2024年2月26日月曜日

「である」ことと「する」こと 14 「過近代」的領域

 「市民社会化する家族」は、単独の文章として読むには、それなりに難しいと感じるかもしれないが、今は「である/する」図式と対照させながら読むという構えができているから、頭の使い方が限定されて、それなりに読むことができるはずだ。


 二つの文章の対応する箇所はさまざまに指摘できる。時間がとれなかったのは残念だが、発表する時間をとれば、多様な対応箇所が挙がる(過去の授業では)。

 例えば冒頭の一文。

ひと昔前までの家族の研究は、封建的家制度と近代的家族との比較に重点を置いて、家族面における封建制から近代への移行をポジティブな歴史的成果として評価するものであった。

 「封建制」を「である」、「近代」を「する」と措定すると、この一節は次のように言い換えられる。

ひと昔前までの家族の研究は…家族面における「である」から「する」への移行をポジティブな歴史的成果として評価するものであった。

 「する」化がポジティブに評価されるのは「『市民』のイメージ」に顕著な姿勢だ。つまり家族が「市民」化するのは、かつては肯定的なイメージとして評価されていたのだ。


 そうした肯定的なイメージは、その後どうなったか?

子どもを「市民」として扱うこと、また老人を普通の成人と同列に「市民」として扱うことは、一つの暴力である。

 ここでは「家族」を「する」論理で扱うことを「暴力」と否定的に表現している。

 成人は会社で働いたり選挙で投票したりする。そこでは「する」論理による行動が求められる。

 だが家族における「子供・老人」を「市民」=「する」論理で扱ってはならない。「機能・実用の基準・効果・能率」で子供や老人の価値を量るのは、確かに「暴力」だ。この子は何の役に立つのか? などと言わず、その子には「それ自体」の「かけがえのない個体性」があることを認めるべきなのだ。老人には、緩やかな「休止」の時間が流れていて、そこにある豊かな「蓄積」に敬意を払うべきなのだ。


 「する」論理が否定的に語られ、「である」価値の重要性が述べられるということは、「市民社会化する家族」は丸山真男の後半の主張に重なってくるということだ。

 この文章の主題は題名に明らかなように「家族」だ。

 つまり「家族」は、丸山が挙げる学問・芸術、あるい閑暇や教養とともに、「である」価値を認めるべき領域ということになる。


 とするとこの文章は丸山の言う「過近代」的な問題を論じているということになる。

 「近代」はどのように語られているか。

近代を最もよく特徴づける制度は、合理的な経済制度である。

 「合理的な経済制度」とは言うまでもなく「する」論理だ。

 さらに、

近代を理解するかぎが市民社会の中にあるとしばしばいわれたのは正しい。それは(略)経済的市民社会が作り出し、分泌する「精神」や「行動様式」が社会制度の隅々まで浸透していくことを意味するのである。

 「市民社会」とは「する」論理が「社会制度の隅々まで浸透してい」った社会だ。

 そこでは「かつての共同体のメンバーがバラバラにアトム(原子)化」する。

 毎度おなじみの「近代における〈個人〉の確立」!

 そうした「する」化がポジティブに語られる「『市民』のイメージ」と違い、「市民社会化する家族」では次のように語られる。

私たちは、現在、(略)「保守的な」観点から、現代の「社会化」を批判する態度を確立しなくてはならない。

 「保守的」は丸山も言う通り「である」推しの姿勢だ。ここから現代の「社会化」=「する」化を批判すべきだというのだから、これはまさに丸山真男の後半の主張と重なる。

 以上のような「『市民』のイメージ」と「市民社会化する家族」の論旨を、「『である』ことと『する』こと」の図式にあてはめるとどうなるか?









 

 このように、「である/する」図式は、「近代」に関わる問題について把握する手がかりになる。

 汎用性があるのだ。

 同時に、「問題」について考えるというだけでなく、国語的に言えば、評論の読解の手がかりにもなるということだ。

 多くの評論は「近代」批判の姿勢であることが多いので、基本的には「過近代」的問題を論じているということになる(「『市民』のイメージ」は「近代」礼讃の論だったが、これはむしろ珍しい)。

「である」ことと「する」こと 13 「市民」=「する」論理

 「『市民』のイメージ」は、アメリカの陪審員制度を通して、「市民」という概念について考察している。

 ここでは「『市民』ってまさしく『する』価値・論理を体現している概念だなあ」と思えることが必要だ。

 その感触をもとに、その当否を具体的に跡付ける。「『である』ことと『する』こと」には「市民」は言及されていないのに、なぜ「『市民』のイメージ」が「する」推しだと感じられるのか?


 論証のためにはどう考えればいいのか。

 「『市民』のイメージ」における「市民」という概念と、「『である』ことと『する』こと」における「する」論理を表わす一節をそれぞれ引用し、比較して同じであることを示せばいい。

 例えば「市民」の好例たる陪審員とはどのような存在か?

 「市民たちから無作為に呼び出される」陪審員には「男性、女性、老人、青年、白人、黒人、ネイティブ・アメリカン、アジア系の人たちもいる」。つまり性別や年齢や人種といった「先天的」な要素=「である」論理から切り離されたところに「市民」は存在する。

 そこで「市民」は何を「する」か?


 例えば次の一節を比べてみる。

・「市民」のイメージ

政府権力や大企業の管理・宣伝のままに付和雷同するのではなく、自分の意見をもって自分たちの生活を作り守る、あるいは狭い血縁地縁の利害と興味を超えて広い社会に関心をもつ――というようなイメージを「市民」という言葉は孕んでいる

・「『である』ことと『する』こと」

民主主義というものは、人民が本来制度の自己目的化――物神化――を不断に警戒し、制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する姿勢によって、初めて生きたものとなりうる

政治・経済・文化などいろいろな領域で「先天的」に通用していた権威に対して、現実的な機能と効用を「問う」

 「政府権力や大企業の管理・宣伝のままに付和雷同する」ことは「政治・経済・文化などいろいろな領域で『先天的』に通用していた権威」に素直に従うことを意味している。つまり「である」論理に「安住する」こと、すなわち「制度の物神化」だ。

 それに対して「自分の意見をもって自分たちの生活を作り守る」は「制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する」こと、つまり「現実的な機能と効用を不断に『問う』」=「する」ことだ。

