2023年1月23日月曜日

小景異情 2

 テキスト全体を整合的に解釈して、この詩がうたっている「思い」を括り出す。

 「どのような思い」というのは「ふるさとを思って涙ぐむ気持ち」「遠い都に帰りたいという気持ち」などと答えるだけでは不十分。

 こういう時は、何らかの抽象化した表現を求めているのだ。


 さて、読解において決定的な糸口になるのは次の問いだ。

語り手どこにいるか?

 「語り手」は「作者」とは違う概念だ。室生犀星本人は遙か昔に死んだ人であり、もうどこにもいないし、この詩を書いた時点でどこにいたかもどうでもいい。

 「語り手」とは時として一人称で文中に登場していることもあるが、明示的には表われていなくとも、潜在的にはその言葉を語っている者として、どこかにはいる。それが抽象的な存在であって、それほど重要ではない場合もあるが、テキストによっては重要だ。誰がそれを語っているかは、テキストの解釈に決定的な影響を与える。


 選択肢は文中から選ぶ。

  • ふるさと
  • みやこ(都)
  • 異土

 「ふるさと」と「みやこ」の二択でいいと思っていたが、授業をしているうち「異土」説を主張するグループもあることがわかってきた。

 さらに漢字の「都」と平仮名の「みやこ」は別のものを指しているという解釈を主張するグループもある(グループどころかクラスの大半の者が主張することも)。

 さらに、これらのうちのどれかとどれかは同じものを指しているとかいうことだとすれば、四択ではなく三択かも、あるいは二択かもしれない。それもまだ確定されてはいない。

 どうなるやら。


 「ふるさと」という語は、住む場所の移動があった場合にしか使われないから、語り手は何らかの移動をしているにちがいない。「ふるさと」から離れた時期があったということになる。

 「みやこに帰る」と表現されるからには、ある時期に「みやこ」にいて、このテキストの言葉を発している時点では「みやこ」にいないということになる。


 この条件を満たすように考えるなら、地方出身者が一時「みやこ」に上京し、今現在「ふるさと」に帰ったときにこの詩を詠んでいると考えるのが整合的だ。


 だがこのように考えるのが容易なわけではない。

 1行目「ふるさとは遠きにありて思ふもの」を読む人は、とにかく「ふるさと」から遠いところに語り手がいるのだと思ってしまう。後半で「ひとり都のゆふぐれに…」とあるから、地方から出て東京にいるのだな、と解釈する。

 よもや語り手が当の「ふるさと」にいるなどとは思いもしない。

 だが、東京で一人暮らしをして、故郷を思って泣いているのかと思っていたら、最後に「遠いみやこに帰ろう」と言われてしまう。

 混乱して、以下のような解釈を考えつく。


 「遠きみやこ」とはすなわち「ふるさと」なのだ。「遠きみやこにかえらばや」は「ふるさとに帰ろう」という意味なのだ。

 その場合、彼は「みやこ」の出身者で、どこかの地方に来ていて、「ふるさと」=「みやこ」に帰りたいと言っている?

 あるいは地方出身者が「都」に出てきて、そこで「ふるさと」を思って涙ぐんでいるとすると「都」は大都会、「遠きみやこ」は地方都市を指す?

 いずれにせよ、では「ふるさとは…帰るところではない」をどう解釈するのか?

 整合的な解釈は難しいと言わざるをえない。


 そもそも「遠きみやこ」と「ふるさと」は同じものを指しているのだとか、「みやこ」と「都」は別のものを指しているのだといった特殊な解釈を読者がすることを前提として作者が言葉を選んでいるのだと考えるのには無理がある。「みやこ」と「都」は、概念レベルとして違う意味合いを持たせている、くらいなら許容できるが、違う対象を指しているなどという使い分けの意図など、読者には伝わらない。読者からすると、そんな無理な解釈はできねーよ、だ。

 したがって、そんな無茶な設定を前提しなければ整合的に解釈できないような解釈は、妥当性が低いとみなすべきなのだ。

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