2026年4月8日水曜日

思考の誕生 1 具体的な体験

 今年度最初に読むのは蓮實重彦「思考の誕生」。

 こんな、教科書の後ろの方にある文章を最初に読ませたいと思うのにはそれなりにわけがある。

 教科書の最初の文章は、年度当初にふさわしいメッセージ性をもったものが意図的に置かれている。昨年の教科書冒頭の「木を見る、森を見る」は、いろいろな視点から世界を見てみようという、高校1年生に向けたメッセージだった。読んだのは年度のすっかり後半になってからだったが。

 ところがこの教科書冒頭の「アイオワの玉葱」に、これからこの教科を学ぶ高校生へのメッセージがあるのかどうか、よくわからない。この授業でも後で読むつもりではあるのだが、論旨は「視点を変える」シリーズではある。メッセージ? まあメッセージは受け手の問題でもあるから、全ての文章にメッセージを見出すことは可能ではあるのだが。

 というわけで「思考の誕生」を最初に読むのは、そういうメッセージのある文章だからでもある。

 どんなメッセージ?


 論旨は「自分で考えること」が重要だと世の中では言われているが、そんなのは歴史的な無知の表れで、危険だ、といったところだ。

 これはいったいどんなメッセージなのか?


 この文章が書かれたのは蓮實重彦が東大総長だったときで、これは東大新入生へ向けたものだ。文中の「教育の場」とか「在学中」とかいう言葉は東大生が送る東大ライフを想定している。

 そこで総長は「自分で考えること」などたかがしれている、と言う。

 東大生にこれを言うことの意味は、よくよく噛みしめるべきだ。東大生よ、お前たちが自分の頭で考えたことなどたかがしれていると自覚しなさい、というのだ。手厳しい。

 ではどうしろと?


 「自分で考える」ことは何と対比されているか? 「自分で考える」がダメなら何が良いのか?

 肯定/否定 の対比で表すと?

自分で考える/他人から教わる

 これはつまり「謙虚のススメ」なのか?

 だが単にそんなことを若者に言っても耳にタコができているような聞き飽きたお説教にしか感じられまい。

 蓮實の言っているのはそれとはちょっと違う。

「他人の考え」を「自分の考え」としてうけいれることではありません。

とはっきり文中で言っている。

 蓮實の言っているのは次のように表現されるべき対比だ。

自分ひとりで考える/他人とともに考える


 蓮實の言っているのは「他人とともに考える」ことのススメであり、それは「具体的な体験」なのだと言う。

 こうしたメッセージは、当然授業者もまた東大生ならぬ君たちにも送りたい。1年生ならぬ2年生にも、また。

 授業は、教師の言うことを聞いて、それを覚えたり理解したりする場ではない。

 といって自分一人で考える場でもない。

 受け身でなく能動的に「考える」ことを日頃から奨めてはいるが、それは蓮實の言う抽象的なお題目ではなく、隣の席の級友と一緒に作り上げる具体的「体験」だ、と言っているのである。

 例えば授業とはそれが期待される「場」だ。


 そのために必要な姿勢とは何か?

 ここがこの文章のミソなのだが、それが何かわかるだろうか?


2026年4月6日月曜日

新年度 総合現代文

 2026年の授業を始める。

 科目名は「総合現代文」。文科省の学習指導要領にはない科目で、学校が独自に設定した科目だ。

 教科書は筑摩書房の「論理国語」と「文学国語」。これが文科省の定める科目名なのだが、両方を履修させるのは「標準単位数」に反するのでできない。といってどちらかだけを履修させるのは惜しい。そこで、本校では両方の教科書を使った独自科目にしたわけだ。

 昨年度は「現代の国語」という科目を「現国」、「言語文化」を「言文=ゲンブン」という略称で呼んでいたはず。だが、授業者にとって「ゲンブン」とは2022年からの新教育課程になるまで長らく「現代文」を指していた。昨年は「ゲンブン」といえば「言文」、つまりは「古典」のことだったのに、今年はまた「ゲンブン」が「総合現代文」のことを指し、「古典」はそのまま「コテン」と呼ばれることになるのだ。

