2025年10月23日木曜日

共に生きる 22 近代と「多様性」

 福岡と若林をつなぐ問題を総合的に扱うためにもう一つの文章をここにからめる。宇野重規「〈私〉時代のデモクラシー」だ。


 まずは共通点を探す。

 「多様性」は「〈私〉時代のデモクラシー」には直接は登場しない。だから「多様性」という概念に対応する論点が何かないか、と考える。

 それとともに、そもそも共通する言葉も登場している。しかも重要なキーワードとして。何か?


 共通する言葉は、またか、と思ってもらっていい、「近代」だ。近代という概念はそれくらいそこら中に関連する、様々な論の基礎になっている概念だということだ。

 では「近代」及びその果てに訪れる「現代」と「多様性」にはどんな関係があるか?


 次のような一節は、互いに似たようなことを語っていると感じないだろうか?

多層性と多様性

「一つであり、かつ多様である」という在り方は、社会の中のさまざまな事物に見いだされる。(略)社会を構成するそうしたさまざまなものによって、人間の社会自体が「一つであり、かつ多様であるもの」として存在している。

〈私〉時代のデモクラシー

〈私〉抜きに、社会を論じることはできなくなっています。そのような〈私〉は、一人一人が強い自意識を持ち、自分の固有性にこだわります。しかしながら、そのような一人一人の自意識は、社会全体として見ると、どことなく似通っており、誰一人特別な存在はいません。このようなパラドックスこそが〈私〉時代を特徴づけるのです。

 上の「一人一人が強い自意識を持ち、自分の固有性にこだわります」は「多様性」と置き換えることができそうだ。

 一方「多様」の反対が「一つである」なのだがこれは宇野の「全体として…似通っており、誰一人特別な存在はいません」と対応しているように見える。

 みんな「同じ」でみんな「違う」。

 こうした状態は「近代化」とどういう関係にあるか?


 例えばこんな一節。

多層性と多様性

〈近代性の層〉が人類史上持つ重要な意味の一つは、そのような多様な人間集団が「同じ人間の社会」であり、それゆえ集団を構成する個々人も民族や文化の拘束から自由な一人の人間として主体たりうるという、「普遍性としての人間と人間性」の理念を提示し、それを規準とする社会を実現しようとしてきたことだ。(略)人間とは基本的に同じものであり、それゆえどの人間の社会も同じ理想的状態を実現しうるという、普遍主義的な理念を基底に持っている。

 近代は「個人」を生んだが、そうした「個人」の発見こそ同時に人間の「普遍性」の発見でもある。「普遍」つまり共通性=みんな同じ、だ。

 これは「〈私〉時代のデモクラシー」の次の一節と比較できる。

近代においても、最初の頃には歴史において実現されるべき目標の理念がありました。「公正で平和な社会」などというのが、それです。 

 「公正」の他にも「平等」ともいっている。人間はみんな「同じ」であることは「理念・理想」なのだ。

 一方でそれは肯定的な面ばかりではない。

多層性と多様性

だが現実の近代社会は、資本制とそれに基づく産業社会を地球的な規模で押し広げ、世界中どこでも同じような建物が建ち、鉄道や自動車から家庭電化製品に至るまで同じような機械を用い、民族衣装を捨てて洋服を着る「同じような社会」と、そんな社会の目指す「同じような発展」や「同じような豊かさ」を世界化していった。

 つまり「みんな同じ」は、目指すべき目標でもあったが、同時に忌避すべき事態でもある。

 そして宇野はその多様化がまた別の難しさを生んでいることを最後に述べている。多様化する〈私〉は〈私たち〉を形成することが難しくなっているのだ。

 これは「多様化」と「民主制」に対してどのような議論を招来するのか?


 今回の一連の考察は小論文としてまとめる。


2025年10月22日水曜日

共に生きる 21 生物多様性2 自転車操業

 この文章で述べられているのは、生物多様性がなぜ大事か、であり、それには「動的平衡」という考え方を理解することが求められている。

 それを考える糸口として面白い箇所をとりあげよう。

 文中で「動的平衡」を「永遠の自転車操業」と表現する箇所があるが、この意味はすんなりと腑に落ちているだろうか?


