2025年12月7日日曜日

羅生門 7 「極限状況」はあるか

 「極限状況に置かれた下人が老婆の論理を得る」ことで引剥ぎをした下人の行為を通して、「人が生きるために持たざるを得ないエゴイズム」を描いていると考える「羅生門」理解はネット記事をみても一般的だ。これはそもそもそのように考える文学者の研究論考が、学校教育を通じて一般化したものだ。つまり専門家も含めてみんなそう考えているのだ。

 こうした「羅生門」理解を「理解する」ことは、繰り返すが授業の目的ではない(そもそも「羅生門」自体を理解することすら授業の目的ではない)。そんなものは国語の学習としてはほとんど意味がない。

 それどころか、みんな気づいているとおり、これからこうした一般的な「羅生門」理解を否定するつもりなのだ。


 これまでたどってきたような「羅生門」の解釈に納得がいかないのは、端的に言って面白くないからだ。

 これは解釈が面白くないということではない。そのような主題が、小説の面白さとして想定されていると考えることができないということだ。

 このように理解される「羅生門」は浅はかで凡庸な小説だとしか思えない。このように書かれた小説が、そうした面白さを実現しているはずだと考える小説家がいるなどと思えない。

 こうした理解は小説を読んだ印象と乖離している。それはただ「羅生門」というテキストを、小説として読まず、理解のための理屈を立てているだけだ。

 授業を受ける生徒としてではなく、小説読者として考えよう。

 今までたどってきた「一般的な解釈」はどこがおかしいか?


 小説読者として違和感を覚えるのは、まず「行為の必然性」の根拠が「極限状況」だとする説明だ。

 この説明はどこがおかしいか?


 「極限状況」は、確かにテキスト中に書かれている。

 だがこれが読者に「極限状況」として感じられるはずはない。下人は物語中「腹が減った」の一言もない。動作は素早く、力強い。到底死にそうには見えない。

 つまり言葉の上では確かに「極限状況」ともいえるものは示されているが、下人に感情移入しながら読み進める読者が「極限状況」に置かれていると感じるような肉体的な感触は描かれてはいないのだ。

 小説を読むことは読者にとって一つの体験としてある。抽象的な問題設定が提示されて「思考実験をする」ことと、状況設定、描写、人物造型、様々な要素によってつくられた物語を生きる=「小説を読む」という体験は違う。

 そもそも授業者には昔から「飢え死にか盗人か」という問題設定が「問題」と感じられなかった。「生きるための悪は許されるか」などという「問題」は、随分と暢気なものだ。「極限状況」が本当ならば、そもそも迷う余地がない。だから素朴に言えば、この男は何を迷っているんだろう、と感じていた。

 小説読者が物語を受け取る上で、登場人物の不道徳な行為に対する抵抗のハードルは、現実よりもずっと低い。何せ虚構なのだ。そもそも小説は奇矯な世界を描くのだ。引剥ぎなど、「極限状況」という言い訳があればたやすく受け入れられる。そのような問題が「問題」となる倫理観など、小説読者は持ち合わせていない。だから「飢え死にか盗人か」という選択が問題になること自体がピンとこない。

 ここに「エゴイズム」という言葉をあてはめて主題を語るのも軽すぎる。「極限状況」であれば自分の命が優先されるのは当然であり、そのような根源的な生存欲求を、近代的個人が持つに至った「エゴイズム」などという自意識過剰な言葉で表わすのはまるでそぐわない。

 そもそも「エゴイズム」と「極限状況」を結びつけることに違和感がある。「エゴイズム」などという観念は近代的個人が持つに至った自意識過剰な自意識にすぎない。それは平和な日常においてこそ浮上する問題だ。本当に「極限状況」があるとしたら、そこでむきだしになるのは、もはやそのような言葉が追いつかないような生存欲求だろう。

 「羅生門」にそうした「極限状況」は描かれていない。


 「極限状況」も「エゴイズム」も、まるで内実を伴わない空疎な評語であるとしか感じられない。

 極限状況における悪は許されるか、人間存在のエゴイズムは肯定されるか、この小説の読者はそんな問いを生きはしない。ただ論者がそうした問題設定を観念的に弄んでいるだけだ。「小説の解釈」が「小説を読む」という体験から遊離している。