 そして1年生との間では「ゲンブン」が指す科目は違ったものになってしまう。

 まぎらわしい。


 ブログ名はそのままに、これから2年間は「現代文」について書き綴っていく。


 去年の授業について少々。

 3月の生徒総会で「熟議をこらす」ことと「円滑な議事進行」の相克について話した。

 この二つは「時間がかかる/かからない」という反対の方向性をもっている。だがどちらかが大事なわけではない。どちらも大事だ。

 本当の対立は「熟議をこらす」ことと「拙速に結論を出す・議会が形骸化している」であり、「円滑な議事進行」と「停滞・混乱した議事進行」だ。

 だから「熟議をこらす」と「円滑な議事進行」は反対の方向性なのにどちらも大事なのだ。

 授業でも似たようなジレンマを感じていた。

 次々と文章を読んで、さまざまな問題を考えたい。

 だがじっくりと考えたい。

 時間のかかり方という点では相反する方向性をもった二つの希望だ。

 もちろん両方大事なのだから、どちらかといわずバランスをとるしかないのだが、せめてみんなには次のことを期待したい。

 授業中に対峙するいくつもの問題点について、常に「じっくり考え」てはきたものの、時間がいつも足りなかった。

 そういうとき、常にその時点での、自分なりの結論が表現できるところまでまとめきることにこだわってほしい。毎度毎度、最後のところで誰かが(授業者が)結論を言って終わってしまうことに流されないでほしい。

 ひとつひとつの考察を、次の考察に使う武器として、確実に装備していってほしい。


2026年3月4日水曜日

視点を変える23 人工知能3 言語が見せる世界

 さて「物語」と言えば、もう一つの文章、野矢茂樹「言語が見せる世界」と接続する。

 この文章の「問い」は何か?


 「相貌とは何か?」「概念とは何か?」などの問いも文中には明示されているし、これらはもちろん重要な問いではある。「プロトタイプ」も気になる。

 だがそれらの問いがどこから生じたかと言えばこれだ。

我々は世界をどのように見ているか?

 この答えは?


通常は「物語」において見ている。

というのが端的な答えだ。

 とすると、これは松田の論と共通していることが明らかだ。人間が椅子に座れるのは「椅子に座る」という行為を「物語」として生きているからだ、というのが松田の主張だった。

 そしてその「物語」は身体によって成立する、というのだが、野矢茂樹は「物語」を論ずるのに身体を持ち出さない。言葉がすでに「物語」を携えているのだ。

 当然だ。言葉は単体で宙に浮いているわけではなく、前後の文脈の中で使われ、理解される。それはすなわち「物語」の中にあるということだ。

 となればますます現在のAIは「物語」において「椅子に座る」ことを捉えるに違いない。

 やはり人工知能は椅子に座れるのである。


 さて、ここまでの「視点を変える」の流れに、この二つの文章も位置付けよう。

 「言語が見せる世界」という題名は、もうそのままおなじみのソシュール言語学だ。我々は言葉によって世界を認識する。

 ここでは、言葉はスキーマでありメディアだった。

 一方「人工知能はなぜ椅子に座れないのか」には次のような文章がある。

例えば、…初めてこの世界と対峙することになる赤ちゃんは、この世界を知るために、…彼ら(彼女ら)は、手足をばたつかせながら、「周囲の環境に何があるか」を発見するでしょう。それと同時に、「自分自身の身体がどのようなものであるか」を発見するでしょう。/無限定な空間において、私たちは、周囲の環境という「場」と、自分自身の身体を基準とする「自己」とを、順次、理解していくのです。

