2023年11月30日木曜日

こころ 35 -すれ違う会話

 上野公園で二人の間に交わされた会話が、「私」の認識とKの認識でどれほど違っているかを詳細に分析してきた。

 ここまで考え、さて振り返って読み返したときに、次の一節はその意味を劇的に変える。

私はちょうど他流試合でもする人のようにKを注意して見ていたのです。私は、私の眼、私の心、私の身体、すべて私という名の付くものを五分の隙間もないように用意して、Kに向かったのです。罪のないKは穴だらけというよりむしろ明け放しと評するのが適当なくらいに無用心でした。私は彼自身の手から、彼の保管している要塞の地図を受け取って、彼の眼の前でゆっくりそれを眺める事ができたも同じでした。

 このように念入りにKの「こころ」がわかっているということが強調されているこの一節は、以上のように考えたとき、その強調の絶対値のままに方向を完全に逆転して、「私」がどれほどKの「こころ」がわかっていないのかを示すアイロニーとなる。


 教科書はこの「要塞の地図」について「私のどのような気持ちがうかがえるか」という脚問を付している。「気持ち」などと問うのがもう曖昧で、こういう国語教育の「あたりまえ」にがっかりしてしまうのだが、この問いの趣旨は、つまり比喩が比喩として機能する機制を問うているのだ。

 比喩は、そこで結びつけられる両者に共通した性質があることによって成立する。「居直り強盗」然り。「要塞の地図」という比喩は、それがもつどのような性質が使われているか?


 そうはいっても既に「要塞」と「地図」という二つの比喩が使われているから、この問いの主眼がどちらにあるのかもわかりにくい。ここでは「要塞」について考えよう。とすると?


 授業では「守りが堅い」などという答えも出たが、Kがどうして「守りが堅い」ということになるのかわからん。

 では?


 こういうときには出題者の意図がわからなければ答えられないのだが、出題者の意図はそれほど明確ではないから、この問いには答えられなくともしかたがない。

 出題者は、「私」はKを「敵」として見ていることが、この比喩からわかる「私」の「気持ち」なのだ、と言いたいのだ。

 いや、比喩の意味はわかるとしても、そんな出題者の意図がわからん、って。


 さてところで授業者はさらに問いたい。この「要塞の地図」とは何か?

 これもまた問いの意図がわからない問いだということは充分に自覚している。誰かがたまたま同じことを考えていると良いなあ、と思いながら訊く。

 そしてその意図通りのことを答えてくる生徒は必ずいる。


 だがクラスにそういう発想をし、なおかつそれを表明してくれる生徒がいなければ誘導の手もある。

 これはつまり「鏡」なのだ。

 …と言うと、何のことかは、みんなほぼ一斉にわかったようだった。

 「私」が「敵」だと思って戦っていたのは、実は鏡に映った自分だったのだ。「私」がKの「こころ」の地図だと思っているものは、実は「私」自身の「こころ」の地図なのだ。

 「私」がKの心を読み損なう根本的な理由は、Kの心を推測するにあたって、自分の心を投影して、それをK自身の心だと錯覚してしまうことにある。

 そしてそうした錯覚を、読者もまたすっかり信じてしまう。一人称の語り手が語る小説の記述を疑うことには、そもそも必然性がないのだから。

 結局、二人の会話を最初から最後までたどってみても、二人がそのすれ違いに気付く契機は周到に回避されていることがわかる。二人はそれぞれ異なった一貫性によって会話を続けているのだ。

 ミステリーではしばしば、一見して気付かれないようそれとなく投げ出された細部を手がかりに、探偵が、皆の思い込んでいるのとは別の、もう一つの真実の姿を再構成してみせる手際が鮮やかに披露される。

 だが、「こころ」が実現しているのは、一人称小説の語り手が捉えているのとはまったく違った、語り手が意識し得ない事実を、当の語りの細部から浮かび上がらせるという離れ業だ。

 ただしそれはミステリーのように、解かれるべき謎として読者の前に差し出されているわけではないし、探偵がそれを得意気に解いてみせるのでもない。微かな違和感をたどって細部を見直しているうちに、不意にそれまで見えていたのとは違う「もう一つの真実」が、読者の前に形をなすのだ。

 これがあからさまな謎であったり、あからさまな真実であったら、そもそも語り手の「私」がそれに気付かないはずはない。

 といって読者にわかるはずもない真実など、小説に存在する意義はない。

 漱石は驚くべき微妙なバランスで、一人称の語り手が明確には理解することのない真実を、読者に伝えようとしているのだ。


こころ 34 -再び「覚悟」とは何か

 ここまでたどって、ようやく最初に考察した「覚悟」に戻る。

「もうその話はやめよう」と彼が言いました。彼の眼にも彼の言葉にも変に悲痛なところがありました。私はちょっと挨拶ができなかったのです。するとKは、「やめてくれ」と今度は頼むように言い直しました。私はその時彼に向って残酷な答を与えたのです。

 ここにある「変に悲痛なところがありました」の「変に」もまた、「私」がKの心を理解していないことを示すサインだ。「悲痛」なのは、「私」の言葉がKの存在をまるごと否定する死刑宣告に他ならないからだが、そのことを「私」は自覚していない。「私」が語る「変に」は、事態の深刻さがまるでわかっていない暢気さの表れだ。

 自らの弱さを認めているKにはそれ以上話すべきことはない。だから「もうその話はやめよう」というしかない。そしてKには「君の心でそれをやめる」が「お嬢さんのことを考えることをやめる」という意味ではなく、会話の流れにしたがっていうと「信仰の進退について悩むのをやめる」という意味に受け取られている。

 「覚悟」とは先に見たとおり「心でそれをやめる」「覚悟」だ。それは「心で『話』をやめる」すなわち「考える」ことをやめることを意味している。

 ここに見られる「残酷」もまた、先の「復讐以上に残酷な意味」と同じだ。「私」がKに迫る「覚悟はあるのか?」という問いは、「お嬢さんを諦める覚悟」をKに宣言させようとしている。「私」にとってそれこそが「残酷」だ。

 だが「悩むのをやめ」たKに許されるのは単にお嬢さんを忘れることなどではなく―ましてお嬢さんに進むことだはずもなく―弱い自分を所決することだけだ。

 したがってKは自らを所決する「覚悟」はあるのだ、と言っだのだ。


 単に「覚悟」と言った場合、それが何の「覚悟」なのかは、前後の文脈から判断するしかない。これがKの真意まで含めて、都合三通りもの解釈を可能にしていることの巧妙さにこそ、読者は驚嘆すべきだ。
 だがこのことの凄さはじっくりと分析的に考えないと気付かない。
 だからともすればそれは「お嬢さんを諦める覚悟」でもあると同時に、とか、「自殺と言うほど明確ではないにせよ何らかの形での覚悟」などと、しばしば曖昧な形で語られる。そうではない。これら三つの解釈はどちらでもありうるようなものではなく、排他的なものだ。
 「お嬢さんを諦める覚悟」があるのならKは死を選ぶ必要はないはずだ。したがって「お嬢さんを諦める覚悟」と「自らを所決する覚悟」は両立しない。
 あるいは「明確でないにせよ何らかの形で所決するつもり」などという曖昧な想念を「覚悟」とは呼ばない。「お嬢さんを諦める」もしくは「自己処断としての自殺」といった決着点が見据えられていなければ、「覚悟」という強い言葉が使われるはずがない。その方法や時機については漠然とした曖昧なものであったとしても、少なくとも「死」といった決着点が想定されたうえで「覚悟」という言葉が発せられていることだけは確実だ。
 Kの言った「覚悟」を「私」が二つの正反対の意味に解釈したのも、K自身がそれとは全く違った意味で「覚悟」と言っているのも、すべて文脈の中では整合的だ。
 二人の会話はこのとき「卒然」すれ違ったわけではなく、最初からことごとくすれ違ったままだったのであり、その裂け目がこのとき「卒然」露わになって、その奥の暗闇が顔をのぞかせたのだ。
 Kは最初から自らの信仰上の悩みについて話していたのであり、お嬢さんとの恋のことなど話してはいない。会話全体のすれ違いをたどり直してみれば、Kが言った「覚悟」が「自殺の覚悟」を意味しているという解釈は無理がないどころか、これはもうそう考えるしかないのであり、「卒然」というべき飛躍はそこにはない。

こころ 33 -死刑宣告

 「精神的に向上心のないものはばかだ」がKにとってどのように響くのかを明らかにしてきた。

 ここから「覚悟=自殺の覚悟」という結論にいたるために、もう一つ明らかにしたいことがある。

 先に、二人の認識の違いを図式化して整理した。

 

○「私」にとって

   ばか ←→ 向上

    恋 ←→ 道

   強い ←→ 弱い

― 進む ←→ 退く ―(←共通項)

   強い ←→ 弱い

    道 ←→ 恋

   向上 ←→ ばか

  ○Kにとって

 これは、簡易的に二人の認識の違いを理解するための整理でもあるのだが、実は授業者による意図的なミスリードでもある。こには「私」の根本的な誤解の構造を解き明かしてKの真意に迫る契機がある。

 この対比図には、実は一カ所、誤りがある。どこか?


 ここまでこの対比図を使って説明しておきながら実は「誤り」があるというのは何のことだと皆は思うかもしれないが、授業者の経験では、しばらく考えさせているうちに大抵のクラスではこの「誤り」に気づく者が現れる。

 彼らは先ほどの対比図を考察する段階で、既に違和を感じているのだ。あるいは「僕はばかだ」を言い換える際の「恋に退く」の違和感も看過しがたい。

 「誤り」があると言われてあらためて観直して、違和感を頼りに考えを修正する。


 それでも気づかなければ先に引用した一節をもう一度強調する。

彼には投げ出すことのできないほど尊い過去があったからです。彼はそのために今日まで生きてきたと言ってもいいくらいなのです。

 そして既にみんなが確信している「覚悟=自殺の覚悟」という結論から逆算する。

 すると?


 先の対比図における「道」の対立項が「恋」であることを訂正しなければならない。

 そもそも「道/恋」という項目は、「私」の視点からのみ見えている対立項なのだ。他の三項目がそもそも対義的であるのに比べ、「道/恋」は対義語なわけではない。ここまでは「私」が対立項として捉えている項目のいくつかがKにおいては逆になっているのだと考え、「私」とKの認識のずれを捉えようとしてきたのだが、実はこの対立項目そのものがKの認識を適切に表わしていなかったのだ。

 では「道」の対立項は何なのか?