 必要ならば「自転車操業」を辞書で引いて、意味を確認しておく。その上で、この文章では何を言っているかを理解できているか、自らに問う。

 この一節の面白いのは、そもそも「自転車操業」という慣用表現が既に比喩で、それがさらにここで表わしたい何事かの比喩になっているという二重の比喩になっているということだ。

 比喩というのは、二つの間に共通する特徴や構造があるときに成立する。「綿のような雲が空に浮かんでいる」といえば、綿と雲の間に「白くてふわふわする」という共通点があることで成立している。空一面を覆う雨雲には「綿のような」という比喩は使わない。

 ここでは二重の比喩、つまり三つの対応項目の間に、どのような共通点があると言っているのか?


 まずは比喩されるものと比喩の三層構造を整理しよう。何が何に喩えられているのか? 上の「雲」が「綿」に喩えられている、というときの「雲」「綿」にあたるものは?

  1. 自転車
  2. 操業
  3. 動的平衡

 まず2の「操業」は何のことか?

 ここで「操業」を辞書で引いてしまうと「機械設備を動かす」などという説明が出てくるのだが、それでは「自転車」と「機械」がカテゴリーとして混乱するので、比喩として機能しない。

 ここでは「会社を経営する」「お店を営業する」ほどの意味。「自転車操業」というのは、赤字で倒産寸前の企業の経営状態を指す慣用表現だ。

 2の「会社の経営」に合わせて1も「自転車の運転」と揃えておこう。ここに3も揃えて「~の~」で表そう。

 「動的平衡」が「自転車操業」によって比喩されているとは、「動的平衡」の仕組みが「自転車操業」的だということなのだが、この「動的平衡」が、さらに何を指しているかを考える。

 発表させてみるといろいろな言い方が提案されたのだが、その中でも次の三つは適切であり、かつ興味深い。

  • a.生態系の保全
  • b.生命の維持
  • c.種の存続

 これらは全く別のレベルのことを指している。bは個体レベルの話で、cは「種」、aの「生態系」となれば動植物全てを一括りにしている。

 そして、この一節の「動的平衡」が、どれを指しているかを特定することは難しい。本文全体はa「生態系」の話だったはずだが、この前後では「生命」の語が使われている。といって「生命の時間はずっとずっと長い。何万年。何億年。」といった表現は、一個体の「生命」に限定すべきではないように思える。

 にもかかわらず、ここでの「動的平衡」で説明しようとしている例としてどれも適切だ。

 福岡伸一はこれらミクロからマクロまでの生命現象を全て「動的平衡」という考え方で捉えようとしているのだ。

 とりあえずもう一度比喩の三層構造を再確認。

  1. 自転車の運転
  2. 会社の経営
  3. 生態系の保全


 123に共通している性質をさしあたり「動き続けることでバランスを取っている」「止まると倒れる」くらいに言ってみる。これがもともと「自転車操業」という慣用表現の元になっている自転車の運転についての性質だ。これははそのまま実感できる。

 これを2,3に適用してみると?

 2でいうなら「動き続ける」は営業を続けることであり、「倒れる」とは倒産することだ。借り入れの返済のために、営業して得られた収入をそのまま借金返済と次の営業のための資本に充てるという回転を続けないと、直ちに倒産する。


 これを3にあてはめると「倒れる」とは生命現象の停止、すなわち死を意味する。

 では3で「動き続ける」は?


 文中から指摘できるのは次の段落で、絶え間なく元素を受け渡しながら循環している、といった表現で表わされるような生命の在り方だが、これはいささか抽象度が高い。具体的には?


 具体的にはabcで言い方を変える必要がある。

 a「生態系」で言えば、植物が光合成をして、それを動物が食べ、その動物をさらに捕食者が食べ、死骸を微生物が分解する…といった様々な食物連鎖を想像したい。

 そこでは、ある生物が死ぬことで別の生物に取り込まれるという元素の受け渡しが行われる。「自らを敢えて壊す。壊しながら作り直す」と表現されているのは、食物連鎖における個体の「死」と別の個体の「生」だ。「壊すことによって蓄積するエントロピーを捨てることができる」は、個体が死ぬことで「老化」というエントロピーをリセットして、新しい個体はエントロピーのない状態からスタートできる、ということだ。

 b「生命」では、aの全生物が、さしずめ全身の体細胞に対応している。誕生と死滅を繰り返しながら、福岡伸一がよく用いる表現を使えば1年で全身の元素が入れ替わってしまっているのに、その個体はその個体のアイデンティティを保っている。

 c「種」では、その種の個体はどんどん入れ替わっているのに、種全体は(ゆるやかに変化をしながらも)存続している。


 比喩表現は「何となくわかる」といったわかり方で伝わるものなのだが、こうして厳密に説明できるかどうかで「ちゃんとわかっている」かどうかが試される。


2025年10月21日火曜日

共に生きる 20 共に生きる

 ところで、この文章をここで読むことにはどういう意図があるか?

