2026年10月8日木曜日

こころ 6 -「青い文学」

 もう一つ、有名な文学作品数編をアニメ化した、「青い文学」というテレビシリーズがある。この中に「こころ」の回がある。この一部を視聴した。

 これを見て「こころ」がわかった気になってはいけないのは「Rの法則」同様だ。だがアニメーションとしての質は高い。作画やカメラワークも巧みだし、BGMやSEなどの音響の演出もうまい。Kを演じた小山力也の声もとても良い。


 このアニメ化で注目すべきは、前後編2部構成にして、それを「私」の視点とKの視点から描き分けるという、きわめて興味深い試みをしていることだ(ただし授業では前後編を混ぜてストーリー順に編集したものを見せた。前編は夏を舞台にして、後編は冬を舞台にしているので、蝉が鳴いたかと思うと、次のシーンでは木枯らしが吹いたりする)。


 この試みがとりわけ面白いのは、同じ状況をそれぞれの視点から描き分けた二つの場面が対比できることだ。教科書収録場面より少し前の三十三章のエピソード、雨中のすれ違い(原作では雨上がりで泥濘の道をすれ違う)の場面が、最初「私」の目から描かれる。

 これは「Rの法則」でも紹介されていたエピソードだ。「私」がKとお嬢さんの関係について疑惑を深めることになる印象的な場面である。

 その後、同じ場面が今度はKの目から描かれる。

 それぞれが、互いの目から描かれたときに、どれほどその相貌を変えることか!

 お互いに相手が何を考えているのかわからない「魔物のように」見えてくる(この表現は教科書118頁にある。Kを表したものだが、逆にKから見れば「私」もまた「魔物」だったのかも知れないということだ)。


 「国語科」的な考察をしよう。

 すれ違いざまにKの言う「悪いな」のニュアンスが、二つの視点からそれぞれどう違っているか、的確に表現できるだろうか?


 表面的には、狭いすれ違いで道を譲ってもらったことに対する「悪いな」だ(石畳を外れると水溜まりに足を踏み入れることになる。長靴に水が浸みこむ描写がある)。

 それが「私」の目からはまるでKが「お前の好きなお嬢さんをいただいてしまって『悪いな』」と言っているように感じられる(このシーンの「道を譲る」が「お嬢さんを譲る」のメタファーになっているという指摘をした生徒がかつていた)。

 ところがKからすると、女に心を奪われている自らの状況に対する日頃の広言を恥じているように感じられる。「私」の目からはKが勝ち誇って言っているように見える「悪いな」を、K自身は身の竦むような懺悔の言葉として発している。

 この「視点が違うと物事が違って見える」という認識を、これからの読解では折にふれ思い出してほしい(そういえばこれは昨年度後半の考察を貫くテーマ「視点を変える」だ)。

 それは、何が小説内「事実」で、どこに語り手の主観のフィルターがかかっているかを選り分けていく繊細な読解作業だ。

 あくまでテキストにある情報から、表面的に見えている「物語」とは別の「物語」を浮かび上がらせるのだ。


 授業で見せた編集ではカットしたが、K編はきわめて創作的な改変があって、観るとびっくりする。お嬢さんの小悪魔ぶりは「Rの法則」の「どこへ行ったか、あててみて」どころではない。小悪魔どころか悪魔だ。


こころ 5 -「Rの法則」

 「こころ」の授業は、この小説の主題とKの自殺の動機の関係について考え直すところから始めた。

 だが授業数に余裕のあるクラスでは、最初の授業で二つの動画を視聴した。かつては全クラスで見せていたのだが、今年度は多くのクラスでは見せずに授業に入った。必須の情報があるわけではないからだ。

 だが、二つの動画を見ることで、以下の考察において、構えがいくらか変わったものにもなるとも思う。その違いも興味深い。

 それぞれの動画には、それを見せることによって考えさせたい問題がある。見ていないクラスにも紹介したい。


 以前放送されていたNHKーEテレの「Rの法則」は、高校生を雛壇に並べて、高校生が関心を持っている様々な問題を話し合っていく番組だ。

 この2012年11月12日放送回では「こころ」が、高校生の関心事である恋愛とそれにまつわる三角関係を題材とする小説として紹介された。

 テレビ番組としては、ああいうふうに雛壇高校生にリアクションさせて一般視聴者の共感を喚ぼうとしているのはやむを得ない。

 だがあのようにして「こころ」を知った気になることと、実際に「こころ」という小説を読むことはまるで違う。

 何が問題なのか?