 Kにとって、「道」の対比項目とは、すなわち「死」なのだ。

    進む ←→ 退く

    強い ←→ 弱い

     道 ←→  →死

    向上 ←→ ばか

 とすると「苦しい」についてもあらためて見直さなければならない。

 「私」はこの述懐を「お嬢さんを諦めるのは苦しい」という意味に受け取っているが、Kにとっては「道を棄てることは苦しい」という意味だ、と先に考察した。

 だがこのような解釈では、「私」の捉えたKの苦悩と、K自身の苦悩の間に、実はそれほどの違いはない。

 本当にKが自らの信じてきた道だけが大事なのだとしたら、「退けるのか」と問われたとき言下に「できない(退けない)」と答えればいいだけのことだ。だが「退けない=道を棄てられない」とすぐに答えられずに「苦しい」と言うとすれば、それは、「道」を棄てることの「苦しさ」を示すだけでなく、Kにとって選択肢のもう一方「恋」の重みをも必然的に証し立ててしまう。それほど「苦しい」転向を強いるほど「恋」がKを動かしているということになってしまうからだ。

 これは「苦しい」を、選択に伴う苦悩だと捉える以上、必然的に生ずる論理的機制だ。

 だがそもそも、道を棄ててお嬢さんに突き進むという行動をKが選択肢として想定しているという前提には根拠がない。これ自体が「私」の錯覚なのだ。

 実は本文を、「私」の思い込みを排して読んでいくと、Kが具体的にお嬢さんに対して進みたがっている(そしてそれを信仰が妨げている)と見なせる記述はない。ただ「私」の疑心暗鬼だけがそのような選択の迷いを錯覚させているのであり、読者もまたすっかりそうした仮初めの問題の前にKを置いてしまう。

 「私」とKの認識のズレの本質はここにある。

 「私」はKの苦悩を選択することの苦悩だと捉えている。

 だがKにとって少なくとも「恋」と「道」は選択の対象ではない。

 「私」にとって選択はこれから行われる〈仮定〉の問題であり、Kにとっては〈確定〉された現状に対する決着のつけ方の問題だ。

 「退けるのか」という問いに答えるのが難しいのは、それだけ「退く=道を棄てる」ことが難しいということなのではなく、「お前は退いた自分をどうするのか」、という問いかけがその後ろに控えていることをK自身が自覚しているからだ。「苦しい」というKの言葉には、退いた先にある「自己所決」が既に含意されているのだ。

 こう考えてみると「精神的に向上心のないものは、ばかだ」の言葉の意味する「残酷」さが本当に明らかになる。図らずもKの現状認識を追認した「精神的に向上心のないものは、ばかだ」という言葉は、Kにとって、まるで死刑宣告にも等しいものだったのだのだ。


こころ 32 -「復讐以上に残酷な意味」

 「精神的に向上心のないものはばかだ」の意味は、「私」とKとの認識の違いによって、「私」には思いもかけない作用をKにもたらす。

 それはどのようなものか?


 まず「私」の認識について確認しておく。

 この言葉は「私」にとって「復讐以上に残酷な意味をもっていた」と語られている。

 この「復讐」とは何か? また「復讐以上に残酷な意味」とは何か?


 「復讐」については、この言葉がKから発せられた房州旅行の場面を読んでいない皆には若干考えにくいが、教科書本文からでもある程度の推測はできる。

 「私」はかつてこの言葉によってKに軽侮され、自尊心を傷つけられた。「復讐」とは同じことをKに仕返すことを意味している。

 一方「復讐以上に残酷な意味」とは、続く一文で「私はその一言でKの前に横たわる恋の行手を塞ごうとしたのです」と解説されている。

 「以上」で示される大小関係についてはっきりと認識しておきたい。

 つまり「私」は、Kの自尊心を傷つけることより、Kの「恋の行手を塞ぐ」ことの方が「残酷」だと認識しているのだ。

 これはその前の会話における「苦しい」の解釈と論理的に整合している。

 Kの「苦しい」は「私」にとって「お嬢さんを諦めるのは苦しい」という意味に解釈される。それが「実際彼の表情には苦しそうなところがありありと見えていました。」と強調されている。

 お嬢さんを諦めることがこれほど「苦しい」と言っているKをそこに追い込むのは、確かに「残酷」だ。


 もう一点指摘するなら、確かにK自身の言葉をKに投げ返すという構造の持つ「残酷」さもある。自分の言葉が自分を縛り付け、傷つける。巧妙で残酷な方法だ。だがそれだけではない。

 この「苦しい」は「私」が思っているような意味ではない。Kはお嬢さんを諦めることが「苦しい」などと答えたのではない。

 ここからこの「復讐以上に残酷な意味」についても、さらにもう一つの意味を読み取ることができる。「私」がまったく意識することなく、そしてまさしくそれこそが真に「残酷」であるような意味が。

 しかもそのことを指し示すうってつけの表現が、教科書の見開きから見つかる。何か?


 最も適切に、端的にそれを表現するなら、こうだ。

彼がせっかく積み上げた過去を蹴散ら(す)

 これがどれほど「残酷」かは、次の一節によって保証される。

その頃は覚醒とか新しい生活とかいう文字のまだない時分でした。しかしKが古い自分をさらりと投げ出して、一意に新しい方角へ走りださなかったのは、現代人の考えが彼に欠けていたからではないのです。彼には投げ出すことのできないほど尊い過去があったからです。彼はそのために今日まで生きてきたと言ってもいいくらいなのです。

 「私」は全く自覚なしに、Kの「そのために今日まで生きてきたといってもいいくらい」「尊い過去」を蹴散らしたのだ。

 そしてここでもまた、Kの言葉がKに自身に返ってくることの残酷さもまた発揮されている。K自身の過去が、今Kの過去そのものを蹴散らしてしまったのだ。

 それこそがこの言葉の持つ「残酷」さだ。


 だが全く皮肉なことに、「私」にはそのことがわかっていない。

 むしろ「私はこの一言で、彼がせっかく積み上げた過去を蹴散らしたつもりではありません。かえってそれを今までどおり積み重ねてゆかせようとしたのです。」というのが「私」の意図であり、認識なのだ。

 「復讐以上に残酷な意味」という表現がそれ以上の意味を含意していることに、漱石は自覚的だ。「復讐」と「復讐以上に残酷な意味」という表現によって重ねられた「意味」について読者に考えさせる注意喚起は、その延長上に読者の思考を誘う。

 この、書いてあること自体が、実は全く逆の意味へ読者の解釈を誘導するという高等技術は、ここだけでなく、他にもあちこちに仕掛けられている。これも、「私」にそれを認識させずに、読者にだけその真相を知らせる必要があるという「こころ」の特殊な構造によって考え出されているのだが、そもそも表現というのは必然的にそれと逆の意味をその背後に生み出してしまうものでもある。紙の表は裏なしには存在しない。「ない」と言われると「ある」状態を想像してしまう。「絶対ない」などと言われると「実はあるんじゃないか」と思ってしまう。

 もちろんそれは注意深く読む読者によって発見される「裏」ではあるのだが。


 「精神的に向上心のないものはばかだ」という言葉は、確かに「復讐以上に残酷な意味」をもっている。「私」が考えもしなかったような「意味」で。

 Kの関心が、最初から一貫して自らの裡なる苦悩に向けられているとすると、Kに対して「私」が「厳粛な改まった態度」で「言い放」った「精神的に向上心のないものはばかだ」なる台詞は、Kの苦悩をそのまま追認するものであり、いわばKの存在をまるごと否定してしまっているのだ。


2023年11月29日水曜日

こころ 31 -「仮定条件/確定条件」

 「精神的に向上心のないものはばかだ」が「私」とKとでどう違って捉えられるか?


 あれこれ表現を工夫してみるのが有益な国語的訓練ではある。

 だが授業者のアイデアも提示したい(我ながらナイスなアイデアだったので)。

 この、「私」にとっての「意味」とKにとっての「意味」の違いはこんなふうに言える。

 つまり「精神的に向上心のないものはばかだ」は「私」にとって「仮定条件」のようなものであり、Kにとっては「確定条件」のようなものだ…。

 どういう意味か?


 「仮定条件/確定条件」といえば古典文法だ。

 接続助詞「ば」は、接続する活用語が未然形のときは「仮定条件」を表わし、已然形の時は「確定条件」を表わす。

 それぞれにお約束の口語訳がある。この訳文がちょうど「私」とKの認識の違いを表現するのにちょうど良い。

 「私」の言った「精神的に向上心のないものは、ばかだ」という台詞は、構造的に「精神的に向上心のないもの」と「ばか」が、相互に仮定として置かれているのだと言える。もし「精神的に向上心のないもの」だとするなら、その者は「ばかだ」、あるいは、もしその者が「ばかだ」とすると彼は「精神的に向上心のない」者だ、というように。

 つまりどちらか片方の結論を覆したければもう一方の仮定を棄てればいい、という選択の岐路に相手を立たせたうえで、「平生の主張」をたてにして「これまで積み上げた過去」の方向に誘導することを意図しているのだ。「精神的に向上心のない」「ばか」であることを認めたくないならば恋愛を諦めればいい。恋愛を諦めることが「苦しい」としても、少なくともその場合「精神的に向上心のあるもの」として自らの立ち位置は保てる。

 一方Kにとっての苦悩は「選択」の苦悩ではない。Kは既に自らを「精神的に向上心のないもの」=「ばか」=「弱い」と見なしているのだ。

 つまり二人にとって「精神的に向上心のないものはばかだ」は次のようにその意味を変えるのだ。

  • 私…「もし向上心がないのならば、そいつはばかだ」〈仮定条件〉
  • K…「向上心がないのだから、君はばかだ」〈確定条件〉

 「私」が仮定として語るテーゼは一般論だが、Kにはそれが自分自身の現状を指摘したものであるかのように響く。


こころ 30 -「僕はばかだ」

 二人の認識の違いを図式的に整理した。

 この整理によると「僕はばかだ」という言葉は、二人の間でどのように意味を変えるか?


 考察の緒としてまず次のように考えてみる。

 「僕はばかだ」を「僕は〈  〉から〈  〉に〈  〉つもりだ」と言い換える。空欄には上から順に「強い/弱い」「道/恋」「進む/退く」のどちらが入るか?


 先の対比図によれば、「私」にとって「僕はばかだ」は「僕は強いから進むつもりだ」とKが言っていることになる。これが「居直り強盗のごとく」の意味だ。

 同様にKにとっての対比を代入すると「僕は弱いから退くつもりだ」と言っていることになる。

 だがこの言い換えは何かヘンだ。Kはそういうつもりで「僕はばかだ」と言っているのだろうか。

 この違和感の原因は何か?


 対比軸の上下(左右)を間違えているのではない。この言い換えの文型が不適切なのだ。単に対比の項目を逆にするだけではKの真意を表わすことはできないのだ。

 ではどうするか。次のように言ってみる。

恋に退いているような弱い自分はばかだ。

 これならば、Kの言っているニュアンスに近づいているように思える。

 これは先ほどの次の文とどう違うか?

僕は弱いから恋に退くつもりだ。

 ここから何がわかるか?


 つまり「私」はKが「これから」どうするつもりなのかを言っているように受け取ったのだが、Kは「今」を表現しているのだ(この「これから/今」は各クラスでさまざまな言い方が提案された。「意志/現状」「決意表明/自虐」など)。

 ということは、「精神的に向上心のないものはばかだ」は「私」はKは、どのように違った捉え方をしているということになるか?


こころ 29 -認識の違いを対比的に捉える

 「精神的に向上心のないものはばかだ」「僕はばかだ」というやりとりを「私」がどう理解しているかはわかった。

 だが一方で「精神的に向上心のないものはばかだ」という言葉がKにとってどのような意味を持っており、それに対する「僕はばかだ」にはどんな真意が秘められていたかを直ちに表現することは困難だ。この考察は、この一連の会話の分析の中でもとりわけ難しい。

 そこでまず、二人の認識のずれがどのようなものだかを明らかにするために次のような整理をしておく。


 二人の会話における次の四つの「対比」を、ここまでの解釈にしたがって同一の対比軸上に、向きを合わせて並べよ。

  「進む/退く」「強い/弱い」

  「道/恋」「向上/ばか」

 認識がすれ違っているというのは、これらのうち、「私」とKでは逆になる項目があるということだ。

 まずは、どれか一つの対比を共通する規準として置いておく。「対比」を考えるときに必要な「ラベル」だ。

 どれでもいいのだが、この対比を考え始めるときに目印にした「進む/退く」をラベルとしよう。それに合わせて他の三つの対比を同一軸に並べるとすると、それぞれ左右のどちらに書かれるべきか?


