2024年1月24日水曜日

永訣の朝 9 ―詩を「体験」する

 かつて室内にいる語り手を想像していた授業者は、冒頭で「いもうとよ」と呼びかけられる妹は眠っている(意識を失っている)ものと特に考えるでもなく想像していた。熱にあえいでいるとはいえ、意識のある妹に「おもては」とか「みぞれは」とかいう窓の外の眺めを描写するのは不自然だからだ。

 だがこの想像は、よく考えると不自然だ。詩句からは、7行目以降に妹が目を覚まして「採ってきて」と言ったようには思えない。「あめゆじゆとてちてけんじや」は、この詩の最初の一行より前に発せられたものであろう。だからこそ「あめゆじゅとてちてけんじゃ」は4回とも回想だと思える。

 とすると、妹に「熱やあへぎのあいだから」みぞれを採ってきてくれと言われた兄は、なぜかその時点では動かず、妹が眠りにつくまで枕元にいて、なぜか窓の外の様子を(心の中で)語りかけ、その後、何をきっかけにしたのか、突如思い立って焦ったように「てつぱうだまのやうに…飛びだした」ということになる。しかもそのみぞれを、いつ目覚めるとも知れない妹に食べさせるつもりなのだ。

 こうした想像は不自然で辻褄が合わない。

 といって、最初の時点で妹が目覚めたままであるとしても、やはり意識のある妹に外の様子を語るのは不自然だし、なぜ頼まれてすぐに採りに行かないのか、何をきっかけに飛び出したのかはやはり説明がつかない。


 それよりもこう考えるのが自然だ。

 語り手は妹に雨雪を採ってきてくれと言われてすぐに、「てつぱうだまのやうに」「おもて」に「飛びだした」のだ。明らかに妹が食べることを想定しているからだ。語り手が妹の枕元で長居する時間はない。まして意識のない妹の枕元にいる機会などない。

 妹は眠ってなどおらず、今しも病室で熱にあえぎながらも兄の採ってくるみぞれを待っている。

 その妹に呼びかける詩の冒頭が、この詩の現在時点だ。

 これは「あめゆじゆ…」の科白が実際に妹の口から発せられてから、およそ1分程のことであろう。

 そして、飛びだして見るとみぞれを降らせる雲は「くらい」にもかかわらず、全体として「おもてはへんにあかるい」。この「へんに」に感じられる胸騒ぎは、妹に死が迫った状況を素直に受け入れられない語り手の心情を表してもいようが、同時に、室内から見ていたのとは違っておもてに出てみると、というニュアンスでもあると考えると腑に落ちる。

 とすると「ふつてくる」と「沈んでくる」の詩句の間には、わずかな回想の間があるだけで、ほとんど時間経過はなく、詩の終わりまでみても、雨雪をどこから採るかに彷徨しているとはいえ、全体として5分程のイメージとなる。


 こう考えてみると、冒頭の「おもてはへんにあかるいのだ」の語り手が室内にいるという想像は、詩句の与える情報の不整合を単に看過することで成立しているのだ。一度、最初から外にいるという「読み」について知って、それを本気で想像してみると、もう、そうとしか思えない。むしろ、両方の読みの可能性を知った上で、やはり室内なのだと主張する者がいるとは思えない。

 この妥当性は誰にも納得されるはずだ。


 とはいえこうしたシミュレーションを分析的に語ることは、詩を読むこととは相容れないことのように感じるかもしれない。もちろん、詩というフィクションの虚構性/現実性の区別など、一義的に決定できない実に曖昧なものだ。

 とはいえ「永訣の朝」という詩は、他の賢治の詩とは違って、現実に基づいているというメタ情報によってこそ、フィクションとして「体験」される。「春の修羅」の「序」を「体験」することは難しいが、妹を失う朝にみぞれを採りに庭に走る「体験」を想像することはできる。

 フィクションを享受することは、一方ではその世界をもう一つの現実として「体験」することでもあり、同時に、一般的に詩を読むことは、リアルな時間感覚を超越した超現実的な「体験」でもある。

 だが少なくとも、過去の数知れない読者―授業者自身を含めた―は、現実的な「体験」の水準としては、「室内からみぞれの降る空を見る」という、詩の中には存在していない、間違った「体験」をしていたのだ。


 ではなぜ賢治はこんなにわかりにくい、殆どの人に誤解されるような書き方をしているのか?

