2023年6月28日水曜日

山月記 11 「虎になる」メカニズム

 もう一つ。既に検討したはずの「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」についての再検討だ。

 反対の方向の言葉が、だがとても納得されるものとして組み合わされるこの精妙な性格造型が機能するメカニズムを説明するために「ジレンマ」「再帰性」という言葉を使おう。

 「ジレンマ」と言うとみんな公共の授業で聞いた「囚人のジレンマ」を思い浮かべる。あるいは「ヤマアラシ(ハリネズミ)のジレンマ」という喩え話を聞いたことがある人もいるだろう。

 辞書的には「ある問題に対して2つの選択肢が存在し、そのどちらを選んでも何らかの不利益があり、態度を決めかねる状態。」だそうだ。「板挟み」「二竦み」などとも表現できる。


 「再帰的」は初めて見る言葉ではない。どこで?

 「〈私〉時代のデモクラシー」で、現代を「後期近代」「再帰的近代」と呼ぶことを紹介していた。この点についてはそれなりに考察もした

 「再帰的」とは何か?


 辞書を引けば「再帰的」とは「自己言及的な繰り返し」とあるはずだ。

 これは「循環」という言葉の印象によく似ている。好循環とは「再帰的」な繰り返しによって、好ましい傾向が強まっていくことだし、悪循環ならばその逆だ。もちろん李徵の場合は悪循環の方だ。

 「自己言及的な繰り返し」がなぜ「循環」を生じさせるのか?


 説明するための重要なポイントは、結果が原因に帰る、という点だ。「再帰性」の「帰」とはそういうことだ。また、それ自身の結果が原因もそれ自身の一部であることを「自己」という言葉が表わしている。

 自己が自己に「言及」するとき、どちらが原因でどちらが結果なのかがわからなくなる。そうして「繰り返し」が起こる。


 「ジレンマ」も「再帰性」も、二つの要素が、規制し合うか増幅し合うかという違いはあれ、関係し合っている構造を作っている。

 この二つの要素が「臆病」「羞恥心」と「尊大」「自尊心」の二つの方向性であることは見当がつく。

 これらがジレンマを生じつつ、再帰性をもった循環に閉じ込められている。

 このことは「わかる」はずだ。そうだ、と思う。だがこれを説明するのはそれほど容易ではない。

 この循環を説き明かし、李徴が「虎になった」わけを明らかにする。

 それがつまり「山月記」がどのような物語であるかを捉えるということだ。


山月記 10 結論に向けての再検討

 李徵が虎になった理由、その必然性を「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」に求めるべきであることに異論はない。

 この見込みは「山月記」の成立過程からも補強される。

 「山月記」は、芥川の「羅生門」が『今昔物語』の1エピソードを翻案したものであるように、実は元になっている物語がある。唐代の中国で書かれた伝奇小説で「人虎伝」といい、これが、途中に挿入される漢詩の部分までが、ほとんど翻訳かと思われるほど「山月記」そのままなのだ。

 だが「人虎伝」ではその後に、李徴が虎になった実にわかりやすい「理由」が語られる。

 「人虎伝」の李徴は未亡人との逢瀬を彼女の家族に反対されて逆ギレし、家に火をつけて一家全員を焼き殺したのだった。彼は人にあるまじき非道な振る舞いをしたから虎になったのだ。

 だが「山月記」ではそのエピソードが完全に削除されていて、その部分にそっくりそのまま2の告白が挿入されている。

 したがって「山月記」という小説を読解することは、「人虎伝」という伝奇小説を享受することとは全然別のことなのだ。中島敦は2の告白によって李徵が虎になったことの必然性を描こうとしているはずだと考えるのが真っ当で自然な解釈だ。


 確かに「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」が李徵を虎にしたのだ。

 だがそれは「なぜなったのか?」を充分に説明するものではない。

 だが「なぜなったのか?」について、充分な説明になっていないと感じている読者は、実は既に「なぜなったのか?」がわかっている読者だ。

 つまりこれは「わかっていること」をどれだけ的確に説明できるか、という課題だ。隠れた論理を探り当て、そこに適切な言葉を与える、という作業だ。


 授業の最終段階、結論に向けて二つの道筋を示す。


 まず、虎の象徴性についての再検討だ。

 虎が示す「強さ」には、さらに二つの傾向が指摘された。一つは「威厳」「気高さ」「畏怖」など、どちらからといえばプラスのイメージ。もう一つは「凶暴」「獰猛」など、どちらかといえばマイナスのイメージ。どちらをとる? と聞くと両方に手が挙がった。

 かつて或る生徒が答えた解釈を紹介しよう。

 冒頭に次の一節がある。

李徴は…若くして名を虎榜に連ね…

 ここを引用して彼は言った。「李徵は虎になりたかったのだ。」

 どういうことか?


