2022年12月15日木曜日

視点を変える 4 少女たちの「ひろしま」

  さて「木を見る…」と、教科書のいう「関連教材」、「少女たちの『ひろしま』」をどのように読み比べるか?

 まず、両者の主旨を、共通する一文で表現してみよう。関連しているとは、共通部分があるということだ。

視点を変えると物事は違って見える。

 だいたいこんな言い方になるはずだ。これをスキーマとゲシュタルトという語を使って言うと?

スキーマが変わると違ったゲシュタルトになる。

 「スキーマ」と「ゲシュタルト」という言葉がどんな概念なのか、だんだんつかめてきたろうか。

 「スキーマ」とは言ってみれば「見方」のことで、「ゲシュタルト」は「見え方」だ。見方を変えると見え方は変わるのだ。


 さて、そうした言い方では、両者は共通しているが、では、それぞれの文章は、具体的にはどのように見方を変えると、どのように見え方が変わると言っているのか? 両者に相違はあるんだろうか?

 対応している要素を比べてみよう。

 だが何を比べるのか? 何と何の「対応」を比較するのか?


 こういう時には例によって対比を捉える。

 ただし今回の対比は「対立」ではなく「並列」だ。

 対比の多くは「対立」だ。「AではなくB」というとき、「A/B」は対立構造にある。Bのことを言いたいときに、Aを対立項として比較することでBの輪郭が明確になる(こうした対立構造もスキーマのひとつ)。

 一方、複数の項目をそれぞれ対等に扱うのが「並列」や「類比」だ(「並列」と「類比」の違いはまたいずれ)。

 今回の「視点を変える」では、どのような「視点」なのかを対比的に捉えよう。


 「木を見る…」では「視点」の「角度」と「倍率」を変える、と述べられている。対比としては「角度」についての言及は少ないので割愛して「倍率」の方のみ書き出してみる。

  全体/一部

遠くから/近づいて

 ひいて/寄って

といったところか。

 一方、見え方がどう変わるかといえば、「全体」を見るときには「まとまり」として見るのだと言っているが、それに対比される「一部」を見るとにどう見えているかは詳述されていない。「葉っぱの一枚一枚」「瞬間ごとに移りゆく模様」「光と影のゆらめき」といったイメージは提出されているが、それを抽象化した言葉が見つからない。むしろ「アリの目に世界はどう見えているか」と、疑問を呈して終わっている。


 さて問題は「少女たちの『ひろしま』」の方だ。ここではどのような「視点」が対比されているか?

 これは簡単にはいかないはずだ。一単語の対比で済むわけではないし、文中から容易く抜き出せるものでもない。いろんなレベルの表現を重ねることで、しだいにその視点の違いが捉えられる。

 対比が「視点(スキーマ)を変える」と「見え方(ゲシュタルト)が変わる」のどちらなのかを考えながら挙げてみよう。

 例えば

暗い/明るい

という対比が挙がるが、これはそのように視点を変えたというより、ある視点から見たときの印象の違いを表している。

 ではどのような視点の違いがここでは対比されているか?

 対比を挙げる時は、概念レベルを揃えよう。例えば名詞、動詞、形容詞などと品詞を揃えるとか。なるべく。

 一人三つ以上、班で5~6個、などと言ってみると、クラス全体では十数個の対比的な表現が挙がってくる。そのようにいくつもの言葉を重ねることで、視点の違いによる見え方の違いが捉えられてくる。

  歴史/生活

  戦争/日常

  悲惨/美しい

  史料/日用品

 これをひとつなぎにしてみると、「歴史」といった大きく物事を捉えようとすると、その服は「戦争」の「悲惨」な爪痕を示す「史料」と見えるが、一「生活」者の視点から見ればそれは戦時下を生きる少女たちの「日常」を想起させる「日用品」として「美しい」ものに見える…。

 実は挙げてみると、思いのほか「見方」と「見え方」の区別は明確ではない。「戦争」は「見方」か「見え方」か。どちらともいえる。「歴史」とか「政治」とかいうスキーマで見たときにそれが「戦争」というゲシュタルトを現すのだと言ってもいいし、「戦争」というスキーマから見たときに、服が「悲惨な過去」を示す「史料」として見えると言ってもいい。