 そうではない。賢治は想定の中で、語り手を庭先に立たせて詩を語りはじめながら、それが「室内にいる」などという別の解釈を成立させる余地があることに、おそらくまったく思い至ってはいないのだろう。だからわざわざそのことを誤解なく読者に伝えなければならない、という意識すらしていない。

 だが、それでもその想定は詩句の選択や造型、配置の際、上に指摘したような細部にその痕跡をとどめているのだ。


永訣の朝 8 ―「おもて」にいる根拠

 二つの全く異なった読みを提示したが、どちらが正しいかをディベートのように議論することはできない。人数に偏りがありすぎるのと、結論が一方に想定されているからだ(ディベートはどちらも主張しうるような問題設定の時にのみ成立しうる)。

 語り手が詩の冒頭部分で「室内にいる」という読みの方が妥当性が高いと考える根拠はおそらく、ない。「おもては」にしろ「飛びだした」にしろ、室内にいることの根拠にはならない。なるように感じるのは前述の「因果関係の逆転」だ。


 実は授業者の思い描いていたのも、最初に「永訣の朝」を読んで以来永らく「わたくし」が室内にいる光景だった。

 それから30年あまり経って、授業者に別の「読み」の可能性をもたらしたのは高校生の息子だった。

 その授業では、詩の中で繰り返される「あめゆじゅとてちてけんじゃ」の変化が議論されたのだそうだ。そして、最初の2回はとし子の直接の発言で、後の2回は回想なのだという見解が示されたのだと。

 この見解は授業者も解説書で見たことがある。馬鹿げた解釈だと思う。授業者には、この言葉は4回とも回想されたものとして、エコーがかって聞こえてくる。たとえ最初の2回が、語り手が室内にいる場面だとしても。

 この馬鹿げた解釈は、語り手が2回目までは室内にいたことを根拠としてなされたものだが、この問題について議論してきた息子が家に帰って問題にしたのは、回想か直接の言葉かではなく、最初の場面で室内にいるという読みについてだった。彼は「みんな室内にいるって言うんだけど、私には最初から外にいるように思える」と言ったのだった。

 それを聞き、半信半疑でその可能性を検討したときの感覚は、いわゆるちょっとした「コペルニクス的転回」だった。驚いたことに、語り手が詩の最初から「おもて」にいて、今しも「みぞれ」をその身にあびているのだという解釈は他のどの詩句とも矛盾しない。それどころか、そう考えてこそ詩句の細部が整合的に納得されると感じた。


 そう、授業はそちらの解釈を合意する方向で展開する。

 ではその妥当性の根拠は何か?


 歴代の生徒たちや今年度のみんなが挙げた緒論点はいくつかある。

 そのうちでも最も多く指摘されるのは、室内にいるのなら6行目は「ふつてくる」ではなく「ふつている」の方が自然だ、というものだ。

 誰もがこれを認めるだろうが、では室内だと思っていた者は、これをどう納得していたのか?

 「ふってくる」のは空から地上に、だ。つまり自分のいる場所を、窓の外か室内かという区別をせずに「地上」という括りで捉えているのだ。


 あるいは12行目の「このくらいみぞれのなかに飛びだし」の文末の過去の助動詞「た」は、語り手の行動については詩の中でここだけでしか使用されていない、これは「飛びだした」が回想であることを示している、という主張もある。

 これもまた一理あるが、ではなぜ室内という解釈も可能なのか?

 「た」という口語助動詞は過去と完了の区別ができない(「模様のついた」の「た」は過去ではなく存続)。「飛びだした」は回想にも感じられるが、たった今の完了でもいいのだから、ほとんど現在時点の記述であるとも読める。


 まだ根拠は挙がる。

 9行目と12行目に注目すると「青い蓴菜の~」から「飛びだした」までが回想だと感じられる根拠が指摘できる。みんな誘導に乗って正しくそのことを説明できただろうか?

 ポイントは9行目の「これら」と12行目の「この」だ。

 このふたつの言葉を取り除くと、この部分が現在進行形の行為の描写であるように感じられるが、「これら」は、既に陶椀が語り手の手中にあることを示しているし、「この」は、既に語り手が「みぞれのなか」にいることを示している。だからこの5行がまるごと回想であるように感じられるのだ。


 これらはそれぞれに説得力があるが、といって「室内ではあり得ない」と言いうるだけの絶対性のある根拠ではない。だからこそみんな「室内」という解釈に対して疑問を抱かないのだ。

 だが語り手は最初から「おもて」にいると考えるべき最大の理由は他にある。

 詩の冒頭で語り手が「室内にいる」「庭先にいる」それぞれの想定において、詩の中のできごとを時系列順に並べ、そのどちらが自然かを想像してみよう。

 どのようなシミュレーションがなされるか?