 「虎榜」とは「虎の名前を掲げた掲示板」の意味だ。正式には「竜虎榜」といい、「竜虎」は優れた者、つまり科挙(国家公務員Ⅰ種試験)の合格者=官僚を指す比喩だ。

 李徵はかつて虎だった。それがエリートコースを外れ、詩家としても成功せず、一地方官吏におちぶれている。

 つまり李徴にとって虎とは、かつての栄光に満ちた自分を象徴するものであり、虎になるとは失った栄光をとりもどすことなのだ。

 虎になる場面でも「何か体じゅうに力が満ち満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えていった」と、何やら肯定的な表現が使われている。

 だがそれを求めて虎になることは、人としての生を完全に捨て去ることになってしまう。これが「山月記」の悲劇なのだ。


 これはある意味では魅力的な解釈だ。意表をつかれて腑に落ちる感覚もある。

 だがこれでは「なった」理由の2、例の「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」の働きが充分に組み込まれているとにわかに納得することは難しい。李徵が語っている理由の裏に、上のような願望があることを認めても良いが、印象としてはいささかシンプルすぎると感ずる。

 まだ「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」という精妙な設定のメカニズムはまだ明らかではない。


山月記 9 李徴にとって詩とは何か

 もう一つ、最終的な考察に臨む前に考えておきたい問題がある。これもまた「山月記」の読者としては看過してはならない箇所だ。

 どこだ?


 次の一節はどうみても気になる。

なるほど、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、どこか(非常に微妙な点において)欠けるところがあるのではないか

 この「欠けるところ」とは何か?

 ひとまずそう問いたくなる。「~が欠けている」にあてはまる言葉をあれこれと考えてみる。

 だがこの問題の本質は、作者はなぜ李徴の詩に「欠けるところ」があると袁傪に感じさせたのか、という点だ。「欠けるところ」とはこれだと積極的に明示できないとしても、その情報の提示にどのような必要性があるかは納得されなければならない。


 最も素直な答えは、李徴の才能がその程度であることが端的に表現されているのだ、という解釈だ。

 とすると、なぜ作者はそう設定したのか? そのような設定は、どのような論理に組み込まれるべきなのか?


 だが、そういうことではない。袁傪が言っているのは、「素質」は「第一流」だが、「作品」が「第一流」には「欠けるところがある」ということだ。

 それは何か? どんなところか?


 「なぜ虎になったか?」の三つの答えの3番目、「妻子よりも詩を気にしているから」考えるならば、「肉親への情愛」などと表現することもできる。人間らしい心の温かみがないことが詩に表れているのだ、などと。

 これを否定する必要はないが、これで充分とは思えないはずだ。

 では2の理由から「欠けるところ」を考えることはできるか?


 次の一節がこの問題の言わば種明かしになっていると考えられる。

おれは詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交わって切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。

 つまり厳しい鍛錬の場にさらされていないのだ。本人の才能だけでは到達できない修行の跡が見られないのだ。


 種明かしがされてしまったならば、この疑問はもう氷解したと考えていいだろうか?

 この問題について考える糸口として、さらに次の問いを掲げておく。

李徵にとって詩とは何か?


 「~とは何か?」という問いは抽象的でとりとめがない。何を言えば正解なのかわからない。

 こういうときの考え方は、これまで何度も体験した。

 対比を使うのだ。

李徴にとって詩は  ではなく  である。

 「ではなく」によって何かを否定することで、表現したいことを明確にする。


 この問いに答えるために参照すべき記述を指摘する。冒頭の段落から。

故山、虢略に帰臥し、人と交わりを絶って、ひたすら詩作にふけった。下吏となって長く膝を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺そうとしたのである。

 さらに、李徴が自作の詩の伝録を袁傪に依頼した場面。

作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂わせてまで自分が生涯それに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死にきれないのだ。

恥ずかしいことだが、今でも、こんなあさましい身となり果てた今でも、おれは、おれの詩集が長安風流人士の机の上に置かれているさまを、夢に見ることがあるのだ。


 もちろんここからは李徴の詩への強い執着が読み取れる。

 とすると、  には「夢」「願望」「存在意義」などという言葉が想起されるが、それでは  に入る言葉が思いつかない。そもそも「夢」では強いのか弱いのかもわからない。

 ここは、李徴は純粋に良い詩を書きたいと思っていたのではなく、名声がほしかっただけなのだ、といった分析がほしい。

 これを、どのような対比で表現したら良いか?


