2023年2月16日木曜日

視点を変える 8 鳥の眼と虫の眼4

 小論文はうまく言いたいことが書けたろうか。600字はみじかすぎる。収めるのに苦しんだかもしれない。

 字数を気にせずに以下に授業者の読解を示す。


 この文章で最も重要な対比が「鳥の眼/虫の眼」であることは明白だ。

 そしてこの文章の最重要プレーヤーはサン・テグジュペリとアリスであることもまた明白であり、この二人が「鳥の眼/虫の眼」という対比に対応していることがまず指摘されなければならない。すなわちサン・テグジュペリが「鳥の眼」を持つ者、アリスが「虫の眼」を持つ者である。

 そしてこの対比は、どちらかが中心だったり、どちらかが肯定的/否定的であったりはしない。アリスもサン・テグジュペリも、どうみても肯定的な存在として描かれている。

 だから「鳥の眼も虫の眼もどちらも大事」ということになるのだが、それだけで終わってはならない。「木を見る、森を見る」なら結論はそれでもいい。だがこの文章ではどのような論理で、どちらも大事、と言っているのかが論じられなければならない。


 問題は、もう一つの交換不可能な対比「西洋/非西洋」と「鳥/虫」の対比、二つの対比の関係をどう考えるかだ。

 この二つの対比は「鳥の眼」が「支配者」に通じるところから、同一軸上に並びそうにも思える。だがそうではない。

 「鳥/虫」は肯定否定の対比ではなく、対立的でもない。だが「西洋/非西洋」は対立的な対比だ。二つの対比は同じ軸上にはない。

 そもそもサン・テグジュペリもアリスもどちらも西洋人だから、「鳥/虫」の二人とも「西洋/非西洋」という対比の左側にきてしまうのだ。そういう意味でも二つの対比は同じ軸上にはない。


 「征服者/訪問者」は文中で対比的に言及されているが、よく考えるとこの対比は捻れている。

 「征服者」の対立項目は征服者」だ。

 「訪問者」の対比項目は訪問者」だろう。

 征服者/被征服者

被訪問者/訪問者

 二つの対比の左辺同士、右辺同士は、まるで違う。だからこの二つの対比は、別の軸による別の対比だ。
 ではなぜ「征服者/訪問者」が対比として並べられるのか?

 「訪問者」はアリスを指している。白人(アメリカ人)のアリスが南の島を訪れる。そこにいるのは「非西洋」の人々だ。

 西洋/非西洋

アリス/南の島の人々

 「西洋/非西洋」の関係は歴史上「征服者/被征服者」の関係だった。

征服者/被征服者

 西洋/非西洋

 だがアリスにとってそれは「訪問者/被訪問者」の関係だ。
 「アリスは征服者ではなく訪問者だ」というのは、アリスと南の島の人々は「西洋/非西洋」の関係だが、それは「征服者/被征服者」の関係ではなく、「訪問者/被訪問者」の関係だ、と言っているのだ。二つの対比同士対比されているのである。

 西洋/非西洋

アリス/南の島の人々

 ×征服者/被征服者

  訪問者/被訪問者 

 つまり「虫の眼」とは、「西洋/非西洋」を「征服者/被征服者」としてではなく「訪問者/被訪問者」の関係として捉えることで、その対立を乗り越える一つの視点を示しているのである。


 一方「征服/被征服」における「被征服者」に近い対比要素にあたるのは、文中の語では「不帰順族」だ。「帰順」とは征服を受け容れるという意味だから、本当は「征服者/被征服者=帰順族」が対になるのだが、「帰順」するにせよしないにせよ、どちらも「征服者」に対立する立場としては同じだから、「不帰順族」もまた「征服者」に対置される。

 そして「鳥の眼」は「支配者=征服者」の視点に通じるように見える。

 西洋/非西洋

征服者/被征服者

支配者/不帰順族

  鳥/虫

 だが文章の流れが、そうではないと言っていると読めることは明らかだ。

 「鳥の眼」をもつサン・テグジュペリの在り方は、「西洋/非西洋」の対立を超える、アリスとは違うもう一つの可能性を示している。

 白人であるサン・テグジュペリは、非西洋人である遊牧民に「人間」の顔を見る。西洋人/非西洋人という対立を超えて、どちらも「人間」として対峙することを可能にしているものこそ「鳥の眼」だ。

