2026年10月8日木曜日

こころ 5 -「Rの法則」

 「こころ」の授業は、この小説の主題とKの自殺の動機の関係について考え直すところから始めた。

 だが授業数に余裕のあるクラスでは、最初の授業で二つの動画を視聴した。かつては全クラスで見せていたのだが、今年度は多くのクラスでは見せずに授業に入った。必須の情報があるわけではないからだ。

 だが、二つの動画を見ることで、以下の考察において、構えがいくらか変わったものにもなるとも思う。その違いも興味深い。

 それぞれの動画には、それを見せることによって考えさせたい問題がある。見ていないクラスにも紹介したい。


 以前放送されていたNHKーEテレの「Rの法則」は、高校生を雛壇に並べて、高校生が関心を持っている様々な問題を話し合っていく番組だ。

 この2012年11月12日放送回では「こころ」が、高校生の関心事である恋愛とそれにまつわる三角関係を題材とする小説として紹介された。

 テレビ番組としては、ああいうふうに雛壇高校生にリアクションさせて一般視聴者の共感を喚ぼうとしているのはやむを得ない。

 だがあのようにして「こころ」を知った気になることと、実際に「こころ」という小説を読むことはまるで違う。

 何が問題なのか?


 まず、小説本文を読んでいない高校生に、小説中の問題について考えさせることが無謀であることを番組は全く明示していない。

 だから、あたかも「こころ」ではああいった問題が主題となっているような印象を視聴者に与えてしまう。

 小説の中の問題を、自分の問題として捉え直すことはもちろん大事なことだ。自分だったらどうするかを考えずに小説を楽しむことはできない。

 だが、本文を読んでいない者が「この時のこの人物の気持ちは…」などと語ることが、まるで当てのない好き勝手な憶測にしかならないという危険については、視聴者には伝えられない。これがまるで「こころ」という小説についての考察であるかのような誤解を視聴者に与えている。

 例えば「羅生門」を読んで「あなたは、生きるためにやむをえない悪は許されると思うか?」などと問いかけることが世の中で広く行われているが、そんなことは国語の授業としては間違っている。 「羅生門」はそのような問題を読者に問いかけてはいない。「羅生門」の主題をそんなふうに捉えるのは、まるで小説として「羅生門」を読んでいない。

 「こころ」においても、設定や粗筋から想定される「問題」が、あたかも「こころ」の主題であるかのように語られることがある。

 「Rの法則」で取り上げられていたのは、まさしく典型的なそれだ。

 例えば、小説では全く問題になっていないことが番組では問題として取り上げられている。

 番組冒頭で次のような問いが投げかけられる。

  • 親友と同じ人を好きになったらどうする?

 この問いに対しては具体的にある行動の選択が迫られる。街頭インタビューで何人かが答える。

 それが字幕で次のように言い換えられる。

  • 恋愛か友情か、あなたならどっちをとる?

 上の問題を一段抽象化して、選択肢として置き換えたのが下の問いだ。

 だがこの抽象化は間違っている。

 小説中で「私」は一度として「恋/友情」の選択に悩んだりはしていない。それは本文をその気になって読み返せばすぐわかることだ。

 では「私」はどんな行動の選択に迷っているか?


 教科書の収録部分で、「私」は一貫して「言う/言わない」という選択の前で迷い続ける。

 これが「友情/恋」という選択と同一視されている。

 設定と粗筋を頭に入れて「こころ」という物語を思い返した時、「私」が「恋か友情か」という問題に悩んでいたように錯覚する。しかもそれは大衆の共感・関心を喚びやすい。

 そうした錯覚に基づいて「こころ」が語られ、問いが突きつけられる。

 だが「こころ」が読者に投げかける「問題」は本当はそれではない。

 「私」が何に悩み、そこでどのような問題に直面することになるか?

 それは本文の読解によってしか明らかにはならない。


 「Rの法則」は、一般的に「こころ」がどのように受け止められているかを知る上で簡便な資料だ。ここに語られる「こころ」と、授業で読解していくことによって浮かび上がってくる「こころ」がどれほど違うものなのかを実感するためにも、この印象を覚えておいてほしい。


2026年10月7日水曜日

こころ 4 -「主題」と「動機」の整合性

①失恋

②友の裏切り

③自分への絶望

 Kの自殺の動機として最も支持を集めるのは経験上、③「道をはずれた自分への絶望」だ。

 こう考えることには、実は看過しがたい問題が含まれている。


 「動機」の選択肢群を並べ、「エゴイズムと倫理観の葛藤」と見比べる。

 これらの「動機」と「主題」は整合的か? 不整合か?