 授業では「芸術作品ではなく自己顕示の道具」という表現も挙がった。巧みな表現だ。

 さて、想定しているのはこれと同じ趣旨のこんな表現。

李徴にとって詩は目的ではなく手段である。

 それぞれのクラスで誰かがこの表現を想起する。

 「目的」と「手段」を対にするのは、例えば「自己目的化」だという表現において見られる把握だ。本来手段に過ぎないものが、いつのまにかそれ自身、目的と見做されてしまう。金儲けは豊かな生活という「目的」のための「手段」に過ぎないのに、いつの間にか金儲け自身が「目的」と化してしまう…。大学入学はその先の人生の選択肢を広げるための「手段」に過ぎないのに、それ自身が「目的」であるように錯覚されてしまう…。


 さて、李徵が何か自己目的化をしているというわけではない。ただ、李徵にとって詩は目的ではなく手段だ、といってみることは、李徴の詩の「欠けるところ」についての考察にも一つの解答を与える。

 つまり李徴は芸術としての詩に真摯に向き合っていないのだ。名声を目的とし、詩を手段として扱っている。そうした姿勢が「欠けるところ」があると袁傪に感じさせている。


 世の中には「山月記」の悲劇を、詩への耽溺によって心を狂わせた悲劇として捉える論考がある。

 確かに文学者や芸術家が、自死や発狂といった悲劇に向かう例は歴史上数多くある。ある種の芸術創作は魂を削る行為なのかもしれない。

 だが李徴の悲劇をそのように捉えることは、「山月記」という小説の要素をバランス良く捉えていない。

 李徴の詩への執着は、純粋な芸術創造へ向かっているのではなく、名声への妄執なのだ。


 さて、李徴にとって詩が手段であることと次の一節には奇妙な齟齬がある。何か?

自分は元来詩人として名を成すつもりでいた。しかも、業いまだ成らざるに、この運命に立ち至った。かつて作るところの詩数百編、もとより、まだ世に行われておらぬ。遺稿の所在ももはやわからなくなっていよう。

 李徴の詩への執着という点から見れば、伝録を依頼する事情として読み流してしまいがちだが、問題は「もとより、まだ世に行われておらぬ」という一節だ。

 これはつまり李徴の詩はほとんど発表されていなかったということだ。

 これは先に引用した一節とも符合する。李徴は「師に就いたり、求めて詩友と交わっ」たりすることをしなかった。そんな者の詩がどうやって他人に読まれるのだろう。インターネットもない時代に。

 つまり李徴は独りでせっせと詩を作り、それを発表もせずにしまいこんでいたのだ。

 これは、詩が李徵にとって純粋な自己表現ではなく名声を得る為の手段だという上記の解釈からすると不合理だ。


 だがどうしてそうなったかと言えば、「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」がそのまま李徴のそうした行動を説明している。詩は「自尊心」を満たすための手段でありながら、「才能の不足を暴露するかもしれないとの卑怯な危惧」から、発表ができないのだ。

 だがむしろこのことは、李徴を虎にさせたメカニズムのひとつの表れであるとみなすことはできないだろうか?

 つまり、だから「虎になった」のだ。

 どういうことか?

2023年6月27日火曜日

山月記 8 「虎」の象徴性

 さて「李徴はなぜ虎になったのか?」という問いに含まれる二つの側面のうちの一方「なぜ虎なのか?」について考えてみよう。

 李徵がなったものはなぜ虎なのか、を考えることは、何を考えることなのか?


 まずは「虎」の属性を明らかにするということだ。そしてそれは虎以外のもの、牛と、犬と、猫と、虫と、ライオンと「虎」を比較することで、虎の特性を明らかにすることにほかならない。

 これをさらに抽象化して言おう。これはどのような問いなのか?


 それは単に生物としての虎がどのような動物かということではない。

 「虎になる」とは、ホモサピエンスという動物が虎という動物に変化する、SF的な現象を指しているわけではない。

 とすれば「虎とは何か?」という問いの趣旨は何なのか?


 この問題は初めてではない。こういうときに定番の問いの立て方があるのだ。それを想起したい。

 文芸作品を解釈する時は「それは何の象徴なのか?」という形で問いを立てる必要があることがある。「羅生門」の下人のにきび、「夢十夜」の運慶、「I was born」の蜉蝣はそれぞれ、単にそれそのものではない。それらは「象徴」として作品中に存在する(ちなみに「第一夜」の「真珠貝・星の破片」も明らかに象徴めいているが、あれらが何の象徴かを考えるのは生産的ではないと授業者は考えている。あれらは単なるギミックだと思う)。

 「象徴」とは?

 具体で何らかの抽象概念を表わすこと、と即答できなければならない。

 とすれば今求められているのは、その「抽象概念」を指す語の想起と選択だ。

 「虎」が意味している抽象概念を、単語であれ形容であれ、何らかの言葉にしてみる。そしてその表現が、李徵が「虎になる」ことの必然性を説明する上で使えるかどうかを検討する。

 とはいえ、さしあたり名詞を挙げてみよう。


 各クラス、それぞれの班で多様な候補が出る。バリエーションというだけなら、各クラスとも10前後の語が提出される。

 それらを似たような意味合いでグループ化する。おおよそ二つの系統に分類できる。

 一つは「孤独・孤高・孤立」など「独り」のイメージ。これは虎の、群れを作らないで単独行動する生態に対応している。

 もう一つは「強さ」のイメージ。「虎の威を借る狐」では虎は百獣の王だ(「百獣の王」といえばライオンではないか、という者もいるが、アフリカでは獅子、アジアでは虎なのだ)。

