2024年2月7日水曜日

「である」ことと「する」こと 1 論旨をレイアウトする

 「永訣の朝」が終わって、今年度の授業は残り8回ほどしかない。この中で可能な限り評論を読んでいく。

 軸となるのは「『である』ことと『する』こと」だ。ここにいくつかの評論をからめていく。

 正直、時間はもっとほしい。

 だが今回の塊もまた、それらから得られる認識を来年度にお土産として持って行きたい重要な議論がなされている評論群だ。


 まずは「『である』ことと『する』こと」。

 この文章の読解の目標は「全体の論旨を平面上にレイアウトする」だ。

 具体的には、文中から、論旨を語るために必要な語やフレーズを挙げ、それらを平面上に配置(レイアウト)して、その関係性を位置関係で示す。必要に応じて囲ったり、線や矢印で結んで論理関係を示したりする。


 文章や人の話(「『である』ことと『する』こと」は講演)は線状(1次元的)に情報が配置され、読み手(聞き手)は時間軸に沿って情報を受け取る。

 だが、その情報、つまり文章の内容・論理は、本来は3次元(立体)以上の次元構造をもつ。こことここが結びつく、という論理のつながりは横にだけつながっている(1次元)わけでもなければ、平面(2次元)上でのみ展開されているわけでもない。ここにもあそこにも繋がる。その繋がりは縦横無尽でありうる。

 我々は時間軸にそって1次元的に提示される情報を、脳内で、そうした多次元構造に再構築している。それが読解という行為だ。

 だが立体模型を作るのは、それ自体が厄介な大仕事になってしまうので、授業という制約の手に余る。

 そこで、線状に配置されている情報を平面上に配置し直すところまでを授業で行う。もともと時間順に生起するわけではない論理を平面上で同時に見えるようにする。


 ということで全体の論旨を把握して大まかな設計図を構想する。

 同時に、部品を集める。文中から語句をピックアップする。


2024年2月3日土曜日

永訣の朝 15 「まつすぐにすすんでいく」とは?

 さて、「まつすぐにすすんでいく」に戻ろう。これは具体的に何を意味しているか?


 「わたくしも」の「も」の意味、つまり「わたくし」が妹と並列されることの意味を充分に説明できるだけの具体性をもって、と言うと、「妹の後を追って、私も真っ直ぐに天国に進んでいく」という解答にいたるのは、思考としては論理的だ。そうした解釈をつい発想して黙って苦笑している者もいるだろうし、わざと口にして積極的に笑いを取りにゆく者もいる。

 だがこの解釈も、単なる受け狙いではなく、それなりに整合的に解釈しようという工夫もあった。

 死にゆく妹と並列するからにも、兄も「まつすぐに」、天に向かって「すすんでいく」のだ。ただそれは、直ちに死ぬということではない。誰もが迎える死という終着点まで、一歩ずつ着実に歩んでいくということだ。とすれば、死に向かって「進んでいく」とは、ほぼ「生きていく」の同義だ。

 なるほど、言いようだ。


 一方、「悲しみを乗り越えて生きていく」という解釈の不整合に対しても、別なアイデアが提出された。

 「わたくし」が「すすんでいく=生きていく」のに対して、妹が「とおくへいく=死ぬ」を並列することはできない、というのが上記の考え方だが、「生きる」も「死ぬ」も、現時点に留まっていない、つまり、お前もこの世に未練を残さずにあの世に「すすんでいく」ことを裏返しに願っているのだ、と解釈すれば並列は可能なのではないか、というのだ。

 これもまたにわかには否定できない論理だ。


 だが上記二つの解釈は、後述する解釈に比べて、前の文脈から「わたくしも」という並列が引き出される必然性を充分に納得させる解釈にはなっていない。


 この詩行に至る文脈を確認しよう。

 前の部分からの論理を追うと、「も」が示す並列は、前の行の「わたくしのけなげないもうとよ」の中の「けなげ」を受けていることがわかる。

 「まつすぐにすすんでいく」とは「けなげ」であることを指しているのだ。妹が「けなげ」であったように「私も健気に生きていく」と言っているのだ、という解釈ができる。

 では「健気」とはどういうことを指しているか?