 だから「生きるために為す悪は許されるか」などという問いを掲げて、そこに「カルデアネスの舟板」を引用したり、法律概念である「緊急避難」などを持ち出したりするのは、なにやら深遠なテーマについて考えているようでいて、実際はこの小説を読むという体験とは何の関係もない(こういうことを言っている教師は世の中にいっぱいいる)。

 意識されてはいるものの確かな肉体的感触として下人に(そして読者に)生きられてはいない「極限状況」は、「行為の必然性」を支えてはいない。

 それはすなわち、作者が下人の「行為の必然性」を「極限状況」に拠るものとは考えていないことを示す。芥川のような巧みな書き手が本当にこうした問題を提起したいなら、そうした問題の前に読者を立たせるはずである。読者を「極限状況」に曝すはずである。下人の窮状を体感させるはずである。

 それをしていない以上、「極限状況」が「行為の必然性」を根拠づけるという説明は説得力をもたない。

 「老婆の論理」をめぐる議論で、Aを支持する者が多かったのは、たぶんそのためだと思う。


 そうはいっても「極限状況」はやはり書かれてはいる。実際に下人は「そうしなければ、飢え死にをする」と言っている。事実としての「状況」の存在そのものは否定できない。

 だが今問うている「なぜ引剥ぎをしたか」は、単に「何のために引剥ぎをしたか」ではなく「なぜできなかった引剥ぎができるようになったのか」という問いでもある。つまり行為の必要性だけではなく、変化の必然性をこそ問うている。

 だから、引剥ぎをしたのが「生きるため」だとしても、そうした「極限状況」が行為の必然性をもたらすという物語の論理を支えるためには、「極限状況」が物語の進行に従って次第に下人の身に迫って――どんどん腹が減って――こなければならない。

 そうした変化が描かれていない以上、「極限状況」は行為の必然性を支えてはいない。


羅生門 6「老婆の論理」を検討する

 ディベートは楽しかった。

 対立は盛り上がる。

 だがどのクラスでも1時間では決着がつかなかった。検討も十分とは言えない。

 だが重要な考察をするいとぐちにもなった。

 「老婆の論理」と引剥ぎの関係を見直すことを企図したこうした検討から明らかになることは、問題は、単に下人がAとBのどちらに動かされているか、ではないということだ。

 この議論を通して、何が明らかになるのか?


 これはあてのない問いだ。だが議論が自己目的化しないために、自分たちが考えていることの意味を俯瞰して捉えるのは望ましいことだ。

 問題はAかBのどちらが正解か、ではない。ABそれぞれを支持することがどのような意味をもっているかを自覚することだ。


 最初に述べたとおり、この議論は「老婆の論理」と引剥ぎという行為の関係を詳細に検討することを目的にしている。

 「ABのどちらが強く下人を動かしたか?」という問いに対して、A:Bの割合が3:7だとしたら、Bの方がより強い、と言うことはできる。

 だがA=3は、この時初めて下人にもたらされた認識なのだから、Aこそが下人を動かしたのたのだと言うこともできる。

 共通した認識から二つの結論が導かれている。


 ここから、実は最初の問い「なぜ引剥ぎをしたか?」には、少なくとも二つの層があることが明らかになる。

 「なぜ引剥ぎをしたか?」には「下人は何に動かされたか?」という問いと「何のために引剥ぎをしたか?」という問いが重なっているのである。後者は言わば「行為の必要性」、前者は「変化の必然性」を問うている。Aは前者に答え、Bは後者に答えている、とも言える。とすれば、問題を整理すればA支持とB支持は融合できるのかもしれない。

 もちろんそうではない、という立場もある。

 あらためて立場を三つほどに整理してみよう。

  1. 下人の心を動かしたのはAの論理であり、この行為は老婆の論理をなぞることで老婆を処罰する意味合いがある。
  2. 行為は「生きるため」だが、下人は老婆のAの論理によって動くことができるようになった。
  3. 行為は「生きるため」であり、Aの論理は下人に不快感を与えてはいるが強く動かしてはいない。あくまでBの論理によって動いている。

 下人の行為を123どれで捉えるかは、「羅生門」の捉え方、つまり主題に直結する。従来の「羅生門」理解は2と3を区別していない。引剥ぎはすなわち、これから生きるために盗人になることを意味する。

 だが1では、この時の老婆に対して行われる行為だというところに重点がある。「生きるため」ではない。

 元々A支持者だった者が支持する2でさえ、従来の「羅生門」理解とは違った理解を示しているはずだ。しかも12を支持する者の方がずっと多い。それは何を意味するかが問われなければならない。


