語り手はどこにいるか?
詩中で場所を表す4つの言葉のうち「みやこ」を挙げた者はごく少数だが、これはもっともなことだ。「みやこ」にいながら「遠きみやこに帰らばや」をどう解釈するのか、授業では聞きそびれた。どう解釈するのだろう。
次に少ないのは「異土」を支持する人だ。そもそも「異土」って何だ?
「異土」は少なくとも「ふるさと」ではない。どこかを「異土」と表現するアイデンティティは「ふるさと」を起点としていると考えるのが自然だ。
それに「故郷で乞食になったとしても故郷には帰るまい」というのは意味がとれない。
「都(みやこ)」は「ふるさと」と対義だから、「異土」と同一である可能性がある。「ふるさとは、都(=異土)で乞食になったとしても帰るところではない」なら意味がとれる。
「異土」は「都」なのか? そうだとすれば「異土」支持者は「都」支持者でもあるのかもしれないが、「都」ではない別の「異土」にいると主張する人はどのくらいいたのだろう。
授業中に訊いてみた感触ではほとんどいないらしいのだが、あえて問う。
地方出身者が一度「みやこ」に出て、そこで「うらぶれて」、「みやこ」落ちしてさまよい、「異土」に流れ着いて「乞食」をしている時に詠んだ詩とは考えられないか?
「ふるさと」には帰りたいが、やはり帰るべきではないと考え、もう一度「みやこ」に戻ろうと決意する…。
状況的にはありうるのでは?
反論はこうだ。
「よしや(=もしも)」は仮定なのだから、異土にはいない。
もっともな反論だが、さらに反駁としてこういう可能性を提示しよう。
「よしや」は「異土にいる」ことではなく、「乞食になる」ことを仮定しているのだ。「みやこ」で食い詰めて、仕事を探して「異土」にさまよう。わずかな金も底をつきかけている。このままでは「乞食」にでもなるしかない。だが、「もしも」そうなったとしても「ふるさと」には帰るべきではないと考え、ふたたび「みやこ」に帰ろうとしている。
ということで、現状は「異土」にいるのだ。
この解釈は可能であり、否定する根拠を挙げるのは難しいはずだ。
4つの言葉の関係については、まず「都」と「みやこ」が別なのか同一なのかが分かれているが、これは結局、どこにいるか、という解釈と結びついていて、場所の同一性だけを先に議論することはできない。
それ以外のどの言葉とどの言葉が同じ場所を示しているのかも全体の解釈において検討する必要がある。
イメージしやすくするために、具体的な地名をあててみよう。
訊いてみたところ、「都」が東京を指すことに異論はなかった。
「ふるさと」という語は、住む場所の移動があった場合にしか使われない。東京出身者が東京に居続けるならば「ふるさと」という言葉は使われない。語り手は一定期間「ふるさと」を離れているのだ。「ふるさと」は東京から遠ければどこでもいい。千葉や埼玉や神奈川は「ふるさとは遠きにありて」のイメージとそぐわない。ここでは仮に室生犀星の出身の石川県にしておく。
「異土」は、「都」と同じく東京を指していると考えるか、「ふるさと」でも「都」でもないどこかと考えるか。仮に滋賀県あたりをイメージしておこう。
さて「みやこ」は?
これは「都」と同じだから東京と考えるか、「ふるさと」と同じだから石川県と考えるか、だ。仮に金沢あたりをイメージしよう。
これでおそらく3択か2択になったはずだ。
- ふるさと=みやこ(石川)・異土(滋賀)・都(東京)
- ふるさと=みやこ(石川)・異土=都(東京)←2択
- ふるさと(石川)・異土(滋賀)・都=みやこ(東京)
- ふるさと(石川)・異土=都=みやこ(東京)←2択
これらはそれぞれ一体どのような解釈を示しているのか?