 この文章が載っている頁の直前が実は高校に入って最初に読んだ「共に生きる」という単元だ。自立という主題をめぐる三つの文章の読み比べが企図された単元だった。

 「生物の多様性」は別の単元だが、「共に生きる」の直後の一つ目に置かれていることの意味について、編集部は意図している(実際に編集部に聞いてみた)。

 この文章は「共に生きる」シリーズの9本目の文章として読んでいるのだった。

 そう思ってこの文章を俯瞰してみると、その論理にはここまでの8本の文章と奇妙な類似性があることに気づく。

 どんな?


 8本の文章すべてに通ずる魔法のフレーズは「他者とのつながり(が大事)」だった。この文章もそうだということは感じられるだろうか。

 さらに、8本の中のとりわけ、どれと濃厚な共通性が見つかるかと言えば、「生物の多様性」を読んでいて「相互依存的」という言葉が登場するあたりで、注意が喚起され、連想をはたらいてほしい。

動的平衡においては、要素の結び付きの数がおびただしくあり、相互依存的でありつつ、相互補完的である。だからこそ消長、交換、変化を同時多発的に受け入れることが可能となり、それでいて大きくバランスを失することがない。

 ここなどは、「自立と市場」で松井彰彦が自立における市場の有用性を認める論理と重なるはずだ。

数多くの緩いつながりに支えられた生活、それが市場経済の本質である。

 生態系と市場には共通して、数多くのプレイヤーによる相互依存の構造がある。福岡がそれによって生態系が「大きくバランスを失することがない」というのは、いわば動的平衡による生態系の「自立」を語っているのだ。

 社会も一種の生態系なのだ。そこで生活をすること=自立と、地球環境における生態系が、「相互依存的」という論理で類比される。

 これもまた「共に生きる」がテーマなのである。


2025年10月20日月曜日

共に生きる 19 問いを立てる

 福岡伸一「生物の多様性とは何か」を読む。

 読んだら「何が書いてある文章なのかな?」と自分で考える癖をつける。手っ取り早くいえばそれは1文要約をするということだ。それをしようとする姿勢自体が読解を促すのであって、要約されたものを後から見て理解することは、それだけ学習の機会を失っている。

 といってなんとなくそれができるようになるのを期待するばかりでなく、一種のメソッドとして意識的に行う方法としてここまで繰り返し行っていたのが、例えば「対比をとる」ことだ。テーゼはアンチテーゼと対置されることで輪郭がくっきりする。「~である。」と言うために、前半に「~ではなく、~」と言っておくと、何を言っているかが明確になる。

 さらにもう一つのメソッドを紹介する。「問いを立てる」だ。


 問いを立てることの重要性はいくら強調してもしたりない。しばしば、答えを得るよりも問いを立てることこそ重要だと言われたりもする。

 それは多くの場合「解決すべき問題を明確にする」というような意味においてだが、ここでは文章の読解のメソッドとしての「問いを立てる」を経験してみる。

 「何が書いてあるか」はつまり「要約」のことだと上で言ったが、機械的な抜粋とつなぎ合わせて要約らしきものはできるとしても、それが「腑に落ちる」かどうかは保障の限りではない。キーセンテンスそのものを提示して、要約だと言ってしまうこともできる。

 ともあれ、しばしばやっている「15字くらいで要約」と同時に、それはどのような問いの答えになっているかと考える。つまり、この文章はどういう問題について考えよう(伝えよう)としているかを、問いの形で表現するということだ。

 この問いは、筆者自身が文中で明示している場合もある。評論で「~だろうか?」「~のはなぜか?」などと言い回しは頻出する。だがそれらは、当面の論理を展開するための措辞に過ぎない場合もあるので、文中から探すことも試みていいが、それよりむしろ「答え」であるところの要旨から遡って、それに対応した「問いを立てる」。つまり文章全体の主旨を、筆者の問題意識と対応させて捉えるのだ。

 その際注意すべきことは、答えが二択になるような問いは有効ではないということだ。「~は良いのだろうか?」という問いは、ほとんど「良くない」という結論ありきの言わば反語なのであって、結論が「良くない」としたら、その文章の論旨として捉えるべきは「なぜ良くないか?」だろう。

 この「問いを立てる」は、読解のためのメソッドでもあるが、広く思考のためのメソッドだと言っていい。


 さて「生物の多様性とは何か」ではどうか?