 クラスによっては面白い対比が提起されたりもした。

  作家/一女性

 という対比は、まさしく視点の違いを指摘している。これは筆者・梯さんの中の視点の対比だが、これを

 梯さん/石内さん(写真家)

 という対比で表現した人もいた。なるほど。梯さんには服が「悲惨な戦争の史料」に見えているが、写真を撮った石内さんは「若い娘の密かなおしゃれ」として見ている。その時、その服の主は、

 被爆者/一少女

としてその姿を現す。


2022年12月4日日曜日

視点を変える 2 認識とは

 「木を見る、森を見る」はまた、授業の考察内容とも共通した趣旨が述べられている。茂木も小林も授業の一環で読んだのだから、まあそれを扱った授業の内容と重なってくるのは当然だが。

 さて、「夢十夜」の授業ではどんな考察をし、それが「木を見る」のどんな論旨と重なるか?


 あまりにあてもないと考えようがないので、「第一夜」の最初の2時限だ、と誘導した。教えられる前に気づいた人は偉い。

 茂木・小林の文章は4回目あたりに配ったものなので、その前、「形容と描写を抜く」の前だ。授業ではどんな問いを発して考えさせたか?

「主題」を考えることと「要約」することはどう違うか?

「物語」とは何か?

 これら二つの問いによって、もっと大きな枠組としては何について考えたか?


 「第一夜」に入って繰り返してきたのは次のような問いだ。

「小説を読む」とはどういうことか?

 上の二つの問いに対する考察から、この問いについてどのような知見が得られたか?

 一方で「木を見る、森を見る」の何をこれと重ねることができるか?


 「木を見る、森を見る」からは次の問いに対する答えを抽出すれば良い。

「ものを見る」とはどういうことか?

 

 実は「小説を読む」と「ものを見る」を重ねることは、上記の、茂木・小林との比較でも考えたことだ。「見る」ことは「要約」と「視覚的アウェアネス」の両面があり「小説を読む」もそうだ、という。

 だが「第一夜」の最初の2時限はまだ「視覚的アウェアネス」の面について考察する前の部分だ。そこではどんなことを考察したか?


 さて、もう一つ条件をつけた。「ゲシュタルト」と「スキーマ」という語を使え、という条件だ。この際だからこの二つの心理学用語を使い回して、その概念を自分のものにしよう。使える語彙は多い方が良い。


 重ねる上での見当をつけるために「小説を読む」と「ものを見る」に共通する、一段抽象度の高い言い方をしておく。

 こういう時に適切な表現を思いつくかどうかが、何度も言っている通り国語力の高さを示す。各クラスでそれを指摘できた人は偉い。


 両者は「認識」という言い方で重ねることができる。つまり「物事を認識するとはどういうことか?」という問いに、「ゲシュタルト」と「スキーマ」という語を使い、それを、一方では「第一夜」の考察結果から、一方では「木を見る、森を見る」から、適切な具体例を挙げて説明すれば良い。


視点を変える 1 木を見る、森を見る

 新シリーズ「視点を変える」に入る。

 これは教科書冒頭の単元名だ。国語の教科書の「単元」というのが何を意味しているかはよくわからない。何となく共通したテーマがあるということなのだが、といって読み比べに有効なほどの関連性は想定されていない。それができたのは唯一「共に生きる」だったので、そこから今年度の授業を始めたのだった。

 この「視点を変える」も、三つの文章をまとめていて、それなりには「視点を変える」というテーマが共通しているとは言えるが、どうも有効な読み比べの見通しが立たない。

 それよりも教科書の目次を見ると「視点を変える」の第一編、つまり教科書冒頭教材の「木を見る、森を見る」と、教科書後半の「鳥の眼と虫の眼」というのが、題名からすると関連づけられそうだ。「見る」と「眼」だし、「木/森」と「鳥/虫」という対比も重なりそうだ(ところで「鳥の眼と虫の眼」が収められている単元は「近代の先へ」で、あとの二編は「暇と退屈の倫理学」と「〈私〉時代のデモクラシー」なのだ。その二編とのつながりはあるんだろうか?)。


 さてそう思って「木を見る、森を見る」の第一頁を開くと、「関連教材」として名を挙げられているのは豈図らんや「少女たちの『ひろしま』」という教材なのだった。教科書編集部の設定する「関連教材」としては前に「多層性と多様性」と「暇と退屈の倫理学」をつなげたことがあったが、まあ確かに「関連」はしているものの、それほど有効な読み比べができたわけでもなかった(それに「関連教材」だというのならなぜ同じ単元に収録しないのだろう?)。

 さて「木を見る、森を見る」と「少女たちの『ひろしま』」はどうか。


 だがその前に、「木を見る、森を見る」を読むと、新シリーズと言いながら、ここまでの授業ともつながりがあることに気づく(気づいてほしい)。

 どこが、何と?


