ルートは、自らの怒りの訳を「ママが博士を信用しなかった…ことが許せないんだ。」と語る。だがルート自身は博士を信用しているのだろうか。そもそも博士は実際に信用に足る人物なのだろうか。
とてもそうだとは言えない。ルートの負傷にあたって、博士は「動揺」し「混乱」し、まるで役に立たない。「私」の判断で病院に連れて行く段になってようやく大人の男としての力を発揮するが、総じて「任せる」には不安な人物に違いあるまい。
むろんそのことをルートもまた痛いほど感じているはずだ。病院に運ばれることになる怪我の際も「ルートは一人で事を収めようとし」ている。
父親としての博士におぶわれて感ずる安らぎが本当には安定した確固たるものではないことことに気づかざるを得ないほどに、ルートは怜悧だ。ルートの苛立ちは、母親の博士への疑念自体に向けられているのではなく、むしろ母親が懸念した博士への不安が現実となってしまったことによって生じているのだ。
とすれば、それを現実にさせたのは自らの過失だ。したがって、本当に責めるべきなのは自らであることに、ルートは気づいている。
この「怒り」が、単に母親を「許せない」と思っているだけではなく、自分にも向けられているのだと読み取ることは決定的に重要だ。
ルートに自傷的な振る舞いをさせるのはいわば自責の念だ。「不機嫌」の、「怒り」の正体が自らの責任の追及から発している以上、それは単純に母親を責めることにならない。
だからルートは黙って涙を流す。愛すべき博士の名誉を守れなかった自らの無力に泣くのは、その責任を引き受けようとする矜恃の裏返しだ。「罪の意識」を感ずるのは「罪」を自らの責任として引き受けようとする気概だ。ようやく怒りの理由を口にする時「ルートは私を見据え、泣いているとは思えない落ち着いた口調で言」う。言葉こそ母親を責めているが、そうした母親の懸念を否定することで、自らの責任を引き受けようとするルートは一人の「男」なのだ。
この「罪の意識」が強い感情として表出するのは、前段における博士への親愛の情の故だ。
だが前段の「運動靴はプラプラ揺れていた」が、先に述べたように、ルートが子供という立場に身を任せる心地よさを表しているように、本当はルートは子供でいたいとも思っている。そしてルートが子供でいるためには、博士が擬似的な父親として信用に足る人物でなければならず、そのためには、ルートが自立できなければならない。
つまりルートは、言ってみれば、子供でいるために大人にならなければならないという、奇妙な背理のうちに置かれている。
それこそ、ここでルートが置かれている混乱である。
博士の名誉を守ろうと母親を非難し、同時に名誉を守ることができなかった自らの非力を嘆くルートは、「こども」という安楽に甘んずることを望むがゆえに、それを守る力を求めてそこから一歩を踏み出そうとする「男」だ。
ここに描かれているのは、母親に苛立ち、母親を非難する息子と、それに突き放される母親の断絶ではない。ここには、有り体に言えばルートの「成長」という事態が描かれている。自分への非難の中に息子の成長を見て取る母親の歓喜が描かれている。
そう考えるからこそ、このシークエンスはまぎれもなくハッピーエンドなのである。
この小説は本屋大賞の多くの受賞作品と同じく、実写映画化されている。
文章の読み比べは、以前から授業のメソッドとして重要視しているのだが、評論の読み比べに限らず、「羅生門」における「今昔物語」などの原典との読み比べ、マンガ化されたものがあればそれとの比較、あるいは映像作品との比較など、複数のテクストを比較するのは、常に有用な読解学習の機会となる。
だがそれは、一方が他方の理解を助けることが期待されるからではない。そもそも国語科学習とは、教材の「理解」を最終目的としてはいない。国語科学習における教材文の「理解」とは、あくまで「理解」を仮の目標としておくことで、学習の導因、インセンティブとなることが期待されるという、当面の「仮の目標」だ。学習自体は、読解行為・考察そのものにあるのであり、読み比べはそのための糸口だ。
そして思考とは常に比較だ。情報が「差異」でしかない以上、情報の発生は比較によってしか起こらない。思考は差異線をなぞるようにして展開する。
だが結論を言えば、小泉堯史監督による映画版は、期待したような考察を可能にしてはくれなかった。
原作の、母親が外出しているうちにルートがナイフで指を切ってひどく出血し、病院に行くという顛末が、映画では草野球の練習の最中に他の選手とぶつかって転倒して頭を打って病院に運ばれるという設定になっている。展開が違っているから、映画を見ていると最初のうちは、このシークエンスが問題のエピソードだとは気づかない。だが病院の待合室でルートの治療を待っている場面辺りで、もしやそうなのかと思っていると、結局そうなのだ。
わけがわからない。どういうわけでこういう改変をするのか。映画の尺の問題で短縮する必要があるのなら、エピソードごと切ってしまえばいい。後の展開に必須のエピソードではない。
ルートの怪我の原因について、博士が自分に責任があると思い、なおかつその事態を博士が自分で収拾できずに混乱に陥るというのが、このエピソードの必須要件だ。だが映画ではそれがまるで描かれない。その混乱の中でこそ、三角数は語られる必要がある。そこにある秩序が小説の言葉で「崇高」と語られるのは、博士の混乱との対比があるからだ。
だが映画では、博士は落ち着き払って、不安げに待つ母親に、数学の話をもちだして、あろうことか、したり顔で教訓を垂れるのだ。
なんという、人間の心理に対する無神経、無理解。
問題のルートの怒りも、博士に野球のコーチを任せることを懸念する母親に対する怒りとして描かれるだけだ。ルートの怒りは、アパートに帰り着いてからではなく、夕食の帰り、博士に負ぶわれている場面で既に露わにされる。そして母親はその怒りの意味をただちに理解して、ルートに謝る。ルートの自責の念も、成長も、まるで描かれることはない。
演出以前に脚本も自ら書き下ろしている小泉監督が、小説に描かれた心理の機微をまるで理解していないことは明らかだ。
もちろん、「授業」という特殊な場がこの場面についてのこのような読みを可能にしているだけだ、とも言える。だが、物語の結末部にある決定的な喪失についても映画がまるで描いていないのは、もはや、この映画が何を語ろうともしていないことの証左だ。
この映画は、まったく、ただなんとなく、このお話を絵解きしたに過ぎない。そこに美しい桜並木でも映しておけば「良い映画」風のものを作ったつもりになっているのだ。