 これはつまり、身体はメディアであると言っているのだ。つまり身体も言語同様スキーマでありフィルター(フィルターバブルにおける)だ。

 そういえば「言語が見せる世界」と「メディアがつくる身体」は文構造が同じだ。つまりそっくりパラフレーズできる。言語が(メディアが)見せる(つくる)のは、世界「観」のことであり、身体「観」のことだ。

 身体「観」ということはゲシュタルトでもある。

 スキーマでもありゲシュタルトでもあるというのは、思い出してほしい、「地図」もそうだった。もちろん地図もメディアだった。


 我々は言語を通して、身体を通して、地図を通して、メディアを通して世界を認識する。それぞれの「世界」は、それぞれのスキーマによって様々だ。そのゲシュタルトがそれぞれの身体「観」であり、世界「観」であり、それを表現した地図なのだ。 

 スキーマがゲシュタルトをつくり、できたゲシュタルトはスキーマとして機能する。スキーマとゲシュタルトは循環する。

 授業を通して文章を理解するとは、つまりゲシュタルトが生成された(ダルメシアン犬が見えた)ということだ。

 それが次に読む文章を理解させるスキーマとして機能する。


視点を変える22 人工知能2 反論

 「人工知能はなぜ椅子に座れないのか」という問いは「座れない」ことが前提されている。だがその前提には素朴な疑問が生ずる。

 ロボットに、椅子に座るようプログラムする。姿勢制御などの工学的な課題がクリアできるならば、ロボットは椅子に座れるだろう。工場のラインなどでロボットアームが複雑な作業をするのはもう数十年前から可能だった。

 これは「座れる」ことにはならないのか?

 この疑問に松田は、それは座れていることにはならない、と答えるだろう。だがどういう理屈で松田はこの実例に反論するか?


 ロボットが自主的・主体的・能動的に座っているわけではないという反論は無効だ。

 この例では、その行為が自主的であるかどうかを問題にはしていない。ロボットにはそもそも座りたいなどという動機はない。人間に対して「座って」と言ってその人が座るとしても、それは「自主的」ではない。

 問いは「なぜ座らないのか?」ではなく「座れないのか?」だ。

 では?


 「コミュニケーション」から話を始め、「意味」について考察する本論の展開では、単なる行為の実行ではなく、「座らせよう」という「意図」がロボットに理解できるかどうかが問われている。

 そうしてみると、やはりロボットは「座れる」ように思える。「コミュニケーション」とは、こちらの送った信号によって相手の振る舞いが変化することを言うのだと本文に書いてある。座るようにプログラムしてロボットが座ったら、それはコミュニケーションが成立していることになるはずだ。振る舞いが変わったのだから、「意図」は伝わっている。

 なのに松田はなぜ「できない」と言うのか?


 それはAI自らが「意図」して座ろうとしているのではないからだ、という反論は有効か?


 だが本人に「意図」があるかどうかが、なぜわかるのだろう?

 「座る」という動作ができてしまえば、それは「意図」があったということなのではないか? 彼は座ったが彼には座る意図はない、などということがなぜ言えるのか?


 だからここは本当にAIに「できない」例を挙げればいいのだ。

 例えば授業で挙がった例では、面接会場でロボットに椅子に座るよう促してロボットは座ったが、面接官の方を正しく向いていなかった、などという例。これはうまい。「適切に座る」ことはできない。自然さの判断ができない。

 では「面接官の方を向いて」と指示の中に記述すればできるのか?

 それはできるかもしれない。だが、椅子が複数ある部屋で「どれでもいいから座って」は難しいかもしれない。

 円筒形のスツールやソファしかない部屋で「椅子に座って」も難しいかもしれない。

 あるいは「適当にどこか座ってて」も。


 こういう例が挙がれば、動作として「座る」ことができるロボットでも、指示や命令によって「座る」ことができない、つまり命令の意味が理解できない場合が示せる。


 さて、さらに反論。今度は松田に対して。

 松田の論の趣旨がわかったとして、それでもやはり現在のAIは椅子に座れるのでは?

