2025年12月25日木曜日

羅生門 18 終わりに

 ここまで8回の授業で「羅生門」を読んできた。

 小説の読解は、ある意味では評論やその他の実用的文章を読むことと変わらない。テキスト細部から必要な情報を拾い上げて全体を構造化することだ。

 同時に構造の中において初めて持つ細部の表現の意味を捉えることでもある。全体の構造化と細部の意味づけは相補的に働く。

 「羅生門」の読解においてやってきたのはそういうことだ。

 全体の構造をどう組み立てるかと、細部の表現をどう意味づけるかといった思考を相互に整合的に働かせる。 

 そうして現状で納得できる「構造」「意味づけ」が前回までに見てきた「羅生門」解釈だ。


 以上のように示してきた「羅生門」の読解が難しい原因は三点あるのだと、今年腑に落ちた。

  1. 「老婆の論理」が下人の行為を引き起こしているという理路が揺るぎない前提として疑われないこと。
  2. 行為の必然性を生じさせる要因が問題なのではなく、行為を阻んでいた要因こそ問題なのだということがわかるのは、後ろから遡るしかないという構造上の必然からくる認識の困難。
  3. 高校生は「観念」という語彙を持ってはいないこと。

 3はつまり「スキーマ」と「ゲシュタルト」の問題だ。

 スキーマがないと、ゲシュタルトは構成されず、認識されない。

 「小説を理解する」ことも「認識」の一種だから、それはつまり、あるスキーマによってゲシュタルトが成立したということだ。「エゴイズム」はそのようなスキーマであり、しかも近代文学を理解する上ではきわめて頻繁に用いられるスキーマだと言ってよい。

 「羅生門」もまたそうして「極限状況におけるエゴイズムを描いた小説」というゲシュタルトで人々に認識されている。むしろ「羅生門」は、高校1年生で読むことで、「エゴイズム」というスキーマを高校生に装塡する役割を担っていたというべきかもしれない。

 だがそのようなゲシュタルトとしての「羅生門」は、底の浅い、弱い小説だ。全然大した作品には思えない。

 といって別のゲシュタルトを構成するためのスキーマが授業者には長らく見つからなかった。スキーマがないとゲシュタルトは構成されない。像を結ばないばらばらな情報群として、「羅生門」というテキストは繰り返し読まれてきた。

 「観念」という語は、そこに像を結ぶためのスキーマであり、そうしてできたのがここまで示してきたゲシュタルトだ。

 だがこのスキーマは、高校生には装備されていない。

 エゴイズムも装備されてはいなかったろうが、エゴイズムは「なぜしたか」と結びつくから、授業によってその解釈が示されると理解することは比較的容易だ。

 それに比べて「観念」というスキーマは「なぜできなかったか」と結びつくから、上記2の困難によって発想されにくい。

 それだけでなく、その語の持つ平凡さによっても、かえって想起されにくい(「エゴイズム」という目立つ言葉はそのことによって想起されやすい)。

 さまざまな必然性によって、「観念」をスキーマとする「羅生門」理解は、成立が難しい。


 引剥ぎという行為の必然性は、それを容認する「老婆の論理」によって発動するのでも、「極限状況」の深刻化によって発動するのでもなく、ただその行為を阻んでいた幻想が消滅することによって生じている。むしろ、下人がそうした幻滅の自覚を、行為の実行によって自ら確認している、と言うべきかもしれない。

 引剥ぎという行為は現実的な実用性に基づいていると同時に、それが他ならぬ老婆に向けられることで、下人の現実認識を宣言するための象徴的な行為になっているとも言える。


 以上のような授業者の結論は、実際はここまで述べてきたような問題設定に基づく考察の積み重ねによるものではない。発想は、下人のうちに最初に燃え上がった①の「憎悪」の描写が表す奇妙さを何とか言葉にしようと考えているときに、突然、結論として「降りて」きたのだった。それが「幻想・観念としての悪」という表現として形になったとき、下人が最初「悪」に踏み出すことを躊躇ってのはこのためだったのだと気づいたのだった。そこから、行為の必然性に至る論理、「羅生門」の主題へと結びつく論理が一気に開けた。

 だからここまでたどってきた問題設定は、本当は解答から遡って逆順に設定されている。

 「なぜ引剥ぎをしたか?」が「なぜ最初はできなかったか?」という問題であることは、その答えから遡ってしか発想できない。「なぜできるようになったのか?」と問う限り、それは例えば「老婆の論理」に拠るしかない。

 だが授業ではみんな自身が考えることに意味がある。だから考えるべき問題が何なのかを明らかにした上で、その糸口を示す必要があった。最終的な到達地点がどこなのかを示した上で、そこにいたる道筋を辿ってきた。

 この問題設定は、結論まで一気にたどりつくようには、簡単に展開されはしない。長い時間をかけて、8回の授業展開として構成されたものだ。

 「羅生門」の「主題」を捉えるためには、引剥ぎという行為の必然性を当面の問題として設定すべきであること。

 その論理を明らかにするためにこそ「心理の推移」を追うべきであること。

 「羅生門」の授業を貫く問いはこうして構想される。


 これで、今年唯一の小説の読解を終える。


2025年12月24日水曜日

羅生門 17 答え合わせと検算

 この結論に基づいて、ここまで考察してきた問題を捉え直してみよう。

 物語の冒頭、門の下で下人の頭にあった「悪」はいわば観念としての、幻想として「悪」であった。冒頭の部分ではまだ、そのことはわからない。それはあくまで物語の結末から遡ってみてわかることだ。

 最初にそのことが読者の前に示されるのは、①「憎悪」の描写を通してだ。

 授業で分析した①「憎悪」の描写は全て、対象となる「悪」が観念的であるということを示している。作者の形容はすべてそこへ向かって重ねられている。

 「あらゆる悪に対する反感」という憎悪の一般化、抽象化は、憎悪の対象が具体的ではなく、実体のない幻想としての「悪」であることを表している。

 「それだけですでに許すべからざる悪であった」という独断的な決めつけも、「合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった」も、具体的な検証抜きに「悪」が認定されていることを表す。

 「もちろん、下人は、さっきまで、自分が、盗人になる気でいたことなぞは、とうに忘れている」のも、冒頭の問題設定がそもそも観念的だったからだ。「忘れる」ことは「もちろん」だ、というのは、現実に依拠してない難問を、下人が頭の中だけで弄んでいたことに作者が自覚的であることを示している。

 「この雨の夜に、この羅生門の上で」という読者には理解しがたい(だが微妙にわかったような気もする)条件が「悪」を認定する根拠となっているのもそれが気分的なイメージに過ぎないことを示している。そしてそれが「予断・先入観」であるということは、物語冒頭の迷いにおいて「正義」と拮抗していたのが既にそうした「観念としての悪」だったことを示している。

 そこに老婆という容れ物が形を与える。憎悪が燃え上がる。だがそれは実は幻想としての「悪」という観念に対する憎悪だ。

 だからこそそれは、過剰になりやすい。観念は現実から遊離しているがゆえにしばしば激情を誘発する。イデオロギー闘争が激化しがちなのは、イデオロギーが観念的だからだ。老婆を取り押さえる時に下人を支配する勇気は、観念に支配された者の蛮勇だ。


 観念としての「b.悪」が幻想で膨れあがるとき、それに拮抗する「a.正義」もまた釣り合いをとるべく膨れあがる。それは内実を伴わない空虚な泡である。下人の憎悪は空疎な正義感を燃料として燃え上がる。下人は自分もまた盗人になることを迷っていたことなどすっかり忘れて、自分を「正義」の側に置いている。

 続いて「得意と満足」がおとずれる。その変化は、理由が明らかになる前に生じている。つまりそれは対象の善悪についての現実的・合理的な判断に基づいていないのである。その「満足」は、事態の根本的な改善には何ら関係のない自己満足だ。

 現実に依拠していない激情は熱しやすく冷めやすい。老婆を取り押さえただけであたかもその「悪」が消滅したかのように冷めてしまう義憤も、対象となる「悪」が最初から空虚な幻想だったからだ。


 ここまでくれば先に保留した問いにも答えられる。

 なぜ下人は「老婆の答えが存外、平凡なのに失望した」か?


 先程は答えまでに距離があるからと保留にした問いだ。

 ここまでの展開で、「大きいと思っていた幻想としての悪が、つまらない現実の悪であることを知ったから」などと答えられるようにはなっている。

 だがもう一歩、それになぜ「失望」するのか?

 この「失望」は髪を抜くという行為に何か禍々しい理由があることを期待していたことの裏返しだ。これもまた、「悪」が幻想として膨れあがっていたことを示している。下人がなぜそれを期待していたかといえば、「悪」が大きいほどに、それに拮抗する自分の「正義」の幻想も大きくなるからだ。

 「悪」が現実的な、卑小なものであることがわかると、幻想に拮抗して膨れあがった自らの「正義」もまた同様に萎んでしまう。「正義」の幻想に酔っていた下人はがっかりする。自分が正義であると信ずることは快感だったのだ。


 そして浮上してくるのは再び③「憎悪」だ。

 ①がふくれあがった幻想としての「悪」に向けられた燃え上がるような「憎悪」であるのに対して、③の「憎悪」は、その卑小さが露わになった現実的な「悪」に向けられた冷ややかな「憎悪」だ。悪はここでは「憎悪」の対象であるとともに「侮蔑」の対象にもなったのだ。

 先ほどの①と③の「憎悪」の比較によって確認された共通点と相違点は、こうした差違を示している。

 そうした下人の変化がわかっていない老婆は、さらに自分が「悪」くないことを言いつのる。状況が現実的に認識されるにつれ、下人の心はいっそう冷めていく(老婆の話を「冷然として」聞く)。


 物語冒頭の下人の現状認識は観念的だった。

 「極限状況」は現実の問題でもあるはずなのに、それが小説中で肉体的な感触として描かれないことは、下人の現状認識が観念的であることを証拠立てる。

 だからこそ「飢え死にするか盗人になるか」という問題設定もまた観念的だ。飢え死にすることが選択肢になる時点で、それは差し迫ってはいないし、もう一方の選択肢である「盗人になる」=「悪」という選択肢は幻想でふくれあがっている。こんな選択肢の間で逡巡するようなアポリア(難問)は下人の観念の中にしかないことが、今や明らかになったのだ。


