ることが適当であることを確認するために、この小説のもとになっている『今昔物語』の一編「羅城門登上層見死人盗人語」と読み比べよう。

 原話と、翻案された小説「羅生門」の相違点は何か?


 まず、原話の「羅城門」が小説では「羅生門」と表記されていることにすぐに気づく。

 これはしばしば、小説が生と死をテーマにしているからだ、というような説がまことしやかに語られることがある。だがこれは眉唾だと思う。羅城門が羅生門と表記されるようになったことは歴史的な事実であり、別に芥川の創作ではない。どちらの表記も存在したのだ。それをわざわざ「羅生門」という表記を選んだのだ、と考えることにそれほどの蓋然性があるか怪しい。

 次の2点は重要かもしれない。

 老婆に髪を抜かれている死人の女の素性が違う。原話では老婆の主人、小説では蛇を干し魚と偽って売っていた女だ。これは芥川が小説化にあたって『今昔物語』の別のエピソードを合成したものだ。このことによって主題に関わる相違が生じているか?

 また、原話では盗人は老婆の着物以外に死人の着物と老婆が抜いた髪の毛を奪って逃げる。だが小説では老婆の着物だけを奪う。このことは後の議論にどう影響するか?


 次の諸点に気づいた者は注意力がはたらいている。

  • 原話では羅城門の近くに人の往来があるが「羅生門」では人気はない。
  • 原話では「日のいまだ明」るい時刻だが「羅生門」では上層に上がる頃には暗くなっている。
  • 原話では雨が降っていないが「羅生門」では雨が降っている。

 これらの描写が小説版の、陰鬱な雰囲気を醸し出している。


 さて、最も重要な相違点として挙げられたのは各クラスで共通していた。

 原話との最も重要な相違点は、原話での男の引剥ぎが、最初からそうしようとしていたものとして「迷い」が描かれていない、という点である。原話の「盗人」が小説では「下人」と称されている。

 『今昔物語』の原話では「男はなぜ引剥ぎをしたか?」という問いが生まれようがない。「盗人」が老婆の着物を剥ぎ取るのは当然であり、行為に対する迷いもない。彼は当然のように行為する。だからそもそもそこに「主題」の感触を見出すこともできない。

 ではこの原話は何を伝えたい話なのか?


 この挿話の主題は、盗人の「行為」にあるのではなく、羅城門の上層には死体がいっぱいあった、という「状況」そのものを読者に伝えることにある。老婆と男の「行為」も、その「状況」の一部だ。

 一方「羅生門」では「状況」を背景にして、引剥ぎという「行為」の意味が前面に現れている。

 「行為」は当然「動機」や「情動」によって意味づけられる。つまり下人の「内面」「心理」を考えないわけにはいかない。

 そこにこそこの小説の主題を捉えるいとぐちがありそうだ。


 下人が最後に実行する「引剥ぎ」は、確かによくわからない。なぜ彼はそれをすることにしたのか?

 だがこの問いは自覚的な思考によって選ばれているわけではなく、一読した読者には自然に思い浮かんでいる、といった体の疑問でもある。

 それを自覚的に問いとして立てる。下人はなぜ引剥ぎをしたのか? すなわち引剥ぎという行為の物語的な必然性、あるいは意味を問う。



羅生門 1 問いを立てる

  これから数時間「羅生門」を読む。


 「羅生門」は特異な作品だ。

 発表されてから100年以上経った今、間違いなく、最も多くの日本人が読んだことのある小説なのだ。

 それは人気作だということではない。「鬼滅の刃」が、「進撃の巨人」「ONE PIECE」「名探偵コナン」がいかに多くの読者を得ているとしても、読んだことのない日本人も多い。

 だが「羅生門」を読んだことのある日本人は、16歳から70台くらいまでの日本人の8割くらいにはなるはずだ。みんなのお父さんお母さんも、日本の高校を出ていれば間違いなく読んでいる。こんな小説は他にはない。

 それは「羅生門」が全ての出版社の国語教科書に収録されていて、授業で扱われないこともほとんどないからだ。高校の進学率が長らく9割の後半であり、それら日本の高校生を経験した大人のほとんどが「羅生門」を読んでいることになる。

 いわば「羅生門」は日本人の基礎教養、共通常識なのだ。

 みんなも今回晴れてその大多数の日本人の仲間入りをしたことになる。

 日本人の基礎教養「羅生門」とはどんな小説か?


 読解のために、まず問いを立てよう。

 問いを明確にすることの重要性については言を俟たない。何を考えるべきかを自覚することで思考は集中力を増す。

 「この文章は何を言っているか?」という問いは、常に有益な問いだ。授業でわざわざそう問われなくとも、常に自分で考えなければならない。

 小説の場合、これを「この小説の主題は何か?」などという言い方で表わすのだが、つまりは「何を言っているか」だ。

 「羅生門」が何を言っている小説かは、一読してただちにわかるものではない。わからないから授業で扱うのだ、とも言える。


 だが、このレベルの抽象度の問いに、最初から立ち向かうのは得策ではない。

 まずはもっと具体的なレベルの問いから始めよう。

 といって瑣末な問いではない。「羅生門」を読み解くために最低限であり、かつ最優先されるべき、最重要の問いだ。

 「羅生門」がひとまず「わかった」と思うためには、何がわかればいいのか? 「羅生門」を一読した今、最も大きな謎は何だと感じられているか? 


 主題の考察には抽象化が必要だが、まずここでは具体的な謎を取り上げよう。

 事前課題の回答を見ると、やはりまだ抽象度が高かったり、細部に拘ったりする問いも挙がっていた。

 「下人はどこに行ったか?」を挙げた者は各クラスにいるが、これは最優先に答えを得るべき問題ではない。答えがありそうだという見込みもない。

 「悪は許されるか?」のように抽象的な問いでは考えるべき焦点が曖昧になる。これは「主題」に踏み込みすぎていて、考えるべき行程が多過ぎる。また「Yes-No」で答えられる問いはあまり有益ではない。どちらかの結論が重要なのではなく、その結論を導く論理が重要だからだ。


 「羅生門」における最優先最大公約数的問いは明白だ。

なぜ下人は引剥ぎをしたか?

 物語の終わりに、下人は老婆に対して引剥ぎをはたらく。この行為の意味こそが、「羅生門」という小説の焦点だ。

 6割くらいの回答者はこれを挙げた。

 ただし表現はいくつものバリエーションがあった。例えば「なぜ悪を選んだのか?」「なぜ盗人になることを選んだのか?」などという表現をした者も多かったが、これは避けたい。

 「引剥ぎをする」と「盗人になる」は厳密に同一ではない。「盗人になる」には既に解釈が含まれている。下人が最後に行った引剥ぎが「盗人になる」ことを意味すると見なすことには留保がいる。

 さしあたっての共通認識として、小説内事実として争いのない引剥ぎという「行為」を問いとして立てておこう。


2025年11月9日日曜日

視点を変える 8 視点=スキーマ=記号

 言語論と貨幣論、広告論の対応は整理できてきた。

 さてこれをもう一度最初の「木を見る、森を見る」につなげる。

 今までに確認されたいくつかのテーゼを思い出そう。

  • 視点を変えると物事は違って見える。
  • スキーマを変えるとゲシュタルトは変わる。
  • 言語が違うと世界は違って見える。


 これをそのまま貨幣や広告にあてはめれば次のように言える。

  • 広告が違うと商品は違って見える。
  • 値段が違うと商品の価値は違って見える。

 これは納得しやすい。


 だがもう一歩、スキーマという考え方のポイントは「認識」という現象の成り立ちについてだった。

  • スキーマがなければゲシュタルトはできない(認識できない)。

 これはそのまま言語についても言えることを確認した。

  • 言語がなければ世界を(言語的に)認識することはできない。

 齋藤亜矢が「チコちゃんに叱られる」で言っていた、人間以外の動物に絵が描けない理由はこれだ。

 ではこれも貨幣や広告にあてはまるのか?


  • 貨幣がなければ(広告がなければ)商品の価値はわからない。

 これは実感に合っているだろうか?

 素朴に言えば我々は商品の価値を直観的に(貨幣や広告を媒介せず)捉えているような気がする。

 だが本当にそうなのか? というのがソシュールの問いかけだったのだ。「羊」が先にいるという考えるのが素朴で直観的な捉え方で、それに対して、いや「羊」という言葉が、それを「羊」と認識させるのだ、という逆転の発想が斬新だったのだ。

 とはいえここでも、もうちょっと実感に寄り添った言い方をしてみよう。

 どう言ったら良いか?


 こういうときは「~ではなく」型の文にするのがミソ。

商品にそれだけの価値があるからその値段がつくのではなく、その値段がついているから、それだけの価値があると認識するのだ。

 これならば受け容れることもできる。

 ではこの場合の「スキーマ」と「ゲシュタルト」は何か?


 価値体系がスキーマで、それによってここの商品に値段がつくこと、あるいはその価値を認めることがゲシュタルトだ。値段・価値は、価値体系がなければ決まらない。


 「視点を変える」をキーワードに、「木を見る、森を見る」から、言語論、広告論、貨幣論をつないで考えてみた。

 ここで使ったスキーマとゲシュタルトという概念はまだまだ汎用性がある。この後はしばらく間を置いて、さらに使い回す。

2025年11月8日土曜日

視点を変える 7 恣意性・システム

 さて、次は3「恣意性」。

 AIの文章では恣意性について、2点に分けて説明している。それぞれ、何が恣意的だと言っているのか?

 既に提示してある下の対比項目と、先に確認した1「先/後」、2「差異」の問題と関係づけて説明しよう。

広告/商品の価値

貨幣/商品の価値

言語/意味・概念・もの


 恣意性1は上の対比の左右の結びつきが恣意的であると言っている。

 言語で言えば「言葉/もの」の結びつきが、だ。犬が各言語でそれぞれ違った発音で表されているという例で説明されている。

 これを貨幣に適用すると?


 まずは商品にどんな値段をつけてもいいということだ、と言える。

 ここでは貨幣を「値段」と言い換えるところがミソだ。

 目の前のリンゴに200円の値がついていても、50万円の値がついていてもいい。その場合はミカンが30万円だったり、スイカが800万円だったりするかもしれない。現在の日本の通貨価値からすると超インフレということになるが、それも「システムの中の他の項との関係によって決まる」のだから、単に「高い」ということではなく、適正価格なのかもしれない。

 こんなふうに考えられるということが「恣意的」だということだ。

 これで4「システム・ネットワーク」にも言及してしまった。

 「貨幣/商品の価値」を「貨幣/貨幣の価値」と置き換えると次のような例もこれに該当する。

 ある価値を表す貨幣単位が「円」でも「ドル」「ユーロ」「人民元」「ポンド」でもいい。

 あるいは次のような例も挙げられる。

金のほかに、銀、銅、貝殻、石盤(中略)そして人間の奴隷といったありとあらゆるものが、古今東西にわたって貨幣として流通していた。そのあきれるほどの多様さ、いや不統一さは、貨幣が貨幣であることはそれがどのようなモノであるかということとはなんの関係もないということを意味している。(岩井克人「貨幣論」)

 左右の結びつきは恣意的なのだ。金属(硬貨)でも紙(紙幣)でもいいどころか、電気信号(カードや暗号資産)でもいい。


 広告となればその恣意性はさらに甚だしい自由として表れる。もはや何でもありとさえ言える。よく言えば創造性を保証しているともいえる。ほとんど商品の登場しない、イメージだけが表現されるCMだって広告として機能する場合がある。


 恣意性2は、「差異」、つまり切り分け方が恣意的だ、というものだ。虹は3色でも7色でもいい。フランス語のように「羊」と「羊肉」を区別しなくてもいい。

 これを貨幣に適用すると?