多数派は1か2だ。
1行目「ふるさとは遠きにありて思ふもの」から、語り手は「ふるさと」から遠いところにいる。後半で「ひとり都のゆふぐれに…」とあるから、地方から出て東京にいるのだな、と解釈する。
そして最後の「遠きみやこにかえらばや」とあるのは「ふるさとに帰りたい」という意味なのだ。つまり「遠きみやこ」(金沢)=「ふるさと」(石川)なのだ。
この場合「異土」は東京であってもいいし、滋賀あたりであってもいい。「よしや」という仮定からすればむしろどこでもいい。
一方3、4の支持者はこう解釈する。
「みやこに帰りたい」と表現されるからには、このテキストの言葉を発している時点では「みやこ」にいないということになる。「みやこ」と「都」を区別せず、東京にはいないものとみなす。
ならば石川か滋賀か。上記の通り「異土」説は支持者が少ないようなので、今現在「ふるさと」=石川=金沢に帰ったときにこの詩を詠んでいると解釈しているのだ。
以上2つ乃至3つの解釈を比較する。
普通はみんなそれぞれただ一つの解釈を思いついて、別の可能性を考えるわけではない。
だがこうして授業の場には別の解釈をした人が居合わせる。両者が相対して、それぞれの解釈を認めつつその妥当性について検討すべきなのだ。
「正解」を教えられることは何の学習でもない。
さて、諸説の検討だが、「異土」説を殊更に主張したいわけではない。だが否定するなら否定する根拠を出すべきだ。
上記の通り、「ふるさと」でも「都」でもない「異土」に、現在語り手がいるという想定はできないわけではないはずだ。
だがこれは、いたずらに複雑な解釈を読者に期待しすぎている。
それにこれでは「遠きみやこ」の「遠い」という形容がなぜ必要なのかがわからない。石川出身者が東京に出てきたが、うらぶれて東北あたりに流れて、「乞食」になりそうだということならば、東京は「遠い」?
これも、そんな特殊な状況を前提しなければならない解釈は妥当性が低いと見なすべきだ。
たとえば「異土の乞食になるとても」が「この異土の」とか「このまま異土の」「こうして異土の」だったらもう異土にいることが確定される。そうでなくても異土にいることが否定されるわけではないが、やはり「異土」説は、わざわざ主張するほどの妥当性があると考える必要はない。
残りは大きく言って二つ。
「都」にいて「ふるさと=みやこ」に帰りたいと言っている。
「ふるさと」にいて「みやこ=都」に帰りたいと言っている。
多数派は前者だが、妥当性は後者の方が高い。
語り手は今「ふるさと」にいる。授業における授業者の見解を「正解」というのなら、正解は後者だ。前者の方が多数派であるにもかかわらず。
なぜか? どう考えたらいいのか?
そもそも「遠きみやこ」と「ふるさと」は同じものを指しているのだとか、「みやこ」と「都」は別のものを指しているのだといった特殊な解釈を読者がすることを前提として作者が言葉を選んでいるのだと考えるのに無理がある。
そんな無茶な設定を前提しなければ整合的に解釈できないような解釈は、妥当性が低いとみなすべきなのだ。
だが、と反駁がある。ではなぜ「都」と「みやこ」は漢字と平仮名で書き分けられているのか?