 いやこれは、探す、どころか題名が問いの形になっているではないか。

 ではこれが主旨に対応した問いなのだろうか?


 そうではない。この問いの答えが、この文章の主旨であるとみなせそうな感触がない。

 「生物の多様性」は文字どおり、いろんな生物がいる、ということなのだろう。それについての予断に反した説明はあらためてあるわけではない。

 「生物の多様性」はいわばテーマで、それをめぐって何事かを議論しているわけだが、「生物の多様性」という概念自体の説明をしているわけではないのだ(実はこの題名は教科書の編集部がつけたもので、言わばミスリードだ。原書で筆者の福岡伸一自身がつけている見出しは、後述する適切な「問い」の形になっている)。


 さてではどのような問いを立てるのが適切か?

 みんな同じ問いを思い浮かべるに違いないと想定していたら豈図らんや、聞いてみるとけっこうトッチラカったのだった。

 例えば「~とは何か?」という形で問いを立てるなら、それが一般には知られていない概念であるか、一般的な定義ではない、別な側面をとりあげようとするのがその文章の目的であると見なされる場合には有効だ。「生物多様性」についてはそんなことはまるでない。では「ニッチとは何か」? 確かにこの文章では「生物多様性」と比べれば「ニッチ」についての説明は、ある。しかも「ニッチ」についての一般的な理解とは違った意味合いを読者に伝えてもいる。だがそれが中心的な話題かといえば、イマイチだ。部分に過ぎる。

 では「動的平衡とは何か?」は?

 確かにこれは社会一般への浸透度合いからしても、「多様性」「ニッチ」に比べて、ここで説くべきと筆者が考える必然性は高いし、この文章の主旨にとっても重要な概念だ。

 とはいえ「~とは何か?」型の問いは、結局のところある概念の説明がその文章の主旨なのだと見なしているということだ。それではどうしても文章の一部分になってしまう。この文章では「動的平衡」の概念を読み手に理解させることが主旨なのだとは言えない。

 ではどのような問いの型が適切か?


 「環境保護のために人間には何ができる・すべきか?」といった問いも多く挙がった。

 答えをどう想定しているのかと聞いてみると「人間の分際をわきまえる」というような答えが挙がったが、これはこの文章の把握として適切か?

 評論文には、筆者の認識や主張が書かれている。主張が強くはなく認識が中心であるような文章は「説明文」と呼ばれ、主張が明確だと「論説文」などと呼ばれる。多くの評論には両方の要素がある。

 上の問いと答えによって把握される文章の主旨は「主張」に引っ張られすぎているともいえる。確かに文章の最後の方はそういう方向で書かれている。ではそこまでは?

 例えば「環境を守らなければならない」といった主張は当然すぎて、わざわざ書かれる必然性に乏しいから、あらためてそうした主張をこの文章から読み取ることにそれほど意味はない。「人間は自らの分際をわきまえなければならない」も、その延長としてそれほど中身のあることを言っているわけではないので、こうした把握が十分とは言えない。

 あるいは収録部分の末尾「パラダイム・シフトを考えねばならない」を主張だと見なすことはできるが、これは「動的平衡」のことだ。つまり「何をすべきか?→動的平衡の考え方を理解すべき」ということになるのだが、まだ全体の主旨を捉えているというにはイマイチ。

 では「どうしたら生態系を保持できるか?」は?

 これは上の問いに比べて、環境保護の仕組みに踏み込んでいるといえる。上の問いはそれよりも人間の役割に重点を置いている。

 さてどうしたら保持できるか。短く言えば「動的平衡を維持する」だが、これがこの文章の核心となる問題提起と結論だとすると、教科書の題名「生物の多様性とは何か」はどこから出てきたのだろう。

 元々は題名の「生物の多様性とは何か」がイマイチ、と思って考え始めたのだが、まずは素直にこの題名を使うのが発想しやすいはずだ。

 ということで次の問いがバランス良く全体の主旨を引き受けている。

なぜ生物の多様性が必要・大事か?

 これは、生物の多様性は大事だという一般常識に対して、ホントにその意味がわかってる? という問いを読者に投げかけているということだ。

 さてこの答えは?


