さてここまでは考えるための準備運動だ。本当に検討したいのは、次のEの対応である。比較のために前回のDの対応も再掲する。
D
①先生 ―豊太郎
②お嬢さん―相沢
③ K ―エリス
E
①先生 ―豊太郎
②奥さん―相沢
③ K ―エリス
Eの対応はどのような作品把握を表しているか。
①と③はDと同じ。①の語り手と③の悲劇の犠牲者が同じであることから、これもまた物語の骨格を捉えうる十分な必然性がある。
ところが②の相沢に対応する人物が「お嬢さん」から「奥さん」に変わることで、物語の把握はまるで違ったものになる。
「お嬢さん―相沢」という対応を想定するDの把握を〈選択による悲劇(選択されなかった者の悲劇・排除される者の悲劇)〉とでも名付けるとすると、「奥さん―相沢」という対応を想定するEの把握はどのように捉えられるだろうか。「~による悲劇」という形にあてはまるように表現してみよう。
みんなからは「すれ違いによる悲劇」「コミュニケーション不全による悲劇」などの表現が挙がった。
悪くない。前回の考察によれば、二つの物語の悲劇はそのように表現していい。
だがこれだけでは②の役割の共通性が不明確だ。
ここからは少々もってまわった迂回路をたどった。
「さくい」という言葉を漢字にしてみよう。ただちに「作為」が想起されれば良いが、「さくい」というのは「わざわざする=意図する」ことだから「作意」という漢字が想起されてもいい。実際に「作意」という言葉はある。「作品の創作意図」という意味だが、辞書には「たくらみ」ともあるから、これは随分「作為」に近い。
次に「さくい的」と書くのは? と訊いた。
これは「作為的」しかない。
さてこの「作為」に否定の接頭辞を付す。
ただちに想起されるのは「無作為」だが、「不作為」という言葉もある。
この二つの言葉はそれぞれどういう意味か? 辞書を引かずにこの二つの言葉の違いを言い分けてみよう。
…というところまで話が及んだら、G組で突如異様な反応が起こり、何事かと聞くと、日本史で話題になった言葉なのだそうだ。「想像の共同体」といい、今年は妙に日本史とシンクロする。
話題になったのは「不作為」の方だという。「無作為」に比べ、「不作為」という言葉が使われる機会は少ない。だからこそ、わざわざ授業で紹介されたのだろう。
「不作為」とは、すべき行為をしないことを意味し、法律用語として使われることが多い。そのままでは死ぬかも知れない怪我人・病人を放置して死に至らしめたら、その可能性の認識によって「未必の故意」を認定されれば「不作為犯」として罪に問われる可能性がある。作為について責任が明確な場合は直ちに不作為犯が成立するから、育児放棄=ネグレクトによる乳幼児の死亡は直ちに罪の問われる。
授業で取り上げられたのは、公害やいじめ、その他の社会問題で、これらは、みんなが知っているのに、誰もそのことを言わずにいるから解決に向かわずに事態の悪化を招く。それを「不作為の問題」というのだそうだ。
さて、授業者がこの言葉をとりあげたいのは、「こころ」と「舞姫」、二つの物語を「不作為による悲劇」と表現しようと思ったからだ。
Kとエリスの悲劇は、「私」と豊太郎の、〈選択〉という〈作為〉によって生じたものではなく、むしろ〈選択〉しなかった〈不作為〉によって生じている。その〈不作為〉とは、具体的には両者が「言わない」ということだ。
この〈不作為〉こそ、二つの物語の悲劇の決定的な引き金になっている。「私」が言っていればKは死なず、豊太郎が話していればエリスは発狂していない。
そして①主人公が〈作為〉に至る前にその可能性を断ち切ってしまう役割を担うという点で②の奥さんと相沢が対応する。
もし「私」がKに、自分もお嬢さんが好きなのだと言っていれば、あるいはお嬢さんとの婚約について、その経緯もふくめて告白していればどうなったか?
Kがなぜ自殺をしたかという問題は、簡単に説明することが難しいのでここでは詳述しない。
端的に言って、Kはお嬢さんを失ったり、それが友人に奪われてしまったりしたから「淋しくって仕方がなくなった」のではなく、意思疎通の断絶による孤独を自覚したときに、〈覚悟〉していた自己処決を実行に移すのである。
とすれば、「私」がKに自らの行為を告白することは、裏切りに対する謝罪という意味合いにおいてではなく、Kを独りにしないという意味で、この悲劇を回避する決定的な手段であったはずなのだ。
つまり「私」は、「裏切り」によってではなく、自らの心の裡を語らなかったことによって、Kを死に追いやったのだ。
一方「舞姫」では、確かに豊太郎は、エリスとの生活と帰国を選択肢として意識している。だが、そうした選択肢に対して自らどちらかを選ぶという決断をすることはない。豊太郎はただ目の前にいる者に恭順しているだけだ。
だから、決定的な悲劇の起こる直前にエリスに対して事の次第を問い質されていれば、エリスの涙や懇願や恨み言を前にして、豊太郎があくまで帰国を選び通すことはできまい。
あるいは仮に、万が一、豊太郎が帰国を選んだとしても、それを直接エリスに告げていれば、実は発狂という最悪の事態は避けられたはずだ。エリスが叫んだ「わが豊太郎ぬし、かくまでに我をば欺きたまひしか。」には、ただ豊太郎に選択されなかった悲しみよりも、それを自分に黙っていた豊太郎の裏切りこそが衝撃であったことが示されている。豊太郎の告白があれば、二人の話し合いは言わば、ありきたりな愁嘆場、健全な痴話喧嘩とでもいったやりとりになって、最悪の悲劇には至らなかっただろうと想像される。
とすれば、ここでもやはり選択という〈作為〉ではなく、自分自身で選択をしなかった(言わなかった)という〈不作為〉こそが悲劇を招いているのである。
「舞姫」の結末は、前に述べたとおり、発狂したエリスを置いて帰国するという、ある意味でバランスを欠いた奇妙な悲劇に終わる。このような展開にする必然性が読者にはわからない。小説が全体として豊太郎という人物の非倫理的な行為を道徳的に批難しているようには見えないからだ。
だが上のように考えると、エリスの発狂は豊太郎を日本に帰すことを結末とする限り、やむをえない展開だったと言える。豊太郎には主体的な選択がなく、その帰郷をめぐって相沢とエリスが対立した場合、豊太郎に対する執着において、相沢がエリスに勝るとは思えない。
鷗外には豊太郎をこのような性格の人物に設定し、かつ日本に帰す結末を描く必然性があった(事実鷗外が帰国しているのだから)。そのように物語を描くには、エリスを発狂させるしかなかったのだ。
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