永訣の朝 7 ―「わたくし」は「おもて」にいる

 詩の最初の場面、語り手は室内にいるか、屋外にいるか?

 どちらが正しいかを考えるより先に、まずは両方の読みを確実に掴むことが重要だ。

 想像してみる。熱に苦しむとし子の病床の傍らで、賢治が己の無力さをかみしめつつ「いもうとよ」と呼びかける。窓の外を見て「みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ」と心の中で妹に語りかける(これらの詩句が、直接口に出され、妹に語りかけられたものだとは考えにくい)。窓の外の空を見上げ、みぞれが降ってくる様子を語り、それから「陶椀」を手にしてみぞれを採りに「おもて」に飛びだす。

 一方、あらたに想像しようとしているのは、はじめからみぞれの降る庭先に立つ賢治の姿だ。「わたくし」は暗い雲の下に佇んで、そこから室内の病床に横たわる妹に「けふのうちに/とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ」と語り始める。今しも「おもて」にいる語り手が、さっき明るい室内から見た時の印象と違ってここは「へんにあかるいのだ」と表現しているのだ(庭先から語りかけているのだから、こちらももちろん心中語)。

 驚くべき認識の変更が訪れないだろうか?


 二つの読みを主張する者の割合は前述の通り甚だしく偏っているが、それは読みの妥当性を証明するわけではない。双方とも語り手が室内にいるか屋外にいるかという二つの解釈の可能性を考えた上で選んだものでは、おそらくない。単にそうした解釈しか思い浮かべていなかったというだけなのだ。

 授業の意義はここにある。それぞれ読者は、何かきっかけがなければ自分の「読み」を相対化することができない。自分の中に生成された「読み」は、あらためて自覚的に考え直さない限りは絶対的なものだ。

 だからこそ、自分以外のものが周りにいて、それぞれの「読み」を提出しあうことに意味がある。

 少数の「語り手は始めから外にいる」という読みをした読者もまた、実は自身が少数派であることを知らずにいる。

 それどころか、おそらくそのように読んだ者も、「語り手はどこにいるか?」という問いかけによって、はじめて最初から外にいる語り手の姿が想像されているという自らの読みを「発見」するのだろう。

 そしてその発見が自覚的でない場合、議論をしているうちに、周囲の多数派の「室内にいる」という疑いのない前提に触れると、たちまち自分の「外にいる」という感じを撤回して(あろうことかそれを忘れてしまいさえして)、「室内にいる」前提の議論に巻き込まれてしまう。

 それは残念なことだ。

 どんな可能性も、まずは根拠に基づいて検討されるべきなのだ。

 どちらかの「読み」を正解として理解することが学習ではない。

 そんなことを「教える」気は、授業者にはない。問題はそうした読解の適切さの検討だ。


 最初から外にいるという説を聞いた時に、「室内」派が反論として挙げるのは、「みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ」という一節だ。外にいたら「おもては…のだ」とは言わない、と彼らは主張する。

 これは実は因果が逆転している。語り手が室内にいると主張する者は、「おもては」によって室内であることを確信したのではなく、室内だという想像の後に「おもては」という言説を理解し、得心しているのだ。「おもては」から限定的に室内であることが想像される蓋然性はない。前提を留保し、虚心坦懐に、屋外にいるところを想像してからこの詩句を読めば、それが何ら不自然でないことは理解できるはずだ。


 そもそも語り手が室内にいるという読解はどのように生じたのか?

 ひとつの有力な要因は11~12行目「わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに/このくらいみぞれのなかに飛びだした」だ。ここで「飛びだした」のだから、そこまでは室内にいたのだ。

 一方語り手が最初から屋外にいると読んだ者は、この部分をどう考えるのか?