 「市民」は「する」ものなのだ。


 またC組M君の提起した問題も面白かった。

「市民」という言い方、特に自称の場合は、きわめて理念的な言葉だ。

 ここがどうして「する」なの? と聞き返したのだが、なるほど、「自称の場合」は「なる」要素が強調される。つまり「先天的」ではなくなるわけだ。

 「他称の場合」と比較すればはっきりする。

 「柏市民」とか「流山市民」とかいう場合はもちろん「先天的」だから「である」だし、行政などから一「市民」として他称される場合は、その「市民」的「属性」を指し示されているだけだから、やはり「である」だ。

 それに比べて「市民」を自称する場合は、上記のような「する」論理・価値を「不断に検証」せざるをえないのだ(もちろんそれでも、それが「自己目的化=である化」する危険はあるが)。


 もう一点、重要な接点を捉えたい。例えば次の一節。

具体的証拠と冷静な論理つまり〝筋が通ること〟によって成り立ち支えられる「市民社会」という、より上位のレベルの現実がある。閉じた地縁血縁共同体の情念の濃密さに比べれば、一見抽象的、虚構的にさえ感じられるかもしれないが、それはより普遍的に開かれた現実であり、人類にとって新しい経験である。

 ここから連想される「『である』ことと『する』こと」の論点は何か?


 「人類にとって新しい経験」からは「近代」という概念を連想したい。

 ただし「『である』ことと『する』こと」に「市民」という言葉が扱われていないように、「『市民』のイメージ」には「近代」が登場しない。

 だが「『である』ことと『する』こと」における「近代」とは、煎じ詰めて言えば〈「である」から「する」への移行〉だ。

 上の一節は完全にそれに対応している。

 「人類にとって新しい経験」=「近代」にいたって人類は、「閉じた地縁血縁共同体の情念の濃密さ」=「である」論理から放たれ、「具体的証拠と冷静な論理」=「する」論理によって作る「市民社会」という「上位のレベルの現実」を手にしたのだ。

 「近代」と言えば?

 昨年から繰り返されてきたのは「個人」の確立だ。古い宗教や集団の論理=「である」論理から切り離されて「近代的個人」が誕生した。

 「市民」とは「近代的個人」の確立によって生まれた存在なのだ。


 まずは「同じようなことを言っている」という感触を掴みたい。

 その上で、それがなぜ、どのように「同じ」なのかを言うために、必要な、しかし意味合いを変えることのない言い換えが必要だ。対応関係をみて、文型を揃え、相互に表現を混ぜながら語り下ろしてみると、二つの論が「同じ」であることが実感されてくる。対比構造を意識して使うのも手だ。


 さて次は「市民社会化する家族」だ。こちらはもうちょっと難易度が高い。


2024年2月19日月曜日

「である」ことと「する」こと 12 使い回す

 「『である』ことと『する』こと」を読むことの意義は、丸山本人がそう言っているとおり、「である/する」図式を、様々な分野の近代化にともなう問題を考える基準として使い回すことにある。

私たちはこういう二つの図式を想定することによって、そこから具体的な国の政治・経済その他さまざまの社会的領域での「民主化」の実質的な進展の程度とか、制度と思考習慣とのギャップとかいった事柄を測定する一つの基準を得ることができます。

 「である/する」図式は考え方・判断の「基準」になる、と丸山は言う。

 つまり日常的に「それって『である』的だよね~」とか言おう、というわけだ(今までの生徒もそんなふうに言っているのを何度も聞いたことがある。先日もB組Yさんと話していて、『星の王子さま』って「である」価値の大切さがテーマだよね、と納得し合ったのだった)。


 さて、実践のための練習課題として次の2つの文章を読解する。

  • 日野啓三「『市民』のイメージ」
  • 今村仁司「市民社会化する家族」

 これは二つの文章の論旨を「である/する」図式を適用して考えようということだ。それが「さまざまの社会的領域での『民主化』の実質的な進展の程度とか、制度と思考習慣とのギャップとかいった事柄を測定する」ということだ。


 三つを一度に視野に収めるために必要な高さまで視点を持っていって、全体を俯瞰する。一つ一つの文章はその分、圧縮してその論旨を捉えておく。

 関係づけるために、接点として使える共通項を見つける必要がある。

 上の二つの文章の共通点は題名に明らかだ。「市民」である。

 だが「市民」は、直接的には「『である』ことと『する』こと」には登場しない。

 「市民」を「である/する」図式に収めるとすると?


 「『である』ことと『する』こと」を前後半に分けるときに、まず直感的に「前半は『する』推しで、後半は『である』推しだなぁ」と思えることが重要なように、三つの文章の関係を把握しようとしたときに、まず「『市民』のイメージ」は「する」推しで、「市民社会化する家族」は「である」推しだ、という印象が把握されなければならない。

 それはどのような論理を背景にした印象なのか。

 それを具体的引用とともに説明する。


「である」ことと「する」こと 11 レイアウト

 さて、全体論旨を平面上にレイアウトするというのが課題だった。

 レイアウト=配置するということは、その要素をどれくらい上に(下に)置くか、どれくらい右に(左に)置くかを判断するということだ。

 つまり2次元の軸を定め、その軸を目印に配置を決めるのだ(もっとも、以前の生徒で、3次元モデルを作って、その透視図法を書こうと構想しているらしい相談が聞こえてきたこともある)。

 考えられる軸の2方向は対比の形で表せる。どんな対比が考えられるか?


 とにかく自由に考えさせて、いろんな図ができあがるのも楽しみだとも思うのだが、いかんせん時間が充分にとれなかったので、残念ながら認識を共有してしまった。

 まずは「である/する」の対比軸は当然選択肢の1つとして想定される。ここまでの授業でもこの対比軸でさまざまな要素をピックアップしてきた。

 また、前項で整理した対比もまた当然想定されるべき対比だ。すなわち「政治(政治・経済)/文化(学問・芸術)」という「領域・面」の対比だ。

 また、多くのクラスで挙がったのは「理想/現実」といった対比だ。

 評論は基本的に、それが好ましいか否かを論ずる・主張するものだ。したがって、まずほとんどの評論は潜在的に「肯定/否定」の対比で何事かを語っていることが予想される。「理想/現実」というのは、何を否定し、その対比として何を肯定するか、ということだ。

 また、この論が強調している「倒錯」を示す対比「非近代/過近代」も当然選択肢として想起される。だがこれを対比軸のラベルとして採用するのは、やってみると案外にうまくいかないことがわかる。そのラベルでは括れない要素があるのだ。


 というわけで有力と思われる3つの対比から2つを選んで、直行する2方向、いわゆるX軸Y軸とし、文中の要素を配置していく。

  • 「である/する」
  • 「政治・経済/学問・芸術」
  • 「肯定/否定」

 試みに、3つのうち2つを選ぶと、選ばなかったもう1つは、どの位置になるか?

