「共通している」とは、両者に「対応している」要素があるということだ。
ということで次の一節を比べてみる。
このような鬱屈した気分のなかで、子どもたちは何もできなくてもじぶんの存在をそれとして受け容れてくれるような、そういう愛情にひどく渇くようになるのだろう。(…)上手に「条件」を満たすさなかに、もしこれを満たせなかったらという不安を感じ、かつそれを(かろうじて?)上手に克服しているじぶんを「偽の」じぶんとして否定する、そういう感情を内に深く抱え込んでいるはずだ。「『つながり』と『ぬくもり』」
一般的に、承認に対する不安が強い人間ほど、他者に承認されるための過剰な努力、不必要なまでの配慮と自己抑制によって、自由を犠牲にしてしまいやすい。自分の自然な感情や考え(本当の自分)を抑圧し、「偽りの自分」を無理に演じてしまうのだ。その結果、心身ともに疲弊してうつ病になったり、心身症や神経症を患ってしまうケースも少なくない。「空虚な承認ゲーム」
この「『偽の』自分」と「偽りの自分」は、同じことを言っているか? 違うか?
同じか、違うかと訊いて挙手させると、どこのクラスでも違うと感じた人が多い。
だが実は「同じ/違う」は排他的な二択とは言い切れない。
「違う」というためには比較をしなければならず、比較をするためには共通した土俵に両者を載せなければならない。まったく共通する要素がなければ比べることもできず、「違い」を言うこともできない。
従って両者は共通している要素がある。「肯定/承認」(前回対応を確認)されるために、「本当の自分」を偽って演ずるのが「偽の/偽りの自分」だ。それがいずれも否定的に表現されている。そういう意味で「同じ」だ。
ではどこが違うか?
違いを言うことができなければ両者は同じだということになる。
だが違いを言うのは簡単ではない。それぞれの文章から、それぞれの説明をして、それを並べれは違いを示したことになるわけではない。
例えばAとBは違うと言うために、それぞれの文章から次のような表現を切り取ったとする。
- Aは大きい。
- Bは軽い。
これでは違いを示したことにはならない。それぞれが大きさと重さを表現していて、同じ軸上の比較になっていない。軽いものは総じて小さいが、風船のように比重が小さければ、軽くても「大きい」。だからまず「軽い」を解釈して「小さい」ことを示す必要がある。
だが「Aは大きい/Bは小さい」と言えれば違いを示したことになるかと言えば、それもまだ確かにそうだとは言えない。
「大きい/小さい」は相対的な捉え方であって、基準が揃っている保証はないからだ。二つの文章はもとより別々の文章なのだから、互いが比較対象な訳ではないし、互いを対象として相対的に「大きい/小さい」を言ったとて、それが何の「違い」なのかは、まだ明らかではない。Aは何かを基準として「大きい」と表現され、Bは何かを基準に「小さい」のだ。その基準は(たぶん)同じではない。
「違い」を言うためにはそうした精細な思考が求められる。だからこの問題は意外にみんな手こずって、というより思いのほか盛り上がって、ほとんどのクラスで1時限以上の話し合いになったのだった。しかも多くのクラスでは自主的にどんどん発言者が出現する、というような。
とても結構なことだ。楽しい。
さて、各クラスで、「違う」と言うためのさまざまな切り口が提案された。漫然と言うのではなく、切り口を明示することは重要だ。思考が整理されて、議論が有意義になる。
例えば「強制/自発」という対比が提案された。「偽の/偽りの自分」を演じるのは強制されたからか自発的になのか。
だが結局、どちらをどちらに割り振ることもできないという結論に落ち着いた。「偽の/偽りの自分」を演ずることには、どちらもなにがしかの強制力が働いており、それにしたがうことはどちらも自発的でもある。そうすると決めた時点で、自発的でない演技というのはそもそもありえない。
「自覚がある/ない」で、違いが言えるだろうか?
だがこれも「偽の/偽りの」と言う以上、自覚がないことはありえない。
そうした「自分」が「先」にあるか「後」からできるか、では?
これも、再帰的な循環の中で、いつか「先」か「後」かを言うことは難しい。
そうした「偽の/偽りの自分」は「自分」の一部か全体と重なっているかで言い分けられる? なんとも言い難い。
こうした試行錯誤は議論を明確にするためには有益だ。
結局、違いを言うためにかろうじて有効らしいと合意を得たのは、「演ずる」ことが何に従っているのかに、「違い」と言える相違があるのでは、という案だった。
「『偽の』じぶん」は「条件(資格)」に合わせることによって「本当のじぶん」ではなくなる。
「偽りの自分」でこれにあたるのは?
「価値」が相当する。
では「条件」(「つながり」と…)と「価値」(空虚な…)の相違点は?
目の前の誰かに「肯定」されるために「『偽の』じぶん」が満たすべき「条件」は、しかし社会が突きつけてくる「条件」でもある。子供にとって、勉強ができることは、親や先生が突きつけてくる「条件」だが、それは社会が認める「価値」だ。
一方、身近な人=小集団に「承認」されるために守るべき「価値」は、むしろ「社会」全体が認める「価値」ではない、というのが「空虚な承認ゲーム」の主旨だ。その「価値」は小集団の内部でしか「価値」たりえない。だから「空虚」なのだ。
「偽りの自分」はそのようなものに合わせて演じられたものだ。
「偽りの自分」をやめることは、小集団からの離脱を意味するが、「『偽の』じぶん」をやめることは社会からの離脱を意味する。
このあたりが、「違い」としてとりあえず言える切り口として納得できるところではある。
が、同じか違うかと問うたときにみんなが「違う」と感じた印象は、これを読みとったからでは、たぶんない。それはそれで文脈上違っているように感じられる理由が別にあり、だが、では何が違うかを言おうとすると、同じであることばかりが確かめられる、両者はそのような表現なのだった。
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