2026年10月7日水曜日

こころ 2 -主題

 授業前の宿題として次の二つの問いについて考えておいた。

問1 「こころ」の主題は何か?

問2 Kはなぜ自殺したか?

 なぜこの二つの問いなのか?


 これまでの「羅生門」「I was born」「夢十夜」でも、最初に問1を投げかけた。

 繰り返し言っている通り、主題・テーマというのは、その物語をどう捉えたのかという、把握の「表れ」だ。それはどういう話? と聞かれた時の答え方だ。

 だからこれが、テキスト読解にとっての最大の問いであることは、まあ当たり前と言えば当たり前だ。授業でもここを目指して読解を進め、ここへ収束するように考察する。

 これは、元々そのテキストに主題が内在している、というのとはちょっと違う。確かにその「可能性」はテキスト中にあったかもしれない。だがなにはともあれ、それをそのように捉えた受容者がいなければ主題は存在しない。

 ということは受容者によって主題はさまざまな形をとりうるということだ。

 だがそれは何でもアリなのだということではない。それはそのテキストの可能性の範囲内で適切でなければならない。そうでなければ、そもそも受容ですらない。


 一方、「どういう話?」という問いかけに対して、粗筋を語ることもできる。粗筋は具体レベル、主題は抽象レベルで、それぞれ「どういう話」かを語っている。

 教科書の収録部分で「こころ」を読み、その粗筋を語ろうとすると、終わりはKの自殺で締め括られる。その時、その自殺がどのようなものかについて語らないということはありえない。唐突にKが死んだとだけ付け加え、そこに至る因果や必然性がまるで示されてなければ、相手は「なにそれ?」と言うだろう。

 となると、何らかの形で、その死がどのようにもたらされるかを語っているはずだ。

 紹介の聞き手どころか、そもそもそれぞれの読者の「こころ」という小説の把握は、この、Kの死の把握に基づいている。Kの死はこの物語にとって最大の事件であり、そこまでの展開がそこへ収斂するように意味づけられる。読者はそのようにこの物語

を捉えるはずだ。

 したがって、「主題」と「自殺の動機」は論理的に整合していることになる。物語の展開の必然性として「自殺の動機」を把握し、それを抽象化したものが「主題」なのだ。

 みんなは「こころ」をどのように捉え、それをどう表現しただろうか?


 自分で考え、表現してほしいが、その後で調べてもほしい。ネット検索でもAI検索でも。

 世間では「こころ」はどういう話だと思われているか?

 そこには高頻度で、ある外来語が登場するはずだ。それは何?


 文庫本には裏表紙やカバーの折り返しに簡単な内容紹介が載っている。

 「こころ」のは例えばこんな感じ。

  • 友を死に追いやった「罪の意識」によって、ついには人間不信に至る近代知識人の心の暗部を描いた傑作。(ちくま文庫)
  • 近代知識人のエゴイズムと倫理観の葛藤を重厚な筆致で掘り下げた心理小説の名編。(講談社文庫)
  • エゴイズムと罪の意識の狭間で苦しむ先生の姿が克明に描かれた、時代をこえて読み継がれる夏目漱石の最高傑作。(角川文庫)
  • かつて親友を裏切って死に追いやったという過去を背負い、罪の意識に苛まれつつまるで生命を引きずるようにして生きる「先生」(岩波文庫)
  • 文豪・夏目漱石が人間のエゴイズムに迫った名作(イースト・プレス)

 これらは「こころ」は「こういう話」だと紹介しつつ、読者の購読意欲を喚起する惹句でもある。

 もちろん内容紹介全体には「あらすじ」的な部分もある。上はその中から「主題」的な部分を抽出してある。


 あるいは高校生が教科書とともに購入する「国語便覧(国語要覧・国語総覧)」の類ではこんな風に紹介されている。

  • 人を傷つけずにはおかぬ恐ろしいエゴイズムと、それゆえに犯した罪に対する苦悩、そして死をもっての清算を描いた作品。(浜島書店)
  • 人間のエゴイズムを追及した(数研出版)
  • 近代人のエゴイズムが絶望に至る過程を描いて見せた作品。(第一学習社)
  • 恋愛と金銭の問題をめぐる人間の我執(エゴ)を鋭く追及しつつ、日本近代への批判をも提示した作品(大修館書店)
  • 人間が持たざるをえないエゴイズムの醜さと、それを救済するには死以外にはないとする、明治の知識人の苦悩が描かれている。(東京書籍)

 あるいはおなじみの「Wikipedia」ではこんな感じ。

人間の深いところにあるエゴイズムと、人間としての倫理観との葛藤が表現されている。

 これらに頻出する言葉は一目瞭然、「エゴイズム」だ。

 「エゴイズム」?