 あまり遠い過去の話ではない、最近の授業だと誘導して、多くの者が思い至る。茂木健一郎の「見る」はそのまま「見る」で共通しているではないか。ということは小林秀雄もつながるんだろう。そういえばどちらも絵画を見ることが話題になっている。

 具体的に本文を引用しながら、対応していることを示すよう指示し、あちこちから共通した趣旨と考えられる記述が見つかった。

デッサンでは、物を「何か」として「認知」する前の一次的な視覚情報、すなわち「知覚」を描こうとする。まとまりではなく、部分に注目するということだ。でも部分だけに注目して描いていると、全体のプロポーションにひずみが出やすい。だからときどきキャンバスから離れて全体を確認する。

 上の一節の 物を「何か」として「認知」する が茂木の「要約」に、 「認知」する前の一次的な視覚情報、すなわち「知覚」 が「視覚的アウェアネス」に対応している。デッサンでは視覚的アウェアネスを描こうとするが、バランスを見るために、ときどきは離れて「要約」することも必要だということだ。

 茂木の「要約」は小林の「言葉に置き換える」に対応しているのだったから、画家は言葉にならない見たままの「花の美しさ」を描こうとしているのだという小林の趣旨はそのまま上の一節と重なる。

私たちは、いったん「何か」としてまとまりで認知すると、細かい部分を見落としがちだ。

の 「何か」としてまとまりで認知する が「言葉に置き換える」だから、それを「菫の花だ」と言ったとたんに、花の美しさを見なくなる、つまり 細かい部分を見落としがち になるのだ。

目に入るものを常に「何か」としてラベル付けして見ようとする、人間の認知的な癖

 の 「何か」としてラベル付け(する) はもちろん「要約」であり「言葉に置き換える」だ。


 共通していることを示すには、対応する表現を同じ文型に置いて並べるといい。

 狙ったわけではないが「夢十夜」の後に「視点を変える」シリーズに入ったら、はからずも同じ論旨の文章が並んだのだった。


要約というトレーニング

 「現代の国語」教科書に収録されている文章で、今年度の授業で扱えるかどうかが微妙で、しかし読まずに済ますのは惜しい、という文章について、要約することを家庭学習課題とする。

 国語の現代文分野は一般に、学習の方法がわかりにくい科目だと言われている。それは理科や社会や英語のように「覚える」ことが即勉強であるような科目ではなく、数学のように問題演習が有効かどうかもわからないからだ。国語科でも漢字や語句や古典分野には覚えることがそれなりにあるし、問題演習は、とにかく慣れるために有効だ。現代文分野も慣れるための問題演習はそれなりに有効だが、その効果が実感しにくいために「勉強の仕方がわからない」という世人の嘆きとなっている。

 とりあえず、それなりに手応えのある文章を読むだけで学習になっているのだが、それをより有効にする場が授業だ。読んだことについて他人と語るという状況が、読むことに明確な目標を与える。一人で読むのなら、いくらでも頭を弛緩させることができてしまう。わかろうがわかるまいが「流して」しまえる。だが自分で何かを語るとなれば否応なく頭を使わざるを得ない。発信が厳しく求められる授業が最良の学習の場なのだ。

 出来合いの問題集や大学入試の過去問などの問題演習も、意味はある。頭を使わざるを得ないという意味では。ただ、テスト問題というのは、「正解」を設定せざる得ないから、考えるべきことが狭く限定されていて、授業ほど多様な階層の思考をする余地がない。

 したがって、入試問題の演習をするような塾・予備校の現代文の授業は、それが一方的に聞いているだけのものならば、解説の充実した問題集で問題演習をする以上の意味はない。