 さらに具体的な意味合いを捉えよう。

 ここらでヒントを出してもいい。

 ここで並列されるとし子の人となりがわかる詩句を後半から探す。

 それと、以前の授業の考察が伏線になっている。


 読解とはテキスト間の関連(文脈)において意味を読み取る行為だ。その部分だけを切り取って考えてはならない。

 着目すべきなのは、49行目からの「(うまれでくるたて/こんどはこたにわりやのごとばかりで/くるしまなあよにうまれてくる)」というとし子の言葉だ。これを「まつすぐにすすんでいく」の直前の部分と読み比べると、何か気付くことはないか?

 妹は何を言っているのか? 「また人に生まれてくるときは」「自分のことばかりで苦しまないように」どうしたいと言っているのか?


 この部分の直前と「うまれてくるたて…」はともに「他人のために生きる」という点において重ね合わせることができる。

 それぞれのクラスで、誰がこのフレーズを口にするだろう?

 このフレーズが場に提出されれば、他の者の中でも、ある論理が形成されるはずだ。

 この部分、「また生まれてくるときには」と「こんなに苦しまないように生まれてきます」を短絡させてはいけない。「苦しみたくない」と言っているのではない。「自分のことばかりで苦しむ」ことを悔やんでいるということは、本当は「自分のことばかり」ではなく「他人のことで苦しむ」ことが望みだったということだ。むしろ「苦しみたい」と言っているのだ。

 できるなら「他人のために生きて苦しむ」ことこそ、彼女の本望であったなのだ。それが叶えられないで死にゆく者の言葉として「(うまれでくるたて/こんどはこたにわりやのごとばかりで/くるしまなあよにうまれてくる)」は読める。


 一方で「まつすぐにすすんでいくから」の前の部分では先の「なぜ頼んだのか?」の考察が伏線になっている。

 兄にみぞれを採ってきてくれと頼む妹の要請が、自らの生理的な欲求によるものではなく、「わたくしをいつしやうあかるくするために」なされたのだと語り手は気づく。死の間際にありながら、それでも他人のことを考える妹の「けなげ」さに対して語り手は「ありがたう」と言っている。それを受けて「わたくし」なのだ。

 とすれば、「まつすぐにすすむ」とは、妹がそうしていたように、あるいはもっとそうしたかったように「他人のために生きる」ことにほかならない。この「から」は、そうして妹の遺志を継ぐことの宣言を理由として、妹が安心して天に召されることを願っていることを示しているのだ。


 さて、こうした考察によって初めて明らかになる一節がある。

 こうした賢治の願いと呼応する表現はどれか?


 「呼応する」とは曖昧だが、逆に言えば、これを踏まえていなければ意味のわからない表現がある。

 先の「沈む」と「気圏」を結びつける問いと同様に、これも答えを限定する問いではないが、聞けばなるほどとなるはずだ。

 55行目の「おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに」の中の「みんなとに」である。

 この「みぞれ」「雪」は、いわば妹の死に水、末期の水だ。「わたくし」はそのつもりで「おもて」に走ったのではなかったのか。それが「みんなとに」もたらされる理由はない。だからこの「みんなとに」の挿入は唐突だ。にわかには論理が見出せない。

 「みんなとに」がここに挿入されるのは、ここがいわば、妹の死後、それを願っていた妹の遺志を継いで兄が「みんなのために生きる」ことを妹への手向けの言葉として宣言しているからだ。

 これは、この部分の直前の「うまれてくるたて…」と詩の前半部の「まつすぐにすすんでいく」とを結ぶ隠れた論理を読み取ることによってこそ、ようやく辿り着く読解だ。


 「永訣の朝」という詩において、語り手が「他人のために生きる」ことを誓っているという解釈は、このようにして詩の論理として読み取ることができる。

 だがそれは必ずしもこの詩を「読む」ことによってもたらされる認識であるとは限らない。世の教師は、「銀河鉄道の夜」のジョバンニや蠍の祈り、「雨ニモマケズ」、あるいは宮沢賢治が農民のために一生を捧げた教師であるといった伝記的事実を事前に知っており、実はそれをガイドラインにして詩を読んでいるからだ。