 一般的には「利己心・利己的・自己中心」などという意味で理解されている。「こころ」本文中にも「利己心」という言葉が登場する。

 「文学」はこの「エゴイズム」がどうにも好きで、「羅生門」も「生きるために人間が持たざるをえないエゴイズムを描いている」などと一般的には言われている。来年読む「舞姫」も「エゴイズム」で語られる。へたをすると「山月記」もエゴイズムで語られる。

 では、さしあたり「こころ」のテーマを「エゴイズムと倫理観との葛藤」と表現しておくとして、「エゴイズム」「倫理観」「葛藤」とは、具体的に「こころ」のどのような点を指しているか?


 「なんとなくわかる」と「的確に表現する」の間には大きな差があって、上のテーマにうなずく人も、聞いてみると胡乱な表現をするケースが授業では頻発した。

 「エゴイズム」は「友人を裏切ってでもお嬢さんを自分のものにしたい」「お嬢さんを自分のものにするために友人を裏切る」くらいに表現しておけばいい。

 「倫理観」は、そうした裏切りは良くないことだとする感覚。観念。

 両者は複雑にからみあい(「葛藤」し)つつ、ぶつかり合う。

 「こころ」はこうした「私」の葛藤が描かれた小説だ。


2026年9月23日水曜日

こころ 1 準備

 後期、年内いっぱい「こころ」を読む。

 「こころ」は「羅生門」に次いで、その一部分とはいえ最も多くの日本人が読んでいる小説だ。

 既に著作権はフリーだから、「青空文庫」←リンクはもちろん、ほぼ全ての出版社が、文庫本のラインナップに「こころ」を入れており、その全てで累計では最大のベストセラーとなっている。

 たとえばこんなアンケートも。

東大生&京大生が選んだ『スゴイ本』ベスト30←リンク

 ここでは1位の「こころ」以外にも、4位に「羅生門」、7位に「山月記」も挙がっている。

 30位の「銀河鉄道の夜」の宮沢賢治は、代表作の一つ「永訣の朝」を年明けに読む予定。

 18位の「舞姫」は3年で読むことになる。

 東大生&京大生も、読書の入口はけっこう学校の国語の授業だったりするのだ。


 「こころ」という小説の全体像を把握しておこう。

 「こころ」は新聞連載小説で、各章の長さは連載一回分、1500字前後、原稿用紙4枚弱で揃っている。教科書本文中に挿入される「*」が連載一回分の切れ目を示している。これが合計110章、110日間、4か月弱、今から100年と少し前、毎日お茶の間に届けられたわけだ。

 全体が三部構成で、各部の章立ては次のとおり。

上「先生と私」  36章

中「両親と私」  18章

下「先生と遺書」 56章

 半分程が「下」であり、実際に「下」の内容が「こころ」として紹介されることも多い。

 教科書も、「下」の35章から49章までを収録している。

 「上」「中」で「先生」と呼ばれる人物が「中」の終わりに自殺することがほのめかされる。「下」は全体が「先生」の遺書そのものだ。

 したがって文中の「私」は、「下」では「上」「中」で「先生」と呼ばれていた人物となる(「上」「中」では「先生」より10歳ほど年下の大学生が「私」として語る)。だから授業で主人公を呼ぶときに「私」と言ったり「先生」と言ったりする(名前は小説中には明かされていない)。

 「私」は「わたくし」と読むべきなのだが、授業中は言いやすさ優先で「わたし」と言う。


 「こころ」全編を読むことは大いに推奨したいが、さしあたって教科書の収録部分は全員読んでから授業に臨むこと。

 そして読解も、基本的には教科書収録部分を対象に行う(時に、それ以外の部分を参考に示すこともある)。

 授業者は文庫本を複数持っているので、全編読みたい希望があれば貸す。

 またマンガ化されたものも複数持っているので、とりあえず全編をザッと辿っておきたいという人は申し出て。貸す。

 それから映画化された作品もあるので興味があれば(アマプラに古い実写映画が上がっている)。

 YouTubeには解説動画がいっぱいアップされているが、まあ授業との比較に見てみてもいいかも。


 授業に入る前に二つの問いに答えておく。

問1 「こころ」の主題は何か?

 「こころ」を読んだことのない友達に「こころ」ってこんな話、と紹介してみよう。

 ただし「あらすじ」よりも抽象的な言い回しで言うようにする。この話は「どういう話」なのかが言えれば、それが「主題」だ。

 「こころ」とはどういう話か?


 小説の主題を考えるという行為は、そのテクストをどんな枠組で捉えるかを自覚するということだ。

 「主題の考察」といえば、世の普通の授業では、何時間かの読解の後に、最後の考察として取り組む課題だろう。

 だが、これを最初にやっておく意義は、現状の読みを自覚することにある。一読した皆ひとりひとりは、ひとまず「こころ」をどのような物語であると捉えたのか。これを自覚し、教室で共有する。

 そして授業の中では、この読みの変化を体験したい。

 変化しないのなら、授業で小説を読むことには意味がない。一人で読めばわかることを辿ってもしょうがない。

 といって、読者としてわからないことを他人から「教わる」ことにもそれほど意味はない。

 一人一人が読んで、考える。そのうちに、最初に一人で読んだときとは違った「意味」が立ち上がっていく。

 認識の変容を表わす「コペルニクス的転回」という言葉があるが、「こころ」はこれが起こるテクストだ。

 この、目眩がするような読解を体験してほしい。


 もう一つの問い。

問2 Kの自殺の動機は?