 話が迂回したが、独りで行う現代文の学習として最も有効なのが要約だ、という話につなげたかったのだった。

 文章の要約というのは、独りで行う現代文の学習方法として、最も包括的・総合的で確実に効果的な方法だ。

 要約は、それをしようとし、実際にできたことが目に見える形になる。時間がかかったり、あまり適切でなかったとしても、要約文を書くことはできる。「理解する」という入力で終わる学習は形が外に表われないので手応えがないが、要約という出力まで求められる学習は手応えがある。

 文章を要約する過程では、言語を用いたさまざまな思考が必要になる。文章の枝葉や幹を見分け、文章中の各部分を相互に関係づけることで有意味化し、文章全体の構造を把握したうえで、そのエッセンスをすっきりとわかりやすい文章にまとめる。国語力を高める練習として必要な要素の多くが一連の過程に詰まっている。


 今回の課題では一橋大学の大問3にならって、200字に要約する。

 200字というのは絶妙な長さだ。読解力と文章表現力がともに高いレベルで問われる。

 良い要約文は次の条件を満たしているものをいう。

  • 原文の内容と合致している。
  • 原文の内容をバランスよく含んでいる。
  • 日本語として自然に読める。

 とりわけ大事なのは三つ目の「自然な文章であること」だ。

 100字では、本当に核心部分を語ることしかできない。ある意味で、掬えない内容については諦められる。

 400字あれば原文の内容をあれこれと盛り込むことができる。要約文の長さにも余裕があるから、それほど表現の細部に気を遣わなくても書ける。

 それに比べて200字は、あれこれと内容を盛り込むことができて、かつ表現を切り詰めないと収まらない。原文のあちこちを接ぎはぎしたような文章では日本語として不自然になってしまう。自分で文章を書き下ろすしかない。内容を精選して、重複しないように、読みやすい自然な日本語の文章にする。

 高い読解力と表現力が必要だ。


 具体的方法として、次のように進めるとよい。

  1. 読み進めながら、自分の読解力・把握力の限界がきそうなところで一旦切って、そこまでを一文にしてみる。
  2. 先を読み進めながら上記と同じように次の文をつくる。その際、前の文とどのような関係になっているか把握できているか自覚する。
  3. 最後まで読み進めてから、できた文を通読し、中心的な内容を一文で考えておく(書いても良いが書かなくても良い。できあがっている文の中に「中心的な内容」といえる文があるかもしれないが、ないかもしれない)。
  4. 全体をあらためて3~4文に再構成する。

 問題は「自分の読解力・把握力の限界がきそうなところ」の見極めができるかどうかだ。最初から文章全体の4分の1くらいずつが把握できていれば、それで4文ができあがる。あとはそれをもとに調整して200字におさめればいい。上記の3と4にそれほどの飛躍がない。

 それが、3の段階で5文以上になっている場合は、そこまでに既に時間がかかっているだろうし、再構成にも時間がかかることになる。

 場数を踏んで慣れてほしい。


2022年12月3日土曜日

問いを立てる

  テストの後、出題した問題の文章について再考した。

 出題した小坂井敏晶の文章は、去年までの1年生の「国語総合」には、またとびきり読解しがいのある文章が載っていたのだが、今年の「現代の国語」には載っていない。

 高1に不適切なほど難しい文章なのは申し訳ないが、これもまた4月から考えてきた「近代的個人」への疑い、という趣旨の文章のひとつではあるのだった。

 テスト問題について再考するのも、全体の構造を捉えるために、キーワードを探したりするのも楽しくて有益な議論になったが、「問いを立てる」という課題もまた有益だという手応えがあった。

 4月から度々、「問いを立てよ」という問題提示をしている。

 評論の読解のためには、その文章の筆者がどのような問いを立てているのかを、結論から遡って明確にする。この文章はどのような問いを立てているか?

