2025年9月24日水曜日

なぜ成績評価をするのか

  前期末でいったん成績評価をする。その具体的方法や基準については授業で説明するとして、その前提となる原理的な考え方について述べておく。

 成績評価とは何のためにするのか?

 一般的なイメージとしては、成績評価は、その学習成果(達成度や能力)を示す指標であり、それに対する公的な保証、といったところだ。

 試験を合格したことで得られる免許や資格もそうだ。ここでは成績評価は、どこかで線引きされて合否で二分される。

 入学試験なども同様に、得点は満点から0点までグラデーション状にバラつくが、合否はどこかで線引きして二分される。合格した者は、その能力が公的に保証されたのだ。運転免許は運転しても良いとその能力が保証されたのだ。

 普段の学校の学習活動に対する成績評価にもこれと同じ機能もある。いわゆる推薦入試などでは、高校側が算出した成績評価が大学によって合否の判断に一部、使用される。

 だがそうした機能は、成績評価に期待される役割の一部でしかない。

 問題は、成績評価が誰のためにあるのか、だ。上の機能は、合否を判断したい側のために成績評価が利用される、という側面を語っている。

 では評価される側にとって成績評価は何のためにあるのか。また、学校での学習活動の場合、評価する側である教師にとって成績評価は何のためにあるのか。

 例えば企業が製品を販売する場合、「成績」とは売り上げのことだ。売り上げが好調なら製品の開発や販売がうまくいっているということだ。だが売り上げが不調なら開発や生産や販売について見直さなければならない。

 この場合、売り上げとは、企業の活動にとってモニターの役割を果たしている。

 同様に、成績評価の機能とは、学習成果の評価を学習活動にフィードバックすることで、学習活動を修正することにある。良い評価がされた学習活動は強化される。低評価の学習活動は見直される。学習評価はそうした反省のためのモニターだ。

 学習と評価は互いにフィードバックするサイクルを成している。

 この場合、成績評価は、学習する生徒のためにある。学習活動が適切であるかどうかを確認するモニターの役割。


 新課程における成績評価は、文科省の定めた学習指導要領に基づいて、次の三つの観点をそれぞれA~Cの3段階で評価することになっている。

  1. 「知識・技能」
  2. 「思考力・判断力・表現力等」
  3. 「主体的に学習に取り組む態度」

 三つの観点は、学習にはそれぞれの側面がいずれもおろそかにされることなく重視されるべきであるという認識を、学習者と支援者(生徒と教師)が共有しようという理念をあらわしている。生徒は評価によって自らの学習態度を見直す。教師は三つの観点がそれぞれ必要な要素であることを自覚しながら授業を計画したり課題を設定したりして生徒の学習を誘導する。

 この機能は、教師がそれぞれの観点で生徒を評価することによっても働くかもしれないが、実際にそれぞれの学習成果において、1・2・3がどのように相互作用しているかを教師が判断することはできない。

 例えば「主体的に学習に取り組む態度」を評価することはどうすれば可能か?

 しばしば生徒の挙手の回数を数えるというような方法が、揶揄されるために例としてあげられる。それは滑稽で非現実的だ。そんなことを実際に行うのは甚だしく手間がかかる上に教育的でもない。それが馬鹿馬鹿しいことは誰もがわかっているのに、ではどんな方法が現実的に可能で妥当かは誰からも納得できるようには提案されない。せいぜい提出物や出欠席の数をもとに評価するくらいだ。それらは挙手の回数と違って算出可能だが、同じくらいに馬鹿馬鹿しい。例えば提出された論文の評価などはどうみても2「思考力…」によって評価されるべきだ。提出したかしないかを3「主体的に…」として評価し、内容を2で評価する? 可能だが不必要な二度手間だ。

 「主体的に学習に取り組む態度」などというものは、明らかに個人間でその強弱や濃淡、存否の差違があるにもかかわらず、同時に明らかに内面的なものであって、外側から適切に評価することは絶望的に不可能だ。「態度」だから、その表れを評価することはできるはずだという建前があるからといって挙手とか提出物とか出席率とかで評価するのは空しいアピール合戦になってしまうことは明らかだ。そんなもので「主体性」を測られたいか? 測るのが適切だなどと思っている人はどこにもいない。にもかかわらず、それをやることになっている。公式には。

 また例えば1・2は、これもまたそれぞれに学習の別の側面であるにもかかわらず、外側に表れている結果(例えばテストでの得点や小論文の出来や発言の適切さ)ではそれらが混ざった形で作用している。これを切り分けることの合理的な方法はない(例えばこの小問は「知識」で、こちらは「思考力」だ、などと振り分けることは粗雑で不合理だ)。そしてそこに3「主体的態度」が重なっている。高得点は1・2の能力が発揮されたからでもあるが、主体的に学習に取り組んだ成果でもある。テストの点数を1・2・3に分けることは原理的には不可能で、実際に設問によってそれを振り分けたりすることには、どうしたって現実的でない不合理が生ずるのだ。

 したがって成果は、1・2・3が複合的に働いているものと見なして、その評価は総合的にするしかない。


 三観点を分けて教師が適切に評価することは不可能だが、一方、生徒自身はそれを自覚できる。知識があるから漢字の問題を正解できたのか、努力して正解できたのかは自分でわかる。知っているからできたのか、考えて正解に辿り着いたのか、あるいはまた自分が主体的であるかどうかは、自分にはわかる。