 またその場合の「非近代/過近代」はどこか?


 ここまでは頭の体操として、授業で互いに説明させあった。相手に説明することで「『である』ことと『する』こと」の大きな論理の構造が自身に把握されていることが確かめられただろうか?





2024年2月15日木曜日

「である」ことと「する」こと 10 抽象度を揃える

 「『である』ことと『する』こと」は、前半では日本の「非近代的」な「面」について述べ、後半では「過近代的」な「面」について述べている、と把握される。

 「日本の急激な『近代化』」の章は前半と後半のいわば橋渡しだと考えればいい。最後の「価値倒錯を再転倒するために」は全体のまとめだ。


 ここまでの考察はかなり論理的に進めているが、それよりもまずは漠然と「前半は『する』推しだったのに、何だか後半は『である』推しになってるなあ。」くらいの捉え方はしておきたい。

 つまり「する」推しなのにそうなってないから「非近代的」だということで、「である」推しなのに「する」が蔓延してくるから「過近代的」だということだ。

 これがぴんとくるためには、この文章の「近代」が「である」→「する」という移行・転換だと捉えられていることが必須だ。


 前項では前半・後半の「面」「領域」「ところ」を「政治/文化」と称しておいた。「政治的な事柄から文化の問題に移行すると」からの抽出だ。「文化の立場からする政治への発言と行動」でも同じ対比が使われている。

 だが本文中に登場する諸要素(抽象語・具体例・形容・比喩…)を全体としてレイアウトしようとするには、「政治/文化」というラベルはいくらか粗い(抽象度が高いとは必ずしも言えないが)。例えば最初の制度や民主主義の話題を「政治」でまとめるとすると、その後に出てくる会社の例の収まりがわるい。

 そこで「政治/文化」を、それぞれ二語ずつに置き換える。抽象度の揃った二字熟語だ。文中にある。何か?


 文中にある次の対比。

政治・経済/学問・芸術

 全体を把握しようと意識したとき、確かに前半では「政治・経済」という言葉で括れる領域については「する」を大切にすべきだと言い、後半では「学問・芸術」とまとめられる領域について「である」を大切にすべきだと言っているのだ、と考えると、この文章の主旨が腑に落ちるはずだ(休日と宿屋の例が若干収まりが悪いが)。

 「『である』ことと『する』こと」という文章(元は講演録だが)の読解の核心はここだ。

 全体を「非近代/過近代」という二つのまとまりで捉えること。

 そしてそれぞれが対象としている領域・「面」を「政治・経済」/「学問・芸術」という、抽象度の揃った概念語で捉えること。

 この二つができれば、読解のおおよそは完了したと言っていい。


「である」ことと「する」こと 9 前後半の対比構造

 この文章(講演)は、大きく前半と後半に分けることができる。

 その感触を素朴に言えば、前半は「する」推しだったのに、後半は「である」推しだなあ…といったところだろう。

 こうした大きな対比構造が、保留にしているあれと重なることに気づくだろうか?

 再掲する。

ある面では甚だしく非近代的でありながら、他の面ではまたおそろしく過近代的でもある現代日本の問題

 先に保留にしたのは、この一節がこの文章全体の構成に対応しているからであり、丸山真男の中にはその構想ができているのだろうけれど、頭からそこまで到達しただけの読者(聴衆)には、何のことかわからないはずだからだ。

 だが今や最後まで読んで、全体を把握しようとしているみんなは、これと上の、大きな段落分けと重ねてみれば、もう「ある面/他の面」についても考えることができるはずだ。


 この一節が重要であることは、この対比がその後も表現をかえて繰り返されていることからもわかる。

  • 一方で「する」価値が猛烈な勢いで浸透しながら、他方では強靱に「である」価値が根を張り
  • 「『する』こと」の価値に基づく不断の検証が最も必要なところでは、それが著しく欠けているのに、他方さほど切実な必要のない面、あるいは世界的に「する」価値のとめどない侵入が反省されようとしているような部面では、かえって効用と能率原理が驚くべき速度と規模で進展している
  • 「である」価値と「する」価値の倒錯│-│前者の否定しがたい意味をもつ部面に後者が蔓延し、後者によって批判されるべきところに前者が居座っているという倒錯

 これら3箇所は上の一節と同じ対比を示しているのであり、これが、「『である』ことと『する』こと」全体を二つに分けたときのそれぞれの「まとまり」をも示しているのだと気づくと、全体が把握される。


 すなわち文章全体は、前半が

ある面では甚だしく非近代的

  ↓

他方では強靱に「である」価値が根を張り

  ↓

「『する』こと」の価値に基づく不断の検証が最も必要なところでは、それが著しく欠けている

  ↓

後者(する)によって批判されるべきところに前者(である)が居座っている


 について述べ、後半は

他の面ではまたおそろしく過近代的

  ↓

一方で「する」価値が猛烈な勢いで浸透

  ↓

他方、世界的に「する」価値のとめどない侵入が反省されようとしているような部面では、かえって効用と能率原理(=「する」原理)が驚くべき速度と規模で進展している

  ↓

前者(である)の否定しがたい意味をもつ部面に後者(する)が蔓延し

 について述べている、と把握できる。


 こうした対比にはラベルを貼っておくのが便利だ。ラベルは短い方が使いやすい。できれば対になる一単語。

 「非近代/過近代」がいいか。


 さてこれがこの文章の前後半(「政治的な事柄から文化の問題に移行すると」)に対応しているというのだから、「政治/文化」=「非近代/過近代」ということになる。

 これが保留にしていた「面」であり、「領域」であり、「ところ」だ。


「である」ことと「する」こと 8 段落分けというメソッド

 この文章の大きな対比「である/する」図式で文中の語句を拾い、考察に値する表現を解き明かしてきた。そのようにして全体を通読した上で全体の構造を捉える考察をする。「論旨全体をレイアウトする」の課題にもう一度取り組むのだ。

 小学生のときからお馴染みの読解メソッドとして「段落分けをする」という方法があるが、これは大きな視野でその構造を見ようとする思考のことだ。文章を大きな塊、まとまりとして考えることは、文章を俯瞰して、その構造を捉えようとしているのだ。