 短い答えは本文中にある。

地球環境という動的平衡を保持するため

 これを長くしようとすれば、「動的平衡」という概念について説明し、それを保持することと「生物多様性」の関係を説明し…、ということになる。そうなればもうこの文章の主旨は充分に捉えられていると言っていい。

 この文章は、生物学者による科学読み物として、まずは説明文的に読もう。読者としては「動的平衡」という考え方を理解し、「生物の多様性の重要性」について認識をあらため、確かにすることが求められている。

2025年10月19日日曜日

共に生きる 18 資本主義社会に生きる

 「交換と贈与」「自立と市場」の論旨は、対比構造を揃えて並べた時に、肯定/否定の主張が逆の方向性を持っているように見える。

 その感触は間違っていないが、逆ベクトルを強調するのはいささかミスリードでもある。構造を対応させるのに利用した対比が、実は正確に対応しているわけではない。

 どういうことか?

交換/贈与

市場/個人的関係

 これらの対比は、実は同一の軸で並んではいない。左辺が対応していることを確認して、これらの対比が対応しているように説明した。では右辺はどうか?

 松井論で「個人的関係」としてまとめた二つの例は熊谷さん親子と、「なめとこ山の熊」の小十郎と商人の関係だ。

 このうち、熊谷さん親子は確かに「贈与」の関係かもしれない。

 だがもう一つの小十郎と商人の間には「贈与」の関係などなく、むしろ「交換」の関係だと言っていい。しかも力関係が不均衡であるにもかかわらず、他の選択肢はない(選択肢がないから不均衡のまま固定されている。もはや対等な「交換」ですらなく、言わば「搾取」だ)。

 つまり「個人的関係」と「贈与」は対比の右辺として対応しないのだ。

 そもそも、「市場/個人的関係」の対比の要素は、関係における拘束力の「弱い/強い」と、選択肢の「多い/少ない」だ。

 「交換/贈与」はそうした要素の対立では全くない。つまり軸が違う。

 したがって、二つの対比を並べるところに錯覚がある。

 では「自由」と「自立」の関係は?


 松井彰彦は市場を全面的に肯定しているわけではない。確かに市場が自立を助けると言うが、次のようにも言う。

市場は多くの場合、さまざまな選択肢を私たちに与えてくれるが、それとても絶対視すべき存在ではない。(略)市場に依存しきってしまうこともまた、脆弱な基盤の上に立った自立と言わざるをえない

 一方「自由」の危険を近内は皮肉交じりに述べる。

ただし、その自由には条件があります。―交換し続けることができるのであれば、という条件が。

 交換し続けることができるのであれば、というのはお金があれば、という意味だから、お金がなくなったときには交換できなくなってすぐ困窮する。これは松井が言っている「脆弱な基盤の上に立った自立」だ。

 つまりこれらが好ましくないことにおいて、二人の認識は一致しているのだ。

 また、松井の述べる大震災の際のボランティアの例はまさしく「贈与」だ。

 通常の「市場」による自立が困難になった時、「贈与」がそれを救う。

 ここでもまた、二人の認識は一致している。


 そもそも「自由」が「依存しない」だとして、「自立」は「(特定の相手に)依存しない」ではあるが、この括弧の部分を外して「自由」と「自立」を同じ「依存しない」だと錯覚させていたのだ。

 だが「(特定の相手に)依存しない」はつまり「みんなに依存する」ではないか。

 「自由=誰にも依存しない」と「自立=みんなに依存する」はそもそも正反対だ。それを等値して、評価が反対なのはなぜかと問題設定するところがミスリードなのだ。


 また松井は次のようにも言っている。

特に精神的な満足感は多くの場合、市場以外のところで手に入れるしかない。

 それこそ近内が問題にしている領域だ。

 確かに我々は資本主義の市場経済システムの中で生きている。そこにあるのは「交換」の論理だ。だが友人や家族との関係にまでそうした論理を敷衍していいのか?

 経済学者である松井彰彦は、あくまでこの資本主義社会で「自立」して生きるためには市場が有効だと言っているだけだ。

 だがその「交換」の論理を親子や友人にまで適用していいと言っているわけではない。

 一方、哲学(研究)者である近内は、つまり「精神的な満足」を問題にしているのだ。

 その、議論の重心がどこにあるかによって、二人の主張は反対に傾いているように見えるが、二人の認識はむしろ一致していると言っていい。


2025年10月18日土曜日

共に生きる 17 自由と自立

 もう一つ。考える手がかりを提案する。

 「交換と贈与」の「自由」という観念の扱いは、「自立と市場」における「自立」に対応している。

 どういうことか?