 だがそうした詩の周辺の知識を「外部」から持ち込むことで賢治の祈りを捉えるよりも、目の前の詩の言葉を丹念に読むことによってそうした読みを生成することができる。そのダイナミズムを味わう方が、国語科の授業としてよほど意義深い。


 我々は授業において宮沢賢治という人物について知ろうとしているわけではないし、「永訣の朝」という詩について理解しようとしているのですらない。「国語」の学習をしているのだ。

 それは読者ひとりひとりが目の前のテクストを「読む」ことによってこそ成立する。


永訣の朝 14 ―語りの重層性

 兄の「まつすぐにすすんでいく」という決意と「私は私で一人、行きます」という呟きを重ねてみる。妹の死を乗り越えて強く生きていく、というような意味に両者をとる。

 この解釈をどう考えるか?


 これには反論が挙がらなければならない。

 「Ora…」が前述の通りそれ解釈できたとしても、「まつすぐにすすんでいく」が「妹の死を乗り越えて強く生きていく」ことだと考えるのが不適切である理由を挙げることはできる。何か?

 「わたくしまっすぐに」の「も」と不整合なのだ。

 「も」は並列を表す副助詞だ。妹と「わたくし」が並列されているのだ。これが「わたくしまつすぐにすすんでいく」ならば「妹の死を乗り越えて」でもいい。だが「わたくしも」だ。「すすんでいく」が「生きていく」ことであるならば、妹と自分を並列にすることはできない。


 だがもうちょっと解釈の可能性を探ってみる。

 まず「Ora…」を妹の言葉だと捉え、「ひとりでいく(Shitori egumo)」を「ひとりで遠くへ行く=死ぬ」の意味に解釈する。

 次に「まつすぐにすすんでいく」を「ひとりで生きていく」の意味でとるならば、それぞれが「ひとり」だという点で「も」の並列はとれるのではないか?

 つまり「わたくしも」の並列が「いく」に係っていると考えるときには、死にゆく妹と生きていく兄を並列には解釈できないが、「ひとりで」に係っていると考えれば、兄と妹の並列が解釈できるのではないか?


 これは「まつすぐに…」と「Ora…」を関連させて考えることで可能な論理ではあるが、22行目を読んでいる時点ではこのような解釈には無理がある。22行目までに「ひとり」であることが示されている詩句はないからだ。


 結局、「(Ora Orade Shitori egumo)」を「まつすぐにすすんでいく」と関連させる解釈は「Ora…」をどちらに解釈するにせよ、いずれも行き詰まってしまう。


 だがこうした考察を誘発する「Ora」が誰を指しているのか? という問いは不問に付されている。

 なぜか世の国語教師は始めから妹の言葉だと決めてかかって、「誰の言葉か?」ではなく「なぜローマ字で書かれているのか?」を問う。

 この問いについては、たとえば、「独りで逝きます」という妹の言葉を受け入れたくないという思いがこの言葉を異国の言葉のように書かせているのだ、などという答えが用意されている。

 どこからこんな解釈が出てくるのか?


 これがとし子の言葉であると「わかる」のは、連作「松の針」の中で「ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか/わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ」と書いてあるからだ。つまりテクストの外部情報によってだ。「永訣の朝」の中で妹の言葉であることが確定できるわけではない。

 そしてローマ字である理由についての上記の解釈もまた「松の針」から導かれている。「永訣の朝」の読解によってそのような解釈をすることは不可能だ。できると考えるのは錯覚に過ぎない。そのように解釈できるというに過ぎないのに、一度そう解釈してしまうと、もうそうであるとしか思えなくなっている。

 だがこんな解釈は、否定はしないが魅力的でもない。なるほど、と思えない。

 残された草稿によると、賢治自身は「うまれてくるたて…」もローマ字で書いてから一度全てひらがなに直し、最終的にこの言葉だけをローマ字に戻したのだという。こうした成立過程は、賢治の中で、このローマ字がどのような効果を読者にもたらすかについての計算が働いていることを感じさせる。それは悲痛の余りそう書かざるを得なかった詩人、などという「作者神話」とはどうみてもズレてしまう。