 例えば貨幣単位は「円」以上でも、「銭」まで使ってもいい。

 あるいは、商品の個体差を何段階に分けて、まとめて同一の値段をつけるかも自由だ。全ての商品の、それぞれバラバラの値段を付けてもいい。値段に差がある商品同士は、違った価値を持つとみなされる。すべて100円で売られていれば、それらのリンゴの価値はすべて同一だということになる。その上で、一個800円のリンゴは高級品だということだ。

 「広告の形而上学」から、そのことを言っている文章を探そう。例えば次の一節。

広告と広告との間の差異――それは、広告が本来媒介すべき商品と商品との間の差異に還元しえない、いわば「過剰な」差異である。それゆえ、それは、例えばセンスのよしあしとか迫力のあるなしとかいうような、違うから違うとしか言いようのない差異、すなわち、客観的対応物を欠いた差異そのものとしての差異として現れる。

 これが言わば「広告の恣意性」を言っているのだとわかるだろうか?


 「広告と広告との間の差異」が「商品と商品との間の差異」に「還元」できるなら、それは「必然的」ということだ。商品に差があるのだから、必然的に広告にも差がある。

 あるいは「客観的対応物」があれば「必然的」だが、それを「欠いた差異」なのだから、それは「恣意的」だと言っているのだ。


 4「システム・ネットワーク」は?

 既に言及してしまってもいるが、まず言語については以下の一節。

あるものの性質や意味や機能は、そのものがそれを含むネットワーク、あるいはシステムの中でそれがどんな「ポジション」を占めているかによって事後的に決定される

 貨幣もまた、貨幣経済システムの中で価値を保証され、使用が可能になる。具体的には、値段は市場とか相場の中で決まる。


 広告における「ネットワーク」は?

(広告が示していると見なされている商品の価値は)「広告の巨大なる集合」の中における広告それ自体の間の差異を問題にしている

 「広告の巨大なる集合」が「システム・ネットワーク」にあたる。

 商品の価値も広告も、システムの中での他の項との差異によって価値が決まる。100円が高いか安いかは、システムの中で決定される。150年前なら結構な大金だが、今では100円ショップで買い物もできない(消費税分が足りないので)。つまり価値は相対的なものであって、それは比較対象との「差異」によって決まるということだ。

 そして、「差異」の体系としての「システム・ネットワーク」の中で、言葉の意味も商品の価値も、他の項との関係によって決まる。



2025年11月7日金曜日

視点を変える 6 アナロジー=類比

広告/商品の価値

貨幣/商品の価値

言語/意味・概念・もの

 三つの項目は類比的だ。それは左右の関係に共通した構造があるということだ。

 それを説明するために、どのように考えを進めたらよいか?


 方針としては、既に言語論については考えてあるので、これを貨幣と広告に応用するとどのように言えるかを考える。

 さらに「広告の形而上学」の中で、対応する記述を探す。

 言語論では、ソシュールの考え方を明確にするために「カタログ言語観」が対比されていた。同様に、「カタログ言語観」的貨幣観や広告観とはどのようなものかを説明し、それとの対比でソシュール言語学的貨幣観・広告観を説明する。

 考える糸口としてもう一つの文章を読み合わせる。「ソシュール言語論における言語の恣意性」についてAIに書いてもらった文章だ。こういう、既に世の中にある言説をまとめるのはAIの得意とするところだ。本当に的確にバランス良く書いてくれる。

 ソシュール言語学における「言語の恣意性」

 フェルディナン・ド・ソシュールの言語論において中心的な位置を占める「言語の恣意性」という概念は、言語がどのように意味を成立させるかを根本から問い直すものである。

 ソシュールは、言語記号を「記号表現(シニフィアン、音響イメージ)」と「記号内容(シニフィエ、概念)」との対として定義し、これらの結びつきが必然的なものではなく、本質的に慣習的・恣意的であると主張する。

 ソシュール以前の言語観では、言葉は事物の「名前」であり、事物そのものに固有のラベルが貼られているかのように捉えられていた。例えば、「イヌ」という言葉は、現実の「犬」という動物と本質的に結びついていると多くの人が考えていた。しかしソシュールは、この素朴な見方を否定し、記号表現と記号内容の関係は、自然法則や論理的必然性によって規定されるものではないと主張した。

 そして、この記号表現と記号内容の結びつきが「恣意的」であるとは、具体的に以下の点を意味する。

 ある特定の音響イメージが特定の概念と結びつく論理的な必然性や、自然な因果関係は存在しないということだ。「犬」という概念を指し示すのに、日本語では「イヌ」という音を使うが、英語では「dog」、フランス語では「chien」と全く異なる音を用いる。もし記号表現と記号内容の間に必然的な関係があるならば、世界中の言語で同じ概念に対して同じ音が使われるはずだが、実際はそうではない。この事実は、音と概念の結びつきが、特定の言語共同体の間で確立された「約束事」に過ぎないことを示している。

 このような恣意性は、単に語と対象の関係にとどまらない。ソシュールは、言語が現実世界を映し取る手段ではなく、むしろ現実を切り分け、構造化する枠組みそのものであると考える。たとえば、ある言語では色を七つに分類する一方で、別の言語ではそれを三つにしか分けないことがある。このような違いは、言語が世界に先立って存在する概念の名前を貼り付けるものではなく、むしろ言語が概念そのものを構成していることを意味する。つまり、人間が何を「物」ととらえ、何を「行為」や「状態」として認識するかは、言語の分節の仕方に依存しており、その分節のあり方には根拠のない選択の側面、すなわち恣意性が含まれている。

 「言語の恣意性」という概念は、言語を個人の心理現象や事物の反映としてではなく、「体系(システム)」として捉えるソシュールの視点を明確に打ち出した。言語記号の価値は、それが指し示す対象によって決まるのではなく、むしろ言語体系内部の他の記号との関係性、つまり「差異」によって規定されるとソシュールは考えた。例えば、「犬」という概念は、「狼」や「狐」や「狸」といった他の動物の概念との区別によってその輪郭が明確になる。個々の記号表現と記号内容の結びつきが恣意的であるからこそ、言語は柔軟性を持ち、無限の組み合わせによって多様な意味を表現することを可能にしているのだ。こうした視点は言語学の枠を超え、文化、社会、思想といった広範な分野において、現実が言語によって構築されるという構造主義的な思考の基盤を築くことになった。私たちは、この恣意的な記号の体系を通してのみ、世界を認識し、理解し、そして他者と共有していると言えるだろう。

 既に確認した趣旨、内田や今井の文章と重なる論旨も繰り返されている。

 そしてさらに「恣意性」だ。

 まず「恣意性」とはそもそもどういう意味か?

 辞書を引けば「気まま・自分勝手」と書いてあるが、言語が「自分勝手」とはどういう意味かわからない。

 こういうときは対比を用いる(ところで対比の考え方は、前回確認した差異が重要というテーゼと同じだ。それがそれであることは、それ以外との差異によって明確になる)。

 これはソシュール言語論の根幹をなす考え方だから、その対義語は、「カタログ言語観」の考え方を表していると考えられる。

 「恣意的」の対義語をネット検索すると「規則的」「機械的」「一貫」などが挙がっているが、「カタログ言語観」の考え方を示すにはしっくりこない。

 それより、「恣意性」に対して文中から対義的な言葉を探すと「必然的」がそれにあたることはすぐわかる。

必然的/恣意的

 この対比を使って説明する。


 これ以降、語るポイントを以下の4点に整理し、それを次の順番で語ろう。

  1. 先/後
  2. 差異
  3. 必然的/恣意的
  4. システム・ネットワーク

 順番に、言語について確認したらそれを貨幣と広告に応用し、次のポイントは前のポイントに関連させる。


 まず1「先/後」とは何か?

 これは「生得的/事後的」のことだ。

 何が? 主語は何?

 「意味」だ。

 つまり「言語/意味」が「後/先」だと考えるのがカタログ言語観で、「先/後」だと考えるのがソシュール言語学ということになる。

 先に「もの」(=意味)があって、そこに名前(=言語)がつくと考えるのがカタログ言語観。言語によって初めて「もの」が明らかになると考えるのがソシュール。


 これを貨幣に適用する。

先に商品の価値がわかっていて、それに適正な値段がついているのではなく、値段がつくことで商品の価値がわかる。

 ここでは貨幣を「値段」と言い換えるところがミソだ。


 これを広告に応用すると次のようになる。

商品の価値が先にあり、広告はそれを表現するものだというわけではなく、広告によって商品の価値がわかる。

 「広告の形而上学」本文ではそのことを言っているか。

 次の文章がそのことを言っている。

資本主義社会においては、人は消費者として商品そのものを比較することはできない。人は広告という媒介を通じて初めて商品を比較することができるのである。


 次は2「差異」。

 まずこれは何の「差異」のこと?

 「言葉は世界を切り分ける=差異化する」などというだけでは何のことかよくわからない。

 一つ目の「先/後」と関係づけることが肝心。

 カタログ言語観は先に「意味」が切り分けられていて、そこに言葉が割り当てられると考える。

 ソシュール言語学では、言葉が切り分けられるから、それによって世界が切り分けられる、つまり「意味」が生じるのだと言っている。

 例えば赤と紫、赤とピンクとの「差異」によって意味の範囲=幅が決まる。網を構成する糸が空間を仕切る(区切る)=差異化することでその両側に意味の輪郭をつくる。最初から赤という「もの」があるわけではない。


 これを貨幣に応用すると?

 先に商品の価値にそれぞれの差があるから、それに応じた差をつけた値段がつくと考えるのがカタログ言語観的貨幣観。

 値段に差があるから、商品の価値にも差があることになるのだ、と考えるのがソシュール的貨幣観。


 これを広告に応用すると?