 「交換と贈与」では「自由」について次のように言う。

誰にも頼ることのできない世界とは、誰からも頼りにされない世界となる。僕らはこの数十年、そんな状態を「自由」と呼んできました。

あらゆるもの、あらゆる行為が商品となるならば、そこに競争を発生させることができ、購入という「選択」が可能になり、選択可能性という「自由」を手にすることができます。

 これは「自立と市場」で論じられている「自立」の状態に対応する。松井彰彦は熊谷さんの言葉によって「自立」を次のような状態として示す。

依存先が十分に確保されて、特定の何か、誰かに依存している気がしない状態が自立だ。

 頼らない(依存しない)、選択肢が十分確保されている状態が「自由」であり「自立」なのだ。

 ここでも二つの論は共通した論点をもっている。

 そして近内論では「自由」は否定的イメージで語られるが、松井論では「自立」は目指すべき状態として肯定的な文脈で使われている。

 やはり両者は反対方向の主張をしているように見える。

 このことをどう考えたらいいか?


 「交換/贈与」における「交換」の否定と「自由」の否定は、どのような論理でつながっているか?


 特定の相手に頼らないで選択できる状態が「自由」であり、それは相手を(それはすなわち自分も)「交換」可能な存在だと見なすことだ(「交換」できないのは不「自由」)。

 近内は、それでいいのか? と問いかける。もちろん反語だ。「良くない」のだ。

 「市場/個人的関係」における「市場」の肯定は、もちろんそれが「自立」を支えるからだ。それはまさしく上の「特定の相手に頼らないで選択できる状態」だ。「自立」できるのは良いことに違いない。

自由・交換(否定)/贈与(肯定)

自立・市場(肯定)/個人的関係(否定)

 二人の見解をどう考えたらいいか?

 対立する見解が存在することは別におかしなことではない。何であれ、現実に賛否両論あることは世の常だ。

 だがそういって済まさず二つの論がどういう関係かを納得しよう。

 一つには、見解が相違するなら相違するで、なぜそういう結論になるかに、納得できる理由を見出すこと。

 もう一つは、相反しているようなここまでの整理が不適切であることを示し、二人の見解の関係を示し直すこと。

 授業者の想定としては、どちらも可能だ。二つの論旨が相反している「ように見える」のがそもそも意図的なミスリードによっている。思考を、議論を活性化させるには対立を作るといい。わざとそれをやっているのだ。

 だが議論の目的は、どちらかの殲滅ではない。融合だ。どう納得を共有するか、だ。

 どう考えたらいいか?



共に生きる 16 交換と贈与

 「共に生きる」シリーズとしてここまで読んだ7本の文章に続いて、近内悠太「交換と贈与」を読む。

 事前課題の要約とともに、ここまでの7本で、最も論旨の共通点があるのは? と聞いてみると、最も多く上がったのは松井彰彦「自立と市場」だった。みんな勘が良い。ねらい通りだ。

 さあ読み比べよう。


 連想が働くのは「交換と贈与」の文中に何度も「市場」という言葉が登場するので自然なことだ。それは、論じている領域というかテーマに共通性があるからだ。何か? 

 二つの文章はともに、ある社会システムにおける人間のありようについて論じている。それを表わす言葉は共通してはいないが、対応している。

 それを表す言葉を文中からそれぞれ4字で拾うと?

 「交換と贈与」では「資本主義」。

 「自立と市場」では「市場経済」。

 この対応=共通性によって、みんなは二つの文章が関連した話題を扱っていると感じているはずだ。


 この共通性によって二つの文章を比較したときに、まずはある違和感を感じ取ってほしい。何だかその主張に逆のベクトルがあるなあ、と。

 それはどのようなものか?


 二つの文章の関係、などという抽象的な問題がどのようなものかを明晰に語ることは容易ではない。

 ともかく、比較するためには共通する土俵を用意しなくてはならない。

 「共通する」というのは、一つには上に見たとおり「資本主義」と「市場経済」を重ねてみるということだが、まだその先の展開は容易には読めない。

 もう一つは、文章の構造を明らかにして、その構造を対応させるというやり方もある。

 構造?

