2025年9月9日火曜日

小景異情 1

 4回にわたって詩を読解する。

 やることは評論だろうが小説だろうが同じことだ。まずはテキストから読み取れる情報を整合的に組み合わせて「読解」する。評論と小説と詩を読むためには、それぞれいくらか違う作法が必要だが、違った評論には違った作法が求められるように、評論を読むことと小説を読むことと詩を読むことには相対的な差しかない。

 そもそも中原中也「一つのメルヘン」と小池昌代「あいだ」を同一の作法で読める気がしない。

 「一つのメルヘン」は何となく「メルヘン」チックな雰囲気を味わえば良い詩のような気がする。いや、考えていけば何らかの読解が可能なのかもしれないが、そこに何らかの「意味」が読み取れることに確かな期待はできないから、何となくそれらしい幻想的な雰囲気を味わって、好きな人は好きだと言っていればいいんだろうと思う。

 それに比べて「あいだ」は、何となくで読んで良いも悪いもない。何を言っているかを明確に読み取ってからでなければ、好きも嫌いもないように感じる。そして、何を言っているかがにわかにはわからない。

 だから「あいだ」は考察に価するのだが、こちらに充分な確信と見通しがないので今回は扱わない。


 で、まずは室生犀星「小景異情」を1時間限定で読む。

 「小景異情」は百年以上にわたって日本人に愛唱されてきた詩でありながら、必ずしもその情感が正確に理解されているとは言い難い詩だ。それは、冒頭の一節だけが独立して引用されてしまうせいでもある。

ふるさとは遠きにありて思ふもの

そして悲しくうたふもの

 とりわけ一行目だけが口ずさまれることも多い。

 だがそれはどのような意味で人々に受け取られているのか?


 事前に考えておいてもらったのは2点。一つは次の問い。

この詩はどのような思いを詠っているか?

 先回りして言うと、この問いに、上の一行目のみをもって答えるのと、詩全体の読解をもって答えることがどれほど違っているかを示し、もって「読解」というものを実感してほしい、というのがこの詩を最初にとりあげる狙いだ。

 「どのような思い」というのは「ふるさとを思って涙ぐむ気持ち」「遠い都に帰りたいという気持ち」などと答えるだけでは不十分。

 こういう時は、何らかの抽象化した表現を求めているのだ。

 課題では、一単語で、と指定した。どんな言葉?


 最初の方で授業が回ってきたクラスでは2列くらい回して訊いてみたのだが、大体出揃った気がするので、後のクラスではこちらから提示した。

 一つは「郷愁・望郷」系統。これは、この詩のもつ情感として世の大方の人の納得するところだろう。

 もう一つは「悲哀」系統。こちらはさらに「何がどう悲しいのか」が問われると思ってほしい。

 ほとんどの人がこの2系統のどちらかで、明らかにそれ以外の情感を提示したいという人は、今の時点で挙げておいて、と言ったところ、E組M君が名乗り出て、次の語を挙げた。

嫌悪

 ? これは一体何のことか?


 さてもう1点、この詩の読解において決定的な糸口になるのは次の問いだ。

語り手はどこにいるか?

 「語り手」は「作者」とは違う概念だ。室生犀星本人は遙か昔に死んだ人であり、もうどこにもいないし、この詩を書いた時点でどこにいたかもどうでもいい。

 そうではなく、この詩に潜在的な一人称を想定し、その「語り手」のいる場所を考えようというのだ。

 「場所」の選択肢は文中から選ぶ。文中から、場所を表す言葉を順に挙げる。

  • ふるさと
  • 異土
  • みやこ

 訊いてみると、4つそれぞれを支持する者がクラス内にいる。

 事前に課題としてこの問いに答えてもらっているが、それぞれを挙げた人数は以下のとおり。

  • 都 162
  • 異土 41
  • ふるさと 48
  • みやこ 7

 これ以外にはあれこれ形容のついた表現になっているので、実際は「都」がもうちょっと多い。

 ともあれ意見は分かれている。これは議論しがいがある。


 だがその前に、なぜ漢字の「都」と平仮名の「みやこ」が選択肢になっているのか。これらは別なのか。だが別だと主張する人は多い(どころかクラスの大半の者が主張することも)。「都」と「みやこ」が同じだと考えれば3択だが、別だと考えれば4択だ。

 だが、さらにこれらのうちの別のどれかとどれかは同じものを指しているとかいう解釈も可能かもしれない。だとすれば、これはどのような選択肢なのか。4択か3択か、あるいは2択かもしれない。それもまだ確定されてはいない。

 こんなふうに意見が分かれてしまうのは、この詩において、語り手がどこにいるかを読み取ることは、案外に難しいからだ。わずかこれだけのテキスト情報しかないというのに。

 いや、情報量の問題ではない。あるいはむしろ情報量が少ないから場所の確定ができないとも考えられる。


 「語り手」とは時として一人称で文中に登場していることもあるが、明示的には表われていなくとも、潜在的にはその言葉を語っている者として、どこかにはいる。

 それが抽象的な存在であって、それほど重要ではない場合もあるが、テキストによっては重要だ。

 とはいえ例えばこのブログのような文章では、語り手の「場所」などそもそも問題にはならない。特定する必要もない。

 だが、フィクションの享受においては、語り手のいる場所が、解釈に決定的な影響を及ぼす場合がある。いや、論説でも、空間的な意味での「場所」ではなく、比喩的な意味での「立場」というなら大問題だ。どういう立場の人が言っているかで、その見解・意見・主張は全然違って見えるはずだし、見なければならない。

 テキストは、位置づける文脈によって意味を変える。

 このことを、今回の読解では「語り手のいる場所」という問題を通じて実感してもらう。


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