 この二面は前回考察した「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」の二面性そのままである。

 「臆病」「羞恥心」に表われる「独り」のイメージ。

 「尊大な」「自尊心」に表われる「強さ」のイメージ。

 ということは、この二つは「虎」の属性であるとともに、そのまま李徴の性格でもある。人と馴染まない狷介さと、一方で優秀さとプライドの高さ。


 ところで、「強さ」を表す語をさらに二つに分類して示すと、興味深い意見の相違が見られた。

 一つは「威厳」「気高さ」「畏怖」など、どちらからといえばプラスのイメージ。

 もう一つは「凶暴」「獰猛」など、どちらかといえばマイナスのイメージ。

 どちら寄りに考えると「虎になる」ことの説明になりそうかという問いに、みんなの意見は分かれた。こういうのは面白い論点だ。


 また、どちらに属するとも単純には言いがたい語彙として「怒り」「恐怖」なども提案された。「恐怖」は「畏怖」に近いが、また微妙に方向の異なる語でもある。李徵自身の「恐怖」なのか、他から李徵に向けられる「恐怖」なのかも問題だ(提案者はどちらともだ、と言っていた)。

 「虎の威を借る」の故事から「愚かさ」という語も提案された。「虎になる」とは「愚かな存在になる」ということだ…。

 いずれにせよ、どんな言葉が、李徵が「虎になった」わけを説明する際に有効なのか、と考えてみる。


2023年6月21日水曜日

山月記 7 内なる猛獣

 「瓦に伍することもできない」=「詩友と交わらない」と解釈したくなるが、そうだと言って済ますことはできない。

 それは、「詩友」は切磋琢磨するような存在であって「瓦」などと下に見るべき存在ではないから、というような理由ではなく、至極論理的な文脈の解釈による。

 まず「碌々として瓦に伍することもできなかった」が「俗物の間に伍することも潔しとしなかった」の言い換えなのだろうと読むのは自然だ。「伍する」の繰り返しを手がかりに「瓦」が「俗物」の比喩なのだろうと考えることは容易にできる。

 とするとそれは「詩友」とイコールでは結べない。引用しよう。

進んで師に就いたり、求めて詩友と交わって切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、また、俺は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。

 「かといって」は、その前後が選択的・排他的な関係にあることを示している。したがって「詩友と交わる」と「俗物の間に伍する」は異なった事態を表していることになる。そして「俗物の間に伍する」が「瓦に伍する」だとすると「瓦に伍する」は「詩友と交わる」ではないということになる(三段論法によって)。「詩友と交わることをしなかった。かといって、また、詩友と交わることもしなかった」と代入してみると意味不明な日本語になってしまうことからもそれがわかる。

 では「瓦に伍する」は何のことを言っているか?


 上の引用部分の「かといって」の前が詩家を目指している期間、後が詩家を諦めてからの期間だと考えると「瓦に伍する」は詩家の夢を捨てて一般市民として生きることを指しているのだろうか? 「瓦」とは「一般市民」?

 それは間違っていない。だがそれだけで終わるべきではない。

 詩家を諦めた李徵はどうしたか?

 小説全体に視野が届いていれば、この比喩は冒頭段落の李徵のプロフィールの中の「昔、鈍物として歯牙にもかけなかったその連中の下命を拝さねばならぬこと」を指していると考えるべきであることに気付くはずだ。「鈍物~連中」は「瓦」の比喩にふさわしい。


 「碌々として瓦に伍することもできない」、つまり平凡な連中と肩を並べられないなどという態度は確かに「尊大」だ。

 他人を「瓦」と呼ぶ「尊大」(あるいは傲慢)な李徵にとって、一般市民や鈍物たる同僚ばかりでなく、俗悪な上司も「瓦」であるにちがいない。だから時期の対応にしばられずに、李徵の精神構造から考えれば「瓦に伍する」が「下吏となって長く膝を俗悪な大官の前に屈する」ことを指していると考えてもいいし、それだけでなく上記の文脈の論理からは否定した「詩友と交わる」こともまた李徵にとっては「瓦に伍する」ことなのだろう。

 だから「瓦に伍するもことできない」が「詩友と交わらない」のことを指していると考えてしまったのは故ないことではない。文脈上は否定されるが、決して間違った印象ではない。


 他人を「瓦」と見る「尊大な」「自尊心」は、「己の珠にあらざることを惧れる」という「臆病」を裏に隠しもっているがゆえに、その事実が露わになるのをおそれて「人との交わりを避け」る「羞恥心」を生ずる。「瓦に伍する」ことをしないのは「尊大」ゆえでもあるが、「臆病」だからでもある。

 つまり「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」の形容・被形容は、語意からはその方向性が相反しているにもかかわらず、それらが分かちがたく結びついた同じ性質の表裏であることを表している。

