2023年7月19日水曜日

記号論・言語論 6 ものとことば

 小論文のお題は山鳥vs鈴木だ。なぜ山鳥vs熊野or内田にしなかったのか?

 熊野純彦の文章は前述した通り、いわば論証抜きに結論だけを述べた文章だ。主張だけをして論拠を言わない人とは議論ができない。

 また内田の文章はあくまでソシュールの考え方の紹介、という体裁をとっている。他人の代弁をしている人と対決しようにも、責任を他に回されては対決にならない。

 鈴木孝夫の主張も、実はソシュールの受け売りなのだが、とりあえずは自分の意見のような体裁で語ってはいるので、山鳥vs鈴木の形で論ずることは可能なのだ。

 もうひとつ。

 二人の論は悪く言えば隙あるいは穴、いわば「突っ込みどころ」、良く言えば余白のある文章なのだ。強固な論理にとりつくしまもない文章では、それこそとりつく「しま(=手がかり)」がない。

 あえて隙のある文章同士をぶつけることで生ずる議論を考察につなげる。


 とはいえ、鈴木孝夫、山鳥重それぞれ大学の教授を務めていた学者で、それぞの文章も大学入試などに頻出の文章だ。一介の高校生がそれらを検討し、白黒つけるのは容易ではない。

 だが全ての文章は「権威」などに守られることなく批判的に読まれなければならない。「批判」とは「非難」ではない。その主張を盲信することなく、公正中立の立場から、自分の頭で判断しなくてはならない。

 明らかに相反する主張があれば、それをどう考えたらいいのか、自分なりに考えるべきなのだ。


 小論文としてまとめるまでの留意点をいくつか。

 それぞれの見解を比較し、その問題自体について考えるべきではある。だが、あくまでその比較は具体的な論述に基づいて行われなければならない。そうすると、その論述自体も検討しなければならない。

 論述というのは、選ぶ言葉であり、論拠の適否であり、部分相互の整合性であり…。

 そうした細部について検討することが、そうした論述によって論じられた「問題」自体についての考察を深めることにつながる。

 例えば両者の見解は実は見かけほどには相違していないのだ、という内田長田の例のような結論にいたるかもしれない。

 確かに二人の言っていることには共通する内容も散見される。とりわけ山鳥の文章は後半になるほど、鈴木と重なってくるような印象もある。

 そういう結論に落ち着くとしても、ではなぜ前半部分ではこのようにあきらかな相違があるのか、山鳥の中ではそれがどのように一貫しているか、などという疑問は明らかにしなければならない。

 それを解きほぐすことが問題自体を考えることにつながる。


 議論する時間のあったクラスで授業の最後に聞いてみた。

 今のところ山鳥と鈴木の論のどちらに納得するか?


 それぞれの文章に挙手したのは、ほとんど同じくらいの人数だった。

 よしよし。ねらいどおりだ。そうあってほしい。それでこそ、その対立を越えてどんな結論にたどりつくのかが楽しみだ。

 是非チャレンジしてほしい。


記号論・言語論 5 ヒトはなぜことばを使えるか

 二つの対立した見解を述べた文章を比較し、それに対して自分の見解を小論文にまとめる。


 山鳥重の「ヒトはなぜことばを使えるか」には、一見したところここまでのソシュール的言語観と真っ向から対立しているように見える記述がある。

まず、名前があるのではない。名前が与えられるべき表象が作り出される過程がまずあって、その作り出された表象に名前が与えられるのである。

まず心があり、ことばが後を追う。対象を範疇化する心の働きが発達して、その範疇に名前が貼りつけられるのである。


 前回の長田弘内田樹の記述の齟齬(と見えるもの)は、実は主旨に齟齬があるわけではないという解釈が可能だった。

 今回は?


