「舞姫」と「山月記」の物語構造を空間の対比として捉え、それぞれの空間の移行が意味するものを重ねることで、物語が新たな相貌を見せる。
〈虎〉になった理由こそが主題になっている「山月記」に対して、「舞姫」は〈虎〉から人間に戻る逡巡とそこに起こる悲劇にこそ主眼が置かれている。
豊太郎にとって〈虎〉とは「まことの我」、つまり「自我」の象徴だ。
これを前提に、少々理屈をこねてみる。
豊太郎は「本当の自分=自我」を見出すことで自由になったと錯覚したが、結局は相沢や天方伯とエリスとの綱引きの間で、何ら主体的な選択をしないまま流され、エリスを発狂させるにいたる。
これは「本当の自分」などというものがそもそも幻想なのではないかという主題を示してはいないだろうか?
一方、李徴が虎になるのは、いわば自我の暴走だ。制御を失った「解放」の中で、結局は本来の自我=〈人間〉が消滅してしまうのだ。
とすると、正反対の結末を迎える二つの物語が、実はどちらも「本当の自分=自我」(という幻想)の挫折を描いた物語だということになる。
「本当の自分=自我」といえば?
そう、おなじみの「近代」における「個人の確立」だ。
「舞姫」という作品は、近代化の入口に立った日本から西洋を見た鷗外が、西洋から流入する「近代」に対する違和を語った小説だとは言えないだろうか。
これは実は「こころ」の主題にも重なる。
「こころ」は選択の物語のように見えるが、実は「先生」はほとんど選択の余地などなく、そのようにしかできないといったふうに運命に流されている。これは「主体的な選択をする自我をもった人間」などという近代的な人間観に対する漱石の違和を語っているのではないか、という考察を、昨年の授業の最終盤でした。
図らずも「こころ」との比較を先取りしてしまったが、こうした考察に導かれるのもまた一興ではある。
あるいは袁傪と相沢という登場人物の比較を考察の糸口としてみよう。二人を比較すると、どのようなことが考えられるか。
袁傪と相沢の共通点は何か?
二人がそれぞれ主人公の旧友であることは指摘できる。だがそれだけではない。象徴的には二人をどのように捉えればいいか?
二人はともに現在も官職に就いている。つまり二人は李徴と豊太郎が失っている「故郷」と「エリートコース」という二つの世界を象徴する人物なのだ。物語は、〈虎〉になった李徴/豊太郎に対して、〈人間〉を象徴する袁?/相沢が再会する、という共通の構図において展開する。
こうした比較はどんな考察を可能にするか?
たとえば、袁傪が山中に消えてゆく虎=李徴を見送るのに対し、相沢は豊太郎を日本に連れ帰る。こうした対応の違いはなぜ生じたか?
物語中、袁傪と相沢はそれぞれどこで主人公と会うか?
袁傪が李徴に会うのは山中、つまり〈虎〉の世界である。〈虎〉になった李徴を目の当たりにしている袁傪にとって、李徴を人間界に連れ戻すという選択肢が最初から無い。
一方相沢が豊太郎と会うのはどこか。カイゼルホオフだ。つまり〈人間〉の世界なのだ。
だから相沢には、そもそも豊太郎が〈虎〉になっていることが見えてはいない。それは相沢と豊太郎の置かれている位相の差がもたらす認識のずれだと言ってもよい。
このことは、最初の通読の際に考察した、カイゼルホオフに向かう前の豊太郎の身支度の場面に象徴的に表われている。
この場面はいわば、エリスのいる〈虎〉の世界から相沢のいる〈人間〉の世界へ越境するために豊太郎が変身する場面だ。
身支度を整えた豊太郎を見てエリスが「何となく我が豊太郎の君とは見えず。」と言う。虎の娘であるエリスには人間の姿になった豊太郎は「私の豊太郎さん」ではないのだ。
一方で相沢の目に映る豊太郎は単なる〈人間〉でしかない。だからこそ相沢は疑いもなく豊太郎が日本に帰るものと決めてかかる。
また、〈人間〉の世界に妻子を残してきた李徴に対し、豊太郎はいわば〈虎〉の世界に妻子をつくったのだといえる。
李徴は〈人間〉の世界に妻子を残して〈虎〉になってしまう。また豊太郎は〈虎〉の世界の妻子=エリスとお腹の子を残して豊太郎が〈人間〉の世界に戻る。それぞれに方向は反対だが、悲劇の構図としては同じだとも言える。
〈人間〉の世界に残してきた妻子の面倒を請け負う袁傪が「良い人」に見えてしまうのに対し、相沢は悪役の印象を免れない。だが、相沢もまたエリスとお腹の子に対して相応の手当をしているし、なにより豊太郎の家族が日本にいたとすれば(母親が生きていたならば)、豊太郎を日本に連れ帰った相沢は恩人となるはずだ。読者が〈虎〉の世界の妻子=エリスとお腹の子に感情移入してしまっているがゆえに、「舞姫」が悲劇になり、相沢は悪役の汚名を被ってしまうのだ。
こうした比較が授業にもたらすものは何か。そもそもそうした比較が可能なのかを検討すること自体が、それぞれの作品を「読む」ことになるのだ、とまずはいえる。同じだとか違うとかいう結論が重要なのではない。
さらに、そうしてそれぞれの物語を透かして見たもう一方の物語に、新たな光をあてるのだ、といってもいい。
「舞姫」とは豊太郎が虎になる話だ、というフレーズが浮上した瞬間、「舞姫」が新しく目に映ると同時に、何か腑に落ちるものがなかっただろうか。
あるいはこんな想像をしてみるのも面白い。
公務でドイツのベルリンを訪れた袁傪は、夜になって、治安が悪いから気をつけろと忠告されていたクロステル巷に足を踏み入れる。残月の下歩いていると、街角で出会い頭にぶつかりそうになって謝る一人の男の声に聞き覚えがあってその姿をよくよく見ると、それはすっかりドイツ人と見まごう姿をした旧友、李徴だった。久闊を叙したあと、どうしてそんな姿になってしまったのかを李徴は袁傪に語り出す…。語り終わった李徴は故郷に残してきた妻子の面倒を袁傪に託し、ドイツ語で何やら一声叫ぶと、朝まだきクロステル巷の薄闇の中に消えてしまう…。
あるいは、汝水のほとりを出張で訪れた相沢が、近くの山中で、行方知れずになって数年経つ豊太郎と再会する物語。
これが「山月記」という物語だ。あるいは「舞姫」かもしれない。
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