さて、「『つながり』と『ぬくもり』」に「個人的関係」という言葉が出てくる。
こうして私的な、あるいは親密な個人的関係というものに、ひとはそれぞれの「わたし」を賭けることになる。近代の都市生活とは、個人にとっては、社会的なもののリアリティがますます親密なものの圏内に縮められてゆく、そういう過程でもあるのだ。
ここから連想されるのはどの文章か?
「自立と市場」(松井彰彦)が思い浮かんでいてほしい。ただし文中にはこの言葉は出てこない。だがテーマである「市場」の対比が「個人的関係」であることを授業で確認した。すぐに連想できただろうか。
では「個人的関係」をめぐって、鷲田と松井の見解を比較してみよう。
それぞれの文章で「個人的関係」と対比されている概念を確認する。
松井の論では「市場/個人的関係」。
鷲田の論では何か?
「個人」の対比は「社会」だから、「個人的関係」の対比は「社会的関係」だろう。それにあたる言葉として「社会的コンテクスト」が挙がる。悪くない。だがここでは「システム」がさらにいい。
農村の「社会的コンテクスト」から逃れて都市へ流入した「自由な個人」は「システム」の中に組み込まれる。そこから逃れようとする先が「個人的関係」だ。「社会的コンテクスト」は近代の「社会的関係」を指し、「システム」は現代の「社会的関係」を指している。したがって「システム/個人的関係」という対比がいい。
市場/個人的関係
システム/個人的関係
さてここから少々ミスリードする。
松井は、自立にとって、前者が有益であることを述べている。
鷲田の論における対比「システム/個人的関係」は、前に挙げた対比「資格・条件/他者による無条件の肯定・受容」のことだ。そして、若者は前者によって判別されることよりも、後者を求めている。
とすると、「個人的関係」は松井の論では否定的に、鷲田の論では肯定的に扱われているように感じる。
どう考えたらいいのだろうか?
二人の論は一見したところ正反対のベクトルをもっているように見える。
だが松井は「個人的関係」への依存の危険に代わる「市場」を全面的に礼賛しているわけではない。
先立つものがないのはさすがに困るが、お金で手に入れることができないものもたくさんある。特に精神的な満足感は多くの場合、市場以外のところで手に入れるしかない。
この「市場以外のところ」とは、例えば「個人的関係」ではないか。
一方の鷲田が、「個人的関係」にすがる若者を、単に肯定的に描いているわけでもない。「ますます親密なものの圏内に縮められてゆく」「だれかと『つながっていたい』というひりひりとした疼き」「だれかとの関係のなかで傷つく痛み」などという表現は、あきらかに「個人的関係」の閉塞感を語っている。
それは「個人的関係」が自立の妨げになる危険を述べる松井の論に見られる認識と違っているわけではない。
ここにはやはりいずれも「孤立した個人」のイメージがある。
「自立」をめぐって、「個人的関係」の中で縛られてしまう危険と、そこから市場への緩い「つながり」に期待する松井の論。
「自己」をめぐって、「孤立」の不安の中で「つながり」において自分を確かめようとする鷲田の論。
これらはいずれも、近代において成立した「孤立した個人」のイメージへの乗り越えを企図している。
そうした意味で、両者はやはり同じ認識を共有しているのである。
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