全体をつかんだところで細部の解釈の練習もした。
クラスによっては時間の都合で省略したが、文中の「パラドックス」の説明を考えた。
「パラドックス」は、「羅生門」のブログ記事の中で「自家撞着」と訳しているが、通常は「逆説」と訳す。文中から「逆」の要素を探せば良い。
該当部分は「このようなパラドックス」とあるから、その前の文中から「逆」になっている表現を探せば「固有性/似通っている」が見つかる。ひとりひとりがみんな「固有性」を持っている=みんな違うことを求めながら、みんな「似通っている」=みんな同じでもある。「違う/同じ」という「逆」要素が同居しているのだ。
さてもう一箇所はちょっと時間をかけた。次の一節。
「近代」のプロジェクトが成功し、成功したためにこそ、その効果が自分自身に跳ね返り、「近代」そのものが新たな段階に達しつつある。
これはどういうことを言っているか?
三つの要素に分けて、それぞれが説明できているかチェックするよう指示した。
- 「近代」のプロジェクト
- その効果が自分自身に跳ね返る
- 新たな段階
まず、「『近代』のプロジェクト」とは?
本文中で「近代の目標は」を受けているのは次の三箇所。
- 伝統からの解放
- 宗教からの解放
- 「公正で平和な社会」の実現
1と2は並列だからまとめて扱うとして、それと3の関係はどうなっているのか?
3は「など」と言われているから、一つの例なのだと考えられる。1と2の延長上に例えば3のような目標を達成しよう、と言っているのだ。
1と2は伝統や宗教から「個人」を解放しよう、という大きな運動の方向を示す。
そうして成立する近代的「個人」がつくるのが、例えば「公正で平和な社会」だ。あるいは、「公正で平和な社会」をつくるためには、近代的「個人」の成立が必要だった、などと言ってもいい。
さてその「運動」の「効果」が「自分自身に跳ね返る」?
「新たな段階」は「旧い段階」と比較するのが有効。対比の考え方だ。「後期近代」などと言っているから「前期近代」があるわけだ。
「前期近代」は「前近代」ではない。「前近代/近代」という対立がまずあり、「近代」がさらに前期/後期に区別される。
「前近代/近代」という対比については上に見たように「伝統・宗教による拘束/からの解放」と捉えられる。
問題は「前期/後期」だ。
前期/後期という対比はここで初めて登場するわけではない。前の文章中にも対比を示す表現がさりげなく置かれて、対比構造が示されている。
だがそれらはいずれも明確な、取り出しやすい対比の形で置かれていないから、それと気づくのが難しい。この文章の読みにくさはそうしたことにも原因がある。
例えば次のような一節。
今や「ソーシャル・スキル」の時代です。人間関係は、一人一人の個人が「スキル(技術)」によって作りだし、維持していかなければならないとされます。「社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)」という言い方もなされるようになりました。今日、人と人とのつながりは、個人にとっての財産であり、資本なのです。逆に言えば、自覚的に関係を作らない限り、人は孤独に陥らざるをえません。ここには、「伝統的な人間関係の束縛からいかに個人を解放するか。」という、近代の初めの命題は、見る影もありません。
上の一節には「初めの/今や」という対比が見つかる。対比要素は下線部より
束縛からの解放/関係の維持
と整理しよう。
次の一節では?
近代においても、最初の頃には歴史において実現されるべき目標の理念がありました。「公正で平和な社会」などというのが、それです。このような時代においては、そのような社会の理想を実現するための「革命」という言葉には、独特の魅力がありました。しかしながら、現代の社会理論で強調されるのは、むしろ「個人の差異」や「個人の選択」です。もはや社会的な理想は力を持たず、もっぱら一人一人の〈私〉の選択こそが強調されるのが、今の時代だと言うのです。
ここでも「最初の/もはや・今の」といった対比がある。ここから取り出せる対比は下線部から
社会的な理想/一人一人の〈私〉の選択
と抽出できる。
これらの対比が同じ「前期/後期」という対比の変奏であると感じられるだろうか? また、そのことを説明できるだろうか?
- 束縛からの解放/関係の維持
- 社会的な理想/一人一人の〈私〉の選択
1は〈私〉から〈私たち〉へ。2は〈私たち〉から〈私〉へ。
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