 老婆の言葉は下人にとって決して新しい認識ではない。だがそれは最初、門の下で下人が抱いていた幻想が潰えた後であらためて確認される卑小な現実だ。

 「きっと、そうか」という念押しは、下人の苦い現実認識の確認だ。

 ここに付せられた「嘲るような」という形容について、「老婆の論理」の考察のくだりでは、正当化の論理が自分に向けられてしまうことに気づかない老婆への皮肉として説明した。

 だが今ではそれよりもむしろ、露わになった現実認識に対する不快の表れであり、幻想を見ていた自分に対する自嘲だと捉える方がしっくりいく。

 つまりこの嘲りは、矮小な悪の論理を語る老婆にのみ向けられたものではなく、まさにこれからそれをしようとする自らにも向けられていることになる。

 老婆に対する攻撃性は、言わば八つ当たりだ。


 下人の頬の「にきび」はどう考えればいいか?
 「エゴイズム」論によれば、にきびが象徴するものは例えば、正義感、良心、道徳…といったところだろう。これらは、引剥ぎが「生きる為になす悪」を肯定する行為だとみなす主題把握と対応している。下人はモラルを棄てて、悪にはしったのだ。
 そしてここまでの結論によれば、にきびはそのまま「観念」の象徴だと言える。頬ににきびをもつ下人は空疎な観念に支配された人間であり、その象徴たる「にきび」から離れた下人の右手は、もはや阻むもののなくなった現実的な選択を実行にうつすしかない。

羅生門 16 結論

 授業者が①に入る言葉として提示するのは「観念」だ。

 そう聞いてもみんなはただちにピンとはこまい。

 この語彙は高校生にはない。言葉としては知っているはずだ。だが「語彙」というのは「知っている言葉」ではなく「使える言葉」だ。「観念」という言葉を高校生は想起しない。知っているが使えない。

 だがこの小説を捉えるために、これより的確な言葉を思い浮かべることが、今のところ授業者にはできない。

 「観念」とは何か?


 辞書的な意味を確認するより対比の考え方を用いる。「観念」の対義語は?

 だが通常「観念」の対義語は辞書にはない。

 むしろ「観念」という形容で考えてみるとわかりやすい。空欄の下に「的な」をつけたのはそのための誘導だ。

 「観念」の対義的な形容は「現実」である。「お前の言ってることはどうも観念的で、ちっとも現実的ではない」などという。

 「観念」とは、頭の中だけに存在する現実離れした考え、というニュアンスで使われる言葉だ。「観念的」とは「頭でっかち」とか「地に足が着いてない」とか「机上の空論」といったニュアンスの否定的な形容だ。「観念的な議論はいい加減にして、現実的な解決策を探ろう」などという。

 これで結論は出る。


 下人が門の下で「勇気」を持てなかったのは、下人が「悪」というものに過剰な幻想を見ていたからである。

 それはいわば現実性を欠いた観念としての「悪」だ。

 「a.正義(飢え死に)/b.悪(盗人)」の拮抗状態からbに進めない理由は、「正義が引っ張る力」か「悪に対する抵抗」が強かったからだ。左向きの力が強かったのだ。

 それが、老婆の答えを聞いた後に弱まる。それは下人の「悪」に対する認識が「① 観念 的な悪」から「③ 現実的な悪」に変わったからだ。左向きの力が弱まって、「盗人になる」右向きの力にしたがうしかなくなったのだ。

 「羅生門」という小説は、ある幻想が消滅し、現実に覚める物語なのである。


羅生門 15 最終考察までもう一歩

 下人はなぜ引剥ぎをしたか?

 これは「正義」の引力と「悪」の抗力の釣り合いが変化したことによる。

 それを引き起こしたのは老婆の「平凡」な答えだ。下人は老婆の長い言い訳を聞いたから引剥ぎをしたのではなく、端的に言えば平凡な引剥ぎの理由を聞いたから引剥ぎをしたのだ(まだ何のことかはわからないだろうが、そう結論できるのだ)。

 その時下人の裡に起こった変化を捉えるのに有効なのは、「心理の推移」の分析の際に行った、二つの「憎悪」の比較だ。その際の番号に従って①「憎悪」と③「憎悪」と呼ぼう。

 ①は「一般化した対象に向けた熱い憎悪」、③は「限定された対象に向けた冷たい憎悪」だと捉えられる。両者に共通しているのは「悪に対する憎悪」だということだ。ここで共通点を確認した伏線の理由が明らかになる。この時上記のバランスが変わったのは、すなわち「悪」に対する認識が変化したことと対応しているのだ。

 ①と③の相違を次のように整理する。

   としての悪に対する憎悪 または ①   的な悪に対する憎悪

   としての悪に対する憎悪 または ③   的な悪に対する憎悪


 空欄に入る言葉は何か?


 これは生徒が自ら考えつくような思考法ではない。

 実は授業者もこのように問題設定をして思考したわけではなく、これはむしろ説明のために発想したものだ。それを最後の誘導に利用する。

 この比較を可能にするために「憎悪」の共通点を「に対する憎悪」であると確認することが必要だったのだ。

 先の相違点を、その対象の違いとして表現する言葉を探す。①③の空欄にはどんな言葉が充てられるか?


 対義語としては「主観/客観」が思い浮かぶことが多い。

 だが、①③のどちらにも「主観」「客観」が入りうるし、どちらでももっともらしい説明ができてしまう。つまりこの対比は有効ではない。

 「絶対/相対」も挙がるが、この言葉でも論理がつながるとは言い難い。

 ①と③の比較では①「対象が一般化されている」、③「対象が老婆に限定されている」という表現を使った。ここから「一般/個別(限定)」も発想されるし、「抽象/具体」に置き換えることもできる。

 この対比は悪くないが、ここから主題の把握までには距離がある。


 さて、ギリギリのヒント。

 ①に入りうるのは「幻想」「虚像」「イメージ」などの言葉だ。

 だがそれより適切な言葉がある。


 先の「相違」が示す相違を、その対象の違いとして表現する言葉①③を探す。

 大詰めだ。

 下人はなぜ引剥ぎをしたのか?


羅生門 14 最終考察に向けて

 さらに問いを言い換えよう。言い換えのバリエーションは論理の結びつきの可能性を高める。

 「なぜ引剥ぎをしたか?」という問いを、引剥ぎの実行の直前の本文の記述を使って言い換えよう。

 最初にも確認したとおり「なぜ盗人になったのか?」は避けたい。それは解釈が既に含まれてしまっている。

 それよりも本文の言葉を使うなら「なぜ勇気が生まれてきたか?」だ。実際、ここまでの授業でも何度もそのような言い換えが、特に意識することなくなされてきた。この表現は「なぜ引剥ぎをしたか?」と完全に置き換えが可能で、なおかつ本文に即している。

 そしてさらに次の言い換え。

 「なぜ勇気が生まれてきたか?」を裏返すと、どのような問いに言い換えられるか?


 「裏返す」の意図がよくわからないが、聞いてみれば思いつく者はいる。

 「なぜ今までは生まれなかったのか?」は悪くない。が、もう一歩。「今」とはいつ?

 この「勇気」は「さっき門の下で、この男に欠けていた勇気である。」と説明されている。すなわち「なぜ勇気が生まれてきたか?」は次のようにと言い換えられる。

物語の最初はなぜ勇気が出なかったのか?

 これで論理の結びつく可能性は高まる。


 さらに誘導する。

 最初の「a.正義/b.悪」の拮抗は、実は等分な選択肢として下人の前にあるのではない。abが引き合っている、などと言ったのはミスリードだ。

 門の下で下人が置かれていたのは、どのような力とどのような力の拮抗か?


 「飢え死にをするか盗人になるか」という表現は本文にも出てきているが、これが既にミスリードだ。

 下人は何もないまっさらな状態からこの選択肢の前に置かれて迷っているわけではない。現状このままではa「飢え死に」してしまうのだから、下人にとってはb「盗人になる」を実行できるかどうかが問題だ。

 とすると、拮抗しているのは、bを実行する力(①)とaの引力もしくはbの抗力(②)だということになる。

 「盗人になる」を実行する力①→

飢え死に/盗人

  正義/悪

 ←②正義感+悪への抵抗感

 バランスが変わるとすれば、この右へ向かう力①と左へ向かう力②のどちらか強くなるか弱くなるか、だ。

 どちらであるかは明らかだ。①が変わっているわけではないことは直観的にわかる。①が変わるとは例えば「極限状況」が物語の後半に向かって高まっていくような変化によってだろう。それは確認したとおり描かれていない。とすれば②が変わったということだ。

 この拮抗がバランスを変えたのは、どの時点で、何によってか?


 最初に左に振り切ったのは、最初に「憎悪」が心に燃え立った時だ。これは老婆の行為を目撃したことによる。この時急に②が強くなって①を完全に凌駕してしまう。

 問題は右に振り切った時だが、これは厳密にはいつか。その変化を引き起こした契機が老婆の長広舌だと考える一般的解釈によれば聞いた後ということになるが、それよりも前に契機があるとすれば、二度目の「憎悪」の時点しかない。つまり具体的には老婆から髪を抜く理由を聞いたことによってだ。

 繰り返すが、それは①が強くなったわけではない。

 ②が弱くなって、①が優勢になったのだ。

 バランスの変化の局面には同じ「憎悪」がある。②の力は「正義/悪」の力の釣り合いの変化で強さが変わる。それがどのようにして起こるのかを明らかにすれば良い。

 この二度目の変化がなぜ起こったかという問いは、すなわち最初の問い「なぜ引剥ぎをしたか?」に他ならない。


2025年12月10日水曜日

羅生門 13 最終考察のヒント

 下人の「心理の推移」が、どのような論理によって引剥ぎという「行為の必然性」を導き出すのか?