 論理構造を把握し、明示する一つの方法は、対比をとることだ。

 両者の主な対比を挙げる。

 「交換と贈与」は言うまでもなく「交換/贈与」。

 一方「自立と市場」では「自立」と「市場」は対比されているわけではない。では? と問うとすぐに「自立/依存」の声が挙がる。もちろんそれは対比だが、それはこの文章の主旨を示す、重要な対比ではなく、語る上で使う対義語、というほどの位置づけだ。

 「自立と市場」の主要な対比は確認済み。「市場/個人的関係」だ。

 「主要な対比」というのは、その文章の中心的要素と、それを主張するために、それと対義的な項目を否定的に対置したセットのことだ。「交換と贈与」ではそれが題名に示されているが、「自立と市場」では「市場」の対比項目が文中では明示されていない。だが「自立を支えるために市場が有効だ」という主旨を明確にするため、有効でない具体例が対比的にとりあげられている。それを「個人的関係」と表現しておいたのだった。

 二つの対比を並べてみよう。まず「交換/贈与」をこの向きに並べておいて、そこに「市場/個人的関係」を比較するには、どちらをどちら向きに並べるべきか?

交換/贈与

市場/個人的関係

 この並べ方は適切か?


 まずこの向きでいいとして、これで先の違和感が明確になっただろうか。

 二つの対比は、「肯定/否定」が、左右逆になっているのだ。

交換(否定)/贈与(肯定)

市場(肯定)/個人的関係(否定)

 この「肯定/否定」の、二つの文章での捻れをどう考えたらいいのだろうか?


 何気なく並べた左右が不適切なのでは?

 いや、そうではない。「交換」と「市場」が同じ側に置かれることには十分な必然性がある。

 どんな?


 「市場」とは市場経済システムにおける関係が構築される場だ。そこでは「交換」の論理で人々は結びついている。

 「交換の論理」とは何か?

 「交換と贈与」の文中に次の一節がある。

「割に合うかどうか」という観点のみに基づいて物事の正否を判断する思考法を、「交換の論理」と呼びたいと思います。

 「割に合うかどうか」というのは、経済合理性があるかどうかということだ。それはすなわち「市場」の論理だ。需要と供給のバランスで適正な価格が決まり、代金を払えば品物やサービスが受けられる(払わなければ受けられない)。誰かが一方的に損をするような不合理なことは起こらない。起こさないために例えば独占禁止法などの措置がとられる。

 一方「市場経済=資本主義」システムとは、サービスを含む全てが商品として、貨幣を媒介にした「交換」によって取引される社会だ。この場合「市場」は「交換」の場だと言えるが、それは商品と貨幣が「交換」されるというだけではない。

 さらに重要な「交換」とは何か?


 「交換と贈与」では、商品と貨幣が交換されるから「交換の論理」が良くないと言っているわけではない。次の一節に表れているのは何の交換か?

交換の論理を生きる人間は、他人を「手段」として扱ってしまいます。そして、彼らの言動や行為には「お前の代わりは他にいくらでもいる。」というメッセージが透けて見えます。

 この「交換」を「市場」経済の場に適用すると、何が「交換」可能になるということになるか?


「自立と市場」に次の一節がある。

特定の誰かと強い依存関係に陥ることはない。A店でものが買えなくてもB店に移れる。Cという客に嫌われてもDという客がものを買ってくれれば店は商売になる。

 これはつまり、売り手と買い手双方にとって、それぞれが「交換」可能になるということだ。

 市場では、正当な対価さえ払えば、誰から買ってもいいし、誰に売ってもいい。売り手から見て、買い手はそれぞれ交換可能な存在でしかないし、買い手から見ると売り手は交換可能なのだ。


 こうしてみると、対比の左辺「交換」と「市場」が対応していることには納得できる根拠がある(ように見える)。

 なのに「交換と贈与」では右辺「贈与」が肯定的に、「自立と市場」では左辺「市場」が肯定的に主張されている。

 このことをどう考えたらいいか?


 ひとまず「贈与」と「市場」が肯定される論理を確認しておこう。

 資本主義のシステムの中で、我々は「交換」の論理で生きる。しかしそこには人間同士の信頼が成立しない。みんな孤独だ。そうした「交換」の論理と対比され、肯定されるのが「贈与」だ。

 一方、自立を支えるために「個人的関係」に頼るのは危うい。それに比べて「市場」は自立にとって有益だ。

 やはり二つの文章の肯定/否定は捻れている。


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