 上空から見るとすべての人々が「ともしびの一つ一つ」に見える。彼らと「心を通じあう」ことをサン・テグジュペリは希求する。そのとき、サン・テグジュペリにとって「西洋/非西洋」という対立は存在せず、同じ「人間」がいるだけだ。彼が救援する者と待つ者の「奇妙な役割の転倒」を確信するのは、自分を救援してくれる者が「人間」であるように、自分も同じ「人間」でありたいと彼が思っていることを示している。

西洋/非西洋

サン/遊牧民

人間/人間

 現実に存在する「西洋/非西洋」という対立構造を超える可能性を「鳥の眼と虫の眼」という二つの視点から語るのがこの文章のメッセージである。

 「鳥の眼」によって、全てを人々を同じ「人間」として見ることで。

 「虫の眼」によって、全ての人々に同じ「人間」として接することで。


 以上、600字をはるかに超えるのでちょっとズルい。

 600字程度にまとめてみる。

 題名に明示されている「鳥の眼/虫の眼」という対比は、『オリエンタリズム』や『大草原』で示される「西洋/非西洋」という対比とどのような関係にあるか。
 「西洋/非西洋」という対比は歴史上「征服/被征服」という対立の関係にある。サン・テグジュペリとアリスによって示される「鳥の眼/虫の眼」という対比は、現実に存在する「西洋/非西洋」という対立構造を超える可能性を、二つの視点から語る。
 アリスと南の島の人々は「西洋/非西洋」の関係である。だがアリスは両者の関係を「征服/被征服」の関係ではなく「訪問者/被訪問者」の関係として捉える。それは「西洋/非西洋」という対立を超えた、同じ人間として両者を見る視点を示している。これを可能にしているのがアリスが体現している「虫の眼」である。
 一方「鳥の眼」を体現するサン・テグジュペリも、自分に水を与える遊牧民に「人間」の顔を見る。フランス人であるサンと遊牧民は「西洋/非西洋」の関係である。だが両者を「征服/被征服」という関係ではなく、同じ「人間」として見る視点を可能にしているのが、空からの視点である。はるか上空から見下ろすとき、地上の人々は全て小さな「ともしび」なのである。
 そしてこれら二つの視点を共にもつことが「人類」学者である石井氏の願いである。
以上、評価の参考に。

追記
 小論文を書く段階で、当ブログの「鳥の眼と虫の眼3」前回記事までがアップされていたので、それを参照することができた。その中で「西洋/非西洋」という対比が重要であり、それと「鳥/虫」という対比の関係を考えるように誘導したのだが、やはり「西洋/非西洋」という対比を組み込んだ論を展開している人は少なかった。単にそこまでの考察をたどって、「鳥/虫」のどちらも大切、と結論するだけの論も多かったし、さらに逆にそこまでの考察が的確に把握されていない論も多かった。
 確かにこの文章はなまなかなことでは読みこなせない。だが一方で、自分の文章を客観的に読む意識ももってほしい。相互評価はそうした意識を高めるのが狙いだ。
 評価の高かった小論文の中でも出色の作と授業者が評価したF組Eさんの文章を紹介する。

 黒人と白人、西洋人と非西洋人、世の中にはそんなあらかじめ決められた絶対的な対比が溢れている。そのため、ローラの父のように人々は自分の中に固定概念を確立し、物事を多角的に見られなくなる。
 絶対的な対比に対し、英雄と普通の人、主人公と異端者などのような相対的な対比も存在する。これらの対比は、視点を変えれば違った風に捉えることができる対比だ。例えば、物語の隅に登場する異端者も、その人物に焦点を当てれば主人公に変わる。
 視点を変えるために必要なこと、それは鳥の眼と虫の眼、その両方を持つことだ。飛行家という職業柄、鳥の眼で物事を見ることが多いサン・テグジュペリを筆者が征服者と表現しなかったのは、彼に小さなともしびと通じ合おうとする虫の眼の視点があったからであろう。また現地の人と親しみ、虫の眼で土地を歩いたアリスは村に花の種をまくが、そこには風に乗って運ばれ、遠い場所で花を咲かせたルピナスを見たという背景がある。もし鳥の眼で遠くに目を向けなければ、村に花が咲き誇ることはなかったであろう。
 筆者が調査地から遠ざかる瞬間、それは虫の眼が鳥の眼にかわる瞬間だ。虫の眼で人々と心を通わせたからこその相手に対する理解、鳥の眼への変換があるからこそ感じる懐かしさ、二つの視点があることによって、はじめて調査地の人々に対する愛が生まれる。二つの視点を持つことで愛をおくりたい、そんな筆者の想いが伝わる。
  論理も的確な上に、なにより文章が美しい。驚嘆すべきエッセイだ。