 これも、言い方は同じようなことになるので省略するが、問題は岩井もそう言っているか、ということだ。

もちろん、広告とは常に商品についての広告であり、その特徴や他の商品との差異について広告しているように見える。だが、人が、例えば、ある洋菓子店のウインドーのプディングの並べ方は他の店に比べてセンスがよいと感じるとき、あるいは、ある製菓会社のプディングのコマーシャルは別の会社のよりも迫力に乏しいと思うとき、それは、広告されているプディングどうしの差異を問題にしているのではない。それは、プディングとは独立に、「広告の巨大なる集合」の中における広告それ自体の間の差異を問題にしているのである

 「~ように見える」のところがカタログ言語観的広告観。カタログ言語観は、人々の素朴な見方を言っているのだが、ソシュールは、実は逆なんじゃないの? と言っているのだ。



2025年11月6日木曜日

視点を変える 5 広告の形而上学

 次にここにつなげて読むのは岩井克人「広告の形而上学」。

 これは厄介な文章だ。高校1年生に読ませる文章ではない。冒頭の段落から何のことを言っているのか、正直、わからないと感ずるはずだ。続く2段落がまたわからない。「広告の時代」とまで言われている現代、などと言われてもそう「言われている」という問題意識が高校生に共有されているはずがない。そこへもってきて「形而上学的な奇妙さに満ち満ちた逆説的な存在」などという表現に目が眩んでしまう。


 だが実はこの辺りを「理解」すべくじっくり考察するつもりはない(「形而上学」「逆説」について考えたのは3クラスくらい)。この部分の考察は、この部分を「理解」するだけに終ってしまう。「理解」は授業の目的ではない。「わかる」ではなく「できる」が学習の目的だ。

 それより今は「視点を変える」の流れの中でこの文章を読もうとしている。すると「差異」といった言葉が繰り返し登場して、アレッと思う(思ってほしい)。

 そしてついには次の一節が登場する。

言語について、ソシュールは、「全ては対立として用いられた差異にすぎず、対立が価値を生みだす。」と述べているが、…

 ソシュール!

 実は「ことばとは何か」の方でも、続く文章中に岩井克人が引用され、ソシュールの言語論が経済学にヒントを得ていたことが語られている。

 関係づけて考えることは、何ら無理矢理なことではない。

 さてどこから考えるか?


 この文章で中心的に取り上げられているのは題名にある「広告」だ。

 ではこの文章で広告と類比的に言及されているのは何か?

 広告と同程度の抽象度で二つ。何と何?


 プディングではない。プディングは例として用いられているので当然類比的ではあるが、同程度の抽象度ではない(しかもプディングが広告に対応しているわけでもない)。

 「動物」も気になる。だがそれは貨幣の奇妙さを直感的に示すためにマルクスが用いた比喩であり、確かにこれが広告にも適用されてもいるが、比喩とその対象は抽象度が違う。だがこの論理によって、広告が何に類比されているかがわかる。そう、一つは「貨幣」だ。

広告というものも、貨幣と同様、いわば形而上学的な奇妙さに満ち満ちた逆説的な存在なのである。

 もう一つは?


 一つ上の引用で既に明らかだ。

言語について、ソシュールは、「全ては対立として用いられた差異にすぎず、対立が価値を生みだす。」と述べているが、それはそのまま広告についても当てはまる。

 この文章で、広告貨幣言語と類比されているのだ。


 この文章で広告について岩井克人が論じていることを高校生が理解したり考えたりすることは難しい。それは単にこの文章の表現だったり、内容だったりが難しいというだけではない。

 実はこの議論は、先に貨幣と言語の類比が論じられてきたという経済学と言語学の議論があり、それを前提に、ここで岩井克人は「広告もそうだよね」と言っているのだ。

ソシュールが教えてくれたのは、あるものの性質や意味や機能は、そのものがそれを含むネットワーク、あるいはシステムの中でそれがどんな「ポジション」を占めているかによって事後的に決定されるものであって、そのもの自体のうちに、生得的に、あるいは本質的に何らかの性質や意味が内在しているわけではない、ということです。これは別にソシュールの創見というわけではありません。古典派経済学はすでに商品の「価値」と「有用性」が別ものであることを熟知していました。「商品の価値とは必然的に価値体系のなかでの一つの価値に過ぎず、一つの市場の需給関係が変化すれば、それは同時にすべての商品の価値を変化させてしまうことになる。」(岩井克人『貨幣論』)という経済学の知見はソシュールの「価値」という用語法に直接影響しています。(授業中に読んだテキストでは後半部分を省略してある)

 経済学における貨幣の知見をソシュールは言語に応用し、経済学者である岩井克人はそれを広告に応用する。そんな事情があることを高校生が知るはずもない。それなのに、この教科書でこの問題に初めて触れる高校生は、いきなり広告について考えることを強いられる。だからこの文章を高校1年生に読ませるのは無茶なのだ。

 とはいえ、「広告」という題材から、現代社会についての認識を得ることは、まあ有益なことだと言っても良いし、そもそも難しいということは、不可能であることを意味しない。難しいということは学習として有効な教材でもあり得るということだ。考えてみよう。


 広告と貨幣と言語が共通した性質を持っているとは、それぞれと何かの関係が類比的であるということだ。

広告/商品

貨幣/    

言語/    

 広告における商品に対応するのは、貨幣では何か? 言語では何か?


 貨幣でも、ひとまず「商品」だと言っていい。さらに「商品の~」と示唆すると、みんなすぐに「商品の価値」と補完した。「広告」に対応しているのも「商品の価値」だ。

 言語でこれに対応するのは?


 ひとまず「意味」。あるいは「概念」。「概念」という語彙は中学生には使い慣れない言葉だ。辞書を引くとわけのわからない説明がなされているが、「概念」というのは簡単に言えば「言葉の意味」という意味だ。「赤」という概念は、「赤」という言葉がもつ「意味」そのものだ。

 内田樹の文章でこれにあたる言葉は?


 最初のうち繰り返し使われている語で、これに対応するのは「もの」だ。

あることばが含む意味の幅の中にぴたりと一致するものを「もの」と呼ぶとするならば…

  文中の「もの」はすべて「(言葉の)意味」「概念」と言い換えても成立する。

 「もの」と「概念」が並列されるのを不審に思うかもしれない。この点について、授業では「ペン・ノート・黒板」などの言葉だったら具体的な「もの」を指すし、「愛・平和」だったら抽象的な「概念」を表しているだろ、と言ったが、実はこれは正確ではない。

 「ペン」という言葉が指し示しているのは、そもそも具体的な「ペン」という「もの」ではなく「ペンという概念」なのだ。このペンもあのペンも、シャープペンも万年筆もボールペンも「ペン」なのだし、「ペンは剣よりも強し」などという時の「ペン」は言論・言説という抽象概念を意味している。

 言葉が表しているのは、それに対応する具体物がある場合でもすべて「概念」であり、内田がいう「もの」はそもそも特定の具体物のことではなく「概念」のことなのだ。文章終盤では「観念」と言い換えられてもいる。

 言葉の「意味」は途中で「価値」とも言い換えられている。「広告」における「価値」と「言葉」における「意味」が類比的に対応しているのもうなずける。

広告/商品の価値

貨幣/商品の価値

言語/意味・概念・もの

 さてこれら類比項目の左右の関係にはどのような共通性があるか?


2025年11月4日火曜日

視点を変える 4 網の目

 言語論である「ことばとは何か」と「言葉は世界を」から、共通している論旨を三つ切り出してみよう。共通しているということはそれだけ言語論として重要であるとか常識であることを表していると考えられる。

「ことばとは何か」

ソシュールは言語活動とはちょうど星座を見るように、もともとは切れ目の入っていない世界に人為的に切れ目を入れて、まとまりをつけることだというふうに考えました。

「言葉は世界を」

言語は連続的で切れ目のない世界に対して線を引き、世界を切り分ける。

 ここには「切り分ける・切れ目を入れる」という表現の共通性が見てとれる。

 さらに、「ことばとは」の「厚み・幅・価値」は「言語は世界を」の「面」に対応していることもすぐに見てとれるし、それが各言語によって同じではない(ズレている)という論旨も共通している。

 さらに

「ことばとは何か」

あるものの性質や意味や機能は、そのものがそれを含むネットワーク、あるいはシステムの中でそれがどんな「ポジション」を占めているかによって事後的に決定される

「言葉は世界を」

一つ一つの単語の意味を学ぶということは、単語が属する概念領域全体のマップの中でその単語の位置付けを学び、更に領域の中で隣接する他の単語とどう違うのかを理解し、他の単語との意味範囲の境界を理解することにほかならない。

では「ネットワーク・システム」が「概念領域全体のマップ」に対応している。「ポジション」と「位置付け」が対応している。


 整理しよう。

  • 言葉は世界を切り分ける。
  • 言葉の意味には幅がある(面である)。
  • 言葉はシステムの中のポジションで機能する。


 これらの論旨が共通しているのは、今井むつみの言語論もまた、そうはわざわざ言っていなくともソシュール言語学に基づいているからだ。今井に限らず、世のほとんどの言語論はソシュール言語学を前提にしている。

 問題はこの3点がどう関係しているか、だ。

 そのことを正しく捉えるには、そうでない考え方と対比して、ではどう考えるのがソシュール流か、と考える。


 「面・幅・厚み」はどのような考え方を指しているか?


 いや、書いてあることはわかりやすい。言葉の意味には、ある「幅」がある。「ムートン」の例も、色の例も、何も難しくない、あたりまえのことを言っている。

 たしかに切れ目を入れて分割した一つの領域には「幅」がある。それを今井むつみが「面」と表現していることもわかる。

 ではこれは?

概念は示差的である。つまり概念はそれが実定的に含む内容によってではなく、システム内の他の項との関係によって欠性的に定義されるのである。(『一般言語学講義』)

 当然、考えるべきは「示差的・実定的・欠性的」だ。こんな言葉はまるで一般的ではない。ここでしか見たことがない。だが、わからない言葉ではないはずだ。漢字の意味で見当がつく。文脈でも読める。

 ではここでソシュールが言っているのは何のことか?

 これを内田は次のように言い換える。

あるものの性質や意味や機能は、そのものがそれを含むネットワーク、あるいはシステムの中でそれがどんな「ポジション」を占めているかによって事後的に決定されるものであって、そのもの自体のうちに、生得的に、あるいは本質的に何らかの性質や意味が内在しているわけではない

 この「事後的・生得的・本質的」と先の三つをまとめて対比的に並べると?


実定的・生得的・本質的/欠性的・示差的・事後的

 これは「~ではなく」型の文型によって判断できる。否定される側を左に置いておく。

 さらに内田の文章で、最初に対比的に並べられるのは?

カタログ言語観/ソシュール言語論

 ここから言葉の仕組みについてソシュールがどのように考えたかを整理する。その際、カタログ言語観を比較に用いて「~ではなく」と言うことを心がける。


 説明のためには「網の目」を喩えに使うと良い。

 これはソシュール自身が使っている比喩だ。ただしこれは、言葉が単独で存在するのではなく、言語システム=ネットワーク=「網」の中で、その関係性の中で機能していることを表現する比喩だ。

 この場合、一つの語は網の結節点に対応している。結節点の位置は、他の結節点と引っ張り合った釣り合いによって決まっている。結節点は単独で存在するわけではなく、網(ネットワーク)の中にある。

 だがこれでは今捉えようとしている考え方にはうまく合わない。そうではなく、網の「目」こそ一つの語に対応していると考えよう。それでもシステム内の関係性によって語の意味が決まるという比喩の趣旨は変わらない。

 何もない空間に糸を張る。これが「切り分ける」=差異化の比喩だ。糸と糸の間には幅がある。縦糸と横糸、それぞれの隙間によって作られた四角(最近のサッカーのゴールネットでは六角形だが)の隙間は当然「面」積のある「面」だ。この一つの目がそれぞれの言葉だ。

 それ自身が切り分けられたものであることによって、言葉は世界を切り分ける。それは「幅」を持つ「面」だ。その網の目は、網全体の釣り合いの中で、ある位置を占めている。

 これで上の3点については説明できた。

 ではこれが「実定的ではなく欠性的・示差的である」=「生得的・本質的ではなく事後的である」とは?


