いくつかのクラスで触れたが、その余裕のなかったクラスもあったので、ここに書き留める。
芥川本人が「羅生門」について書き残したメモが見つかったのは30年ほど前で、公開されたのは今世紀に入ってからなので、これを元にした「羅生門」解釈はまだあまり一般的ではない。
Teamsにはアップしてあり、論考を提出する気のある人は目を通すことを勧めたのだが、読んでいる人は少数らしい。
原文は英語で書かれている。これはその「Defence for “Rasho-mon”」を和訳したもの。
「羅生門」への弁明
「羅生門」は私の人生観の一端を具現化しようとした短篇である。(略)ここで私が扱いたかったのは「モラル」である。私の考えでは、「モラル」(少なくとも、“moral of philistine”=「教養のない俗物のモラル」)は時々の情動や気分の産物であって、それもまた時々の状況の産物である。
芥川は「羅生門」の主題を「moral」だと言う。
そうだということは、素直にのみこめるだろうか?
「エゴイズム」がスキーマであるように、「moral=道徳」もやはりスキーマだ。だから「モラル」という言葉を使って、ある「羅生門」理解=ゲシュタルトを顕現させることはできる。
これを「エゴイズム」というスキーマによるゲシュタルトと一致させてみよう。
「モラル」と「エゴイズム」は馴染みの良い言葉だ。「生きるための悪は許されるか」というのは確かに「道徳」的な問いに違いない。
通常「道徳」と「エゴイズム」の方向性は反対だ。だから「生きるためのエゴイズム」が許容されるということは、「道徳」が否定されるということだ。
これは一体何のことを言っているのか?
そもそも「エゴイズム」とは何のことか?
言うまでもなく引剥ぎのことだ。引剥ぎという行為の根拠となる論理のことだ。己の必要の為に他人の物を奪う原理だ。
では「モラル」とは具体的には「羅生門」の中の何を指しているか?
この問いに適切な答えが提出されるまでに妙に手間がかかったのは、頭からの論理の辿り方のせいで、みんなが「引剥ぎ」と「道徳」を結びつけようとしていたせいだろう。「引剥ぎ」は上の通り「エゴイズム」に対応している。
では、というと老婆に対する「憎悪」が挙がる。間違ってはいないが、いやそれより前に、まず物語冒頭で下人が盗人になることを躊躇うことを指していると考えるべきだ。
悪を為さないことで飢え死にの可能性があるのに迷っているのは「モラル」があるからだ。死人の髪の毛を抜く老婆を憎悪する心理はその延長にある。
なぜそうした「モラル」を芥川は否定するのか?
芥川のメモは、一度「モラル」と書いてから「少なくとも“philistine=ペリシテ人のモラル”は」と言い直している。「ペリシテ人」とは「教養のない俗物」を指す慣用表現だ。「知識人」が一般大衆を見下すときにつかう形容だ。
芥川は、世間の人が口にする「モラル」を皮肉って、「俗物の道徳」と呼ぶ。
「俗物の道徳」がどうだというのか?
「俗物の道徳」は「時々の情動や気分の産物」だと芥川は言う。
だからフラフラと変化する。生きるためには仕方がないという「老婆の論理」を得たとたんにあっさりと「意識の外に追い出され」てしまうほど浮薄なものだ。
「ペリシテ人のモラル」が主題であるとは、そのような芥川の道徳観を下人の行為を通して表わしているのだ、と理解することができる。
これは「エゴイズム」を主題とする「羅生門」把握と一致する。
本来であれば悪であるはずの「エゴイズム」が、生きるためなら正当化されるというのなら、それを断罪するはずの「モラル」など、上記のように脆弱なものだという認識と一致する。
さてでは「エゴイズム」をスキーマとする「羅生門」解釈ではなく、「観念」をスキーマとする「羅生門」読解と「モラル」というスキーマによる読解は一致するのだろうか?
「羅生門」とは、空疎な観念による幻想から醒めて現実を認識する話、だ。
つまり「ペリシテ人のモラル」、つまり世人の「モラル」こそ、空疎な観念の上に載っている脆い物だと言っていることになる。
「モラル」とは「善」と「悪」をめぐる価値の対立だ。だが人々の言う「モラル」など、頭の中にある図式に過ぎず、それが現実ではなく空疎な観念でしかないから「時々の情動や気分」に容易く左右される。
例えば下人の心に突如燃え上がる異様な「憎悪」はモラルの表れだが、その歪なありようを通して、我々の持っているモラルの歪さを描く。
そのようなモラルが「観念的」だということが自覚されることで、盗人になることを止める力を失ったということが、結末の引剥ぎの実行で表現されているのだ。
ということで「観念」をスキーマとする「羅生門」理解は、そのまま「モラル」をスキーマとする「羅生門」理解に適用できる。
「モラル」は「極限状況」と「老婆の論理」に敗れたのではなく、その観念的な脆弱さによって否定されたのだ。