新シリーズ「視点を変える」に入る。
これは教科書冒頭の単元名だ。国語の教科書の「単元」というのが何を意味しているかはよくわからない。何となく共通したテーマがあるということなのだが、といって読み比べに有効なほどの関連性は想定されていない。それができたのは唯一「共に生きる」だったので、そこから今年度の授業を始めたのだった。
この「視点を変える」も、三つの文章をまとめていて、それなりには「視点を変える」というテーマが共通しているとは言えるが、どうも有効な読み比べの見通しが立たない。
それよりも教科書の目次を見ると「視点を変える」の第一編、つまり教科書冒頭教材の「木を見る、森を見る」と、教科書後半の「鳥の眼と虫の眼」というのが、題名からすると関連づけられそうだ。「見る」と「眼」だし、「木/森」と「鳥/虫」という対比も重なりそうだ(ところで「鳥の眼と虫の眼」が収められている単元は「近代の先へ」で、あとの二編は「暇と退屈の倫理学」と「〈私〉時代のデモクラシー」なのだ。その二編とのつながりはあるんだろうか?)。
さてそう思って「木を見る、森を見る」の第一頁を開くと、「関連教材」として名を挙げられているのは豈図らんや「少女たちの『ひろしま』」という教材なのだった。教科書編集部の設定する「関連教材」としては前に「多層性と多様性」と「暇と退屈の倫理学」をつなげたことがあったが、まあ確かに「関連」はしているものの、それほど有効な読み比べができたわけでもなかった(それに「関連教材」だというのならなぜ同じ単元に収録しないのだろう?)。
さて「木を見る、森を見る」と「少女たちの『ひろしま』」はどうか。
だがその前に、「木を見る、森を見る」を読むと、新シリーズと言いながら、ここまでの授業ともつながりがあることに気づく(気づいてほしい)。
どこが、何と?
あまり遠い過去の話ではない、最近の授業だと誘導して、多くの者が思い至る。茂木健一郎の「見る」はそのまま「見る」で共通しているではないか。ということは小林秀雄もつながるんだろう。そういえばどちらも絵画を見ることが話題になっている。
具体的に本文を引用しながら、対応していることを示すよう指示し、あちこちから共通した趣旨と考えられる記述が見つかった。
デッサンでは、物を「何か」として「認知」する前の一次的な視覚情報、すなわち「知覚」を描こうとする。まとまりではなく、部分に注目するということだ。でも部分だけに注目して描いていると、全体のプロポーションにひずみが出やすい。だからときどきキャンバスから離れて全体を確認する。
上の一節の 物を「何か」として「認知」する が茂木の「要約」に、 「認知」する前の一次的な視覚情報、すなわち「知覚」 が「視覚的アウェアネス」に対応している。デッサンでは視覚的アウェアネスを描こうとするが、バランスを見るために、ときどきは離れて「要約」することも必要だということだ。
茂木の「要約」は小林の「言葉に置き換える」に対応しているのだったから、画家は言葉にならない見たままの「花の美しさ」を描こうとしているのだという小林の趣旨はそのまま上の一節と重なる。
私たちは、いったん「何か」としてまとまりで認知すると、細かい部分を見落としがちだ。
の 「何か」としてまとまりで認知する が「言葉に置き換える」だから、それを「菫の花だ」と言ったとたんに、花の美しさを見なくなる、つまり 細かい部分を見落としがち になるのだ。
目に入るものを常に「何か」としてラベル付けして見ようとする、人間の認知的な癖
の 「何か」としてラベル付け(する) はもちろん「要約」であり「言葉に置き換える」だ。
共通していることを示すには、対応する表現を同じ文型に置いて並べるといい。
狙ったわけではないが「夢十夜」の後に「視点を変える」シリーズに入ったら、はからずも同じ論旨の文章が並んだのだった。
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