「こころ」と「舞姫」において、確かに主人公の二人はある選択の前に葛藤している。そして悲劇的な結末に心を痛め、罪悪感と後悔に苛まれる。
にもかかわらずこれらの物語を、主人公のエゴによる選択の悲劇として捉えることは不適切だと言える。なぜか?
「舞姫」におけるエリスの発狂は、エリスの主観からすれば、選択されなかった絶望であるとも言えるのだが、物語の展開としてはむしろ、エリスは発狂したから選択されなかったのだと言える。豊太郎はその時、選択しなかった。意識を失っていたのだ。
エリスと相沢の邂逅に豊太郎が立ち会って、その場で二人が選択を迫ったら、と考えるのは恐ろしい仮定だ。読者は、豊太郎がエリスを棄てる言明をする想像ができない。エリスが面と向かって豊太郎の非を責めるならば、豊太郎がそれに抗い続けることはできないだろう。お腹に赤ん坊がいればなおさらだ。
つまり「舞姫」における悲劇は単に、豊太郎の〈エゴイズムによる選択〉によるものではないのだ。
一方「こころ」についてはどうか。
K自身にとっての自殺の動機は、エリスの発狂とはまるで性質を異にする。Kは選択の敗者になったから自殺したのではない。Kはあくまで自分の問題として自己処決を実行している。「私」がそのことを理解していないだけだ。
さらに「私」が選択しようとしているのはKかお嬢さんかではない。
通常はこの選択肢は「友情/愛情」の対立として捉えられる。さらに気が利いていると「倫理観/エゴイズム」などとも言われる。
だが実際に小説を読んでみると、「私」がKとお嬢さんを選択の秤にかける逡巡を具体的に指摘できる箇所は、本文中からは見つからない。
「私」は一度としてKを選ぶかどうかに迷ったりはしていない。「愛情と友情の選択」などという物語把握がそもそも錯覚なのだ。
では「私」はどのような選択の前で葛藤しているか?
物語の進行につれて葛藤の様相は変化する。下宿に住み始めてから。Kが居候を始めてから。またKが恋心を自白してから。また奥さんに談判をした後。談判の結果をKが知った後。Kが自殺した後。
それぞれの局面を詳細に分析するのも興味深いのだが、ここでは割愛するとして、すべての状況下に共通する葛藤は何か?
「こころ」において「私」が葛藤するのは「言うか言わないか」という選択だ。それぞれの局面では「私」は言おう、言わねばならないと思い続け、だがその実行を先送りする。全編に渡ってそうした葛藤が続く。
この葛藤が、巷間「友情か愛情か」という選択と同一視されてしまう。隠し立てをせずに「言う」ことが「友情」、策略から「言わない」ことが「愛情」を選択しているかのように誤解される。あるいは正直に「言う」「倫理」と、利己的動機から「言わない」「エゴイズム」が綱引きしているかのように。
だがちょっと考えればそうでないことはすぐにわかるはずだ。
「私」が「言わない」のは自己保身と戦況を有利に運ぼうとする計算によるものだから、それをエゴイズムと呼んでもいいのだが、一方の「言う」べき動機は倫理観によるものではない。実はそれもまた別の利害に基づいたエゴイズムなのだ。
言わねばならないとしたら、それは友情のためではなく「公明正大」であるという対面を保つためだ。また「私」が最後まで言えないのは友情を選ばなかったということではなく、言うことによる戦況の悪化を怖れ、世間体が傷つくことを怖れたからだ。
いずれにせよ「愛情」を得る上でどちらが有利かを考えて、その選択に迷っていただけであり、「友情/愛情」=「K/お嬢さん」は最初から選択の天秤に載ってはいない。
「こころ」と「舞姫」を選択による悲劇と捉えることは間違っている。
では二つの物語の悲劇はどのようにして起こったのか?
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