 「整合的」? 何のことか?

 前述の通り、「こころ」がどんな小説であるかという把握は、Kがなぜ死んだのかという把握に基づいているはずだ。少なくとも教科書収録部分を読む読者はKの死の意味をどう把握するかが、「こころ」という小説を把握することに結びついている。したがってこの二つは整合していなければならない。

 Kの自殺の動機と「こころ」の主題の間にはどのような論理があるのか?



 「こころ」を、「エゴイズム」をテーマとする小説であると捉えることと整合的なのは、動機①②だ。

 一方、③はそれとは不整合だ。

 どういうことか?


 「エゴイズム」がテーマになっているという把握は、Kの自殺を「私」の「エゴイズム」によるものだと捉えていることを意味する。

 それはKが①失恋と②友の裏切りによって死んだということだ。つまり「私」がKを死に追いやったのだ(それによるKの死を「復讐」だとみなすことは整合的だが必須ではない)。


 一方③はこうした主題把握と不整合だ。

 ③はK自身の問題であり、「動機」が③ならば、「私」が「友人を死に追いやった」ことにはならないからだ。


 だがほとんどの者が、Kの自殺の動機として③を重視し、そしてそれが「エゴイズム」主題観と不整合であるということを意識しない。

 なぜか?


 このような「不整合」を、とりたてて「不整合」とはみなさない、ということも可能だからだ。

 確かにKの自殺はK自身の問題かもしれない。だがお嬢さんへの執着がその実行を踏み止まらせていたのだ。その生への紐帯を「私」の卑怯な裏切りが断ち切ったのだ。つまり③がKの自殺の主たる動機だとしても、最終的にそれを実行に踏み切らせたのはやはり①②であり、その原因となった「私」の「エゴイズム」の罪は否定できないのだ。


 だが、先の「重み付け」の想定において、①②の合計と③の重みのバランスはやはり問題だ。「エゴイズム」が主題だという把握は、やはりどうしても①②の重みが大きくなくてはならない。③の方が大きいとすれば、それは「エゴイズム」を主題とする把握とは別の主題把握を必要とするはずだ。

 「エゴイズム」を主題とする「こころ」の把握は、Kの死が③によるものであることを意識しないことによって納得されている。

 とはいえ多くの読者は、世に普及している「エゴイズム」という主題と、読者として捉えているKの自殺の動機が整合していないことを意識しない。するのは難しい。

 なぜか?


 これには明確な理由がある。

 「こころ」は一人称小説だからだ。

 すると?


 Kの自殺の動機を①②と見なすのは「私」の認識に基づいているのである。

 「私」はKの死を自分のせいだと思う。自らの「エゴイズム」の罪の重さが強く意識されている。

 つまり「エゴイズムと倫理観の葛藤」という主題は、「私」の目から見た「こころ」という物語の把握なのだ。


 面白いことに、宿題の段階では、①②を挙げた者が多い。それが、授業で聞き直すと支持の大勢が③へと重心を移す。

 初読の段階では、人物関係や出来事の推移といった物語の大きな枠組みが、それを語る「私」の視点から捉えられる。

 ところが授業であらためて考える段になると、我々読者はもう少し客観的に、公平に、Kの心情を熟慮するようになる。話し合いを通して妥当な解釈についての合意が形成される。そうすると、③が妥当なように思える者が増える。


 一般に理解されている「こころ」の主題は、Kの死を「私」が「追いやった」ものとみなすことによって成り立っている。「私」の目から見れば、事態はそのように把握されているのだから、それも無理はない。

 だがそれは読者が意識的に考えたKの自殺の動機と不整合だ。

 つまり「エゴイズム」主題観は、雑に、あるいは浅く考えたときにのみそう見える「こころ」把握なのだ。

 では自殺の動機を③だと考えるならば、「こころ」はどのような物語だということになるのか?


 さらに、そもそもKの自殺の動機は上記の①~③(④)で済ませていいのか、という問題もある。

 その重み付けのバランスだけを考えれば良いのか?