 小説では、読者がその小説を読解するために考えるべきことを明確にするために問いを立てた。「羅生門」では「下人はなぜ引剥をしたか?」だ。


 さらに今回の課題では、単に「わからない」と感じているはずの文章のどこが「わからない」かを明らかにしろ、という要求をした。

 「どこがワカラナイかがワカラナイ」というありがちな嘆きは人情としては共感できるが、そんなことを言ってないで、とりあえず問いを立ててみて、答えられそうなら次の問いに進めばよい。

 「ワカラナイ」ことを明らかにしようとすることは、「わかった」ことと「わからない」ことを切り分け、「わかった」ことの領土をひろげていこうとする思考だ。

 「問いを立てる」という課題は、それ自体が、深いところまで読解を促そうという試みなのだ。

 まあ確かにこの文章はいかんせん難易度が高く、どこもかしこも「ワカラナイ」とこだらけだとも言える。だから「なぜ~だと言えるのか?」とか「~とはどういうことか?」という問いは量産できる。それでもいい。それがなぜ「ワカラナイ」のかを考えているうちに、いつしかわかってしまうかもしれない。それも狙いのうちだ。

 また、これはという文章を扱ったときには同じような課題を課してみよう。


 気になったのは、なぜそれが疑問なのかを説明する文中に「矛盾」という言葉が頻出したことだ。こちらでは「責任は個人に内在する」と言っているが、ここでは「責任は個人に内在しない」と言っていて矛盾している、それはなぜか? などと。

 それらの多くは「矛盾」ではない。

 文章内にはそもそも対比がある。自分の言いたいことを明らかにするため、それと対立した見解が文中に語られるのは当然だ。それらを取り上げて「矛盾」と言うのは、単に文章の構造が把握されていないだけだ。対比構造を捉えていれば「矛盾」でもなんでもない。

 そうではなく、構造的に同一側に置かれている見解に食い違いがあるようなら「齟齬がある」「乖離がある」「相反している」などと言いようはある。


 さて、8クラス中で最も真摯な考察をした上で疑問を呈したのはB組のMさんの班だ。

 「行為が決定論的に生ずるかどうかは責任と本来関係ない」のはなぜか?

 これはまさに問うにふさわしい、すぐには腑に落ちにくい一節だ。他にこれを挙げた班はなかったのだが、ではみんなはこれを疑問に思わなかったかといえばそんなことはありえない。これを問いとして立てたMさんの班はその「わからなさ」に真摯に向き合ったことは、下の考察からもひしひしと感じられる。

 近代社会では、個人には自由があり、その自由意志が行為を起こすため、その行為の結果に対しては個人が責任を負う必要があるという論理が成り立っている。決定論は自由の否定であると考えられるため、「行為が決定論的に生ずるかどうかは責任と本来関係ない」は「行為が自由意思によって生ずるかどうかは責任と本来関係ない」と言い換えられる。しかし行為が自由意思によって生ずるかどうかは責任と大いに関係しているように思われる。なぜなら、個人→自由→行為→結果という一連の因果関係の一部である自由→行為(自由意思が行為を起こす)が成立しなければ責任を個人に負わせることができないからだ。「行為が~本来関係ない」以前の本文では「行為が自由意思によって生じない」と結論付けたうえ、「なら、責任をどう考えるべきか。」と問題提起し、直後の段落で偶然の導入を用いてその問題に対する検討までしている。しかしすぐに「このアナロジーは的外れだ」と述べ、「行為が~本来関係ない」へと論を急転させている。「このアナロジーは的外れ」な理由として「人間は自己の行為を~制御できるのか」という点を指摘し、さらにその後「偶然生ずる行為」には責任を問えないと主張してはいるが、これらに素直に納得し「行為が~本来関係ない」を受け入れることは難しい。また「行為が~本来関係ない」直後の本文において、ギリシャ哲学やキリスト教においては社会や神によって罰が要請されていたと説明があるが、それがなぜ「行為が~本来関係ない」につながるのかわからない。このように難解な点が多かったため、私たちの班では『「行為が決定論的に生ずるかどうかは責任と本来関係ない」のはなぜか?』について議論した。その結果、この問いの「本来関係ない」の「本来」はギリシャ哲学やキリスト教に基づいて罰が下されていた時代を指すのだと考えた。その時代では、大した根拠なしに犯罪を象徴する責任者を選び、罰を下すことで社会秩序を回復してきた。このような時代において「責任」は存在するが、「責任」を導くまでに自由意思と行為の因果は用いられていない。ゆえに「行為が決定論的に生ずるかどうかは責任と本来関係ない」と言えるのではないかと考えた。するとこの問題は本文全体に関わる重要な問いに思える。そのため、クラス全体で議論したい。


