2022年12月4日日曜日

視点を変える 3 「わかる」とは

 「スキーマ」という語は文中に一度しか出てこないが、語注を参考にするとして「枠組・図式」と言い換えが可能だと心に留めておく。5頁の記述では「パターン」がこれにあたる。「型」もいい。

 「ゲシュタルト」は語注では「まとまり」「構造」と言い換えられている。

 さて、これらを使って、「認識とはどういうことか?」に答えてみよう。


 認識とは、外界の情報を、あるスキーマにあてはめて、ゲシュタルトを構成することである。

 こうしたシンプルな表現がまず難しいのだが、そこがまあ国語的練習だ。

 これを「見る」と「読む」の例に適用する。


 「木を見る、森を見る」では次のように言えば良い。

人は、例えば「顔というスキーマ」にあてはめて、外界の様々なものを「顔」というゲシュタルトとして見る。

 「顔というスキーマ」とは、何かの要素が逆三角形に並んでいるということだ。何かの要素がそういう配置に並んでいると「顔」に見える。人物の背景に幽霊が写っているといったような心霊写真に見られる現象だ。それがゲシュタルト(まとまり・構造)ができている状態だ。

 授業で考察した「小説を読む」も同じように表現してみる。

人は小説を「物語」の型にあてはめて「物語」として理解する。

 必ずしも厳密にスキーマがどの語に対応している、ということではない。

人は小説を「欠落→回復」の型にあてはめて「物語」として理解する。

でも

人は「第一夜」を「物語」の型にあてはめて「ハッピーエンド」として理解する。

でも良い。「物語」はスキーマでもありゲシュタルトでもある。

 「~として」捉えるときに採用する枠組・型・図式が「スキーマ」で、つまりスキーマとは様々な抽象度で、いくつもあるものであり、予め用意されているものだ。そしてそれによって構成された構造が「ゲシュタルト」だ。つまりその都度、そこにできるものだ。


 これをもっと敷衍して言えば、一般的に我々が何かを「わかる」とは、対象をあるスキーマにあてはめるということだと言える。あてはまるようなスキーマをもたないとき、対象はゲシュタルトを形成できず、「わからない」。

 例えば国語では読解力があるとかないとか言うが、読解できるということは、何かの枠組・型・スキーマに、文章の情報をあてはめることができるということだ。そうしたスキーマを豊富にもっていて、うまくあてはめられることが「読解力が高い」ということだ。


 これは、その理解が正しいことを意味しない。誤解もまた主観的には「わかる」ということだからだ。

 「羅生門」を「エゴイズム」というスキーマにあてはめて「人が生きるために持たざるをえないエゴイズムを描いた小説」だと理解することも、「観念」というスキーマにあてはめて「支配されていた観念から抜け出て現実を直視する小説」だと理解することも、それぞれに「わかる」ということだ。

 実際にはスキーマは様々なレベルで複合的に働いていて、それらの様々な「理解」の整合性が全体としての「理解」の正しさを保証する。「羅生門」を「エゴイズム」で読むことは、他の様々なスキーマ(例えば「登場人物の心理を描くことには相応の意味がある」とか)による理解と不整合だから間違っているのだ(たぶん)。


 「夢十夜」の「第六夜」、「先だっての暴風(あらし)で倒れた樫」が、「外国文化の流入でなぎ倒された明治日本文化を隠喩している」と読むのも、「第六夜」を「明治文化批判」というスキーマで読んだときに構成されるゲシュタルトだ。不規則な白黒模様が「ダルメシアン犬」というスキーマを与えられたとたんにゲシュタルトを成すように、この「あらし」は文明開化のことを意味していると考えると、もう、そうだとしか思えない。

 それは、3点の配置を無理やり「顔」に見立てる怪しげな心霊写真とは違って、「ダルメシアン犬」の絵くらいには信用して良い。それに比べれば「暁の星」は女の象徴だというような解釈は心霊写真レベルだ。


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