 もちろんそうではない。「Kはなぜ死んだのか?」という問いは、「下人はなぜ引剥ぎをしたか?」と同じく、読解を重ねて考えていくべき問題だ。

 その果てに見えてくる「こころ」はどのような問題を描いた小説なのか?

 結論にいたるには、丁寧で根気強い考察が必要となる。


こころ 3 -Kの自殺の動機

 一方の、Kの自殺の動機についてはどう考えただろうか。

 最初に述べたとおり、これはいわば「下人はなぜ引剥ぎをしたか?」のような、「こころ」における最大の問いだ。だからこれは読解の終盤まで考え続けることになる問いということになる(たぶんこれを論題に小論文を書いてもらう)。

 だが、現状でこれはそれほど「謎」とも感じられていないかもしれない。それなりにわかる気がする。ここがわからなかったら、小説全体がわからないと感じられてしまうはずだが、「こころ」は一般に、それほど「わからない」小説とは思われていない。

 だから、現状で、まずは出し合ってみる。

 いろいろに表現は可能だろうが、似たような内容であると認められるものをまとめていく。

 そうして、別の要素として分けるのが妥当だと考えられるのは、何項目になるか?


 さて、挙げられた動機は、次の項目のいずれかにあてはまるだろうか?

    ①失恋

    ②友の裏切り

    ③自分への絶望

 Kの絶望の原因は①お嬢さんなのか、②先生なのか、③K自身なのか?

 上の3項目のいずれにもあてはまらない要因を4番目以降に加えよう。

 今年度は比較的短時間でここを展開したせいもあるが、これ以外のバリエーションはあまり挙がらなかった。

 こちらで紹介したのは「『私』に対する復讐」だ。「私」に罪の意識を抱かせるためにKはあえて隣の部屋で死んだのだ。これは以前からたびたび提案されていた。

 F組I君からは「『私』に対する謝罪」が挙がった。友人の気持ちに気づかずにいたことを恥じての死でありそれが謝罪になっているのだ。

 これは「復讐」と正反対の心理だから相容れないと考えるべきか。いや、どちらの心理も共存することがないともいえない。矛盾する二つの心理が共存することをアンビバレントという。

 そういえば過去の生徒からは「自分への罰」という「動機」が提出された。何についての罰か? 「精進の道を逸れたこと」ならば③と同じだ。だが、同じ「罰」という言い方で「友人やお嬢さんの気持ちに気付かなかったことに対する自己処罰」だというなら③とは違う。「道を逸れたこと」なら恋心を自覚して以降ずっとKの裡にあった可能性があるが、「気持ちに気付かなかった」なら自殺の直前、二日以内にはじめて生じた動機だ。

 これは上記の「謝罪」に似ている。ただしそれはそれは自分を恥じる気持ち、か? 気づかなかった相手に申し訳ない気持ち、か? 意識の向かう先が違うともいえる。

 あるいは、「行動できなかった自分への絶望」というアイデアも出た。お嬢さんが好きなのに手を拱いていて何もできなかった後悔、という意味だ。これは③とは全く違う。

 それ以外にE組K君から提案されたのは「美徳」。この状況においては、死んで身を引くことで決着させるのがKなりの美意識だというもの。

 またA組N君からは「孤独」という語が提案された。これは考えるべき問題を含んだ語なのだが、現状で、①や②によって生じたものではない? という問い返しに答えることは難しいはずだ。

 表現のバリエーションは分解の精度を上げる。慎重な言葉選びで高解像度でKの心理をすくい上げたい。

 この考察はここで終わりではない。問題意識を持ち続けてほしい。


 さてそのようにして挙げられた「動機」は、排他的にどれかであると考える必要はない。このうちのいくつかが複合的に働いていると考えることはできる。

 では上の項目のうち、どれがどのくらいの割合でKを死に追いやったのか。合計が10になる整数比で表してみよう。例えば①と②と③が、2:5:3くらいの割合だ、などとKの「動機」としての重みを量る。どれか一つが10でもいい。

 例えば「羅生門」でも、「老婆の論理」を二つに分けて、そのどちらが下人を動かして引剥ぎをさせたのか、などと問いかけた。その軽重によって「引剥ぎ」の意味はまるで違ったものになる。

 Kの死に至る心理をどう捉えるか?