 一見方向性の反対の方向性をもった言葉が、捻れて形容・被形容で接続するのは、その関係性を巧みに表わしている。


 「山月記」では常に問題となるフレーズをとりあえず整理してみれたが、それが虎なのだ、だから虎になったのだ、と言うのは、論理の飛躍がある。臆病な人は虎になるのか、尊大な人は虎になるのかといえば、ただちに当然とは言えまい。

 問題はそれがなぜ「虎になる」という極端な事態を招いたのかという論理だ。


山月記 6 珠と瓦

 さて「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」の読解には、もうちょっと地ならしが必要だ。

 「臆病な…」の次の一文は、いくぶんモヤモヤするはずだ。

の珠にあらざることを惧れるがゆえに、あえて刻苦して磨こうともせず、また、己の珠なるべきを半ば信ずるがゆえに、碌々として瓦に伍することもできなかった。

 ここはそんなにすっきりとは読めないだろうと想定していると、問いとしてここに言及する班がちっとも現れない。なぜだ? わかりきっているのか? そんなはずはない。ここに使われている比喩表現はそんなに自明のことか?

 地道な考察を展開するために、まず確認。

 「珠」「瓦」という比喩は何を意味しているか?


 「瓦」は「値打ちの低いもののたとえ」という語注がある。そして「伍する」の繰り返しから推測すると、前の文の「俗物」の言い換えになっていると考えられる。「俗物」=「値打ちの低いもの」だ。

 「珠」は、訊くと「才能」という答えが返ってくることが多いが、これは若干微妙な誤解を含んでいるかもしれない。

 「己珠」と括って「自分の才能」と直訳してはいけない。「の」は所有格ではなく主格で、「己の」は「珠」に係っているのではなく、「あらざる」「なるべき」に係っている。つまり「自分」「珠にあらざる」「珠なるべき」なのだ。

 ということで「珠」は「優れた者」の比喩だ。

 「伍する」は?

 「落伍者」という言葉は知っているだろうか(みんななんとなく微妙な反応だった)。そこから考えると「同等の位置にならぶ。肩を並べる。」などという意味が抽出される。

 こういう地道な確認を互いにしあうことを心がけよう。

 言葉の意味が確認できたところで、これはこの前後のどの記述に対応しているか? あるいは小説中のどんな状況を表現しているか?


 「己の珠にあらざることを惧れる」は、次ページの「才能の不足を暴露するかもしれないとの卑怯な危惧」に対応している。

 がゆえに、「あえて刻苦して磨こうとしない」。これが「刻苦をいとう怠惰」と言い換えられている。怖くて磨かないことと怠惰で磨かないのとでは違うと突っ込むこともできるが、これは李徵の自嘲癖の表れとみなそう。

 「己の珠なるべきを半ば信ずる」は「自分が才能ある者であることを半ば信じる」だ。これは「自尊心」の表れだと言って良いが、冒頭近くにもこれに対応する記述がなかったか?

 「自ら恃むところすこぶる厚く」だ。最初の時間のやりとりを思い出して、すぐに想起できただろうか。

 ではそれゆえに「碌々として瓦に伍することもでき」ないとは?


 さしあたって数行前の「努めて人との交わりを避けた。」に対応している。

 これをもっと具体的に表現しているのが、同じ段落の「求めて詩友と交わって切磋琢磨に努めたりする」であるように感ずる。

 こう考えることは適切か?


 さしあたって、そう解釈するのは間違っている、と言ってもいい。

 なぜか?


2023年6月20日火曜日

山月記 5 問いを分解する

 李徴が「虎になった」理由として重視すべきなのは、最初に挙げた三つのうち、やはり2「性情が表に出た」なのだろうと、素朴に思う。

 そして2は、それなりに「わかる」。そういう話か、という、ある感触は得られる。

 だがそれがどういうことなのかをすっきりと説明できるわけではない。説明しようとしても、現状では本文をそのまま引用することになりそうだ。

 さらにそれを抽象化して「主題」として語ることは難しい。


 さて2の「性情」=「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」とは何か?

 ここが、問題の「李徵はなぜ虎になったのか?」の答えとして充分に説得的であるかどうかというのが、「山月記」という小説の読解の中心課題であり、現段階でここに踏み込むことはとどめておこう。最終的な考察をする前に、ここではまず当面「わかる」べきことをわかっておく。

 当該の段落をすっきりと「わかる」ためにどんな考察が必要か、というのが既に問題ではある。再三言っている通り、「問いを立てる」ことはきわめて重要だ。適切に考えるためには考えるべきことの焦点が定まっている必要がある。

 だが今回も変わらずこの課題にみんな難渋した。「わからないところがわからない」と言いたい気持ちはわかる。がそれは考えることをサボっている、放棄している、諦めているのだ。

 もちろん問題の焦点が「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」であることはみんな感じ取る。それが「猛獣」なのだし、それが外形を「虎」にしたのだと李徵は語っている。

 だがなぜそれを「どういうこと?」とか「どうして?」と言っただけでは、考えるべき焦点はまるで明確にならない。疑問が同語反復しているだけだ。


 そもそもこのフレーズには、読者が、あるひっかかりを感ずるべき違和感がある。

 この違和感はどこから生じているか?


