4回にわたって詩を読解する。
やることは評論だろうが小説だろうが同じことだ。まずはテキストから読み取れる情報を整合的に組み合わせてゲシュタルトを形成する。評論と小説と詩を読むためのスキーマはそれぞれ違うとはいえるが、違った評論には違ったスキーマを用いなければならないように、評論を読むことと小説を読むことと詩を読むことには相対的な差しかない。
そもそも中原中也「一つのメルヘン」と小池昌代「あいだ」を同一のスキーマで読める気がしない。
「一つのメルヘン」は何となく「メルヘン」チックな雰囲気を味わえば良い詩のような気がする。いや、考えていけば何らかの読解が可能なのかもしれないが、そこに何らかの「意味」が読み取れることに確かな期待はできないから、何となくそれらしい幻想的な雰囲気を味わって、好きな人は好きだと言っていればいいんだろうと思う。
それに比べて「あいだ」は、何となくで読んで良いも悪いもない。何を言っているかを明確に読み取ってからでなければ、好きも嫌いもないように感じる。そして、何を言っているかがにわかにはわからない。
これはちょうど、「夢十夜」の「第一夜」と「第六夜」に似ている。
「第一夜」は、そこにあれこれと「意味」を読み込まなくても雰囲気だけで楽しい。「物語」のカタルシスも、喪失の切なさも、そのまま感じられる。
だが「第六夜」は何らかの「意味」を指し示していて、それを読み取らずに終わるのは不全感が残るように思える小説だ。何だか不思議な話、でもそれなりに印象的ではあるが、それでは不十分だ。
というわけで「あいだ」は考察に価するのだが、こちらに充分な確信と見通しがないので今回は目を通すだけ。
で、室生犀星「小景異情」について1時間限定で考える。
「小景異情」は百年以上にわたって日本人に愛唱されてきた詩でありながら、必ずしもその情感が正確に理解されているとは言い難い詩だ。それは、冒頭の一節だけが独立して引用されてしまうせいでもある。
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
とりわけ一行目だけが口ずさまれることも多い。
だがそれはどのような意味で人々に受け取られているのか?
この詩に関して考えるべきことは次の問い。
この詩はどのような思いを詠っているか?
この問いに、上の一行目をもって答えるのと、詩全体の読解をもって答えることがどれほど違っているかを示し、もって「読解」というものを実感してほしい。
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