 その把握は、どのような「こころ」の読みに結びつくか?


こころ 2 -主題

 授業前の宿題として次の二つの問いについて考えておいた。

問1 「こころ」の主題は何か?

問2 Kはなぜ自殺したか?

 なぜこの二つの問いなのか?


 これまでの「羅生門」「I was born」「夢十夜」でも、最初に問1を投げかけた。

 繰り返し言っている通り、主題・テーマというのは、その物語をどう捉えたのかという、把握の「表れ」だ。それはどういう話? と聞かれた時の答え方だ。

 だからこれが、テキスト読解にとっての最大の問いであることは、まあ当たり前と言えば当たり前だ。授業でもここを目指して読解を進め、ここへ収束するように考察する。

 これは、元々そのテキストに主題が内在している、というのとはちょっと違う。確かにその「可能性」はテキスト中にあったかもしれない。だがなにはともあれ、それをそのように捉えた受容者がいなければ主題は存在しない。

 ということは受容者によって主題はさまざまな形をとりうるということだ。

 だがそれは何でもアリなのだということではない。それはそのテキストの可能性の範囲内で適切でなければならない。そうでなければ、そもそも受容ですらない。


 一方、「どういう話?」という問いかけに対して、粗筋を語ることもできる。粗筋は具体レベル、主題は抽象レベルで、それぞれ「どういう話」かを語っている。

 教科書の収録部分で「こころ」を読み、その粗筋を語ろうとすると、終わりはKの自殺で締め括られる。その時、その自殺がどのようなものかについて語らないということはありえない。唐突にKが死んだとだけ付け加え、そこに至る因果や必然性がまるで示されてなければ、相手は「なにそれ?」と言うだろう。

 となると、何らかの形で、その死がどのようにもたらされるかを語っているはずだ。

 紹介の聞き手どころか、そもそもそれぞれの読者の「こころ」という小説の把握は、この、Kの死の把握に基づいている。Kの死はこの物語にとって最大の事件であり、そこまでの展開がそこへ収斂するように意味づけられる。読者はそのようにこの物語

を捉えるはずだ。

 したがって、「主題」と「自殺の動機」は論理的に整合していることになる。物語の展開の必然性として「自殺の動機」を把握し、それを抽象化したものが「主題」なのだ。

 みんなは「こころ」をどのように捉え、それをどう表現しただろうか?


 自分で考え、表現してほしいが、その後で調べてもほしい。ネット検索でもAI検索でも。

 世間では「こころ」はどういう話だと思われているか?

 そこには高頻度で、ある外来語が登場するはずだ。それは何?


 文庫本には裏表紙やカバーの折り返しに簡単な内容紹介が載っている。

 「こころ」のは例えばこんな感じ。

  • 友を死に追いやった「罪の意識」によって、ついには人間不信に至る近代知識人の心の暗部を描いた傑作。(ちくま文庫)
  • 近代知識人のエゴイズムと倫理観の葛藤を重厚な筆致で掘り下げた心理小説の名編。(講談社文庫)
  • エゴイズムと罪の意識の狭間で苦しむ先生の姿が克明に描かれた、時代をこえて読み継がれる夏目漱石の最高傑作。(角川文庫)
  • かつて親友を裏切って死に追いやったという過去を背負い、罪の意識に苛まれつつまるで生命を引きずるようにして生きる「先生」(岩波文庫)
  • 文豪・夏目漱石が人間のエゴイズムに迫った名作(イースト・プレス)

 これらは「こころ」は「こういう話」だと紹介しつつ、読者の購読意欲を喚起する惹句でもある。

 もちろん内容紹介全体には「あらすじ」的な部分もある。上はその中から「主題」的な部分を抽出してある。


 あるいは高校生が教科書とともに購入する「国語便覧(国語要覧・国語総覧)」の類ではこんな風に紹介されている。

  • 人を傷つけずにはおかぬ恐ろしいエゴイズムと、それゆえに犯した罪に対する苦悩、そして死をもっての清算を描いた作品。(浜島書店)
  • 人間のエゴイズムを追及した(数研出版)
  • 近代人のエゴイズムが絶望に至る過程を描いて見せた作品。(第一学習社)
  • 恋愛と金銭の問題をめぐる人間の我執(エゴ)を鋭く追及しつつ、日本近代への批判をも提示した作品(大修館書店)
  • 人間が持たざるをえないエゴイズムの醜さと、それを救済するには死以外にはないとする、明治の知識人の苦悩が描かれている。(東京書籍)

 あるいはおなじみの「Wikipedia」ではこんな感じ。

人間の深いところにあるエゴイズムと、人間としての倫理観との葛藤が表現されている。

 これらに頻出する言葉は一目瞭然、「エゴイズム」だ。

 「エゴイズム」?