 それは形容と形容される言葉の方向性が食い違っていることによる。

 「臆病」であることと「尊大」であることは、一見反対の方向性をもっているように見える。「自尊心」と「羞恥心」も同様だ。

 これが、ちくはぐに組み合わされている。

 形容を入れ替えて「臆病な羞恥心」「尊大な自尊心」とすれば違和感はない(今度は「頭が頭痛」のような重複による冗長さが違和感となるが)。

 ではなぜこうした形容が入れ替わって組み合わされているのか?

 そしてなぜそうした形容が可能なのか?


 「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」とはどういうことか、という「大きな問い」を、例えば上記のように分析して、より「小さな問い」に置き直す。

 さらに、このフレーズを考えるために考えるべきことは何か?

 語れる者はすぐに「解釈」を語ってしまうが、それはどんな疑問を解いているのか?


 まず、そもそも「臆病」「羞恥心」「尊大」「自尊心」がそれぞれ何のことを指しているかを明確にすることが必要なはずだ。語っている者はそれを語っているはずだし、そうでなければ、何も語れずに黙ってしまうか。

 ここが、この部分を考える上で立てなければならない問題の焦点であることは、分析的に考えないと意識できない。

 適切に問いを立てることはいつも難しい。

山月記 4 「答え」の重み付け

 「李徵はなぜ虎になったのか?」という問いに対する「答え」として三つの候補を文中から挙げた。

  1. わからない
  2. 性情が表に出た
  3. 妻子よりも詩業を気にかけているから

 これらの「答え」を検討しよう。

 もちろん2を考えることが「山月記」読解の本丸になる。だから先に1と3を軽く考えておく。


 1を問いの答えとするということは、つまりこの小説のテーマをどのようなものだと考えるということか?

 それを言い表す単語を想起しよう。何か?


 二字だったら「運命・宿命」が文中の「さだめ」から連想される。四字だったら「諸行無常」「輪廻転生」とかいうのもアリかもしれない(もっとも李徵はまだ死んでいないので「転生」ではない)。

 三文字という指定をした。想定している三字熟語は「不条理」だ。「理不尽」もわるくないが、文学作品のテーマとして使われる頻度は「不条理」の方が高い。

 授業ではそれ以外に「受動的」が挙がった。なるほど、生物は「運命」の定めるところに対して「受動的」なのだ。

 また「無意味」という語も挙がった。人間であることも虎であることも、それ自体に「意味」はないのだ、という思想をこの小説は語っているのだ。

 これらは「不条理」という捉え方と同じ範疇にあると考えていいだろう。

 確かに「不条理」をテーマとする小説というのはある。人間が望むような「物語」=「条理」を否定することを主題とする小説が。

 では「山月記」をそのような小説として読むのは適切だろうか?

 どうもそうは思えない。それよりも2を重視して、その「条理」を考えるべきだという気がする。

 2よりも1を重視すべきではないと判断することの妥当性はどこにあるか?


 まず情報量として1や3に比べて2は情報量が多い。大事なことは詳しく語られる。

 また、小説中の順番は1,2だ。後出しジャンケンのごとく2の方が優位なのだ。

 後から述べられたことの方をより重視すべきだという妥当性はある。

 仮に2より1の方が後で語られていれば、1を無視できなくなる。あれこれ2のように理屈をこねたが、やっぱり「わからない」が正解かもしれないと小説的には言っているのだ、と。

 だが順番は1,2だ。

 後ろまで語って結局先に述べた1を結論として重視すべきであると考えるには、2や3で語られる理屈に対する疑義が小説中に置かれている必要がある。本人がいくら理屈をこねても、そんなものはあてにはならない、と。

 だがその痕跡は見つからない。とりあえずは。

 見つけられないでいるうちは、素直に2や3を重視すべきなのだ。

 実にシンプルな理由だが、適切な判断の根拠を自覚しておくのは有益なことだ。


 1は虎になった当初の混乱の中で発せられた感慨だが、その後熟慮の末にたどりついたのが2だ。やはり2がこの小説の肝なのだ。


 では3はどうか?

 1を候補から除外した時と同じ、情報量という点からはどうみても2が優勢だ。

 では3は、単なる自嘲癖の一つの表れとして看過すべきか?


 だが「関係」という言い方で考えさせたとき、2と3は、あながち別のことを言っているわけではない、という感触をもった人も多いだろうと思われる。どこのクラスでも3は2の具体例だ、という声が聞こえる。

 最初の「問い」に対して2から形成される「答え」と3から形成される「答え」が同じであるなどということは、どう考えれば可能か?