 「学習へのフィードバック」という評価の目的は、本人にそれができるならば、機能はしている。

 教師は、三観点に分けた評価に手間をかけるよりも、三つの側面を意識した授業や学習課題を企画することに注力すべきである。例えば一問一答式に瑣末な知識を問うような問題ばかりのテストで成績を評価するのは1に偏りすぎている。一方的な知識の伝達に過ぎない授業は2・3の観点が欠落しているし、わいわい賑やかだが必要な知識の伝達されない授業も見直されるべきだ。

 三観点評価への移行には、そうした反省が期待されている。


 実際にこの学習評価とフィードバックが最も有効に働いているのは授業中だ。

 授業ではグループでの話し合いと、そこでの考察をクラス全体で検討する活動が繰り返される。話し合いに参加する姿勢や発表の意欲は3の観点から評価される。生徒同士は常にそれを評価し合っているし、当然自己評価もしている。あいつは積極的に発言しているなあとクラスメイトを評価し、自分が評価されていることを明確に感じ取っている。

 授業者も内心評価しているのだが、全員に対する公平な評価はできない。

 そこでの発言は、ある時には「よく知っているな!」(1「知識」)、あるいは「ああ、なるほど、そうか!」(2「思考力・表現力」)などと、自分の発言に対する相手の反応で、常に評価され、フィードバックしている。

 いずれはこれらの評価が何らかのテクノロジーによって自動的に数値化される未来もあるだろうが、少なくとも現状でもこうした評価は常時、歴然と行われている。

 したがって、学習と評価のサイクルは充分効果的に機能している。

 例えば教師がひたすら講義していて、生徒はひたすら板書をノートに書き写している、というような授業ではこうしたフィードバックは起こらない。

 三観点評価はそうした昔ながらの一斉講義式授業の改革を企図しているのだ。


2025年9月9日火曜日

小景異情 2

 語り手はどこにいるか?

 詩中で場所を表す4つの言葉のうち「みやこ」を挙げた者はごく少数だが、これはもっともなことだ。「みやこ」にいながら「遠きみやこに帰らばや」をどう解釈するのか、授業では聞きそびれた。どう解釈するのだろう。

 次に少ないのは「異土」を支持する人だ。この可能性を検討してみよう。

 そもそも「異土」って何だ?

 「異土」は少なくとも「ふるさと」ではない。どこかを「異土」と表現するアイデンティティは「ふるさと」を起点としていると考えるのが自然だ。「ふるさと」からみた「どこかよその土地」なのだ。それに「異土」に「故郷」を代入して、「故郷で乞食になったとしても故郷には帰るまい」というのは意味がとれない。

 それに対し「都(みやこ)」は「ふるさと」と対義だから、「異土」と同一である可能性がある。「ふるさとは、都(=異土)で乞食になったとしても帰るところではない」なら意味がとれる。

 「異土」は「都」なのか? そうだとすれば「異土」支持者は「都」支持者でもあるのかもしれないが、「都」ではない別の「異土」にいると主張する人はどのくらいいたのだろう。

 授業中に訊いてみた感触ではほとんどいないらしいのだが、あえて問う。

 地方出身者が一度「みやこ」に出て、そこで「うらぶれて」、「みやこ」落ちして彷徨って「異土」で「乞食」をしている時に詠んだ詩とは考えられないか?

 「ふるさと」には帰りたいが、やはり帰るべきではないと考え、もう一度「みやこ」に戻ろうと決意する…。

 状況的にはありうるのでは?


 問いかけに対する反論はこうだ。「よしや(=もしも)」は仮定なのだから、異土にはいないのだ。

 まあもっともな反論だが、さらに反駁としてこういう可能性を提示しよう。

 「よしや」は「異土にいる」ことではなく、「乞食になる」ことを仮定しているのである。「みやこ」で食い詰めて、仕事を探して「異土」にさまよう。わずかな金も底をつきかけている。このままでは「乞食」にでもなるしかない。だが、「もしも」そうなったとしても「ふるさと」には帰るべきではないと考え、ふたたび「みやこ」に帰ろうとしている。ということで、現状は「異土」にいるのだ。

 この解釈は可能であり、否定する根拠を挙げるのは難しいはずだ。


 4つの言葉の関係について、どれとどれが同じなのか別なのかがわかりにくいのだが、これは、どこにいるか、という解釈と結びついていて、場所の同一性だけを議論することはできない。全体の解釈において検討する必要がある。

 イメージしやすくするために、具体的な地名をあててみよう。

 「都」は東京とする。

 「ふるさと」という語は、住む場所の移動があった場合にしか使わない。生まれた地にずっと住み続けるならば「ふるさと」はない。したがって語り手は一定期間「ふるさと」を離れている。地方出身者が上京しているならば、「ふるさと」は東京から遠ければどこでもいい。千葉や埼玉や神奈川は「ふるさとは遠きにありて」のイメージとそぐわない。ここでは仮に室生犀星の出身の石川県にしておく。

 「異土」は「ふるさと」でも「都」でもないどこかと考えるなら、仮に滋賀県あたりをイメージしておこう。だが「都」と同じならば東京を指すことになる。

 だが東京出身者が地方に移り住む場合もありうる。この場合「ひとり都のゆふぐれに/ふるさとおもひ涙ぐむ」の「ふるさと」が東京なのだから、「都」が東京以外の地方都市ということになる。上記にしたがって石川県として、金沢あたりをイメージしよう。「都=金沢」「みやこ=東京=ふるさと」ということになる。

 「異土」は「都」とは別の滋賀県か、「都」と同じ金沢か。

 さて「みやこ」は?