 「老婆の論理」に拠ってだ、と考えるとそこで思考停止してしまう。だが、「老婆の論理」を否定して、「心理の推移」が「行為の必然性」にいたる論理を見出すことには、やはりある発想の飛躍が必要だ。

 ここまでの心理の分析のすべてがその手がかりになるはず。丁寧にたどって、それが「降りて」くるのを待とう。


 考える手がかりをいくつか提供する。

 AB論争から明らかになったことを思い出そう。「なぜ引剥ぎをしたか」という問いには「なんのために引剥ぎをするか」と「なぜできなかった引剥ぎができるようになったのか」という問いが重なっている。一般的な解釈の「極限状況」は前者に対応し、「老婆の論理」は後者に対応している。また、ディベートにおけるA支持者は後者に答えようとしており、B支持者は前者に答えようとしているように見える。

○なんのために引剥ぎをするか

→極限状況=B「生きるため」

○なぜできなかった引剥ぎができるようになったのか

→老婆の論理=A「相手もしているなら」

 問題は下の問いだ。これを「老婆の論理」からではなく、「心理の推移」によって後者の問いに答える論理を考えよう。


 さてこの問いに対する答えがそれなりに用意できたら、そこから「主題」として抽象化する飛躍の前に、一段階、次のような問いを置いたことを思い出そう。

引剥ぎという行為の意味は何か?

 「意味」を語るためには抽象的な把握を必要とする。

 授業ではこれを考えるために、例えば「実用/象徴」という対比で考えてみることを提案した。

 「実用」だとみなすのは先のB支持だが、それだけで説明することはできない。

 「象徴」のみで解釈する立場はAのみを重視するということだが、これも難しい。

 「実用」を否定せず、そこにAではない、どんな「象徴」性を認めるか?


 それを表現した先に、さらに主題へと抽象化する。


 さて、門の下で下人の中にあったのは、どのような論理・価値の拮抗か?

 具体的には「a.飢え死にをする/b.盗人になる」という選択肢の間で逡巡している。これを抽象化する。

 「死/生」が挙がるが、下人は「死」を「選択」しようとしているわけではない。

 選択すべき価値としては「善/悪」も悪くないが「a.正義/b.悪」がいいだろう。「a.良心・倫理/b.利己心・エゴイズム」などもいい。

 最初の時点で「a.飢え死に/b.盗人」に迷うということは、上の価値が拮抗しているということだ。

 この拮抗のバランスは、途中完全にa「飢え死に」に傾く。

下人は、なんの未練もなく、飢え死にを選んだことであろう。

 そして最後には完全にb「盗人」に傾く。

飢え死になどということは、ほとんど考えることさえできないほど、意識の外に追い出されていた。

 つまり最初の「a.正義/b.悪」の拮抗は一度完全にaに振り切れ、その後完全にbに振り切る。

 この変化は極端だ。

 「老婆の論理」説は最後にbを選ぶ必然性を説明しているだけで、aに振り切る極端な変化はなぜ生じているのか、なぜそのことを執拗に書くのかという疑問には答えていない。

 二度の極端な変化は、いずれも重要だ。不自然なことには意図がある。

 それらは何を示すか?


2025年12月8日月曜日

羅生門 12 「得意と満足」「失望」「憎悪」

 奇妙な「憎悪」は、最後に言及される「勇気」(この場面では「勇気」という言葉は使われていない)を下人の心に生み出す。それに動かされて下人は老婆を取り押さえる。

 その後におとずれる②「安らかな得意と満足」もまた不自然だ。

 どのように?


 この「得意と満足」は「老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されているということを意識した」からだと言われているし、「ある仕事をして、それが円満に成就したときの」という形容がついている。説明はされている、にもかかわらずちっとも腑に落ちない。そんな場合か、と思う。この脳天気さは到底「極限状況」に置かれた者の心理ではない。

 これは老婆の行為を「悪」と判断する理由が「この雨の夜に、この羅生門の上で」と述べられることに似ている。書いてはあるが、どうしてそれが理由になるのかが読者にはわからない。読者にわからない理由が、あえて述べられている。

 だがもっと明確にこの不自然さを指摘しよう。

 この不自然さは、ある順序の転倒によって生じている。

 ②「安らかな得意と満足」が不自然だと感じられるのは、何より前に「得意と満足」が生じているからか?

 当然あるべき何がないことが不自然なのか?


 老婆の返答をまだ聞いていないのだ(各クラスでこれを答えた者たちは自慢して良い)。

 下人は「何をしていた」と問うが、老婆の答えを聞く前に「満足」している。これが違和感の理由だ。

 これもまた、①「憎悪」の分析と対になっている。「悪」であると判断する合理的理由はないまま断定して燃え上がった「憎悪」は、その理由についての疑問が氷解する前に消滅する。

 つまり、髪の毛を抜く「理由」が「憎悪」の当為を支えるものではないということだ。

 このことが意味するのは何か?


 次の③「失望」ももちろん不自然だ。

 この「失望」から何が考えられるか?


 この「失望」も読者の自然な共感・理解を超えている。だから「なぜ下人は失望したか?」と訊きたくなるが、この問いでは答えまでの距離が遠すぎる(だが後でもう一度訊く)。

 まずこう考えよう。この記述を反転させるとどうなる?


 「平凡」であることに「失望」しているのだから、下人は「非凡(特殊・異常…)」な答えを「期待」していたことになる。

 では下人はなぜ異常なことを期待するのか? そして「非凡」な答えとはどのようなものか? というより、このことは何を示しているか?


 「失望」とともにまた再び「憎悪」が浮上してくる。

 ここでの分析には対比を使う。①「憎悪」と③「憎悪」を比較する。

 両者の共通点と相違点は何か?


 比較するためには共通性が前提となるのだが、みんなには相違点を挙げる方が容易だ。

 では相違点は何か?

 ①が、老婆の行為の理由がわかる前に生じた「憎悪」であるのに対し、③は、わかってから生じた「憎悪」である。また、①が「あらゆる悪に対する」という、奇妙に拡散した対象に向けられているのに対し、③は老婆という限定した対象に向けられている。

 対象が「不特定」(一般化)か「特定」(限定的)か。

 また、①が燃え上がるような「憎悪」であるのに対して、③の「憎悪」は、「冷ややかな侮蔑」とともにある。

 「熱い憎悪」と「冷たい憎悪」。

 こうした差異は何を示しているか?


 一方、共通点は何か?

 「また前の」という形容がわざわざ付されているのは、明らかに①の「憎悪」と③の「憎悪」に共通性があることを示している。そう書く意図があるはずなのだ。それが何であるかを理解しなければならない。

 だがこれを言葉にするのは難しい。聞いてみるとあっさり出てくることがある一方、なかなか出てこないで時間がかかる場合もある(これもまた、各クラスでこれを答えた者たちは自慢して良い)。

 実は拍子抜けするほど簡単な答えだ。

 共通点は、どちらも「悪に対する憎悪」だということである。

 このことをなぜ確認する必要があるかというのは、最終的な考察で明らかになる。


 またこの憎悪は「冷ややかな侮蔑といっしょに」下人の心に入り込む。

 この「冷ややかな」は、老婆の話を聞く下人の態度「冷然と」に、また「侮蔑」は「嘲るように」につながっているように思える。

 それなら「かみつくように」「手荒く」という老婆に対する敵意は「憎悪」からつながっていると言ってもいいかもしれない。

 それを認めるならば、先の「嘲る」「かみつく」「手荒く」「冷然と」といった、引剥ぎの実行周辺の形容からうかがい知れる下人の心情は、老婆の長広舌を聞く前に、既に生じているということになる。

 となると「嘲る」について前に一度考えた説明も、あらためて考え直す必要がある。


 ここまで見たような念入りに書き込まれた不自然は、それがこの小説にとって意味のあることだということを示している。

 「行為の必然性」は脆弱な「老婆の論理」に拠るのではなく、「心理の推移」によって準備され、その論理的帰結によって導かれている。

 とすればその論理とは何か?


羅生門 11 「憎悪」の分析

 「羅生門」の顕著な特徴である執拗な心理描写を有意味化し、そこから「行為の必然性」を導き出す論理を見出す。

 ここで考察すべき「心理」を以下の三点に整理する。梯子を登ってから老婆と応答するうちに下人の心に訪れる大きな変化である。

①「老婆に対する激しい憎悪」

②「安らかな得意と満足」

③「失望」「憎悪」「冷ややかな侮蔑」

 ①の直前の「六分の恐怖と四分の好奇心」までは不審な点はない。状況から自然に生じていることが納得される心理だ。③の後の「嘲るような」「かみつくように」は後ほど考察する。

 これらの心理の描写や形容、すなわち記述そのものを分析せよ、と要求したいのだが、「分析」とは何を考えることなのか?


 ①の「憎悪」に、読者はついていけないものを感ずる。どうみても不自然だ。解釈と納得が要請される。

 思いつきやすい問いは「なぜ憎悪が湧いてきたか」だが、これは難しい。書いてあることは指摘できる。だがそれが腑に落ちないからこそ、それについて考えようとしているのだ。そもそも読者はこの「憎悪」に共感することができずにいる。だから自分の心を探って、それと照らし合わせて推測することができない。

 「憎悪」がこのように書かれていることの意味を捉えたい。

 そこでまずこう考えよう。

 読者が①「憎悪」の描写に感ずる不自然さはどこから生じているか?


 「憎悪」はまずその不自然さ故に考察すべきであると感じられている。その不自然さを分析する。

 分析というのは、ある種の抽象化をすることだ。そしてこれができることが「説明」という行為にとって欠かせない条件となる。

 「どこがおかしいか?」と問うたとき、本文の一節をそのまま引用して「だからおかしい」と言ったのでは「説明」にならない。それが「おかしい」というのがどういう論理に基づくのか、一段抽象度を上げる。

 こういうときにも「対比」の考え方を使う。どうだったら「自然」なのか、どうでないから「不自然」なのか、という説明を考えるのだ。


 授業で提示されたのは次のような諸点。

  • 急すぎる。いきなり。
  • 激しすぎる。過剰。極端。
  • 憎悪の対象がなぜか一般化する(「あらゆる悪」)。
  • 自分が被害を受けるわけでもないのに憤っている。
  • 自分が盗人になるかどうか迷っていた事実が棚上げされている。
  • 老婆の行為の理由がわかっていないのに「悪」と決めつけている。

 これらの特徴は、相反する方向性をもっている。

 対象の一般化自分が害を受けないこと理由の不明といった特徴は、その「憎悪」が激しいことに反している。「憎悪」すべきことが納得されれば激しいのも当然だと思えるかもしれないがそうした納得はない。だからこそそれが「過剰」だと感じられるのだ。こうした矛盾する方向性が、この「憎悪」を不自然だと感じさせている。

 作者はそうした不合理を充分承知の上であえてそのことを読者に明言してみせる。

従って、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。

 悪であるとする理由がわからないまま下人が「憎悪」する不自然さに作者は意図的であり、なおかつ意図的であることを読者に伝えようとしている。


 下人の「憎悪」は確かにおかしい。よくわからない。

 といって完全に理解することができなかったら、もっと読者の注意を引くはずだ。

 だから読者は下人の「憎悪」をそれなりに了解してもいる。

 死体の髪の毛を抜くことはなぜ悪いのか? とりあえず読者はどう理解しているのか? 通読したときには自分はどのように理解したのか?