 こうした対比(類比)には、抽象度を上げる必要がある。

 3の記述からは、虎になった理由をどのような言葉で捉えることができるか?


 さしあたって皆から挙がるのは「身勝手」「自己中」「利己的」だ(はからずもこちらも三文字熟語が揃った)。

 3の記述から見出せるこれらの「理由」は、2で語られる「理由」と同じだと言って良いのだろうか?


 今直ちにそれに対して肯定否定の判断を出すのは難しい。

 まずはいったん3は措いて、2について考察を進めよう。


2023年6月13日火曜日

山月記 3 三つの答え

  李徵はなぜなったのか?

 「山月記」の読解とは、ひとまずはこの問いの答えを探す考察だ。


 さて、小説中から、この問いの答えになりそうな箇所を3カ所見つける。全ページを斜め読みし、まずは探す。

 「答えになりそう」というのがどのレベルの直截性なのかはまた問題ではあるのだが、とりあえず皆が納得しやすいところとして衆目の一致するのは次の3カ所だろう。

 なぜこんなことになったのだろう。わからぬ。まったく何事も我々にはわからぬ。理由もわからずに押しつけられたものをおとなしく受け取って、理由もわからずに生きてゆくのが、我々生き物のさだめだ。(38頁)

 俺はしだいに世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによってますます己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間はだれでも猛獣使いであり、その猛獣に当たるのが、各人の性情だと言う。俺の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが俺を損ない、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、俺の外形をかくのごとく、内心にふさわしいものに変えてしまったのだ。(42頁)

 飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業のほうを気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕とすのだ。(44頁)


 シンプルに

  1. わからない
  2. 性情が表に出た
  3. 妻子よりも詩業を気にかけているから

としておく。

 さしあたってこの3点を検討する。

 これ以外には、李徵が虎になる場面で、闇の中から呼ぶ声の存在が書かれているが、これは1か2の表れの一つと考えていいのではないかと判断しておく。また冒頭の段落には「自尊心が傷ついたから」と見做すことの可能な記述があるが、これは2に含めて考えよう。


 どう考えるべきか?

 まずはこの3点の関係を考え、重み付けをしよう。

 とはいえ、2を重視すべきであることは誰しも何となく感じ取っている。問題は1と3をどう扱うかだ。無視していいのか? それともしかるべき重みで受け取ればいいのか?


山月記 2 二つの問い

 「山月記」はどういう話か?

 「どういう話か」という把握のことを「主題(テーマ)は何か」と言う。昨年度の「羅生門」や「夢十夜」でも言っていた。

 「主題」とは何か小難しい話ではない。「どういう話か」という把握のことだ。「山月記」はどういう話か?

 といって単に設定や粗筋のことを指しているわけではない。それを言うなら「虎になった男の話」であり、「虎になった男がかつての友人と山中で出会ってその経緯を話す話」だ。

 「主題」というのは、それより一段抽象化した言葉で対象を把握しようというのだ。

 最終的に考えるのは「山月記」の主題だとして、その前に「わかる」べきことはわかっておかなければならない。

 「山月記」を読解できたと見なすための最低限の条件は何か?

 「わからない」とすれば何が「わからない」のか? 「わかった」とすれば何が「わかった」のか?

 まず、問いを立てる。


 「山月記」がひとまず「わかった」と思えるための試金石は明らかだ。ブレたりはすまい。読者は皆そう感じるはずだ。

 すなわち次の問いに答えられることである。

李徴はなぜ虎になったのか?

 これに、今直ちに答えられるだろうか?

 この問いはちょうど「羅生門」における「下人はなぜ引剥ぎをしたのか?」に対応している。わからないわけではない。だが「わかる」と即答することにもためらわれる。

 おそらく授業前の状態は、この問いに対する答えが明確な形を成しているとは言えず、といって見当もつかないというわけでもないボンヤリとした手応えだけがあるという状態のはずだ。

 ここに明確な形を与えることを目標とする。


 適切に考えるために問い自体の成り立ちを的確に把握しておく。

 「羅生門」の「下人はなぜ~したか?」は、「何のためにしたか?」ではなく「なぜできなかったことができるようになったのか?」だった。

 「なぜ」という疑問詞は「理由・原因」とも言えるが「目的」や「経緯」の場合もある。「どうして」という疑問詞も「なぜ」の場合も「どのように」の場合もある。

 「羅生門」では、引剥ぎの目的だの経緯だのを考えたのではなく「行為の必然性」を考えたのだった。「なぜ」と問えば「生きるため」と答えることも可能だが、そこが問題ではない。最初からわかっている「生きるためには盗人になるしかない」が、なぜか最初はできずにいて、最後にできるようになったのはなぜか、を問うているのだ。

 同様に、「なぜなったか」は「どのようにしてなったのか」ではない。「虎になった」ことの経緯ではない。理由あるいは原因と言っても良いが、それよりも、筆者がこの小説で李徵を虎にしたことに、どのような必然性を与えているかということだ。


 ところで「李徴はなぜ虎になったのか?」という問いには二つの問いが含まれている。

 何か?