 カタログ言語観は、「面」としての言葉が「実定的・生得的・本質的」であるということになる。これはどのような状態か?

 それは「羊」とか「赤」とかいう意味の四角が、単独で、網よりも先にバラバラに存在している状態だ。

 だが、網の目の四角が単独で先に存在することはできない。ある四角は、周囲8個の四角の隙間にできている「穴」だ。そして他の目も同様に、すべての四角が、互いに区切られていることによって生じた「面」のように見える「隙間」なのだ。

 この「隙間・穴」こそ「欠性的」であり、「互いと区切られることで生じる」が「示差的」だ。区切られたから「事後的」に穴ができるのだ。

 赤という「四角」は「オレンジ色・紫・ピンク・茶色」などに囲まれ、それぞれの隣り合った色との境目にある糸によって輪郭づけられている。「オレンジ」の向こうには「黄色」があり、「紫」の向こうには「青」がある。

 色を表す言葉はこうした関係の網の目=システム=構造によって、それぞれの「意味」を生じる。網の目に先立って「意味」であるところの四角は存在しない。

 「切り分ける」とはこの、糸によって空間を分けることを言っている。


 上の比喩の「網」とは何か?

 言葉が集まっているのだから、いわば辞書のようなイメージだ。

 それに対してカタログ言語観では、それは「カタログ」だ。

 ソシュール言語学の「辞書」と、カタログ言語観の「カタログ」はできあがりは同じような相貌だが、成り立ちが違う。

 「辞書」に対応する「網」は、何もない空間を糸で区切ることで、四角が並んだ構造として現れる。

 「カタログ」は、既にバラバラと存在している四角を集めてタイルのように敷き詰めたものだ。


 さて、このことは説明できたろうか?

 これは「理解」すべき事柄ではなく「説明」できるようになるべき事柄だ。今我々がやっているのはソシュール言語学を学ぶことではなく、国語の学習だ。

 ところで上の考え方のどこが「スキーマ」でどこが「ゲシュタルト」なのだろうか?


 「スキーマ」とは「赤」を「赤」たらしめる言語システム=網の目であり、それによって生じた「赤」という概念であり、「赤」という言葉だ。これらは言語が言語として機能する一連の仕組みであって、その全体が「スキーマ」だ。

 そして「ゲシュタルト」とは、そうしたシステムよって対象を「赤」と認識している状態だ。

 言葉がそうした機能を失うとき、「赤」は「赤」に見えなくなる=ゲシュタルト崩壊する。

 

 このことは「理解」すべきではなく「説明」すべきことだが、とはいえ「理解」しておくのは有益ではある。こうした考え方=認識自体がスキーマとして、次の何事かを考える手がかりになる。


視点を変える 3 ことばとは何か

 ここに言語論を合わせる。

 とはいえ教科書の言語論、今井むつみ「言葉は世界を切り分ける」は、「木を見る、森を見る」との接点が見えにくい。

 だがここに、補助的に内田樹「ことばとは何か」をあわせると、それぞれの共通性が見つかるから、三つの文章を総合的に読解することができる。

 まず「木を見る、森を見る」と「ことばとは何か」に共通している論旨を捉えよう。何か?


 例の図版にダルメシアン犬が見えるかどうかという話が、夜空に星座が見えるかどうかという話に似ていることに気づくはず。

 これらの共通点・接点によって、三つの文章の論旨をつなぐ。


 とはいえ、ダルメシアン犬は「木を見る、森を見る」本文に出てくるわけではなく、教科書の編集部が勝手に挿入した図版だし、「ことばとは何か」の星座の話は喩え話だし。

 それぞれ元々何の話なのか? 何と何が対応していることになるのか?


 対比の形で整理しよう。

「木を見る…」/「ことばとは…」

ダルメシアン犬/星座

 対比の多くは対立を表すが、これは類比。類比的に対応しているものを揃えて書き出そう。

 ダルメシアン犬の話は「スキーマ」と「ゲシュタルト」という言葉で説明される「認識」の話だった。

 ではこれに対応するのは「ことばとは…」のどの言葉か?


 関連するとは共通点があるということであり、共通しているとは対応しているということだ。

 対応しているとは、同じ文型の同じ位置にそれらの要素が配置されるということだ。

 対応していると見なすためにはどのような文型を想定する必要があるか?


 「認識」についての命題は「認識とはスキーマにあてはめてゲシュタルトをつくることだ。」などと言っておいた。

 この「スキーマ」と「ゲシュタルト」に代替できる言葉を「ことばとは何か」から探す。

 「ゲシュタルト」に対応する言葉「観念」「ものの形」は、しばらくすると挙がった。「ゲシュタルト」=「まとまり」は確認済みだが、「まとまり」は「ことばとは何か」にも共通して文中に登場する。


 スキーマに対応する言葉が難しい。「切れ目」だとか「概念」だとか、いろいろ候補が挙がったが、「ことば・言語」が最も真っ当に代替できる。


「木を見る…」/「ことばとは…」

ダルメシアン犬/星座

   スキーマ/ことば・言語

 ゲシュタルト/ものの形・観念

   まとまり/まとまり


 左辺は「認識」という現象についての命題として文にした。「認識とはスキーマにあてはめてゲシュタルトをつくることだ。」の同じ場所に、対応する言葉を右辺からそのまま代替してみる。

認識とはことばにあてはめてものの形が見えてくることである。

 これは正しい。

 例えば次の文章はそのことを言っている。

ある切れ目を入れて星を繋いだ人は、そこにはっきり「ものの形」を見出すことができます。

 さらに、正しいことを実感するには、逆・裏・対偶にしてみるのが有効だ。

スキーマがなければゲシュタルトはできない(認識できない)。

 これを入れ替える。

言語がなければものの形は見えない。

 このことを言っている部分を文中から探すことは当然できる。

見える人にはありありと見える星座が、そのように切れ目を入れない人にはまったく見えないのです。

言語の出現以前には、判然としたものは何一つないのだ。


 共通する「まとまり」も使ってみよう。

斉藤

スキーマの要素に当てはめて、ひとまとまりとして捉える。人間が物を「何か」として認知したり、見立てたりするときには、ゲシュタルト的な見方をしている

内田

ソシュールは言語活動とはちょうど星座を見るように、もともとは切れ目の入っていない世界に人為的に切れ目を入れて、まとまりをつけることだというふうに考えました。

 言語活動によって「まとまり」が生まれる。「ゲシュタルト」=「まとまり」なのだから、ここでも「スキーマによってゲシュタルトが生まれる」と言っているのである。


 「スキーマ」=「言葉」、「ゲシュタルト」=「まとまり」=「ものの形」。

 これはそもそも人間の認識についての話だった。認識は外界の情報を「スキーマ」に当てはめて「ゲシュタルト」を構成することだ、と。つまり我々は外界を言語という「スキーマ」によって認識しているのだ。

 これは少しも無理なこじつけではない。今井むつみは別の文章や話の中で、しょっちゅう「言語はスキーマだ」と言っている。齋藤亜矢は「チコちゃんに叱られる」に出演した際、「なぜ人間だけが絵を描けるのか?」という疑問に「人間だけが言葉を使えるから」と答えている。ふたりの言っていることに関連があると考えるのは少しも無理なことではない。


 さらに「木を見る、森を見る」の趣旨を、単元名に合わせて次のように表現した。

視点を変えると物事は違って見える。

 このテーゼは、今度はどのように捉えられるのか。

 文章後半で、筆者が経験した様々な学問分野に言及し、次のように言う。

分野ごと、人ごとにさまざまな視点があり、そこから見える景色がまるで違うということだ。

 これはつまり上のテーゼそのものであり、それはすなわち次のように言うことができる。

スキーマを変えるとゲシュタルトは変わる。

 これは言語論に対応させると次のように言い換えられる。

言語が違うと世界は違って見える。

 つまり日本語話者と英語話者は世界を違った見方で見ているということだ。

 認識についての捉え方が、だんだんつかめてきたろうか。

 「スキーマ」とは、言ってみれば「見方」のことで、「ゲシュタルト」は「見え方」だ。見方を変えると見え方は変わる。


 さて、今井・内田の言語論では、もうちょっと考えたい問題がある。 

 言語というスキーマのはたらきについて、二人はどんなことを言っているのか?


2025年11月3日月曜日

視点を変える 2 スキーマとゲシュタルト

 次の文章を読む前に、「ゲシュタルト」「スキーマ」という語に慣れておく。この二つの心理学用語を使い回して、その概念を自分のものにしよう。使える語彙は多い方が良い。語彙はそれ自体、思考の武器だ。持っていると、それによって考えられることが増える。持っていなければ考えられないことが考えられるようになる。

 教科書に載っている図版を見て、そこにダルメシアン犬が見えるとはどういうことかを「ゲシュタルト」と「スキーマ」という言葉を使って説明しよう。

 言葉は「どういう意味か」を頭で理解するのではなく、使うことで身体になじませる。


 法則性もない、無秩序にインクが飛び散っているだけの白黒の図版の中に、ある瞬間、突然ダルメシアン犬が見える。この現象を「ゲシュタルト」「スキーマ」という言葉を使って言うとどうなるか?


 「スキーマ」という語は文中に一度しか出てこないが、語注で「認識の枠組・図式」と説明されている。5頁の記述では「パターン」がこれにあたる。「型」もいい。

 「ゲシュタルト」は語注で「まとまり」「構造」と言い換えられている。


 簡単に言おう。あれこれの説明を抑えて、シンプルな表現に。

 白黒の図を、「ダルメシアン犬」の「スキーマ」にあてはめた時に、「ダルメシアン犬」という「ゲシュタルト」が構成される。

 これが「ダルメシアン犬が見えた」という現象だ。


 これをさらに抽象化して言おう。あるいは一般化。普遍化。

 そもそもこれは何についての話なのか?