2023年2月9日木曜日

視点を変える 7 鳥の眼と虫の眼3

 「鳥の眼と虫の眼」の読解・考察は最終的に600字の小論文にまとめる。その前に授業で共有した考察結果を整理する。


 前回、対比のグループを三つに整理した。

「近年の人類学」で示される「鳥/虫」軸。

『大草原』『オリエンタリズム』で示される「西洋/非西洋」軸。  

「視点を変える」というテーマを表す、視点の相対性を示す対比軸。

 これらの関係を考える。


 前々回挙げた「主人公/異端者」「英雄/普通の人」「大人/子ども」とともに「征服者/訪問者」という対比も文中から容易に見つかる。この対比はどのような位置付けになるか?

 例えば「征服者/訪問者」は「英雄/普通の人」と並べられそうな感触がある。「征服」という行為は「英雄」的に映る。「普通の人」でなければ「訪問者」たりえない。

 また「西洋/東洋」にも並べられそうに見える。「黒人奴隷」に対する「白人」は「征服者」だ。

 では「黒人」は「訪問者」なのか?

 そんなことはありえない。「訪問者」とはアリスのことだ。アリスと「黒人」をひとくくりにする論理は見出せない。

 これは対比の軸が違っているということだ。


 対比の多くは「対立」であり、しかもその多くは否定/肯定の対比だ。「征服者/訪問者」はそうだ。「訪問者」であるアリスは肯定的に描かれている。

 では「征服者」とは誰か?

 「鳥/虫」軸を語る人類学のくだりに次の一節がある。

空からの視線は支配者の視線に通じる

 「支配者」は「征服者」の言い換えだろう。どちらも否定的な表現に見える。

 それに比べて「虫」の視点からは「細やかな機微」を捉えることができる。これは肯定的だ。そしてこの視点を持ったものが「訪問者」だろう。

 だがこのくだり、表現の、それこそ「細やかな機微」を感じ取る必要がある。

 「鳥瞰図への批判と虫の眼への接近」は左辺を否定的に捉える対比かと一瞬思えるが、続く一節は「それはきっとある意味では正しいのだろう。」という、微妙な保留のニュアンスがある。「ある意味では」という限定にしろ「きっと~だろう」という推量形にしろ。

 そして空から見ている人として登場するサン・テグジュペリはこの文章で「批判」されているのか? とてもそうは思えない。「空からの視線は支配者の視線に通じる」に続く文の冒頭は「だが」だ。

だがサン・テグジュペリは、上空から見るともしびについても書いていた。

 ここが逆接になるのは、どのような方向で論を進めたいということの表れなのか?


 「鳥/虫」対比において登場する「支配者」は左辺。

 「支配者=征服者」と見なしていいように思える。

 では「鳥/虫」と「征服者/訪問者」は同じ軸か?

 さらに「征服者=支配者」は「西洋」に対応しているから、これは「鳥/虫」軸と「西洋/非西洋」軸がそのまま接続するということか?

 恐らくそうではない。それは論理が混乱している。


 そして明らかにこの文章の最重要プレーヤーはサン・テグジュペリとアリスだ。

 二人は、この文章の論理の中でどういう位置付けにあるのか?

 二人の存在を通して、どのようなメッセージを伝えているのか?


