もう一つ、有名な文学作品数編をアニメ化した、「青い文学」というテレビシリーズがある。この中に「こころ」の回がある。この一部を視聴した。
これを見て「こころ」がわかった気になってはいけないのは「Rの法則」同様だ。だがアニメーションとしての質は高い。作画やカメラワークも巧みだし、BGMやSEなどの音響の演出もうまい。Kを演じた小山力也の声もとても良い。
このアニメ化で注目すべきは、前後編2部構成にして、それを「私」の視点とKの視点から描き分けるという、きわめて興味深い試みをしていることだ(ただし授業では前後編を混ぜてストーリー順に編集したものを見せた。前編は夏を舞台にして、後編は冬を舞台にしているので、蝉が鳴いたかと思うと、次のシーンでは木枯らしが吹いたりする)。
この試みがとりわけ面白いのは、同じ状況をそれぞれの視点から描き分けた二つの場面が対比できることだ。教科書収録場面より少し前の三十三章のエピソード、雨中のすれ違い(原作では雨上がりで泥濘の道をすれ違う)の場面が、最初「私」の目から描かれる。
これは「Rの法則」でも紹介されていたエピソードだ。「私」がKとお嬢さんの関係について疑惑を深めることになる印象的な場面である。
その後、同じ場面が今度はKの目から描かれる。
それぞれが、互いの目から描かれたときに、どれほどその相貌を変えることか!
お互いに相手が何を考えているのかわからない「魔物のように」見えてくる(この表現は教科書118頁にある。Kを表したものだが、逆にKから見れば「私」もまた「魔物」だったのかも知れないということだ)。
「国語科」的な考察をしよう。
すれ違いざまにKの言う「悪いな」のニュアンスが、二つの視点からそれぞれどう違っているか、的確に表現できるだろうか?
表面的には、狭いすれ違いで道を譲ってもらったことに対する「悪いな」だ(石畳を外れると水溜まりに足を踏み入れることになる。長靴に水が浸みこむ描写がある)。
それが「私」の目からはまるでKが「お前の好きなお嬢さんをいただいてしまって『悪いな』」と言っているように感じられる(このシーンの「道を譲る」が「お嬢さんを譲る」のメタファーになっているという指摘をした生徒がかつていた)。
ところがKからすると、女に心を奪われている自らの状況に対する日頃の広言を恥じているように感じられる。「私」の目からはKが勝ち誇って言っているように見える「悪いな」を、K自身は身の竦むような懺悔の言葉として発している。
この「視点が違うと物事が違って見える」という認識を、これからの読解では折にふれ思い出してほしい(そういえばこれは昨年度後半の考察を貫くテーマ「視点を変える」だ)。
それは、何が小説内「事実」で、どこに語り手の主観のフィルターがかかっているかを選り分けていく繊細な読解作業だ。
あくまでテキストにある情報から、表面的に見えている「物語」とは別の「物語」を浮かび上がらせるのだ。
授業で見せた編集ではカットしたが、K編はきわめて創作的な改変があって、観るとびっくりする。お嬢さんの小悪魔ぶりは「Rの法則」の「どこへ行ったか、あててみて」どころではない。小悪魔どころか悪魔だ。