 「何についての話なのか?」という問いかけで、それにふさわしい抽象度で問題を捉えることができるかどうかが、既に国語力の問題だ。「ダルメシアン犬についての話」ではない。「スキーマの話」でもない。ここではそれより一段抽象度を上げた問題の捉え方を要求している。「画を見る話」は一段抽象度が上がった。さらにもう一段。

 「ごんべん」の漢字二字の熟語で。


 これは「認識についての話」だ。「見える」とは「認識する」ということだ。

 文中から「認知」を挙げてもいい。「認識」「認知」「知覚」は、同じ現象を表現する言葉を、おおよそ複雑さの順に並べているだけで、実際はグラデーション状に連続している。ここでは、より複雑な過程を含む「認識」で代表させておく。

 つまり「見えるとはどういうことか?」は「認識とはどのような現象か?」ということだ。この問いに、「ゲシュタルト」と「スキーマ」という語を使って答える。

認識とは、外界の情報を、あるスキーマにあてはめて、ゲシュタルトを構成することである。

 こうしたシンプルな表現がまず難しいのだが、そこがまあ国語的練習だ。


 さらにこれをにしたりにしたり対偶にしたりしてみる。それができることは、それが理解できていることを示している。理解していないと機械的にひっくり返そうとして微妙に意味の違った文を作ったりする(厳密な論理学的意味での「逆・裏・対偶」ではない。また論理学では「逆・裏」は元の命題と同値とは言えないが、むしろ積極的に同じことを意味するように表現するところが国語的な練習だ)。

 命題も条件文の形にしておこう。

命題

認識できているとすれば、外界の情報が、あるスキーマにあてはめられて、ゲシュタルトが構成されている。

ゲシュタルトを構成されている(認識できている)とすれば、外界の情報がスキーマにあてはまっている。

外界の情報をスキーマにあてはめられないならば、ゲシュタルトを構成することができない(認識できない)。

対偶

ゲシュタルトを構成することができない=認識できないならば、それはスキーマにあてはめられない(またはスキーマがない)ということである。

 こういう言い換えは論理的思考力とも言えるが、まあ平たく言って、国語力だ。言うべきことをいくつかの表現で想起できることも、複数の表現の内容を比較してその異同を見分けることも、重要な国語の力だ。


 例えば、国語では読解力があるとかないとか言うが、読解できるということは、何かの枠組・型・スキーマに、文章の情報をあてはめることができるということだ。そうしたスキーマを豊富にもっていて、うまくあてはめられることが「読解力が高い」ということだ。文章が「わかった」と思うことは、ダルメシアン犬が見えた、ということだから、つまりゲシュタルトが成立した、ということだ。

 「スキーマとゲシュタルト」という概念自体がスキーマだし、「自立と依存」とか「近代的個人の誕生」「個人と分人」とかいうのも評論を読む上での有効なスキーマだ。

 あ、この文章の主旨は近代批判だ、と思えたときには、ゲシュタルトができている(ダルメシアン犬が姿を現している)。


2025年11月2日日曜日

視点を変える 1 木を見る、森を見る

 新シリーズ「視点を変える」に入る。

 これは教科書冒頭の単元名だ。とはいえ国語の教科書の「単元」というのが何を意味しているかはよくわからない。何となく共通したテーマがあるということなのだが、といって読み比べに有効なほどの関連性は、編集上も想定されていない。それができたのは唯一「共に生きる」だったので、そこから今年度の授業を始めたのだった。

 この「視点を変える」も、三つの文章をまとめていて、それなりには「視点を変える」というテーマが共通しているのはわかるが、どうも有効な読み比べの見通しが立たない。

 それよりも教科書の目次を見ると「視点を変える」の第一編、つまり教科書冒頭教材の「木を見る、森を見る」と、教科書後半の「鳥の眼と虫の眼」というのが、題名からすると関連づけられそうだ。「見る」と「眼」だし、「木/森」と「鳥/虫」という対比も重なりそうだ(ところで「鳥の眼と虫の眼」が収められている単元は「近代の先へ」で、「〈私〉時代のデモクラシー」もその一編だ。「鳥の眼」と「〈私〉時代」はどうつながるんだろうか?)。


 「木を見る、森を見る」の作者、齋藤亜矢は「芸術認知科学者」だそうだ。よくわからん肩書きではある。

 だがみんなはこの名前に初めて出会うわけではない。みんなが受けた高校入試の国語の問題に、この人の文章が出題されたことを指摘したのはD組のMさんだった。しかも同じ『ルビンのツボ』収録の文章だ。みんなにとっては因縁の相手だ。


 さて、中学生にも読める想定なのだし、この文章も教科書の冒頭に収録されているということは高1の生徒に最初に読ませるつもりなのだから、難しいことは別にない。読めば「わかる」。すぐに一文に要約する。

 文章の主旨は「認識」か「主張」だ。

 「認識」ふうに言えばこう。

視点を変えると物事は違って見える。

 「主張」ふうに言えばこう。

いろんな視点から物事を見よう。


 教科書冒頭の文章は、なにがしかメッセージを含んでいる。これからこの教科を学ぶ高校生に向けた、編集者からの。

 とすれば、編集者は「現代の国語」という教科が、その学習によって、君たちにさまざまな「視点」から物事を見ることを推奨するものであるとメッセージを送っているのだと考えられる。

 だが具体的には「視点」とは何か?


 そもそも「視点」とは何か。例えば次の二つの文では「視点」の意味が違う。

  1.   さまざまな視点から物事を見ることが大切だ。
  2.   この絵画は、見る人の視点が自然と中央の人物に集まるように描かれている。

 「視点」という言葉には「どこから見るか」と「どこを見るか」の二つの意味が混在している。1は「どこから」で、2は「どこを」だ。それを区別したいときにはそれぞれ1「視座」、2「注視点」などと言い換えることもある。斎藤の言う「視点」はどちらか。

 「自分以外の何者かの視点に立つとドラマチックに視点が変わる」といった一節では「視座」のことを言っているようにとれるが、「手前の方の一つのリンゴにぐっとフォーカスして見るとおもしろい。そのまま少しだけ動くと、視点を中心に立体的な空間が立ち上がって、どきっとしたりする。」という一節では「注視点」の意味にもとれる。

 文中で「視点を変える方法」として紹介されている二つの方法は、見る「角度」や「倍率」を変えるということだ。これは「視点」の二つの意味とどう関係しているか。

 角度についての「正面から、横から、上から、下から。立ち位置を変えると、おのずと別の側面が見えてくる。」というのは「どこから見るか」、つまり「視座」の問題だ。だがすぐに「目線を少しずらしてフォーカスする部分を変えるだけでもよい。」と続く一節では「注視点」の意味に変わっている。

 一方倍率は対象との距離の問題だと考えれば「視座」の問題だが、これはフォーカスの中心=「注視点」を中心として周囲のどこまでを見るか、つまり視野の広さの問題と考えると「注視点」の意味にもとれる。

 題名の「木を見る、森を見る」はどちらかといえば視座の問題というより注視点と視野の問題だが、後半の「これまで、理学、医学、芸術学、教育学と、立ち位置の離れた分野に身を置いてきた。この右往左往した経歴の中で実感したのは、分野ごと、人ごとにさまざまな視点があり、そこから見える景色がまるで違うということだ。」における「視点」は「視座」の問題だと言える。


 さて、この「視点」という問題を、別の文章との読み比べの中で考える。


2025年10月24日金曜日

共に生きる 23 小論文

 小論文のお題は次の通り。

福岡伸一「生物の多様性とは何か」、若林幹夫「多層性と多様性」、宇野重規「〈私〉時代のデモクラシー」を結びつけ、「近代」と「多様性」と「民主主義」の関係と、そこに生じる問題点を述べ、その解決・改善策に対して「動的平衡」という考え方のもつ可能性について600字程度で述べよ。

 こんなふうに考えよう。

 まず、「近代」と「多様性」はどのような関係になっているか?

 「多様性」の対比は「均質性」(=単一性・均一性)。

 近代において多様性は増大しているか? 減少しているか?

 近代において世界は多様化しているか? 均質化しているか?


 前回詳述したことを結論するなら、つまりどちらの面もある、ということになる。一方で多様化し、同時に均質化しつつある。

 ではそうした多様性の増大/減少は「民主主義」にどう影響するか?


 「影響」と言っても「問題点」を問われているので、つまりマイナスの影響を述べることになる。

 多様化は「みんなそれぞればらばら」化のことだから、当然「民主主義」的合意形成を阻害する。意見がまとまりにくい。若林の文章からも宇野の文章からも、そうした論旨が指摘できる。

 一方、均質化は民主主義の健全さを損なう。それぞれの信念や理想や利害があるはずなのに、みんな同じ意見なのは不健全だ。もっといえば、社会が一方向に突き進む危険は、例えば民衆に支持される戦争などを見れば明らかだ。


 均質化の否定的側面は、福岡の「動的平衡」概念からも裏付けられる。多様性をもった生物の相互依存が「動的平衡」を可能にし、生態系の安定をもたらす。

 この「動的平衡」の考え方を、「生態系」を「社会」に置き換えて、「民主主義」の問題解決に応用しよう。


 ということでこれをまとめる。

例1

 「近代」は、伝統の束縛から個人を解放し、普遍的な人間性を基盤とする社会を築こうとした。しかしその結果、特定の価値観が「普遍」として実体化され、本来豊かであるべき人間社会の「多様性」は失われつつある。現代社会では、誰もが「私らしさ」を追求する一方で、その個性は均質化されるという矛盾が生じている。

 この状況は、生物の多様性が生態系を維持する原理から学ぶべき点を示唆している。生物界では、種がそれぞれ固有の役割を果たし、互いに補完し合うことで、システム全体が絶えず変化しながらも安定を保つ「動的平衡」が成立している。多様性が失われた生態系は、環境の変化に対応できず脆くなるのと同様に、人間社会の多様性が失われれば、社会は新しい課題に適応する力を失う。

 このような社会で、「民主主義」は機能不全に陥る。「私」が唯一の価値基準となり、他者との関係を希薄化させる中で、共通の課題を解決するための「私たち」を形成することが困難になっているのだ。民主主義は本来、多様な意見を持つ人々が対話し、協働することで成り立つが、画一的な「私」の集合体では、健全な議論は生まれにくい。

 この問題に対し、「動的平衡」の考え方は肯定的な可能性をもたらす。民主主義を単一の理想を目指す静的なシステムではなく、多様な個人がそれぞれの役割を尊重し、相互に作用することで、常に揺らぎながらも安定を保つ動的なプロセスとして捉えることだ。一人ひとりの「私」が固有の価値観を持ちつつも、他者との協働を通じて「私たち」という関係性を絶えず再構築すること。この営みこそが、均質化された近代社会が失った多様性を回復し、変化に強く、しなやかな民主主義を築く道となるだろう。

例2

 近代は普遍的な「個人」を生み出した。それは、人間はみんな人間として「同じ」であるという理念を前提としている。一方で、そうした「個人」は、それぞれ自分の「固有性」を主張し合う。社会が全成員を人権を持った個人として「同じ」ように扱うということは、一人一人が「違う」ことを認めるということでもある。

 同時に近代社会は、欧米型の資本制とそれに基づく産業社会を地球的な規模で押し広げ、世界中どこでも大量生産の工業製品が生活の中に溢れる、「同じような社会」と、そんな社会の目指す「同じような発展」を世界化していった。一方でその反動として文化の多様性の保護も叫ばれる。つまり近代は多様性を一方で減少させつつ、一方で増大させていったのである。こうした認識は若林と宇野に共通している。

 二人はともに、社会における多様性が分断をもたらす危険、すなわちデモクラシーの困難をもたらすことを指摘する。だが福岡は多様性を、生態系の安定と持続を支える要件だと述べる。「生態系」を「社会」に置き換えれば、民主主義についても同様に、多様性がもたらす肯定的な面を評価できる。生物種の均一化の危険は、社会の言説にとっても同様に危険である。民衆の意見が画一化すると、社会は柔軟性を失う。例えばポピュリズム(大衆迎合主義)やSNSによる「エコーチェンバー現象」は世論の均質化を加速し、社会の分断を生み出しつつ、極端な保守主義や反動主義につながる危険がある。それが「独裁」をもたらす可能性は、最近の世界で起こっている現実の問題として、杞憂とは言い切れない。