 この「構造」はいくつもの階層が重層的に組み合わされている。学校での人間関係が「班」→「クラス」→「学年」→「学校」などと階層化されるように。またそれらの階層に「部活動」「委員会」などの階層が横断的に交錯するように。

 同様に、文章では「段落」→「節」→「章」などという階層がある。「形式段落」は、ある文の句点の後を改行してしまって、次の文を一文字下げることで明示的に示された段落だ。あるいは、ときどき一行空きになっていたり、「『である』ことと『する』こと」のように、見出しをつけて「節」「章」を分けたりもする。

 それもまた、筆者がその構造を読者に示してくれているわけだ。もしも段落も章も全く区切られていなければ、文章の論旨はもっと把握しにくくなる。

 ここでは、全体を二つに分けて、それらがどのような塊なのかを言い表す。つまり明示されている「節/章」よりももう一つ上の階層のまとまりを捉えようというのだ。

 どこかの章から、すっぱりと後半になるわけではない。前半と後半の橋渡しをしている章がある。また、最後の一章は全体のまとめなので、どちらとも言えない。

 だがともかくも、前半と後半は明らかにトーンがかわっている。その変わり目はどのあたりで、それはつまりどのような「トーン」だというのか?


 この「まとまり」は、まずは明らかには言語化できない感触としてとらえられるはずだ。どうもこのへんから流れが変わったぞ…。

 そうして、そこまでの「流れ」とそこからの「流れ」を言語化する。

 「『である』ことと『する』こと」の場合、これら二つの大段落は対比的に表現できる。したがって、片方ずつが把握されるのではなく、同時に発想されるはずだ。

 対比的?

 ということは「である/する」という対比?

 悪くない。だがもう一歩、それが何だというのか?


「である」ことと「する」こと 7 精神的貴族主義

 さて、最後の章は「わからない」部分がいくつもある。表現の問題でもあるが、文脈の問題でもある。


 比較的易しい疑問から取り上げる。

もし私の申しました趣旨が政治的な事柄から文化の問題に移行すると、にわかに「保守的」になったのを怪しむ方があるならば

 この一節の「保守的」とはどういうことか?

 括弧をつけることで示したいニュアンスは何か?

 なぜ「怪しむ方がある」ことを想定しているか?


 考える(説明する)糸口に対比を使うのは習慣化しておく。

 「保守」の対義語は?

 「革新」「進歩」だ。

 「保守的」「進歩的」、ここではそれぞれ何のこと?

 「保守的」=「である」推し、「進歩的」=「する」推しのことだ。

 後半に入って「である」推し=「保守的」になったのを、なぜ誰かが「怪しむ」のか?

 前半は「する」推しだったのに、後半になって「である」推しになっている、結局どっちやねん! と思う人がいることを懸念しているのだ…といった説明がいくつかのクラスでなされた。

 悪くない、がもう一歩。

 「保守的」というのは、進歩に反する、時代の流れに逆行する姿勢だともいえる。よく趣旨がわからない人はそうした反動的な主張を「怪しむ」かもしれないと心配しているのだ。

 もちろん「である」推しであることは反動的なわけではない。それがわかっているうえで、「いわゆる」というニュアンスを出すために括弧をつけている。


 さて最終章で最も「わからない」という嘆きが集まるのは、次の一節だろう。

現代日本の知的世界に切実に不足し、最も要求されるのは、ラディカル(根底的)な精神的貴族主義がラディカルな民主主義と内面的に結びつくことではないか

 ここにはいくつもの「ノイズ」が混じっていて、ストンと腑に落ちることが妨げられる。「最も要求される」などという言い方もそうだ。「私は日本に~が必要だと思う」という主張を一般論として語る体にするために「日本に~要求される」と表現する。この「れる」は受身ではなく自発だ。不足しているのだから当然必要だよね、というニュアンス。

 さらに、この一節に四つも「~的」という形容が混入している。「知的世界」はまあいい。一般大衆をバカにした言い方にも聞こえるが、たぶん丸山真男の講演を聴きに来た人へのリップサービスなのだろう。

 残り三つがうっとうしい。「ラディカル(根底的)」「内面的」「精神的」どれも、そこでつまずく人が出てくる障害となっている。

 思考を整理するためには対比を意識する。

 何か?

 いくつかの候補がそれぞれのクラスで出たが、ひとまず次のような対比を共有しておこう。

  • 根底的/表層的
  • 内面的/外面的
  • 精神的/実体的

 「精神」の対義語は「肉体」であることが多いが「肉体的貴族」は何のことかわからない。ここでは現実の身分としての「貴族」ではなく、比喩的に「貴族のような心持ち」くらいの意味で「精神的貴族」といっているのだ。

 どれも似たような対比だ。つまり外側だけでなく、形だけではなく、見た目だけでなく、といった意味合いをこめているわけだ。


 結局、この部分の問題の核心は「貴族主義」をどう理解するか、だけだ。それ以外の「ノイズ」に惑わされていると、いつまでたっても考えるべきことが考えられない。

 「貴族」は上に見た通り「精神的」だと言っているのだから、つまり比喩だ。「貴族(のような)主義」なのだ。

 比喩は「花/果実」の考察でもやったように、それが持っている性質の何をとりあげているのかを指摘できれば良い。

 さて「貴族」のような、とはどんな性質、状態、論理、あり方なのか?


 もちろん方針としては、「である」側に分類されている対比項目のどれかを使うことと、「する」側に分類されている項目を「~ではなく」で使うことを考えよう。こういう既習事項を活かさずに「貴族」という言葉を眺めて唸っていても埒が開かない。

 それぞれにどの項目を使えば良いか?


 さらに対比を考える。「貴族主義」は「民主主義」と対比されていて、それが「である/する」に対応することは文脈から読み取れる。

 「貴族主義」と「民主主義」が結びつくというのは「である」と「する」が望ましい形で結びつくということだ。つまり「貴族」という比喩は「である」の肯定的な面を表している。


 さて問題の「貴族」だ。

 この比喩が難しいと感ずるのは、実はこれの対比が文中に既に出ているのに、それに気づかないからだ。だから突飛なものと感じられる。だが丸山は、唐突に「貴族」と言っているわけではない。

 「貴族」の対比は何か?