 東京出身者の場合は東京が「みやこ」であるとともに「ふるさと」だ。ということで「都」はそれとは別の場所、金沢を指している。地方出身者の場合は「みやこ」が金沢で「都」が東京であるか、「みやこ」=「都」で金沢か。

 組み合わせを整理しよう。6通り、3択か2択か。

  1. ふるさと=みやこ(石川)+異土(滋賀)+都(東京)
  2. ふるさと=みやこ(石川)+異土=都(東京) …2択
  3. ふるさと(石川)+異土(滋賀)+都=みやこ(東京)
  4. ふるさと(石川)+異土=都=みやこ(東京) …2択
  5. ふるさと=みやこ(東京)+都(石川)+異土(滋賀)
  6. ふるさと=みやこ(東京)+都=異土(石川) …2択

 これらはそれぞれ一体どのような解釈を示しているのか?


 いや、めんどくさいことになった。こんなふうに考えることが必要なのか?

 多数派は1か2だ。「みやこ」と「都」は別だと考える。なぜか?

 1行目「ふるさとは遠きにありて思ふもの」から、語り手は「ふるさと」から遠いところにいる。後半で「ひとり都のゆふぐれに…」とあるから、地方から出て東京にいるのだな、と解釈する。

 そして「遠きみやこにかえらばや」=帰りたいのだから、「ふるさと」(石川)=「遠きみやこ」(金沢)なのだ。「都」と「みやこ」は分裂する。

 この場合「異土」は東京であってもいいし、滋賀あたりであってもいい。「よしや」という仮定はむしろ場所を特定しないとも言える。

 一方3、4の支持者はこう解釈する。

 「みやこ」と「都」はどちらも東京を指している。「みやこに帰りたい」と言うからには、語り手は「みやこ」にいないということになる。ならば石川か滋賀か。上記の通り「異土」説は支持者が少ないようなので、今現在「ふるさと」=石川=金沢にいて、東京に帰りたいと言っている。

 さて5、6。

 上記の通り、語り手は「みやこ」にいない。「ふるさと」が東京なのだから、今は石川(都)か滋賀(異土)にいる。そこから東京に帰りたいと言っている。

 以上の解釈を比較する。普通はみんなそれぞれただ一つの解釈を思いついて、別の可能性を考えるわけではない。だがこうして授業の場には別の解釈をした人が居合わせる。両者が相対して、それぞれの解釈を認めつつその妥当性について検討すべきなのだ。「正解」を教えられることは何の学習でもない。

 では結局どう考えたらいいのか?


 さて、「異土」にいる説を殊更に主張したいわけではない。だが否定するなら否定する根拠を出さねばならない。上記の通り、「ふるさと」でも「都」でもない「異土」に、現在語り手がいるという想定はできないわけではないはずだ。

 だがこれは、いたずらに複雑な解釈を読者に期待しすぎている。

 それにこれでは「遠きみやこ」の「遠い」という形容がなぜ必要なのかがわからない。石川出身者が東京に出てきたが、うらぶれて東北あたりに流れて、「乞食」になりそうだということならば、東京は「遠い」?

 これも、そんな特殊な状況を前提しなければならない解釈は妥当性が低いと見なすべきなのだ。

 たとえば「異土の乞食になるとても」が「この異土の」とか「このまま異土の」「こうして異土の」だったらもう異土にいることが確定される。そうでなくても異土にいることが否定されるわけではないが、やはり「異土」説は、わざわざ主張するほどの妥当性があると考える必要はない。


 東京出身者説にも無理がある。東京という「ふるさと」から離れていながら「ふるさとおもひ涙ぐむ」ためには、東京ではない「都」にいなくてはならない。唐突に現れるそんな「都」を想定しなければならないのは不自然だ。


 残りは大きく言って二つ。

 「都」にいて「ふるさと=みやこ」に帰りたいと言っている。

 「ふるさと」にいて「みやこ=都」に帰りたいと言っている。

 多数派は前者だが、妥当性は後者の方が高い。

 語り手は今「ふるさと」にいる。授業における授業者の見解を「正解」というのなら、正解は後者だ。前者の方が多数派であるにもかかわらず。

 なぜか? どう考えたらいいのか?


 そもそも「遠きみやこ」と「ふるさと」は同じものを指しているのだとか、「みやこ」と「都」は別のものを指しているのだといった特殊な解釈を読者がすることを前提として作者が言葉を選んでいるのだと考えるのに無理がある。

 そんな無茶な設定を前提しなければ整合的に解釈できないような解釈は、妥当性が低いとみなすべきなのだ。

 だが、と反駁がある。ではなぜ「都」と「みやこ」は漢字と平仮名で書き分けられているのか?