 この反論は「物語」とは何か? という問題に関わっている。

 「椅子に座る」ことが理解できるということは「椅子に座る」という「物語」を生きることができるということだ、それには身体が必要だ、というのが松田の論の核心だ。

 「物語」?


 物語と言えば、今年読んだ文章では「大きな物語」を想起したい。

 「大きな」は、多くの人に共有されている、という意味だが、「物語」とは何か? 

 それは言ってみれば、複数の要素がつながっている状態であり、それが、よくあるパターンとして学習されているということだ。典型的な連続性がそこに見られるということだ。次の展開が予想できる状態。

 ここから連想したいのは「メディアがつくる身体」の「予期の織物」だ。

 この考察はここ→にも書いた。

 「予期」とは「振る舞い」に対する「予期」だ。

(メディアは)自分が可能な振る舞いを変容させ、他人の振る舞いに対する予期を変容させ(る)

 こういうときにはこう振る舞うものだ、という「予期」が働くのが「社会的身体」であり、これは昨今の生成AIのLLM(大規模言語モデル)の仕組みと同じだ。

 これはAIが「物語」を理解しているということであり、むしろそれは身体を通してというより言葉(や画像)を通して学習されているのかもしれない。

 松田は、川原の岩に腰を下ろすのは身体があるからだと言う。これはAIにはそれができないという前提で挙げられた例だ。

 本当にそうなのか?

 いや「川原の岩に腰を下ろして」という文章(言葉)を学習したAIは、岩を座れるものとして認識することができるに違いない。

 現在のAIは、身体にとっての必要性を介することなく「物語」を理解できるはずだ。


 「振る舞いを変容させる」などというフレーズがあると、もっと時間があれば「メディアがつくる身体」と「人工知能はなぜ椅子に座れないのか」を読み比べよ、と投げ出してしまうこともできたのに、と終わりが迫った年度末の授業の余裕の無さが残念ではある。


視点を変える21 人工知能1 読解メソッド

 松田雄馬「人工知能はなぜ椅子に座れないのか」は、いくらかカットしたものが「ちくま評論入門」にも収録されている。これを野矢茂樹「言語が見せる世界」と読み比べる。松田は理系の研究者、野矢は哲学者。人工知能と言語。どうつながるか?

 そしてこれもまた「視点を変える」の流れに位置付けられることも意識して考えていこう。


 まず「人工知能は~」。

 今年度、何度も実行した読解のメソッドは「一文要約」「問いを立てる」「対比をとる」だ。

 このうち「問いを立てる」にしたがっていえば、これはもう題名が問いの形になっている。

 だが読んでみると、この問いは裏にもう一つの問いを隠していて、どちらかというとそちらの方の問いにこそ重点があることがわかる(わかってほしい)。

 その裏の問いを明らかにするには「対比」の考え方が有効だ。

 この文章のメインの対比は何か?


人工知能/人間

 これが最重要の対比であることがわかれば、裏の問いも明らかになる。

人間はなぜ椅子に座れるか?

 これらの問いに、最も端的に答えてみよう。


 授業ではまず「目的」「意図」「意志」「意味」「物語」などの言葉が挙がると面白い。これらの「ない/ある」は確かに「椅子に座れない/座れる」ことの理由ではある。

 だがこれらより根源的な理由があり、すぐにそこにたどりつくのは国語力が高いことを表している。何?

    身体がない/あるから。

 すぐにこう想起できたろうか? (誰かがすぐにこれを挙げてしまうと考察が進みすぎてしまって勿体ない)

 「身体」のあるなしが最も根源的であることがわかるだろうか?