 あれこれの候補を口々に言うことができるのは、クラスの雰囲気が良いことの表れだ。いくつもの候補が挙がるのは、いきなり「正解」が提示されるよりよほど好ましい。比較の上でその適切さを考えることができるのだから。

 その中で誰かがそれを言い当てる。その人は誇って良い。

 だがむろん、それを訊かれる前にその対比に気づくことができたらなお素晴らしい。授業者がそれに気づいたのも、いくつかの学年で授業をやってからだった。


 さて目指すその言葉はここまで既に2回、文中で使われている。

  1. 学芸のあり方をみれば、そこにはすでにとうとうとして大衆的な効果と卑近な「実用」の規準が押しよせてきている
  2. 文化での価値規準を大衆の嗜好や多数決で決められない

 これら「大衆」と対比されて「貴族」の比喩がある。このことに気づかずに「貴族」を解釈するのは難しい。

 ここで「大衆」が否定的に使われていることは、先の文脈で「貴族」が肯定的に使われていることと整合する。「大衆/貴族」が「する/である」の対比なのだから、「大衆」は「する」価値・論理の否定的な面を表しているわけだ。

 1から反照されるのは、「役に立たない」ものに価値を見出そうとする「貴族」のイメージだ。

 「卑近」の対義語を確認しておこう。「高尚」が想起されればOK。

 「貴族」は「実用」性に乏しくとも「高尚」なものに価値を見出すのだ。例えば?


 2から反照されるものは「多数決」の対比で考えよう。

 既に「貴族主義」が「民主主義」と対比されているのだから、「多数決」が「民主主義」だとすれば「貴族主義」は「封建」とか、もっといえば「独裁」とかいった概念を連想させるかもしれない。

 だが「独裁」を肯定するわけがない。

 では「多数決」の否定的な面とは何か?


 上の言葉を使うならば「多数決」では「卑近な実用の基準」によって決定されてしまうおそれがあるということになる。目先の人気投票で物事が決まる。

 それと対比される「貴族」とは、単に人気のある物を良しとするのとは違った価値観を示している。

 大衆の多数決は「流行」を生むが、貴族は「不易」を醸成する。

 貴族的「不易」を表す言葉を文中から探すと?


 既に挙げられている「かけがえのない個体性」であり「それ自体」の価値であり、「蓄積」だ。

 「蓄積」の対比として「大衆」にふさわしい語を文中から挙げよう。二字熟語で、サ変動詞にできる語。

 「消費」が挙がればOK。「大衆は消費する」が「貴族は蓄積する」のだ。

 一時の流行を消費しているばかりでは文化は衰退してしまう。役に立つかどうかで判断していては文化などすぐに捨て去られて蓄積されない。

 そこには「古典」も生まれない。

 「貴族」はそうした一時の流行に左右されない価値(=不易)を重んじ、それを後世に伝える財力も権力もある。

 文化を創り上げてきたのは大衆かもしれないが、それを庇護し、後世に伝えてきたのはそうした「貴族」だ。「パトロン」→という言葉があるが、これは芸術家を支援する貴族のことだ。いわゆる「古典」となる芸術作品・文化財は、貴族の財産として受け継がれたことによって人類が手にできている例も多い(古い名家の蔵から発見されました、とか)。


 さてここまで読めば、この章のもう一つの難所である「文化の立場からする政治への発言と行動」を考えることができる。上に確認した通り、これは「貴族主義」の立場から政治に対して発言したり行動したりするということだ(ちなみに「する政治」ではない。「立場からする」だ)。

 具体的にはどんな「発言・行動」を想起すれば良いか?


 こういうときにみんなが想起する例は、適切なものから見当違いなものまで、グラデーション状に散在する。そういうさまざまな例がいくつも挙がり、その適切さについてみんなで考えるというのが有益な学習だ。正解だけが示されても、その適切さを認識することは難しい。不適切さとの比較で適切さが明確になる。だからみんながそれぞれに思いついた例を挙げる。

 いくつかのクラスで挙がったのは、学者や芸術家などの専門家が「文化の立場」から意見を述べる、という例だった。

 これは悪くはない。「文化」がこの文中では「学問・芸術」をまとめた言葉だとちゃんと理解している。政治家に対して学者が意見することは必要だ。

 だがさらに具体的にはどういった「発言・行動」なのか?


 考えるための重要な手がかりは、それが「する」論理・価値に対抗するような「である」価値・論理にくみするような発言・行動であるべきだということだ。

 例えば「コロナの感染症対策に専門の医者が意見を言う」などという例が挙がったクラスが多いが、これはどういう意味で「する」論理に「である」論理が対抗していることになるのか不明確。医者は「文化の立場」? 医療は「する」論理が重視されるべき領域のはず。


 さらに、「行動」には誰の「行動」が含意されているか?


 これが一般人向けの講演であることを考えれば、ここには専門家だけでなく、我々国民一人一人の「行動」を念頭に置いて話しているはずだと考えるべきだ。直前の「政治化」とは、政治が国民に開かれたものになることを表している。

 国民が「政治」に対して起こすべき行動とは?


 我々市民の行いうる活動といえば、署名集めでもデモ(示威行動)でもいい。あるいは投票も「行動」として当然想定されているはずだ(今だったらもちろんSNSでの発信もいい。丸山の時代には想定されていないだけで)。

 それらが「文化の立場からする」と言いうる例を想起すればいいのだ。


 さて、適切な例として安易に思う浮かぶのは、そのまんま文化保護や文化支援を支持する「発言・行動」だ。かつ、それが政治・経済=「する」論理に対抗しているような場合を想起すれば良い。

 例えば貴重な文化遺産を壊してしまうような開発に対して反対すること。道路を通すことは経済性の原理(「する」原理)からすれば好ましいことであるが、そのために古い町並みや遺跡を壊して良いのか? 儲かるとか役に立つとかいうことにとらわれない価値を提示するのが「である」価値だ。

 専門家なのか一般市民なのかは問題ではない。「である」価値に与する「発言・行動」なのかどうかだ。だから、必ずしもデモのような直接行動でなくとも、そういう価値観に基づいて、そうした政治家に投票する、とか。もちろんマスコミなどはそのような報道姿勢を示す、とか。

 例えば、実体としての「貴族」なき現代における「精神的貴族主義」的な「行動」として、政府や自治体や企業によるメセナ(文化支援)活動→などを挙げてもいい。

 あるいはいくつかのクラスで挙がった「環境保護」もいい。

 環境保護はなぜここでの「発言・行動」として適切なのか?