 この問いも、数時間の授業の後で考察するのが普通だが、上記と同じ理由で、今は一読した段階でどう捉えられているかを自覚する。


 物語の主要な登場人物の死が受け手に与える衝撃は、物語を享受する情動のうちでも最も重大なものの一つだ。ともかくも小説を読んで、その死が衝撃的であるような登場人物の自殺について、その動機を考えずに済ます読者などいない。だからこの問いは、一読してさえあれば、問うことが可能だ。


 さて「こころ」とは何を言っている小説なのか?

 Kはなぜ自殺したのか?


2026年9月17日木曜日

思考の誕生 18 他者の声 実在の声2

 さて、「他我問題・外界問題」は清算されたが(哲学界隈では)、あらたに「他者性の問題・実在性の問題」が現れてきたという(哲学界隈では)。

 この移行に関わっている人を我々は知っている。授業に何度も登場した。誰?


 ソシュールの名が思い浮かんでほしい(他にもいろんな哲学者がこうした問題に影響してはいるのだろうが、哲学の授業ではないので割愛)。

 ではソシュールの思想が、この変遷にどう影響しているか?

 これも簡潔に表現してみよう。


 昨年度来のソシュールの思想については、それぞれの理解に応じていろいろな言い方ができるだろう。だがあれこれ言い過ぎると論理が複雑になって適切なのか不適切なのかが判別しにくい。だからどこをどう切り取ると、論理展開にはめ込めるかを考える。

 例えば、話し合っている声の断片に「恣意性」「切り分ける」「物が先ではなく言葉が先」などのフレーズが聞こえてくると、それは確かにソシュールの思想だが、ここで使うのには避けた方がいいなあと思われる。

 先に「外界問題」をすっきりと言ってみた。「どうしたら外界を確かめられるのか?」だ。

 では「実在性の問題」は?


  • 言語の「外」は実在するのか?
  • それはどうしたら確かめられるのか?

 などという言い方ができると見当をつけておく。

 ならばソシュールの思想をどのように表現すればその変化の間が埋まるか?


 ソシュールが出てきたのは「視点を変える」シリーズだから、おなじみのスキーマとゲシュタルトだ。

 スキーマとゲシュタルトという言葉を使う文は二通り作れる。

  • スキーマが変わるとゲシュタルトが変わる。
  • スキーマによってゲシュタルトができる。

 どちらが使えるか?


 この言い方をソシュールの問題に変換するなら「言語によって世界が認識できる」ということになる。これで論理がつながる。

外界はどのようにして認識されるのか?

という問いが

言語によって外界は認識される。

というソシュールの思想によって

では言語の外はどのようにして認識できるのか?

と形を変える。

 これは表現を調整しながら、論理をすっきりとつなげる国語力が問われる課題だ。

 最終的な形を見ると呆気ないように思えるかもしれないが、これを自力で成し遂げるのは相当に難しかったようだった。

 諦めずに取り組むべし。

 ブレスト的にぐちゃぐちゃと喋ることも有益だが、なるべく簡潔な形に収めることにも、各グループで努力してほしい。


 さて、「他者性の問題・実在性の問題」に、では野矢茂樹はどう答えているのか?

 鍵となるのは先に確認したとおり「言葉」だ。

 簡単に言ってしまえば、言葉が、言葉によるフィルターバブルの内と外を行き来させる、と言っているのだ。

 あれっ?

 これは「物と身体」を前のあれこれと読み比べたときにも出てきた話だ。身体はフィルターバブルを作るが、身体によってフィルターバブルの外側に出ることができる。身体は両義性を持っている。

 同様に両義性を持ったものが言葉だ。

 最近、ソシュールを思い出して確認したとおり、言葉が認識を可能にしている。だから言葉が認識を制限しているのではないか、というのだが、同時にそれを運用することによってその外側の「実在」が感じ取れる。


 時間がなくて1クラスだけしか読めなかったが、「論理国語」に収録されている熊野純彦「ことばへの問い」という文章でも同じことが述べられている。

 ことばこそが、ことばで語れるもの、ことばにならないものの両方を「発見」させるのだ、と。

 この文章は、こういう流れで読まないと、言い回しが韜晦に満ちてわかりにくいが、もうすんなり読めるようになっているはずだ。


 さて、言葉がフィルターバブルの外へ出る手がかりになるというのだが、となると、その糸口となる、例の「断絶/抵抗・障害/わかりあえなさ/他者/他人(性)」にあたる言葉はあるか?