 考えるべきことを抽象的な表現で言うなら、引剥ぎという行為の「意味」が問われている、ということになる。

 議論から見えてきた解釈の相違を選択肢として示すなら、例えば引剥ぎを実用的な行為と見なすか、象徴的な行為とみなすか、とでもいえる。3は「実用」、1は「象徴」だ。


 議論をすることはそれ自体、国語科授業としては意義のあることでもある。議論が盛り上がるのは楽しい。その盛り上がりを読解につながる考察に発展させられればなお意義深い。


2025年12月5日金曜日

羅生門 5 ディベート

 「羅生門」読解のための最大にして最低限の問題について考え、それを主題として表現した。つまりどんなことを言っている小説なのか、はわかった。

 ではこれからは細かい問題か発展的な問題について考察していくのか?

 そうではない。やろうとしているのはやはり最大にして最低限の読解、すなわち「羅生門」とはどんな小説なのかを考えることだ。

 つまり「一般的」解釈を再検討しようというのだ。


 端緒として「老婆の論理」の二つの要素を検討する。

 下人が引剥ぎをする直前の老婆の言葉は「悪の容認の論理」「自己正当化の論理」などと呼ばれる論理を語っているが、ここには二つの理屈が混ざって語られている。

A 相手もしたことなら許される。

B 生きるためなら許される。

 このうち、どちらがより強く下人を動かしているか?

 行為の必然性を支えるのはどちらか?


 一般的な解釈によればBこそ行為の必然性を支えていることになるはずだ。下人は「生きるため」にやらなければならないという状況で、それをやったのだ。

 だが支持者は、学年全体ではA:B=8:2くらいの割合だった。

 Aを支持する者が多いことは、「一般的」解釈が実は複雑な問題を看過したところに成り立っていることを示している。

 「老婆の論理」と行為の実行にはどのような関係があるか、慎重に考える必要がある。


 ここをとりあげるのは、この問題を考えるいとぐちになることが期待されるからでもあるが、意見が分かれるので議論が盛り上がって面白いからでもある。

 これを簡易ディベート形式で議論する。


 さてAを支持する根拠としてどのクラスでも挙げられたのは次の一節。

その時の、この男の心持ちから言えば、飢え死になどということは、ほとんど、考えることさえできないほど、意識の外に追い出されていた。

 これがなぜAを支持することになるのか?


 「飢え死に」を「考えることさえできない」というのだから、生死が問題ではないのだいうことになる…。

 だがそうか?


 「飢え死に」と選択になっているのは「盗人になる」であり、「飢え死にを考えない」は「盗人になることしか考えない」ということだ。

 これは単に心が決まったと言っているだけであり、別にどちらかの根拠になるわけではない。


 ではAを支持する根拠として何が挙がるか?

 原話『今昔物語』の盗人が老婆の抜いた死人の髪や死人の着物も一緒に持ち去るのに対して、小説「羅生門」の下人は老婆の着物だけを剥ぎ取る。引剥ぎが生きるための実用的な行為であるなら、なるべく多くの物を奪うはずだ。これは引剥ぎが「生きるため」ではないことを示している。

 また、老婆が髪を抜く死体の女の身元は、原話では老婆の主人だったと書かれている。これが小説では『今昔』の別の挿話からもってきた、蛇を魚と偽って売っていた女に差し替えられている。原話ではAの論理がそもそも成立しない。この設定の変更によってAの論理が生じているのだから、この差し替えは、Aの論理の重要性を示している。

  • 男が奪った物
  • 死体の女の身元

 これらはA支持と論理的に整合するが、だからAの方が重要であると直ちに根拠づけられるわけではない。その改変には別の意味があるとか、大した意味はないなどということも可能だからだ。

 そもそもA支持者はこれらの論理によってAが重要だと感じたわけではないはずだ。まずAが重要だと感じ、それを補強する論理を探して、右の二点が有効だと考えたはずだ。


 一方B支持者は次の下人の言葉を挙げることができる。

では、俺が引剥ぎをしようと恨むまいな。俺もそうしなければ、飢え死にをする体なのだ。

 言葉通りとればこれは「生きるためにするのだ」と言っているのだから、Bを支持する根拠になる。

 だがこれに対してA支持者は、そんなのは単なる口実に過ぎない、と返すこともできる。

 これでは水掛け論だ。

 だがそれよりも、実はこのセリフこそ、A支持者の「感じ」の根拠なのではないか?

