2025年5月3日土曜日

共に生きる 7 「個人的関係」をめぐって

 さて、「『つながり』と『ぬくもり』」に「個人的関係」という言葉が出てくる。

こうして私的な、あるいは親密な個人的関係というものに、ひとはそれぞれの「わたし」を賭けることになる。近代の都市生活とは、個人にとっては、社会的なもののリアリティがますます親密なものの圏内に縮められてゆく、そういう過程でもあるのだ。


 ここから連想されるのはどの文章か?

 「自立と市場」(松井彰彦)が思い浮かんでいてほしい。ただし文中にはこの言葉は出てこない。だがテーマである「市場」の対比が「個人的関係」であることを授業で確認した。すぐに連想できただろうか。

 では「個人的関係」をめぐって、鷲田と松井の見解を比較してみよう。


 それぞれの文章で「個人的関係」と対比されている概念を確認する。

 松井の論では「市場/個人的関係」。

 鷲田の論では何か?

 「個人」の対比は「社会」だから、「個人的関係」の対比は「社会的関係」だろう。それにあたる言葉として「社会的コンテクスト」が挙がる。悪くない。だがここでは「システム」がさらにいい。

 農村の「社会的コンテクスト」から逃れて都市へ流入した「自由な個人」は「システム」の中に組み込まれる。そこから逃れようとする先が「個人的関係」だ。「社会的コンテクスト」は近代の「社会的関係」を指し、「システム」は現代の「社会的関係」を指している。したがって「システム/個人的関係」という対比がいい。

  市場/個人的関係

システム/個人的関係

 さてここから少々ミスリードする。

 二人の論は一見したところ反対のベクトルをもっているように見える。「個人的関係」は松井の論では否定的に、鷲田の論では肯定的に扱われているように感じる。

 二人の認識・見解・論旨・主張は相反しているのだろうか?


 対比の両辺がそもそも違うものを指しているのだろうか。そんなことはない。小十郎と商人の関係はともかく、熊谷さん親子は、鷲田の言う「個人的関系」の一例だろう。「市場」は「システム」の一側面と考えられる。

 ではどう考えたらいいのだろうか?


 二人が論じているテーマは何か?

 二人がそれぞれ「依存」について語っているらしいという感触は正しい。だがここでは二人の主題の違いを確かめておこう。

 「依存」ということは、松井は「自立」について語っているのか。確かにそうだ。

 一方鷲田は「自立」の話はしていない。鷲田の話は松村圭一郎と同じく「わたし」がテーマになっている。もうちょっと言い換えると自分の存在意義とか自分の価値とか。

 「自立」と「自分の存在意義」ではまだ違いがわかりにくい。もうちょっと比較できる言葉で表現しよう。

 「生活」と「心」と言ってみよう。松井は「生活」が自立するかどうかの話をしているのであり、鷲田は自分の存在をどう捉えるかという「心」の話をしているのだ。 

 そうすると上の対比における肯定/否定のベクトルが反対方向に見えることも、「相反している」ではなく、相違として語れるだろうか?


 生活を支える経済的な基盤として「個人的関係」は脆弱であり、市場の方が安定している。だがシステムの中で見失われそうな「自分」の存在を確かめるに、人は「個人的関係」にすがるのだ。

 二つの認識は、相反しているわけではない。


 そもそも松井は「個人的関係」への依存の危険に代わる「市場」を全面的に礼賛しているわけではない。

先立つものがないのはさすがに困るが、お金で手に入れることができないものもたくさんある。特に精神的な満足感は多くの場合、市場以外のところで手に入れるしかない。

 この「市場以外のところ」こそ「個人的関係」ではないか。


 一方の鷲田が、「個人的関係」にすがる若者を、単に肯定的に描いているわけでもない。「ますます親密なものの圏内に縮められてゆく」「だれかと『つながっていたい』というひりひりとした疼き」「だれかとの関係のなかで傷つく痛み」などという表現は、明らかに「個人的関係」の閉塞感を語っている。

 それは「個人的関係」が自立の妨げになる危険を述べる松井の論に見られる認識と違っているわけではない。 


 ここにはやはりいずれも「孤立した個人」のイメージがある。

 「自立」をめぐって、「個人的関係」の中で縛られてしまう危険と、そこから市場への緩い「つながり」に期待する松井の論。

 「自己」をめぐって、「孤立」の不安の中で「つながり」において自分を確かめようとする鷲田の論。

 これらはいずれも、近代において成立した「孤立した個人」のイメージへの乗り越えを企図している。

 そうした意味で、両者はやはり同じ認識を共有しているのである。


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