2025年5月23日金曜日

共に生きる 10 〈私〉時代のデモクラシー ー「近代」と「個人」

  「近代」と「個人」という概念に慣れるために、鷲田清一「『つながり』と『ぬくもり』」、宇野重規「〈私〉時代のデモクラシー」の以下の文章を読み比べてみよう。

 唐突にとおもわれるかもしれないが、近代の都市生活というのは寂しいものだ。「近代化」というかたちで、ひとびとは社会のさまざまなくびきから身をもぎはなして、じぶんがだれであるかをじぶんで証明できる、あるいは証明しなければならない社会をつくりあげてきた。すくなくとも理念としては、身分にも家業にも親族関係にも階級にもにも民族にも囚われない「自由な個人」によって構成される社会をめざして、である。「自由な個人」とは、彼/彼女が帰属する社会的なコンテクストから自由な個人ということだ。そして都市への大量の人口流入とともに、それら血縁とか地縁といった生活上のコンテクストがしだいに弱体化し、家族生活も夫婦を中心とする核家族が基本となって世代のコンテクストが崩れていった。そうして個人はその神経をじかに「社会」というものに接続させるような社会になっていった。いわゆる中間世界というものが消失して、個人は「社会」のなかを漂流するようになった。

 社会的なコンテクストから自由な個人とは、裏返していえば、みずからコンテクストを選択しつつ自己を構成する個人ということである。けれども、そういう「自由な個人」が群れ集う都市生活は、いわゆるシステム化というかたちで大規模に、緻密に組織されてゆかざるをえず、そして個人はそのなかに緊密に組み込まれてしか個人としての生存を維持できなくなっている。社会のなかにじぶんが意味のある場所を占めるということが、社会にとっての意味であってじぶんにとっての意味ではないらしいという感覚のなかでしか確認できなくなっているのだ。そこでひとは「じぶんの存在」を、わたしをわたしとして名ざしする他者との関係のなかに求めるようになる。こうして近代の都市生活とは、個人にとっては、社会的なもののリアリティがますます親密なものの圏内に縮められてゆく。(鷲田清一「ちくま評論入門」60~61頁)


 「そういう時代」とは何なのでしょうか。話が少々飛躍するようですが、「近代」という時代について考えてみたいと思います。

 「近代」の目標の一つは、これまで人々を縛り付けてきた伝統の拘束や人間関係から、個人を解放することでした。「近代」は、個人の自由を重視し、個人の選択を根本原則として、社会の仕組みやルールを作り替えようとしました。

 一例を挙げれば、伝統的な社会において、「家」の存続こそが、そこに属するメンバーにとっての至上命題でした。これに対し、「近代化」の結果、そのような意味での「家」は解体し、当事者の合意に基づく婚姻によって生みだされる「近代家族」が取って代わりました。与えられた人間関係を、自分で選んだ関係に置き換えていく過程こそが、「近代化」であったと言えます。

 そして、今や人間関係は、一人一人の個人が「スキル(技術)」によって作りだし、維持していかなければならないとされます。今日、自覚的に関係を作らない限り、人は孤独に陥らざるをえません。ここには、「伝統的な人間関係の束縛からいかに個人を解放するか。」という、近代の初めの命題は、見る影もありません。(宇野重規 教科書135~136頁)

 二つの文章を、近代化の流れをたどるくだりとして重ね合わせてみる。

 二人とも「現代」について話そうとする時に、妙な言い訳をして語り始める。切り出しに、鷲田は「唐突にとおもわれるかもしれないが」と語り始め、宇野は「話が少々飛躍するようですが」と始める。二人が揃って、読者に対して微妙な気遣いをしているところが可笑しい。

 二人とも「現代」の源流を「近代」として捉えているのだが、そう語り起こすことが読者に混乱を起こさないか心配しているのだ。

 さて、鷲田の文章では「くびき」という比喩で語られるものが「社会的コンテクスト」「中間世界」と言い換えられる。「身分~民族」「血縁・地縁」はその具体例だ。

 そうした「くびき」から「個人」を解放してきたのが「近代」だ。

 これは宇野が「これまで人々を縛り付けてきた伝統の拘束や人間関係から、個人を解放する」と言っていることに対応している。「くびき」=「拘束」だ。

 そうして生まれた「個人」は「みずからコンテクストを選択しつつ自己を構成する」(鷲田)ことを余儀なくされる。「個人の選択を根本原則と」(宇野)するようになったのだ。

 自分の居場所が「伝統的な社会における家」から「当事者の合意に基づく婚姻によって生みだされる近代家族」(宇野)へ変わったという推移は、「くびき」としての「家」から「親密なものの圏内」に推移した(鷲田)ことに対応している。

 「一人一人の個人が「スキル(技術)」によって作りだし、維持していかなければならない」(宇野)は、「緊密に、そして大規模にシステム化された社会というのは、「資格」が問われる社会である。」(鷲田)に対応している。「スキル」=「資格」=「できる」。

 そうすると「人は孤独に陥らざるをえない」(宇野)=「近代の都市生活というのは寂しい」「個人は社会のなかを漂流する」(鷲田)。

 二人が「近代化と個人の誕生」を語る一節は、見事に対応している。これは不思議なことではなく、誰でも、語ろうと思えば似たような論旨になってしまうのであり、それだけそうした認識が常識として前提されているということだ。

 「近代」にしろ「個人」にしろ、見慣れた言葉だが、こうした歴史的背景を背負っていることを認識しておきたい。


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