 そのまま「意味の他者性」という表現もある。「語り得ぬもの」という言い方も「物語るという欲望」の「反-物語」「空白」っぽい。

 「わかりあえなさ」にストレートに通ずるのは「(他人との)ズレ」という言葉だ。

 やはりここでも同じ論理が反復されている。

 

 野矢の文章の最後

今は理解できない。今は語り出せない。しかし、それらを理解し、語り出すために、私は私自身の手持ちの言葉を変え、私自身を変えていくだろう。そうすれば、きっとそれらと出会うことができる。

は、もうほとんど「未来をつくる言葉」だ。野矢が哲学について語ることと、ドミニク・チェンが社会に対するメッセージとして語ることがよく似ているのは、ともにそれぞれの洞窟の外に出ようとする宿命(内田樹)を引き受けているからだろう。


 これで前期「思考の誕生」シリーズを一段落する。

 みんなの裡にはどんな「思考」が「誕生」しただろうか?



思考の誕生 17 他者の声 実在の声1

 「思考の誕生」から始まった今年度前期の比較読解の流れは、野矢茂樹の「他者の声 実在の声」で一段落とする。

 野矢茂樹は昨年度のテストで出題したので、みんな読んだことはある。ただ「論理国語」「文学国語」の教科書には文章が収録されていない。「ちくま評論入門」「ちくま評論選」には入っている。あれらは教科書をつくる際に集められた文章群の補遺だろうし、もちろん他の出版社の教科書では常連だ。ということはつまり大学入試にもよく出題される論者だということだ。


 一読して「物と身体」と同じ問題を扱っていることに気づく。そしてそれに対して違ったアプローチをしていることにも。

 それがどのような「問題」であるかを捉えることと、それがどのように違ったアプローチによるかを捉えることは相補的だから、おそらく同時に「わかる」。

 この「問題」を簡潔に表現し、それぞれの「アプローチ」を示すキーワードを一語ずつ挙げよう。


 もう一つ、文脈を大きく捉えよう。この文章は前後で二つの大きな塊に分けられると感ずるはずだ。前後を簡潔に表現してみよう。

 前半は「他我問題・外界問題」について、後半は「他者性の問題・実在性の問題」についてだとまとめるのが簡潔。

 この前後を、対比的な単語で表現しよう。単語で、というのも簡潔にする手段だ。


 簡潔に表現するというのは大事なことだ。情報はコンパクトにまとめると扱いやすい。いろんな要素が入った方がより正確さを保証するということもあるが、焦点がぼやけて捉えにくくもなる。何より記録性や再現性に劣る。コンパクトな情報は扱いが楽で便利。


 「他我問題・外界問題」を簡潔に表現してみよう。文中から引用できる部分はない。自分でそれがどういう「問題」かを捉え、表現し直すしかない。

 簡潔に、ということで10字程度。「問題」なのだから、文末は「~か?」で終わるよう。


 問いが簡潔に表現できたとして、それは答えが二択になる(Yes/No)問いか。

 もしそうならば、そこから当然導かれるべき問いをさらに表現する。

 答えを二択にしないためには、疑問詞を使う。


 「他我問題・外界問題」は、ひとまず次のように言い換えられる。

他我/外界はあるのか?

 これは、ある/ないで答えられる問いになっている。

 この問いはさらなる問いを必然的に生む。

 疑問詞として「何(どのような)」「どこ」を使う発言も出た。本文には確かに「外界はどこにあるのか?」という問いの形が提示されているが、本文全体をすくい上げてはいない。

 次のように言い換えるのが適切。

他我/外界があることはどうしたら(どのように)確かめられるのか?

 この「外界問題」は「物と身体」が問題にしていることでもある。「物と身体」では「物があることをどうしたら確かめられるのか?」だが、同じことだ。「物と身体」は机の上の消しゴムを例に語りはじめ、「他者の声 実在の声」では机の上のコーヒーカップから語り始める。

 さて共通した問いに対して、それぞれの文章がとるアプローチを対比的な言葉で表そう。

身体/言語

 それぞれ、身体/言葉によって確かめられるのだ、と言っている。


 「他者の声 実在の声」の前半と後半を対比的な言葉で表そう。

意識/言語

 「他我問題・外界問題」は意識の内と外をめぐる問題。

 「他者性の問題・実在性の問題」は言葉の内と外をめぐる問題。

 これで文章の構成が捉えられた。


 「他者の声 実在の声」の前半、「他我問題・外界問題」は出ることのできない洞窟のような問題だと結論づけられる(この「洞窟」は「他者の言葉」で紹介されるプラトンの「洞窟」とは対応していない。同じ言葉が出てきたからと跳びついてはいけない)。

 ここで「何人もの哲学者たちがそうして倒れていった。」と言われている哲学者の一人を、みんなは知っているはずだ。授業で出てきたから。

 「物と身体」で言及されるデカルトがそうだと気づかねばならない。

 上記のように二つの文章は同じ問題を扱っていて、前田はデカルトのアプローチを、否定するために援用している。とすれば野矢がその問題に「倒れていった」と評する哲学者の一人にデカルトを数えてもいいだろう。出口はないというのだから。