 これと対立させるのは鈴木孝夫「ものとことば」だ。

 「ものとことば」は以前の1年生が使っていた「国語総合」の教科書に収録されていた。これは今年の筑摩書房でも去年の東京書籍でもなく、第一学習社の教科書であり、今でも同社の「現代の国語」には、この文章が収録されている。今井むつみ・内田樹と同じく、1年生向けの教科書に載る「言語論」というわけだ。

 一読してわかるとおり、これはソシュール的言語観の延長上にある。ソシュールの名前こそ使っていないが。

 とすると、山鳥と鈴木の論には明確な対立点があるということだ。

 対立点は考察の糸口だ。「思考の誕生」にせよ「未来をつくる言葉」にせよ、互いの間にある相違、亀裂こそ、思考を生み、言葉を生み出すきっかけになると言っていた。

 ディベートは、ともすれば単に勝ち負けを競う討論ゲームに堕してしまうきらいもあるが、本当は多角的に物事を考える方法として有益なはずだ。

 ここでも、あえて対立した論をとりあげることで、この問題について考える糸口としたい。


記号論・言語論 4 ことばとは何か

 ここに内田樹「ことばとは何か」を合わせる。また出た。どこにも出てくる内田樹。

 しかもこの文章を中学時代に塾で読まされたという証言も聞いた。これは『寝ながら学べる構造主義』という本の一節で、内田樹で最初に広く売れた本であり、入試などにもずいぶん出題された。

 「ことばとは何か」と見出しをつけられたこの部分は、現在使っている教科書と同じ筑摩書房の「現代の国語」に収録されていて、つまり筑摩書房で1年2年と続けて教科書を使っていれば、先に読んでいたものだ(我々が使っていた東京書籍では今井むつみの「言葉は世界を切り分ける」がそうした言語論の基礎的な考え方を述べた文章だった。ソシュールの名さえ出てこないが、題名からわかるとおり、これもまたソシュールに発する考え方なのだ)。

 さて、内田の文章は『寝ながら学べる構造主義』という書名のとおり「構造主義」を紹介する本の一節であり、その重要人物であるソシュールの考え方を紹介したものだ。

 その趣旨はといえば、「アイオワの玉葱」「ことばへの問い」それぞれの主旨をまとめた前回・前々回の内容そのままだ。だからここは長田弘や熊野純彦がソシュールの名を出さずに語っていることが、ソシュールの提起した問題の圏内にあることを把握できれば良い。


 熊野が「問い」を問題にしていることの意味もこれで明らかになる。

 熊野の「ことばより前にものや思いはあるか?」という問いは、ソシュールが「カタログ言語観」に対して投げかけた問い、つまりソシュール以降の言語論の出発点となる問いかけなのだ。


 まずはソシュール的言語観について慣れることが目的なので、時間のないクラスでは読んで、上記のような共通の論旨を確認しておしまいだったが、時間のあるクラスで若干のお題を出して頭の体操をした。


 内田はソシュールの考え方を次のように紹介している。

ソシュールの言語学が構造主義にもたらしたもっとも重要な知見を一つだけ挙げるなら、それは「ことばとは、『ものの名前』ではない。」ということになる。

 一方で長田弘「アイオワの玉葱」に次の一節がある。

言葉は、本質的に命名である

 上記のように、「アイオワの玉葱」の主旨はソシュールの考え方と重なっているとも思えるのに、上に挙げた一節では全く反対の主張をしているように見える。どう考えたら良いのだろうか?


 いくつかの班に発表してもらったが、それぞれうまく説明していた。一見反対の主張のように見えるが、長田の言おうとしていることとソシュールの考え方は反しているわけではない。その感触・直感に基づいて、それをうまくすり合わせるように言うのだ。


 さてお題をもうひとつ。

 ソシュールの名を挙げているのは実は「論理国語」の二編ではなく、「文学国語」の「記号論と生のリアリティ」の方だ。ここで立川健二はソシュールの思想を2箇条にまとめて紹介している。

  1. われわれ人間は「意味をになったもの」、すなわち記号しか認識することができない。
  2. 記号とはそれ自身のなかに意味をもっているのではなく、それをとりまく他の記号たちとの〈関係のネットワーク〉、すなわちシステムのなかでしか意味をもちえない。つまり、記号とは、実体ではなく、関係的・相対的な存在である

 これは先の内田の〈ソシュールの言語学が構造主義にもたらしたもっとも重要な知見を一つだけ挙げるなら、それは「ことばとは、『ものの名前』ではない。」ということになる〉と、どのように一致しているか?