 残念ながら議論する時間がとれなかったが、これは本当に考えるに価する問いだし、しかも上の考察は既に実によく考えている。ただ下線部の

決定論は自由の否定であると考えられるため、「行為が決定論的に生ずるかどうかは責任と本来関係ない」は「行為が自由意思によって生ずるかどうかは責任と本来関係ない」と言い換えられる。

は飛躍があってわかりにくい。「決定論的に生ずる」がなぜ「自由意志によって生ずる」に言い換えられるのか。「決定論」と「自由意志」は完全に対立項目なのに。

 「行為が決定論的に生ずるかどうかは責任と本来関係ない」は「行為が仮に決定論的に生じたのだとしても責任を問うことはできる」という意味だ。行為が自由意志に基づいていなければ責任を問えないという前提に立てば、決定論は責任を否定しうるけれど、そもそも決定論に立ってさえ責任を問うことは可能だと言っているのだ。

 これは、いったん「決定論」によって「自由意志」を否定する可能性を検討しておいて、それができないことを示した揚句に、そもそも「決定論」諸共「自由意志」が「責任」と関係ないことを示そうとしているのである。

 「決定論」を「自由意志」に「言い換えられる」と言うM班はそうした論理構造が理解できていることになる。

 見事な読解だ。


 それにしても、こうして文章を読んでも、授業と違って集中力を欠いた状態では、ほとんど何を言っているかわからないはずだ。

 そういう意味で、授業に勝る学習は、なかなか一人ではできない。自分の意見を表明しなければならないというプレッシャーが、考えることに集中力を強いるのだ。

2022年10月16日日曜日

没落する「個」4 責任と個

 もう一箇所、考える手応えがあって楽しいのは次の一節。

急速に広まった情報のネットワークを支えているコンピュータ技術自体がプログラム上に原理的に欠陥をもつことによって、「責任」の所在はおろか、その概念の意味さえ曖昧になっているといわれる。近代思想のなかで「責任」が、悪にも傾く自由をもった同一の行為主体としての自己存在のメルクマールだったことからすれば、「責任」概念の曖昧化は、自己存在が情報の網目へと解体されていくことを示唆する現象であろう。いずれにせよ、自己が情報によって組織化されるという、この傾向は、ますます一層促進されていくにちがいない。

 個人的な娯楽を目的としてこんな文章は読まないし、何かを学ぶための読書ならば、こんな読みにくい文章は勘弁してほしい。ましてテストを解かなければならない切迫した状況では、こんな言い回しは本当に迷惑だ(それでもこういう書き方をしてしまうのは、ある種の美意識なのだろう。こういうのがカッコイイと思っているのだ)。

 だが余裕のある授業ならばじっくり考えて、みんなと話し合いながら解きほぐしてく過程はむしろ楽しい。考えていった先に、風景がクリアに見える瞬間はカタルシスだ。


 まず「コンピュータ技術自体がプログラム上に原理的に欠陥をもつ」がピンとこないが、そこはそういうものだと受け取ろう。確かに何のことを指しているのかがわからない。授業者はゲーデルの不完全性定理(または→)のことを指しているのだろうと推測して読み進めた。気になってネットで「バグが無くならない理由」などと検索してみると、プログラマーの書いた記事が山のように出てくる。つまるところそれは「人間の作ったものだから」というのだ。プログラムは実用的な目的で作られるが、コスト的にどこかで切り上げて納期に間に合わせるしかないから、無限のテストによってバグ(欠陥)をなくすことはできない。だからプログラムにはバグが絶対にどこかに残るのだそうだ。

 いずれにせよ、そのままそういうものだと受け取って先を読み進める。

 とにかく、プログラムに欠陥があると「責任」が曖昧になるのだそうだ。

 なぜ?

 何せ「原理的に欠陥を持つ」のだから、誰かの「責任」ではないのだ。

 そのことから何が言えるのか?