 だが、それを言うなら「思う」「帰る」も、詩の中に漢字の箇所と平仮名の箇所がある。「うたふ」「ひとり」「ゆふぐれ」「こころ」なども、漢字でも書いてもいいだろうが平仮名で書かれている。それに対して「遠き」「悲しく」「涙」がなぜ漢字なのか。必然性はあるのか。

 結局、「都」と「みやこ」を区別する特段の理由など見つからない。「みやこ」と「都」は、概念レベルとして違う意味合いを持たせているという解釈ならいいが、違う対象を指しているなどという使い分けの意図があるとみなすことはできない。

 区別すべきだという主張は論理が転倒している。まず「都」=東京にいるという解釈が先になされ、それを合理化するために「みやこ」が「都」ではないと考えたのだ。

 だがその解釈には無理がある。とりわけ、上記の解釈では「遠いふるさと=みやこに帰りたい」と「ふるさとは…帰るところではない」の矛盾をどう解釈するかがわからない。

 この不整合を曖昧に看過することで、この解釈は成立している。


 それより「みやこ=都」に上京した地方出身者が、一時的に「ふるさと」に帰ったときに詠ったものだと考えるのが整合的だ。

 東京に出た地方出身者が夢破れて故郷に戻る。「うらぶれて」も、「異土」に流れていく仮定における形容だが、ここでの語り手の状況をもイメージさせるものと考えて良いはずだ。盆暮れの気楽な帰省くらいではこの詩の絶唱には釣り合わない。

 最初の5行で述べられるのは「ふるさとが懐かしい」などと軽々しく言える思いではない。「ふるさとは遠くで懐かしむべきものであって、決して帰ってはならない」と言っているのだ。どこかよその土地で乞食になったとしても、とまで言っている。

 「ひとり都のゆふぐれに/ふるさとおもひ涙ぐむ」はそのまま読むと単に「都」にいる現在の状況を表現しているように読めるが、続く詩行を読めば、「そのこころ」の内容を言っているのだとわかる。そのような心を持って「ふるさとに帰ろう」と言っているわけではなく「都に帰ろう」と言っているのだ。


 こうしてまずは整合的な状況設定を読み取って、ではどういう「思い」を詠っているのか、と考える。

 さてでは、ここで述べられているのはどのような思いか?


 かつてのある生徒は、「ふるさと」に対する甘えを封印して、もう一度「みやこ」でがんばろうという決意を詠った詩だという解釈を語った。「みやこ」でがんばりながらなら、いくらでも「ふるさと」を懐かしんでいいが、実際に帰ってはだめだ、と自らを戒めている詩なのだ。随分前向きな決意だ。

 これも、状況に整合的な解釈のひとつだ。

 また最初の段階でE組M君の挙げた、この詩の情感が「嫌悪」だというのも、ここまでくれば何のことかわかる。そしてそれは「郷愁」と矛盾するわけではない。

 ここには故郷に対する愛憎半ばする複雑な思いがある。

 故郷は、遠くにいれば懐かしいのに、帰ってしまうとそこに嫌悪を抱く。

 帰ってみると、美しいふるさとの風景が、開発によってすっかり様変わりしてしまっていたのかもしれない。あるいは懐かしかったはずの故郷では、家族親戚の冷たい(あるいはなま温かい)視線に居心地悪い思いを抱く。そういえばかつて故郷にいた頃には窮屈な村の慣習に嫌気が差していたことなど思い出す。

 「小景異情」とはそういう感情を表している。目の前のありふれた風景に違和感を感じているというのだ。

 それなのに都会に出てみるとそんなことを忘れて、うっかり故郷を懐かしがってしまったりする。

 だがこの情感は「郷愁」を否定するものではない。「嫌悪」と「郷愁」は同居する。帰らずに都から思う故郷は美しく懐かしい。

 ここにあるのは普遍的な「幻滅」の感覚だと思う。幻は幻のままにしておいた方が良い。ふるさとは遠くで懐かしんでいるときこそが美しいのだ…。


 「ふるさとは遠きありて思ふもの」と語る語り手が「みやこ」にいるものとして読むのと「ふるさと」にいるものとして読むのとでは、意味する情感がまるで違う。「みやこ」に出てきた地方出身者が語っているのなら、単にふるさとを懐かしむ心情を述べているのだと読めるが、現に「ふるさと」に居る語り手が語るとしたら、それは苦い悔恨をともなった望郷だ。

 テキストの読解とはこのように、テキスト内の情報を整合的に組み合わせることによってできあがる全体像=ゲシュタルトを捉えようとする思考である。


小景異情 1

 4回にわたって詩を読解する。

 やることは評論だろうが小説だろうが同じことだ。まずはテキストから読み取れる情報を整合的に組み合わせて「読解」する。評論と小説と詩を読むためには、それぞれいくらか違う作法が必要だが、違った評論には違った作法が求められるように、評論を読むことと小説を読むことと詩を読むことには相対的な差しかない。

 そもそも中原中也「一つのメルヘン」と小池昌代「あいだ」を同一の作法で読める気がしない。

 「一つのメルヘン」は何となく「メルヘン」チックな雰囲気を味わえば良い詩のような気がする。いや、考えていけば何らかの読解が可能なのかもしれないが、そこに何らかの「意味」が読み取れることに確かな期待はできないから、何となくそれらしい幻想的な雰囲気を味わって、好きな人は好きだと言っていればいいんだろうと思う。

 それに比べて「あいだ」は、何となくで読んで良いも悪いもない。何を言っているかを明確に読み取ってからでなければ、好きも嫌いもないように感じる。そして、何を言っているかがにわかにはわからない。

 だから「あいだ」は考察に価するのだが、こちらに充分な確信と見通しがないので今回は扱わない。


 で、まずは室生犀星「小景異情」を1時間限定で読む。

 「小景異情」は百年以上にわたって日本人に愛唱されてきた詩でありながら、必ずしもその情感が正確に理解されているとは言い難い詩だ。それは、冒頭の一節だけが独立して引用されてしまうせいでもある。

ふるさとは遠きにありて思ふもの

そして悲しくうたふもの

 とりわけ一行目だけが口ずさまれることも多い。

 だがそれはどのような意味で人々に受け取られているのか?