 実は立川の2箇条のうちの2は、内田の文の次の一節と完全に一致する。

ソシュールが教えてくれたのは、あるものの性質や意味や機能は、そのものがそれを含むネットワーク、あるいはシステムの中でそれがどんな「ポジション」を占めているかによって事後的に決定されるものであって、そのもの自体のうちに、生得的に、あるいは本質的に何らかの性質や意味が内在しているわけではない、ということです。

 では1は?


 上の一節の直前の次の一節が、例えばそれに対応する。

ある観念があらかじめ存在し、それに名前がつくのではなく、名前がつくことで、ある観念が私たちの思考の中に存在するようになるのです。

 名前がつくまではその観念が存在しないということはすなわち「記号しか認識することができないということになる。

 さて、ソシュールの考え方に馴染んできたところで、この言語観に異論を投げかける。


2023年7月13日木曜日

記号論・言語論 3 ことばへの問い

 「ことばへの問い」は「問いと答えのセットで」と指定した。

 題名の通り、文中にはさまざまな自問がある。「~か。」という問いかけの文末がいくつもある。それらをまとめる。

 それは「答え」とセットで考える必要がある。むしろ、この文章の主旨を考えておいて、それが「答え」となるような「問い」を考えるのだ。

 この操作によって、その文章の筆者の問題意識結論を捉えることができる。これは評論文一般の読解に応用できるテクニックだ。


 さて、この文章ではどのような「問い」が文中に置かれているか?

…ことばで語りつくすことができるだろうか。

…およそ考えることが可能だろうか。

…そうなのだろうか。

…ことではないだろうか。

 これらの「問い」の中でどれが重要か、と考えてもいいが、「答え」の方からも迎えに行く。

言語を手にしてはじめて「ことばにはならない」ものごとに突きあたる。

 これを「答え」とするような「問い」とは例えば次のようなものだ。

ことばにはならない思いは、ことばによる分節のかなたにあるものなのか?

 この「問題提起と結論」は、もうちょっとシンプルに言うと、例えば次のように言える。

問い ことばより前にものや思いはあるか?

答え ない。

 前に、問いを立てるには、答えがイエス/ノーにならないように、と言った。「なに・なぜ・どのように」などの疑問詞を入れなさい、と。

 が、この文章についてはそれが難しい。なぜか?


 この文章はいわば、論証をせずに結論を述べているといっていいような文章なのだ。筆者がある認識について語り、その過程でその認識について読者に想像させ、なるほどそうだと思わせることを意図するような論の展開になっていて、そうした理論がどのように成立しているかといった考察が途中で展開されていたりはしない。ただ、そうだ、と言っている。

 したがって「なぜ・どのように」と言うことはできず、といって「何」といえば「ことば」しかないので、これも言うまでもないほど自明だ。

 というわけでこの文章については疑問詞を含む問いを立てるのが適切ではなく、上記のような問いと答えのセットを敢えて組み合わせずとも次のように一文要約をしてしまえば良い、とも言える。

 ことばによって初めて「ことばにならない」ものや思いさえも存在が可能になる。


 だがそれでも敢えて「問い」として立てる意義があるのは、この文章が「ことばへの問い」と名付けられ、明らかに、繰り返し問いかけることで書かれているからだ。

 この文章が、その問題意識をあからさまな「問い」という形で示すことの意味は何か?


記号論・言語論 2 アイオワの玉葱

 「記号論と生のリアリティ」にはソシュールが記号論を創設したと書いてあるが、ソシュールはどちらかというと現代の言語学の基礎を築いたという言い方の方が一般的だ。

 記号論と言語学というのがどういう関係になっているかという問題には、ここでは立ち入らない。ソシュールは書物を残さなかったが、大学の講義の内容を弟子がまとめた「一般言語学講義」の中で「記号学」という用語が提案されている。