 中央に「進む/退く」を書いて、それを規準に上下に「私」とK、それぞれにとっての対比を書き込む。

 こんなふうになっていれば、ここまでの考察を正しく把握しているということになる(授業の板書では上下に並べているものをここでは左右に並べる)。


  ○「私」にとって

     ばか ←→ 向上

      恋 ←→ 道

     強い ←→ 弱い

  ―― 進む ←→ 退く ――(←共通項・基準)

     強い ←→ 弱い

      道 ←→ 恋

     向上 ←→ ばか

  ○Kにとって


 真ん中の「進む/退く」は共通で、そこから上が「私」の認識、下がKの認識だ。

 もちろんどれを基準に並べてもいい。例えば「向上/ばか」を共通項として整理し直してみよう。


  ○「私」にとって

     退く ←→ 進む

     弱い ←→ 強い

      道 ←→ 恋

  ―― 向上 ←→ ばか ―(←共通項)

      道 ←→ 恋

     強い ←→ 弱い

     進む ←→ 退く

  ○ Kにとって


 「向上/ばか」という対比が「道/恋」という方向に把握されていることは、二人の間で違いがない。「強/弱」「進/退」が逆なのだ。


 こうした考察は「進む/退く」以降の読解の結論に基づいて単に論理的な操作によって解答を導き出せる問いではある。

 だがこの問いの目的は単なる論理操作にあるわけではない。考えようとすれば、「私」とKの思考内容を想像し、彼らの心情に共感しようとすることで考察を前に進めているはずだ。

 特にKの心理に同調しようとすることが、ここでの考察の肝だ。「私」の心理はそのまま語られているが、「私」の解釈を通していないKの心理は、意識的に整理しないとわからないからだ。

 さて、こうした図式によれば「僕はばかだ」は「私」とKの間でどのような違いとして把握されることになるか?


 上の整理にしたがえば、Kの「僕はばかだ」という言葉は、「私」には「僕は(恋に)進む」と聞こえるということになる。そして「進む」ことは「強い」ことだから「僕はばかだ」が「強盗のごとく感ぜられ」てしまう。

 一方Kにとって「僕はばかだ」は「僕は退く」と言っていることになる。そして「退く」のは「弱い」ことなのだ。だからこそKの声は「いかにも力に乏しい」のだ。


 二人の間で「進む/退く」や「強い/弱い」の意味する方向が反対方向であることを示すことで、二人の認識のずれを簡易的に整理して捉えることはできた。

 だがこれらの標識を「精神的に向上心のないものはばかだ」に代入して、その意味の違いを示すことはこれ以上できない。

 ではどうするか?


こころ 28 -「居直り強盗」とは何か

 この後、会話は、これもまた重要な「精神的に向上心のないものはばかだ」に続く。だが、この言葉は、以上のような「私」とK、それぞれにとっての意味の違いとしてただちに語るのは難しい。「進む/退く」が逆方向を示しているように、「向上/ばか」が反対方向を指しているわけではない。その点については二人の認識は一致している。

 だがやはり、この言葉を口にした「私」の意図とは違った形で、Kはこの言葉を受け止めるのだ。


 考察の難しい「精神的に…」より先に、まずはその言葉に対するKの反応について検討する。

 Kは「僕はばかだ」と言って返す。

「僕はばかだ」/(略)私は思わずぎょっとしました。私にはKがその刹那に居直り強盗のごとく感ぜられたのです。しかしそれにしては彼の声がいかにも力に乏しいことに気がつきました。

 ここでは「しかしそれにしては」によって、「私」とKの認識のズレが明瞭に示されている。

 Kにとってこの言葉はどのような意味であり、それが「私」の耳にはどのように聞こえるか?


 この一節で、明らかに解釈の必要性を感じさせるのは「居直り強盗のごとく」という比喩だ。

 だが「『居直り強盗のごとく感ぜられた』とはどういうことか?」という問いに後述のように答えるのは難しくない。

 だがそのような了解が、どのような論理に拠っているのかを明らかにするのは、毎度のように容易ではない。これはなかなかに興味深い考察となる。段階を追って展開してみよう。

 まず「居直り強盗」とは何か?


 辞書で確認する。

居直り強盗…こっそり盗みにはいった者が家人に発見され、その場で強盗に変わること

 問題はこの後だ。

 「居直り強盗」は「泥棒」「強盗」とはどこが違うか?


 隣接する語との差異を明らかにすることで問題を明確にするというのは「対比」の考え方だ。

 「泥棒」は不当に他人のものを得ようとするときに、行為の最中には人に見つからないようにそれを遂行しようとする。

 「強盗」は、相手の前に姿を現したうえでそれを遂行しようとする。

 つまり「居直り強盗」とは、最初「泥棒」のつもりだったが、見つかってから「強盗」になる行為を指す。

 以上のような分析は、語義が確認された時点でわかっているはずだが、このように分析して語ることが容易なわけではない。だがこの分析が以下の考察には必要なのだ。

 Kの行動がどのようであれば「泥棒のごとく」と感じられ、どのようであれば「強盗のごとく」と感じられたはずなのか?


 まずはこう答えがちだ。「泥棒」は「こそこそ」、「強盗」は「堂々と」だ。この語義からすると「私」に知られないようにお嬢さんを自分のものにしようとすれば「泥棒のごとく」であり、堂々とアプローチすれば「強盗のごとく」と感じられた、ということになる。

 だがKが「こそこそ」としていたとは何を指すのか。この言い方では正確な比喩の説明はできない。

 問題は「泥棒」と「居直り強盗」を分かつ分岐点だ。

 そこには何があるか?


 「家人に見つかる」だ。

 とすると「泥棒」と「居直り強盗」の違いは、見つかった時に逃げるか否かだと言える。

 この「見つかる」は、この場面の何に対応するか?


 「精神的に向上心のないものは、ばかだ」という言葉だ。これは言わば、お前の行為は犯罪だ、という指摘だ。泥棒に対して「見つけた」と宣告したのだ。

 ということは、「私」は「精神的に…」という言葉、つまりお前自身の「平生の主張」に反するではないかという指摘をすればKが逃げるはずだと想定しているわけだ。


 ここまで考えて、当初の問いの答えが明らかになる。

 Kの言葉が「居直り強盗のごとく感ぜられた」とはどのような意味か?


 すなわち、「精神的に向上心のないものはばかだ」というK自身の言葉によって、Kが引き下がらざるをえない状況に陥って(つまり泥棒行為が見つかって逃げるしかない状況で)、かえって居直って「ばか」だことを認めるかのごとき返答をしたのかと「私」は受け取ったのだ。すなわち、「ばか」=強盗をはたらく=お嬢さんに突き進む、という意味だ。

 これが「居直り強盗のごとく」という比喩の意味だ。


 先述の通り、こうした結論を述べること自体はそれほど難しくない。読者はこの比喩がそのような意味であることを自然に読み取っている。だが、こうした比喩の理解がどのような論理に拠っているのかは、このようにたどってみて初めてわかることなのだ。


 さて、以上の考察で「僕はばかだ」というKの言葉を「私」がどう受け取ったかは明らかになった。だがKはそういう意味で言ったのだろうか。

 もちろんそうではない。「しかしそれにしては彼の声がいかにも力に乏しい」のだ。

 これもまた、最初に確認した「覚悟」の際の「卒然」「独り言のように」などと同じく、「私」とKの間に認識の食い違いがあることを示している。

 ではKはどのような意味で「僕はばかだ」と言ったのか?


2023年11月23日木曜日

こころ 27 -すれ違いの端緒

 「私」とKは「進む/退く」という言葉が意味する方向が反対だことに気付かずに会話をしているのではないか、という仮説を立てた。この仮説に沿って会話全体を見直してみよう。

 二人のすれ違いは「進む/退く」において突然生じたわけではない。

 その前にKが口にしたのは次の言葉だ。

彼はいつもにも似ない悄然とした口調で、自分の弱い人間であるのが実際恥ずかしいと言いました。

 この「弱い」とは何か?

 「お嬢さんに恋してしまい、自ら信念に迷いを生じていること」「精進の道に反する恋心を抱いてしまったこと」などと説明するのは難しくない。

 この説明は間違ってはいないが不徹底だ。

 物事の輪郭を明確にするには、差異線によってそれをそれ以外のものから区別しなくてはならない。ここまで繰り返し用いてきた「対比」の考え方だ。

 だから「『弱い』とはどういうことか」ではなく、「強」かったらどうするのか? 何ができないことを「弱い」と言っているか? と考える。

 これも文中に根拠を見出すことが必須だ。

 すると?


 この一節の直前に「彼の天性は他の思わくを憚かるほど弱くでき上ってはいなかったのです。こうと信じたら一人でどんどん進んで行くだけの度胸もあり勇気もある男なのです。」とある。前節の「進む」の考察からするとこの「進む」はお嬢さんの関係を「実際的の方面」に押し進めることを意味していると読者には解釈される。

 したがって、「私」にとっては、Kが「強」ければお嬢さんに突き進んでしまうということになる。つまりKの言う「弱い」は、迷わずにお嬢さんに進んでいけないことを表現していることになる。

 これは、この翌日、「私」が「Kの果断に富んだ性格」を思い出して、彼の口にした「覚悟」を「お嬢さんに突き進む覚悟」だと解釈してしまうことと符合する。これが「私」の焦りを生じさせ、後に展開する「私」の策略を誘発する。


 一方Kにとっての「強」さは当然、昔から信じてきた精進の道を迷わず歩み続けることだ。すなわち、二人の考える「強い/弱い」は反対方向を指しているのだ。

K 迷わず精進できない自分は「弱い」(強かったら恋心を棄てる)

私 迷わずお嬢さんに突き進めない自分は「弱い」(強かったら恋に進む)

 この違いは、「強かったらどうするか」を意識的に考えることによってしか明確にはならない。この時点で既に二人の考えは反対方向にすれ違っているのだが、当の二人は気づいていない。読者も同様だ。


 そしてこのすれ違いはここで生じたわけですらない。会話に先立って「私」は「彼は例の事件について、突然向うから口を切りました。」と読者に予断を与えてしまう。それに続く最初の言葉「どう思う」というKの問いかけを、「私」は「どう思うというのは、そうした恋愛の淵に陥った彼を、どんな眼で私が眺めるかという質問なのです。」と解説する。

 読者には、こうして提示された情報を疑う前提はない。そしてこの情報は、全く事実に反するとも言えない。確かにKにとって「恋愛の淵に陥っ」ていることは問題だ。

 だがそのことの何が問題かと考えたとき、そのまま「恋愛」に進めないことをKが悩んでいるか、「道」に反する現状に心を痛めているかは、問題の所在が違う。「恋愛」が問題だと考えてしまうのは「私」の関心に沿った誘導だ。

 問題の重心が「恋」にあるのか「道」にあるのか、と考えると、既に二人の関心は反対方向にすれ違っているのだ。


 そして「どう思う」というKの言葉には「ただ漠然と、どう思うと言うのです。」という形容がついている。

 この形容は、この言葉が解釈の多義性を生じさせる可能性について、読者の注意を喚起している。「どう思う」とは、何について「思う」のか限定されにくいはずだよ、と作者はわざわざ言っているのだ。

 この形容がわざわざ付されている理由はそれ以外に想定できない。


 そしてもちろん、このすれ違いは、この会話の開始に伴って生じたわけではなく、四十章以前から二人の「こころ」のすれ違いは、とうに生じていた。

 例えばKが恋心を自白した場面でも「私の心は半分その自白を聞いていながら、半分どうしようどうしようという念にたえずかき乱されていましたから、細かい点になるとほとんど耳へ入らないと同様でした」とある(116頁)。

 お嬢さんへの恋心が話題であることは間違いないとしても、Kの問題の所在がどこなのかを、「私」が本当には捉えていないことをこうした描写は読者に伝えている。

 とすればここでKが打ち明けていたのはこの時から一貫して恋の悩みというよりも自分の信仰のゆらぎ、自らの弱さのことかもしれなかったのだ。

 そしてそれはお嬢さんへ進んでいけない「弱さ」のことではなく、信仰を貫けない「弱さ」のことなのだ。


 さて、「こころ」においてこのすれ違いが生み出す悲劇はどこに帰結するか?