 もちろんデカルト本人は出たと言い張るだろうけれど。


 この「他我問題・外界問題」は、哲学者ならずとも共感する人が多い問題のはず。

 古くから、周りの人間は全てロボットで、自分だけが人間なのだという妄想を描いたSF作品は珍しくない。あるいはインベーダーでもいい。自分の家族がある日、外見はそのまま異形の物に入れ替わってしまっているのだという妄想には、古来多くの人が共感するのだ。

 これを扱った哲学問題が「哲学的ゾンビ」という思考実験だ。人間と同じように振る舞い、完全に見分けがつかないが意識を持たないゾンビを、ゾンビである/ないと確かめる方法はあるか、という問題。

 そのことを確かめることはできない、というのが結論。つまりこれは他我問題だ。

 野矢の結論は「他我問題」に出口はない、だから哲学はこれを解決ではなく「清算」したのだというのだが、これは最近また関心を集める問題として浮上してきた。

 何のせい?


 ここ5年の生成AIの進歩だ。あれほど巧みに自然言語を操る人工知能が現実化するとは誰も想像していなかった。それが現実に表れたとき、彼らにもやがて「意識」が生ずるのではないか、それをどうしたら否定できるのか、といった問題はいやおうなく人々の関心を喚起する。

 相手に「他我」があるかどうかは、言葉のやりとりによって確かめられるのではないか? そのようにして相手がロボットかどうかを確かめる「チューリングテスト」には、最近のAIはパスできるという。

 とすればAIに「意識」がないとどうして言えるのか?


2026年9月15日火曜日

思考の誕生 16 物と身体2

 さてでは本命の「思考の誕生」以下の文章だが、これは難易度が高い。抽象度を上げないと、つまり構造を抽出しないと重なってこない。

 一方で、印象の類似性を糸口にするという手もある。論理は後から組み立てる。言語論をスキーマとゲシュタルトの議論に載せるときに、ダルメシアン犬と星座の印象の類似がまず指摘できたように。

 ここでも、D組の授業での発言を糸口にして、それ以降のクラスでも同じ展開を使った。

 まずD組H君が、「物と身体」の「夢」が、ここまで何度も言及された「フィルターバブル」に似ているという印象を語った。

 なるほど。とするとそれが登場する「未来をつくる言葉」と対応させられるのだろうか。

 「未来をつくる言葉」では「身体という原初のフィルターバブル」というフレーズについて考察した。「身体」? これも重なっているのだろうか。

 フィルターバブルは「他者の言葉」で語られるプラトンの「洞窟」の比喩にも似ているという認識も共有されている。

 さて、これと似た印象を「思考の誕生」から指摘すると?


 どこのクラスでも「自分ひとりで考える」が挙がるから、やはりこうした印象は共有可能なのだろう。

夢/フィルターバブル/洞窟/自分ひとりで考える

 この印象の共通性を論理づけよう。

 正面からこれらの比喩・概念・フレーズが共通していることを説明によって示すこともできる。

 だが、まずは文の共通性で示す。

 それぞれの文章のメッセージをシンプルな文にする。

  • 「他者の言葉」は「洞窟を出よう」
  • 「未来をつくる言葉」は「フィルターバブルを出よう」
  • 「思考の誕生」は「ひとりの考えから出よう」

 とすると「物と身体」は「夢から覚めよう」だ。

 筆者はデカルトを対比的に援用して、デカルトの方法では夢から覚めることはできない、と言っている。それに対し、生活者の素朴な実感は、既に夢から覚めていることを示す。

 先ほどの対応は、同じ文型で示せる。つまり同じ論理があるのだ。


 何と何を対応させるかによっては、別の何かはズレてしまうかもしれない。例えば上で言及したように、「物と身体」と「未来をつくる言葉」では「身体」は共通しているのに、「夢」と「フィルターバブル」を対応させると、それぞれの「身体」は一致しない。

 なぜか?

 「未来をつくる言葉」では「身体という原初のフィルターバブル」なのだから、つまり身体によってフィルターバブルが作られている。

 だが「物と身体」では身体は夢から覚める手がかりとなる。

 方向が反対だ。

 だがそもそも身体はそのような両義性を持ったものだと言ってもいい。

 そのような存在がこの議論の中にもう一つある。

 「言葉」だ。

 「他者の言葉」では言葉が洞窟を作っている。

 だが「未来をつくる言葉」ではその「言葉」がフィルターバブルを乗り越えて他者とつながり合う手段として捉えられている。

 そういえば「身体という原初のフィルターバブル」の考察では「身体」が何と対比されているかを考えた。「文化」だ。フィルターバブルは身体が作るばかりではない。我々は生まれつき「身体というフィルターバブル」の中にいるのだが、もちろんその後、成長していく中でさまざまな「文化」的フィルターバブルの中にとりこまれていく。