 「論」か「学」かも言い方に迷う。「論」は考え方の中身で「学」はアカデミックな場での位置づけ、といったところか。


 前回予告の通り、まず考え方に慣れる。

 「論理国語」の教科書でこの分野の問題を扱っている評論文、長田弘の「アイオワの玉葱」と熊野純彦の「ことばへの問い」を読む。

 さしあたって、ぼーっと読まないために、要約をする。

 必ず自分の頭で、全員やらねばならない。誰かが要約したものを聞いても意味はない。


 「アイオワの玉葱」は「二文で」と指定した。すると、概ね次のような趣旨の二文を考えた者が多かった。

  • 言葉を通して世界を捉える捉え方は言葉(母語)によって違う。
  • このずれを通して他者を理解することが大事だ。

 以前、評論には「認識」「主張」の部分があるという言及をしたことがある(あるいはこれ

 上の二文は上が「認識」で下が「主張」に近い。

 こんなふうに言ってみると、「認識」の部分は去年の今井むつみ「言葉は世界を切り分ける」に通じ、「主張」の部分は今年のドミニク・チェン「未来をつくる言葉」に通じることがわかる。


 ところで、授業者の想定していたのは、「認識」にあたる一文を二つに分けた二文だった。「言葉を通して世界を捉える捉え方は」といった言い方が、既に一つの内容として独立させられるはずだ。

  • 我々は言葉を通して世界を捉える。
  • 言葉(母語)によって捉え方は異なる。

 要約は、字数が指定されていれば、その中になるべく原文の論旨を詰め込んで、なおかつすっきり読める文章を作ろうとすべきだ。

 一方、ここでの一文要約、二文要約(三…四…)は、なるべく単純な構造の文にすることが望ましい。5文節以内。短く言おうとすることが、本質・核心がなんなのかを考えさせる。

 そして、短くした要約は、書き取るにせよ覚えるにせよ、口頭で発言するにせよ、取り回しに便利だ。あの文章では…と言及するときに、なるべく短くしておくことは大いなるメリットがある。


2023年7月5日水曜日

記号論・言語論 1 文字禍

 「山月記」の後、同じ中島敦の「文字禍」を読む。

 「禍」という字はここ3年余りですっかり目に耳に馴染んだ。訓読みでは何と読むか? というのはどういう意味か、という質問だが「わざわい」と読めた人も多い。

 「コロナ禍」でウイルスが蔓延したように「文字禍」では文字の霊が跳梁する話だ。

 中島敦から言語論への接続に「文字禍」が使えるんじゃないかというのは、実は教育実習生のK君の発案だ。

 授業者も「文字禍」を読んだことはあったのだが、それが言語論へつながるとは全く考えたことはなかった。

 ところが今回、そう意識して読んでみるとこれがまたあつらえたようにぴったりの教材なのだった。

 とりわけ「文学国語」収録の「記号論と生のリアリティ」に、どうみても、まんま「似ている」と思われる記述があることに驚く。


 だが、「似ている」からなんだ?

 それは考える糸口になるということだ。

 「文字禍」は、それ自体がもう考えるべき小説だ。「山月記」のように、読んだだけでそれなりに「わかる」と感ずるような小説ではない。しかも、わからなくてもいい、というような小説ではない。

 例えば「夢十夜」の「第一夜」は読んだだけで「わかる」し、あれ以上に「わかる」必要もないような小説だ。それで十分魅力的だ。

 だが「第六夜」はそれに比べて読者に「わからない」という感覚を抱かせる小説だ。この差が何なのかは去年分析した。去年の考察を短く再現する。「第一夜」は「喪失と回復」という「物語」の形式にあてはめられるので「理解」できるが、「第六夜」はそうした形式がなんなのかわからない。となると読者は宙吊りにされて、「明治の木には仁王が埋まっていない」というのが何を意味する隠喩なのかを理解しないといけないのだと迫られている気になるのだ。「第一夜」ではこうした宙吊りは回避されているから「百年待つ」とはどういう意味か、などと考えなくてもいい(が、そういう余計なことを考えてしまう人が世の中にはいる)。

 この「形式」のことを去年は「スキーマ」などとも呼んだ。スキーマにあてはめてゲシュタルトができることを、我々は「わかる」といっている。


 さて「文字禍」は、そのユーモアに満ちた文体が、小説としての完成度の高さを証しているのはわかるのだが、結局のところ何を言っているのか「わからない」。「山月記」のように、もやもやと誰しも身に覚えのある煩悶にもだえる男の話だと「わかる」わけではない。これを掴まえるスキーマはどのようなものか?