 「なぜ」という疑問詞が「虎に」に係っていると見做すか、「なった」に係っていると見做すかで、以下の二つの問いに分解できる。

なぜ李徴は人間でないものになったのか?

なぜ李徴がなったものはなのか?

 最終的な「答え」には、これら二つの要素が含まれていることが条件だ。


 これらを説明するために、それぞれを対比を応用して、考えるべき問題の輪郭を明らかにする。

 「なぜ虎なのか」を考えるには、虎以外の生物(牛・馬・犬・蠅・蛞蝓・マダニ…いや生物でなくとも、ロボットでも棒でもいい)ではなく虎であることの意味を考える。

 したがって「なぜ虎なのか」は「なぜ虎以外の物ではないのか」と言い換えられる。「虎」を「虎以外の物」と比較することで、「虎」であることの意味が明確になる。「虎になった」ことの意味を考える上で「犬になることとどのような違いがあるのか?」と考えてみる。

 では「なぜなったのか」は、どのように言い換えられるか? 何と対比すれば「なった」ことの意味を明確にできるか?


 「なった」の対比は言うまでもなく「ならなかった」だ。

 そこまではみんなわかるのだが、だからといって「なぜならなかったのか?」という問いは意味不明だ。李徵は実際に虎に「なった」のだから。

 「なった」ことの必然性は「ならない」ことの必然性の裏返しだ。といって「なぜ他の人は虎にならないのか」は不要な仮定だ。他の人が虎になる必然性はそもそもない。

 「なぜ人間に戻れないのか」は、虎になることが可逆的なのか不可逆的なのかもわからないのでやはり不要な仮定だ。

 ともかく李徵は虎に「なった」のだ。その必然性は、「ならなかった」=「人間のままでいる」必然性の裏返しとして明確になる。

 したがって、この場合の対比は、「なぜなったか?」を「どうすればならずにいられたか?」と言い換えることで得られる(疑問詞を置き直す必要があるところで行き詰まった者も多かった)。

 これら二つの要素を含むよう、「虎になった」ことの意味を明らかにする。


2023年6月11日日曜日

山月記 1 小説を読む

 授業で中島敦の「山月記」を読む。

 いったい何をすべきか。


 小説を読むことは娯楽だ。それは好きか好きじゃないか、面白いか面白くないか、感動するかしないか、という個人的享受の問題だ。


 一方で小説は芸術作品かも知れない。「文学」だの「文芸」だのという言い方で、小説を芸術作品として享受することもありうる。

 娯楽は既存世界の安定的反復をめざし、芸術は転覆をめざしているのかもしれないが、いずれにせよ、小説を読むということは個人的な営みだ。


 だが今、我々が置かれているのは、国語教育が行われようとしている授業という公共の場だ。そこでは国語力の伸張が期待されている。そうした目的と、娯楽や芸術の享受という個人的な営みはどのように一致するか?


 一方で国語教育は道徳教育でもない。小説は教訓を読み取るための寓話ではない。


 娯楽や芸術の享受は楽しみや感動を期待する行為だが、それは個人的な営みだ。教室にいる全員が楽しんだり感動したりすることをめざすことが果たして可能か。それを期待するのは構わない。多くの者が感動できれば結構なことだ。だがそれをどのようにしてめざすのか?

 一方で、教訓を得て道徳観念が涵養されるのは結構なことだ。だが「教訓を与える」ことは、本当に道徳観念の涵養に益するのか。


 国語教育の目的は、国語力の伸張である。「適切な」読解をめざした結果、それが娯楽であれ芸術であれ、楽しんだり感動したりできれば重畳、それは余録だ。それを目的にしてはならない。

 道徳観念の涵養に益する教訓が得られるのも同様。文学はむしろ常識的な「教訓」の破壊を目論んでいるかも知れないのだ。文学に触れることが必ず道徳観念の涵養につながることを期待してはいけない([羅生門]がそうであったように)。


 まずは「読解」だ。その先の感動やら教訓やらといった余録は、僥倖であり恩寵である。


 ところで「山月記」を読むのは、ある意味では、それ自体が目的でもある。

 「山月記」は、「文スト」でもおなじみ、日本人にとっては広く人口に膾炙した作品だ。

 というのはこれもまた「羅生門」と同じく、教科書の定番だからであり、高校を卒業した人たちが高い確率で読んでいる。みんなもこれで多くの日本人の仲間入りをするわけだ。

 今回もまた、家庭で親御さんと、兄姉と、これから授業で「山月記」を読むのだと伝えて話題にして欲しい。

 「山月記」は日本人にとって、みんなにとってどのような小説でありうるか。


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