 あるいは作者が関心を持っていたラテン語やエスペラント語らしい響きにしたかったからだ、などという解釈もある。だがそんなことはテクスト読解の範疇ではない。大学あたりで宮澤賢治研究でもやるのなら、そういう考証もあってもいいが、それは高校生にとっての国語の学習ではない。

 「Ora」が誰を指しているのかを問いとして提示する授業案は存在しないのは、国語の授業が「正解」の提示にこそ意味があると考えられていることの裏返しだ。はじめから結論のわかっている問題には考察の意義がないと考えられているのだ。

 だが今我々が臨んでいる授業という場は、あらかじめ結論の出た「正解」を周知する場ではなく、テクストを読解することによる合意を共有する場であるはずだ。


 そして、これがローマ字であることの効果について、授業者は特別な見解をもってはいない。わざと意味をとりにくくしているのだろうと思うのは、読者として意味が分かりにくいからだ。

 ともかくも、すぐにはわからない、という、読解に負荷をかけることに意味があるのであって、わかったときに、それが妹の言葉であろうが兄の言葉であろうが「独りで行く」ことの痛みを読者に感じさせることになるという効果が、このローマ字にあるとは思う。

 少なくとも、ローマ字といい、方言といい、回想の丸括弧といい、語りの階層を意図的に分けることで、重層的な、立体的な語りの構造を作っているのだろう、とひとまずは思う。

 こうした詩の技法や効果自体について語ることは、「永訣の朝」という悲哀に満ちた詩を読むという行為の重みに対して、少々「浮いて」しまう感じも否めないが、といって否定する気にはなれない。

 作者は間違いなく死者を悼み、慟哭にふるえている。

 だが同時に、詩人としての賢治が詩の表現技法について自覚的であることもまた、間違いないことなのだ。


永訣の朝 13 ―「Ora」とは誰か?

 22行目の「まつすぐにすすんでいく」という比喩は何を意味しているか?

 これを「今まで通りの道を逸れずに」とか「目的に向かって一直線に」などと言い換えても、まるで具体的ではない。「道」「目的」とは何を意味しているかがあらためて問題になるだけだ。

 「人として正しい道を進んでいく」でも、ほとんど同語反復だ。

 この詩の文脈に沿って、これがどのような事態を喩えたものであると考えると、妹が安心することとの因果関係が成立するのか?


 さて、この問題と合わせて考察してみたいのは、39行目「(Ora Orade Shitori egumo)」についてだ。

 この行については誰しも、なぜローマ字表記なのか? と考えたくなる。

 だがこれを問う気にはならない。この疑問について何かすっきりと腑に落ちる解釈を授業者はもっていないからだ。

 もちろんこの問題への主流の解釈は知っている。だがそれを聞いても、別段なるほどとは思えない。

 それは専ら、この部分の解釈が「なぜ賢治はローマ字で書いたのか?」という形で問われることに因る。つまり解釈の発想が「作者の意図」に向かっているのだ。

 だがそれはどこまでいっても推測に過ぎない。だから後で紹介する一般的な「解釈」を聞いても、何だか怪しげだと思ってしまう。


 それよりもこの詩句については時間があれば問うべきなのは次の問題なはずだ。

 「(Ora Orade Shitori egumo)」は誰の言葉か

 「Ora」とは誰を指しているか


 註には「私は私でひとりいきます」という意味だと書いてあるだけで「私」が誰を指しているかは書いていない。

 これを問いとして想定する授業案を見たことはない。

 だが問うてみれば、必ずどのクラスでも兄と妹に意見は分かれる。

 意見が分かれるということは考察の余地があるということだ。

 「Ora=私」とは誰なのか? そして「ひとりでいく」とはどういう意味か?