 「記号論と生のリアリティ」が、例えばそれを考える糸口になる。


 だが一方で「記号論と生のリアリティ」もまた「わからない」。

 この文章を読むには「記号論」という分野がどのようなもので、どんな問題を扱っているのかについての基礎的な認識が必要で、この文章が論じているのが「その先」なのだということは、その前提がなければわからない。確かにそれについての言及は文中にはあるのだが、まああれだけでは全然足りない(実は筑摩書房の「現代の国語」には内田樹の「ことばとは何か」という文章が載っていて、少なくともこれを読んでいる必要はある)。

 だから、みんな、この文章もまた「文字禍」とは別の意味でとりつくしまがないと感ずるはずだ。

 そこでさらに別の文章を読んで、こうした「問題」がそもそもどのようなものなのかを把握する。

山月記 補遺 文学は大学入試に役立つか?

 「山月記」という小説はこれまで日本人にとっての基礎教養とも呼ぶべき、認知度の高い、人口に膾炙した作品だった(新教育課程で「文学国語」「論理国語」と分かれたことで「山月記」を読まない日本人もこれから増えてくると予想されるが)。

 だが教材としては授業者にとって「こころ」や「羅生門」に比べると魅力に乏しい作品でもある。テキストが、読解によって、最初から「わかっている」ことと全く違う姿を露わにする、というような劇的な体験を保証するわけではない、というところが。


 ところでこの「山月記」について、授業者が本校に着任して1年目に、とある国語科の先生から聞いた印象的な発言は忘れがたい。とても教訓的なので時々引用しているから、昨年の授業で、どこかで話したクラスもあるかもしれない。

 その先生は「李徵はなぜ虎になったのか? などという問題に何の意味があるのかまったくわからない」と言ったのだった。

 それは、いかに生徒の「得点力」を上げるか、というのが議題の校内「研修会」における発言だった。

 最近の「学力」は「生きる力」という、いわば本質的な捉え方をされていて、それはとても結構なことなのだが、この時の議題の「得点力」とはそれよりもっと下世話な、シンプルに、大学入試で高得点を上げる力のことを指していた(つまりいかに東葛の進学実績を上げるかという議題なのだ)。

 とはいえ、そんなことは簡単ではない。あるいはとても簡単なことだ。単に勉強時間を増やせばいいのだ。だから宿題を出すか補習でもやるか、というくらいしかアイデアはない。

 で、問題の発言は、古典の補習はいくらでもやりたいが、現代文分野ではどんなふうにすると「得点力」が上がるのかまったくわからない、例えば「李徵はなぜ虎になったのか?」などという問題が「得点力」アップにつながるとは全く思えない、という趣旨の意見だった。

 それはちょうど2学年が「山月記」をやっている時期で、本授業者はまさしく上記の問いを生徒に投げかけているところだった。発言者はそのことを知っていて、あえて問題提起をしたのだと思う。

 だがこの先生の発言は、自分ならそんなことはやらない、という意味ではなく、自分も授業でそういうことをやっていて、それが虚しい、という趣旨なのだった。

 なるほど。


 実はこの認識は日本中で多くの人に共有されている。国語の授業は何の役に立つのかと、多くの日本人が思っている。みんなも今までの人生でそう思ったことがあるに違いない。


 この発言が印象的だったのは、授業者自身は「なぜ虎になったか?」という問題は「得点力」のアップにつながると、当然のように信じているからであり、一方で、この先生の発言の趣旨はとてもよくわかったからでもある。

 これが1年生なら「下人はなぜ引剥ぎをしたか?」でもいい。

 こうした問題について考察することは本当に「得点力」アップに資するか?


 当然、資する。むしろそれ以外にどんな「学習」が国語の「得点力」を上げるのか?
 いやもちろん漢字・語彙習得も、単に問題演習も、とりわけ文章の要約は有効だ。
 では授業でもそれらをやればいいのか?
 いや、それらと同様という以上に例えば「李徵はなぜ虎になったのか?」について考えることは国語の「得点力」を上げることに有効であることは間違いない。
 だがまったくそうは思えないと言う国語教師がいて、世間の多くの人もそれに共感しているのだ。
 この認識の断絶は何事だ!?