 多様性に支えられる「動的平衡」の考え方を、健全な社会の安定性を確保するために応用するなら、例えば組織における任期制や、民主的な選挙によるリーダーの交代などを制度として担保するなどのアイデアも考えられる。均質化し固定化することなく社会構造を維持する仕組みが必要である。

例3

 近代社会は、普遍的人間の理念を掲げつつも、実際には均質化を進めてきた。市場経済や資本主義は世界を同じ形に塗り替え、多様性を豊かさではなく障害として扱う傾向を強めたのである。その結果、若林が指摘するように、人間社会は本来「一つであり、かつ多様」であるにもかかわらず、その多様性が抑圧され、特定の文化や価値観が普遍性の名の下に世界化されていった。宇野が述べる現代の「〈私〉らしさ」の強迫も、この近代的均質化の延長にある。個人は「自分らしさ」を求められるが、それは市場によって型にはめられた類型化された「個性」にすぎない。自由や多様性を謳いながら、その実態は制約と画一化であるという逆説がここにある。

 このような状況において福岡の「動的平衡」の考え方は示唆的である。生態系において多様性が秩序を支えるのは、絶えざる消長と変化を受け入れる柔らかい仕組みを持つからである。恒常性は静的な固定によってではなく、流動的な変化の受容によって維持される。社会や民主主義も同様に、固定的な同一性や均質性を強いるのではなく、差異と揺らぎを前提とした関係性の網の目によって支えられるべきだろう。多様性は対立や断絶の源ではなく、むしろ動的な平衡を実現する条件である。

 したがって、近代が普遍性を名目に均質化を進め、現代が〈私〉らしさを商品化する中で失われかけているのは、多様性を内包する動的な均衡の視点である。民主主義が真に機能するためには、普遍的人間の理念を固定的な形で押しつけるのではなく、異なる存在が相互に依存し補完しあう関係性の中で自己を更新し続ける営みとして再構想する必要がある。動的平衡の思想は、このような柔軟で強靱な民主主義の可能性を開くものであり、多様性の否定や形骸化を超えて、新たな共生の地平を提示するのである。

 一つは授業者、あとの二つはAIの書いたものだが、AIたち、実にそつなくバランス良く、もっともらしい言い回しで論じてみせる。しかもこれをあっという間に仕上げてくる。なんか悔しい。

  慶應のSFC(総合政策学部・環境情報学部)の入試問題は、国語の問題については、日本の大学の入試問題で最も難しいと思われるが(合格が難しいというなら東大だろうが、問題が難しいのはSFC)、この課題はそのくらいの難度がある。高校1年生にはキツいとは思う。みんなよく頑張った。


 ここまで「共に生きる」で読んできた文章の筆者、鷲田・近内悠太・山竹伸二は哲学者、松井は経済学者、伊藤は美学者、宇野は政治学者、若林幹夫は社会学者、松村圭一郎は文化人類学者、福岡伸一は分子生物学者だ。それぞれ異なった分野の専門家が、それぞれに違った主題について論ずる文章を、「共に生きる」をキーフレーズに読み比べてみた。

 そこに「自立」「近代的個人」「民主主義」「多様性」「生態系」といった諸問題が横断的に接続していく。

 格差やイデオロギー対立によって分断が拡がりつつある現代において、共生は大きなテーマである。

 さまざまな文章の読み比べから、こうした問題について半年間、多角的に考えてきた。


2025年10月23日木曜日

共に生きる22 -近代と「多様性」

 福岡と若林をつなぐ問題を総合的に扱うためにもう一つの文章をここにからめる。宇野重規「〈私〉時代のデモクラシー」だ。


 まずは共通点を探す。

 「多様性」は「〈私〉時代のデモクラシー」には直接は登場しない。だから「多様性」という概念に対応する論点が何かないか、と考える。

 それとともに、そもそも共通する言葉も登場している。しかも重要なキーワードとして。何か?


 共通する言葉は、またか、と思ってもらっていい、「近代」だ。近代という概念はそれくらいそこら中に関連する、様々な論の基礎になっている概念だということだ。

 では「近代」及びその果てに訪れる「現代」と「多様性」にはどんな関係があるか?


 次のような一節は、互いに似たようなことを語っていると感じないだろうか?

多層性と多様性

「一つであり、かつ多様である」という在り方は、社会の中のさまざまな事物に見いだされる。(略)社会を構成するそうしたさまざまなものによって、人間の社会自体が「一つであり、かつ多様であるもの」として存在している。

〈私〉時代のデモクラシー

〈私〉抜きに、社会を論じることはできなくなっています。そのような〈私〉は、一人一人が強い自意識を持ち、自分の固有性にこだわります。しかしながら、そのような一人一人の自意識は、社会全体として見ると、どことなく似通っており、誰一人特別な存在はいません。このようなパラドックスこそが〈私〉時代を特徴づけるのです。

 上の「一人一人が強い自意識を持ち、自分の固有性にこだわります」は「多様性」と置き換えることができそうだ。

 一方「多様」の反対が「一つである」なのだがこれは宇野の「全体として…似通っており、誰一人特別な存在はいません」と対応しているように見える。

 みんな「同じ」でみんな「違う」。

 こうした状態は「近代化」とどういう関係にあるか?


 例えばこんな一節。

多層性と多様性

〈近代性の層〉が人類史上持つ重要な意味の一つは、そのような多様な人間集団が「同じ人間の社会」であり、それゆえ集団を構成する個々人も民族や文化の拘束から自由な一人の人間として主体たりうるという、「普遍性としての人間と人間性」の理念を提示し、それを規準とする社会を実現しようとしてきたことだ。(略)人間とは基本的に同じものであり、それゆえどの人間の社会も同じ理想的状態を実現しうるという、普遍主義的な理念を基底に持っている。

 近代は「個人」を生んだが、そうした「個人」の発見こそ同時に人間の「普遍性」の発見でもある。「普遍」つまり共通性=みんな同じ、だ。

 これは「〈私〉時代のデモクラシー」の次の一節と比較できる。

近代においても、最初の頃には歴史において実現されるべき目標の理念がありました。「公正で平和な社会」などというのが、それです。 

 「公正」の他にも「平等」ともいっている。人間はみんな「同じ」であることは「理念・理想」なのだ。

 一方でそれは肯定的な面ばかりではない。

多層性と多様性

だが現実の近代社会は、資本制とそれに基づく産業社会を地球的な規模で押し広げ、世界中どこでも同じような建物が建ち、鉄道や自動車から家庭電化製品に至るまで同じような機械を用い、民族衣装を捨てて洋服を着る「同じような社会」と、そんな社会の目指す「同じような発展」や「同じような豊かさ」を世界化していった。

 つまり「みんな同じ」は、目指すべき目標でもあったが、同時に忌避すべき事態でもある。

 そして宇野はその多様化がまた別の難しさを生んでいることを最後に述べている。多様化する〈私〉は〈私たち〉を形成することが難しくなっているのだ。

 これは「多様化」と「民主制」に対してどのような議論を招来するのか?


 今回の一連の考察は小論文としてまとめる。


2025年10月22日水曜日

共に生きる21 生物多様性2 自転車操業

 この文章で述べられているのは、生物多様性がなぜ大事か、であり、それには「動的平衡」という考え方を理解することが求められている。

 それを考える糸口として面白い箇所をとりあげよう。

 文中で「動的平衡」を「永遠の自転車操業」と表現する箇所があるが、この意味はすんなりと腑に落ちているだろうか?


 必要ならば「自転車操業」を辞書で引いて、意味を確認しておく。その上で、この文章では何を言っているかを理解できているか、自らに問う。

 この一節の面白いのは、そもそも「自転車操業」という慣用表現が既に比喩で、それがさらにここで表わしたい何事かの比喩になっているという二重の比喩になっているということだ。

 比喩というのは、二つの間に共通する特徴や構造があるときに成立する。「綿のような雲が空に浮かんでいる」といえば、綿と雲の間に「白くてふわふわする」という共通点があることで成立している。空一面を覆う雨雲には「綿のような」という比喩は使わない。

 ここでは二重の比喩、つまり三つの対応項目の間に、どのような共通点があると言っているのか?


 まずは比喩されるものと比喩の三層構造を整理しよう。何が何に喩えられているのか? 上の「雲」が「綿」に喩えられている、というときの「雲」「綿」にあたるものは?

  1. 自転車
  2. 操業
  3. 動的平衡

 まず2の「操業」は何のことか?

 ここで「操業」を辞書で引いてしまうと「機械設備を動かす」などという説明が出てくるのだが、それでは「自転車」と「機械」がカテゴリーとして混乱するので、比喩として機能しない。

 ここでは「会社を経営する」「お店を営業する」ほどの意味。「自転車操業」というのは、赤字で倒産寸前の企業の経営状態を指す慣用表現だ。

 2の「会社の経営」に合わせて1も「自転車の運転」と揃えておこう。ここに3も揃えて「~の~」で表そう。

 「動的平衡」が「自転車操業」によって比喩されているとは、「動的平衡」の仕組みが「自転車操業」的だということなのだが、この「動的平衡」が、さらに何を指しているかを考える。

 発表させてみるといろいろな言い方が提案されたのだが、その中でも次の三つは適切であり、かつ興味深い。

  • a.生態系の保全
  • b.生命の維持
  • c.種の存続

 これらは全く別のレベルのことを指している。bは個体レベルの話で、cは「種」、aの「生態系」となれば動植物全てを一括りにしている。

 そして、この一節の「動的平衡」が、どれを指しているかを特定することは難しい。本文全体はa「生態系」の話だったはずだが、この前後では「生命」の語が使われている。といって「生命の時間はずっとずっと長い。何万年。何億年。」といった表現は、一個体の「生命」に限定すべきではないように思える。

 にもかかわらず、ここでの「動的平衡」で説明しようとしている例としてどれも適切だ。

 福岡伸一はこれらミクロからマクロまでの生命現象を全て「動的平衡」という考え方で捉えようとしているのだ。

 とりあえずもう一度比喩の三層構造を再確認。

  1. 自転車の運転
  2. 会社の経営
  3. 生態系の保全


 123に共通している性質をさしあたり「動き続けることでバランスを取っている」「止まると倒れる」くらいに言ってみる。これがもともと「自転車操業」という慣用表現の元になっている自転車の運転についての性質だ。これははそのまま実感できる。

 これを2,3に適用してみると?

 2でいうなら「動き続ける」は営業を続けることであり、「倒れる」とは倒産することだ。借り入れの返済のために、営業して得られた収入をそのまま借金返済と次の営業のための資本に充てるという回転を続けないと、直ちに倒産する。


 これを3にあてはめると「倒れる」とは生命現象の停止、すなわち死を意味する。

 では3で「動き続ける」は?


 文中から指摘できるのは次の段落で、絶え間なく元素を受け渡しながら循環している、といった表現で表わされるような生命の在り方だが、これはいささか抽象度が高い。具体的には?