こころ 26 -真相を信じる

 既にすっかり定まったかのように「真相」などと言っているが、むろんすべての解釈は仮説でしかない。授業者自身の脳裡にも、ある時点まではこうした解釈は存在もしなかった。

 それを信ずるための条件とは何か?


 まあよくいうところの「根拠がある」だ。

 「根拠」とは何か?

 これも何度も触れていることだが「矛盾がない」ということなら、かなり解釈の幅が許容される。「Kは実は宇宙人だ」説も。「こころ」とはBL小説だ、説も(もっともこの説はそう主張する人は相応の根拠を挙げているのだが)。

 それよりも、作者がそうした想定について、意識的に情報を読者に伝えようとしているとみなせるかどうかが、その解釈を妥当と見なせるかどうかを支えていると考えるべきだ。

 そうした、作者の送ってくるサインはどこにあるか?


 漱石がこの「方向」について意識的だったことは、たとえば次の一節を読んでもわかる。

その頃は覚醒とか新しい生活とかいう文字のまだない時分でした。しかしKが古い自分をさらりと投げ出して、一意に新しい方角へ走り出さなかったのは、現代人の考えが彼に欠けていたからではないのです。彼には投げ出す事のできないほど尊い過去があったからです。彼はそのために今日まで生きて来たといってもいいくらいなのです。だからKが一直線に愛の目的物に向かって猛進しないといって、決してその愛の生温い事を証拠立てる訳にはゆきません。いくら熾烈な感情が燃えていても、彼はむやみに動けないのです。前後を忘れるほどの衝動が起る機会を彼に与えない以上、Kはどうしてもちょっと踏み留まって自分の過去を振り返らなければならなかったのです。そうすると過去が指し示す路を今まで通り歩かなければならなくなるのです。(128頁)

 これは上野公園の散歩のシークエンスが終わった後の章段だが、ここにもしつこいほど「方向」を示す標識が書き込まれている。

 「新しい方角へ走り出す」「愛の目的物に向かって猛進する」などは「私」の捉えている「進む」であり、とすれば「自分の過去を振り返る」、つまり信条に従って恋心を棄てることが「退く」なのだ。

 だがKの主観に立ってみれば「過去が指し示す路を今まで通り歩く」こそ「進む」ことなのだ。

 しかし、「私」の認識に同調しながら物語を追っている読者がそのことに気づくことはない。


 それでもまだ、上のような解釈が、そもそも穿ち過ぎ、深読みに過ぎるのではないか、という疑問がぬぐえないかもしれない。

 だが、こうしたすれ違いが生じているのだという解釈は、ここまで指摘した根拠のみに拠るものではなく、以下に続く「私」とKの問答全体を整合的に解釈することに拠っている。

 とりわけ「覚悟」という言葉をめぐって二人の間にすれ違いが生じているらしいという最初に行った考察については、多くの読者にも気づく可能性があろうが、実はそのすれ違いの端緒がどこにあるかを考え、会話全体を見直した時に、はじめてこの会話が、最初から一貫してすれ違っていたのだという仮説の妥当性が確かめられる。

 「進む/退く」はそうしたすれ違いを表わす方向標識として恰好の手がかりなのだ。


2023年11月22日水曜日

こころ 25 -真相に気づく

  「進む/退く」とはどこへ向かって「進む/退く」ことなのか。文脈からは二つの正反対の解釈ABが可能だ。いったいどちらなのか?


 ABは相反する。そのままにしてはおけない。

 ディベート的に議論させてもそれなりに楽しいのだが、実はそこに注力して時間を費やすのは惜しい。決着はどちらかに軍配が上がるという形でつくわけではないのだ。

 この「解決」は、それぞれのクラスで誰かが気づく。皆それぞれ、自分はその「解決」を思いついただろうか?


 こう考えればいい。Kが言った意味と「私」が受け取った意味が違っていたのだ。二人はそれぞれ次の意味で「進む/退く」と言っているのだ。

 K 今まで通りの道を進む/道を退く

 私 お嬢さんに進む/お嬢さんを諦める

 つまり先のAは「私」の認識している方向での「進む/退く」であり、BはKが意図しているそれなのだ。

 二人は直接の会話の中で一度として具体的に「進む/退く」の方向がどこを向いているのかを口にしていない。そしてお互いの言っていることが反対方向にすれ違っていることに気付かずに会話しているのだ。


 こうした結論は「正解」のように「教わる」べきではない。授業における読解は、その結論を「理解」すべきものではなく、認識の変容として「体験」されるべきものだ。最初無理に感じられたかもしれない二つ目の解釈が、しかし考えているうちに腑に落ちる感覚こそ体験してほしい。

 そもそもこんな解釈を聞いて、そうなのかと簡単にうなずくべきではない。まずはこんなものは「トンデモ解釈」なのではないかと疑うべきなのだ。

 なぜか?


 まず普通の感覚としては、こんな馬鹿げたすれ違いが成立しているのだと言うこと自体が不自然で受け入れがたい。どこかでどちらかが気づきそうなものだと考えるのが自然だ。

 だが実際に、こうした仮説を元に本文を読み返してみると、別に矛盾はない。ふたりがすれ違いに気づくきっかけは、周到に回避されているのだ。


 さらに、こうも考えてみるべきだ。

 こんな解釈を、普通の読者が気づくわけがない。読者が気づかない公算の高い解釈を要求すること自体がありそうもないことだと考えるべきなのではないか? わかる者がほとんどないような真相を用意して、それがミステリーのように解き明かされるわけでもないというのに、そんな設定を作者が意図したのだとどうして信じられるのか?

 だが作者にはこうする理由がある。謎は簡単に解かれてはならないのだ。真相は深く探る者にしか明かされないようにしなければならない。

 なぜか?


 これが一人称小説だからなのだ。

 真相が容易にわかるならば、まず「私」がそれに気づいてしまう。気づいてしまうということはすれ違いが解消してしまうということだ。

 だからこの真相は、何より「私」に気づかれないように起きていなければならないのだ。

 だがこれを実現するのはきわめて難易度が高い仕事だ。

 読者は語り手の語る言葉からしか情報を得ることができない。そしてその語り手に気づかれないように、真相に至ることが可能な情報を読者に伝えなければならないのだ。

 その結果、読者もまたこうした真相に気づくのが難しくなっている。


 こうした真相に至るアイデアを発想すること自体がもう容易ではない。クラスで誰も閃かないでいるようなら、ヒントとして提示したのが「アンジャッシュ」だ。

 Youtubeなどでも見ることのできるアンジャッシュのコントの多くは、二人の会話がそれぞれ全く違った一貫性で続けられ、その事にお互いが気づいていないちぐはぐさがおかしみを生むという構造になっている。

 こうした仕掛けはアンジャッシュの発明というわけではない。

 100年以上前に「こころ」を書いていた漱石が念頭に置いている可能性があるとすれば古典落語の「蒟蒻問答」かもしれない。


こころ 24 -「進む/退く」とは何か

 Kの口にした「覚悟」とは、死をもって自らの煩悶に決着を付ける「覚悟」のことだと結論した。だがその論理には疑問を残したままだ。

 だがそれを解くために、話は一旦遡って、上野公園の散歩中の会話の始め辺りに戻る。

 122頁から始まるエピソード1、「私」とKの会話の始まり近くに次の一節がある。

彼は進んでいいか退いていいか、それに迷うのだと説明しました。(123頁)

 この「進む」「退く」とはそれぞれ何のことか?


 だが、この問いの答えは、それが問われる意義がわからないほどに明らかに思える。「進む/退く」が「お嬢さんに進む/お嬢さんを諦める」という意味であることはわかりきっている。

 だが、この部分の解釈は、「こころ」の読解の最も重要なポイントなのだ。ここを転換点として、「こころ」という小説は、世間が思っているのとは全く別の様相を露わにする「コペルニクス的転回」を迎える。

 問題は問いの答えではなく、根拠だ。

 「進む/退く」はなぜ「お嬢さんに進む/お嬢さんを諦める」のことだと解釈できるのか?


 先の「覚悟」で考察したように、言葉の解釈は文脈に依存している。「進む/退く」は、文脈の中でそのように解釈されるのだ。そのことを自覚する必要がまずある。

 「進む/退く」という動詞は「前後」というベクトルを前提している。「動く/とどまる」ならばそのような「前後」の方向性は限定されないが、「進む/退く」が何のことか読者に了解されるとしたら、前後に何があるのかが何らかの形で読者に予め提示されているはずなのだ。それはどこに書いてあるのか。


 「恋愛の淵に陥った彼」(123頁上段)という記述を挙げる者は多い。問題の在処が「恋愛」なのだから「進む」のは「恋愛」の方向なのだという了解は間違っていない。

 だが、「陥る」は上下の方向性が示されているのであって「進む/退く」という前後の方向性が示されているわけではない、とも言える。

 では明確に「前後」が示されている記述はどこにあるか?


 この一節の少し前に次のような記述ある。

  • 彼の態度はまだ実際的の方面へ向かってちっとも進んでいませんでした。
  • こうと信じたら一人でどんどん進んで行くだけの度胸もあり勇気もある男なのです。

 ここには二カ所も「進む」という動詞が使われている。

 さらに「実際的の方面」については、その前に次の記述もある。

彼の恋をどう取り扱うつもりかと尋ねました。それが単なる自白に過ぎないのか、またはその自白についで、実際的の効果をも収める気なのかと問うたのです。(122頁)

 これらの記述が結びつくことで「進む」のが「恋」の「方面」なのだという理解が、読者の中に形成されたのだ。

 さらに次の一節もある。

私はその一言でKの前に横たわる恋の行く手を塞ごうとしたのです。(124頁)

 これは「進む/退く」より後なので、その時点では指標にはならないが、読み進めて論理を補強するという意味では「進む/退く」の解釈を支える根拠の一つだといえる。

 前後の文中で「進む」という動詞が、「恋に進む」という意味で何度も使われていることによって、読者はそれをコード(解釈規則)としてKの言った「進む」という言葉を、無自覚に「恋に」という方向で受け取ってしまう。つまり読者の解釈は、知らないうちに誘導されているのだ。


 以上の解釈に不審な点はない。だが、話はここで終わりではない。

 次の章(124頁)の「Kは真宗寺に生れた男でした。」からの一連のKの人柄についての記述中には、次のような表現がある。ここからは「進む/退く」について、どのような解釈が可能か。

  • 精進
  • 恋そのものでも道の妨げになる
  • 彼が折角積み上げた過去
  • Kが急に生活の方向を転換して、私の利害と衝突する

 さりげなく置かれたこれらの表現から導かれるのは、「進む=精進する/退く=道を棄てる」という解釈だ。当否は後回しにしても、誘導に従えばそうした解釈に辿り着くしかない。

  • A「進む/退く」=「お嬢さんとの関係を発展させる/お嬢さんを諦める」
  • B「進む/退く」=「精進する/道を棄てる」

 二つの解釈は、「前後」の方向性が反対を向いている。

 これらの相容れない二つの解釈をどう考えたらいいのか?