 「意味がわからないから座れない」は正しいが、これは「どうしたら意味がわかるのか?」という問いを導き出す。その答えが「身体があるから」だ。

 「身体がないから意味がない」とは言えるが、「意味がないから身体がない」とは言えない。だから「身体」の方が根源的な原因なのだ(もちろんこれはこれで「なぜ身体がないと意味がわからないか?」という問いにつながり、それにも答えられるように読解する必要はある)。

 これで文章を読むためのスタートとゴールが確認できた。

 とはいえまだこれはスタートとゴールであって、この、問いと答えの間がどのような論理で結ばれているかを辿れてはじめて読解できているといえる。

 ついでに「一文要約」もこれでできている。「人工知能が椅子に座れないのは身体がないからだ。」「人工知能は身体がないので椅子に座れない。」といえば、確かにそういうことではある。

 だがこの文章の場合、これでは何のことやらわかりにくい。論理の飛躍があるように感じる。

 それでもこうしたメソッドは意識してでも使う。使ったときと使わないときの理解度には大きな差がある。使おうとすることが頭の使い方を集中させる。次には「椅子に座れない」と「身体がない」の関係を把握することに頭を使えばいい。

 さて、身体を持っているから椅子に座れる(身体がないから椅子に座れない)とはどのような論旨なのか?


 論理展開を概観するために、さらに一文要約を応用する。

 この文章には1行空きで中段落が示されているから、その区切りで1文にする。ただし、3段落目は長いので2文にする。計4文。

 1,2段落はひどく要約しにくい。そしてさらに、1段落から2段落への論理展開がよくわからない。

 それでもなんとかやってみて、さて、3段落に入ると、最初にこんな文章がある。

「コミュニケーション」とは、シャノンらによると、相手に信号を伝え、「意図」を伝えることで、相手の振る舞いを変化させるということでした。そして「意図」とは、自分自身の目的のようなものだと考えられます。ここからは、「椅子」を通したコミュニケーションについての考察を更に深めることで、振る舞いが変化していく様子について理解し、更に、生命が生きるということがどういうことかについて論じていきたいと思います。

 なんだ。本人がここまでをまとめている。前半は1,2段落の要約になっていて、後半が3段落の予告になっている。

 ここらでこの文章の問題点が見えてくる。

 この文章は、そこここで問いの投げかけやそこまでの「まとめ」が挿入されて、一見すると読者に対する気遣いの行き届いた、読みやすい文章のように見える。

 筆者である松田さん自身はそうしようとしている。だが実は論理展開はきわめてたどりにくい。その自覚は本人にはないだろうが。

 この、論理の辿りにくさが、例えば上の一節に現れている。

 上記の一節、1,2段落の要約を、いくらか形を整えて並べてみる。

  1. 「コミュニケーション」とは、相手に「意図」を伝えることで、相手の振る舞いを変化させるということである。
  2. 「意図」とは、自分自身の目的のようなものである。

 これが筆者自身による1,2段落の要約だ。

 これを続けて読んでも、論理展開は把握できない。それはこの1.2の「意図」の意味が全く違うからだ。

 それぞれ何を指しているか?


 違いを言うためにはむしろ言い方を揃える必要がある。「I was born」の「文法」と「蜉蝣」を対比するためには、「生まれる/生む」と言い方を揃える必要があったように。

 また、それぞれの「意図」がどういうことかを直接表現しようとすると話が抽象的な説明になってしまって、違いがわからない。

 そこでここでは「相手」「自分」「振る舞い」が何のことかを、ここでの例で特定する。何のこと?


 問題設定の「人工知能は椅子に座れるか?」からすれば、1の「意図」は座らせようとしている側の意図のはずだ。人間が人工知能の「振る舞いを変化させ」ようとしているのだから。

 だが2の「目的」「意図」は「椅子に座る」だから、「自分」とは座ろうとしている人、だ。上の問題設定をひきつぐなら、人工知能を指していることになる。

 端的に言うと以下のようになる。

1.AIを「座らせよう」とする人間の「意図」

2.「座ろう」とするAIの「意図」

 これは本当にひどい。重要なキーワードが、展開する中で全く違ったことを指している。これでは、論理がまともにたどれない。

 こういう、言葉の指し示すものが不統一なのに無自覚に論を進めているところが読みにくさなのだが、一方ではところどころで要約してみたり問いを明示したりして書き進めているところは、筆者なりには読者に配慮してもいるのだ。