 「他人のものを盗むのは良くないことだから」ではない。本文には「下人には、もちろん、なぜ老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。」と書いてある。下人は老婆の行為を「盗み」だと判断して「悪」と決めつけているわけではない。


 とりあえずこんなふうに言えればいい。

 死体の損壊を、死者への冒瀆と感じて憤っているのだ。

 だがそんなことを感じていられる状況ではなかったはずだ。下人は生きるか死ぬかという状況ではなかったか。羅生門は死者が投げ捨てられるのが日常化するほど荒れ果てた場所ではなかったか。そんな状況で今更死人の髪の毛を抜くことに、突如「憎悪」が燃え上がってしまうというのは当然のことなんだろうか。

 だからこそ、ここには「極限状況」などないのだ、とも言えるのだが、ともあれ読者はこの「憎悪」に違和感を感じつつも、下人が老婆を「悪」と決めつける判断は全く理解不可能というわけではないから、この「憎悪」の不自然さがどのような意味をもっているかを本気で追究することから巧妙に目を逸らされている。

 読者が先回りしてこうした推測でひとり合点する一方、下人にはそれを判断することはできない、と作者はわざわざ明言する。

 では作者は下人が判断した根拠を何と書いているか?


 かろうじてそうと認められるのは「この雨の夜に、この羅生門の上で」という一節だ。それに続けて「それだけで既に許すべからざる悪であった」という、これもまたよくわからない断定がなされている。

 わかろうと思えば、確かにそれは不気味な雰囲気を醸し出している舞台設定だし、もうちょっと合理的に言っても、死体がごろごろ放置されているような場所に、わざわざ雨の夜にやってくるのは、何か不穏当なことをするつもりだからだろう、といった納得をすることはできる。

 だがこれがなぜ「悪」と判断する根拠なのか、すんなりとは腑に落ちない。読者はわかったようなわからないような曖昧な気分にさせられる。

 これは上記の、下人が老婆の行為を悪と判断した理由を読者が先回りして推測してしまうことと似ている。死人の髪の毛を抜くことは確かに悪いことのように感じる。そして「この雨の夜に、この羅生門の上で」しているのだから、確かに悪いことなのかもしれない


 さて、注意すべきはこの表現が羅生門の上層に上る途中にも見られることである。

この雨の夜に、この羅生門の上で、火をともしているからは、どうせただの者ではない。

 この反復は何を意味するか?

 こう言ってみよう。


 これは、下人には   があったことを示している。

 さて空欄には何が入る?


 「予断」が思い浮かんだら大したもんだ。高校生からは出てこない語彙だ。

 「思い込み」「前提」あたりが出てくれば上出来。

 「先入観」が出ればOK。

 下人は既に老婆の行為を目撃する前に、それが異常なことであると決めつけているのだ。

 これは下人が老婆の行為のわけがわからないまま悪と決めつけていることと正しく整合している。


 下人の「憎悪」は、老婆の行為を「悪」と決めつけるために、読者がかろうじて了承できるような「死者への冒瀆」といった理解の余地を残しながら、一方でそうした納得できるような理由は注意深く否定され、代わりによくわからない理由が置かれる。読者は宙吊り状態におかれる。なのに、とりあえずの納得もできるから、それ以上には考えようとしない。

 だが注意深く読むと「憎悪」についての描写、形容は、やはり意図的に不自然に書かれている。この不自然さは、下人の心に生じた「憎悪」が読者にとって共感できないという意味でも不自然だが、それだけではなく、こうした情報をどのような論理に組み込むべきかがわからないことが、この部分を「不自然」と感じさせている。下人の心理が共感しにくいという以上に、それを不自然に描こうとする作者の意図がわからないことが「不自然」なのだ。

 こうした分析は、すべて「行為の必然性」につながるべきであり、その論理の中でこうした違和感を感じさせる表現がなぜ必要なのかは明らかにされねばならない。


羅生門 10 「心理」を考える意味

 一般的解釈において未解決な問題とは何か?

 これがみんなからすんなりとは出てこなかったのは、やはり注意深く小説を読んでいないのだとも言えるし、全体をバランス良く客観視することができていないとも言える。

 実はそれは生徒ばかりの問題ではない。世の国語の先生も似たようなものだ。

 どれほど繰り返し「羅生門」を読んでいても、それが問題であることが意識できないのは、小説を読んでいるのではなく、「一般的解釈」によってこの小説がわかっていると思い込んでいるからだ。

 一小説読者として素朴に読めば、それが気にならないはずはない。


 いや、気になっていたことを表明していた人もいる。最初の課題で「羅生門」最大の「謎」として既に「憎悪」や「得意と満足」や「失望」についての疑問が散発的に挙がってはいる。

 それらのどれかを単独でとりあげるのではなく、まずこれらを一括して、一段抽象度を挙げて表現したい。

 「羅生門」を読むと、その詳細で異様な心理描写に誰もが違和感を抱くはずだ。執拗に描写される下人の心理は、その一つ一つに共感できないばかりか、にわかには理解しがたい飛躍によって急変する。

 これを、一つ一つばらばらにではなく、まとめて「心理描写」「心理の推移」といった抽象度で表現できることが重要だ。そうした抽象的・包括的な把握こそ国語力というのだ。

 ところでようやく思考がそのような抽象度に届いたときに、それを「下人の心情」と表現する人は多い。だがここは「心理」という言葉を使いたい。特にここから先の考察には「理」を明らかにすることが重要なのだ。「心情・気持ち」という言葉は国語科教育が論理よりも共感を重視することの表れかもしれない。だがそうした表現は曖昧な読解を許容することになる。共感も、まず適切な読解の上にしか生じ得ないはずだ。

 小説に書かれていることには必ず意味がある。特別な意味はない、という「意味」でさえ、そう確定されるまでは、それは「完全な」解釈にはいたっていないということだ。まして「羅生門」の異様な心理描写が特別な意味を持たないとは到底考えられない。

 一般的な「エゴイズム」論的「羅生門」把握では、最初の「極限状況」と最後の「老婆の論理」を短絡させてしまえば、それだけで下人の「行為の必然性」は説明されてしまう。そこに中間部分の「心理の推移」が意味するものは組み込まれておらず、宙に浮いている。

 これが、従来の「エゴイズム」論が「羅生門」という小説を適切に捉えているとは思えない最大の理由だ。

 こうして描写される「心理の推移」には何の意味があるのか?


 わずかに「心理の推移」が主題に関わるとすれば、下人のその変わりやすい心理こそが「行為の必然性」を支えている、とする立論だ。

 根拠の貧弱な老婆の論理を鵜呑みにしたのも、不安定故の気の迷いだ。主題は「移ろいやすい不安定な人間心理」とでもいうことになる。

 確かに、推移の一環としてこの「行為」をとらえるならば、そのような理解における「必然性」はあるといえる。

 だがそれでは、結局の所、物語の決着点としての「行為の必然性」は逆に、むしろ薄弱になる。単にふらふらと一貫性のない人物がたまたま、ある時点でそちらに傾いた、ということになるのだから。そのような人物は、次の瞬間にはまた、自分の行為を反省して恥じるかもしれない。

 だが、「冷然と」老婆の話を聞いて、「きっと、そうか」と念を押し、「右の手をにきびから離して」引剥ぎをする下人の行為には、何かしら、この物語における決着点を示しているという手応えを感ずる。

 それは、途中に描かれる心理のような「推移」の一過程とは違う、この物語の主題に関わる決着点であるという感触だ。それは「不安定な心理」説とは相容れない。


 詳細な心理の描写には、主題の把握に関わる重要な意味があるはずだ。そう考えると、老婆の長台詞に至る前までの「心理の推移」こそが「勇気を生む」必然性を用意しているのであって、老婆の言葉は、単なるBGMとまではいわなくとも、下人の心が定まる間の時間経過ということになる。

 「老婆の論理」ではなく「心理の推移」が「行為の必然性」に決着する論理を考えなければならない。



羅生門 9 未解決の問題

 「極限状況」+「老婆の論理」=行為の必然性という一般的な解釈は、一見確かにわかりやすい。だが上記に見たように、詳細に考えてみるとそれは脆弱な論理によってわかった気になっているにすぎない。

 だがこうした論理による「羅生門」理解に納得しがたい理由は他にもある。

 それは、 ある重要な小説要素がまだ解釈も、言及さえされていないまま、一般的「羅生門」解釈では論理が完結していることだ。

 それは何か?


 気になることはいくつもある。

 なぜ突然フランス語が使われるのか。

 なぜ「作者」がたびたび登場するのか。

 なぜ下人が一場面だけ「一人の男」と表現されるのか。

 だがこれらの疑問は些細なことだ。大学生だった芥川が技巧を凝らそうと工夫したのだろう、というくらいで看過して良い。

 なぜ「羅城門」が「羅生門」と書かれるのか。

 「羅生門」とも書くのだ。そこに「生死がテーマだから」などと説明するのはいたずらに理屈をこねているに過ぎない(しかも解釈できてしまったし)。


 下人の行方は?

