2025年5月25日日曜日

共に生きる 11  〈私〉時代のデモクラシー 2 近代のプロジェクト

 全体をつかんだところで細部の解釈の練習。事前課題にした次の一節を、ここまでの読解の成果を活かして解像度を上げて再考察する。

「近代」のプロジェクトが成功し、成功したためにこそ、その効果が自分自身に跳ね返り、「近代」そのものが新たな段階に達しつつある。

 これはどういうことを言っているか?


 三つの要素に分けて、それぞれが説明できているかチェックする。

  • 「近代」のプロジェクト
  • その効果が自分自身に跳ね返る
  • 新たな段階


 まず、「『近代』のプロジェクト」とは?

 本文中で「近代の目標は」を受けているのは次の三箇所。

  1. 伝統からの解放
  2. 宗教からの解放
  3. 「公正で平和な社会」の実現

 1と2は並列だからまとめて扱うとして、それと3の関係はどうなっているのか?


 3は「など」と言われているから、一つの例なのだと考えられる。1と2の延長上に例えば3のような目標を達成しよう、と言っていると考えればいい。

 3は「平和な」がわかりにくい。「平和」の対義語は「戦争」だが、「戦争のない社会の実現」と言ってしまうと話が大きくて、これが「近代における個人の誕生」と何の関係があるのかわからない。ここでの「平和」は、「解決のために暴力的な手段を用いない」くらいの意味だ。例えば? 「法治国家」のイメージ。これなら「公正」と並列にできる。

 1・2で言うように、伝統や宗教から解放されたのが「個人」だ。そうした運動の方向の先に、例えば「公正な社会」があることがわかるだろうか?

 「公正で平和な社会」は「近代的個人」を構成員として前提しているのだ。

 さてその「運動」の「効果」が「自分自身に跳ね返る」という表現が何を意味するかは、先に「新たな段階」を掴んでから考えよう。

 文中から「新たな段階」を抽出できそうなのは次の箇所。

現代の社会理論で強調されるのは、むしろ「個人の差異」や「個人の選択」です。もはや社会的な理想は力を持たず、もっぱら一人一人の〈私〉の選択こそが強調されるのが、今の時代だと言うのです。

 「近代のプロジェクト」が「個人の解放」だとすると、新たな段階「一人一人の選択が強調される」までの因果関係は見やすい。

 だがこれはどこがどう「跳ね返」っているのだろうか?

 さらに「公正な社会の実現」とはどう関係しているのだろうか?


 「新たな段階」は「旧い段階」と比較するのが有効。対比の考え方だ。「後期近代」などと言っているから「前期近代」があるわけだ。

 「前期近代」は「前近代」ではない(まぎらわしい!)。「前近代/近代」という対立がまずあり、「近代」がさらに前期/後期に区別される。この「後期近代」は、ほとんど「現代」のことだと考えて良い。「現代」のことを「脱近代」とも呼ぶが、それだと「近代」とのつながりがないように感じられるから、「後期近代」という言い方でいこう、と宇野は宣言している。この「後期近代」が「新たな段階」だ。

 つまり「前近代→前期近代→後期近代」という三段階に分けて考える必要があるのだ。

 「前近代/近代」という対比については上に見たように「伝統・宗教による拘束/解放」と捉えられる。

 問題は「前期/後期」だ。ここを言い分けてみよう。

 前期/後期という対比はここで初めて登場するわけではない。前の文章中にも対比を示す表現がさりげなく置かれて、対比構造が示されている。

 だがそれらはいずれも明確な、取り出しやすい対比の形で置かれていないから、それと気づくのが難しい。この文章の読みにくさはそうしたことにも原因がある。

 例えば次の一節。

近代においても、最初の頃には歴史において実現されるべき目標の理念がありました。「公正で平和な社会」などというのが、それです。このような時代(=前期近代)においては、そのような社会の理想を実現するための「革命」という言葉には、独特の魅力がありました。しかしながら、現代(=後期近代)の社会理論で強調されるのは、むしろ「個人の差異」や「個人の選択」です。もはや社会的な理想は力を持たず、もっぱら一人一人の〈私〉の選択こそが強調されるのが、今の時代だと言うのです。

 ここには「最初の/もはや・今の」といった対比がある。これが「前期/後期」の対比に対応している。

 ここからどう対比を取り出せばいいのか?

 「理想に魅力があった/ない」? わかりにくい。

 下線部から次のように抽出できる。

「公正な社会」という理想/一人一人の〈私〉の選択

 これはどう対比になっているのやら、わかりにくいことはなはだしい。そしてこの変化、ないし推移には、「跳ね返り」と言えそうな因果関係があるというのだ。

 これを説明するのはけっこう厄介なはずだ。


 「前期/後期」の対比を表現している箇所は他にもある。例えば次の一節。

今や「ソーシャル・スキル」の時代です。人間関係は、一人一人の個人が「スキル(技術)」によって作りだし維持していかなければならないとされます。「社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)」という言い方もなされるようになりました。今日、人と人とのつながりは、個人にとっての財産であり、資本なのです。逆に言えば、自覚的に関係を作らない限り、人は孤独に陥らざるをえません。ここには、「伝統的な人間関係の束縛からいかに個人を解放するか。」という、近代の初めの命題は、見る影もありません。

 上の一節には「初めの/今や・今日」という対比が見つかる。これも「前期/後期」の対比だ。

 ここから抽出できる対比要素は、下線部より次のように整理できる。

束縛からの解放/関係を作る

 これは比較的「跳ね返り」が説明できそうだ。「束縛からの解放」によって、一人一人がばらばらな「個人」になった(前期)。ばらばらなままでは不都合なので(たとえば鷲田ふうに言うと「寂しい」ので)、かえって関係を作ろうとするようになっていった(後期)のだ。

 確かに「跳ね返」っている。

 さてでは「『公正な社会』という理想/一人一人の〈私〉の選択」がこれと同じ対比であることを説明できるだろうか?

  • 前期近代→「束縛からの解放」=「『公正な社会』という理想」?
  • 後期近代→「関係を作る」=「一人一人の〈私〉の選択」?
 筆者の認識の中ではこれが一致しているはずなのだ。
 どういうことか?

 前期はどちらも「個人の誕生」のことだ。「個人」は束縛から解放されて成立した。そして「公正な社会」は「個人」によって構成される社会だ。公正であるとは、誰もが同じ権利を持っている状態だ。それこそ「個人」の条件だ。
 後期の「関係」は、前近代的な「関係」=社会的コンテクスト=伝統や宗教の拘束とは違って、自分の選択によって作る「関係」のことだ。「くびき」がなくなって、ばらばらになってしまったから、今度は自分で選択して関係を作り直さなければならないのだ。

 以上、本文で論じられている、前近代→前期近代→後期近代(現代)への推移が解像度を上げて見通せるようになっただろうか?

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