 回想と考えればいい。今現在屋外に佇む語り手が、自分が今「おもて」にいる事情を回想しているのだ。「わたくしは」さっき「飛びだし」て、今「みぞれのなか」にいる。

 このように、最初から屋外にいたという解釈が可能であることを示すことはできるが、それがただちに屋外であることの根拠になるわけではない。そうも考えられる、というだけだ。

 「『飛びだした』とあるからそこまでは室内にいるのだ」という説明もおそらく、やはり因果が逆転している。読者は「飛びだした」を根拠として、そこまでを「室内にいる」と読んだわけではない。読者からしてみれば、明示されていないのに、語り手が「おもて」にいるという想像をすることはそもそも不可能なのであり、妹の危篤状態という詩の中の状況が把握されるのと同時に、病床につき添う語り手の姿が自然に想像されているということなのだろう。そうした想像を「このくらいみぞれのなかに飛びだした」以降が屋外なのだ、という確認が補完する、というのが実際のところなのだ。

 では、最初から外にいるという読みはいったいどこから生まれたのか? 


永訣の朝 6 -「ふつて/沈んで」の違い

 語り手はどこにいるか?

 「ふつてくる/沈んでくる」はどう違うか?


 まず「ふつて/沈んで」の違い。

 こういうときは自分の感受性を信じて、まずは「感じて」みる。想像してみる。同時にそれを分析しつつ言葉にしていく。その表現と自分の感じているものが一致しているか、先入観を持たずに確かめる。

 どのクラスでもまず挙げられるのは、みぞれの降り方の印象だ。

 「ふつてくる」の方が、みぞれは相対的に軽く、速く、「沈んでくる」の方が重く、遅い。

 「ふつてくる」が「客観的」、「沈んでくる」が「主観的」という印象もいくつかのクラスで挙がった。

 視線の向きについての言及も多い。

 「ふつてくる」は見上げていて「沈んでくる」は見下ろしている。

 ふって/沈んで

  軽い/重い

  速い/遅い

 客観的/主観的

見上げる/見下ろす

 さて、これらの違いはどこから生じているのか?

 読解に影響するのは、基本的にはテキスト内情報と、明示されていない、我々があらかじめ持っている常識だ。

 テキスト内情報とは何か?

 いうまでもなくここでは「ふる/沈む」という動詞の違いが、まずはこのフレーズの違いを生んでいる。

 もう一つは、どこにそれぞれのフレーズが置かれているかというこの詩の中の位置の違い。その前後の文脈の違いが二つの行の印象に影響する。 

 上の対比的な違いは、これらのどちらから生じているか?


 例えば、妹の病状の変化、あるいは妹の病状を思う兄の心情の変化から両者の違いを捉える意見もある。「沈む」という動詞は「気分が沈む」という慣用表現でも使われる。したがって、妹の病状を思いやるにつれ、兄の気分は重く、「沈んで」いく。確かに文学作品においては、文中に描かれた情景は基本的に感情の表現として読むべきである。

 とすれば、これは「沈む」という動詞自体の意味と、文脈の両方を根拠とした解釈だということになる。

 それ以外の相違点は?


 さて、「ふつてくる/沈んでくる」の違いについて、「こころ」でも何度か言及した教科書の解説書では、以下のような説明をしている。

「ふつてくる」は室内から見える雪の様子を捉えているが、「沈んでくる」は外に出た「わたくし」に向かって降ってくる雪の動きの印象を捉えた表現となっている。(明治書院)

「ふつてくる」の方は、家の中から外を見やっての情景として印象づけられるが、「沈んでくる」の方は、みぞれが地面=底にいる自分に向かって降ってきて、自分がそのみぞれを仰ぎ見ている情景という印象が強い。(大修館)

(みぞれは)妹の病床に付き添っていた室内から見ている時は、気が滅入るように降り続ける。外へ出て、空を見上げると、みぞれが自分に向かって沈み込んでくるように感じられる。降っていた「みぞれ」は沈み込むような重量感を加えられ、陰惨さを増す。(東京書籍)

「ふつてくる」の方は、室内から戸外に降るみぞれに対して眼差しを向けた表現であり、「沈んでくる」は、実際に戸外にいてみぞれを感じながら、自分の足元にみぞれが沈みたまっていく様子を描いている。(筑摩書房)

 4つの出版社の解説書から引用してみたが、こうしてみると、「みぞれ」そのものの印象について言及しているものは、みんなの考察に比べて意外なほど少ない。「ふつてくる/沈んでくる」の違いは語り手の視座の位置の違いとして説明されている。そしていずれの解説でも「ふつてくる」は室内から外を眺める視線であり、「沈んでくる」は外にいて見上げる視線だと解説されている。

 さて、こういう「先生」の説明に対して、みんなはどう思うか?