 ある意味ではわからなくても良いのだが、わかる、とも言える。

 「羅生門」が最初に雑誌に載ったとき、最後の一文は「下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつゝあつた。」だった。芥川は下人の最後の引剥ぎを、盗人になる決意として描いている。

 それを「下人の行方は、誰も知らない。」にしたからといって、そこまでの作品の論理が全く変わるわけではない(もちろん、重要な変更が全体の解釈の変更を要請するケースがありえないとは言わないが)。

 少なくとも「行為の必然性」は変わらない。それに対する作品全体でのメッセージがいくらか変わることがあるにしても。

 だからまあ何となく余韻をもった終わり方にしたかったのだろう、くらいでいい。

 他に動物比喩が多用されているという指摘もあったが、再重要ではない。生が剥き出しになった動物的な世界を描こうとしている、などと説明すれば一般的解釈に収まる。


 「にきび」は?

 これは確かに解決が必要な問題だ。

 それは、とにかくそれが意味ありげだということに拠っている。繰り返し言及される「にきび」はどうみても単なる生理現象以上の何かだ。とりわけ結末で老婆に襲いかかるときに「にきびから手を離す」ことには、明らかに何らかの意味がある。

 「にきび」は何を表わしているか?

 ここでは「にきび」を「象徴」と捉えることが必須だ。

 「象徴」とは何か?


 「象徴」という言葉は誰でも知っているだろうが、それを次のように明快に答えることは難しい。

ある具体物がある抽象概念を表わしていると見なされること

 「鳩は平和の象徴だ」というとき、という具体物平和という抽象概念を表わしている。

 もちろん、鳩が単なる鳥類の一種である鳩そのものでしかないこともある。鳥類図鑑に載っている鳩はただの鳩だ。だが、「平和式典」のニュース映像などで青空を背景に飛ぶ鳩の群は、それが「平和」への祈念を表わしていることが視聴者に了解されている。そういう了解が表現者と享受者の間に成り立っているとき、それは「象徴」と見なされる。

 小説などの虚構では、作者がそれを「象徴」として描くことが意図的であるかどうかはともかく、読者がそれを「象徴」として捉えることはある。「羅生門」の「にきび」などは、具体物として読むべきではない。「烏(カラス)」は「荒廃」や「不気味さ」だろうし、「きりぎりす」は「秋」であり「時間」だ(きりぎりすが姿を消すことで時間の経過が表現されている)。

 では「羅生門」における「にきび」は何の象徴か?

 引剥ぎの実行にあたって手を離すのだから、それは「迷い」「葛藤」の象徴だといえる。

 あるいはここまでの「一般的解釈」からすれば「良心」「正義」「道徳」「倫理観」あたりか。そこまで心にあった「良心」から手を離して引剥ぎをするのだ。

 あるいはそれを「若さ・未熟」などと表現することもできる。「倫理観に縛られて悩む若さ故の葛藤」などと言えば一続きに言える。

 そこから手を離させたのは「エゴイズム」だと言えば、「にきび」の解釈は従来の一般的解釈の枠内で可能だ。


 では何が?

 まだ重要な未解決要素とは何か?

 それは「にきび」以上に、読者にとってはあからさまに気になるはずであり、なおかつ一般的解釈の論理にまだ組み込まれていない小説要素だ。

 それは何か?


羅生門 8 「老婆の論理」はあるか

 では行為の必然性を支えるもう一つの柱「老婆の論理」はどうか?


 先のAB論争は、「老婆の論理」と引剥ぎという行為の必然性との関係、ひいては行為の意味を問い直すことにつながる。ABのどちらを重視するかは、下人の引剥ぎを「自己正当化の論理を老婆自身に投げ返す行為」と捉えるか「悪の容認の論理を受けて盗人になる決意」と捉えるかの選択につながる。

 従来の理解は下人の行為を後者として説明しているのだが、実際に訊いてみると前者を支持する者の方が多い。これは、後者のように考えることは、実はそれほど読者の実感に沿ってはいないことを示している。「極限状況」同様「老婆の論理」もまた、小説を読む読者の実感と乖離している。

 丁寧に論理をたどろう。先に三つに整理した立場のうち、3、引剥ぎは「生きるため」であり、それを語るBの論理が下人を動かしたのだとする理解はどうか?

 だがBは最初からわかっていたことだ。実際に、物語冒頭の下人は次のような認識をもっている。

この「(飢え死にしないために手段を選ばないと)すれば」のかたをつけるために、当然、そのあとに来るべき「盗人になるよりほかにしかたがない。」ということを、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。

 下人は物語の最初から「(生きるために悪を肯定する)よりほかにしかたがない」ことがわかっている。わかっていてできなかったのだ。老婆が何かしら下人の知らなかった認識や論理を語っているわけではない。したがって下人を動かしたのはBではない。

 この主張は実に論理的だ。やらなければ「しかたがない」とわかっているのにできずにいたことがなぜできたかというと、やることは「しかたがない」とわかったからだ、というのは無意味な循環論法だ。

 この論理はやはり脆弱であり、議論が進むとほとんど支持者がいなくなった。

 それでもなお次のように考えるのならば、かろうじてBの解釈も可能かもしれない。

 「羅生門」は、自分でわかっているのに実行できなかったことでも、実際に実行している者を見、その言葉を聞くとできるようになるということもあるという人間心理を描いているのだ、人は大義名分によって動く、他人の言葉を免罪符として実行しにくい行為に踏み切ることがある、「羅生門」はそうした人間心理を描くことを主題としているのだ。

 こうした解釈は、「生きるために持たざるを得ないエゴイズム」などという大仰な主題設定よりはよほど気が利いている。芥川なら書きそうだという感じもする。

 だがこれも簡単には納得できない。仮にそのような心理を主題とする小説であるならば、最後の引剥ぎの直前に、老婆の語ることは既に自分もわかっていたことだという認識を下人に語らせるか、気づかない下人に代わって「作者」が解説してしまうはずである。そうでなければこうした心理が行為の必然性を支えているという、小説の主題の在処が読者には伝わらない。周到な芥川がそこに気を配らないとは考えにくい。

 それに、これでは「嘲る・かみつく・手荒く」の説明ができない。老婆と同じように「生きるため」の悪を受け容れるならば、せめて開き直りの後ろめたさを老婆と共有してもよさそうだ。


 ではこの攻撃性はやはりAが下人を動かしたことを示しているのか。

 1の解釈のように、「自己正当化」の理屈を言う老婆に、そっくりそれを投げ返したのだ、という皮肉の切れ味は確かに小説の味わいとしても悪くない。そしてこれは「極限状況」は実は描かれていないという見方にも整合する。

 だがこれも首肯できない。

 それでは物語の主人公がむしろ老婆ということになってしまう。利己的な自己正当化の論理、詭弁によって逆に自らが罰を受けるアイロニカルな因果応報譚として「羅生門」を捉えることになるからだ。そのとき、下人はいったい何者なのか。単に老婆の論理を反射する鏡なのか。下人はどのような立場で老婆の論理を投げ返しているのか。

 これでは結末におけるこの行為が、冒頭の下人にとっての「問題」と対応しなくなる。引剥ぎをするにあたって生まれてきた「勇気」とは「さっき門の下で、この男には欠けていた勇気である」と明確に書かれている。これはこの行為が冒頭の迷いに対する決着であることを示している。単に引剥ぎによって老婆を懲らしめたのだという解釈は、引剥ぎに踏み出す最後の場面の印象だけにとらわれて、小説全体を捉えてはいない。

 では2の立場はどうか。

 少なくともAはBを支える根拠にならない。生き延びるためには、いちいち相手もそのようなことをしていたかどうかを確かめることは実用的ではないからだ。

 では行為の原理はBだが、その契機がAであると考えることは可能か。それは少なくとも従来の「羅生門」理解とは随分違った解釈になるはずである。主題は「極限状況における生きるためのエゴイズム」などという大仰なものではなく、老婆の自己正当化の論理に見られる、いじましくもしぶとい人間の悪知恵の「エゴイズム」とでもいうことになろうか。

 だがそれは「羅生門」という小説全体の書き込みが示す空気感と不釣り合いに思える。「生きるための悪を肯定することへの迷い」という当初の問題がどう解決しているのかがわからない。


 「老婆の論理」はどのように考えても、結局下人を動かすには論理的に脆弱だ。にもかかわらず「老婆の論理」が行為の必然性を導いていると考えられていることには理由がある。

 それは何か?


 理由は明白だ。老婆の長広舌の後の次の一文。

これを聞いているうちに、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。

 ここには、老婆の言葉が下人の中に「盗人になる」勇気を生じさせていると書いてあるように見える。世の中の全ての「羅生門」論は「老婆の論理」が行為の必然性を支えているとして疑わない。

 本当にそうか?

 だがこの理路を否定するには、実際に別の論理を提示するしかない。後半で展開する予定の授業はそれを企図している。

 この時点では抜け道の可能性を示しておく。

 次の二つの表現はどう違うか?

1.これを聞いているうちに、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。

2.これを聞いて、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。

 並べてみればすぐにその違いは感じ取れる。

 といってその違いを適切に説明することが容易なわけではない。Aは「聞いている」途中に「生まれてきた」が、Bは「聞いた」後だ、などという説明はイマイチ。

 B「これを聞いて」は、老婆の言葉と「勇気が生まれてきた」の間に因果関係があることを示している。だが原文のA「これを聞いているうちに」は、言葉通りに解釈すれば、「勇気が生まれて」くる間の時間経過を示しているだけだ。因果関係はあってもいいが、ないと考えてもいい(これを、原文では老婆の言葉が単なるBGMであってさえ構わないということになる、と言った生徒がいた。巧みな表現だ)。

 一般的な「羅生門」解釈は、「これを聞いているうちに」を無自覚に「これを聞いて」と言い換えている。「老婆の論理」と行為の必然性の間にある因果関係は決して疑われることなく前提されてしまう。この思い込みによって、老婆の言葉がどのようにして下人に引剥ぎをさせたのかが説明される。これは論理が転倒している。老婆の言葉と引剥ぎの実行の間に論理的必然性を認めるから因果関係を認めているのではなく、先に因果関係があるはずだとみなして、その論理を説明しようとしている。

 だが上記に見たとおり実はそうした因果関係に、それほどの論理的強度はない。


 この小説に「極限状況」や「老婆の論理」はあるか?

