4月以来ここまで6本の評論を読んできて、7本目、山竹伸二「空虚な承認ゲーム」をここに合わせる。ここまでの論者と共通するどんな問題意識があるのだろうか。
共通した論旨が読み取れそうなのはどれ? という問いに挙がったのは「『つながり』と『ぬくもり』」が最も多かった。次が「〈私〉時代のデモクラシー」。
まずは「『つながり』…」から考える。
「共通した論旨」は、いろんなレベルで指摘できる。
論の前提となる認識、論理展開、結論、途中で言及される部分的な論旨…。
まずは「似ている」という印象を手がかりに、どこに注目するかを探る。その時点でその「印象」を語ってもいい。おそらくそれぞれの文章を、自分なりに解釈して説明することになる。それはそれで有益な国語的言語活動ではある。
さらに精細に考えるためには「対応する」記述を探す。
「共通する」とは、双方に対応する記述があるということだ。文字通り「共通する」、どちらにも同じ語を使った、ほとんど同じ趣旨であることが明らかな一節があればそれが「共通」している。だが、同一の語でなくとも、解釈して同趣旨と見なせるならば、それは「共通」していると見なそう。そのような「対応」している語、表現を指摘しよう。
さて、指摘できるのは次のような表現。
「『つながり』と『ぬくもり』」
親密な個人的関係の中で肯定される
「空虚な承認ゲーム」
身近な人々に(小集団の中で)承認される
対応している「肯定/承認」は、どちらもそれを人々が求めていることで「対応している」と感じられる。
さらに、単に同一ということで「対応している」のは、またしても「近代」「個人」だ。
この「前提」と「結論」を結ぶ論理展開はどのようなものか?
「近代」と「個人」が登場したら、言うべきことは決まっている。前近代には人々を縛る「くびき」があったが、そこから解放されて、人々が「自由な個人」となったのが近代だ。
だが自由になったことで拠り所を失った人々は、身近な人からの肯定/承認を求めるようになったのだ。
そうした状況を鷲田は「さびしい」と表現し、山竹は「空虚」と表現する。
両者ともに、近代化に伴う社会と個人の変化がもたらす問題を、現代的な状況として描いている。
0 件のコメント:
コメントを投稿