 例えば宗教、生活習慣、価値観、あるいは「大きな物語」。

 そして「文化」の最大の例として「言葉」を確認したではないか。

 つまり身体も言葉もフィルターバブルを作る。

 だが同時に、そこから抜け出すための手段となるのが言葉であり身体なのだ。


 さて「夢/フィルターバブル/洞窟/自分ひとりで考える」という対応は有望そうな手応えがある。

 もう一つ、それと対にして論理を形成する要素を対応させよう。

 例えば「自分ひとりで考える」ことから抜け出すために必要なのは「他人と考える」ことだ。 「他人(性)」は「思考の誕生」の中できわめて重要な要素だった。

 「他者の言葉」にはそのまま「他者」が登場するし、「場所と経験」にも出てきた。

 「物語るという欲望」では、これに対応するものとして「断絶・亀裂」を確認した。ただしこの文章はメッセージが薄いうえに「夢/フィルターバブル…」にあたるものがない。

 「未来をつくる言葉」でこれにあたるのが「わかりあえなさ」であることは夏休み前に確認した。

 さてでは「物と身体」では?


 重要なキーワードは文中に複数回使われるものだ。「物と身体」では「抵抗」と「障害」がこれにあたる。

夢/フィルターバブル/洞窟/自分ひとりで考える

 の順に並べるなら

抵抗・障害/わかりあえなさ/他者/他人(性)

 それぞれの要素の結びつき方は完全に同じではない。

 「わかりあえなさ」は「フィルターバブル」そのものであるように思えるのに、「自分ひとりで考える」と「他人」は対極にある。論理を重ねるために文の形を揃えるのは簡単ではない。

 「わかりあえなさ」が「未来をつくる言葉」の文中に登場するのは1回。次の一節だ。

いずれの関係性においても、固有の「わかりあえなさ」のパターンが生起するが、それは埋められるべき隙間ではなく、新しい意味が生じる余白である。このような空白を前にする時、わたしたちは言葉を失う。そして、すでに存在するカテゴリに当てはめて理解しようとする誘惑に駆られる。しかし、じっと耳を傾け、眼差しを向けていれば、そこから互いをつなげる未知の言葉が溢れてくる。

 「新しい意味が生じる余白」という言い方は「物語るという欲望」の「断絶・亀裂・空白」から物語が生まれる、に通ずることは明らかだから、これを「思考の誕生」の「他人(性)」と重ねることもまた可能だ。

 「他者の言葉」の、言葉が作る洞窟も、つまりは自分の言葉が洞窟を作っているのだから、他人の言葉を聴くことが、そこから出る手がかりになる。


「他人性」をもった相手との間に「思考」が誕生する。

意味の「断絶」に橋を架けようとするときに「物語」が生まれる。

「わかりあえなさ」をつなごうとするときに我々の間に「言葉」が生まれる。

 物の実在についても同じことが言える。

「障害」を乗り越えようとするときに、我々の前に「物」が現れる。

 身体に対する「抵抗」が物の実在を我々に証すのだ。

 表現した命題を確かめるためには、逆にするか対偶をとるのがいい。

 「他人(性)・他者/断絶/わかりあえなさ/抵抗・障害」がないところには「思考」も「物語」も「言葉」も「物」も生まれない。

 「わかりあえなさ」がないということはフィルターバブルの中にいるということだ。そこから出ようとする者にとってのみ「わかりあえなさ」はある。「抵抗」がない状態は、何にも触れていない、何にも関係していないということだ。それは夢の中にいるということだ。「抵抗」が「物の実在」を証す。


 ちなみに「広告の形而上学」をここにつなげるとどう言えるか?

 キーワードである「差異」が想起されていればOK。


思考の誕生 15 物と身体1

 夏休みを挟んで9月の授業はわずか3時間程度。ここで2本の文章を読む。まずは前田英樹「物と身体」を読む。「ちくま評論入門」の兄貴分のアンソロジー「ちくま評論選」に収録されている文章だが、新課程になってからは購入していない。前田英樹の文章は「論理国語」教科書に「絵画の二十世紀」が収録されている。これは機会があれば。

 前田はフランス思想が専門で、ここでは哲学的な認識論を展開して、かつ「哲学」をおちょくってもいるのだが、専門が「思想」というのは、つまりは哲学者ということではないのか(自分では「哲学」をやらず、ただ哲学を勉強してます、ということなのか?)。

 この文章は今までのどの文章のどういう議論と通ずるか?


 一読してまず日高敏隆「生物の作る環境」と、昨年度の松田雄馬「人工知能はなぜ椅子に座れないか」が連想されるはず。

 それぞれの文章と「物と身体」の論旨の共通点を簡潔な一文にする。そしてそれらの論旨の関連を考える。


 論理的に先に置かれるのは「人工知能は…」との共通論旨。

人は(生物は)身体を通して「もの」を認識する。

くらいにまとめられる。身体は世界認識の為のメディアなのだ。

 この論旨がそれぞれの文章でどう展開されていて、何と何が対応しているか?