 ある。だが「極限状況」を身体性において読者に感じさせようとはしていないし、「老婆の論理」は新たに「勇気が生まれてきた」という変化を下人に起こすほどの論理的必然性をもたない。この二つの要因で引剥ぎという行為の必然性を説明することはできない。

 生きるための悪の容認、などという主題が想定されうるとしても、それがおよそこのように説得力のない形で作品として成立させようと考える作者がいるなどとは到底信じられない。

 それでも単にこれが失敗作なのだと断じないのならば、下人が引剥ぎをすることの必然性を支える論理を、芥川が意識的に作品に書き込んでいることを信じなければならない。その信頼がなければ「羅生門」を読むことはできない。


2025年12月7日日曜日

羅生門 7 「極限状況」はあるか

 「極限状況に置かれた下人が老婆の論理を得る」ことで引剥ぎをした下人の行為を通して、「人が生きるために持たざるを得ないエゴイズム」を描いていると考える「羅生門」理解はネット記事をみても一般的だ。これはそもそもそのように考える文学者の研究論考が、学校教育を通じて一般化したものだ。つまり専門家も含めてみんなそう考えているのだ。

 こうした「羅生門」理解を「理解する」ことは、繰り返すが授業の目的ではない(そもそも「羅生門」自体を理解することすら授業の目的ではない)。そんなものは国語の学習としてはほとんど意味がない。

 それどころか、みんな気づいているとおり、これからこうした一般的な「羅生門」理解を否定するつもりなのだ。


 これまでたどってきたような「羅生門」の解釈に納得がいかないのは、端的に言って面白くないからだ。

 これは解釈が面白くないということではない。そのような主題が、小説の面白さとして想定されていると考えることができないということだ。

 このように理解される「羅生門」は浅はかで凡庸な小説だとしか思えない。このように書かれた小説が、そうした面白さを実現しているはずだと考える小説家がいるなどと思えない。

 こうした理解は小説を読んだ印象と乖離している。それはただ「羅生門」というテキストを、小説として読まず、理解のための理屈を立てているだけだ。

 授業を受ける生徒としてではなく、小説読者として考えよう。

 今までたどってきた「一般的な解釈」はどこがおかしいか?


 小説読者として違和感を覚えるのは、まず「行為の必然性」の根拠が「極限状況」だとする説明だ。

 この説明はどこがおかしいか?


 「極限状況」は、確かにテキスト中に書かれている。

 だがこれが読者に「極限状況」として感じられるはずはない。下人は物語中「腹が減った」の一言もない。動作は素早く、力強い。到底死にそうには見えない。

 つまり言葉の上では確かに「極限状況」ともいえるものは示されているが、下人に感情移入しながら読み進める読者が「極限状況」に置かれていると感じるような肉体的な感触は描かれてはいないのだ。

 小説を読むことは読者にとって一つの体験としてある。抽象的な問題設定が提示されて「思考実験をする」ことと、状況設定、描写、人物造型、様々な要素によってつくられた物語を生きる=「小説を読む」という体験は違う。

 そもそも授業者には昔から「飢え死にか盗人か」という問題設定が「問題」と感じられなかった。「生きるための悪は許されるか」などという「問題」は、随分と暢気なものだ。「極限状況」が本当ならば、そもそも迷う余地がない。だから素朴に言えば、この男は何を迷っているんだろう、と感じていた。

 小説読者が物語を受け取る上で、登場人物の不道徳な行為に対する抵抗のハードルは、現実よりもずっと低い。何せ虚構なのだ。そもそも小説は奇矯な世界を描くのだ。引剥ぎなど、「極限状況」という言い訳があればたやすく受け入れられる。そのような問題が「問題」となる倫理観など、小説読者は持ち合わせていない。だから「飢え死にか盗人か」という選択が問題になること自体がピンとこない。

 ここに「エゴイズム」という言葉をあてはめて主題を語るのも軽すぎる。「極限状況」であれば自分の命が優先されるのは当然であり、そのような根源的な生存欲求を、近代的個人が持つに至った「エゴイズム」などという自意識過剰な言葉で表わすのはまるでそぐわない。

 そもそも「エゴイズム」と「極限状況」を結びつけることに違和感がある。「エゴイズム」などという観念は近代的個人が持つに至った自意識過剰な自意識にすぎない。それは平和な日常においてこそ浮上する問題だ。本当に「極限状況」があるとしたら、そこでむきだしになるのは、もはやそのような言葉が追いつかないような生存欲求だろう。

 「羅生門」にそうした「極限状況」は描かれていない。


 「極限状況」も「エゴイズム」も、まるで内実を伴わない空疎な評語であるとしか感じられない。

 極限状況における悪は許されるか、人間存在のエゴイズムは肯定されるか、この小説の読者はそんな問いを生きはしない。ただ論者がそうした問題設定を観念的に弄んでいるだけだ。「小説の解釈」が「小説を読む」という体験から遊離している。

 だから「生きるために為す悪は許されるか」などという問いを掲げて、そこに「カルデアネスの舟板」を引用したり、法律概念である「緊急避難」などを持ち出したりするのは、なにやら深遠なテーマについて考えているようでいて、実際はこの小説を読むという体験とは何の関係もない(こういうことを言っている教師は世の中にいっぱいいる)。

 意識されてはいるものの確かな肉体的感触として下人に(そして読者に)生きられてはいない「極限状況」は、「行為の必然性」を支えてはいない。

 それはすなわち、作者が下人の「行為の必然性」を「極限状況」に拠るものとは考えていないことを示す。芥川のような巧みな書き手が本当にこうした問題を提起したいなら、そうした問題の前に読者を立たせるはずである。読者を「極限状況」に曝すはずである。下人の窮状を体感させるはずである。

 それをしていない以上、「極限状況」が「行為の必然性」を根拠づけるという説明は説得力をもたない。

 「老婆の論理」をめぐる議論で、Aを支持する者が多かったのは、たぶんそのためだと思う。


 そうはいっても「極限状況」はやはり書かれてはいる。実際に下人は「そうしなければ、飢え死にをする」と言っている。事実としての「状況」の存在そのものは否定できない。

 だが今問うている「なぜ引剥ぎをしたか」は、単に「何のために引剥ぎをしたか」ではなく「なぜできなかった引剥ぎができるようになったのか」という問いでもある。つまり行為の必要性だけではなく、変化の必然性をこそ問うている。

 だから、引剥ぎをしたのが「生きるため」だとしても、そうした「極限状況」が行為の必然性をもたらすという物語の論理を支えるためには、「極限状況」が物語の進行に従って次第に下人の身に迫って――どんどん腹が減って――こなければならない。

 そうした変化が描かれていない以上、「極限状況」は行為の必然性を支えてはいない。


羅生門 6「老婆の論理」を検討する

 ディベートは楽しかった。

 対立は盛り上がる。

 だがどのクラスでも1時間では決着がつかなかった。検討も十分とは言えない。

 だが重要な考察をするいとぐちにもなった。

 「老婆の論理」と引剥ぎの関係を見直すことを企図したこうした検討から明らかになることは、問題は、単に下人がAとBのどちらに動かされているか、ではないということだ。

 この議論を通して、何が明らかになるのか?


 これはあてのない問いだ。だが議論が自己目的化しないために、自分たちが考えていることの意味を俯瞰して捉えるのは望ましいことだ。

 問題はAかBのどちらが正解か、ではない。ABそれぞれを支持することがどのような意味をもっているかを自覚することだ。


 最初に述べたとおり、この議論は「老婆の論理」と引剥ぎという行為の関係を詳細に検討することを目的にしている。

 「ABのどちらが強く下人を動かしたか?」という問いに対して、A:Bの割合が3:7だとしたら、Bの方がより強い、と言うことはできる。

 だがA=3は、この時初めて下人にもたらされた認識なのだから、Aこそが下人を動かしたのたのだと言うこともできる。

 共通した認識から二つの結論が導かれている。


 ここから、実は最初の問い「なぜ引剥ぎをしたか?」には、少なくとも二つの層があることが明らかになる。

 「なぜ引剥ぎをしたか?」には「下人は何に動かされたか?」という問いと「何のために引剥ぎをしたか?」という問いが重なっているのである。後者は言わば「行為の必要性」、前者は「変化の必然性」を問うている。Aは前者に答え、Bは後者に答えている、とも言える。とすれば、問題を整理すればA支持とB支持は融合できるのかもしれない。

 もちろんそうではない、という立場もある。

 あらためて立場を三つほどに整理してみよう。

  1. 下人の心を動かしたのはAの論理であり、この行為は老婆の論理をなぞることで老婆を処罰する意味合いがある。
  2. 行為は「生きるため」だが、下人は老婆のAの論理によって動くことができるようになった。
  3. 行為は「生きるため」であり、Aの論理は下人に不快感を与えてはいるが強く動かしてはいない。あくまでBの論理によって動いている。

 下人の行為を123どれで捉えるかは、「羅生門」の捉え方、つまり主題に直結する。従来の「羅生門」理解は2と3を区別していない。引剥ぎはすなわち、これから生きるために盗人になることを意味する。

 だが1では、この時の老婆に対して行われる行為だというところに重点がある。「生きるため」ではない。

 元々A支持者だった者が支持する2でさえ、従来の「羅生門」理解とは違った理解を示しているはずだ。しかも12を支持する者の方がずっと多い。それは何を意味するかが問われなければならない。


 考えるべきことを抽象的な表現で言うなら、引剥ぎという行為の「意味」が問われている、ということになる。

 議論から見えてきた解釈の相違を選択肢として示すなら、例えば引剥ぎを実用的な行為と見なすか、象徴的な行為とみなすか、とでもいえる。3は「実用」、1は「象徴」だ。


 議論をすることはそれ自体、国語科授業としては意義のあることでもある。議論が盛り上がるのは楽しい。その盛り上がりを読解につながる考察に発展させられればなお意義深い。


2025年12月5日金曜日

羅生門 5 ディベート

 「羅生門」読解のための最大にして最低限の問題について考え、それを主題として表現した。つまりどんなことを言っている小説なのか、はわかった。

 ではこれからは細かい問題か発展的な問題について考察していくのか?