 一般的には「利己心・利己的・自己中心」などという意味で理解されている。「こころ」本文中にも「利己心」という言葉が登場する。

 「文学」はこの「エゴイズム」がどうにも好きで、「羅生門」も「生きるために人間が持たざるをえないエゴイズムを描いている」などと一般的には言われている。来年読む「舞姫」も「エゴイズム」で語られる。へたをすると「山月記」もエゴイズムで語られる。

 では、さしあたり「こころ」のテーマを「エゴイズムと倫理観との葛藤」と表現しておくとして、「エゴイズム」「倫理観」「葛藤」とは、具体的に「こころ」のどのような点を指しているか?


 「なんとなくわかる」と「的確に表現する」の間には大きな差があって、上のテーマにうなずく人も、聞いてみると胡乱な表現をするケースが授業では頻発した。

 「エゴイズム」は「友人を裏切ってでもお嬢さんを自分のものにしたい」「お嬢さんを自分のものにするために友人を裏切る」くらいに表現しておけばいい。

 「倫理観」は、そうした裏切りは良くないことだとする感覚。観念。

 両者は複雑にからみあい(「葛藤」し)つつ、ぶつかり合う。

 「こころ」はこうした「私」の葛藤が描かれた小説だ。


2026年9月23日水曜日

こころ 1 準備

 後期、年内いっぱい「こころ」を読む。

 「こころ」は「羅生門」に次いで、その一部分とはいえ最も多くの日本人が読んでいる小説だ。

 既に著作権はフリーだから、「青空文庫」←リンクはもちろん、ほぼ全ての出版社が、文庫本のラインナップに「こころ」を入れており、その全てで累計では最大のベストセラーとなっている。

 たとえばこんなアンケートも。

東大生&京大生が選んだ『スゴイ本』ベスト30←リンク

 ここでは1位の「こころ」以外にも、4位に「羅生門」、7位に「山月記」も挙がっている。

 30位の「銀河鉄道の夜」の宮沢賢治は、代表作の一つ「永訣の朝」を年明けに読む予定。

 18位の「舞姫」は3年で読むことになる。

 東大生&京大生も、読書の入口はけっこう学校の国語の授業だったりするのだ。


 「こころ」という小説の全体像を把握しておこう。

 「こころ」は新聞連載小説で、各章の長さは連載一回分、1500字前後、原稿用紙4枚弱で揃っている。教科書本文中に挿入される「*」が連載一回分の切れ目を示している。これが合計110章、110日間、4か月弱、今から100年と少し前、毎日お茶の間に届けられたわけだ。

 全体が三部構成で、各部の章立ては次のとおり。

上「先生と私」  36章

中「両親と私」  18章

下「先生と遺書」 56章

 半分程が「下」であり、実際に「下」の内容が「こころ」として紹介されることも多い。

 教科書も、「下」の35章から49章までを収録している。

 「上」「中」で「先生」と呼ばれる人物が「中」の終わりに自殺することがほのめかされる。「下」は全体が「先生」の遺書そのものだ。

 したがって文中の「私」は、「下」では「上」「中」で「先生」と呼ばれていた人物となる(「上」「中」では「先生」より10歳ほど年下の大学生が「私」として語る)。だから授業で主人公を呼ぶときに「私」と言ったり「先生」と言ったりする(名前は小説中には明かされていない)。

 「私」は「わたくし」と読むべきなのだが、授業中は言いやすさ優先で「わたし」と言う。


 「こころ」全編を読むことは大いに推奨したいが、さしあたって教科書の収録部分は全員読んでから授業に臨むこと。

 そして読解も、基本的には教科書収録部分を対象に行う(時に、それ以外の部分を参考に示すこともある)。

 授業者は文庫本を複数持っているので、全編読みたい希望があれば貸す。

 またマンガ化されたものも複数持っているので、とりあえず全編をザッと辿っておきたいという人は申し出て。貸す。

 それから映画化された作品もあるので興味があれば(アマプラに古い実写映画が上がっている)。

 YouTubeには解説動画がいっぱいアップされているが、まあ授業との比較に見てみてもいいかも。


 授業に入る前に二つの問いに答えておく。

問1 「こころ」の主題は何か?