 このことが問われない理由ははっきりしている。結論は既にわかっているものとして看過されているのだ。

 だが詩の言葉自体からはそれが確定できず、どちらの解釈も可能だ。それなのにこうした問題が授業で問われないことには二つの要因があると思う。

 一つは、つまり解釈の結果を生徒に提示するのが授業の役割だと考えられていること。

 もう一つは、「作者の言いたいこと」を考えるのが読解だと考えられていること。


 一つ目の認識が誤っていることははっきりしている。授業は生徒の学習のためにあるのであり、現代文の学習とは生徒の国語力を伸ばす練習だ。解釈という行為自体が学習なのであり、その結果の提示はほとんど学習にはならないばかりか、タイミングによっては学習の機会自体を奪うことになる。

 もう一つは、評論文については間違っているわけではない。読解はそのテキストが示す「意味」を探る行為であり、それはほとんど「作者の言いたいこと」でもある。

 だが文学作品というテキストは、単に「意味」を指し示す散文と違って、読者との間に新たな「意味」を算出する開かれた芸術作品だ。

 だから問題は「降る/沈む」の考察同様、まずは読者がどのように感ずるか、だ。そしてそれが作者の意図によるものかどうかを推測し、そこに明確な答えを見つけられなくとも仕方ないと受け止めるべきなのだ。


 あらためて「Ora=私」とは誰なのか?

 兄説、妹説、双方を検討してみよう。

 妹説の根拠は、丸括弧で括られている他のふたつ「あめゆじゆ…」「うまれて…」が明らかに妹の言葉だから、というものだ。

 もちろんこの推測は一定の説得力をもっている。

 だが「丸括弧は妹の言葉だ」という判断は、根拠ではない。それ自体がある解釈の結果だ。

 ではそもそもこの詩における丸括弧はどのような意味を持っているか?

 丸括弧内の言葉とそれ以外の言葉にはどのような違いがあるか?


 この問いに「丸括弧は妹の言葉だ」と答えることが論理的に間違っていることは、誰もが自覚しなければならない。

 この問いに答えることは先の「ふる/沈む」の語義を答えるのと同様の、わかるはずのことを正しく言い当てることの難しさがある。だから誰かがそれを言い当てた時に「ああそうか」という納得の反応が皆から上がる。

 丸括弧に括られている言葉は、三つとも方言であり、それ以外の地の文は標準語だ。それ以外の違いはない。

 そこから括弧内の言葉を、口に出された言葉であるという解釈がなされ、文脈によってそれが妹が口にした言葉であると解釈される。

 だから「括弧内は妹の言葉」は解釈の結果なのだ。

 だがその語り手が統一されている保証はない。むしろ、これだけがローマ字で、三文字下げになっていない、といった差異によって、(Ora…)は他の二カ所と区別されているとも言える。

 ではこれが兄の言葉だと考えるとは、どのような解釈なのか?

 心中語なのだ。他の詩行とは違う形式でそれを挿入することによって語りを重層化しているのだ。


 この解釈を否定する論理はないはずだ。括弧を使って語りを重層化する手法は、賢治の他の詩にも見ることができる。

 だがなぜか、この言葉は妹のものであることは世の解釈においては前提されていて、どちらであるかが検討された跡は見られない。世の授業者自身は、一読者としてこれを疑問には思わなかったのだろうか?

 丸括弧が付されていることを根拠にこれを妹の言葉として読んだという、自らの読みを根拠に、これが妹の言葉だと主張するのは、単なる同語反復だ。これは「語り手のいる場所」の考察における、「外にいたら『おもてはへんに…』とは言わない」という主張と同じだ。反対側の解釈の可能性を検討して選択したわけではない自らの唯一の解釈を盲信している。


 内容的にはどう考えるべきか?

 この一行を挟む「けふおまへはわかれてしまふ」「ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ」の間にこの言葉を置く。

 妹だとすると、残していく兄を案じて、妹が別れを告げた言葉だいうことになる。あえて、一見冷たくも見える別れの言葉に、これからも生きていかねばならない兄への気遣いが見てとれる。

 一方兄だとすると、妹との別れを受け入れ、生き続けていこうとする決意の言葉だと受け取れる。それを心の中で呟いてさえ受け入れ難いその認識をもう一度「ほんたうに」と繰り返すのだ。

 そして36行目の「わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ」の「いつしよ」が「Shitori(ひとり)」になってしまうことへの悲痛な思いは、それがどちらの言葉であっても読者にそれと感じられるはずだ。

 やはりどちらにも解釈できる。どちらの解釈が適切であるというような有意な差はない。


 さて、この問題をこのタイミングで提示するのは、もちろんミスリードを意図している。「まつすぐにすすんでいく」とこの「私は私で一人、行きます」を結びつけさせようとしているのだ。

 どうなるか?