 続けて後半を2文で要約してみよう。

  • 生物は身体によって世界を(対象を)認識する。
  • 生物は世界を(対象を)「物語」によって捉える。

 この長さにしてしまうと、何のことかちっともわからない。上の2文とつなげても、論理の展開がたどれない。

 試みにAIたちに要約させてみる。


Gemini

情報の真の意味は、受け手が送り手の意図を理解し、自身の行動を変化させて初めて成立する。人間が「椅子」を認識できるのは、身体を持ち、自らの人生という「物語」の中で「座る」という目的を即興的に作り出せるからだ。対して身体のない人工知能は、記号を処理できても行為の意味を理解できない。自らの意志で環境に意味を見出し、人生を生きるという行為は、現状では身体を持つ生命にのみ許された特権である。


ChatGPT

信号は受け手が意図を理解し行為に結びつけて初めて情報となる。椅子を形の特徴だけで定義しても例外が生じ、座るという行為の可能性を捉えられない。人間は身体をもち、疲労や作業といった目的を自ら生み出し、自己の物語の中で岩さえ椅子として意味づける。意味は身体と環境との関係の中で即興的に立ち現れるが、身体と物語をもたない人工知能は自ら意図を形成し意味を創出できない。


 これはかなりもっともらしく書き下ろされてはいる。だがやはり1文目から2文目にかけて、また前半と後半の論理的つながりがわかりにくい。これはつまり原文の問題がそのまま要約にも表れているのだ。

 とはいえ教材の文章は「わかりやすい」ことが第一義ではない。わかりにくいからこそ考察の対象として(つまり教材として)有効に働くということもある。



2026年2月27日金曜日

視点を変える20 地図3 グーグルマップ

 「グーグルマップの世界」でも、地図についての認識は若林と共通している。

 人は地図によって世界を、ある見方で把握する。縮尺によって、あるいは地図に盛り込まれた情報の種類によって。地図の中心をどこにするかでさえ、すでに世界の見方を示している。

 地図はメディアであり、スキーマなのだ。

 「グーグルマップの世界」は、そうした認識を元に、何を語るか?


 対比をとればはっきりする。基本的な対比、対比のラベルをまず見定める。

旧来の地図/グーグルマップ

 ここに、グーグルマップがどのようなものかを言うために、「~ではなく」型の対比を並べていく。

  社会/個人

  共有/個人化

見わたす/導く・追う

ひろげる/とざす

  相対/絶対

 こうした対比を使って、「グーグルマップの世界」の論旨を語り下ろしてみよう。


 グーグルマップというメディアは、世界の見方を「個人化」する。社会を見わたして自分の位置を相対化するはずの本来の地図の機能と違って、自分の世界をとざす方向に機能する。

 この問題は、文中でも言われているとおり、現在のネットメディア全般の問題でもある。

この「見たいものしか見ない」という態度に関しては、グーグルマップにかぎらず、パーソナライゼーションが進んだウェブのユーザー全般に当てはまる問題として、すでにメディア論において指摘されている。見たいものしか見なくなるということは、たとえば政治的な意見の形成という観点では、同じ意見をもった人びとだけで意見を参照し合うと、その意見が強化され、その延長線上にある極端な立場へとシフトしていく「集団分極化」を引き起こす。

 頭をなじませるために、この論旨を「フィルターバブル」「アルゴリズム」「エコーチェンバー」という言葉を使って説明してみよう。最近のネットメディアの問題を語る上で頻出の語・概念だ。

 これは単なる翻訳なのだが、言葉つまり概念は、辞書的な説明を覚えるより、「使う」ことで血肉化することが重要。

 後半が「エコーチェンバー」の話で、「同じ意見をもった人びとだけで意見を参照し合うと、その意見が強化され、その延長線上にある極端な立場へとシフトしていく集団分極化」がまさにそれ。

 「フィルターバブル」という問題はもうちょっと興味深い問題ではある。

 この文章は、グーグルマップのようなアルゴリズムが我々をフィルターバブルの中に閉じ込める、と言っているのか?