 「物と身体」では「人間/ナメクジ」という対比で語られ、「人工知能は」では「人間/人工知能」という対比で語られる。つまりナメクジとAIが対応していて、例として消しゴムと椅子が対応している。

 人間のように消しゴムを使わないナメクジは消しゴムを認識することはできず、人間のように椅子に座らないAIは椅子を認識することはできない(人間のようには)。


 この論旨が「生物が作る環境」との共通論旨に結びつく。

それぞれの生物にとっての「世界」はそれぞれ違っている。

 これがユクスキュルの「環世界」論だ。ユクスキュルはダニ・蠅・犬などの例で、前田はナメクジで、人間とは違う「環世界」を描写してみせる。

 二つの論旨は因果関係をなしている。

 生物は身体によって世界を認識するから、身体が違えば認識する世界も当然違ってくる。

 世界(物の実在)は、それぞれの生物の「身体」によって確かめられる。客観的な物の実在を疑わないとしても、そうした実在がすべての生物にとって同じ意味合いで現れるわけではない。違った「身体」には、物は違った姿で現れる。

 この、それぞれの物の実在はそれぞれの生物によって違う、というのはまさしく「環世界」論だ。

 異種の生物間の違いほどではないとはいえ、他人同士はやはりそれぞれに違った身体を持つ。大人と子供では、背の高い人と低い人とでは、暑さに弱い人と強い人とでは、世界の捉え方は違う。それぞれの身体によって認識される環世界はそれぞれ違う。ドミニク・チェンが環世界という言葉を使うときは、こうした身体による一人一人の認識の差異だけでなく、文化による認識の違いも問題にしている。


 ここまではすぐに考えつく。

 だがこれを「思考の誕生」「物語るという欲望」「未来をつくる言葉」と重ねようというのだ。

 これは抽象度を上げないと重なってこない。

 どう考えるか。


 その前に授業ではまず、どの文章を連想したかを聞いたのだが、ここで柄谷行人「場所と経験」が出てきたのは想定外だった。

 確かに「物と身体」にも「場所」という言葉が途中に一カ所出てくる。だからといって論旨が重なるのか? と思ったが、意外といける。

 「場所と経験」の論旨を簡単に言うのは難しい。ここまで読んだ文章の中でも印象がまとまりにくいはずだ。

 それでも簡単に言うなら、「経験」は「場所」と結びついている、とでもいおうか。裏返してみる。「場所」と結びつかない「経験」は「経験」にはならない、ということになる。

 柄谷は、このことを言うために場所の捉え方として二つの捉え方が対比する。本当は三つなのだが、さしあたり問題は二つだ。「歩く/地図を見る」だ(この対比を抽出するのがなかなかに難しかった)。

 この「地図を見る」ことによる場所の捉え方が「物と身体」のデカルト的捉え方に対応している。抽象的・観念的な捉え方だ。

 それと対比されているのが「歩いて場所を感じる」捉え方で、これはまさに足=「身体」で場所を捉えるということだ。

 前田が「生活者/デカルト」という対比で世界の捉え方を問題にしているのがちょうど柄谷の「歩く/地図を見る」という対比に重なる。


 もう一つ、C組ではH君から「広告の形而上学」が挙がった。これも想定外だったが、なるほど、面白い。

 これはどう重なるか?

 ヒントはメディア(媒介)という概念。

 これは「生物が作る環境」「人工知能は」のように、共通する論旨を表現することはできない。ただ、論理の共通性を言うためには、同じ文型でそれぞれの文章の論旨を言えば良い。

 どう言うか?

  • 商品の価値は広告を通して捉えられる。
  • 物の実在は身体を通して捉えられる。

 つまり「広告/身体」がメディアとして並置できるのだ。もちろん裏返してもいい。

  • 広告がなければ商品の価値はわからない。
  • 身体がなければ物の実在はわからない。


 こういう想定外があるのが授業の醍醐味。



2026年7月25日土曜日

思考の誕生 14 未来をつくる言葉4 論旨を重ねる

  さてここまで、今年度に入ってから7編の文章を読んできた。

  1. 「思考の誕生」
  2. 「場所と経験」
  3. 「物語るという欲望」
  4. 「他者の言葉」
  5. 「物語としての自己」
  6. 「未来をつくる言葉」
  7. 「生物の作る環境」


 ここに共通する論旨を抽出しよう。


 「未来をつくる言葉」の問題意識を、ここまで読んできた文章群と重ねてみよう。

 既にフィルターバブルと環世界を重ねて考えたから、「他者の言葉」と「生物の作る環境」につながることはわかる。我々はそれぞれの「フィルターバブル」=「環世界」の中にいる。それは「洞窟」の中にいるということだ。

 そしてフィルターバブルの膜を越境するために必要なのが「言葉」であり、さらにそれを生み出すために重要なものは「異質な他者と自分を架橋するための心理的な土台を築くこと」だとドミニク・チェンは言う。その困難については「近代」の問題として「〈私〉時代のデモクラシー」などにもつなげて考えた。