 具体的にはabcで言い方を変える必要がある。

 a「生態系」で言えば、植物が光合成をして、それを動物が食べ、その動物をさらに捕食者が食べ、死骸を微生物が分解する…といった様々な食物連鎖を想像したい。

 そこでは、ある生物が死ぬことで別の生物に取り込まれるという元素の受け渡しが行われる。「自らを敢えて壊す。壊しながら作り直す」と表現されているのは、食物連鎖における個体の「死」と別の個体の「生」だ。「壊すことによって蓄積するエントロピーを捨てることができる」は、個体が死ぬことで「老化」というエントロピーをリセットして、新しい個体はエントロピーのない状態からスタートできる、ということだ。

 b「生命」では、aの全生物が、さしずめ全身の体細胞に対応している。誕生と死滅を繰り返しながら、福岡伸一がよく用いる表現を使えば1年で全身の元素が入れ替わってしまっているのに、その個体はその個体のアイデンティティを保っている。

 c「種」では、その種の個体はどんどん入れ替わっているのに、種全体は(ゆるやかに変化をしながらも)存続している。


 比喩表現は「何となくわかる」といったわかり方で伝わるものなのだが、こうして厳密に説明できるかどうかで「ちゃんとわかっている」かどうかが試される。


2025年10月21日火曜日

共に生きる20 -共に生きる

 ところで、この文章をここで読むことにはどういう意図があるか?

 この文章が載っている頁の直前が実は高校に入って最初に読んだ「共に生きる」という単元だ。自立という主題をめぐる三つの文章の読み比べが企図された単元だった。

 「生物の多様性」は別の単元だが、「共に生きる」の直後の一つ目に置かれていることの意味について、編集部は意図している(実際に編集部に聞いてみた)。

 この文章は「共に生きる」シリーズの9本目の文章として読んでいるのだった。

 そう思ってこの文章を俯瞰してみると、その論理にはここまでの8本の文章と奇妙な類似性があることに気づく。

 どんな?


 8本の文章すべてに通ずる魔法のフレーズは「他者とのつながり(が大事)」だった。この文章もそうだということは感じられるだろうか。

 さらに、8本の中のとりわけ、どれと濃厚な共通性が見つかるかと言えば、「生物の多様性」を読んでいて「相互依存的」という言葉が登場するあたりで、注意が喚起され、連想をはたらいてほしい。

動的平衡においては、要素の結び付きの数がおびただしくあり、相互依存的でありつつ、相互補完的である。だからこそ消長、交換、変化を同時多発的に受け入れることが可能となり、それでいて大きくバランスを失することがない。

 ここなどは、「自立と市場」で松井彰彦が自立における市場の有用性を認める論理と重なるはずだ。

数多くの緩いつながりに支えられた生活、それが市場経済の本質である。

 生態系と市場には共通して、数多くのプレイヤーによる相互依存の構造がある。福岡がそれによって生態系が「大きくバランスを失することがない」というのは、いわば動的平衡による生態系の「自立」を語っているのだ。

 社会も一種の生態系なのだ。そこで生活をすること=自立と、地球環境における生態系が、「相互依存的」という論理で類比される。

 これもまた「共に生きる」がテーマなのである。


2025年10月20日月曜日

共に生きる19 問いを立てる

 福岡伸一「生物の多様性とは何か」を読む。

 読んだら「何が書いてある文章なのかな?」と自分で考える癖をつける。手っ取り早くいえばそれは1文要約をするということだ。それをしようとする姿勢自体が読解を促すのであって、要約されたものを後から見て理解することは、それだけ学習の機会を失っている。

 といってなんとなくそれができるようになるのを期待するばかりでなく、一種のメソッドとして意識的に行う方法としてここまで繰り返し行っていたのが、例えば「対比をとる」ことだ。テーゼはアンチテーゼと対置されることで輪郭がくっきりする。「~である。」と言うために、前半に「~ではなく、~」と言っておくと、何を言っているかが明確になる。

 さらにもう一つのメソッドを紹介する。「問いを立てる」だ。


 問いを立てることの重要性はいくら強調してもしたりない。しばしば、答えを得るよりも問いを立てることこそ重要だと言われたりもする。

 それは多くの場合「解決すべき問題を明確にする」というような意味においてだが、ここでは文章の読解のメソッドとしての「問いを立てる」を経験してみる。

 「何が書いてあるか」はつまり「要約」のことだと上で言ったが、機械的な抜粋とつなぎ合わせて要約らしきものはできるとしても、それが「腑に落ちる」かどうかは保障の限りではない。キーセンテンスそのものを提示して、要約だと言ってしまうこともできる。

 ともあれ、しばしばやっている「15字くらいで要約」と同時に、それはどのような問いの答えになっているかと考える。つまり、この文章はどういう問題について考えよう(伝えよう)としているかを、問いの形で表現するということだ。

 この問いは、筆者自身が文中で明示している場合もある。評論で「~だろうか?」「~のはなぜか?」などと言い回しは頻出する。だがそれらは、当面の論理を展開するための措辞に過ぎない場合もあるので、文中から探すことも試みていいが、それよりむしろ「答え」であるところの要旨から遡って、それに対応した「問いを立てる」。つまり文章全体の主旨を、筆者の問題意識と対応させて捉えるのだ。

 その際注意すべきことは、答えが二択になるような問いは有効ではないということだ。「~は良いのだろうか?」という問いは、ほとんど「良くない」という結論ありきの言わば反語なのであって、結論が「良くない」としたら、その文章の論旨として捉えるべきは「なぜ良くないか?」だろう。

 この「問いを立てる」は、読解のためのメソッドでもあるが、広く思考のためのメソッドだと言っていい。


 さて「生物の多様性とは何か」ではどうか?

 いやこれは、探す、どころか題名が問いの形になっているではないか。

 ではこれが主旨に対応した問いなのだろうか?


 そうではない。この問いの答えが、この文章の主旨であるとみなせそうな感触がない。

 「生物の多様性」は文字どおり、いろんな生物がいる、ということなのだろう。それについての予断に反した説明はあらためてあるわけではない。

 「生物の多様性」はいわばテーマで、それをめぐって何事かを議論しているわけだが、「生物の多様性」という概念自体の説明をしているわけではないのだ(実はこの題名は教科書の編集部がつけたもので、言わばミスリードだ。原書で筆者の福岡伸一自身がつけている見出しは、後述する適切な「問い」の形になっている)。


 さてではどのような問いを立てるのが適切か?

 みんな同じ問いを思い浮かべるに違いないと想定していたら豈図らんや、聞いてみるとけっこうトッチラカったのだった。

 例えば「~とは何か?」という形で問いを立てるなら、それが一般には知られていない概念であるか、一般的な定義ではない、別な側面をとりあげようとするのがその文章の目的であると見なされる場合には有効だ。「生物多様性」についてはそんなことはまるでない。では「ニッチとは何か」? 確かにこの文章では「生物多様性」と比べれば「ニッチ」についての説明は、ある。しかも「ニッチ」についての一般的な理解とは違った意味合いを読者に伝えてもいる。だがそれが中心的な話題かといえば、イマイチだ。部分に過ぎる。

 では「動的平衡とは何か?」は?

 確かにこれは社会一般への浸透度合いからしても、「多様性」「ニッチ」に比べて、ここで説くべきと筆者が考える必然性は高いし、この文章の主旨にとっても重要な概念だ。

 とはいえ「~とは何か?」型の問いは、結局のところある概念の説明がその文章の主旨なのだと見なしているということだ。それではどうしても文章の一部分になってしまう。この文章では「動的平衡」の概念を読み手に理解させることが主旨なのだとは言えない。

 ではどのような問いの型が適切か?


 「環境保護のために人間には何ができる・すべきか?」といった問いも多く挙がった。

 答えをどう想定しているのかと聞いてみると「人間の分際をわきまえる」というような答えが挙がったが、これはこの文章の把握として適切か?

 評論文には、筆者の認識や主張が書かれている。主張が強くはなく認識が中心であるような文章は「説明文」と呼ばれ、主張が明確だと「論説文」などと呼ばれる。多くの評論には両方の要素がある。

 上の問いと答えによって把握される文章の主旨は「主張」に引っ張られすぎているともいえる。確かに文章の最後の方はそういう方向で書かれている。ではそこまでは?

 例えば「環境を守らなければならない」といった主張は当然すぎて、わざわざ書かれる必然性に乏しいから、あらためてそうした主張をこの文章から読み取ることにそれほど意味はない。「人間は自らの分際をわきまえなければならない」も、その延長としてそれほど中身のあることを言っているわけではないので、こうした把握が十分とは言えない。

 あるいは収録部分の末尾「パラダイム・シフトを考えねばならない」を主張だと見なすことはできるが、これは「動的平衡」のことだ。つまり「何をすべきか?→動的平衡の考え方を理解すべき」ということになるのだが、まだ全体の主旨を捉えているというにはイマイチ。

 では「どうしたら生態系を保持できるか?」は?

 これは上の問いに比べて、環境保護の仕組みに踏み込んでいるといえる。上の問いはそれよりも人間の役割に重点を置いている。

 さてどうしたら保持できるか。短く言えば「動的平衡を維持する」だが、これがこの文章の核心となる問題提起と結論だとすると、教科書の題名「生物の多様性とは何か」はどこから出てきたのだろう。

 元々は題名の「生物の多様性とは何か」がイマイチ、と思って考え始めたのだが、まずは素直にこの題名を使うのが発想しやすいはずだ。

 ということで次の問いがバランス良く全体の主旨を引き受けている。

なぜ生物の多様性が必要・大事か?

 これは、生物の多様性は大事だという一般常識に対して、ホントにその意味がわかってる? という問いを読者に投げかけているということだ。

 さてこの答えは?


 短い答えは本文中にある。

地球環境という動的平衡を保持するため

 これを長くしようとすれば、「動的平衡」という概念について説明し、それを保持することと「生物多様性」の関係を説明し…、ということになる。そうなればもうこの文章の主旨は充分に捉えられていると言っていい。

 この文章は、生物学者による科学読み物として、まずは説明文的に読もう。読者としては「動的平衡」という考え方を理解し、「生物の多様性の重要性」について認識をあらため、確かにすることが求められている。

2025年10月19日日曜日

共に生きる 18 資本主義社会に生きる

 「交換と贈与」「自立と市場」の論旨は、対比構造を揃えて並べた時に、肯定/否定の主張が逆の方向性を持っているように見える。

 その感触は間違っていないが、逆ベクトルを強調するのはいささかミスリードでもある。構造を対応させるのに利用した対比が、実は正確に対応しているわけではない。

 どういうことか?

交換/贈与

市場/個人的関係

 これらの対比は、実は同一の軸で並んではいない。左辺が対応していることを確認して、これらの対比が対応しているように説明した。では右辺はどうか?

 松井論で「個人的関係」としてまとめた二つの例は熊谷さん親子と、「なめとこ山の熊」の小十郎と商人の関係だ。

 このうち、熊谷さん親子は確かに「贈与」の関係かもしれない。

 だがもう一つの小十郎と商人の間には「贈与」の関係などなく、むしろ「交換」の関係だと言っていい。しかも力関係が不均衡であるにもかかわらず、他の選択肢はない(選択肢がないから不均衡のまま固定されている。もはや対等な「交換」ですらなく、言わば「搾取」だ)。

 つまり「個人的関係」と「贈与」は対比の右辺として対応しないのだ。

 そもそも、「市場/個人的関係」の対比の要素は、関係における拘束力の「弱い/強い」と、選択肢の「多い/少ない」だ。

 「交換/贈与」はそうした要素の対立では全くない。つまり軸が違う。

 したがって、二つの対比を並べるところに錯覚がある。

 では「自由」と「自立」の関係は?