 「効率・機能・実用」だけで政策が決定されてしまうと、「自然」などというものは損なわれるおそれのある。自然環境とは長い時間を掛けて「蓄積」された「かけがえのない個体性」を持った生態系だ。それを「経済」的価値を重視した「大衆」の「実用性」によって「多数決」で損なってしまうと、二度と取り返しがつかないかもしれない。そうした価値を守ろうとするのが精神的貴族主義だ。

 あるいは最近の例でいえば、「大学改革」と称して、成果を上げていない学部の予算を縮小しようなどという動きがある。しかし基礎研究は目先の成果では計れない、蓄積の上に生じる価値だ。

 あるいは文系学部縮小論もそうだ。大学の文系の学問は、経済性・実用性という観点から見れば「役に立たない」ものに見えかねない(文学とか哲学とか)。だが人文学は効率性・実用性よりも、人間にとっての「価値」を考える学問だ。そうした価値の蓄積の上に人類の文化があるのだ。

 こうした「である」価値を守ろうという「発言・行動」として、今自分が想起した例が適切であるかどうか考えよう。



「である」ことと「する」こと 6 花/果実

 このまま後半(244頁~)の対比もとってしまおう。

 ここから後の本文中にも、「する」論理を表す既出の「不断」「機能と効用を問う」が頻出する(微妙な言い換えも含めて)。

  • 効用と能率原理
  • 有効に時間を組織化する
  • 効果と卑近な「実用」の規準
  • 果たすべき機能
  • 不断に忙しく働いている

 一方の「である」論理・価値を表す語句としてとりあげておきたいのは次のような表現。

  • かけがえのない個体性
  • それ自体
  • 蓄積


 こうした対比を表す表現として「花/果実」という比喩が登場する。

 この比喩によって表される意味合いを説明してみよう。


 この比喩が「である/する」に対応することは文脈からわかる。文脈の論理を正しく追えていることは、評論の読解には必須条件だ。

 それと、語句の意味合いとを対応させる。なぜ「花」が「である」で、「果実」が「する」なのか?


 いくつかのクラスで次のような説明が発表された。

  • 花は果実になる過程であり、果実は結果だから。
  • 花は見るだけだが、果実は食べられるから。

 前の説明は「する」=「業績」となじむが、「プロセス」と相反する。

 後の説明は「食べる」が「する」なのはいいとして、「見る」はなぜ「する」ではなく「である」なのかが不明確。

 さてどう言ったらいいか?


 「果実」には、「おいしい」とか「栄養がある」などという「効用・効果・実用性・機能」がある。

 一方「花」は食べられない。「効用・効果・実用性・機能」的価値よりも、そこに「美」を見出す者にとっては「それ自体」に価値がある、と言っているのだ。

 こんなふうに、文中から挙げられている「である/する」を表す語句を使う。挙げる語句の有用性は、説明や考察に使えるということだ。



2024年2月7日水曜日

「である」ことと「する」こと 5 「宿命的」な混乱

 「ギャップ=くいちがい」の考察を利用して次の4章の一節を考える。

日本の近代の「宿命的」な混乱は、一方で「する」価値が猛烈な勢いで浸透しながら、他方では強靱に「である」価値が根を張り、その上、「する」原理をたてまえとする組織が、しばしば「である」社会のモラルによってセメント化されてきたところに発しているわけなのです。

 ここで考察に値するのはどこか?

 「物神化」同様「セメント化」という見慣れない表現に目を奪われてしまう人も多い(だからここが脚問になっている)のだが、こんなところは大した問題ではない。これは単に「固まっている」という比喩に過ぎない。

 これは、具体例が思い浮かべばいいのであって、しかもそれは既に文中で述べられている。

 前項の「ギャップ=くいちがい」の考察をそのまま応用すれば、会社は「する」原理をたてまえとする組織のはずなのに、人々のモラルが「である」のまま固まっている=「セメント化」しているということだ。


 それよりもこの一節の問題は「一方/他方」という対比にある。

 この対比が指し示しているのは、実は先に保留にした「ある面/他の面」とほとんど同じなのだが、そうすると同様に、これも保留することになる。


 ここでは先の考察にからめて次の問題を考察する。

 「日本の近代の~混乱」は「ギャップ=くいちがい」を生ずるからだが、なぜこの混乱には「宿命的な」という形容が入っているか?


 この括弧のニュアンスは「わかるでしょ?」という感じだ。丸山は読者(聴衆)に向けてサインを送っているのだ。この「混乱」は例の、あれだよ、と。

 読者はこの混乱が「宿命的」であるわけについてわかっていなければならない(ちなみに、この後の誘導によって全員に気づいてもらう想定で授業を進めるのだが、試しにH組でK君に、ノーヒントで「宿命的って何のことだかわかる?」と聞いたら、K君は「ああ、あの『皮相、上滑りの話ですよね』とこともなげに言ったのだった! 心底驚いた。この言葉ですら、何のことかわからない人が多いはずだ)。

 なぜ「混乱」は日本にとって「宿命的」なのか?


 勘の良い者は気づいているだろうが、皆で一斉に気づくためにこの章の終わりの次の一節に注目する。

私たち日本人が「である」行動様式と「する」行動様式とのゴッタ返しのなかで多少ともノイローゼ症状を呈していることは、すでに明治末年に漱石がするどく見抜いていたところです。

 漱石?

 これもまた説明不足だが、わかる人にはわかることだと見なして喋っているのだ(K君のように!)。

 そして皆もまた「わかる」べきなのだ。去年読んでいるのだから。


 それが、今年度の教科書には、111頁~に載っている! 夏目漱石「現代日本の開化」だ。

 これをどこで読んだ?