 明らかに食い違うのは「沈んでくる」は「見下ろす」だというみんなの大方の意見と、上の説明の「仰ぎ見る」だ。

 そうした解釈の根拠になっているのは語り手のいる場所だ。

 「ふつてくる」の時点では室内にいて「沈んでくる」では屋外にいる。

 これが「語り手はどこにいるか?」という問いについての「答え」だ。この想定が、「ふつてくる/沈んでくる」の違いを考える上で前提されている。

 だが本当にこの見解には、全員が賛成しているのか?

 そうではない読みが、議論の中でかき消されてしまったということはないか?


 こう聞いてみるのは、授業者の経験では、この見解には少数ながら異論を唱える者がいるからだ。

 どこが違うのか?


 今年も、総じてクラスに2名前後の者が、「わたくし」は、詩の最初から屋外にいる、と言う。

 室内から外を見るような場面は、この詩に存在しない、と。

 そんな読みがありうるのだろうか?


永訣の朝 5 -リフレイン

 語り手のいる場所とともに、並行してもう一つの問いを投げかけておく。

 次の二つの表現はどう違うか?

6行目 みぞれはびちよびちよふつてくる

15行目 みぞれはびちよびちよ沈んでくる

 詩という形式は、意図的にある文言を繰り返すリフレインという技法を使うことが多い。「小景異情」にも「サーカス」にもリフレイン=繰り返されるフレーズがある。「永訣の朝」では「あめゆじゆとてちてけんじや」というとし子の言葉が繰り返される。

 リフレインは、そのまま同じ形で繰り返されるだけでなく、少しずつ変形しながら繰り返されることもある。歌詞の1番と2番のように。とりわけサビでは明らかにリフレインを意識した相似性の中で、微妙に表現を変えることが、意味の響き合いを生む効果を狙っていることが多い。

 「永訣の朝」の5・6行目

うすあかくいつそう陰惨な雲から

みぞれはびちよびちよふつてくる

と14・15行目

蒼鉛いろの暗い雲から

みぞれはびちよびちよ沈んでくる

 は内容的にも文構造的にも共通している。つまり意図的なリフレインだと考えられる。「変形」型の。

 この変形は何をもたらすか? 何のための変形か?

 ただし前の「~雲」までの変更については授業者の方に特にアイデアがないので扱わない。何か面白いアイデアがあったら聞かせて。

 授業では末尾の「ふつてくる」と「沈んでくる」の違いについては考える。

 この表現の変更は何を意味しているのか?


 考える際には次の1,2の順に考える。

どう違うか?

なぜ変えたのか?

 まず、自分の心に問いかける。どう違うように感じるか?

 そしてその違いが作者の表現したかったものであるかどうかを検討する。それが一致するのがコミュニケーションとしての幸せな解釈というものだ。

 だが、作者の意図しない「意味」が発生することを、テクスト解釈は避けられない。それは作品を享受する受け手の自由だ。作品は作者の手を離れて自由なのだ。


 語り手のいる場所とリフレインの変更。

 これら二つの問題を関係づけて考える。

 この二つの問題は関係づけて考えなくてはならない。テクストを文脈において解釈するとは、そういうことだ。

 語り手はどこにいるか?

 「ふつてくる/沈んでくる」はどう違うか?



永訣の朝 4 -語り手はどこにいるか?

 すべての言葉には「語り手」がいる。その存在感の濃淡には様々な程度があるが、すべての言葉は、誰かから誰かに対して発せられたものだ(独り言でさえ!)。

 文章の場合、「筆者」などという言い方もある。さらに小説や詩などの場合には「作者」という言い方もあるが、「語り手」と「筆者」、「作者」は、それぞれ別の概念であり、対象は同一だったりまったく異なったりする。

 三人称小説の場合は語り手の存在そのものが希薄になるから、作者と語りの違いはそれほど明らかには感じられない。

 だが一人称小説の「私」は、基本的に作者その人ではない。うら若い少女の「あたし」を創造した作者が、中年の男性だったりする。

 例えば手紙という体裁をとった小説の場合、語り手は明らかに登場人物の誰かであり、受け手もまたその手紙を受け取るはずの登場人物の誰かだ。「こころ」の「下」は語り手が「先生」で、受け手は大学生の「私」だった。