 これを説明するのは難しい。だがこうした小説の微妙な表現のニュアンスを分析的に語ることこそ重要な国語力だ。

 下人はまず「では」と、老婆の言葉を受けていることを強調し、相手が「恨まない」はずであることを念押ししている。その上で「俺も」と、自分と老婆が同じ立場であることを、すなわち自分の行為が相手の論理に則っていることを殊更に主張している。つまりこのセリフは、下人が本当に生きるために引剥ぎをすることを述べているというより、老婆に自分の行為の正当性を認めさせようとしているところに重点があるように感ずるのだ。

 むしろこのセリフの印象こそA支持者がAだと感ずる大きな理由なのかもしれない。


 さらにA支持の根拠を挙げよう。

 必ず指摘すべき重要な論点は、下人が老婆の言葉を聞いた後「きっと、そうか」と念を押す声に付せられた「嘲るような」という形容だ。

 さらにこの場面から、注目すべき形容をあと二つか三つ指摘したい。

 まずは「かみつくように」と「手荒く」。「冷然と」が挙がってもいい。

 これらの形容は何を意味しているか?

 形容とは、ある記述に、ある傾向があることを示す。取り除いても意味は通ずる。形容の前後を詰めても文として読める。

 つまり形容がなくとも行為は表現できるが、形容によって、この場合は下人の心理状態が表現されるということだ。

 これらの形容は、作者が意図して付加しているのであり、その意味は必ず解釈されなければならない。

 解釈しよう。


 「冷然と」「嘲るように」からは、下人が老婆を見下していることが伺える。

 「嘲る・かみつく・手荒く」は、老婆に対する攻撃的な姿勢を示している。

 「生きるため」に引剥ぎをするのなら、これらの老婆に対する敵愾心が表現される理由はないはずだ。

 さらにこの中でも「嘲るような」はとりわけ的確な分析が求められる。「嘲るような」とは下人のどのような心理を表しているか?

 「老婆を見下している」「馬鹿にしている」は単なる言葉の言い換えにすぎないので不十分。なぜ「見下す」のかを説明しなければならない。

 ここでは、自己正当化の論理がそのまま自分に対する引剥ぎを容認する論理として跳ね返ってくることに気付かない老婆を嘲っているのだ、といった説明がほしい。

 お前、そういうこと言うなら自分がされてもいいよな?

 これこそAの論理の帰結だ。


 一方、Bの根拠を挙げるのは難しい。そのままBを言っている下人の言葉はむしろAを支持する根拠として解釈し直されてしまった。それ以外に挙がるのは次の箇所。

 この場面で「勇気が生まれてきた」と言われている「勇気」は、「門の下で欠けていた勇気」と説明される。

 これは物語のはじめの「『盗人になるよりほかに仕方がない』ということを積極的に肯定するだけの勇気」だ。つまり「生きるための悪」を肯定する勇気だ。Bによって肯定された「勇気」が下人を動かしたのだ。

 これは真っ当にBの論理を語っており、かつ下人の言葉ではなく語り手の言葉=地の文なので信頼できる。これに対するA側の反論はあるか?


 これに対する反論として切れ味鋭かったのはF組Tさんの言葉だった。

 「勇気」がBの勇気であることは認める。だが今問題にしているのは、何が下人を動かしたか、だ。その契機がAであると主張しているのだ。

 そもそもBは元々下人自身が自覚していたことであり、それでもできなかったのだから、この場面で下人を動かしたものは、門の下では下人になかった認識であるはずだ。それがAなのだ。

 この反論自体が、強力なA支持の根拠を示している。


 このやりとりは興味深い問題をはらんでいる。この議論の意味そのものが問われている。


2025年12月4日木曜日

羅生門 4 とりあえず解釈

 さて「下人はなぜ引剥ぎをしたか?」という問いに、現状で答えてみよう。

 謎だと言っているのに答えろとは矛盾した話だが、まあ現状で言えるだけ言ってみよう、と投げかけると、みんなあれこれ喋る。

 言えることがないわけではないのだ。全く支離滅裂な話ではない。それなりには引剥ぎにいたる条件や要因は言える。

 さてここでは、この条件・要因を二つに分けて言ってみよう。あるいは二つの要素を揃えて言おう。

 とりあえず「なぜ」と聞いているので、答えは「理由」だ。「~から。」で終わるように言う。

 そこに二つの要素を揃える。


 文型を指定する。

   において   を得たから。

 それぞれの空欄に当てはまる内容は?