永訣の朝 12 -「から」の謎

 語り手のいる場所についての考察は、詩の中を流れる時間についての把握や、フィクションにおける「事実」の認定の問題、賢治の世界認識のありかたにまでいたる、案外に広い射程をもった考察だった。

 全体を捉えること。細部を見つめること。詩を読むためのアプローチはさまざまな角度から企図されていい。

 とはいえ、言わばこの詩の「定番」といえるいくつかの問題点については、すべてに触れるわけではない。

 たとえば「みかげせきざい」は唐突だなあと違和感があるが、とりたててそこに意味を見出すことはできていない。「まがったてっぽうだま」もあれこれ考察はできるが、それほど面白い認識の更新が起きていない。

 あるいは「永訣の朝」を授業で扱う際に言及されることの多い「二」という数字の意味についても、とりたてて関心がない。確かに「二」はどうみても意味ありげに繰り返される。だが、なぜ陶椀を「ふたつ」持つのかも、賢治が妹と自分をセットにして考えているからだろうという素朴な解釈以上のものはない。何か、認識が更新されるような感慨がおこらない。だから、なぜ賢治は陶椀を「ふたつ」持って出たのか? などと授業で聞く気にはなれない(C組の授業後にNさんから寄せられた、前半で「雪のひとわんを/おまへはわたくしにたのんだ」と言っているのに、後半では「おまえがたべるこのふたわんのゆき」となっているのはどういうことだ? という疑問は尤もだと思うが、あまり関心はない。後述する解釈に含まれるものとしてスルーしたい)。


 最後に扱うのは、この詩の主想に至る考察を導く問いだ。

 22行目の「わたくしもまつすぐにすすんでいくから」はどこに係るか?

 句読点のない詩を読むとき、我々は、倒置されている可能性も含めて係り受けを判断しながら文構造を把握している。どこかの詩行は文の途中であり、どこかの行は文末だ。

 「から」は終助詞ではないから、「いくから」という行末はどこかに係るものと、まずは思う。

 だが23行目は「(あめゆじゆとてちてけんじや)」のリフレインでつながらない。24.25行目「はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから/おまへはわたくしにたのんだのだ」でも意味がわからない。その後にも22行目を受ける詩行はない。

 倒置の可能性も考えて、前を遡って探しても見つからない。

 つまりこの「から」はどこにも続かない。係っていない。といって「から」は終助詞ではないから通常の「文末」とは思えない。

 では何だ?

 つまり文末が省略されているのだ。

 では「~から」の後には何が省略されているのか? 「から」の後に何と補うか?

 難しくはない。無意識にそこを補っているからこそ「から」が宙に浮いてしまっていることにも、とりわけ違和感を覚えずにいるのだ。

 「安心して逝きなさい」「心配しないでおやすみ」「安らかに成仏してくれ」等々…。


 さて、ここからが問題。

 「から」は理由を表す接続助詞だ。「わたくしもまつすぐにすすんでいく」ことが「安らかに成仏してくれ」と言いうる理由になっているのだ。

 では「わたくしもまつすぐにすすんでいく」ことは、なぜ妹が「安心する」ことの理由になるのか?


 とはいえこんなことは疑問として意識されたりはしない。「まっすぐ」も「すすむ」も肯定的な意味合いを持った言葉だ。だから「まつすぐにすすんでいく」というのはそれだけで何やら良いことのように思われる。それで妹が安心することに不審を覚えたりはしない。

 では「まつすぐにすすんでいく」とは具体的に何を意味しているのか?