 なんだか「鳥の眼と虫の眼」の本文のように、問題の投げかけばかりしている文章になってしまった。

 後は各自で考えて。

2023年2月8日水曜日

視点を変える 6 鳥の眼と虫の眼2

 この文章にはいくつもの対比が登場するが、それらの対比軸はすべて同じというわけではない。

 対比とは何事かの問題を考えるための手掛かりを提示しているから、対比軸はその都度なんらかの問題を提起している。

 それらの対比の中で、同一軸上に並んでいると考えられる対比を「グループ化」しよう。グループを形成するということは、それだけその軸で示される問題が、この文章で重要であることを示す。

 そしてそれらのグループの関係を考えよう。


 この文章が「視点を変える」というスキーマによって捉えられそうだと感じられるのは、例えば次のような一節を見ても明らかだ。

  • 同じ風景が広がっているのに光の色が異なっているような
  • 図像を反転させるように別の見方を取る
  • 異なる光の下で別様に見えてくる

 もっとはっきり「視点が変わる」という表現も出てくる。

違う光の下で景色を見るように、こうした場面に昔は気づかなかった何かを感じ取ってしまうのは、自分の視点が変わったせいだろう。

 こうした「視点が変わる」ことを示す対比が、前回とりあげた「大人/子ども」や「主人公/異端者」といった対比だ。どちらから見るか、という視座の在処の違いを対比している。

 そうした視座の違いによって変わる「見え方」の違いを表す対比が、例えば次のような対比だ。

奇跡/日常

憧憬/陰影

表面/奥行き

 敵/人間

 「鳥/虫」の対比もまたこれら「視点が変わると見え方が変わる」ことを示す対比グループの一部ではある。

 だが、上記のいくつかの対比とは違って、単に相対的であることを示す対比でなく、明確に異なる絶対的な視点の違いであり、入れ替えができない。「主人公/異端者」はどちらを「主人公」とするかによって反転するが、「鳥/虫」は入れ替わったりしない。

 このように、相対的であって入れ替えが可能であるような対比と、絶対的で入れ替え不可能な対比がある。

 そしてそうした絶対的な対比群がもう一つ、文中にある。『大草原の小さな町/家』と『オリエンタリズム』において提示される視点の対比だ。

 「大草原の小さな」シリーズで示されるのは「白人/黒人・先住民(インディアン)」という対比。

 『オリエンタリズム』ではそれが「西洋/東洋」として対比されている。「オリエンタル」という時の「東洋」とは「非西洋」という意味だから、実際にはいわゆる「東洋」よりももっと広い、アジア・アラブ・アフリカ・オセアニアなども含む地域・文化圏を指している。

 そこから遡ってサン・テグジュペリのエピソードから抽出できるのは「不帰順族」「黒人・奴隷」「モール人」と自分たち「白人」との対比だ。頭から読んでいるとその対比が見えにくいが、『大草原』『オリエンタリズム』から遡るとそうした対比が見えてくる。

白人/黒人

   先住民

   モール人

   不帰順族

西洋/東洋(非西洋)

 この対比は明瞭で、しかもこのようにいくつもの例が挙がっているので「グループ」として存在感がある。だが授業中の話し合いの様子を見ていると、これがグループとして捉えられている班は多くはないという印象だった。なぜだ?

 この対比は「絶対的」である。黒人と白人を入れ替えることはできない。この対比と「鳥/虫」という対比はどのような関係にあるか?


2023年2月6日月曜日

視点を変える 5 鳥の眼と虫の眼1

 文化人類学者・石井美保の「鳥の眼と虫の眼」は、評論というよりは随筆(エッセイ)というべき平易な筆致で書かれている。こういうのは難しい評論とは違った意味で手強いことがある。筑波大の国語の問題も、大問一の論理的文章より大問二の文学的文章(随筆を含む)の方がはるかに難しい。

 この文章も、当たりは柔らかいがその実、なまなかなことでは読み下せない懐の深さがある。味わい深く、感動的でもあるのだが、論理を追うのは難しく、すっきりと読み下せない。

 「わかる」ためにはスキーマがはたらかせるのが有効だ。ここでも、これまでの流れに従って「視点を変えると物事は違って見える」というスキーマにあてはめてみよう。


 前の二つの文章にしたがって、二つの視点の対比を文中から挙げる。

 ところがこの段階で既に一筋縄ではいかないことがわかってくる。

 みんなが挙げるいくつもの対比は、どうやら一つの軸上に並んでいるわけではないのだ。

 そのことは、自分たちでいくつもの対比を挙げながら気づいていったろうか?