 事前に考えておいてもらったのは2点。一つは次の問い。

この詩はどのような思いを詠っているか?

 先回りして言うと、この問いに、上の一行目のみをもって答えるのと、詩全体の読解をもって答えることがどれほど違っているかを示し、もって「読解」というものを実感してほしい、というのがこの詩を最初にとりあげる狙いだ。

 「どのような思い」というのは「ふるさとを思って涙ぐむ気持ち」「遠い都に帰りたいという気持ち」などと答えるだけでは不十分。

 こういう時は、何らかの抽象化した表現を求めているのだ。

 課題では、一単語で、と指定した。どんな言葉?


 最初の方で授業が回ってきたクラスでは2列くらい回して訊いてみたのだが、大体出揃った気がするので、後のクラスではこちらから提示した。

 一つは「郷愁・望郷」系統。これは、この詩のもつ情感として世の大方の人の納得するところだろう。

 もう一つは「悲哀」系統。こちらはさらに「何がどう悲しいのか」が問われると思ってほしい。

 ほとんどの人がこの2系統のどちらかで、明らかにそれ以外の情感を提示したいという人は、今の時点で挙げておいて、と言ったところ、E組M君が名乗り出て、次の語を挙げた。

嫌悪

 ? これは一体何のことか?


 さてもう1点、この詩の読解において決定的な糸口になるのは次の問いだ。

語り手はどこにいるか?

 「語り手」は「作者」とは違う概念だ。室生犀星本人は遙か昔に死んだ人であり、もうどこにもいないし、この詩を書いた時点でどこにいたかもどうでもいい。

 そうではなく、この詩に潜在的な一人称を想定し、その「語り手」のいる場所を考えようというのだ。

 「場所」の選択肢は文中から選ぶ。文中から、場所を表す言葉を順に挙げる。

  • ふるさと
  • 異土
  • 都
  • みやこ

 訊いてみると、4つそれぞれを支持する者がクラス内にいる。

 事前に課題としてこの問いに答えてもらっているが、それぞれを挙げた人数は以下のとおり。

  • 都 162
  • 異土 41
  • ふるさと 48
  • みやこ 7

 これ以外にはあれこれ形容のついた表現になってはいるが、結局は「都」を指している回答があり、実際の「都」支持者はもうちょっと多い。

 ともあれ意見は分かれている。これは議論しがいがある。


 だがこれらのうちのどれかとどれかは同じものを指しているという解釈も可能かもしれない。だとすれば、これは3択か、あるいは2択かもしれない。

 そもそもなぜ漢字の「都」と平仮名の「みやこ」が選択肢になっているのか。だがこれらが別の対象を指していると主張する人は多い(というより実はクラスの大半の者が主張している)。

 どれとどれが同じなのか違うのか。

 場所を意味する語とそれが指す対象は、この詩においては自明ではない。さらにそこに、語り手がどこにいるかという問題が絡んで、この詩の読解を困難にしている。これほど人口に膾炙した詩であるにもかかわらず。そしてわずかこれだけのテキスト情報しかないというのに。いやむしろ情報量が少ないから場所の確定が難しいのかもしれない。


 「語り手」とは時として一人称で文中に登場していることもあるが、明示的には表われていなくとも、潜在的にはその言葉を語っている者として、どこかにはいる。

 とはいえ例えばこのブログのような文章では、語り手の「場所」などそもそも問題にはならない。特定する必要もない。「空間」をもたないような内容ならば、語り手は抽象的な存在であって、「場所」はそれほど重要ではない。

 だが、フィクションの享受においては、語り手のいる場所が、解釈に決定的な影響を及ぼす場合がある。いや、論説でも、空間的な意味での「場所」ではなく、比喩的な意味での「立場」というなら大問題だ。どういう立場の人が言っているかで、その見解・意見・主張は全然違って見えるはずだし、見なければならない。

 テクストの意味は、位置づける文脈によって変わる。このことを、今回の読解では「語り手のいる場所」という問題を通じて実感してもらう(そして来年読む予定の「永訣の朝」でもこの問題が読解の糸口になる)。


2025年7月9日水曜日

共に生きる 15 空虚な〈私〉時代2

  身近な人々の間で展開される承認ゲームはなぜ「空しい」か?

 この問いは「なぜ空しくなったか?」という問いではない。それは「共通前提」からの論理展開で示される。

 そうではなく、そのような事態をなぜ筆者は「空虚」と表現するのか? を問うている。

 題名にあるというのに、なぜ「空虚」なのかは判然としない。端的に書いてある箇所はない。全体の論理から、筆者の言う「空虚」さを読み取らなければならない。

 そしてそれを端的に表現する。「~から。」で終わるように。

 そうして発表を聞くと、その表現は、大きく言って2種類に分かれるのだった。

  1. 身近な人々の承認を得るために演じている「自分」は本意ではないから。
  2. 身近な人々の承認を得るために合わせている「価値」は、社会全体に共有されたものではないから。

 各クラスで聞いてみると、多くは1、たまに2が挙がる。

 この二つの理由はどう違うのか?