 この断絶は、「李徵はなぜ虎になったのか?」という問いとその答え、その先にある作品の「主題」などというものが、学習内容だと思っている、という誤解が広く存在することによる。
 この誤解は、さらに、評論文における、文章の内容学習内容だと思う、という誤解に通じている。

 そうではない。国語の「学習内容」とは、学習活動を通じて養われる国語力だ。それは教材の文章の内容ではない。教材は教育「材」であって、いわば「手段」に過ぎない。それを使った言語活動によって培われる国語力が「目的」なのだ(「目的/手段」のセットはこのように使う)。
 このことを去年から「国語科は実技科目だ」と言っているのだ。

 だから「李徵はなぜ虎になったか?」の「答え」は確かに「得点力」アップには何の益にもならない。だからそれを教えたり理解させたりするつもりは授業者には全くないし、評論文の内容を理解させるつもりもない。
 ただ、考えろ、理解しろ、表現しろ、と要求する。これは、腕立て伏せ30回!とかグランド10周走れ、とか言ってるのと同じだ。生徒にそれをさせないで、教師の腕立て伏せを見物させてどうする?
 みんなはせっせと「李徵なぜ虎になったか?」を考えなさい。大学入試で求められている国語の「得点力」などというものはつまり総合的な「国語力」とでもいうべきもので、それは例えば上の問いに答えようとすることで「実技」的に鍛えるしかないものなのだ(実際はそれよりもうちょっと低レベルの「力」なのだが、それはテスト問題という制約のせいだ)。
 その効果はたやすく目に見えるほど簡単なものではないが、例えば学校の部活レベルであれ、経験者と未経験者の差は明らかに生ずるものなのだ。

山月記 14 どうすればよかったか?

 また、ではどうすれば「ならないでいられた」のか?


 身も蓋もない言い方をするならば、もっと人と交われば良かったのだ。あるいはもっと謙虚になれば良かったのだ。

 確かにそれができれば李徴の不幸の大半は解消するだろう。

 だがことはそれほど単純なのだろうか?

 「なぜなったのか?」の裏返しとしての「ならなかった」可能性はどのように記述できるか?

 C組Iさんは「中途半端に終わらせない」と言った。核心をついた表現だ。

 授業者が用意していた表現は「やりきる」だ。李徴は「中途半端」なまま「やりきらなかった」から虎になるしかなかったのだ。

 例えば詩家として認められるためには、作品を発表するしかない。それは一時的には彼の自尊心を傷つけるかもしれないが、それでもそうしなければ彼の望んだものは手に入らない。

 むしろ、続けていれば望みは叶ったかもしれない。「俺よりもはるかに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者がいくらでもいる」ことに、李徴は今、気づいている。

 また、望みが叶わなくとも、少なくとも諦めることができるようになる。発表しないうちは自分の詩が優れていることについての可能性は否定も肯定もされない。それは自尊心と羞恥心の自縄自縛から逃れられないということだ。だが、やってだめなら、傷つきはするかもしれないが、諦めと納得によって少なくとも循環の外に出られる。

 あるいは官吏としての人生も、現在がいくら不満であろうとも「やりきる」ことで望みどおりの高位に上れる可能性は充分あったのだ。袁傪がそうであるように。李徵にもそれだけの能力があったはずだ。

 あるいは地方の官吏として妻子を大切にして子供の成長を喜ぶ良い父親になることも、公僕として地域の人々に貢献する喜びを感じることも、あるいは余技としての詩作を続け、それが認められる穏やかで幸せな人生の可能性もあったかもしれない。


 いずれにせよ、目の前の仕事を「やりきる」ことがなかったから、彼は自縄自縛の中で自家中毒的な悪循環に陥るしかなかったのだ。

 虎にならないためには、「悪循環による暴走」を断ち切らなければならない。そのためにはまず行動に移し、それを「やりきる」必要があったのだ。


 李徴の心を占める二つの心理は、悪循環を構成していると同時に、互いに互いを抑制する「ジレンマ」の状態に陥っているともいえる。

 「臆病」ゆえに詩を発表することができない。だから「自尊心」を満足させることはできない。といって「自尊心」ゆえにその状態に満足することもできない。どちらに安住することもできず、心の平穏はおとずれない。