 そうではない。やろうとしているのはやはり最大にして最低限の読解、すなわち「羅生門」とはどんな小説なのかを考えることだ。

 つまり「一般的」解釈を再検討しようというのだ。


 端緒として「老婆の論理」の二つの要素を検討する。

 下人が引剥ぎをする直前の老婆の言葉は「悪の容認の論理」「自己正当化の論理」などと呼ばれる論理を語っているが、ここには二つの理屈が混ざって語られている。

A 相手もしたことなら許される。

B 生きるためなら許される。

 このうち、どちらがより強く下人を動かしているか?

 行為の必然性を支えるのはどちらか?


 一般的な解釈によればBこそ行為の必然性を支えていることになるはずだ。下人は「生きるため」にやらなければならないという状況で、それをやったのだ。

 だが支持者は、学年全体ではA:B=8:2くらいの割合だった。

 Aを支持する者が多いことは、「一般的」解釈が実は複雑な問題を看過したところに成り立っていることを示している。

 「老婆の論理」と行為の実行にはどのような関係があるか、慎重に考える必要がある。


 ここをとりあげるのは、この問題を考えるいとぐちになることが期待されるからでもあるが、意見が分かれるので議論が盛り上がって面白いからでもある。

 これを簡易ディベート形式で議論する。


 さてAを支持する根拠としてどのクラスでも挙げられたのは次の一節。

その時の、この男の心持ちから言えば、飢え死になどということは、ほとんど、考えることさえできないほど、意識の外に追い出されていた。

 これがなぜAを支持することになるのか?


 「飢え死に」を「考えることさえできない」というのだから、生死が問題ではないのだいうことになる…。

 だがそうか?


 「飢え死に」と選択になっているのは「盗人になる」であり、「飢え死にを考えない」は「盗人になることしか考えない」ということだ。

 これは単に心が決まったと言っているだけであり、別にどちらかの根拠になるわけではない。


 ではAを支持する根拠として何が挙がるか?

 原話『今昔物語』の盗人が老婆の抜いた死人の髪や死人の着物も一緒に持ち去るのに対して、小説「羅生門」の下人は老婆の着物だけを剥ぎ取る。引剥ぎが生きるための実用的な行為であるなら、なるべく多くの物を奪うはずだ。これは引剥ぎが「生きるため」ではないことを示している。

 また、老婆が髪を抜く死体の女の身元は、原話では老婆の主人だったと書かれている。これが小説では『今昔』の別の挿話からもってきた、蛇を魚と偽って売っていた女に差し替えられている。原話ではAの論理がそもそも成立しない。この設定の変更によってAの論理が生じているのだから、この差し替えは、Aの論理の重要性を示している。

  • 男が奪った物
  • 死体の女の身元

 これらはA支持と論理的に整合するが、だからAの方が重要であると直ちに根拠づけられるわけではない。その改変には別の意味があるとか、大した意味はないなどということも可能だからだ。

 そもそもA支持者はこれらの論理によってAが重要だと感じたわけではないはずだ。まずAが重要だと感じ、それを補強する論理を探して、右の二点が有効だと考えたはずだ。


 一方B支持者は次の下人の言葉を挙げることができる。

では、俺が引剥ぎをしようと恨むまいな。俺もそうしなければ、飢え死にをする体なのだ。

 言葉通りとればこれは「生きるためにするのだ」と言っているのだから、Bを支持する根拠になる。

 だがこれに対してA支持者は、そんなのは単なる口実に過ぎない、と返すこともできる。

 これでは水掛け論だ。

 だがそれよりも、実はこのセリフこそ、A支持者の「感じ」の根拠なのではないか?

 これを説明するのは難しい。だがこうした小説の微妙な表現のニュアンスを分析的に語ることこそ重要な国語力だ。

 下人はまず「では」と、老婆の言葉を受けていることを強調し、相手が「恨まない」はずであることを念押ししている。その上で「俺も」と、自分と老婆が同じ立場であることを、すなわち自分の行為が相手の論理に則っていることを殊更に主張している。つまりこのセリフは、下人が本当に生きるために引剥ぎをすることを述べているというより、老婆に自分の行為の正当性を認めさせようとしているところに重点があるように感ずるのだ。

 むしろこのセリフの印象こそA支持者がAだと感ずる大きな理由なのかもしれない。


 さらにA支持の根拠を挙げよう。

 必ず指摘すべき重要な論点は、下人が老婆の言葉を聞いた後「きっと、そうか」と念を押す声に付せられた「嘲るような」という形容だ。

 さらにこの場面から、注目すべき形容をあと二つか三つ指摘したい。

 まずは「かみつくように」「手荒く」「冷然と」が挙がってもいい。

 これらの形容は何を意味しているか?

 形容とは、ある記述に、ある傾向があることを示す。取り除いても意味は通ずる。形容の前後を詰めても文として読める。

 つまり形容がなくとも行為は表現できるが、形容によって、この場合は下人の心理状態が表現されるということだ。

 これらの形容は、作者が意図して付加しているのであり、その意味は必ず解釈されなければならない。

 解釈しよう。


 「冷然と」「嘲るように」からは、下人が老婆を見下していることが伺える。

 「嘲る・かみつく・手荒く」は、老婆に対する攻撃的な姿勢を示している。

 「生きるため」に引剥ぎをするのなら、これらの老婆に対する敵愾心が表現される理由はないはずだ。

 さらにこの中でも「嘲るような」はとりわけ的確な分析が求められる。「嘲るような」とは下人のどのような心理を表しているか?

 「老婆を見下している」「馬鹿にしている」は単なる言葉の言い換えにすぎないので不十分。なぜ「見下す」のかを説明しなければならない。

 ここでは、自己正当化の論理がそのまま自分に対する引剥ぎを容認する論理として跳ね返ってくることに気付かない老婆を嘲っているのだ、といった説明がほしい。

 お前、そういうこと言うなら自分がされてもいいよな?

 これこそAの論理の帰結だ。


 一方、Bの根拠を挙げるのは難しい。そのままBを言っている下人の言葉はむしろAを支持する根拠として解釈し直されてしまった。それ以外に挙がるのは次の箇所。

 この場面で「勇気が生まれてきた」と言われている「勇気」は、「門の下で欠けていた勇気」と説明される。

 これは物語のはじめの「『盗人になるよりほかに仕方がない』ということを積極的に肯定するだけの勇気」だ。つまり「生きるための悪」を肯定する勇気だ。Bによって肯定された「勇気」が下人を動かしたのだ。

 これは真っ当にBの論理を語っており、かつ下人の言葉ではなく語り手の言葉=地の文なので信頼できる。これに対するA側の反論はあるか?


 これに対する反論として切れ味鋭かったのはF組Tさんの言葉だった。

 「勇気」がBの勇気であることは認める。だが今問題にしているのは、何が下人を動かしたか、だ。その契機がAであると主張しているのだ。

 そもそもBは元々下人自身が自覚していたことであり、それでもできなかったのだから、この場面で下人を動かしたものは、門の下では下人になかった認識であるはずだ。それがAなのだ。

 この反論自体が、強力なA支持の根拠を示している。


 このやりとりは興味深い問題をはらんでいる。この議論の意味そのものが問われている。


2025年12月4日木曜日

羅生門 4 とりあえず解釈

 さて「下人はなぜ引剥ぎをしたか?」という問いに、現状で答えてみよう。

 謎だと言っているのに答えろとは矛盾した話だが、まあ現状で言えるだけ言ってみよう、と投げかけると、みんなあれこれ喋る。

 言えることがないわけではないのだ。全く支離滅裂な話ではない。それなりには引剥ぎにいたる条件や要因は言える。

 さてここでは、この条件・要因を二つに分けて言ってみよう。あるいは二つの要素を揃えて言おう。

 とりあえず「なぜ」と聞いているので、答えは「理由」だ。「~から。」で終わるように言う。

 そこに二つの要素を揃える。


 文型を指定する。

   において   を得たから。

 それぞれの空欄に当てはまる内容は?


 水色は言わば前提で桃色は言わば契機だ。

 こんなふうに言えば良い。

極限状況において老婆の論理を得たから。

 これはどのようなことを言っているのか?


 「極限状況」「老婆の論理」をそれぞれさらに二つの要素に分解しよう。

 三回の分解過程は、要するに分析的な思考をしようということなのだが、それによって考察を緻密にすることを企図している。

 難しくはない。答えを聞けばわかっていたことだと感じるようなことだ。

 とはいえ「極限状況」の方にどこのクラスも苦労した。抽象度を揃えて二つを並べるのが難しいのだ。「行き所がない」「腹が減った」「このままでは死んでしまう」はいずれも、それこそが「極限状況」なのであって、それを成立させる二つの条件ではない。

 さて、次の2点が揃えばOK。

  • 天災により都が荒廃していること。
  • 下人が主人に暇を出されていること。

 言わば社会的状況と個人的事情、二つが揃って「極限状況」を構成している。まず災害による人命の損失やそれにともなう人心の荒廃が語られる。仏具は打ち壊されて薪とされ、物語の舞台となる羅生門の上には引き取り手のない死体がごろごろと転がっている。そうした中で下人は失職して行くあてもない。それが「おれもそう(引剥ぎ)しなければ、飢え死にをする体なのだ」という、追い詰められた状況を招いている。


 では「老婆の論理」は?

 下人の引剥ぎの実行の直前、老婆が長々と語る理屈は「悪の容認の論理」「自己正当化の論理」などと言われるが、ここには二つの理屈が混ざっている。これを分ける。

A 相手もしたことなら許される。

B 生きるためなら許される。

 老婆は二つの理屈を混ぜてしゃべっている。


 さてこれで下人が引剥ぎをしたわけはわかった。

 だとすると、「羅生門」の主題はどのようなものだと考えられるか?

 「行為の理由」という具体レベルから、「小説の主題」という相対的に抽象度の高い問題に繋げるという抽象化の能力は、国語力にとどまらない重要な思考力の一つだ。

 どのように表現したら良いか?


 考えることは重要だが、これが一般的になんと言われているかをネットで調べることもできる。Yahoo!知恵袋やWikipediaで。あるいはAIに聞いてみてもいい。世の中には国語の先生のブログなどもあれこれある。

 いくつもの記事を読み比べてみると、共通した表現、頻出するワードがある。

人が生きるために持たざるを得ないエゴイズム

 「羅生門」は「エゴイズム」を描いた小説だ、というのが一般的な「羅生門」理解だ。

 「なぜ引剥ぎをしたか?」を「極限状況に置かれた下人が老婆の論理を得たから」だと考えることと、「羅生門」の主題を「生きるために持たざるを得ないエゴイズム」だと考えることにはどのような関係があるか? 