 だがそもそも上の1,2を「違う」と意識できるか、すべきかもさだかではない。

 図式化して違いを示そう。

 「身近な人々」は「小集団」とも言い換えられている。

 「小集団」は何と対比されるか?

 三層の対比になると言えば皆すぐに以下の対比構造を想起できる。

個人/小集団/社会

 問題は、これらの対比の間のズレ・食い違い・乖離・齟齬から生じている。とすると、それは「個人/小集団」「小集団/社会」どちらの対比の間で生じているか?

 つまり1は「個人/小集団」の間のズレから問題が生じていると言っていて、2は「小集団/社会」のズレが問題だと言っているのだ。

 さてどっちなのだろう。本文の論旨によると。


 一方「〈私〉時代のデモクラシー」の「難しさ」はどこから生じているか?

 これはいわば次の間のズレからだと言える。

〈私〉/〈私たち〉

 この「問題」は、上の1,2,どちらの「問題」と重ねられるか?


 小論文では、具体例を挙げて、その問題の「難しさ」を説明することが条件だった。

 例えば「米不足問題」では、生産者、消費者、流通業者、政府など、いくつかの立場の「当事者」が考えられる。そしてその利害は一致しない。消費者は安く米を買いたいが、生産者は高く売りたい。流通業者も、JAと大型商業施設と街の小さな米屋では利害が異なる。政府は選挙向けに有権者の不満を解消することばかりに腐心しているが、俗に言う「農水族」の思惑は違うかもしれない。

 これは「小集団/社会」のズレの問題と重なる。小集団がそれぞれの利害に従っていると、民主主義が成り立たない、という問題だ。


 だがそもそも「空しさ」の原因である1と2は「違う」のだろうか?

 異なった二つの「原因」が語られているのだろうか?

 むしろその関係を考えるべきなのでは?


 1と2は、「端的に言う(授業では「15字くらいで」という条件だった)」から違って見えるだけであって、もっと長ければ実は一続きで言える。

身近な人々の承認を得るために本当の「自分」を偽って演じているのに、その小集団内に通じる「価値」は、社会全体に共有されたものではなく、本心では自分でも信じていないから。

 これが空しさの理由だ。

 このことを本文では「自由と承認の葛藤」と表現している。

 これはすなわち「〈私〉と〈私たち〉の葛藤」であり、それはすなわちデモクラシーの困難なのだ。


 あえて違いを言うなら、言えないこともない。

 「〈私〉時代のデモクラシー」の宇野重規は政治学者であり、「空虚な承認ゲーム」の山竹伸二は心理学者・哲学者だ。ここから、「〈私〉時代~」は社会の問題に重点が置かれ、「空虚な~」は心の問題に重点が置かれている、とは言える。「難しい」は社会が直面している問題で、「空しい」は個人が直面する問題だ、と。


 「〈私〉時代のデモクラシー」は、時代の変遷を三層で語っている。

前近代/前期近代/後期近代

 これは次のような時代区分にあたる。

近世/近代/現代

 一方、「空虚な承認ゲーム」も、前近代から近代への論理展開は共通していて、かつ、問題は現代だ。近代から現代への変遷が語られている。

 この時代区分における変遷という切り口で、二つの文章を重ねてみよう。


 前近代から近代への変化は、自由な個人の成立ということで両者共通している。

 近代から現代への変化は?


 「空虚な承認ゲーム」はこれを「大きな物語」の喪失として語る。

 「大きな物語」は、現代には失われたもの、だ。

 これは「〈私〉時代のデモクラシー」では何に対応しているか?


 まず宗教が想起されるべきではある。だがそれは前近代からある「大きな物語」だ。

 近代に特有の「大きな物語」は?

 「空虚な承認ゲーム」で例として挙がっているのは「ナチズムやスターリニズムといったイデオロギー」だ。それとてそれなりにはでかいとはいえ「小集団」ではないかという突っ込みはできるだろうが、とりあえず一国の社会全体を覆い尽くすくらいにはでかい。

 これにあたるのは「〈私〉時代のデモクラシー」では?


 「自由な個人」も確かに近代になって生まれた「大きな物語」だが、これは現代には喪失したとも言いにくい。

 もう一つ、文中から挙げるなら「公正で平和な社会」だ。

 これとても「喪失した」とは言い難いものの、「社会正義」より「個人の自由」と言っているのが現代だと言えば、ある意味で「喪失した」とはいえる。

 それもまた近代におけるイデオロギーなのだ。

 社会共通のイデオロギーの喪失が「空虚」さを生んでいる。

 そしてイデオロギーの喪失は〈私たち〉を作ることを難しくさせている。

 ここでも「空しい」=「難しい」だ。


共に生きる 14 空虚な〈私〉時代

 次は予告通り「空虚な承認ゲーム」と「〈私〉時代のデモクラシー」を読み比べる。


 筆者が最も言いたかったことを、その文章の「結論」「主旨」などと言っておこう。

 それを言うまでには、ある「前提」があり、そこから「結論」まで、なにがしかの「論理展開」をする。

 二つの文章の「前提」と「論理展開」が共通していることを言うのは比較的容易だ。ここまでに確認されている共通前提がここにもある。そのまま文中から、共通して使われているキーワードを三つ、と指定すれば、すぐにみんなは「近代」「個人」「自由」を挙げることができる。

 この三語を使って、どのような「前提」からどのように「論理展開」しているかを語ってみる。


 前近代には、宗教や伝統などの「大きな物語」が人々の共通前提となり、人々はそれに拘束されていた。

 「近代」になるとそれが崩れ、人々は「自由」な「個人」となった。

 ここまでは二つの文章に共通する「前提→論理展開」。

 では「結論・主旨」は?