 「こころ」を読んだことのない友達に「こころ」ってこんな話、と紹介してみよう。

 ただし「あらすじ」よりも抽象的な言い回しで言うようにする。この話は「どういう話」なのかが言えれば、それが「主題」だ。

 「こころ」とはどういう話か?


 小説の主題を考えるという行為は、そのテクストをどんな枠組で捉えるかを自覚するということだ。

 「主題の考察」といえば、世の普通の授業では、何時間かの読解の後に、最後の考察として取り組む課題だろう。

 だが、これを最初にやっておく意義は、現状の読みを自覚することにある。一読した皆ひとりひとりは、ひとまず「こころ」をどのような物語であると捉えたのか。これを自覚し、教室で共有する。

 そして授業の中では、この読みの変化を体験したい。

 変化しないのなら、授業で小説を読むことには意味がない。一人で読めばわかることを辿ってもしょうがない。

 といって、読者としてわからないことを他人から「教わる」ことにもそれほど意味はない。

 一人一人が読んで、考える。そのうちに、最初に一人で読んだときとは違った「意味」が立ち上がっていく。

 認識の変容を表わす「コペルニクス的転回」という言葉があるが、「こころ」はこれが起こるテクストだ。

 この、目眩がするような読解を体験してほしい。


 もう一つの問い。

問2 Kの自殺の動機は?

 この問いも、数時間の授業の後で考察するのが普通だが、上記と同じ理由で、今は一読した段階でどう捉えられているかを自覚する。


 物語の主要な登場人物の死が受け手に与える衝撃は、物語を享受する情動のうちでも最も重大なものの一つだ。ともかくも小説を読んで、その死が衝撃的であるような登場人物の自殺について、その動機を考えずに済ます読者などいない。だからこの問いは、一読してさえあれば、問うことが可能だ。


 さて「こころ」とは何を言っている小説なのか?

 Kはなぜ自殺したのか?


2026年9月17日木曜日

思考の誕生 18 他者の声 実在の声2

 さて、「他我問題・外界問題」は清算されたが(哲学界隈では)、あらたに「他者性の問題・実在性の問題」が現れてきたという(哲学界隈では)。

 この移行に関わっている人を我々は知っている。授業に何度も登場した。誰?


 ソシュールの名が思い浮かんでほしい(他にもいろんな哲学者がこうした問題に影響してはいるのだろうが、哲学の授業ではないので割愛)。

 ではソシュールの思想が、この変遷にどう影響しているか?

 これも簡潔に表現してみよう。


 昨年度来のソシュールの思想については、それぞれの理解に応じていろいろな言い方ができるだろう。だがあれこれ言い過ぎると論理が複雑になって適切なのか不適切なのかが判別しにくい。だからどこをどう切り取ると、論理展開にはめ込めるかを考える。

 例えば、話し合っている声の断片に「恣意性」「切り分ける」「物が先ではなく言葉が先」などのフレーズが聞こえてくると、それは確かにソシュールの思想だが、ここで使うのには避けた方がいいなあと思われる。

 先に「外界問題」をすっきりと言ってみた。「どうしたら外界を確かめられるのか?」だ。

 では「実在性の問題」は?


  • 言語の「外」は実在するのか?
  • それはどうしたら確かめられるのか?

 などという言い方ができると見当をつけておく。

 ならばソシュールの思想をどのように表現すればその変化の間が埋まるか?


 ソシュールが出てきたのは「視点を変える」シリーズだから、おなじみのスキーマとゲシュタルトだ。

 スキーマとゲシュタルトという言葉を使う文は二通り作れる。

  • スキーマが変わるとゲシュタルトが変わる。
  • スキーマによってゲシュタルトができる。

 どちらが使えるか?


 この言い方をソシュールの問題に変換するなら「言語によって世界が認識できる」ということになる。これで論理がつながる。

外界はどのようにして認識されるのか?

