上野公園で二人の間に交わされた会話が、「私」の認識とKの認識でどれほど違っているかを詳細に分析してきた。
ここまで考え、さて振り返って読み返したときに、次の一節はその意味を劇的に変える。
私はちょうど他流試合でもする人のようにKを注意して見ていたのです。私は、私の眼、私の心、私の身体、すべて私という名の付くものを五分の隙間もないように用意して、Kに向かったのです。罪のないKは穴だらけというよりむしろ明け放しと評するのが適当なくらいに無用心でした。私は彼自身の手から、彼の保管している要塞の地図を受け取って、彼の眼の前でゆっくりそれを眺める事ができたも同じでした。
このように念入りにKの「こころ」がわかっているということが強調されているこの一節は、以上のように考えたとき、その強調の絶対値のままに方向を完全に逆転して、「私」がどれほどKの「こころ」がわかっていないのかを示すアイロニーとなる。
教科書はこの「要塞の地図」について「私のどのような気持ちがうかがえるか」という脚問を付している。「気持ち」などと問うのがもう曖昧で、こういう国語教育の「あたりまえ」にがっかりしてしまうのだが、この問いの趣旨は、つまり比喩が比喩として機能する機制を問うているのだ。
比喩は、そこで結びつけられる両者に共通した性質があることによって成立する。「居直り強盗」然り。「要塞の地図」という比喩は、それがもつどのような性質が使われているか?
そうはいっても既に「要塞」と「地図」という二つの比喩が使われているから、この問いの主眼がどちらにあるのかもわかりにくい。ここでは「要塞」について考えよう。とすると?
授業では「守りが堅い」などという答えも出たが、Kがどうして「守りが堅い」ということになるのかわからん。
では?
こういうときには出題者の意図がわからなければ答えられないのだが、出題者の意図はそれほど明確ではないから、この問いには答えられなくともしかたがない。
出題者は、「私」はKを「敵」として見ていることが、この比喩からわかる「私」の「気持ち」なのだ、と言いたいのだ。
いや、比喩の意味はわかるとしても、そんな出題者の意図がわからん、って。
さてところで授業者はさらに問いたい。この「要塞の地図」とは何か?
これもまた問いの意図がわからない問いだということは充分に自覚している。誰かがたまたま同じことを考えていると良いなあ、と思いながら訊く。
そしてその意図通りのことを答えてくる生徒は必ずいる。
だがクラスにそういう発想をし、なおかつそれを表明してくれる生徒がいなければ誘導の手もある。
これはつまり「鏡」なのだ。
…と言うと、何のことかは、みんなほぼ一斉にわかったようだった。
「私」が「敵」だと思って戦っていたのは、実は鏡に映った自分だったのだ。「私」がKの「こころ」の地図だと思っているものは、実は「私」自身の「こころ」の地図なのだ。
「私」がKの心を読み損なう根本的な理由は、Kの心を推測するにあたって、自分の心を投影して、それをK自身の心だと錯覚してしまうことにある。
そしてそうした錯覚を、読者もまたすっかり信じてしまう。一人称の語り手が語る小説の記述を疑うことには、そもそも必然性がないのだから。
結局、二人の会話を最初から最後までたどってみても、二人がそのすれ違いに気付く契機は周到に回避されていることがわかる。二人はそれぞれ異なった一貫性によって会話を続けているのだ。
ミステリーではしばしば、一見して気付かれないようそれとなく投げ出された細部を手がかりに、探偵が、皆の思い込んでいるのとは別の、もう一つの真実の姿を再構成してみせる手際が鮮やかに披露される。
だが、「こころ」が実現しているのは、一人称小説の語り手が捉えているのとはまったく違った、語り手が意識し得ない事実を、当の語りの細部から浮かび上がらせるという離れ業だ。
ただしそれはミステリーのように、解かれるべき謎として読者の前に差し出されているわけではないし、探偵がそれを得意気に解いてみせるのでもない。微かな違和感をたどって細部を見直しているうちに、不意にそれまで見えていたのとは違う「もう一つの真実」が、読者の前に形をなすのだ。
これがあからさまな謎であったり、あからさまな真実であったら、そもそも語り手の「私」がそれに気付かないはずはない。
といって読者にわかるはずもない真実など、小説に存在する意義はない。
漱石は驚くべき微妙なバランスで、一人称の語り手が明確には理解することのない真実を、読者に伝えようとしているのだ。