 水色は言わば前提で桃色は言わば契機だ。

 こんなふうに言えば良い。

極限状況において老婆の論理を得たから。

 これはどのようなことを言っているのか?


 「極限状況」「老婆の論理」をそれぞれさらに二つの要素に分解しよう。

 三回の分解過程は、要するに分析的な思考をしようということなのだが、それによって考察を緻密にすることを企図している。

 難しくはない。答えを聞けばわかっていたことだと感じるようなことだ。

 とはいえ「極限状況」の方にどこのクラスも苦労した。抽象度を揃えて二つを並べるのが難しいのだ。「行き所がない」「腹が減った」「このままでは死んでしまう」はいずれも、それこそが「極限状況」なのであって、それを成立させる二つの条件ではない。

 さて、次の2点が揃えばOK。

  • 天災により都が荒廃していること。
  • 下人が主人に暇を出されていること。

 言わば社会的状況と個人的事情、二つが揃って「極限状況」を構成している。まず災害による人命の損失やそれにともなう人心の荒廃が語られる。仏具は打ち壊されて薪とされ、物語の舞台となる羅生門の上には引き取り手のない死体がごろごろと転がっている。そうした中で下人は失職して行くあてもない。それが「おれもそう(引剥ぎ)しなければ、飢え死にをする体なのだ」という、追い詰められた状況を招いている。


 では「老婆の論理」は?

 下人の引剥ぎの実行の直前、老婆が長々と語る理屈は「悪の容認の論理」「自己正当化の論理」などと言われるが、ここには二つの理屈が混ざっている。これを分ける。

A 相手もしたことなら許される。

B 生きるためなら許される。

 老婆は二つの理屈を混ぜてしゃべっている。


 さてこれで下人が引剥ぎをしたわけはわかった。

 だとすると、「羅生門」の主題はどのようなものだと考えられるか?

 「行為の理由」という具体レベルから、「小説の主題」という相対的に抽象度の高い問題に繋げるという抽象化の能力は、国語力にとどまらない重要な思考力の一つだ。

 どのように表現したら良いか?


 考えることは重要だが、これが一般的になんと言われているかをネットで調べることもできる。Yahoo!知恵袋やWikipediaで。あるいはAIに聞いてみてもいい。世の中には国語の先生のブログなどもあれこれある。

 いくつもの記事を読み比べてみると、共通した表現、頻出するワードがある。

人が生きるために持たざるを得ないエゴイズム

 「羅生門」は「エゴイズム」を描いた小説だ、というのが一般的な「羅生門」理解だ。

 「なぜ引剥ぎをしたか?」を「極限状況に置かれた下人が老婆の論理を得たから」だと考えることと、「羅生門」の主題を「生きるために持たざるを得ないエゴイズム」だと考えることにはどのような関係があるか? 

 生きるために悪いことをしなければならない状況に置かれた下人が、生きるためには悪いことをしてもいいのだという老婆の言葉を聞いて、それをしたのだ、人間にはそうした悪=エゴイズム(利己主義)があるということをこの小説は描いているのだ…。

 つまり下人の行為、引剥ぎが、エゴイズムの発露として理解されているのだ。


 このように、「極限状況」と「老婆の論理」は、二つ揃って行為の必然性を支え、それが「エゴイズム」という主題を具現化しているのだというのが、一般的な「羅生門」の捉え方だ。


 さてこれで「羅生門」はわかった。

 もしそうならば、「羅生門」の授業はもうおしまいだ。


 本当にそうか?


羅生門 3 行為の重要性

 ではなぜ、この行為=引剥ぎが「羅生門」を読むためには最も重要だと言えるか?


 どんな小説でも常に登場人物の特定の行為の必然性が物語の「主題」を支えるというわけではない。物語中にはとりたてて必然性に疑問のない大小様々な「行為」が描かれている。「羅生門」の下人は、雨止みを待ち、石段に腰掛け、老婆を取り押さえ、羅生門の梯子を上がったり下がったりする。その中には特別に理由を問う必要のないほど当然の行為も、理由の明示されている行為もある。その中で、「引剥ぎ」は特権的に重要な位置にある。


 下人の心が大きく変化した瞬間だから?