 動きのとれないまま心の平穏が訪れないジレンマも、動き出してしまえば事態は変わる。福岡伸一の言う「動的平衡」とは動き続けることこそ生命の平衡は保たれることを示す概念だ。ジレンマの中で動けないでいると、徐々に朽ちていくしかない。動き出すことによってのみ、生き続けることができる。


 最初に挙げた「三つの答え」のうちの一つ、第3の「答え」についても再検討しよう。

 「飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業のほうを気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕とすのだ。」という述懐がこうしたメカニズムと同じことを意味していると考えることは可能だろうか?


 先に「身勝手」「利己的」という言葉をいったん提示してみたが、これは上記の悪循環にどう位置づけるかが難しい。

 それよりもここでは「我執」「自意識」という言葉を提案したい。

 「我執」とは文字通り「自分に執着すること」だ。「自尊心」に通じる要素もあるが、「執着」という言葉には、それにとらわれてしまっている、といったニュアンスが表れている。

 李徵の執着は再帰的な循環の中で増幅し、ジレンマによって解決不可能なまま李徵をとらえ続ける。

 「自意識」は、自分で自分を見ている意識という意味の言葉であるはずなのに、それは内省によって捉えられた「自己」ではなく、常に他人の目を通した「自己」だ。「自意識過剰」という言葉は、言葉通りには自分のことを意識し過ぎるという意味のはずなのに、日常的にはほとんど「他人の目を気にし過ぎ」という意味で使われている。他人に認められることではじめて自分を認めることができるのだ。

 最近では「承認欲求」という言葉も頻繁に使われるようになった。李徵は自分の存在意義にとらわれている。そしてそれは他人から評価を必要とする。なのに人間でいるとき、李徵はその機会を自ら避けたのだ。「承認欲求」は満たされない。

 そうしてみると「己の乏しい詩業のほうを気にかけている」とはそのまま、上に述べた「とらわれ」を指していると考えることができる。李徴は今でも「俺の詩集が長安風流人士の机の上に置かれているさまを、夢に見」ているのだから。

 他人からの評価によって満たされるべき自尊心が、行き所を失ったまま李徴の中で燻り続けている。それが燃え広がって制御できなくなり、遂には李徴を虎に変えてしまう。


 俺はやればできるんだ、と言ってやらない者は永遠に満たされない。

 これは我々のよく思い当たる感覚だ。

 「山月記」はこの、おなじみの感覚、身に覚えのある感じを、極端な設定によって増幅して見せている。それが人々の後ろめたい共感を喚ぶ。

 「山月記」を授業で読むとは、この「感じ」と、そのメカニズムを明確に言葉にする試みにほかならない。


山月記 13 なぜ虎になったのか?

 「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」がもつ再帰的な循環構造によって「虎になる」とはどのような自体を指していると表現すれば良いか?

 これは「わかる」べきことではなく「表現」すべきものだ。

 適切な言葉を探すのだ。


 虎の象徴性を考えているとき、辞書を引いて「虎」に「酔っ払い」という意味があることを探し当てた者がいる。本文中でも、虎になることを「酔う」と表現している。

 「酔っ払い」は抽象概念ではないから、「象徴」とは言わず、「比喩」といったほうが良い。では「虎=酔っ払い」の比喩性とは何か?

 語源には諸説あるが、その一つは「酔っ払い」は猛獣のように手に負えないという意味だ、というものだ。

 つまり「虎」は「手に負えないもの」の象徴なのではないか?

 虎になることを「狂う」と表現し、「狂悖の性はいよいよ抑えがたくなった」という表現を見ると、虎の「強さ」は、周囲に向けられるものというばかりではなく、むしろ李徴自身にとって脅威であるような「強さ」、「暴走」や「暴発」につながる「凶暴」さなのではないかと思えてくる。

 虎は「制御できないもの」の象徴なのではないか?