 もちろん後者は誘導に従って無理矢理解釈しただけで、にわかに納得する気にはなれないだろう。

 だがよく考えれば「進む/退く」はそれ自体ではどちらへ向かって、とも言っていないのだ。とすれば、根拠がありさえすれば、その解釈の正否はまだいずれとも言えないはずだ。

 「進む/退く」にそれぞれの解釈を代入してみよう。次のやりとりをAB二つの解釈を元に言い換えて読んでみる。

K「進んでいいか退いていいか、それに迷うのだ」

私「退こうと思えば退けるのか」

K「苦しい」


K「嬢さんとの関係を進めていいのか、諦めるべきか、それに迷うのだ」

私「お嬢さんを諦めようと思えば諦められるのか」

K「お嬢さんを諦めるのは苦しい」


K「今まで通り精進を続けるか、道を棄てるか、それに迷うのだ」

私「道を棄てようと思えば棄てられるのか」

K「信じてきた道を棄てるのは苦しい」


 最初に誘導に従って二つ目の解釈を無理矢理考えたときよりも、もっともらしく感じられてきただろうか。

 あらためて考えてみよう。どちらが妥当か?


2023年11月16日木曜日

こころ 23 -候補を絞る

 Kの言った「覚悟」とは何か?

①お嬢さんを諦める「覚悟」

②お嬢さんに進む「覚悟」

③自己所決する「覚悟」


 可能性を収拾させていく。

 三つの中で、文脈に沿った最も真っ当な解釈は①だ。

 だが①ではないと考えていい。なぜか?

 これは、積極的に②や③の意味合いを主張することによって①を否定するということではない。Kの心理を考えて、①は不適当だ、というのでもない。

 これは言わば小説読者の作法なのだ。

 どういうことか?


 Kの言う「覚悟」が「お嬢さんを諦める覚悟」以外の意味を持っていると考えるべき根拠は、Kがこの言葉を口にした科白の前後に付せられた「卒然」「私がまだ何とも答えない先に……つけ加えました。」「彼の調子は独り言のようでした。また夢の中の言葉のようでした。」などの形容だ。

 これらの形容がどのようなKの心理を表現しているかを、読者は考えたくなる。とりわけ「独り言」「夢の中の言葉」は意味ありげだから、班討論の中で既に指摘されているかもしれない。「自殺」説の根拠を考察する際、また、なぜ「進む」に解釈が変わったのかを考察する際に。

 だがこれらの形容は、メタな視点から見ると、Kと「私」の認識のズレを示すサインだと考えるべきなのだ。「独り言のよう」「夢の中の言葉のよう」がそれを示していることは明らかだし、「卒然」や「私がまだ何とも答えない先に」は、Kと「私」の会話のタイミング、すなわち思考の流れがズレていることを示している。

 したがって、Kの言う「覚悟」はこのときに「私」が想定しうる「覚悟」、すなわち「お嬢さんを諦める覚悟」そのままの意味ではないはずだと読者は考えるべきなのだ。

 これらの表現が付せられた理由を授業者は今のところ他には思いつかない。そしてこれらは何らかの意図がなく置かれた表現ではありえない。

 とすれば、Kの言った「覚悟」は、それが②や③と排他的である以上、①「お嬢さんを諦める覚悟」ではないと考えるべきなのだ。


 さらに、少なくとも②「進む」と考えるべきでもない。

 なぜか?


 130頁で「進む」の解釈を思いついたときのことを述べる文中にある「もう一遍彼の口にした覚悟の内容を公平に見回したらば、まだよかったかもしれません」「悲しいことに、めっかちでした」「いちずに思い込んでしまったのです」などの表現からだ。

 これらは誰の言葉か?


 誰のといって「私」以外の誰でもありはしない。

 だが「こころ」の「私」は、この出来事の渦中にいる大学生の「私」と、遺書を書いている「私」に分裂している。

 本文のほとんどの記述は、前者の意識によって書かれている普通の一人称小説のように読める。

 だが時折、後者が顔を出す。ここがそうだ。

 遺書を書いている「私」は出来事全体を俯瞰しているから、相対的に「作者」に近いところにいる。その語り手が、翌日新たに生じた②「進む」という解釈が間違っていたと判断しているのだ。これを否定して、やはり「進む覚悟」なのだと考える根拠は、読者にはない。


 以上の推論は、Kの心理を推測することで、この「覚悟」が「諦める」でも「進む」でもないことを論証したのではない。読者に、「諦める」でも「進む」でもないと作者がメッセージを送っていると考えられる、と言っているのだ。いわば小説読者としての作法を問題にしている。


 とすれば、この「覚悟」には「自殺」の意味合いを読み取るしかない。それ以外の意味合いを思いつかないならば。

 だがそもそも③「自殺をする覚悟」はどのような推論によって導かれた解釈なのか?

 この場面を読んでいる時点では、「私」が「お嬢さんを諦める覚悟」があるかと訊いたのに、Kが「自殺する覚悟」がある、と答える論理を想定することは、読者にはできない。この場面では、ただ「諦める」だけではなさそうだとぼんやり考え、後でKが自殺する顛末を知ってから振り返って、この「覚悟」をその前触れだと解釈するしかない。そうして「自殺の覚悟」という解釈が生まれる。

 ただ、いったんそう解釈をしてしまうと、それが腑に落ちてしまい、最初からそう考えていたように錯覚してしまう。


 さしあたって今はその解釈の可能性を認めた上で、問題は、「お嬢さんを諦める覚悟はあるか」という問いかけに、なぜKは「自殺する覚悟はある」などという噛み合わない応答をするのか、という点だ。

 なぜか?

 この問いに答えることは難しい。

 これを説明するために考えられたのが、例えば次のような解釈だ。

(「卒然」とは)「先生」の口にしたひとつのことばが、Kの内に何かを目ざめさせたさま。「卒然」は、不意にの意。Kは深く自身の内部を見つめ「先生」に語るよりは、自分に確かめるようにして、「覚悟ならないこともない」と付け加えたと思われる。(角川書店『日本近代文学大系 夏目漱石集Ⅳ』註釈)

 Kの思考が「卒然」ズレたのだ、と考えるのだ。

 なるほど。何せ「彼の調子は独り言のようでした。また夢の中の言葉のようでした。」なのだ。Kは一人の世界に入ってしまったのだ。

 だがそうではない。

 今後の考察から得られる結論からいえば、Kの思考に断絶や飛躍はない。


 この「覚悟」は、小説の持つ論理からして「自殺する覚悟」のことだと考えるしかない。他の解釈を思いつかない以上は。

 ではなぜ「お嬢さんを諦める覚悟」について問われたKは「自殺する覚悟ならある」などと答えたのか?


 だがこの疑問に答えるためには、一度遡って考える必要がある。

こころ 22 -排他的・択一

 Kの口にした「覚悟」とは何か?

①お嬢さんを諦める「覚悟」

②お嬢さんに進む「覚悟」

③自己所決する「覚悟」


 どれかと考える前に確認しておく。

 上の三つは、基本的に排他的な選択肢だ。「自殺の動機」のように、複数選択ができない。

 ①でも②でもあるような「覚悟」では何のことかわからない。

 ①でも③でもある、という解釈は、実は世の国語授業では曖昧に許容されている。つまりKは①の意味で答えつつ、そこに③の意味を重ねていると考えるのだ。

 だがこのように考えてはならない。なぜか?


 「お嬢さんを諦める」なら、Kは死ぬ理由がなくなるはずだからだ。

 逆に、「自殺する」のは、自分の未練を断ち切るためなのだから、その「覚悟」を持っているということは、「諦める」ことができていないということに他ならない。

 つまり「諦める」と「自殺する」は併存しない。


 いや、お嬢さんを諦めるとしても、そもそもお嬢さんに心惹かれたことがすでに許せないのだ、したがってお嬢さんは諦めるが、死ぬ理由は依然としてあるのだ、そう主張する者がいる。

 だが問題はKの自殺の動機が何かではなく、この「覚悟」が何を意味しているかだ。Kがどちらの意味でもあるように「覚悟」と言ったと考える必然性はない。

 では、「自殺する」といった意味合いがあるとしてもそれはまだK自身にとっても曖昧なものだと考え、表層的には①であり、そこに③の意味も含意されていると考えることはできないか。

 これもできない。「覚悟」という言葉の強さに釣り合わないからだ。

 「覚悟」とはその決着点なり方向性なりが曖昧なまま使える言葉ではない。「諦める覚悟」でもあり、ぼんやりと「自殺する覚悟」でもある、などという心理を「覚悟」とは呼ばない。


 ただし以前の授業で生徒から、②と③の組合わせたアイデアが提示された。それは「進むが、駄目ならば(諦めるのではなく)自己所決する覚悟」だ。なるほど「進みつつ自殺する」では意味を成さないが、時間に沿って直列するのならば可能なのだ。そしてそらは、単に②や③とは明らかに違う「覚悟」ではある。

 論理的には可能だが、そういう意味でKが言ったのだと考えるかどうか別問題。

 さて、どれか?


こころ 21 -なぜ反対の解釈が可能か

 Kの口にした「覚悟」は①「お嬢さんを諦める」か、②「恋に進む」か?

 その前に、なぜそもそも「覚悟」がこの二つの意味に解釈しうるのか?


 この問いの趣旨は、にわかには理解しにくいはずだ。

 考えようとしているのは、ある場面で口にされたある言葉が、まったく反対の意味に解釈しうるのはどういう場合か、だ。

 例えば若者言葉としては「やばい」は否定的にも肯定的にも使われる。「あいつ〈やばい〉よ」と言った時、相手を賞賛しているのかディスっているのかはこれだけではわからない。「そりゃ〈おかしい〉な」は「笑える」にも「変だ」にも受け取れる。また「いいよ」という台詞は、文脈次第で「OK」(「良い?」「いいよ」)の意味にも、「No Thank You」(「要る?」「いいよ」)の意味にもなる。「すごいね」が称讃なのか皮肉なのか、表面上は同じ形をしていてわからない。

 だが一方でこれらは多くの場合、文脈や口調によって、その区別ができるようになってもいる。

 それなのに、「覚悟」はある文脈で、ある口調で発せられた言葉であるにもかかわらず、なぜ正反対のどちらの意味にも解釈できてしまう、というのだ。

 真に驚くべきなのは、この言葉がどのような精妙な仕掛けによって正反対に変わりうることが可能になるように設定されているか、だ。ここで考察に値するのはこの点だ。

 「私」は確かに「お嬢さんを諦める覚悟」はあるか? とKに問うている。にもかかわらず、それに答えたKの「覚悟」が「お嬢さんに進んでいく覚悟」かもしれないと、なぜ問いかけた当の「私」が考えることができるのか?


 まず「覚悟」が置かれた文脈を確認しよう。

 Kの口にした「覚悟」は次の「私」の台詞を受けている。

「君がやめたければ、やめてもいいが、ただ口の先でやめたって仕方があるまい。君の心でそれをやめるだけの覚悟がなければ。いったい君は君の平生の主張をどうするつもりなのか」

 気になるのは「それ」という指示語だ。「それ」という指示語に何を代入するかによって、「覚悟」は二つの正反対の意味になるのではないか?


 結果から逆算すると「恋」「道」という二つの候補を代入すると、それぞれ①②の意味になる。

 だがこれは無理だ。なぜか?


 この文脈で「それ」に「私」が「道」を代入することができると考える必然性がないからだ。正確に言うなら、「私」が、この「それ」に、Kが「道」を代入したかも知れない-つまり「心から道を棄てる覚悟がなければ」と「私」が言ったとKが受け取ったかも知れない-と考える必然性がないからだ(こみいった論理で、これを追うのは難しい! 授業でこれを果敢に挙手して発言したA組N君を讃えたい)。

 ではどう考えるか?