 一つの対比軸は、いうまでもなく「鳥の眼/虫の眼」だ。これが「森を見る/木を見る」と重なるのではないかと予想していたのだった。

 確かに「近年の人類学」に言及しているくだりではその対比が浮上してくる。だがこの部分、この対比によって何を言っているのか捉え難い。


 さらに、この文章で対比されている視点はこれだけではない。

 文中から見つけ易い対比として

主人公/異端者

 英雄/普通の人

がどのクラスでも挙がったが、これらは同一軸上には並べられない。

 「主人公」と「英雄」は同じ側に置かれそうにも感じられるが、「異端者」と「普通の人々」はどのような意味で同じなのか?

 例えば次の一節を参照してみよう。

その主人公はでも、いつも英雄だったわけではない。それはつつましい普通の人でもあった。

 「主人公」がある時は「英雄」であり、ある時は「普通の人」であるとすれば、軸の左右は時によって入れ替わってしまうということだ。固定的に並べられない。

 大人/子ども

も同様だ。そもそも「大人/子ども」とは文中の何を指しているのか?

 「ローラの父親/ローラ」という対比か?

 「大人になってからの松村さん/子どもの頃の松村さん」?

 このエピソードは、「大人」になった松村さんが、「ローラ(子ども)」の視点から物語を見直したときの「別様に見えてくる」思いを語っている。つまり上の具体例の対比は、左右が捻れているのだ。どちらの例に対応しているかによって「大人/子ども」は逆転する。このような軸に、他のどのような対比を並べられるのか?


2023年1月29日日曜日

小景異情 3

 この詩は、地方出身者が一時「みやこ」に上京し、今現在「ふるさと」に帰ったときに詠ったものだと考えるのが整合的だ。


 もう一つ、「異土」にいる可能性は?

 地方出身者が一度「みやこ」に出て、そこで「うらぶれて」、「みやこ」落ちして「異土」で「乞食」をしている時に詠んだ詩とは考えられないか?

 「ふるさと」には帰りたいが、やはり帰るべきではないと考え、もう一度「みやこ」に戻ろうと決意する…。

 これなら状況的にはありうる、とは言える。

 だがこれも、徒に複雑な解釈を読者に期待しすぎている。それに「遠きみやこ」の「遠い」という形容がなぜ必要なのかがわからない。秋田出身者が東京に出てきたが、うらぶれて岡山あたりに流れて「乞食」をやっていれば、東京はそこそこ「遠い」?

 これも、そんな特殊な状況を前提しなければならない解釈は妥当性が低いと見なすべきだ。

 「異土」は「ふるさと」からみた「よその土地」だから、「みやこ」も含んでも良いが、「みやこ」に限定しなくとも良い。「ふるさと」以外のどこか、だ。

 「異土の乞食となるとても」は、今「異土」にいるという意味ではなく、いるとしても=仮定なのだ。だから抽象的な「どこかよその土地」を意味すると考えていい。


 こうしてまずは整合的な状況設定を読み取って、ではどういう「思い」を詠っているのか、と考えるべきなのだ。


 まず、地方出身者が上京する。旅行くらいでは「ふるさと」とは言わないから、東京で一定期間生活していたはずだ。

 そして「ふるさと」に戻る。夢破れて故郷に戻るというのがありそうなケースだ。盆暮れの帰省くらいではこの詩の絶唱には釣り合わない。

 以下、最初の5行で述べられるのは「ふるさとが懐かしい」などという思いではない。「ふるさとは遠くで懐かしむべきものであって、決して帰ってはならない」と言っているのだ。どこかよその土地で乞食になったとしても、とまで言っている。

 「ひとり都のゆふぐれに/ふるさとおもひ涙ぐむ」はそのまま読むと「都」にいるように読めるが、続く詩行を読めば、そのような心を持って都に帰ろう、と言っているのだから、やはり「ふるさと」にいるのだ。そして本来ここは遠くで懐かしむべきものだ、といっているのだ。


 さてでは、ここで述べられているのはどのような思いか?