永訣の朝 11 ―「沈んでくる」のイメージ

 「視線の向き」という点について、語り手のいる場所ではなく、動詞のもともと持っている文脈的背景から、それが形成するイメージについて考えてみる。

 ここではそれぞれの動詞が通常使用される際に付随する助詞と補助動詞に注目する。

 「降る」は「~から降んでくる」、「沈む」は「~沈んでゆく」だ。「降る」のは「空から」であり、「沈む」のは「底へ」だ。

 「沈む」という動詞から我々の脳裏に浮かぶイメージは見下ろす視線となる。通常我々は水面上にいるからだ。「ふる/沈む」の対比で「沈む」が「見下ろす」だという意見は故あることだ。

 だが実際には、詩の中では「陰惨な雲から/みぞれはびちよびちよふつてくる」と「暗い雲から/みぞれはびちよびちよ沈んでくる」と、同じ文型に「降る/沈む」がはめ込まれている。

 「降る」については通常の文型だから、問題は、本来は不自然な文型に「沈む」が嵌め込まれていることの意味だ。普通は下向きの視線を想像させる「沈む」という動詞を、「~から~てくる」という本来不整合な文型に嵌め込むことによってどのような意味が生ずるか?

 「~から~てくる」という文型で表されている以上、視線は「から」の方向に向けられていると想像するしかない。つまり語り手はどうしても空を見上げなけらばならない。

 一方で「沈む」という動詞は、語り手自身のいる場所を「水底」としてイメージさせる。地上を水底と見立て、そこに立つ自分を、はるか上空から見下ろすイメージだ。

 その間の空間は、水面から底まで、液体の充満した空間―海かプールか水槽のような―だ。その底にポツンと立つ自分に向かって、みぞれはゆらゆらと「沈んで」ゆく

 先に、「みぞれが沈んでくる」という表現は動詞の比喩だと述べた。比喩とは、喩えるものと喩えられるもの、異なった二つの映像を重ねるはたらきをもった表現技法だ。動詞と文型がそれぞれ異なった映像を同時に生み出しているのだ。

 カメラは一台ではない。


 こうした「沈む」の解釈は、詩の中の他のどの言葉と響き合っているか?


 答えを限定するような問いではないが、同様に感じている者は必ずいるはずだ。

 14行目の「銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの」である。

 とりわけ「気圏」は、自分のいる地上が「底」であるという認識と響き合って、大気圏全体を(さらにその先に拡がる宇宙を)、広い空間として捉えさせる。

 そしてさらに詩の後半まで視野を広げさせると、それが最後に「天上」と響き合うことに気づく。

 逆にそうした賢治の認識から生み出されたのが「沈んでくる」という表現なのではないか。


 「沈む」という動詞は、確かに水分を多く含んだ重い「みぞれ」のイメージから導き出されたものかもしれないし、悲しみに「沈む」語り手の心情から導き出されたものかもしれない。

 だがそれよりも、「沈む」という動詞が、自分がいるこの地上を「大気の底」として捉えるイメージから発想されたものだと考えるのが、今のところ授業者にとっては最も腑に落ちる。

 この地上を「大気の底」―「天の下」と捉える認識は、科学的な世界観と宗教的な世界観が合致する地点にある。そのように世界を捉える人としての賢治という詩人の認識がこの「沈んでくる」という表現に表出しているように思える。


永訣の朝 10 ―「ふる/沈む」の違い

 賢治は、ほとんど同じ光景を描写する二つの詩句において、前者の「降る」を後者では「沈む」に置き換える。

 先に、「どう違うか?」という問いの後に、それと「どうして変えたのか?」が一致するかどうかを考えよう、と述べた。だがむしろここでは「沈む」という動詞はどのような思考によって発想されたのか? と考えよう。

 ここからの考察において重要なのは、この詩句を読んだ自分の心の裡に生じたイメージを、できるかぎり正確に捉えることと、それが詩句のどの部分から、どのような機制によって形成されたかを、できるかぎり正確に捉えることだ。つまり、主観的な読みの様相を客観的に捉えるのだ。そして自分以外の他者に届く言葉で語る。