 こう考えてみる。

 「心でそれをやめる(覚悟)」を次のように言い換えたとき、空欄に、適切な動詞を入れ、それが「諦める」と「進む」のどちらにも言い換えられることを説明する。

  ことをやめる「覚悟」


 もともとこの「やめる」は「もうその話はやめよう」というKの言葉を受けている。したがって「それ」とは「話」だ。「口先で話をやめるのではなく、心で話をやめる」の言い換えとして可能な動詞を考える。


 空欄に入る動詞として思いつくのは考える、悩む、迷うの三つだ。

 これらの動詞を挿入して、それが正反対の意味に分岐する論理を説明してみよう。


 「考えることをやめる」ではどうか。考える対象を頭から消し去る=「お嬢さんのことを諦める」こと(①)だという解釈の一方で、「考える」ことをやめて「行動に移す」こと(②)だという解釈もできる。

 「悩むことをやめる」ではどうか。「悩むのをやめる」ためには、悩みの種である①お嬢さんを諦めてしまう(①)のが一つの方途であり、悩むのをやめて思い切ってお嬢さんに進む(②)のが、もう一つの方途だ。

 「迷うことをやめる」ではどうか。Kにとってお嬢さんを「諦める」(①)、お嬢さんに「進む」(②)、選択肢のどちらを選ぼうとも、「迷うことをやめ」ているのだ。

 このように、Kの言う「覚悟」は「私」にとっては、正反対のどちらの解釈も可能なのだ。

 それを可能にする実に精妙な表現が、明らかに漱石によって意図的に設定されていることに、あらためて驚かされる。


 「覚悟」が二つの解釈を可能にしていることはわかった。だがそれだけでなく、現在のところ出所不明な「自殺」説を含めて、意味合いとしては三つの解釈が可能な文脈が設定されていることになる。

 で、結局どれなのか?

こころ 20 -なぜ解釈を変えたか

 「私」がなぜ「覚悟」の意味を考え直したかは、本文を着実に追えば明らかだ。そのことはそのまま説明されている。

 にもかかわらず、これはこれで案外その論理を追いにくい。

 確認してみよう。

 「私」がKの「覚悟」について考え直す経緯は何か?


 「私」が「覚悟」の意味を考え直す際の思考の流れは次のように説明されている。

私はこの場合もあるいは彼にとって例外でないのかも知れないと思い出したのです。(略)私はただKがお嬢さんに対して進んで行くという意味にその言葉を解釈しました。果断に富んだ彼の性格が、恋の方面に発揮されるのがすなわち彼の覚悟だろうといちずに思い込んでしまったのです(130頁)。

 この「例外」はその前の次の部分を受けている。

Kの果断に富んだ性格は私によく知れていました。彼のこの事件についてのみ優柔なわけも私にはちゃんと呑み込めていたのです。つまり私は一般を心得た上で、例外の場合をしっかり攫まえたつもりで得意だったのです(130頁)。

 この一節の「一般」「例外」とは何か?


 聞いてみるとこれも、ただちに全員が正解するというわけではない。「一般」は「精進・禁欲」で、「例外」は「お嬢さんに恋していること」だと答える者は案外に多い。確かにKの性格についての「一般/例外」はそれに違いない。

 だがこのように考えるのは間違っている。「一般」=「精進」/「例外」=「恋」ではなぜダメか?


 先の引用の「例外」に「恋」を代入して「恋ではないのかも知れない」とすると、「恋に進む」のだという結論と矛盾する。また、「例外ではない=一般だ=精進」だと考えたら「恋に進む」の意味に解釈するはずはない。

 「ダメ」だと判断できること自体も必要だが、それよりこうした、「なぜダメか?」の根拠を論理的に述べることにこそ国語力が必要となる。


 さてでは「一般/例外」は何なのか。これはもともと難しい問いではない。確認に過ぎない。「つまり」で言い換えられている前後を対応させるだけだ。

一般=果断に富んだ

例外=優柔な

 先の「例外」に「優柔」を代入すると「優柔ではない」となり、「果断に富んだ彼の性格」と論理的に整合することになる。

 ここで言う「果断/優柔」は何を指しているか?

 また「優柔なわけ」とはどんな「わけ」か?


 「果断/優柔」がどのような状態を指しているかについて、今年度は思いがけない議論が起こった。

 「果断」とは

①強い意志を持ってすっぱりとお嬢さんを諦める

②思い切ってお嬢さんにアプローチする

 どちらか? どちらでもない?


 考えてみると、この①②は前の「覚悟」の解釈の①②に対応している。Kが何事かの「覚悟」をもっているとすればそれは①②のどちらであるかという問題と、Kが果断に富んだ性格であるとすると①②のどちらを断行するかという問題は根が同じだ。

 ではこれらの場合「優柔なわけ」とは何か?


 ①だとすると、お嬢さんを諦められない状態が「優柔」なのだから、それの「わけ」とは、それほどお嬢さんが好きなのだということにほかならない。

 ②だとすると?


 訊いてみると「自分に自信がないから」とか「『私』に気を遣って」とかいう予想外の答えが出てきて楽しかったのだが、まあまっとうに論理を追えば「信念に反するから」と答えるのは難しくない。Kの「平生の主張」が恋に進むことを妨げているのだ。「私」にはそのこと「飲み込んで」いる。


 で、結局どちらと考えればいいかといえば、前と同じように「例外でないのかも知れない」に代入して、それが「進む」と整合するのはどちらかと考えればいい。

 「優柔」が①「お嬢さんを諦められない」か、②「道を棄てて恋に進めない」だとすると、「例外(優柔)ではない」が「進む」と結論する以上、②ということになる。

 このあたりは単純な論理なのだが、あらためて考えると結構混乱してしまった人も多いはずだ。


 もう一つの解釈も少数ながら提出された。「果断」とは①か②かではなく、①②のどちらかを迷わず決断できることだ、という解釈だ。

 その場合の「優柔なわけ」は、①②それぞれの「わけ」が拮抗しているから、ということになる。 

 これは巧みで整合的な解釈だ。

 

 ここまで確認してやっと問える。

 なぜ「私」の解釈は反転したのか? その契機になったのは何か?


 これもまあ全員が直ちにそれと指摘できるわけでもないが、的確に論理を追えば、それが上野公園の翌日、Kに問い質した際の「強い調子で言い切った」Kの口調であることは確認できる。

 そこからKが「鋭い自尊心を持った男」であることにあらためて気づいた「私」は、「覚悟」についても「一般=果断に富んだ=お嬢さんに進む」意志を示しているのではないかという推論にいたる。


 さてこれで①が、全く反対の②に変わった論理はわかった。ただ文章に書いてあることを追うだけで、結構な手間だった。

 これを確認した上で、考えたいのは次の点だ。

 ①「お嬢さんを諦める覚悟」と②「お嬢さんに対して進んで行く覚悟」は全く正反対の意味だが、一つの「覚悟」という言葉が、どうしてこのような正反対の解釈を許容するのか?


こころ 19 -何の「覚悟」か

 全体の流れをたどり、全体の把握の枠組みを確認してから、さてようやく細部の読解に入る。

 ここからの展開はしばらく、「私」とKが上野公園を散歩するエピソード①「下/四十~四十二」章の読解だ。

 この部分の精密な読解は、知的興奮を味わえる高度な考察の果てに、目も眩むような「コペルニクス的転回」による認識の更新が訪れる鮮烈な体験になる。


 みんなは既に通読してあるはずなので、毎度のこと、授業は本文を順に追ったりはしない。ここでは核心といっても過言ではない次の一節について最初に考える。

彼は卒然「覚悟?」と聞きました。そうして私がまだ何とも答えない先に「覚悟、―覚悟ならないこともない。」とつけ加えました。彼の調子は独り言のようでした。また夢の中の言葉のようでした。(127頁)

 「覚悟」という言葉の重要性は、最初のプロット確認の段階で、クラスによっては確認した。①のエピソードで登場するこの言葉が、②③によってクローズアップされ、それが④を引き起こす導因になるのだ。

 この「覚悟」とは何をする「覚悟」か?


 考えうる候補は次の三つ。

①お嬢さんを諦める「覚悟」

②お嬢さんに進む「覚悟」

③自己所決する「覚悟」

 ①は文脈に従った素直な解釈。

 ②は、そのまま読み進めると、翌日に「私」がたどりつく解釈。

 問題は③だ。どこから出てきた?


 だが③を支持する者は多い。

 ③のみ、もしくは①と③の意味を含むニュアンスだと考える者は、以前の学年で調査したところ、生徒の3分の2に及んだ。

 ③を支持する者は、そうは考えない3分の1の者に向けて、Kの「覚悟」に自殺の意味合いが含まれていると考えることの妥当性を説かなければならない。

 その妥当性を主張するのはそれほど簡単なことではない。

 だが一度そうだと思ってしまうと、もうそのように思うことが当然のように感じられる。それでもあらためて考えてみる。

 そのような論理はどこから生じたのか?

 またその妥当性は何に支えられているのか?


 Kがその言葉を口にする場面で、そこに自殺の意味合いがあることに「私」が気づくことはありえない。そもそも読者にもそのように解釈することは不可能だ。

 この解釈は、後ろまで読み進めて、実際にKが自殺することを知って、振り返ってみたときにしか成立しない。

 そして、そう考えたときに、ある程度の説得力、納得感があるのは否めない。

 だがその妥当性の根拠を説明しようとすると、それはKの自殺の動機を説明することになってしまう。Kの自殺の動機を③「道」を外れた自分を許せないからだと考えた者は多い。そのことを繰り返してしまう。

 Kがこの月曜日の時点で自殺する動機が既にあったことは、Kが自殺の意味で「覚悟」を口にすることがありうることの前提ではある。だがそれは、この時口にした「覚悟」がそれを示すと考えることとは別だ。

 問題は、この場面でKがそれを口にしたのだと考える必然性を説明することだ。

 それはなかなかにやっかいな論証だ。


 自殺の意味合いが含まれているか否かの検討をいったん措いて、まず①と②について検討する。

 まず会話の時点で「私」はこの「覚悟」を、「お嬢さんを諦める覚悟」だと思っている。そのつもりでKに「覚悟はあるのか」と迫ったからだ。

 ところが「私」は翌日(129頁~)には「お嬢さんに進んで行く覚悟」だと考える。

 「私」はなぜ「覚悟」の解釈を翻したか?


2023年11月10日金曜日

こころ 18 -「主題」と「動機」の整合性

 Kの自殺の動機として最も支持を集めるのは経験上、③「道をはずれた自分への絶望」だ。

 こう考えることには、実は看過しがたい問題が含まれている。

 何か?


 「動機」の選択肢を並べ、「エゴイズムと倫理観の葛藤」と見比べる。

 これらの「動機」と「主題」は整合的か? 不整合か?

 前述の通り、「こころ」がどんな小説であるかという把握は、Kがなぜ死んだのかという把握と密接に関係している。この二つは整合していなければならない。

 Kの自殺の動機と「こころ」の主題の間にはどのような論理があるのか?


 「こころ」の「エゴイズム」をテーマとする小説であると捉えることと整合的なのは、動機①②だ。一方、③はそれとは不整合だ。④も、どちらかというと整合的だが、それよりも「エゴイズム」というテーマ把握は、Kの自殺の動機を①や②と捉えたところから把握された「物語」なのだと言っていい。

 どういうことか?


 「エゴイズム」がテーマになっているという把握は、Kの自殺を「私」の「エゴイズム」によるものだと捉えていることを意味する。

 それはKが①失恋と②友の裏切りによって死んだということだ。つまり「私」がKを死に追いやったのだ(それによるKの死が④復讐だとみなすことは整合的だが必須ではない)。


 一方③はこうした主題把握と不整合だ。

 ③はK自身の問題であり、「動機」が③ならば、「私」が「死に追いやった」ことにはならないからだ。


 だがほとんどの者が、Kの自殺の動機を③だと見なし、そしてそれが「エゴイズム」主題観と不整合であるということを意識しない。

 なぜか?