 できるだけ短く、と指定して次のようなフレーズを共有した。

「空虚な承認ゲーム」

現代人は身近な人からの承認を求めている。

「〈私〉時代のデモクラシー」

〈私〉時代とも言える現代において〈私たち〉を作らねばならない。

 共通前提から出発して、途中までの論理展開が共通しているからには、これらの結論・主旨にも、何らかの共通点があると考えるのは無理がないはずだ。どのような共通点があるか? というか、これら二つの結論・主旨は、どのような関係になっているのか?


 「関係」?

 関係を考えるためには共通点がなければならない。接点がなければ関係づけられない。

 その上で「関係」を語る。因果関係? 時系列? 並列? 言い換え? 包含関係?


 文章は「認識」を語るか「主張」を語るかに大別できる。「認識」を語らないということはありえないが、とくだん「主張」らしいことを言わない文章はある。

 上で言えば「~を求めている」は「認識」を語っているが、「主張」らしい言い方にするのが難しい。一方「作らねばならない=作るべきだ」は「主張」っぽい。

 「認識」と「主張」を関係づけようとするなら、因果関係に持ち込むのが有望?


 もう一つ。文章はなにがしかの「問題」があるときに書かれるものだ。何も「問題」がなければ、多くの文章は書かれない。

 それぞれの文章の「問題」を示す、否定的ニュアンスの形容は何か?


 それぞれ、上記の主旨の後に、次のような形容を足せば良い。

現代人は身近な人からの承認を求めているがそれは空虚だ。

〈私〉時代とも言える現代に〈私たち〉を作ることは難しい。

 この「空しい」と「難しい」の関係は?


共に生きる 13 空虚な承認ゲーム2 偽の/偽りの自分

  「共通している」とは、両者に「対応している」要素があるということだ。

 ということで次の一節を比べてみる。

このような鬱屈した気分のなかで、子どもたちは何もできなくてもじぶんの存在をそれとして受け容れてくれるような、そういう愛情にひどく渇くようになるのだろう。(…)上手に「条件」を満たすさなかに、もしこれを満たせなかったらという不安を感じ、かつそれを(かろうじて?)上手に克服しているじぶんを「偽の」じぶんとして否定する、そういう感情を内に深く抱え込んでいるはずだ。「『つながり』と『ぬくもり』」

一般的に、承認に対する不安が強い人間ほど、他者に承認されるための過剰な努力、不必要なまでの配慮と自己抑制によって、自由を犠牲にしてしまいやすい。自分の自然な感情や考え(本当の自分)を抑圧し、「偽りの自分」を無理に演じてしまうのだ。その結果、心身ともに疲弊してうつ病になったり、心身症や神経症を患ってしまうケースも少なくない。「空虚な承認ゲーム」

 この「『偽の』自分」と「偽りの自分」は、同じことを言っているか? 違うか?


 同じか、違うかと訊いて挙手させると、どこのクラスでも違うに多く手が挙がる。

 だが実は「同じ/違う」は排他的な二択とは言い切れない。

 「違う」というためには比較をしなければならず、比較をするためには共通した土俵に両者を載せなければならない。まったく共通する要素がなければ比べることもできず、「違い」を言うこともできない。

 従って両者は共通している要素がある。前回対応を確認した「肯定/承認」されるために、「本当の自分」を偽って演ずるのが「偽の/偽りの自分」だ。それがいずれも否定的に表現されている。そういう意味で「同じ」であることは認めなければならない。

 ではどこが違うか?


 違いを言うことができなければ上記の通り、両者は同じだということになる。

 だが違いを言うのは簡単ではない。それぞれの文章から、それぞれの説明をして、それを並べれは違いを示したことになるわけではない。

 例えばAとBは違うと言うために、それぞれの文章から次のような表現を切り取ったとする。

  • Aは大きい。
  • Bは軽い。

 これでは違いを示したことにはならない。それぞれが大きさと重さを表現していて、同じ軸上の比較になっていない。軽いものは総じて小さいが、風船のように比重が小さければ、軽くても「大きい」。だからまず「軽い」を解釈して「小さい」ことを示す必要がある。

 だが「Aは大きい/Bは小さい」と言えれば違いを示したことになるかと言えば、それもまだ確かにそうだとは言えない。

 「大きい/小さい」は相対的な捉え方であって、基準が揃っている保証はないからだ。二つの文章はもとより別々の文章なのだから、互いが比較対象な訳ではないし、互いを対象として相対的に「大きい/小さい」を言ったとて、それが何の「違い」なのかは、まだ明らかではない。Aは何かを基準として「大きい」と表現され、Bは何かを基準に「小さい」のだ。その基準が同じである保証はない。


