「物語るという欲望」を読めば、冒頭近くの「モジューヒンの実験」が「真実の百面相」と重なることはすぐにわかる。
同じモジューヒンの表情が、見る人によって「苦々しさ」「微笑」「悲しみ」に見える。同一の顔が、見る人の中で「百面相」に解釈される。
映像の「意味」は観客による「主体的な読み込み」によって作られたものだと内田は言う。
この主張は「読む行為」では「すべての読み手はそれぞれ固有の仕方で物語に関わっており…無数のファクターが、読み手の『読み方』に関与する」と述べられている。映画の二つの映像の「間」に生ずる意味も、テクストと読み手の「間」に生ずる意味も同じだ。
そうした「意味」について、大森はそのどれもが「真実」であると言う。もともと単独の映像であれテクストであれ、そこに固定的な・客観的な・唯一の「意味」があらかじめあるわけではない、といっているのだ。
この「意味」を生成する「主体的な読み込み」=「解釈」を内田は「物語る」という言葉で語る。つまり「物語られたもの」=「物語」は、「読む行為」における「読み」であり、「真実の百面相」における「真実」であり、「思考の誕生」における「思考」だ。
そしてこの「物語る欲望」は、対象の「意味のわからないところ」=「何もないところ」に生ずるのだと言う。わかっている対象はわかっているのだから、それ以上の解釈を必要としない。だが「わからない」とき、我々はそこに「橋を架ける」ことで「わかる」ものにしたいと欲望する。
「読む行為」ではこの「何もないところ」についての言及はない。「真実の百面相」では、岩だとか人だとか、わかる前の対象がいわば「わからない」ものなのだろうが、それが主題化されているわけではない。
この点について主題化しているのが「思考の誕生」だ。
GW前に「何もないところ」=「他人性」という点だけは、いわば「種明かし」として共有してしまったが、後からこのことを後悔した。ここを明かさずにGWに入ってしまえば、そこにたどり着いた人とそうでない人の差が出て面白かったのだろう。だが明かしてしまったので、小論文はそれだけ「団栗の背比べ」になってしまったかもしれない。
この点こそ、最も論理把握力と思考の柔軟性が必要とされる部分であり、自力でここに気づいた者は高い読解力を持っていると自信を持っていい。
さて、まずは上記を対応させた単文をつくってしまうのが、頭の整理整頓には簡便。
- 思考は他人性から生まれる。
- 物語は何もないところから生まれる。
これを頭に留めて論を展開する。