 だがこのような「不整合」を、とりたてて「不整合」とはみなさない、ということも可能かもしれない。

 確かにKの自殺はK自身の問題かもしれない。だがお嬢さんへの執着がその実行を踏み止まらせていたのだ。その生への紐帯を「私」の卑怯な裏切りが断ち切ったのだ。つまり③がKの自殺の主たる動機だとしても、最終的にそれを実行に踏み切らせたのはやはり①②であり、その原因となった「私」の「エゴイズム」の罪は否定できないのだ。

 なるほど、自殺の動機をどれか一つに限定する必要などないのであって、いくつかの要因が重複して人を死に追いやるのだと考えてもいい。

 だが、先の「重み付け」の想定において、①②の合計と③の重みのバランスはやはり問題だ。「エゴイズム」が主題だという把握は、やはりどうしても①②の重みが大きくなくてはならない。③の方が大きいとすれば、それは「エゴイズム」を主題とする把握とは別の主題把握を必要とするはずだ。


 すると今度は、Kの自殺の動機は③だが、それもまた「エゴイズム」という主題に合っているのだと言う者も現れる。

 だがそんな主張は無理矢理な牽強付会だ。それは「エゴイズム」が先に設定されていて、③をなんとかそれに合わせて言えないかと考えているのだ。

 事実は、①②から「エゴイズム」が導かれているのであって、それが誰のエゴイズムかといえば「私」のものであるに違いない。Kのエゴイズムなどそもそも問題にしていなかったはずだ。


 多くの読者は、世に普及している「エゴイズム」という主題と、読者として捉えているKの自殺の動機が整合していないことを意識しない。

 なぜか?


 これには明確な理由がある。いわば「盲点に入る」のだ。

 「こころ」は一人称小説だ。「上」「中」とは交代しているが、「下」は全体が遺書であり、教科書収録部分はその一部、通称「先生」による一人称で語られる。

 すると?


 Kの自殺の動機を①②と見なすのは「私」の認識に基づいているのだ。

 「私」はKの死を自分のせいだと思う。自らの「エゴイズム」の罪の重さが強く意識されている。

 つまり「エゴイズムと倫理観の葛藤」という主題は、「私」の目から見た「こころ」という物語の把握なのだ。


 面白いことに、宿題の段階では、①②を挙げた者が多い。それが、授業で聞き直すと支持の大勢が③へと移行する。

 なぜこんなことが起こるのか?

 初読の段階では、人物関係や出来事の推移といった物語の大きな枠組みや主題と整合的な①②が意識される。

 ところが授業であらためて教科書を開いて考える段になると、我々読者はもう少し客観的に、公平に、Kの心情を熟慮するようになる。話し合いを通して妥当な解釈についての合意が形成される。そうすると、③が妥当なように思える者が増える。


 一般に理解されている「こころ」の主題は、Kの死を「私」が「追いやった」ものとみなすことによって成り立っている。「私」の目から見れば、事態はそのように把握されているのだから、それも無理はない。

 だがそれは読者が意識的に考えたKの自殺の動機と不整合だ。

 つまり「エゴイズム」主題観は、雑に、あるいは浅く考えたときにのみそう見える「こころ」把握なのだ。

 では自殺の動機を③だと考えるならば、「こころ」はどのような物語だということになるのか?


 実は宿題の段階で「エゴイズムと倫理観の葛藤」という表現には収まらない主題を考えている者もいる。その中には、とても鋭い把握をしている者もいる。

 だが本人がそれを意識しているわけでは、おそらく、ない。その人には、ごく自然に「こころ」がそのような物語に見えたということなのだろう。

 「こころ」はどのような問題を描いた小説なのか。

 結論にいたるには、丁寧で根気強い考察が必要となる。

2023年11月9日木曜日

こころ 17 -Kの自殺の動機

 次に、Kの自殺の動機について考える。

 最初に述べたとおり、これはいわば「下人はなぜ引剥ぎをしたか?」のような、「こころ」における最大の問いだ。だからこれは年末まで考え続けることになる問いということになる(たぶんこれを論題に小論文を書いてもらう)。

 だが、現状でこれはそれほど「謎」とも感じられていないかもしれない。それなりにわかる気がする。ここがわからなかったら、小説全体がわからないと感じられてしまうはずだが、「こころ」は一般に、それほど「わからない」小説とは思われていない。

 だから、現状で、まずは出し合ってみる。

 いろいろに表現は可能だろうが、似たような内容であると認められるものをまとめていく。

 それでも別の要素として分けるのが妥当だと考えられるのは、何項目になるか。

 それらの要素のうち、相容れない項目はどれとどれか? 「Kはなぜ自殺したか」をめぐって対立する意見を明らかにしよう。


 さて、挙げられた動機は、次の項目のいずれかにあてはまるだろうか?

  • ①失恋
  • ②友の裏切り
  • ③自分への絶望
  • ④「私」に対する復讐

 上の4項目のいずれにもあてはまらない見解を5番目以降に加えよう。

 例えば過去の生徒からは「自分への罰」という「動機」が提出された。何についての罰? と訊くと、「精進の道を逸れたこと」という。それならば③と同じだ。

 だが、同じ「罰」という言い方で「友人やお嬢さんの気持ちに気付かなかったことに対する自己処罰」というような意見も出る。

 両者は違う。「道を逸れたこと」なら恋心を自覚して以降ずっとKの裡にあった可能性があるが、「気持ちに気付かなかった」なら自殺の直前、二日以内にはじめて生じた動機だ。

 そうするとそれは自分を恥じる気持ち、か? 気づかなかった相手に申し訳ない気持ち、か? それがKを死に追いやったのか?

 あるいは、「行動できなかった自分への絶望」というアイデアも出た。お嬢さんが好きなのに手を拱いていて何もできなかった後悔、という意味だ。これは③とは全く違う。

 今年度はここに時間をかけなかったせいもあるが、こうしたバリエーションはほとんど挙がらなかった。ただA組Sさんの「『私』につきはなされたから」という動機は①~④のいずれにもあてはまらない心理として検討の対象とした。

 そのようにして提出された「動機」の解釈があれば選択肢として追加する。


 これらは排他的にどれかであると考える必要はない。このうちのいくつかが複合的に働いているのかもしれない。

 では上の項目のうち、どれがどのくらいの割合でKを死に追いやったと考えるのか。合計が10になる整数比で表してみよう。

 例えば①と②と④が、2:5:3くらいの割合だ、などとKの「動機」としての重みを量るのだ。あるいはどれか一つが10でもいい。

 それぞれの動機の把握は、どのような「こころ」の読みに結びつくか?


こころ 16 -主題

 ようやく「こころ」を読むための、物語全体の流れ、時間感覚が共有できた。

 だが小説の細部に分け入る前に、もう一つやっておくことがある。

 これもまた「こころ」という小説の全体(とはいえ教科書に収録されている部分が既に「こころ」の一部に過ぎないのだが。とりあえずその範囲の「全体」)を把握する視点についての確認だ。

 授業前の宿題として次の二つの問いについて考えておいた。

問1 「こころ」の主題は何か?

問2 Kはなぜ自殺したか?

 この二つの問いはどのような関係になっているか?


 既にブログの最初の記事でも確認した。課題前に目を通すように指示した。

 そこでは、なぜこの二つの問いを投げかけたかという狙いを語ったつもりだ。

 さて、実際に授業がこの展開にさしかかったとき、この問題についてあらためて趣旨を確認した。

 繰り返し言っている通り、主題・テーマというのは、そのテキストなり物語なりを、そう捉えたのだという把握の「表れ」だ。それはどういう話? と聞かれた時の答え方だ。

 これはもともとそのテキストに主題が内在しているというのとはちょっと違う。確かにその「可能性」はテキスト中にあったかもしれない。だがなにはともあれ、それをそのように捉えた受容者がいなければ主題は存在しない。

 ということは受容者によって主題はさまざまな形をとりうるということだ。

 だがそれは何でもアリなのだということではない。それはそのテキストの可能性の範囲内で適切でなければならない。そうでなければ、そもそも受容ですらない。


 一方、「どういう話?」という問いかけに対して、粗筋を語ることもできる。粗筋具体レベル、主題抽象レベルで、それぞれ「どういう話」かを語っているのだ。

 教科書の収録部分で「こころ」を読み、その粗筋を語ろうとすると、終わりはKの自殺で締めくくられるはずだ。その時、その自殺がどのようなものかについて語らないということはありえない。唐突にKが死んだとだけ付け加え、そこに至る因果や必然性がまるで示されてなければ、相手は「なにそれ?」と言うだろう。

 となると、何らかの形で、その死がどのようにもたらされるかを語るはずであり、それはすなわちその人が「こころ」をどう把握したかに基づいているはずだ。


 したがって、「主題」と「自殺の動機」は論理的に整合しているはずだ。物語の展開の必然性として「自殺の動機」を把握し、それを抽象化したものが「主題」であるはずだからだ。


 ところで世間では「こころ」はどういう話だと思われているか?

 文庫本には裏表紙やカバーの折り返しに簡単な内容紹介が載っている。

 「こころ」のは例えばこんな感じ。

  • 友を死に追いやった「罪の意識」によって、ついには人間不信に至る近代知識人の心の暗部を描いた傑作。(ちくま文庫)
  • 近代知識人のエゴイズムと倫理観の葛藤を重厚な筆致で掘り下げた心理小説の名編。(講談社文庫)
  • エゴイズムと罪の意識の狭間で苦しむ先生の姿が克明に描かれた、時代をこえて読み継がれる夏目漱石の最高傑作。(角川文庫)
  • かつて親友を裏切って死に追いやったという過去を背負い、罪の意識に苛まれつつまるで生命を引きずるようにして生きる「先生」(岩波文庫)
  • 文豪・夏目漱石が人間のエゴイズムに迫った名作(イースト・プレス)

 これらは「こころ」は「こういう話」だと紹介しつつ、読者の購読意欲を喚起する惹句でもある。

 もちろん内容紹介全体には「あらすじ」的な部分もあるが、上は主に「主題」的な部分を抽出してある。


 あるいは高校生が教科書とともに購入する「国語便覧(国語要覧・国語総覧)」の類ではこんな風に紹介されている。

  • 人を傷つけずにはおかぬ恐ろしいエゴイズムと、それゆえに犯した罪に対する苦悩、そして死をもっての清算を描いた作品。(浜島書店)
  • 人間のエゴイズムを追及した(数研出版)
  • 近代人のエゴイズムが絶望に至る過程を描いて見せた作品。(第一学習社)
  • 恋愛と金銭の問題をめぐる人間の我執(エゴ)を鋭く追及しつつ、日本近代への批判をも提示した作品(大修館書店)
  • 人間が持たざるをえないエゴイズムの醜さと、それを救済するには死以外にはないとする、明治の知識人の苦悩が描かれている。(東京書籍)

 あるいはおなじみの「Wikipedia」ではこんな感じ。

人間の深いところにあるエゴイズムと、人間としての倫理観との葛藤が表現されている。

 これらに頻出する言葉は一目瞭然、「エゴイズム」だ。

 「エゴイズム」?

 上では「我執」という言い換えもあるが、一般的には「利己心」とか「自己中心主義」などという意味で理解されている(本文中に「利己心」という言葉が登場する)。

 「文学」はこの「エゴイズム」がどうにも好きで、「羅生門」も「生きるために人間が持たざるをえないエゴイズムを描いている」などと一般的には言われている。来年読む「舞姫」も「エゴイズム」で語られる。


 では「こころ」のテーマが「エゴイズム」であると把握されているとはどういうことか?