 「違い」を言うためにはそうした精細な思考が求められる。だからこの問題は意外にみんな手こずった。というより思いのほか盛り上がって、ほとんどのクラスで1時限以上の話し合いになったのだった。しかも多くのクラスでは自主的にどんどん発言者が出現する、というような。

 とても結構なことだ。楽しい。


 さて、各クラスで、「違う」と言うためのさまざまな切り口が提案された。漫然と言うのではなく、切り口を明示することは重要だ。思考が整理されて、議論が有意義になる。

 例えば「強制/自発」という対比が提案された。「偽の/偽りの自分」を演じるのは強制されたからか自発的になのか。

 だが結局、どちらをどちらに割り振ることもできないという結論に落ち着いた。「偽の/偽りの自分」を演ずることには、どちらもなにがしかの強制力が働いており、それにしたがうことはどちらも自発的でもある。そうすると決めた時点で、自発的でない演技というのはそもそもありえない。


 「自覚がある/ない」で、違いが言えるだろうか?

 だがこれも「偽の/偽りの」と言う以上、自覚がないことはありえない。


 そうした「自分」が「先」にあるか「後」からできるか、では?

 これも、再帰的な循環の中で、いつが「先」か「後」かを言うことは難しい。


 そうした「偽の/偽りの自分」は「自分」の一部か全体と重なっているかで言い分けられる?

 これもなんとも言い難い。

 こうした試行錯誤は議論を明確にするためには有益だ。

 

 結局、違いを言うためにかろうじて有効らしいと合意を得たのは、「演ずる」ことが何に従っているのかに、「違い」と言える相違があるのでは、という案だった。

 「『偽の』じぶん」は「条件(資格)」に合わせることによって「本当のじぶん」ではなくなる。

 「偽りの自分」でこれにあたるのは?

 「価値」が相当する。

 では「条件」(「つながり」と…)と「価値」(空虚な…)の相違点は?


 目の前の誰かに「肯定」されるために「『偽の』じぶん」が満たすべき「条件」は、しかし社会が突きつけてくる「条件」でもある。子供にとって、勉強ができることは、親や先生が突きつけてくる「条件」だが、それは社会が認める「価値」だ。

 一方、身近な人=小集団に「承認」されるために守るべき「価値」は、むしろ「社会」全体が認める「価値」ではない、というのが「空虚な承認ゲーム」の主旨だ。その「価値」は小集団の内部でしか「価値」たりえない。だから「空虚」なのだ。

 「偽りの自分」はそのようなものに合わせて演じられたものだ。

 「偽りの自分」をやめることは、小集団からの離脱を意味するが、「『偽の』じぶん」をやめることは社会からの離脱を意味する。


 このあたりが、「違い」としてとりあえず言える切り口として納得できるところではある。

 が、同じか違うかと問うたときにみんなが「違う」と感じた印象は、これを読みとったからでは、たぶんない。それはそれで文脈上違っているように感じられる理由が別にあり、だが、では何が違うかを言おうとすると、同じであることばかりが確かめられる、両者はそのような表現なのだった。

 精密に読み、精密に表現することの難しさが考察の面白さにつながる、興味深い問題だった。



共に生きる 12 空虚な承認ゲーム

 4月以来ここまで6本の評論を読んできて、7本目、山竹伸二「空虚な承認ゲーム」をここに合わせる。ここまでの論者と共通するどんな問題意識があるのだろうか。

 共通した論旨が読み取れそうなのはどれ? という問いに挙がったのは「『つながり』と『ぬくもり』」が最も多かった。次が「〈私〉時代のデモクラシー」。

 まずは「『つながり』…」から考える。


 「共通した論旨」は、いろんなレベルで指摘できる。

 論の前提となる認識、論理展開、結論、途中で言及される部分的な論旨…。

 まずは「似ている」という印象を手がかりに、どこに注目するかを探る。その時点でその「印象」を語ってもいい。おそらくそれぞれの文章を、自分なりに解釈して説明することになる。それはそれで有益な国語的言語活動ではある。

 さらに精細に考えるためには「対応する」記述を探す。

 「共通する」とは、双方に対応する記述があるということだ。文字通り「共通する」、どちらにも同じ語を使った、ほとんど同じ趣旨であることが明らかな一節があればそれが「共通」している。だが、同一の語でなくとも、解釈して同趣旨と見なせるならば、それは「共通」していると見なそう。そのような「対応」している語、表現を指摘しよう。


 さて、指摘できるのは次のような表現。

「『つながり』と『ぬくもり』」

親密な個人的関係の中で肯定されることを求める

「空虚な承認ゲーム」

身近な人々に(小集団の中で)承認されることを求める

 対応している「肯定/承認」は、どちらもそれを人々が欲していることで「対応している」と感じられる。

 さらに、単に同一ということで「対応している」のは、またしても「近代」「個人」だ。

 この「前提」と「結論」を結ぶ論理展開はどのようなものか?


 「近代」と「個人」が登場したら、言うべきことは決まっている。前近代には人々を縛る「くびき」があったが、そこから解放されて、人々が「自由な個人」となったのが近代だ。

 だが自由になったことで拠り所を失った人々は、身近な人からの肯定/承認を求めるようになったのだ。

 そうした状況を鷲田は「さびしい」と表現し、山竹は「空虚」と表現する。


 両者ともに、近代化に伴う社会と個人の変化がもたらす問題を、現代的な状況として描いている。


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