 故郷に対する愛憎半ばする複雑な思い、とでも言っておこう。

 当の故郷にいて、故郷とは遠くにいれば懐かしいのに、帰ってはならないところだと詠っているのだ。

 帰ってみると、懐かしかったはずの故郷では、家族親戚の冷たい(あるいはなま温かい)視線に居心地悪い思いを抱く。そういえばかつて故郷にいた頃には窮屈な村の慣習に嫌気が差していたことなど思い出す。それなのに都会に出てみるとそんなことを忘れて、愚かにもうっかり故郷を懐かしがってしまったりしたのだ。

 ここにあるのは普遍的な「幻滅」の感覚だと思う。幻は幻のままにしておいた方が良い。ふるさとは遠くで懐かしんでいるときこそが美しいのだ…。


 F組Oさんの班では、「ふるさと」に対する甘えを封印して、もう一度「みやこ」でがんばろうという決意を詠った詩だと読み取った。「みやこ」でがんばりながらなら、いくらでも「ふるさと」を懐かしんでいいが、実際に帰ってはだめだ、と自らを戒めている詩なのだ。

 これも、状況に整合的な解釈のひとつだ。


 「ふるさとは遠きありて思ふもの」と語る語り手が「みやこ」にいるものとして読むのと「ふるさと」にいるものとして読むのとでは、意味するものがまるで違う。「みやこ」に出てきた地方出身者が語っているのなら、単にふるさとを懐かしむ心情を述べているのだと読めるが、現に「ふるさと」に居る語り手が語るとしたら、こんなところに帰ってくるべきではなかったという悔恨を語っていることになる。

 テキストの読解とはこのように、テキスト内の情報を整合的に組み合わせることによってできあがる全体像=ゲシュタルトを捉えようとする思考である。


2023年1月23日月曜日

小景異情 2

 テキスト全体を整合的に解釈して、この詩がうたっている「思い」を括り出す。

 「どのような思い」というのは「ふるさとを思って涙ぐむ気持ち」「遠い都に帰りたいという気持ち」などと答えるだけでは不十分。

 こういう時は、何らかの抽象化した表現を求めているのだ。


 さて、読解において決定的な糸口になるのは次の問いだ。

語り手どこにいるか?

 「語り手」は「作者」とは違う概念だ。室生犀星本人は遙か昔に死んだ人であり、もうどこにもいないし、この詩を書いた時点でどこにいたかもどうでもいい。

 「語り手」とは時として一人称で文中に登場していることもあるが、明示的には表われていなくとも、潜在的にはその言葉を語っている者として、どこかにはいる。それが抽象的な存在であって、それほど重要ではない場合もあるが、テキストによっては重要だ。誰がそれを語っているかは、テキストの解釈に決定的な影響を与える。


 選択肢は文中から選ぶ。

  • ふるさと
  • みやこ(都)
  • 異土

 「ふるさと」と「みやこ」の二択でいいと思っていたが、授業をしているうち「異土」説を主張するグループもあることがわかってきた。

 さらに漢字の「都」と平仮名の「みやこ」は別のものを指しているという解釈を主張するグループもある(グループどころかクラスの大半の者が主張することも)。

 さらに、これらのうちのどれかとどれかは同じものを指しているとかいうことだとすれば、四択ではなく三択かも、あるいは二択かもしれない。それもまだ確定されてはいない。

 どうなるやら。


 「ふるさと」という語は、住む場所の移動があった場合にしか使われないから、語り手は何らかの移動をしているにちがいない。「ふるさと」から離れた時期があったということになる。

 「みやこに帰る」と表現されるからには、ある時期に「みやこ」にいて、このテキストの言葉を発している時点では「みやこ」にいないということになる。


 この条件を満たすように考えるなら、地方出身者が一時「みやこ」に上京し、今現在「ふるさと」に帰ったときにこの詩を詠んでいると考えるのが整合的だ。


 だがこのように考えるのが容易なわけではない。

 1行目「ふるさとは遠きにありて思ふもの」を読む人は、とにかく「ふるさと」から遠いところに語り手がいるのだと思ってしまう。後半で「ひとり都のゆふぐれに…」とあるから、地方から出て東京にいるのだな、と解釈する。