2023年11月1日水曜日

こころ 15 曜日の特定12-曜日を特定する意義

 長い推論過程を経て、教科書収録部分の曜日が確定した。

月曜 ① 上野公園を散歩する

     ② 夜中にKが「私」に声を掛ける

火曜 ③ 登校時にKを追及する

月曜 ④ 奥さんと談判する

木曜 ⑤ 奥さんがKに婚約の件を話す

土曜 ⑥ 奥さんが「私」に⑤の件を話す

土曜 ⑦ Kが自殺する


 ここまでの推論の過程を認めるとして、それを本当に漱石が想定していたと皆は信じられるだろうか。これは徒に深読みしているだけではないか(ここまでの授業のあちこちで、ホントに作者はそんなこと考えてるんですか? と言いたかった者は多いかもしれない)。

 だがこうして推論を重ねてみた感触では、漱石は周到にこうした設定をした上で書き進めていると思えた人も多いはずだ。

 それでも以上の推論に牽強付会な印象があると感じられるとすれば、そこには次のような誤解があるかもしれない。

 ここまでの推論は日程の記述から曜日を特定しているが、作者漱石がこのように考えたと言っているわけではない。逆だ。漱石の中では、曜日が先に想定されていて、それに基づいて日程が表現されている、と言っているのだ。

 しかも、漱石がこうした曜日の設定を読者に読み取らせるつもりがあったと言っているわけでもない(一方A組ではK君が、漱石にはその意図があったのではないかという説を唱えていた)。

 曜日の設定は、あくまで作者が書く上での想定だ。それを逆に辿って、記述から曜日を推論するという考察にこのように手間が掛かることが穿ち過ぎな印象を与えてしまう。

 そしてまたこれは、こうした曜日を語り手である「私」が覚えているということでもない。「私」にはそれぞれの出来事の配列と、その間のおおよその時間経過と、Kが自殺した晩の曜日「土曜日」が認識されているだけだろう。

 作者が曜日を想定していることと「私」が曜日を覚えていることを混同してはならない。「私」は土曜日以外の曜日を覚えていなくてもいい。それは作者が曜日の想定をしていることと矛盾しない。


 ただ「運命の皮肉」については、それに気づく読者がいることを期待していたはずだ。あのような付合を示す記述が意図もない偶然だと考えることは難しい。漱石は注意深く読んでいる読者にだけでも気づいてもらうことを期待して書いたはずだ。

 そしてそこに気づいた者は、作者の深慮に戦慄せざるをえない。


 4時限にわたって、物語内を流れる時間を把握するための推論をしてきた。

 一方で、こちらが一方的に説明してしまえば、以上の推論過程の概略と結論を10分程度で語ることも可能ではある。

 だがそんなことをするのはあまりに惜しい。「二、三日」と「五、六日」の関係をどう考えたらいいのか、などの問題点を発見したり、解釈の根拠を文中から探したり、自分の思考を客観的に点検してみたり、妥当な結論へ向けての推論過程及び議論そのものにこそ、国語科としての学習の意義があるからだ。

 そしてそうした過程は、皆にとっても手応えがあったはずだ。

 こうして共有された認識は、この先、物語の展開に沿った登場人物の心理を読み取っていく上で、それを実感として想像したり議論したりするための根拠になる。


 そしてまたこの展開には、もうひとつ重要な意義がある。

 それは、⑤「奥さんがKに婚約の件を話す」が木曜日だということを確認することの意味だ。

 この出来事は、当の木曜日の時点では物語の前面には表れることなく、それが表面に浮上するのは⑥の土曜日だ。そしてその晩にKは自殺する(⑦)。

 こうした情報提示の仕方によって、読者は⑤と⑥を混同し、⑤と⑦がきわめて近い時期に起こったかのように錯覚してしまう。そしてそれはそれら二つの出来事の因果関係を殊更に意識させることになる。

 つまり、Kはお嬢さんと「私」の婚約を知って(また、「私」の卑怯な裏切りを知って)自殺したのだ、と考えてしまうのだ(この問題点を、H組Tさんは既に最初の授業の時に指摘していた)

 このような解釈はただちに「エゴイズムと罪」をテーマとする小説としての「こころ」観を成立させる。私の「エゴイズム」がKを死に追いやったのだ。

 だが、ここには実は語られないまま経過していた「二日余り」がある。これが意味するものは、よくよく考えなければならない。

 ⑤の木曜日から⑦土曜日までの「二日余り」、Kの心にはどのような思いが去来していたのか?

 これはKの自殺に至る心理を考察するための重要な認識である。

 授業の最終段階で再考する。

こころ 14 曜日の特定11-①上野公園

 この先の議論を進める前に、次の確認をしておく。

 ④「月曜日」、また①②③の日は、それぞれ本文のどの記述からどの記述までに対応しているか?


 ある程度の長さの文脈を一気に把握することは、意識しないとできない。一息で把握できる文脈の長さは、そのまま読解力の高さを示している。いま目で追っている文章が前後の文脈の中でどのような位置にあるかを捉えることは、文章を読む上で決定的に重要だ。

 「土曜日」「月曜日」という認識が、どれほどの範囲の文章を把握する際に必要な枠組みなのかを意識したい。


 ④「月曜日」の始まりは130頁下段の「一週間の後」から135頁までだ。その日のうちに「談判」や神保町界隈の彷徨、気詰まりな夕飯の場面までが含まれる。「室に帰」った時点を「二、三日」「五、六日」の始点とするという推論をしてもそれが130頁から続く④と同じ月曜日の夕方のことだとわかっていなければ議論を先に進めることはできない。


 さらに長いのは教科書所収の122頁、章変わりの冒頭「ある日…」から129頁上段の「しかし翌朝になって」の直前「私はそれぎり何も知りません。」までの一日である。3章半に渡るこの部分に、重要な情報の詰め込まれた①「上野公園の散歩」や、謎めいた②「真夜中のKの訪問」が含まれる。

 さてこの長さが一掴みに把握できたところで、ではこれは何曜日か?


 考えるべき点は130頁の「二日たっても三日たっても」と「一週間の後」の関係。考え方の手順は既に把握しているはずだ。

 結論としては前に考えた「二、三日」と「五、六日」の関係と同じく、始点を同じくする同一の時間経過を含む期間であると考えていいだろう。

 そう考えられる根拠は何か?


 上記にならって、「三日」を「一週間」と区切る特定の出来事が見出せないからだ、という言い方は勿論可能だ。

 だがそれを裏付ける重要な根拠となるのは「一週間の後私はとうとう堪え切れなくなって」の「とうとう」だ。

 「とうとう」は、その前に経過を前提する副詞だ。「二日たっても三日たっても」という途中経過を受けていると読み取るからこそ「とうとう」が自然なものとして感じられるのだ。

 では「一週間」の始点はどこか?


 この「一週間」は、「私はいらいらしました。…私はとうとう堪え切れなくなって」から、奥さんへの談判の「機会をねらってい」た期間だと考えられるから、始点はそう思うようになった「私にも最後の決断が必要だという声を心の耳で聞」いた日、つまり「覚悟」について考え直した③「翌朝」だ(129頁)。

 とすれば、奥さんと談判したのが月曜日だという先の結論から遡ること「一週間」、前の週の月曜日がそれだ。つまり③が月曜、①「上野公園の散歩」はその前日、日曜日ということになる。

 これで全ての曜日を特定したと考えていいだろうか?


 ①の始まりの時点で「私」は学校の図書館で調べ物をしている。大学が日曜日に休講であることを④の考察時に根拠にしたように、当時の帝国大学図書館が日曜休館であったと考える必要はないのだろうか。

 高校の図書室は日曜日はむろん休館だ。一方で自治体の公共図書館は日曜にも開館している。国立国会図書館は日曜祝日は休館。では大学の図書館は?

 現在の大学の図書館は学生の利便性を重視して日曜日も開館している大学が多いと思われるが、明治時代の帝国大学図書館はそのような利用者サービスに配慮していたのだろうか。この点については、当時の大学図書館の休館日を調べれば、漱石の想定がどちらかははっきりする。だがこれをテキスト内情報から解釈してみよう。

 ①の曜日を推測する手がかりはないか?


 「私は久しぶりに学校の図書館に入りました」の「久しぶり」から、①が週明けの月曜日である印象があると考える者がいるが、これは確定的な論拠にはならない。週末くらいで「久しぶり」は大げさだ。

 では「久しぶり」に意味はないか?

 これは、その前のKの自白のエピソードが正月だったことから考えて、おそらく冬休み明けであることを示しているのだ。


 それよりも、図書館にいる事情を語る次の一節から、この日の曜日について推論してみよう。

私は担任教師から専攻の学科に関して、次の週までにある事項を調べてこいと命ぜられたのです。

 この日が日曜日だとすると、「次の週までに」とは「明日までに」を意味することになる。翌日が月曜ということになるからだ。とすれば「私」は今日中に何とか調べ物を片付けなければならないはずだ。ところが「私」はようやく探し出した論文を「一心に」読み始めたところに現れたKに心を乱され、あっさり調べ物をやめてしまう。翌日、命令に反したことをどう教師に説明するつもりかを気にする様子もない。「書く方が自然なことが書いていない場合は、それがないものと見なす方が自然」の法則からすれば、こうした想定は「不自然」だ。

 一方この日が月曜だとすると、「次の週」とは言葉通りの一週間後である。

 必要な論文は見つかったことだし、今日はもう調べ物を中止してもよかろう…。

 こうした想像はこの日を日曜とする上の仮定よりも自然だ。

 そもそも「命ぜられた」は「命ぜられていた」とは違う。担任教師の指示とこの日の調べ物の間隔があることを示す後者に比べ、「命ぜられた」は、この日のことであるように感じられる。休み明けの最初の授業でか、教授に「命ぜられた」ことを実行するため、その日の放課後に図書館に来たと考えるのが自然だ。だとすればそれが日曜日のはずはない。月曜日なのだ。

 「勘定してみると」の考察に見られるとおり、表現の細部には、その表現が選ばれた必然性が表れる。漱石が各エピソードの起こった曜日を想定して書き進めているとするなら、この日は月曜日だと想定されていることが、これらの細部の表現の整合的な解釈であると考えるべきなのではないか。


 推論の根拠としてもう一つ、A組S君の興味深い解釈を紹介する。

 この場面、図書館から上野公園に場所を移すにあたって、人が多いところから、人のいない閑散とした空間の対比があるように思える、とS君は言う。それこそが、「私」とKが対峙する舞台設定としてふさわしいのだ、と。

 とすれば、図書館に学生が多いのは日曜よりも月曜であり、公園に人気がないのも日曜よりも月曜がしっくりいく。

 物語の舞台となる空間の象徴的な対比などというのは、きわめて鋭い分析だった。


 以上の推論からすると、40章の①「ある日」が月曜日、翌日43章の③「その日」が火曜日と見なすのが妥当だということになる。

 とすると、「いらいら」と「機会をねらっていた」のは「一週間」ではなく「六日間」ということになってしまう。「一週間」というのは①から④までの期間ではなく、③から④までの期間だからだ。

 これはかまわないか?


 かまわない。そもそも当時から何年もたって書かれた遺書に「六日後になって」などと正確な日数を書く方がむしろ不自然だ。「私」がここだけ正確な日数を覚えていると考える必然性もない。他の日程が「二、三日」「五、六日」といった曖昧さをもった表現なのだからこの「一週間」だけが正確に「七日」を指していると考えなければならないわけではない。

 といって他と同様の「六、七日」「七、八日」などという表現もかえって不自然だ。

 とりわけここでは、物語が大きく動くエピソードとして、週始めの①②③から、次の週の始めに置かれた④までの間隔を概ね「一週間」と表現したのだと考えるのは、まったく自然な想定だ。


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