 だが「大きく変化」は他にもある。


 だが引剥ぎは悪への変化であり、これが主題につながるから?

 それは、重要だから重要だと言っているのだ。もちろん重要そうな見通しができることは重要であるという判断の根拠として自然であるとも言えるのだが、いや解釈をする前に重要であることは言えるのだ。

 確かにこの実行には、ある飛躍が感じられる。この行為は何を意味しているのか、そこに必然性を見出さないまま読み終えることができない謎が読者に提示されている。

 引剥ぎが重要だと見なせる理由はその飛躍の大きさとともに、単に物語の終わり近くの行為だから、でもある。

 だがだがそれだけではない。これこそが問題の焦点だと感じられるのは、この行為が冒頭近くの問題提起に対応しているからだ。

 その対応を示すのは、二つの箇所に共通する単語だ。

 何?


 「勇気」だ。

 「羅生門」では冒頭で行為に対する迷いが「勇気が出ない」と提示され、その行為が実行される場面で「勇気が生まれてきた」と語られる。

 つまり物語全体をこの問題と結論をつなぐ論理の中で把握するよう促されているのだ。

 この物語の構造は、明確にその論理を作者が読者に対して提示しているように見える。読者は下人が引剥ぎをすることの論理的必然性を理解しなければならない。


 「なぜ下人は引剥ぎをしたか?」という問いは「何が下人に引剥ぎをさせたか?」という問い、すなわち下人に引剥ぎをさせた物語的な力は何か、を問うている。

 それはつまり「羅生門」という物語における引剥ぎという行為の必然性が問われているということであり、すなわち行為の意味が問われているということだ。


羅生門 2 原話との比較

 「行為」に焦点を絞ることが適当であることを確認するために、この小説のもとになっている『今昔物語』の一編「羅城門登上層見死人盗人語」と読み比べよう。

 原話と、翻案された小説「羅生門」の相違点は何か?


 まず、原話の「羅城門」が小説では「羅生門」と表記されていることにすぐに気づく。

 これはしばしば、小説が生と死をテーマにしているからだ、というような説がまことしやかに語られることがある。だがこれは眉唾だと思う。羅城門が羅生門と表記されるようになったことは歴史的な事実であり、別に芥川の創作ではない。どちらの表記も存在したのだ。それをわざわざ「羅生門」という表記を選んだのだ、と考えることにそれほどの蓋然性があるか怪しい。

 次の2点は重要かもしれない。

 老婆に髪を抜かれている死人の女の素性が違う。原話では老婆の主人、小説では蛇を干し魚と偽って売っていた女だ。これは芥川が小説化にあたって『今昔物語』の別のエピソードを合成したものだ。このことによって主題に関わる相違が生じているか?

 また、原話では盗人は老婆の着物以外に死人の着物と老婆が抜いた髪の毛を奪って逃げる。だが小説では老婆の着物だけを奪う。このことは後の議論にどう影響するか?


 次の諸点に気づいた者は注意力がはたらいている。

  • 原話では羅城門の近くに人の往来があるが「羅生門」では人気はない。
  • 原話では「日のいまだ明」るい時刻だが「羅生門」では上層に上がる頃には暗くなっている。
  • 原話では雨が降っていないが「羅生門」では雨が降っている。

 これらの描写が小説版の、陰鬱な雰囲気を醸し出している。


 さて、最も重要な相違点として挙げられたのは各クラスで共通していた。

 原話との最も重要な相違点は、原話での男の引剥ぎが、最初からそうしようとしていたものとして「迷い」が描かれていない、という点である。原話の「盗人」が小説では「下人」と称されている。

 『今昔物語』の原話では「男はなぜ引剥ぎをしたか?」という問いが生まれようがない。「盗人」が老婆の着物を剥ぎ取るのは当然であり、行為に対する迷いもない。彼は当然のように行為する。だからそもそもそこに「主題」の感触を見出すこともできない。

 ではこの原話は何を伝えたい話なのか?