 よもや語り手が当の「ふるさと」にいるなどとは思いもしない。

 だが、東京で一人暮らしをして、故郷を思って泣いているのかと思っていたら、最後に「遠いみやこに帰ろう」と言われてしまう。

 混乱して、以下のような解釈を考えつく。


 「遠きみやこ」とはすなわち「ふるさと」なのだ。「遠きみやこにかえらばや」は「ふるさとに帰ろう」という意味なのだ。

 その場合、彼は「みやこ」の出身者で、どこかの地方に来ていて、「ふるさと」=「みやこ」に帰りたいと言っている?

 あるいは地方出身者が「都」に出てきて、そこで「ふるさと」を思って涙ぐんでいるとすると「都」は大都会、「遠きみやこ」は地方都市を指す?

 いずれにせよ、では「ふるさとは…帰るところではない」をどう解釈するのか?

 整合的な解釈は難しいと言わざるをえない。


 そもそも「遠きみやこ」と「ふるさと」は同じものを指しているのだとか、「みやこ」と「都」は別のものを指しているのだといった特殊な解釈を読者がすることを前提として作者が言葉を選んでいるのだと考えるのには無理がある。「みやこ」と「都」は、概念レベルとして違う意味合いを持たせている、くらいなら許容できるが、違う対象を指しているなどという使い分けの意図など、読者には伝わらない。読者からすると、そんな無理な解釈はできねーよ、だ。

 したがって、そんな無茶な設定を前提しなければ整合的に解釈できないような解釈は、妥当性が低いとみなすべきなのだ。

小景異情 1

 4回にわたって詩を読解する。

 やることは評論だろうが小説だろうが同じことだ。まずはテキストから読み取れる情報を整合的に組み合わせてゲシュタルトを形成する。評論と小説と詩を読むためのスキーマはそれぞれ違うとはいえるが、違った評論には違ったスキーマを用いなければならないように、評論を読むことと小説を読むことと詩を読むことには相対的な差しかない。

 そもそも中原中也「一つのメルヘン」と小池昌代「あいだ」を同一のスキーマで読める気がしない。

 「一つのメルヘン」は何となく「メルヘン」チックな雰囲気を味わえば良い詩のような気がする。いや、考えていけば何らかの読解が可能なのかもしれないが、そこに何らかの「意味」が読み取れることに確かな期待はできないから、何となくそれらしい幻想的な雰囲気を味わって、好きな人は好きだと言っていればいいんだろうと思う。

 それに比べて「あいだ」は、何となくで読んで良いも悪いもない。何を言っているかを明確に読み取ってからでなければ、好きも嫌いもないように感じる。そして、何を言っているかがにわかにはわからない。

 これはちょうど、「夢十夜」の「第一夜」と「第六夜」に似ている。

 「第一夜」は、そこにあれこれと「意味」を読み込まなくても雰囲気だけで楽しい。「物語」のカタルシスも、喪失の切なさも、そのまま感じられる。

 だが「第六夜」は何らかの「意味」を指し示していて、それを読み取らずに終わるのは不全感が残るように思える小説だ。何だか不思議な話、でもそれなりに印象的ではあるが、それでは不十分だ。

 というわけで「あいだ」は考察に価するのだが、こちらに充分な確信と見通しがないので今回は目を通すだけ。


 で、室生犀星「小景異情」について1時間限定で考える。

 「小景異情」は百年以上にわたって日本人に愛唱されてきた詩でありながら、必ずしもその情感が正確に理解されているとは言い難い詩だ。それは、冒頭の一節だけが独立して引用されてしまうせいでもある。

ふるさとは遠きにありて思ふもの

そして悲しくうたふもの

 とりわけ一行目だけが口ずさまれることも多い。

 だがそれはどのような意味で人々に受け取られているのか?


 この詩に関して考えるべきことは次の問い。

この詩はどのような思いを詠っているか?

 この問いに、上の一行目をもって答えるのと、詩全体の読解をもって答えることがどれほど違っているかを示し、もって「読解」というものを実感してほしい。

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