 「語り手」という概念は、現実から虚構までの様々なレベルで想定しうる。

 語り手と受け手が誰なのか、どのような関係なのかといった情報は、その言葉の解釈に強い影響を及ぼすメタレベルのコンテクスト(文脈)だ。


 「語り手」は、虚構作品の場合、あくまでフィクショナルな存在だと考えなければならない。小説に比べると詩は虚構と現実の境が曖昧で、「私」が登場しなければ、語り手はほとんど作者に見えてしまう。だが作者と同一視されかねない「私」が語る詩でも、性別や年齢によって、「私」のイメージはさまざまでありうる。老齢の詩人が語る詩と青春期にある若者が語る詩とでは、読み方も変わる。

 「I was born」の、中学1年生の出来事を思い出している語り手は、何歳くらいなのだろうか。彼を作者本人と考える必要はない。詩の中に描かれた物語そのものがおそらくフィクションだ。

 とはいえ「永訣の朝」においては、「わたくし」は賢治その人のイメージと重なることを避けられない。妹とし子の死は現実の出来事だった。「永訣の朝」を読むほとんどの読者はそのことを知っている。だからそれ自体が解釈に影響するメタ情報であることを否定できない。

 だが今問題にしているのは、詩を書きつつある作者ではなく、みぞれを採ろうとしている「わたくし」だ。この詩が「朝」という設定になっているのは、これがフィクションとして享受されることを保証している。現実には、詩は妹の死後に書かれているのだろうから。そして、我々読者にとっては常に作品は他人事なのだから。


 さて、考えたいのはこの詩の中で、「わたくし」=語り手はどこにいるか、という問題だ。

 語り手/受け手が誰なのかというだけでなく、語り手のいる場所が解釈にとって極めて重要な意味をもっていたのは「小景異情」の解釈においてだった。語り手が「ふるさと」にいると想定するか「みやこ」にいると想定するかで「ふるさとは遠きにありておもふもの」の解釈はまるで異なる。どのように?

 端的な表現で言うならば「みやこ」にいる語り手が語っていれば「郷愁」とでもいうことになるだろうし、「ふるさと」にいる語り手が言えば「幻滅」とでもいう情感が詠われていることになる、という昨年の考察を授業でも確認した。


 「永訣の朝」の場合、語り手のいる場所は、この物語を体験する読者にとっての映像的なイメージに関わっている。ここでは「語り手」とは、そこで語られている情景を捉えている視点、情景を写すカメラのようなものだ。

 たとえば次の例文において、語り手はどこにいるか?

a.彼は部屋の中に入ってきた。

b.彼は部屋の中に入っていった。

c.彼は部屋の中に入った。

 三つの文で示される事態は同一だ。違うのは「語り手」のいる場所だ。

 それぞれの文の「語り手」はどこにいて、どのような情景を見ているか?


 言うまでもなくaは室内でbは室外(廊下?)だ。

 aではドアから入ってくる彼の顔が見え、bではドアの向こうに消える彼の背中が見える。

 一方「天皇は日本の象徴だ。」「愛は地球を救う。」などの抽象的な文では、「天皇」や「地球」の映像が思い浮かびはするものの、カメラの位置が想像できるような空間は想定できない。文の内容が抽象的になれば語り手の位置・場所を確定することはできない。する必要もない。

 だが「c.彼は部屋の中に入った。」では、事態は充分に具体的だが、語り手のいる場所は明確ではなく、カメラの位置は任意なものとなる。読み手は恣意的に映像を思い浮かべる。その像に妥当性があるとすれば、文脈の中での整合性が保証されるかどうかだ。

 だから本当は、「語り手」という概念は、単にカメラに例えられるような空間的に定位できる「視座」のことではない。cの語り手は、その事態を知りうる存在であり、そのことを誰かに伝えようとしている存在であり、登場人物を「彼」と呼ぶ存在である。だがその存在感は稀薄だ。

 それに比べ、この詩において、みぞれを採りに走る「わたくし」の存在感は明確であり、読者がこの詩を読みつつある今、確実にこの詩の中にいる。

 それはどこか?


2024年1月15日月曜日

永訣の朝 3 -雪のイメージ

 さて、仮に妹の頼み事を兄が叶えることが兄を「一生明るくする」ことになるのだと実際に妹が考えたとしても、兄がいくらかでも「明るくなる」ことができたとしたら、それは妹の意図通りになっているからでもあり、さらにそうした妹の意図をくみ取ったこと自体のせいでもある(またしても入れ子構造!)。

 だがまた、それだけでもないとも思う。


 今年度面白かったのは、兄に雪を採ってくれと頼むことがなぜ兄を明るくすることになるか? という問いに「雪で妹の身体が少しでも楽になるなら、それで兄の気持ちも楽になるから」という答えがあったことだ。

 これは前項で説明した、想定していた機制とどう違うか?


