2025年3月4日火曜日

舞姫 29 比較読解「こころ」3 選択の悲劇

 「舞姫」と「こころ」の人物を対応させることによって考察したいのは、実はこれから提示する二つの対応DEがどのような物語把握を意味しているかという問題だ。ここまではその準備運動ともいえる。

 ① K ―豊太郎

 ②先生 ―相沢

 ③お嬢さん―エリス

 ①お嬢さん―豊太郎

 ②先生 ―相沢

 ③ K ―エリス

 BCは、登場人物たちの関係の、あるいは物語中でのふるまいの、ある一面を捉えてはいるが、物語の核心部分を捉えているとは言い難い。それに比べて、次に示すDは二つの物語を全体として捉えた構造を示しうる。

 ①先生 ―豊太郎

 ②お嬢さん―相沢

 ③ K ―エリス

 二つの物語を全体として捉えるには、BよりもCが、さらにDの対応が適切だ。

 なぜか? どこが問題なのか?


 重要なのはCDにおける③「K―エリス」の対応だ。なぜか?

 二つの物語がどんな物語なのかを表現しようとすれば、それは必然的に③の身に起こる悲劇へと収斂することになる。

 だから、それを表現することのできないBよりもCDの方が、物語全体を表現することができる。

 さらにDでは?

 ①の対応も重要だ。①は物語の主人公であり、一人称小説の語り手として、登場人物の中でも特権的な位置にある。その二人を対応させることによって、物語を全体として表現できる可能性は高まる。

 ではなぜ②お嬢さんと相沢が対照されるのか?

 二つの物語はどのように表現されるのか?


 「①と③の間に②が介入することで、その関係が悪化する」などということは可能だ。お嬢さんと相沢はそのような存在として対応している。

 だがこのような言い方ではまだABCの対応によって表現される物語把握とそれほどかわらない。

 Dの把握は、主人公の行為と、その結果としての悲劇を表現しうる点でABCよりも優位だったはずだ。それを表現してみよう。

①が②と③の選択に迷い、②を選んだから、③が死ぬ。

 「こころ」において、先生はKに対する友情と、お嬢さんに対する愛情という選択に悩み、最終的にお嬢さんを選んだために、Kを死に追いやる。

 一方「舞姫」において、豊太郎はエリスとの愛と、相沢に象徴される故郷や栄達との選択に悩み、最終的に後者を選んだためにエリスを狂気に追い込む。

 ① 私 ―豊太郎(エゴイズムによる選択)

 ②お嬢さん―相沢(選択する価値の象徴)

    ↑

   主人公による選択

    ↓

 ③ K ―エリス(選択されなった悲劇)

 一般的には「こころ」は友情と愛情の選択の物語として、「舞姫」は愛情と栄達の選択の物語として紹介される。世間的には、二つの物語をそのように説明しても不審には思われないはずだ。そして浮上してくるのは、主人公①の選択に見出せる「エゴイズム」という主題だ。

 だが、Dの対応を発想した者は実は必ずしも多くなかった。それはこうした把握が間違っていることが、ここまで授業を受けてきた皆にはわかってしまうからかもしれない。

 上の文には三カ所、不適切な部分がある、どこ? と訊くと、間違い探しだ、と言ってみんなたちまち上の文の問題点を指摘する。

先生がお嬢さんとKの選択に迷い、お嬢さんを選んだから、Kが死ぬ。

豊太郎が相沢とエリスの選択に迷い、相沢を選んだから、エリスが死ぬ(狂う)。

 下線部がそれぞれ不適切だ。「こころ」では、先生の選択はお嬢さんとK(愛情と友情)ではないし、Kは先生がお嬢さんを選んだことで死んだわけではない。

 「舞姫」では、豊太郎は相沢を「選んで」はいない。その場面で豊太郎が意識を失っている間にエリスは廃人になっていたのだ。


 だが一般的には「こころ」や「舞姫」を上のように紹介する言説はありふれているし、それを聞いても、世間の人は不審に思いはしない。

 それは、二つの物語をDのように把握させる強い必然性があるからだ。

 何か?


 二つの物語はいずれも、主人公の語る手記だ。語り手は自分の内面を吐露する。その時どのような心理が読者に強く印象づけられるか?


 一つは主人公の葛藤だ。確かに彼らはある選択の前で迷っている。

 さらにもう一つは、彼らの抱く「罪悪感」「後悔・悔恨」だ。

 「私」はKに黙って自分とお嬢さんとの婚約を画策したことについて、自らを〈卑怯〉〈倫理的に弱点をもっている〉と認識している。そしてKが自殺した翌朝、目を覚ました奥さんに向かって、〈すみません。私が悪かったのです〉と告白してしまう。さらに葬式の後でも〈早くお前が殺したと白状してしまえ〉という〈良心〉の声を聞く。Kの自殺より後の部分は教科書には載っていないことも多いが、自殺の時点で既に「私」の抱く罪悪感は充分に読者にも感得される。

 一方豊太郎は天方伯爵に日本への帰国の意志を問われ、「承りはべり」と答えてしまった自分を〈我は許すべからぬ罪人なり〉と責める。

 そして一人称の語り手による手記という体裁によって、これらはいわば罪の告白=懺悔として読者の前に開陳される。

 「こころ」では「先生」が年下の大学生に対して「暗い人世の影」を伝えようとする。これは自らの犯した罪の告白だ。

 「舞姫」では手記を綴る動機を〈恨み〉によるものだと書き起こす。これは相沢に対するいわゆる「恨み=怨み」ではなく、むしろ自らの行為に対する「悔恨=罪悪感」が述べられていると考えられる。

 つまりDのような把握は、語り手の主観から見た物語構造として適切なのだ。一般的な読解が語り手の主観に沿ったものになるのは、一人称小説の享受として当然のことだ。


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