2025年5月4日日曜日

共に生きる 8 「近代的個人」とは

  教科書の三つの文章の共通テーマが「自立」だとすると、「ちくま評論入門」の二つの文章の共通テーマは何か?


 「私という存在」といった表現が適当だろうか。あるいは「自分・自己」あたり。

 ここに6本目の文章「〈私〉時代のデモクラシー」を並べてみる。

 「私」が接点になりそうなのはすぐわかる。

 「ほんとうの『わたし』とは?」は題名の通り「私という存在」についての新しい見方を提示しているし、「『つながり』と『ぬくもり』」は「私という存在」があやうくなった現代人の問題を論じている。

 では「〈私〉時代のデモクラシー」の論旨はそこにどう絡んでくるか?

 接点を増やそう。次の一節を読み比べてみよう。

ほんとうの「わたし」とは?

自分がつねに同一の存在であり続けるというのは、まさに近代個人主義的な人間観です。

それ以上分割不可能な存在という意味が込められています。この西洋近代的な個人とは…


「つながり」と「ぬくもり」

近代化」というかたちで、ひとびとは社会のさまざまなくびき、「封建的」といわれたくびきから身をもぎはなして、じぶんがだれであるかをじぶんで証明できる、あるいは証明しなければならない社会をつくりあげてきた。身分にも家業にも親族関係にも階級にも性にも民族にも囚われない「自由な個人」によって構成される社会をめざして、である。

近代都市生活とは、個人にとっては、社会的なもののリアリティがますます親密なものの圏内に縮められてゆく、そういう過程でもある

 これらの一節に繰り返し出てくるキーワードは「個人」「近代」だ。

 この二つの言葉がいわゆるキーワードというほどの重要な語句であることは、高一のみんなには意識しにくいはずだ。

 「個人」が「私」というテーマに関係しそうなことは予想できる。「私」は一「個人」だ。

 だが「個人」などという言葉はつい、何の気なしに使ってしまうものだ。それが特別に重要なのか?

 もう一つ、「近代」もまた、みんなにとっても見慣れた言葉のはずなのだが、実は「近代」という言葉は中学生の語彙にはない。知ってはいるが、何を意味しているかをわかっている中学生はまずいない。

 見慣れているのにわかってはいない、という二重の理由で盲点になっていて、それが重要な言葉であることは意識されにくい。

 だが「近代」という言葉は、高校の評論を読む上では最大級に重要な言葉なのだ。高校で扱う(ということは入試で出題される)かなりの割合の評論が、何らかの意味で「近代」をめぐる問題を論じている。あるいは直接そうは言わないとしても背景として前提している。

 「個人」と「近代」という言葉をキーにして「ほんとうの『わたし』とは?」と「『つながり』と『ぬくもり』」を捉えなおしてみる。

 それぞれの文章で、「個人」と「近代」がどうだと言っているのか?


 ここでは「近代における〈個人〉とは…」と主語を揃え、述語を比較する。

 「ほんとうの『わたし』とは?」で述べられている「個人」とは、分割不可能な常に同一の存在だ。

 「『つながり』と『ぬくもり』」の「個人」とは、封建的な社会のくびき(コンテクスト)から解き放たれて「自由」になった存在だ。

 これらは共通した認識を語っているのだろうか?


 言い方の違いに惑わされないで、共通したイメージを抽象する。

 共通するのはやはり、独立した・孤立した・完結した「個人」というイメージだ。そういうイメージを心に留めながら上の一節を読み直してみよ。腑に落ちるはずだ。

 そしてこれは結局、全体の共通項である「人は他者とのつながりによって存在する」の裏返し「他者とのつながりを失った個人」の問題なのだ。


 さらに発展して「近代」「個人」を語る上で、松村と鷲田が、それぞれもう一つ、「近代」「個人」を何の問題として語っているかを把握するためのキーワードを一語ずつ文中から挙げよう。

 松村の論では「西洋」、鷲田の論では「都市」が「近代」と「個人」の近くに置かれている。

 これは何を意味するか?


 「西洋」「都市」は「近代」「個人」とどうつながるか?

 それぞれの対比をとろう。

 「個人」の対比は「社会」が普通だが、ここでは上で述べるとおり「他者とのつながり」。

 「近代」は「中世・近世」(「現代」が対比になることもあるが、今回は措く)。 

 あとは「西洋/東洋・アフリカ・アラブ」「都市/農村」という対比を考えておこう。

 これらの対比はすべて関連している。

近代/中世・近世

西洋/東洋・アフリカ・アラブ

都市/農村

個人/他者とのつながり

 近代といえば事の起こりは西洋における産業革命だ。

 工業化によって大量生産が可能になり、工場勤務の労働者が農村から都市に流入する。これが「社会的コンテクストから切り離される」という事態だ。

 松村・鷲田の文章に登場する「個人」という存在は、そうした近代西洋都市で誕生したのだ。


 「個人」という言葉は日本でも明治に翻訳語として使われるようになった言葉だ。江戸時代まで「個人」はいなかった。言葉が存在しなければ、そのように捉える認識自体が存在しない。

 松村と鷲田の共通テーマである「私という存在」も、そのような「近代的個人」として捉えられる「私」であり、そのようなイメージに対抗するものとして、松村の文章ではパプアニューギニアの人々の考え方が示されている。それは西洋近代以前の人間のありようをイメージさせるものであり、平野啓一郎の「分人」は、それを現代版にリニューアルしたものだ。

 こうした「個人」のイメージは近代にできあがったのだ、という認識はこの先3年間、さまざまな文章で繰り返される認識なので、心に刻んでおきたい。


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