 上の理由は、頼み事の内容が雪であること自体が「明るくなる」機制に関わっている。

 だが元々想定していた理屈によれば、妹の願いを叶えることで「明るくなる」のだから、その願いの中身は問われていないことになる。言ってしまえば、ある切実さがありさえすればどんな依頼でもよいということになる。

 もちろん、どちらかが正解でそうでない方が間違っているというようなことではない。

 頼み事の内容が雪であることがかかわる「理由」として、「白い雪が、暗い病室を明るくするから」という答えも出た。思わず教室中で笑ったのだが、実はこれはあながち見当外れな解釈でもないかもしれない。

 そのことが感じられるかどうかは、問題の三行をどう読むかによる。

わたくしをいつしやうあかるくするために

こんなさつぱりした雪のひとわんを

おまへはわたくしにたのんだのだ

 この一節からまずは、依頼を叶えることで「わたくし」が「あかるく」なるのだ、という上の論理を読みとることができる。

 この論理によれば、その願いの中身は問われない。妹の願いを叶えた、という論理があればよいからだ。

 だが「するために」がかかっていく重点が「たのんだのだ」ではなく、次の行にあると読むこともできる。つまり、とし子は兄を「あかるくする」ための依頼の内容を決めるにあたって、そのもの自体が兄を「あかるくする」ことができるものとして「こんなさつぱりした雪」を意識的に選んだのだ、という論理である。

 つまり「こんなさつぱりした雪のひとわん」だからこそ「あかるくする」ことができるのだ、という論理として読むことも可能なのだ。


 「死に水」「末期(まつご)の水」という言葉がある。さまざまな物語の中で「おまえの死に水はとってやる」などという科白を聞いたことのある者は多いはずだ(と思ったが、授業中のみんなの反応はそうでもなかった)。

 「死に水」「末期の水」とは死者の末期(まつご)に、口に注ぎ入れる水のことだ。釈迦の入滅の際のエピソードが元になっている風習だという。現在では、実際には医師に臨終を告げられてから、湿らせた綿で死者の唇を拭うのが一般的な作法だという。葬儀で行われるのを見たことがある人もいるかもしれない。

 この詩の中で兄がとってくる雪は、妹にとってのいわば「死に水」「末期の水」なのだ。それはどのようなイメージをおびたものとして描かれているか。

 具体的に詩の中の表現を挙げよう。


 最初のうち「雪」は「みぞれ」と呼ばれ、「陰惨」「びちよびちよ」「くらい」といった陰鬱なイメージで語られる。

 そのイメージが途中から変わる。「すきとほる」「まつしろ」「うつくしい」からは、前半とは明らかに異なった肯定的な雪のイメージが感じ取れる。

 途中から雪のイメージが変化したのはなぜか?


 これが前項の、雪をとってきてくれと頼んだ妹の意図に気づいたからだと言うのはいささか牽強付会にすぎるだろうか。


 さて、肯定的にイメージされる雪が妹の「末期の水」として、妹を苦しみから救うのだ、だから兄も救われるのだ、という論理は正しい。

 それだけではない。

 「銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの/そらからおちた」「天上の」「聖い」などの形容からは、この妹の「さいごのたべもの=末期の水」である「雪」が、まぎれもない聖性をもったものとして描かれていることも感じ取れるはずだ。

 それが、妹の死を浄めるように感じられるのだ。

 読者にも、そして兄にも。

 それが兄を「いつしやうあかるくする」のだ。


 だがこれは、妹がそれを意図して兄に「たのんだ」のだということではない。妹が意図していたとすれば、兄に何か役割を与えようというところまでだろう。いやそれすら兄の妄想かもしれない。だが兄はそれを信じているし、同時に、聖性を持った「雪」を頼んだことも、それが兄を救うための妹の気遣いであったとすら言っているのである。

 ともあれ、どこまでが妹の意図であるかを詮索するまでもなく、兄にとっての聖性を帯びた「雪」のイメージが兄に救いをもたらし、「いつしやうあかるくする」のだという詩の論理は捉えておきたい。


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