奥さんが「私」に⑤の出来事を話した⑥の出来事が土曜であると思えるのは、いわば自然なことだ。だが、あえて土曜以前なのではないかと考えると、それも解釈可能であることがわかってくる。この、いわば思考の柔軟体操も有益なことではある。
それでもやはり土曜であると考えることに妥当性があるとして、問題はその根拠をどう言えるかが問われている。
⑥と⑦が日を跨いでいないと感じさせる理由は、やはり「私が進もうかよそうかと考えて、ともかくも明くる日まで待とうと決心したのは土曜の晩でした。」という表現だ。
どうしてここから、⑥と⑦が同日内の出来事であると言えるのか?
論拠1
「ともかくも」という副詞は、「とりあえず」「さしあたり」などと同じくそれが当座の決定であることを示す。決定までに日を跨いでいたら「ともかくも」という表現は、今更何を、と感じられてしまう。だから逆に言えば、決定を迫られるような事態が生じた時点(⑥)から、まだそれほど時間が経っていないと感ずる。
論拠2
「明くる日」という時間経過を表す語は、その起点となる「本日」を必然的にかつ潜在的に前提する。それは筆者と読者に共有された認識のはずだ。「本日」がいつかわからないのにいきなり「明くる日」と言われても読者はついていけない。だからそれがどの日であるかわからないような時点を前提するのは不自然であり、即ち⑥のあった日が「本日」として定位される。それは「決心」が実現する「明くる日」を迎えることのなかった土曜日に他ならない。
これらは、小説内事実として⑥が土曜日でなければならないことを論証しているというのとは違う。これらにも上記のような「あえて」の反論は可能ではある。
それより、上記の論証は、漱石が一連のプロットを、曜日を特定して用意し、その上で書き進めているという仮定を元に、表現の細部のニュアンスが、⑥が土曜と設定されていることを示している、という説明だ。
だからここは妥当性についての合意ができればいい。金曜以前だと考えるより、土曜だと考える方が自然だと納得できればいい。
授業者が最も説得力を感じるのは次の論拠。
論拠3
ここでいう「進もうかよそうか」は「話そうか黙っていようか」の意味だ。この躊躇が日を跨いでいたとすると、そこまで既に「よして」いるのに、今更「進む」と「よす」が等価な選択肢になっているかのような言い方はおかしい。この選択はまだ「よして」いたというほどの時間がさほど経過していないことを表している。
以上、いくつもの根拠を挙げることができる。このうちのひとつでも明晰に語ることができれば上出来だ(授業中にそれを発表した人たちには大いなる拍手を送りたい)。
読者はこれらの細部を整合的に(だが無意識に)解釈して、⑥と⑦が同じ土曜日の出来事であると捉えている。
繰り返すが、これは答えるには難しい問いだ。正しく読むことより、自身の読みの生成過程を自覚することの方がはるかに難しい(実際に、上の推論の根拠のいくつかも、授業者には思いつかず、その時々の生徒が指摘したものを紹介している)。
この問題の結論として、以上の根拠からも以下の推論結果からも、やはり⑥は土曜日だと考えられるのだが、とすると今度は逆に「土曜の晩でした」という限定の仕方を、不自然をおしてまであえて書く必然性が疑問になる。
「土曜」という曜日の明示がなぜなされるのか?
いやむしろ「土曜の晩」という表現が、⑥が土曜であることを示しているのだ、とも言える。どういうことか?
「土曜の晩」でわざわざ時間帯を「晩」と明示することは、その陰でそれ以外の何かを「夕方」や「昼間」だと言っていることを示している。つまり奥さんが「私」に話したのがその「昼間」で、「勘定した」のは夕方で、「決心した」のが晩であると言っていることになる。
これは先の「土曜であることをわざわざ言うときには、それ以外の出来事が土曜ではないことを感じさせる」と同じ論理の応用だ。⑦が土曜の「晩」というからこそ⑥は同じ土曜日の「宵の口」「夕方」「昼間」なのだ、とも考えられるのだ。
それでもまだ、なぜ「その晩」ではなく「土曜の」という情報が示されているのか、という疑問が解消したわけではない。
これはなぜ曜日を土曜に設定したのかという問題と、なぜそのことを明示するのか、という問題を含んでいる。
またKはなぜ土曜日を選んだのかという問題と、作者はなぜ土曜日であることを読者に伝えるのかという問題もある。これらの問題は別の層に属する。切り離して考えても良いか関係づけて考えてよいかが問われる。
Kはあえて土曜を選んだのだろうか?
それともKにとって土曜は偶然で、だが漱石にはそう設定する理由があったのか?
なぜ曜日が明示されるのか、という問題は、それだけ、遺書を書く「私」の記憶に強く刻みつけられた曜日だからだ、と答えるのが素直だ。
実際には土曜日は「五、六日経った後、奥さんは突然…」の記述から始まっている。だがここに「五、六日経った土曜日、奥さんは…」と書くのは不自然なのだ。Kの死という強い出来事に結びついているからこそ、それが土曜日であったことが記憶され、記述されたと考えるのは納得できる。
Kが土曜日を選んだと考える一つのアイデアは、翌日が日曜日であるからだ、というものだ。
平日は、学校に行く下宿人や娘の食事の支度のため、奥さんや下女が早くから起きる。ところが日曜の朝はゆっくりしているから、それだけ自殺した自分の姿を「私」に発見してもらうことのできる可能性が高くなる。
あるいはKにとっては内的な必然性のおもむくままにそれを決行したのが、たまたま土曜日だったとしても、作者が上記のような展開になることに必然性を与えようとして、そうした曜日設定にしたのかもしれない、と考えることもできる。
実際には「私」が夜中に目を覚ましてKの自殺に気づき、明け方に奥さんを起こしにいくことになるのだが、いずれにせよ奥さんや下女は死体の第一発見者にならずに済んだのだった。
さて、ここで一度宣言しておく。
「曜日の特定」という課題は、このレベルの論理的推論とその説明を要求しているのだ、と。
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