 一方で「近代思想のなかで『責任』が、悪にも傾く自由をもった同一の行為主体としての自己存在のメルクマールだった」のだそうだ。こういう、当然それはわかってるよね? と読者の了解を前提にしてしまう言い回しが、その業界の中にいるわけではない読者にはいちいち抵抗になる。

 だが切り取ってここだけを理解しようとすれば、できないわけではない。

 人間は「自由をもった同一の行為主体」だ。近代において、人は宗教や伝統から解放されて、自分の意志で自由に行為できるようになった(ということになっている。既習事項)。

  「同一の」という形容は、昨日の自分も今日の自分も一ヶ月後の自分も全て同一の自分である、という「自分」の存在の確かさを言っている。「アイデンティティ」の訳語である「自己同一性」の「同一」のことだ。

 すべてが「自由」なのだとすればそれは動物と変わらない。あるいはもはやそれは人の行為と言うより自然現象だ。とりわけそれが「悪にも傾く」とすれば、動物や自然現象を「悪」として裁くことはできない。その時、何が人間を人間たらしめるかといえば、「責任」だというのだ。何をしたかではなく、したことに「責任」をもつことが、彼のアイデンティティのメルクマールなのだ。

 そう理解すれば、

コンピュータ技術が「責任」を曖昧にする
したがって
「責任」によって保証される「個人」も曖昧になる
という論理がたどれる。


 この部分では「責任」が「個人」の存在を証し立てる条件として取り上げられているのだ、という論理を把握する必要がある。「責任」が曖昧なら、個人の存在も曖昧になる。

 同じように、この前の部分では「欲望」が「個人」の輪郭を捉えるのに使われている。「個人」とは、その人にしかない「欲望」を持っていることによって保証される。

 「欲望」が「個人」に属するものならば、「個人」の存在は確かにあると言える。だが「欲望」も情報の網の目に生ずるものだから、「個人」の存在を証し立てることはできない(若林幹夫が「誰かの欲望を模倣する」で言っていたことだ)。

 「責任」も「欲望」も、個人の存在を証し立てることはできない。

 これは前回の考察で「合意」が「集団性」を保証する条件として取り上げられ、それが作りものであることを言うことで集団が作りものであることを論じた論理と同じなのだ。

 これもまた全体の文脈に位置付けることで腑に落ちる感じを味わえるはずだ。


 ところでここを話し合わせているうちに面白い問題が見つかった。

自己存在が情報の網目へと解体されていく

自己が情報によって組織化される

 連続する二文の中で「解体/組織化」という、一見正反対の言葉が、何の説明も言い訳も無しにごく自然に置き換えられている。この奇妙さに、読者はついていかねばならない。

 上の二文は同じことの裏表なのだ。そのことが「そうだよな、当然」と思えることが、この文章を読めるということなのだ。

 個はそれ自体が独立した存在であるのではなく、情報によって組織化されたものだ。そのことは前にも言われている。

欲望の源泉は、相互に絡み合って生成消滅している情報であり、個人はその情報が行き交う交差点でしかない

 個人がそのように情報によって「組織化」されることで成立したものであるとすれば、「個」というものを捉えようとすれば、それはすなわち確固として既に存在していたものではなく、情報の中に「解体」されてしまうということにほかならない。

 情報によって組織化されることは情報の中に解体されるということだ。どちらも「確固として存在する独立した個」の対比として、同じ側の個のイメージを表現しているのだ。


2022年10月12日水曜日

没落する「個」3 ファケーレ/ファクト

 次の一節もひっかかるはずだ。

合意が達成され機能するとしても、それは当の合意が普遍的な基準を表現しているからではなく、「合意した」という事実だけが、それを合意として機能させているにすぎない。そういう意味でいえば、「合意」とはまさに形成されたもの、作りものであり、それが「事実」と呼ばれるとしても、作る作用(ファケーレ)に支えられた事実(ファクト)でしかないのである。


 下線部は、東大の問題では「どういうことか説明せよ」と出題されている。

 読んでわからないわけではないがどうすれば「説明」になるのかわからない、というのがこういう問題の常だ。

 そこが「わかる」としてもその後で「そういう意味でいえば」以降への論理的接続がよくわからない。「そういう」や「それ」の指示内容も曖昧だし、「ファケーレに支えられたファクトでしかない」という結論がどこから出てきて、何を言いたいのかもわからない。

 どこから解きほぐすか。


 「『事実』と呼ばれるとしても」の「としても」は「合意が達成され機能するとしても」を受けている。「事実」は前の行の「『合意した』という事実」を受けている。

 こういう論理関係の追い方は、もちろん無意識にも行っているだろうけれど、意識してやってみてもいい。

 二つの対応から、論理的に次のことが言える。

「事実」=合意が達成され機能する(こと)=合意した(こと)

 これは何を意味する?