 臆病さによって満たされない自尊心は、燻ったまま蓄積する。自尊心は他人からの評価を必要としているのに、自尊心故に他人に認められる機会を遠ざけずにはいられない。自己評価と客観的な社会的評価は乖離していく。

 結果は原因に帰っていく。互いの結果を自らの原因として双方向に循環しながら、やがて制御できないまでに増幅し、「猛獣」として李徴を虎にしてしまう。


 E組のS君は虎を「凶暴さ」の象徴として捉え、一方で人間の人間性を「理性」と表現した。李徵は心の中にうずまく虎を理性によって抑えている。それは今にも制御を失って溢れそうになっている。

 そうしたぎりぎりの均衡が崩れる。理性の象徴たる人間性を失った李徵は虎になる。それは荒れ狂うものの解放だ。

 こういった説明は例えば「人間の心が消えてしまえば俺は幸せになる」とか、李徵が虎になる瞬間の「何か体じゅうに力が満ち満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えていった」といった記述とよく符合する。小説を全体としてよく捉えているとみなすためには、こうした、具体的な記述を拾うことも大切だ。

 そしてここでは「解放」というキーワードを提示できるかどうかが決定的に重要だ。

 さらにB組H君のノートを紹介する。再帰性の構造はやはり図示しないと把握が難しい。必要な情報が書き出されて整理された、とても見事なノートだ。

 上記の「解放」というキーワードの他に「逸脱」という語も書き留められている。これもまた「虎になる」現象を把握するためのキーワードとして有効だ。




2023年7月4日火曜日

山月記 12 再帰性

 いよいよ考察は最終段階、「山月記」読解の大詰めだ。

 以下に述べることは「理解」すべきことではない。他人に対して「説明」すべきことだ。その論理の道筋を明示するのだ。

 あらためて、「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」は、なぜ李徴を「虎」に変えたのか?


 「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」の再帰的な循環を説明してみよう。

  尊大・自尊心

  ↓   ↑

  臆病・羞恥心

 同じ方向性の形容・被形容をまとめたとき、下への因果は比較的たやすく説明できる。

 因果を示すというのは「だから」で両者をつなぐということだ(あるいは逆方向に「なぜなら」でつなぐ)。

 「臆病・羞恥心」とは人との交わりを避けるという行動の傾向を指している。この原因が「尊大・自尊心」だ。

 「尊大」だからつまらないやつとはつきあえない、と傲慢な態度をとる。だがそう見えて実は密かに自分の才能の欠如を恐れてもいて、だからそれがばれるような人との交わりを避ける。つまり「尊大」だから「臆病」になっているのだ。

 だがこの逆を言うのが難しい。「臆病」だから「尊大」? なんのことだ?


 間をつなぐ論理を表す言葉をみつなければならない(ドミニク・チェンが言うように。内田樹が言うように)。

 「臆病・羞恥心」=「人と交わらない」は「尊大・自尊心」にどう影響するか?


 「自尊心」は言葉どおりに「自分で自分を尊ぶ心理」というだけではない。むしろ、他人に尊ばれたいという心理だ。他人に評価されなければ自尊心は満たされない

 だが「羞恥心」はその回路を断ってしまう。人との交わりを断ってしまえば、他人からの評価は得られない。詩は発表されなければ評価の対象とならず、付き合いにくい者を人は褒めない。

 一方で、自分には才能があるという自尊心は、他人の評価を受けない限りは温存される。それでも科挙という評価基準における成功は得たが、その後は詩を発表しなかったから、他人からの賞賛も得なかった代わりに、決定的な挫折もない。

 つまり人と交わらないことは自尊心を満足させず、同時に自尊心を不健全に温存してしまう

 こうした「羞恥心」と「自尊心」の相互依存・因果関係が「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」という捻れた形容・被形容によって巧みに表されている。


 さて、ここまで「再帰性」を説明して、では虎になるとは何を意味するかと言えば「孤独」になるということだと言う班が多かった。虎は「孤立・孤独」の象徴なのだ。

 それは一面を捉えている。だがそれは虎は「失った栄光」の象徴だというのと同じく、一面を捉えてはいるが、「山月記」全体をバランス良く説明しているようには感じない。ひきこもりは虎になるのか?(なっていると言うのがふさわしいようなひきこもりもいるかもしれないが)。

 虎の属性であるところの「独り」ともう一方、「強さ」をどのように再帰性に結びつけるか?


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