 「夢十夜」の「第六夜」解釈の参考資料としてプリントして配った。

 先のK君の「皮相、上滑りの話」というのはこれのことだ。

 そして皆が使うなら、「皮相、上滑り」と言い換えられている「外発的」という言葉がちょうどいい。ざっと目を通して、皆がこの言葉に目を留めたのは勘が良かった。

 ここで漱石が「現代の開化」と呼んでいるのは、明治の「文明開化」のことであり、それはつまり日本における「近代化」のことだ。

 漱石は日本の近代化が「外発的」だったという。

 明治の開国とともに西欧の文化の流入にさらされた日本の「開化」は「外発的」であり、その変化は急激だった。

 これが「ギャップ=くいちがい」を生ずる。

 「内発的」とは、自然の、必然の推移を表わしている。「開化」が「内発的」に起こった西欧は、その変化には相当の時間をかけている。だから「ギャップ」が生まれない(日本に比べれば)。

 「外発的」に近代化した日本の混乱は「宿命的」だったのだ。


「である」ことと「する」こと 4 ギャップ=くいちがい

 さて、第二章で考えたいのは、章の終わりの次の一節。

私たちはこういう二つの図式を想定することによって、そこから具体的な国の政治・経済その他さまざまの社会的領域での「民主化」の実質的な進展の程度とか、制度と思考習慣とのギャップとかいった事柄を測定する一つの基準を得ることができます。そればかりでなく、例えばある面では甚だしく非近代的でありながら、他の面ではまたおそろしく過近代的でもある現代日本の問題を、反省する手がかりにもなる

 この一節の後半は、難物という以上に、そもそもここまで読んだだけではこれが何のことかはわかるはずがない。とりわけ難しいのは「過近代/非近代」という見慣れない言葉ではなく「ある面・他の面」が何を指しているかだが、これは後で考える(だが皆はこの文章を最後まで読んでいる。だからわかってもいい)。

 したがってここではこの部分の解釈を行うことはしない。

 まずはこの部分の前半を考える。

 ここで「測定」されるという「制度と思考習慣とのギャップ」とは何か?


 これもまた、ここだけで考えないであちこちを参照すると、次の章の最後に次の一節がある。

領域による落差、また、同じ領域での組織の論理と、その組織を現実に動かしている人々のモラルのくいちがい

 この「領域による落差」というのは、上で保留した「面」ごとの「非近代/過近代」の「落差」のことなので、これもやはり保留する。

 だがその後の「組織の論理と、その組織を現実に動かしている人々のモラルのくいちがい」は「制度と思考習慣とのギャップ」ときれいに対応している。

 「ギャップ=くいちがい」とは何か?

 さらに条件を付け加える。文中の具体例でこの「ギャップ=くいちがい」を説明する。


 あれこれ説明の言葉は考えればいい。とりあえずお互いに喋る中で消化していけばいい。

 ただし、必ず使わなければならない言葉があり、それを使えば明瞭に説明できる。そのことは意識されていなければならない。

 何か?


 この文の始まりは「私たちはこういう二つの図式を想定することによって」だ。「二つの図式」? わかりきったことだ。「である/する」だ。

 つまり「である/する」を使えば「ギャップ」が「測定」できるのだ。

 具体例としては会社員の例を使う。


 ということで次のように言えばいい。

「制度=組織の論理」が「する」化しているのに、その組織を現実に動かしている人々の「思考習慣=モラル」がまだ「である」論理であるという「ギャップ=くいちがい」

 会社という組織は「する」論理で動くべきなのに、そこで働く人が「である」思考習慣で動いてしまうという「ギャップ」があるのだ。


「である」ことと「する」こと 3 物神化・自己目的化

 引き続き第二・三章の対比。

  • 自己目的化・物神化/
  •     /点検・吟味・警戒・監視・批判
  • 「属性」・内在/そのつど検証
  •   定義や結論/プロセス
  •     先天的/
  •  身分・ドグマ/
  •   血族・人種/
  •      権威/現実的な機能と効用
  •      to be/ to do
  •        /業績
  •      君主/会社の上役
  •   まるごとの/仕事という側面についての


 これらは必ずしも対になっているわけではない。また既出の表現が繰り返し使われたらマークする(「不断」など)。

 こうして図式化したものを通観すると、この文章で「である/する」という対比で表したいものが見えてくる。


 さて、上の対比項目で考察すべき表現は「自己目的化・物神化」だ。

 これが「である」側に振り分けられることは、語義的にわかるわけではなく、文脈でわかる。「自己目的化―物神化―を不断に警戒し…」は「『である』化しないように絶えず『する』化し…」と言い換えられるのだと考えるから「自己目的化・物神化」は「である」なのだ。

 さてこの「自己目的化―物神化」とはどういうことか?


 こういうとき、対象となる部分だけを見ていてはいけない。周囲を見回して文脈の中で把握する思考が「読解」には重要だ。

 「物神化」と関連性・親和性も感じられる既出項目はどれか?

 「置き物」「祝福」だ。「物神化」とは、それを「置き物」として据え、神の恩寵のように「祝福」するという意味だと考えればいい。


 「物神化」は見慣れない比喩に惑わされてしまうが、ここで理解が試されるのはむしろ「自己目的化」だ。

 「自己目的化」も「物神化」も、まずは語義の確認も必要。そしてそれが文脈において何を意味するかを説明する。

 「自己目的化」の説明のためには「目的」ともう一語、必須の言葉がある。それがただちに思い浮かんでいなければならない。

 「手段」である。


 「自己目的化」とは、本来手段に過ぎないものが目的に置き換わることだ。

 ということは、ここでの「目的」と「手段」を明らかにすることが的確な説明のために必要だ。


 「民主主義」がどちらかであるわけではない。「民主主義」における「目的」と「手段」が何か、だ。

 「制度の自己目的化を不断に警戒し」とあるから、「制度」が「手段」だということだ。では目的は?


 民主主義という制度の「目的」は民主=国民主権だ。すなわち独裁や専制を許さないことが民主主義の目的なのだ。

 そのための手段が「制度」だということなのだが、「民主主義という制度」は抽象度の高い表現だから、ここはさらに具体的な制度を想起しよう。

 何を想起すべきか?


 ここでは選挙を挙げたい。議会制が挙がったのも良かった。

 さらに、授業で憲法が挙がったのは、なるほど、だった。

 「憲法」はなぜ民主を目的とする手段となる制度なのか?


 「法治原則」そのものが、そもそも権力の横暴を防ぐ手段でもありうるのだが、とりわけ憲法が他の法律と違うのは、他の法律が国民を縛るものであるのに対し、憲法は権力を縛るものという基本性質があるからだ。


 さて「自己目的化」の説明に、さらに条件をつける。

 どういう意味か、という説明とともに、これを用いて前頁の「ナポレオン三世のクーデター・ヒットラーの権力掌握」を説明してみる。すなわちこれらの例は「自己目的化」したことによって「血塗られ」ているのだ。

 どういうことか?