 生きるために悪いことをしなければならない状況に置かれた下人が、生きるためには悪いことをしてもいいのだという老婆の言葉を聞いて、それをしたのだ、人間にはそうした悪=エゴイズム(利己主義)があるということをこの小説は描いているのだ…。

 つまり下人の行為、引剥ぎが、エゴイズムの発露として理解されているのだ。


 このように、「極限状況」と「老婆の論理」は、二つ揃って行為の必然性を支え、それが「エゴイズム」という主題を具現化しているのだというのが、一般的な「羅生門」の捉え方だ。


 さてこれで「羅生門」はわかった。

 もしそうならば、「羅生門」の授業はもうおしまいだ。


 本当にそうか?


羅生門 3 行為の重要性

 ではなぜ、この行為=引剥ぎが「羅生門」を読むためには最も重要だと言えるか?


 どんな小説でも常に登場人物の特定の行為の必然性が物語の「主題」を支えるというわけではない。物語中にはとりたてて必然性に疑問のない大小様々な「行為」が描かれている。「羅生門」の下人は、雨止みを待ち、石段に腰掛け、老婆を取り押さえ、羅生門の梯子を上がったり下がったりする。その中には特別に理由を問う必要のないほど当然の行為も、理由の明示されている行為もある。その中で、「引剥ぎ」は特権的に重要な位置にある。


 下人の心が大きく変化した瞬間だから?

 だが「大きく変化」は他にもある。


 だが引剥ぎは悪への変化であり、これが主題につながるから?

 それは、重要だから重要だと言っているのだ。もちろん重要そうな見通しができることは重要であるという判断の根拠として自然であるとも言えるのだが、いや解釈をする前に重要であることは言えるのだ。

 確かにこの実行には、ある飛躍が感じられる。この行為は何を意味しているのか、そこに必然性を見出さないまま読み終えることができない謎が読者に提示されている。

 引剥ぎが重要だと見なせる理由はその飛躍の大きさとともに、単に物語の終わり近くの行為だから、でもある。

 だがだがそれだけではない。これこそが問題の焦点だと感じられるのは、この行為が冒頭近くの問題提起に対応しているからだ。

 その対応を示すのは、二つの箇所に共通する単語だ。

 何?


 「勇気」だ。

 「羅生門」では冒頭で行為に対する迷いが「勇気が出ない」と提示され、その行為が実行される場面で「勇気が生まれてきた」と語られる。

 つまり物語全体をこの問題と結論をつなぐ論理の中で把握するよう促されているのだ。

 この物語の構造は、明確にその論理を作者が読者に対して提示しているように見える。読者は下人が引剥ぎをすることの論理的必然性を理解しなければならない。


 「なぜ下人は引剥ぎをしたか?」という問いは「何が下人に引剥ぎをさせたか?」という問い、すなわち下人に引剥ぎをさせた物語的な力は何か、を問うている。

 それはつまり「羅生門」という物語における引剥ぎという行為の必然性が問われているということであり、すなわち行為の意味が問われているということだ。


羅生門 2 原話との比較

 「行為」に焦点を絞ることが適当であることを確認するために、この小説のもとになっている『今昔物語』の一編「羅城門登上層見死人盗人語」と読み比べよう。

 原話と、翻案された小説「羅生門」の相違点は何か?


 まず、原話の「羅城門」が小説では「羅生門」と表記されていることにすぐに気づく。

 これはしばしば、小説が生と死をテーマにしているからだ、というような説がまことしやかに語られることがある。だがこれは眉唾だと思う。羅城門が羅生門と表記されるようになったことは歴史的な事実であり、別に芥川の創作ではない。どちらの表記も存在したのだ。それをわざわざ「羅生門」という表記を選んだのだ、と考えることにそれほどの蓋然性があるか怪しい。

 次の2点は重要かもしれない。

 老婆に髪を抜かれている死人の女の素性が違う。原話では老婆の主人、小説では蛇を干し魚と偽って売っていた女だ。これは芥川が小説化にあたって『今昔物語』の別のエピソードを合成したものだ。このことによって主題に関わる相違が生じているか?

 また、原話では盗人は老婆の着物以外に死人の着物と老婆が抜いた髪の毛を奪って逃げる。だが小説では老婆の着物だけを奪う。このことは後の議論にどう影響するか?


 次の諸点に気づいた者は注意力がはたらいている。

  • 原話では羅城門の近くに人の往来があるが「羅生門」では人気はない。
  • 原話では「日のいまだ明」るい時刻だが「羅生門」では上層に上がる頃には暗くなっている。
  • 原話では雨が降っていないが「羅生門」では雨が降っている。

 これらの描写が小説版の、陰鬱な雰囲気を醸し出している。


 さて、最も重要な相違点として挙げられたのは各クラスで共通していた。

 原話との最も重要な相違点は、原話での男の引剥ぎが、最初からそうしようとしていたものとして「迷い」が描かれていない、という点である。原話の「盗人」が小説では「下人」と称されている。

 『今昔物語』の原話では「男はなぜ引剥ぎをしたか?」という問いが生まれようがない。「盗人」が老婆の着物を剥ぎ取るのは当然であり、行為に対する迷いもない。彼は当然のように行為する。だからそもそもそこに「主題」の感触を見出すこともできない。

 ではこの原話は何を伝えたい話なのか?


 この挿話の主題は、盗人の「行為」にあるのではなく、羅城門の上層には死体がいっぱいあった、という「状況」そのものを読者に伝えることにある。老婆と男の「行為」も、その「状況」の一部だ。

 一方「羅生門」では「状況」を背景にして、引剥ぎという「行為」の意味が前面に現れている。

 「行為」は当然「動機」や「情動」によって意味づけられる。つまり下人の「内面」「心理」を考えないわけにはいかない。

 そこにこそこの小説の主題を捉えるいとぐちがありそうだ。


 下人が最後に実行する「引剥ぎ」は、確かによくわからない。なぜ彼はそれをすることにしたのか?

 だがこの問いは自覚的な思考によって選ばれているわけではなく、一読した読者には自然に思い浮かんでいる、といった体の疑問でもある。

 それを自覚的に問いとして立てる。下人はなぜ引剥ぎをしたのか? すなわち引剥ぎという行為の物語的な必然性、あるいは意味を問う。



羅生門 1 問いを立てる

  これから数時間「羅生門」を読む。


 「羅生門」は特異な作品だ。

 発表されてから100年以上経った今、間違いなく、最も多くの日本人が読んだことのある小説なのだ。

 それは人気作だということではない。「鬼滅の刃」が、「進撃の巨人」「ONE PIECE」「名探偵コナン」がいかに多くの読者を得ているとしても、読んだことのない日本人も多い。

 だが「羅生門」を読んだことのある日本人は、16歳から70台くらいまでの日本人の8割くらいにはなるはずだ。みんなのお父さんお母さんも、日本の高校を出ていれば間違いなく読んでいる。こんな小説は他にはない。

 それは「羅生門」が全ての出版社の国語教科書に収録されていて、授業で扱われないこともほとんどないからだ。高校の進学率が長らく9割の後半であり、それら日本の高校生を経験した大人のほとんどが「羅生門」を読んでいることになる。

 いわば「羅生門」は日本人の基礎教養、共通常識なのだ。

 みんなも今回晴れてその大多数の日本人の仲間入りをしたことになる。

 日本人の基礎教養「羅生門」とはどんな小説か?


 読解のために、まず問いを立てよう。

 問いを明確にすることの重要性については言を俟たない。何を考えるべきかを自覚することで思考は集中力を増す。

 「この文章は何を言っているか?」という問いは、常に有益な問いだ。授業でわざわざそう問われなくとも、常に自分で考えなければならない。

 小説の場合、これを「この小説の主題は何か?」などという言い方で表わすのだが、つまりは「何を言っているか」だ。

 「羅生門」が何を言っている小説かは、一読してただちにわかるものではない。わからないから授業で扱うのだ、とも言える。


 だが、このレベルの抽象度の問いに、最初から立ち向かうのは得策ではない。

 まずはもっと具体的なレベルの問いから始めよう。

 といって瑣末な問いではない。「羅生門」を読み解くために最低限であり、かつ最優先されるべき、最重要の問いだ。

 「羅生門」がひとまず「わかった」と思うためには、何がわかればいいのか? 「羅生門」を一読した今、最も大きな謎は何だと感じられているか? 


 主題の考察には抽象化が必要だが、まずここでは具体的な謎を取り上げよう。

 事前課題の回答を見ると、やはりまだ抽象度が高かったり、細部に拘ったりする問いも挙がっていた。

 「下人はどこに行ったか?」を挙げた者は各クラスにいるが、これは最優先に答えを得るべき問題ではない。答えがありそうだという見込みもない。

 「悪は許されるか?」のように抽象的な問いでは考えるべき焦点が曖昧になる。これは「主題」に踏み込みすぎていて、考えるべき行程が多過ぎる。また「Yes-No」で答えられる問いはあまり有益ではない。どちらかの結論が重要なのではなく、その結論を導く論理が重要だからだ。


 「羅生門」における最優先最大公約数的問いは明白だ。

なぜ下人は引剥ぎをしたか?

 物語の終わりに、下人は老婆に対して引剥ぎをはたらく。この行為の意味こそが、「羅生門」という小説の焦点だ。

 6割くらいの回答者はこれを挙げた。

 ただし表現はいくつものバリエーションがあった。例えば「なぜ悪を選んだのか?」「なぜ盗人になることを選んだのか?」などという表現をした者も多かったが、これは避けたい。

 「引剥ぎをする」と「盗人になる」は厳密に同一ではない。「盗人になる」には既に解釈が含まれている。下人が最後に行った引剥ぎが「盗人になる」ことを意味すると見なすことには留保がいる。

 さしあたっての共通認識として、小説内事実として争いのない引剥ぎという「行為」を問いとして立てておこう。


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