という問いが

言語によって外界は認識される。

というソシュールの思想によって

では言語の外はどのようにして認識できるのか?

と形を変える。

 これは表現を調整しながら、論理をすっきりとつなげる国語力が問われる課題だ。

 最終的な形を見ると呆気ないように思えるかもしれないが、これを自力で成し遂げるのは相当に難しかったようだった。

 諦めずに取り組むべし。

 ブレスト的にぐちゃぐちゃと喋ることも有益だが、なるべく簡潔な形に収めることにも、各グループで努力してほしい。


 さて、「他者性の問題・実在性の問題」に、では野矢茂樹はどう答えているのか?

 鍵となるのは先に確認したとおり「言葉」だ。

 簡単に言ってしまえば、言葉が、言葉によるフィルターバブルの内と外を行き来させる、と言っているのだ。

 あれっ?

 これは「物と身体」を前のあれこれと読み比べたときにも出てきた話だ。身体はフィルターバブルを作るが、身体によってフィルターバブルの外側に出ることができる。身体は両義性を持っている。

 同様に両義性を持ったものが言葉だ。

 最近、ソシュールを思い出して確認したとおり、言葉が認識を可能にしている。だから言葉が認識を制限しているのではないか、というのだが、同時にそれを運用することによってその外側の「実在」が感じ取れる。


 時間がなくて1クラスだけしか読めなかったが、「論理国語」に収録されている熊野純彦「ことばへの問い」という文章でも同じことが述べられている。

 ことばこそが、ことばで語れるもの、ことばにならないものの両方を「発見」させるのだ、と。

 この文章は、こういう流れで読まないと、言い回しが韜晦に満ちてわかりにくいが、もうすんなり読めるようになっているはずだ。


 さて、言葉がフィルターバブルの外へ出る手がかりになるというのだが、となると、その糸口となる、例の「断絶/抵抗・障害/わかりあえなさ/他者/他人(性)」にあたる言葉はあるか?

 そのまま「意味の他者性」という表現もある。「語り得ぬもの」という言い方も「物語るという欲望」の「反-物語」「空白」っぽい。

 「わかりあえなさ」にストレートに通ずるのは「(他人との)ズレ」という言葉だ。

 やはりここでも同じ論理が反復されている。

 

 野矢の文章の最後

今は理解できない。今は語り出せない。しかし、それらを理解し、語り出すために、私は私自身の手持ちの言葉を変え、私自身を変えていくだろう。そうすれば、きっとそれらと出会うことができる。

は、もうほとんど「未来をつくる言葉」だ。野矢が哲学について語ることと、ドミニク・チェンが社会に対するメッセージとして語ることがよく似ているのは、ともにそれぞれの洞窟の外に出ようとする宿命(内田樹)を引き受けているからだろう。


 これで前期「思考の誕生」シリーズを一段落する。

 みんなの裡にはどんな「思考」が「誕生」しただろうか?



思考の誕生 17 他者の声 実在の声1

 「思考の誕生」から始まった今年度前期の比較読解の流れは、野矢茂樹の「他者の声 実在の声」で一段落とする。

 野矢茂樹は昨年度のテストで出題したので、みんな読んだことはある。ただ「論理国語」「文学国語」の教科書には文章が収録されていない。「ちくま評論入門」「ちくま評論選」には入っている。あれらは教科書をつくる際に集められた文章群の補遺だろうし、もちろん他の出版社の教科書では常連だ。ということはつまり大学入試にもよく出題される論者だということだ。


 一読して「物と身体」と同じ問題を扱っていることに気づく。そしてそれに対して違ったアプローチをしていることにも。

 それがどのような「問題」であるかを捉えることと、それがどのように違ったアプローチによるかを捉えることは相補的だから、おそらく同時に「わかる」。

 この「問題」を簡潔に表現し、それぞれの「アプローチ」を示すキーワードを一語ずつ挙げよう。


 もう一つ、文脈を大きく捉えよう。この文章は前後で二つの大きな塊に分けられると感ずるはずだ。前後を簡潔に表現してみよう。

 前半は「他我問題・外界問題」について、後半は「他者性の問題・実在性の問題」についてだとまとめるのが簡潔。

 この前後を、対比的な単語で表現しよう。単語で、というのも簡潔にする手段だ。


 簡潔に表現するというのは大事なことだ。情報はコンパクトにまとめると扱いやすい。いろんな要素が入った方がより正確さを保証するということもあるが、焦点がぼやけて捉えにくくもなる。何より記録性や再現性に劣る。コンパクトな情報は扱いが楽で便利。