 さて、話し合う声を聞いていると、迷路に彷徨っているらしいグループもいる。「人民が…自己目的化を…不断に警戒し」の「自己目的化」の主語をナポレオン三世やヒトラーとして語っている。ヒトラーが権力掌握という「目的」のために選挙という手段を「自己目的化」した…。

 そうではない。

 「自己目的化」したのは「人民」だ。


 「ナポレオン三世のクーデター」がどのようなものかはよくわからなくても、論理的に推測できればいい。しなければならない。

 つまりナポレオン三世もヒトラーも選挙によって「民主」的に選ばれたのだ。そこでは目的のための手段である建前に則っている。

  • 目的―民主(国民主権)
  • 手段―制度=選挙

 なのにそれが民主的な制度であることに「安住」して、人々が制度そのものを、あるいは選挙結果を「物神化」し、「不断の検証」を怠っているうちに、権力者は徐々に独裁的にふるまって、やがては本来の目的であった「民主」を機能不全にしてしまったのだった。


「である」ことと「する」こと 2 対比

 さて、文章の読解に活かせる方法的思考は、ここまでにいくつか実践してきたが、中でも多用される方法で、しかもこの文章が典型的にそれを活かせる文章だという、あの方法は、直ちに思い浮かんでいなければならない。

 何?


 いうまでもなく「対比」だ。

 「永訣の朝」でも「なぜ頼んだのか?」の考察と「ふってくる/沈んでくる」の違いの考察で対比を用いたが、あれは対比される言葉を自分たちで考えた。

 一方、評論の場合は、まずは文中に出てくる語句を対比図に振り分ける。そうすることで文章の構造を見えるようにする。

 この文章はどうみても対比的に考察が進んでいる。そうした対比を示す言葉が文中に散らばっている。それらを取り上げて整理し、通観する。

 振り分けるため、またそもそも探すため、対比される領域にラベル/見出しをつけておくと便利だ。文脈から対比されていることがわかるが、それが何の対比なのかがわからない場合もあるが、この文章の場合はいうまでもなく「である/する」だ。

 本文から、「である/する」のどちらかに分類できる表現を探し、本文にマークするとともに、ノートに書き出す。どちらも必要な作業だ。マークしてあれば、本文を読むときに頭が整理された状態で内容を把握できるし、ノートに書き出しておくと、一覧してその共通性が把握できる。


 さてしばらくはそうした頭の使い方に慣れるために、実際にやってみる。

 挙げる(マークす)べき語は次のような語句だ。

  • 抽象語・概念語
  • 具体例・比喩
  • 形容

 これらは排他的な三つではない。「客観的・主観的」などという定番の対比は抽象語でもあるし「的」がつけば形容だ。「~のような」といった比喩は形容でもある。

 ポイントは、どちらかに振り分けられる特徴的な表現かどうかを判断することだ。判断は語義に基づく場合と、文脈に基づく場合がある。両面から考えて一致するのが望ましい。

 まず第一章から挙げてみる。「債権者である/請求する」は「である/する」に傍点がふってあるから、明らかにそうした対比を表している。

 だがそれよりも、ここでマークしておくことに価値があるのは「債権者であることに安住していると」の「安住する」だ。これはもちろん「時効を中断する」と対比されているからそちらもマークしてもよい。だが「時効を中断する」は汎用性がない。「する」論理を表すには表現が限定的すぎる。それに比べて「安住する」は次の頁にも使われる。

 「安住する」に比べて「債権者」は「である」論理を表しているわけではない。「である」がついているから「である」なのであって、「債権者である」と同様に「債権者する」状態を想定することもできるからだ(日本語としては不自然だが趣旨はわかる)。「請求する行為によって時効を中断する」はまさに「債権者する」ことだ。その意味で「債権者」という言葉はそれ自体ではどちらにも振り分けられない。

 それに比べて「安住する」が「する」論理を表すことはない。だからこの言葉を「である」論理を表現しているとみなしてマークしておくことは有意義なのだ。

 次頁ではこの「安住する」が「行使を怠る」と言い換えられるから、逆に言えば「行使」は「する」だ。

 さらに次頁では「行使」が「祝福」と対になる。


 同様に「不断の努力」を「する」に挙げたい。ここでは「努力」よりも「不断の」という形容の方が重要だ。次の章で三回も出てくる。

 また「置き物」を「である」に挙げる。「ねむる」も「安住する」も「祝福する」も置き物も、対比の性質を示す比喩だ。


 個別の箇所の判断は、詳述していけば上記の様に、なぜどちらかに振り分けられるかの説明がつくが、実際には読みながら、何となくわかる、といった程度で構わない。挙げていくと、その共通性からどちらかであることが判断できるようになる。

 第一章全体でこんなかんじ。

  •   である/する
  •    眠る/
  •  安住する/行使する
  •  祝福する/行使する
  •   置き物/不断の努力
  • 惰性を好む/
  • よりかかる/立ち上がる


「である」ことと「する」こと 1 論旨をレイアウトする

 「永訣の朝」が終わって、今年度の授業は残り8回ほどしかない。この中で可能な限り評論を読んでいく。

 軸となるのは「『である』ことと『する』こと」だ。ここにいくつかの評論をからめていく。

 正直、時間はもっとほしい。

 だが今回の塊もまた、それらから得られる認識を来年度にお土産として持って行きたい重要な議論がなされている評論群だ。


 まずは「『である』ことと『する』こと」。

 この文章の読解の目標は「全体の論旨を平面上にレイアウトする」だ。

 具体的には、文中から、論旨を語るために必要な語やフレーズを挙げ、それらを平面上に配置(レイアウト)して、その関係性を位置関係で示す。必要に応じて囲ったり、線や矢印で結んで論理関係を示したりする。


 文章や人の話(「『である』ことと『する』こと」は講演)は線状(1次元的)に情報が配置され、読み手(聞き手)は時間軸に沿って情報を受け取る。

 だが、その情報、つまり文章の内容・論理は、本来は3次元(立体)以上の次元構造をもつ。こことここが結びつく、という論理のつながりは横にだけつながっている(1次元)わけでもなければ、平面(2次元)上でのみ展開されているわけでもない。ここにもあそこにも繋がる。その繋がりは縦横無尽でありうる。

 我々は時間軸にそって1次元的に提示される情報を、脳内で、そうした多次元構造に再構築している。それが読解という行為だ。

 だが立体模型を作るのは、それ自体が厄介な大仕事になってしまうので、授業という制約の手に余る。

 そこで、線状に配置されている情報を平面上に配置し直すところまでを授業で行う。もともと時間順に生起するわけではない論理を平面上で同時に見えるようにする。


 ということで全体の論旨を把握して大まかな設計図を構想する。

 同時に、部品を集める。文中から語句をピックアップする。


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