だが、それを言うなら「思う」「帰る」も、詩の中に漢字の箇所と平仮名の箇所がある。「うたふ」「ひとり」「ゆふぐれ」「こころ」なども、漢字でも書いてもいいだろうが平仮名で書かれている。それに対して「遠き」「悲しく」「涙」がなぜ漢字なのか。必然性はあるのか。
結局、「都」と「みやこ」を区別する特段の理由など見つからない。「みやこ」と「都」は、概念レベルとして違う意味合いを持たせているという解釈ならいいが、違う対象を指しているなどという使い分けの意図があるとみなすことはできない。
区別すべきだという主張は、「都」にいるという解釈を合理化するために考えられている。書き分けられているから別の対象を指しているはずだ、という主張は因果関係を逆転している。別の対象を指していると考える必要があるから(なぜなら「みやこ」が「ふるさと」でなければならないから)、「みやこ」と「都」は違う、と主張しているのだ。
だが。その妥当性は低い。
とりわけこの解釈では「遠いふるさと=みやこに帰りたい」と「ふるさとは…帰るところではない」の矛盾をどう解釈するかがわからない。
この不整合を曖昧に看過することで、この解釈は成立している。
それより「みやこ=都」に上京した地方出身者が、一時的に「ふるさと」に帰ったときに詠ったものだと考えるのが整合的だ。
東京に出た地方出身者が夢破れて故郷に戻る。「うらぶれて」も、「異土」に流れていく仮定における形容だが、ここでの語り手の状況をもイメージさせるものと考えて良いはずだ。盆暮れの気楽な帰省くらいではこの詩の絶唱には釣り合わない。
最初の5行で述べられるのは「ふるさとが懐かしい」などと軽々しく言える思いではない。「ふるさとは遠くで懐かしむべきものであって、決して帰ってはならない」と言っているのだ。どこかよその土地で乞食になったとしても、とまで言っている。
「ひとり都のゆふぐれに/ふるさとおもひ涙ぐむ」はそのまま読むと単に「都」にいる現在の状況を表現しているように読めるが、続く詩行を読めば、「そのこころ」の内容を言っているのだとわかる。そのような心を持って「ふるさとに帰ろう」と言っているわけではなく「都に帰ろう」と言っているのだ。
こうしてまずは整合的な状況設定を読み取って、ではどういう「思い」を詠っているのか、と考える。
さてでは、ここで述べられているのはどのような思いか?
かつてのある生徒は、「ふるさと」に対する甘えを封印して、もう一度「みやこ」でがんばろうという決意を詠った詩だという解釈を語った。「みやこ」でがんばりながらなら、いくらでも「ふるさと」を懐かしんでいいが、実際に帰ってはだめだ、と自らを戒めている詩なのだ。随分前向きな決意だ。
これも、状況に整合的な解釈のひとつだ。
また最初の段階でE組M君の挙げた、この詩の情感が「嫌悪」だというのも、ここまでくれば何のことかわかる。そしてそれは「郷愁」と矛盾するわけではない。
ここには故郷に対する愛憎半ばする複雑な思いがある。
故郷は、遠くにいれば懐かしいのに、帰ってしまうとそこに嫌悪を抱く。
帰ってみると、美しいふるさとの風景が、開発によってすっかり様変わりしてしまっていたのかもしれない。あるいは懐かしかったはずの故郷では、家族親戚の冷たい(あるいはなま温かい)視線に居心地悪い思いを抱く。そういえばかつて故郷にいた頃には窮屈な村の慣習に嫌気が差していたことなど思い出す。
「小景異情」とはそういう感情を表している。目の前のありふれた風景に違和感を感じているというのだ。
それなのに都会に出てみるとそんなことを忘れて、うっかり故郷を懐かしがってしまったりする。
だがこの情感は「郷愁」を否定するものではない。「嫌悪」と「郷愁」は同居する。帰らずに都から思う故郷は美しく懐かしい。
ここにあるのは普遍的な「幻滅」の感覚だと思う。幻は幻のままにしておいた方が良い。ふるさとは遠くで懐かしんでいるときこそが美しいのだ…。
「ふるさとは遠きありて思ふもの」と語る語り手が「みやこ」にいるものとして読むのと「ふるさと」にいるものとして読むのとでは、意味する情感がまるで違う。「みやこ」に出てきた地方出身者が語っているのなら、単にふるさとを懐かしむ心情を述べているのだと読めるが、現に「ふるさと」に居る語り手が語るとしたら、それは苦い悔恨をともなった望郷だ。
テキストの読解とはこのように、テキスト内の情報を整合的に組み合わせることによってできあがる全体像=ゲシュタルトを捉えようとする思考である。
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