2025年7月9日水曜日

共に生きる 14 空虚な〈私〉時代

 次は予告通り「空虚な承認ゲーム」と「〈私〉時代のデモクラシー」を読み比べる。


 筆者が最も言いたかったことを、その文章の「結論」「主旨」などと言っておこう。

 それを言うまでには、ある「前提」があり、そこからなにがしかの「論理展開」をする。

 二つの文章の「前提」と「論理展開」が共通していることを言うのは比較的容易だ。ここまでに確認されている共通前提がここにもある。そのまま文中から、共通して使われているキーワードを三つ、と指定すれば、すぐにみんなは「近代」「個人」「自由」を挙げることができる。

 この三語を使って、どのような「前提」からどのように「論理展開」しているかを語ってみる。


 前近代には、宗教や伝統などの「大きな物語」が人々の共通前提となり、人々はそれに拘束されていた。

 「近代」になるとそれが崩れ、人々は「自由」な「個人」となった。

 ここまでは二つの文章に共通する「前提→論理展開」。

 では「結論・主旨」は?


 できるだけ短く、と指定して次のようなフレーズを共有した。

「空虚な承認ゲーム」

現代人は身近な人からの承認を求めている。

「〈私〉時代のデモクラシー」

〈私〉時代とも言える現代に〈私たち〉を作らねばならない。

 共通前提から出発して、途中までの論理展開が共通しているからには、これらの結論・主旨にも、何らかの共通点があると考えるのは無理がないはずだ。どのような共通点があるか? というか、これら二つの結論・主旨は、どのような関係になっているのか?


 「関係」?

 関係を考えるためには共通点がなければならない。接点がなければ関係づけられない。

 その上で「関係」を語る。因果関係? 時系列? 並列? 言い換え? 包含関係?


 文章は「認識」を語るか「主張」を語るかに大別できる。「認識」を語らないということはありえないが、とくだん「主張」らしいことを言わない文章はある。

 上で言えば「~を求めている」は「認識」を語っているが、「主張」らしい言い方にするのが難しい。一方「作らねばならない=作るべきだ」は「主張」っぽい。

 「認識」と「主張」を関係づけようとするなら、因果関係に持ち込むのが有望?


 もう一つ。文章はなにがしかの「問題」があるときに書かれるものだ。何も「問題」がなければ、多くの文章は書かれない。

 それぞれの文章の「問題」を示す、否定的ニュアンスの形容は何か?


 それぞれ、上記の主旨の後に、次のような形容を足せば良い。

現代人は身近な人からの承認を求めているがそれは空虚だ

〈私〉時代とも言える現代に〈私たち〉を作ることは難しい

 この「空しい」と「難しい」の関係は?


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