 松井彰彦は市場を全面的に肯定しているわけではない。確かに市場が自立を助けると言うが、次のようにも言う。

市場は多くの場合、さまざまな選択肢を私たちに与えてくれるが、それとても絶対視すべき存在ではない。(略)市場に依存しきってしまうこともまた、脆弱な基盤の上に立った自立と言わざるをえない

 一方「自由」の危険を近内は皮肉交じりに述べる。

ただし、その自由には条件があります。―交換し続けることができるのであれば、という条件が。

 交換し続けることができるのであれば、というのはお金があれば、という意味だから、お金がなくなったときには交換できなくなってすぐ困窮する。これは松井が言っている「脆弱な基盤の上に立った自立」だ。

 つまりこれらが好ましくないことにおいて、二人の認識は一致しているのだ。

 また、松井の述べる大震災の際のボランティアの例はまさしく「贈与」だ。

 通常の「市場」による自立が困難になった時、「贈与」がそれを救う。

 ここでもまた、二人の認識は一致している。


 そもそも「自由」が「依存しない」だとして、「自立」は「(特定の相手に)依存しない」ではあるが、この括弧の部分を外して「自由」と「自立」を同じ「依存しない」だと錯覚させていたのだ。

 だが「(特定の相手に)依存しない」はつまり「みんなに依存する」ではないか。

 「自由=誰にも依存しない」と「自立=みんなに依存する」はそもそも正反対だ。それを等値して、評価が反対なのはなぜかと問題設定するところがミスリードなのだ。


 また松井は次のようにも言っている。

特に精神的な満足感は多くの場合、市場以外のところで手に入れるしかない。

 それこそ近内が問題にしている領域だ。

 確かに我々は資本主義の市場経済システムの中で生きている。そこにあるのは「交換」の論理だ。だが友人や家族との関係にまでそうした論理を敷衍していいのか?

 経済学者である松井彰彦は、あくまでこの資本主義社会で「自立」して生きるためには市場が有効だと言っているだけだ。

 だがその「交換」の論理を親子や友人にまで適用していいと言っているわけではない。

 一方、哲学(研究)者である近内は、つまり「精神的な満足」を問題にしているのだ。

 その、議論の重心がどこにあるかによって、二人の主張は反対に傾いているように見えるが、二人の認識はむしろ一致していると言っていい。


2025年10月18日土曜日

共に生きる 17 自由と自立

 もう一つ。考える手がかりを提案する。

 「交換と贈与」の「自由」という観念の扱いは、「自立と市場」における「自立」に対応している。

 どういうことか?


 「交換と贈与」では「自由」について次のように言う。

誰にも頼ることのできない世界とは、誰からも頼りにされない世界となる。僕らはこの数十年、そんな状態を「自由」と呼んできました。

あらゆるもの、あらゆる行為が商品となるならば、そこに競争を発生させることができ、購入という「選択」が可能になり、選択可能性という「自由」を手にすることができます。

 これは「自立と市場」で論じられている「自立」の状態に対応する。松井彰彦は熊谷さんの言葉によって「自立」を次のような状態として示す。

依存先が十分に確保されて、特定の何か、誰かに依存している気がしない状態が自立だ。

 頼らない(依存しない)、選択肢が十分確保されている状態が「自由」であり「自立」なのだ。

 ここでも二つの論は共通した論点をもっている。

 そして近内論では「自由」は否定的イメージで語られるが、松井論では「自立」は目指すべき状態として肯定的な文脈で使われている。

 やはり両者は反対方向の主張をしているように見える。

 このことをどう考えたらいいか?


 「交換/贈与」における「交換」の否定と「自由」の否定は、どのような論理でつながっているか?


 特定の相手に頼らないで選択できる状態が「自由」であり、それは相手を(それはすなわち自分も)「交換」可能な存在だと見なすことだ(「交換」できないのは不「自由」)。

 近内は、それでいいのか? と問いかける。もちろん反語だ。「良くない」のだ。

 「市場/個人的関係」における「市場」の肯定は、もちろんそれが「自立」を支えるからだ。それはまさしく上の「特定の相手に頼らないで選択できる状態」だ。「自立」できるのは良いことに違いない。

自由・交換(否定)/贈与(肯定)

自立・市場(肯定)/個人的関係(否定)

 二人の見解をどう考えたらいいか?

 対立する見解が存在することは別におかしなことではない。何であれ、現実に賛否両論あることは世の常だ。

 だがそういって済まさず二つの論がどういう関係かを納得しよう。

 一つには、見解が相違するなら相違するで、なぜそういう結論になるかに、納得できる理由を見出すこと。

 もう一つは、相反しているようなここまでの整理が不適切であることを示し、二人の見解の関係を示し直すこと。

 授業者の想定としては、どちらも可能だ。二つの論旨が相反している「ように見える」のがそもそも意図的なミスリードによっている。思考を、議論を活性化させるには対立を作るといい。わざとそれをやっているのだ。

 だが議論の目的は、どちらかの殲滅ではない。融合だ。どう納得を共有するか、だ。

 どう考えたらいいか?



共に生きる 16 交換と贈与

 「共に生きる」シリーズとしてここまで読んだ7本の文章に続いて、近内悠太「交換と贈与」を読む。

 事前課題の要約とともに、ここまでの7本で、最も論旨の共通点があるのは? と聞いてみると、最も多く上がったのは松井彰彦「自立と市場」だった。みんな勘が良い。ねらい通りだ。

 さあ読み比べよう。


 連想が働くのは「交換と贈与」の文中に何度も「市場」という言葉が登場するので自然なことだ。それは、論じている領域というかテーマに共通性があるからだ。何か? 

 二つの文章はともに、ある社会システムにおける人間のありようについて論じている。それを表わす言葉は共通してはいないが、対応している。

 それを表す言葉を文中からそれぞれ4字で拾うと?

 「交換と贈与」では「資本主義」。

 「自立と市場」では「市場経済」。

 この対応=共通性によって、みんなは二つの文章が関連した話題を扱っていると感じているはずだ。


 この共通性によって二つの文章を比較したときに、まずはある違和感を感じ取ってほしい。何だかその主張に逆のベクトルがあるなあ、と。

 それはどのようなものか?


 二つの文章の関係、などという抽象的な問題がどのようなものかを明晰に語ることは容易ではない。

 ともかく、比較するためには共通する土俵を用意しなくてはならない。

 「共通する」というのは、一つには上に見たとおり「資本主義」と「市場経済」を重ねてみるということだが、まだその先の展開は容易には読めない。

 もう一つは、文章の構造を明らかにして、その構造を対応させるというやり方もある。

 構造?

 論理構造を把握し、明示する一つの方法は、対比をとることだ。

 両者の主な対比を挙げる。

 「交換と贈与」は言うまでもなく「交換/贈与」

 一方「自立と市場」では「自立」と「市場」は対比されているわけではない。では? と問うとすぐに「自立/依存」の声が挙がる。もちろんそれは対比だが、それはこの文章の主旨を示す、重要な対比ではなく、語る上で使う対義語、というほどの位置づけだ。

 「自立と市場」の主要な対比は確認済み。「市場/個人的関係」だ。

 「主要な対比」というのは、その文章の中心的要素と、それを主張するために、それと対義的な項目を否定的に対置したセットのことだ。「交換と贈与」ではそれが題名に示されているが、「自立と市場」では「市場」の対比項目が文中では明示されていない。だが「自立を支えるために市場が有効だ」という主旨を明確にするため、有効でない具体例が対比的にとりあげられている。それを「個人的関係」と表現しておいたのだった。

 二つの対比を並べてみよう。まず「交換/贈与」をこの向きに並べておいて、そこに「市場/個人的関係」を比較するには、どちらをどちら向きに並べるべきか?

交換/贈与

市場/個人的関係

 この並べ方は適切か?


 まずこの向きでいいとして、これで先の違和感が明確になっただろうか。

 二つの対比は、「肯定/否定」が、左右逆になっているのだ。

交換(否定)/贈与(肯定)

市場(肯定)/個人的関係(否定)

 この「肯定/否定」の、二つの文章での捻れをどう考えたらいいのだろうか?


 何気なく並べた左右が不適切なのでは?

 いや、そうではない。「交換」と「市場」が同じ側に置かれることには十分な必然性がある。

 どんな?


 「市場」とは市場経済システムにおける関係が構築される場だ。そこでは「交換」の論理で人々は結びついている。

 「交換の論理」とは何か?

 「交換と贈与」の文中に次の一節がある。

「割に合うかどうか」という観点のみに基づいて物事の正否を判断する思考法を、「交換の論理」と呼びたいと思います。

 「割に合うかどうか」というのは、経済合理性があるかどうかということだ。それはすなわち「市場」の論理だ。需要と供給のバランスで適正な価格が決まり、代金を払えば品物やサービスが受けられる(払わなければ受けられない)。誰かが一方的に損をするような不合理なことは起こらない。起こさないために例えば独占禁止法などの措置がとられる。

 一方「市場経済=資本主義」システムとは、サービスを含む全てが商品として、貨幣を媒介にした「交換」によって取引される社会だ。この場合「市場」は「交換」の場だと言えるが、それは商品と貨幣が「交換」されるというだけではない。

 さらに重要な「交換」とは何か?


 「交換と贈与」では、商品と貨幣が交換されるから「交換の論理」が良くないと言っているわけではない。次の一節に表れているのは何の交換か?

交換の論理を生きる人間は、他人を「手段」として扱ってしまいます。そして、彼らの言動や行為には「お前の代わりは他にいくらでもいる。」というメッセージが透けて見えます。

 この「交換」を「市場」経済の場に適用すると、何が「交換」可能になるということになるか?


「自立と市場」に次の一節がある。

特定の誰かと強い依存関係に陥ることはない。A店でものが買えなくてもB店に移れる。Cという客に嫌われてもDという客がものを買ってくれれば店は商売になる。

 これはつまり、売り手と買い手双方にとって、それぞれが「交換」可能になるということだ。

 市場では、正当な対価さえ払えば、誰から買ってもいいし、誰に売ってもいい。売り手から見て、買い手はそれぞれ交換可能な存在でしかないし、買い手から見ると売り手は交換可能なのだ。


 こうしてみると、対比の左辺「交換」と「市場」が対応していることには納得できる根拠がある(ように見える)。

 なのに「交換と贈与」では右辺「贈与」が肯定的に、「自立と市場」では左辺「市場」が肯定的に主張されている。

 このことをどう考えたらいいか?


 ひとまず「贈与」と「市場」が肯定される論理を確認しておこう。

 資本主義のシステムの中で、我々は「交換」の論理で生きる。しかしそこには人間同士の信頼が成立しない。みんな孤独だ。そうした「交換」の論理と対比され、肯定されるのが「贈与」だ。

 一方、自立を支えるために「個人的関係」に頼るのは危うい。それに比べて「市場」は自立にとって有益だ。

 やはり二つの文章の肯定/否定は捻れている。


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