 文末はおそらく「ファクト」という英単語は、ギリシャ語がラテン語の「ファケーレ」が語源なのだという知識を前提にしているのだろう。そう思って調べてみるとやはりラテン語だった。「ファクトリー(Factory)=工場・製作所」もなるほど「作るところ」だ。

 それがどうした?


 「作る作用に支えられた事実でしかない」は、読者にある違和感を感じさせることを狙いつつ、その驚きの中でメッセージを伝えようという意図にもとづいた表現だ。

 「作る作用」と「事実」は日本語では反対のベクトルを持っているような印象がある。文中で繰り返し使われる「作りもの」は「非実体」「虚構」などの言い換えだ。それは本来「事実」と対立的な概念のはずだ。「事実=本物/虚構=偽物」なのだから。

 それが欧米語の語源に遡ると通じ合ってしまう、という豆知識をここでは「事実は作り物だ」と語るために用いられているのだ。 

 ではなぜ「事実は作り物」なのだ?



 下線部の終わり「~にすぎない」という言い方は、ある限定をすることで、それ以外の部分を否定的に想起させる表現だ。「これは始まりにすぎない」と言えば「始まり」の裏に「それ以降、終わりまで」が対比されていることを示すし、「そんなのは口先にすぎない」といえば「腹の底からの本心」が、その場限りの「口先」の対比として言外に表現されている。

 「『合意した』という事実だけが、それを合意として機能させているにすぎない」も、同じように、何かを限定をすることで言外の何かを否定している。

 ここにはどのような対比があるか?

 だが何を限定しているかも、言外に何を想起させているかも、表現することが難しい。ここを何とか言葉にしてみる。

本心/口先

の順に表現してみる。「本心ではなく口先に過ぎない」という文型に嵌まるように対比させてみよう。

 どう表現すれば良い?


 我々のテストでは、ここは説明ではなく、「これを表す例」を選択肢として出題した。正解率は6割くらい。これを利用する。正解と不正解の選択肢はどこが違っているか? 何が正解の目印なのか?

 使われている「臓器移植」「クローン人間」「人工妊娠中絶」「自動運転」といった例が問題なのではない。例自体には適否はない。

 ポイントは、②「価値観の一致に基づく」と、①「納得しているわけではない」、③個人の~観に反したもの」、④「解決を~放棄している」の違いだ。

 これが上記の「すぎない」の限定による対比と対応している。

 各クラスでそれぞれ試行錯誤して、この対比を表す言葉として挙がったのは次のような表現だ。

全員一致による合意/多数決による合意

  納得ずくの合意/不本意な合意

   本質的な合意/形式的・表面的な合意

 尤も、よく見れば下線部の前に「ではなく」があって、対比は明示されている。

当の合意が普遍的な基準を表現しているからではなく

 つまり「普遍的な基準による合意」だ。上記の左辺は適切であることがわかる。


 これが「ファケーレに支えられたファクト」と対応する。

 順序が逆だ。

事実/作る作用

 「『事実』と呼ばれる」のように括弧のついた表現は、そのニュアンスを適切に読み取る必要がある。「事実」は普通、本物のニュアンスだ。それは左辺のような合意でなければならないはずだ。

 ところが「事実」上、実際に機能しているのは右辺のような合意による。つまり「作りもの=偽物」なのだ。

 だから「事実」は「作る作用」に支えられていると言えるのである。


 ところで、なぜ「合意」が問題になっているのか?
 大きな文脈の中に位置付ける。
 「合意」は「社会的合意」として文中に登場する。
「社会的合意」の「社会」なるものが、いかに捉えどころのないものであるか
 つまり合意が「作りもの」であることを言うことは「社会」が「捉えどころがない」ことを言うことになり、それはつまり「集団」が不確かなものであることを言うことになるのだ。
 「合意」が作りものだから、その合意によって成立する「集団」も作りものだ。
 こうして全体の文脈に位置付けることで腑に落ちる。

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