 それが目指されている限り、この考察に統一的な決着点を想定する必要はない。だがそれはよく世間で飛び交う「詩の読みはひとそれぞれ。理屈は要らない」などという不誠実を誤魔化したもっともらしい「文学趣味」な言説とは違う。誠実な思考だけが可能にする自己理解、他者理解を目指しているのだ。


 語り手が最初から「おもて」にいるという読解は、詩の前半の読みに決定的な変更を迫る。

 それを「ふつてくる/沈んでくる」の違いという点から考えよう。

 「ふつてくる/沈んでくる」の違いとして挙げられた諸点を確認しよう。

   ふって/沈んで

  軽い/重い

  速い/遅い

 客観的/主観的

見上げる/見下ろす

 このうち、語り手のいる場所「室内/屋外」から導かれた「違い」を修正する。

 視線の向きと時間の経過は、大きな修正を迫られる。語り手のいる場所の違いはない。時間の経過もほとんどない。

 「降り方」やみぞれの様子の違いは、印象としてはあるが、それが時間の経過による、実際のみぞれやその降り方の差を表わしていると考える必要はない。


 となると「降る/沈む」という動詞そのものの違いからこの2行の違いを考えるべきだということになる。

 動詞自体の違いを明らかにしよう。「降る」と「沈む」という二つの動詞はどう違うか?

 そもそもどういう意味の言葉か?

 日常的な場面で「降る」と「沈む」を適切に使うことはできる。つまり意味はわかっている。だが「わかっている」ことと「説明できる」ことは違う。これがまずは第一の課題だ。


 まず、「降る」は空気中を下降する様子であり、「沈む」は主に液体中を下降する様子を表しているのだ、とシンプルに言葉にできただろうか?(経験上、これは案外に難しい。辞書に載せる「意味」を的確に表現するのは、「わかっている」ことより遙かに高度なのだ)

 「降る」は、みぞれの下降を表す動詞として自然な、無色透明な動詞だ。だからそれが「沈む」と言い換えられることの意味を考えるというのがこの後の課題だ。

 「みぞれが降る」というニュートラルな表現に比べて、「みぞれが沈む」という不自然な表現は、いわば動詞による比喩表現だと言える。

 動詞の比喩?

 直喩=明喩で言うと?

 「『沈む』ように『降ってくる』」のだ。

 それはどんなイメージか?


 まずはみぞれの粒と降り方の印象の違い。

 「空気中を下降する/液体中を下降する」という違いから、「降る」が「軽い・速い」、「沈む」が「重い・遅い」とイメージされるのは「降る/沈む」という動詞から生じる違いとして納得できる。したがって同じみぞれでも「沈む」の方が水分含有量が多いような印象がある。

 だがこれは「沈んでくる」の時点で水分含有量が多くなった、ということではない。時間的にそれほど差のない二つの描写において、みぞれの降り方やその粒の感触が変わるわけではない。「びちよびちよ」と形容されている時点で、みぞれは最初から水分を多く含んでいたと言ってもいい。

 とはいえ、実際に違った動詞から形成されるイメージには、やはり違いがあるのだ、とは言える。「降る」では、単なる事態の「説明」になっていたのが、「沈む」では、より水分量を増して、ゆっくりと下降するイメージとなる「描写」になるのだ、と言ってもいい。


 では、「沈む」を心情表現として解釈するのはどうか。

 やはりこれも、語り手の心情の変化として捉えるべきではない。6行目と15行目の時間的経過はわずかなものだろうし、気分が「沈んで」いるとすれば、それは詩の語り出しの時点からそうだったのだ。だからこそ「へんに」なのだし「いつさう陰惨な雲」なのだ。

 そして「沈んでくる」みぞれは「さっぱりした雪」だし、それを採っていくことが「わたくしをいつしやうあかるくする」のだ。

 とりわけ6行目から15行目に向かって重みを増すように気分が「沈」んでいく変化は詩句の中からは認められない。

 だがもちろん、最初から「沈んで」いた語り手の心情が、ここであらためて表現の一部として示されることで、読者を共感させる機能を持っていることは認めてもいい。


 だが上の二点よりも重要なのは次に述べるイメージだと、個人的には思う。



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