 この挿話の主題は、盗人の「行為」にあるのではなく、羅城門の上層には死体がいっぱいあった、という「状況」そのものを読者に伝えることにある。老婆と男の「行為」も、その「状況」の一部だ。

 一方「羅生門」では「状況」を背景にして、引剥ぎという「行為」の意味が前面に現れている。

 「行為」は当然「動機」や「情動」によって意味づけられる。つまり下人の「内面」「心理」を考えないわけにはいかない。

 そこにこそこの小説の主題を捉えるいとぐちがありそうだ。


 下人が最後に実行する「引剥ぎ」は、確かによくわからない。なぜ彼はそれをすることにしたのか?

 だがこの問いは自覚的な思考によって選ばれているわけではなく、一読した読者には自然に思い浮かんでいる、といった体の疑問でもある。

 それを自覚的に問いとして立てる。下人はなぜ引剥ぎをしたのか? すなわち引剥ぎという行為の物語的な必然性、あるいは意味を問う。



羅生門 1 問いを立てる

  これから数時間「羅生門」を読む。


 「羅生門」は特異な作品だ。

 発表されてから100年以上経った今、間違いなく、最も多くの日本人が読んだことのある小説なのだ。

 それは人気作だということではない。「鬼滅の刃」が、「進撃の巨人」「ONE PIECE」「名探偵コナン」がいかに多くの読者を得ているとしても、読んだことのない日本人も多い。

 だが「羅生門」を読んだことのある日本人は、16歳から70台くらいまでの日本人の8割くらいにはなるはずだ。みんなのお父さんお母さんも、日本の高校を出ていれば間違いなく読んでいる。こんな小説は他にはない。

 それは「羅生門」が全ての出版社の国語教科書に収録されていて、授業で扱われないこともほとんどないからだ。高校の進学率が長らく9割の後半であり、それら日本の高校生を経験した大人のほとんどが「羅生門」を読んでいることになる。

 いわば「羅生門」は日本人の基礎教養、共通常識なのだ。

 みんなも今回晴れてその大多数の日本人の仲間入りをしたことになる。

 日本人の基礎教養「羅生門」とはどんな小説か?


 読解のために、まず問いを立てよう。

 問いを明確にすることの重要性については言を俟たない。何を考えるべきかを自覚することで思考は集中力を増す。

 「この文章は何を言っているか?」という問いは、常に有益な問いだ。授業でわざわざそう問われなくとも、常に自分で考えなければならない。

 小説の場合、これを「この小説の主題は何か?」などという言い方で表わすのだが、つまりは「何を言っているか」だ。

 「羅生門」が何を言っている小説かは、一読してただちにわかるものではない。わからないから授業で扱うのだ、とも言える。


 だが、このレベルの抽象度の問いに、最初から立ち向かうのは得策ではない。

 まずはもっと具体的なレベルの問いから始めよう。

 といって瑣末な問いではない。「羅生門」を読み解くために最低限であり、かつ最優先されるべき、最重要の問いだ。

 「羅生門」がひとまず「わかった」と思うためには、何がわかればいいのか? 「羅生門」を一読した今、最も大きな謎は何だと感じられているか? 


 主題の考察には抽象化が必要だが、まずここでは具体的な謎を取り上げよう。

 事前課題の回答を見ると、やはりまだ抽象度が高かったり、細部に拘ったりする問いも挙がっていた。

 「下人はどこに行ったか?」を挙げた者は各クラスにいるが、これは最優先に答えを得るべき問題ではない。答えがありそうだという見込みもない。

 「悪は許されるか?」のように抽象的な問いでは考えるべき焦点が曖昧になる。これは「主題」に踏み込みすぎていて、考えるべき行程が多過ぎる。また「Yes-No」で答えられる問いはあまり有益ではない。どちらかの結論が重要なのではなく、その結論を導く論理が重要だからだ。


 「羅生門」における最優先最大公約数的問いは明白だ。

なぜ下人は引剥ぎをしたか?

 物語の終わりに、下人は老婆に対して引剥ぎをはたらく。この行為の意味こそが、「羅生門」という小説の焦点だ。

 6割くらいの回答者はこれを挙げた。

 ただし表現はいくつものバリエーションがあった。例えば「なぜ悪を選んだのか?」「なぜ盗人になることを選んだのか?」などという表現をした者も多かったが、これは避けたい。

 「引剥ぎをする」と「盗人になる」は厳密に同一ではない。「盗人になる」には既に解釈が含まれている。下人が最後に行った引剥ぎが「盗人になる」ことを意味すると見なすことには留保がいる。

 さしあたっての共通認識として、小説内事実として争いのない引剥ぎという「行為」を問いとして立てておこう。


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