 「他我問題・外界問題」を簡潔に表現してみよう。文中から引用できる部分はない。自分でそれがどういう「問題」かを捉え、表現し直すしかない。

 簡潔に、ということで10字程度。「問題」なのだから、文末は「~か?」で終わるよう。


 問いが簡潔に表現できたとして、それは答えが二択になる(Yes/No)問いか。

 もしそうならば、そこから当然導かれるべき問いをさらに表現する。

 答えを二択にしないためには、疑問詞を使う。


 「他我問題・外界問題」は、ひとまず次のように言い換えられる。

他我/外界はあるのか?

 これは、ある/ないで答えられる問いになっている。

 この問いはさらなる問いを必然的に生む。

 疑問詞として「何(どのような)」「どこ」を使う発言も出た。本文には確かに「外界はどこにあるのか?」という問いの形が提示されているが、本文全体をすくい上げてはいない。

 次のように言い換えるのが適切。

他我/外界があることはどうしたら(どのように)確かめられるのか?

 この「外界問題」は「物と身体」が問題にしていることでもある。「物と身体」では「物があることをどうしたら確かめられるのか?」だが、同じことだ。「物と身体」は机の上の消しゴムを例に語りはじめ、「他者の声 実在の声」では机の上のコーヒーカップから語り始める。

 さて共通した問いに対して、それぞれの文章がとるアプローチを対比的な言葉で表そう。

身体/言語

 それぞれ、身体/言葉によって確かめられるのだ、と言っている。


 「他者の声 実在の声」の前半と後半を対比的な言葉で表そう。

意識/言語

 「他我問題・外界問題」は意識の内と外をめぐる問題。

 「他者性の問題・実在性の問題」は言葉の内と外をめぐる問題。

 これで文章の構成が捉えられた。


 「他者の声 実在の声」の前半、「他我問題・外界問題」は出ることのできない洞窟のような問題だと結論づけられる(この「洞窟」は「他者の言葉」で紹介されるプラトンの「洞窟」とは対応していない。同じ言葉が出てきたからと跳びついてはいけない)。

 ここで「何人もの哲学者たちがそうして倒れていった。」と言われている哲学者の一人を、みんなは知っているはずだ。授業で出てきたから。

 「物と身体」で言及されるデカルトがそうだと気づかねばならない。

 上記のように二つの文章は同じ問題を扱っていて、前田はデカルトのアプローチを、否定するために援用している。とすれば野矢がその問題に「倒れていった」と評する哲学者の一人にデカルトを数えてもいいだろう。出口はないというのだから。

 もちろんデカルト本人は出たと言い張るだろうけれど。


 この「他我問題・外界問題」は、哲学者ならずとも共感する人が多い問題のはず。

 古くから、周りの人間は全てロボットで、自分だけが人間なのだという妄想を描いたSF作品は珍しくない。あるいはインベーダーでもいい。自分の家族がある日、外見はそのまま異形の物に入れ替わってしまっているのだという妄想には、古来多くの人が共感するのだ。

 これを扱った哲学問題が「哲学的ゾンビ」という思考実験だ。人間と同じように振る舞い、完全に見分けがつかないが意識を持たないゾンビを、ゾンビである/ないと確かめる方法はあるか、という問題。

 そのことを確かめることはできない、というのが結論。つまりこれは他我問題だ。

 野矢の結論は「他我問題」に出口はない、だから哲学はこれを解決ではなく「清算」したのだというのだが、これは最近また関心を集める問題として浮上してきた。

 何のせい?


 ここ5年の生成AIの進歩だ。あれほど巧みに自然言語を操る人工知能が現実化するとは誰も想像していなかった。それが現実に表れたとき、彼らにもやがて「意識」が生ずるのではないか、それをどうしたら否定できるのか、といった問題はいやおうなく人々の関心を喚起する。

 相手に「他我」があるかどうかは、言葉のやりとりによって確かめられるのではないか? そのようにして相手がロボットかどうかを確かめる「チューリングテスト」には、最近のAIはパスできるという。

 とすればAIに「意識」がないとどうして言えるのか?


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