 さらに、「未来をつくる言葉」の主旨を他の文章と重ねよう。

 それぞれの文章の主旨を、なるべくシンプルな一文で捉えることはその都度やってきたし、それぞれの論がどのように関連し合っているのかも確認してきた。

 論理の比較のためには、そうした一文の文型を揃えて、それぞれの文中から引用した言葉が対応していると感じられる必要がある。

 「一文で表す」というのは「命題」の形にするということだ。名詞で終わってはいけない。主語述語が揃った形だ。

 主旨を一文にするには、なるべく題名を利用するのが簡便だ。とはいえ上記のどれもこれも体言で終わっているので、それらの名詞が主語なのか述語なのか目的語なのか形容句になるのかは、内容を把握していないと判断できない。

 「思考の誕生」なら「思考の誕生は~。」とまとめて主語に置く文も「思考は~誕生する。」と主述に分ける文も作れる。

 「物語るという欲望」なら、「人には物語るという欲望がある。」か「物語は断絶から生まれる。」あたりだが、この二つなら後者の方が主旨が盛り込まれている。

 ならば「思考の誕生」は「思考は他人性から誕生する。」とすれば文型が合う。

  • 物語は断絶から生まれる。
  • 思考は他人性から誕生する。

 「物語」と「思考」、「断絶」と「他人性」がそれぞれ対応している。

 ここに「未来をつくる言葉」の主旨を重ねる。

 「未来をつくる言葉」の主旨を一文に表すのは容易だ。自動的にできる。

言葉は未来をつくる。

 だがこれは上の二つの文章と文型が合わない。主述を入れ替えよう。

  • 未来は言葉から生まれる。

 「思考」「物語」が「未来」と対応しそうだという見通しは悪くない。

 だが実は本文に「未来」という言葉は登場しない。ただ文末が次のように終わる。

わたしたちは目的の定まらない旅路を共に歩むための言語を紡いでいける。 

 この「目的の定まらない旅路」が「未来」の隠喩になっていることに気づけば、「言葉」が、そうした旅路を「共に歩む」よすがになるのだと言っていることはわかる。

 「主旨」というより「主張・メッセージ」くらいに拡張して言うなら?

未来をつくる言葉を共に探そう。

 くらいか。

 となるとさらに、そうした言葉はどのように探せば良いのか(そこにはどんな困難があるのか)、といったあたりが書かれている文章なのだと把握できる。


 だが単にフィルターバブルを越えて互いにつながり合おうとか、そのための「言葉」を探そうといったメッセージだけを、「気分」のように唱えるだけでは問題の核心が見えてはこない。

 問題は「言葉」が「断絶」や「他人性」と対応していると考えるには飛躍があることだ。どう考えたらいいか。

 「言葉」について、終盤に次の一節がある。

じっと耳を傾け、眼差 しを向けていれば、そこから互いをつなげる未知の言葉が溢れてくる。

 この「そこ」が指しているのは(人間同士の)「わかりあえなさ」だ。

 つまりこの一節はそのまま次のように言い換えられる。

  • 言葉は「わかりあえなさ」から生まれる。

 とすれば、三段論法によって次の一文が生成できる。

  • 未来は「わかりあえなさ」から生まれる。

 これは「思考の誕生」「物語るという欲望」が語っていることそのものではないか。

  • 物語は断絶から生まれる。
  • 思考は他人性から誕生する。

 つまり「わかりあえなさ」が「物語るという欲望」の「断絶」、「思考の誕生」の「他人性」に対応しているのだ。


 こうした主張の裏には何が批判されているか? どんな方向性に対するアンチとしてこうした主張がなされているのか? 仮想敵は誰か?


 断絶の前で「言葉を失う」とき、人は「既に存在するカテゴリに当てはめて理解しようとする誘惑に駆られる」。ドミニク・チェンがそう語る危険こそ、蓮實が「他人性」を希薄にする(=他人を理解する)ために「たがいに自己の内面のイメージを投影しあう」「風土」が「蔓延しがち」だと言っている現在の状況だ。「誘惑に駆られる」といい「風土が蔓延する」といい、そこが仮想敵であることを示すサインだ。

 つまり二人は「安易にわかった気になるな」と言っているのだ。「わかりあえなさ」に「じっと耳を傾け、眼差しを向け」ろ、と言っているのだ。

 すぐに「わかり」たがる安易な姿勢を戒めているという点で、蓮實とドミニク・チェンのメッセージは一致している。


 「未来をつくる言葉」の読解の中で、「生者と死者が交わるインタフェース」「人と微生物をつなぐロボット」は、何のことか、文中ではわからず、考察もせずに通り過ぎた。これは文章の外へ出て調べてみるしかない。

 「生者と死者が交わるインタフェース」は例えばこの記事の「心臓祭器」のこと。たぶん。

http://cocre.jalan.net/cocre/lab/interview_dominick01/


 「人と微生物をつなぐロボット」はたぶんこの記事の「ヌカボット」のこと。

https://diamond.jp/articles/-/310494

 「環世界」もおなじみのキーワードとして使われている。


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