 まず、小説本文を読んでいない高校生に、小説中の問題について考えさせることが無謀であることを番組は全く明示していない。

 だから、あたかも「こころ」ではああいった問題が主題となっているような印象を視聴者に与えてしまう。

 小説の中の問題を、自分の問題として捉え直すことはもちろん大事なことだ。自分だったらどうするかを考えずに小説を楽しむことはできない。

 だが、本文を読んでいない者が「この時のこの人物の気持ちは…」などと語ることが、まるで当てのない好き勝手な憶測にしかならないという危険については、視聴者には伝えられない。これがまるで「こころ」という小説についての考察であるかのような誤解を視聴者に与えている。

 例えば「羅生門」を読んで「あなたは、生きるためにやむをえない悪は許されると思うか?」などと問いかけることが世の中で広く行われているが、そんなことは国語の授業としては間違っている(「道徳」の授業としてやるなら別にいいが、それなら別のお話を使うべきなのだ)。

 「羅生門」はそのような問題を読者に問いかけてはいない。「羅生門」の主題をそんなふうに捉えるのは、まるで小説として「羅生門」を読んでいない。

 「こころ」においても、設定や粗筋から想定される「問題」が、あたかも「こころ」の主題であるかのように語られることがある。

 「Rの法則」で取り上げられていたのは、まさしく典型的なそれだ。

 実際に作品を読んでいない者に対して、物語の設定や粗筋を説明した上で、そこに描かれる問題を一般的な問題として問いかけるのは、作品の受容とはまるで別の営みだ。

 小説は精妙に制御された描写や形容によって、微妙な心理を描き出している。読者はそうしたテキスト情報から「物語」を構築する。

 それをしていない番組出演者たちが「こころ」について考えることなどできないのだ(にもかかわらず、あのように紹介される「こころ」という小説が「深すぎる」などと受け止められている)。


 例えば、小説では全く問題になっていないことが番組では問題として取り上げられている。

 番組は冒頭から「親友と同じ人を好きになったらどうする?」と視聴者に問いかける。これは確かに小説中でも「私」が直面する問題だ。これを「三角関係」と表現するのも間違っていない。

 番組ではこの問題を「恋愛か、友情か、あなたならどっちをとる?」と言い換える。始まって間もなく、そうした問いが字幕で視聴者に投げかけられる。高校生の一人が「友情の方が大事だ」などと言う。

 こうした語られ方に、視聴者は別段違和感を抱かない。そしておそらく、番組制作者もそれが特別おかしなことだとは思っていないのだろう。

 この何が問題か?

  • 親友と同じ人を好きになったらどうする?
  • 恋愛か友情か、あなたならどっちをとる?

 確かに上の問題は、小説中に設定されている。それを選択肢として置き換えたのが下の問いだ。

 上の設定からは、まずは具体的にはある行動の選択が導かれる。それを一段抽象化したものが下の問いだ。

 その抽象化が間違っている。

 では「私」はどんな行動の選択に迷っているか?


 教科書の収録部分で、「私」は一貫して「言う/言わない(打ち明ける/打ち明けない)」という選択の前で迷い続ける。

 これが「友情/恋」という選択と同一視されている。

 だがそうではない。小説中で「私」は一度として「友情/恋」の選択に悩んだりはしていない。それは本文をその気になって読み返せばすぐわかることだ。

 だが設定と粗筋を頭に入れて「こころ」という物語を思い返した時、そこで「私」が「恋か友情か」という問題に悩んでいたように錯覚することは、大いにありうることでもある。しかもそれは大衆の共感・関心を喚びやすい。

 そうした錯覚に基づいて「こころ」が語られ、問いが突きつけられる。

 だが「こころ」が読者に投げかける「問題」は本当はそれではない。

 「私」が何に悩み、そこでどのような問題に直面することになるか?

 それは本文の読解によってしか明らかにはならない。


 「Rの法則」は、一般的に「こころ」がどのように受け止められているかを知る上で簡便な資料だ。ここに語られる「こころ」と、授業で読解していくことによって浮かび上がってくる「こころ」がどれほど違うものなのかを実感するためにも、この印象を覚えておいてほしい。


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