 そう言ってしまうことはあながち間違いでもない。

 だが一方でフィルターバブルの中にいることは、生物にとっての根源的な条件でもある。ことは単にネットメディアのアルゴリズムの問題に限らない。

 どういうことか?


 スキーマがないとゲシュタルトができない。それはそういう認識ができないということだ。とすると、我々の認識は、スキーマによってフィルタリングされていることになる。

 どんな生物だって、それぞれの感覚器官によって外界を知覚しているのだから、その器官がフィルターということになる。人間には見えない赤外線が見える生物もいる。超音波を聞く生物もいる。

 つまりフィルターバブルの中にいることから、生物は逃れられない。

 そこにグーグルマップのアルゴリズムがあらたなフィルターとして我々の認識のありように影響を与えるようになったというのがこの文章の主旨だ。

 それはどのような変化なのか?


 上の引用は一続きで言っている中で二つのことを言っているともいえる。

 「パーソナライゼーション」は文字通り個人化、つまりそれぞれが自分一人のバブルの中にいると言っていることになる。

 続く後半のエコーチェンバーの問題は、中規模のバブルに一定の人々がとざされているのだといえる。

 そしていずれも、アルゴリズムがそうしたフィルター機能を増幅させて、バブルの膜を強化しているということになる。


 とはいえ、「大きな物語」などという概念もまた、それが「大きい」とはいえやはりフィルターバブルの中に人々がいることを意味している。その物語を共有していない人はバブルの外にいるのだ。

 だから、地図にしろ言語にしろ、それらをフィルターとしたバブルは、それを使う人を同じバブルの中に囲い込む。それは比較的大きなバブルだ。

 そしてネットのアルゴリズムは、エコーチェンバーを引き起こすような大きさのバブルに、やはり人々を囲い込む。

 そしてグーグルマップのアルゴリズムはそのバブルが「個人化」していると言っているのだ。

 一人一人が自分一人のバブルの中に閉じ込められている。

 そしてそのことを自覚するのは難しい。


2026年2月15日日曜日

視点を変える19 地図2 スキーマ・ゲシュタルト

 さてこの文章にもソシュールが登場する。となれば言語と類比されているということだし、となれば「広告の形而上学」とも類比できるということになる。

 地図・言語・広告・貨幣。

 これらの共通点は何か?


 ここで先ほどの対比が登場する。

意味/記号

 これはすなわち、次の対比のことだ。

意味/言語

商品/広告・貨幣

 ということは次の対比もそれと類比的だということになる。

世界/地図

 これらはどのような意味で共通しているか?


 言語と広告と貨幣の類比は忘れてはいまい。そこではどのような論旨が語られていたか?


 とりあえず「恣意」「先後」について言おう。その際、普通はこう思われているが、実は~という語り方をする。文章が書かれるのは、常識に反することを言うためだ。

 「恣意」については「言語の恣意性について」で述べられていた「第一の恣意性」と「第二の恣意性」について、分けて言えればなお良い。


 「第一の恣意性」は上記の対比の左右の結びつきが恣意的だという時の恣意性だ。若林の文中にある、犬に対して「イヌ」とも「Dog」とも言える、というのがその例にあたる。

 「もの」の名前は必然的なものではなく恣意的なものだ。


 「第二の恣意性」は切り分け・分節化の恣意性のこと。

 虹は七色と言ってもいいが三色と言ってもいい。言語ごとに違う。虹の色の分節は何ら必然的ではない。


 これを広告や貨幣について言い、そのまま地図にも適用する。(広告・貨幣については

 すなわち、ある地域を表すのに、どんな地図でも描けるということだ。

 ここは例を挙げたい。どんなのを思い浮かべる?


 国土地理院が出しているような「ザ・地図」のようなものも、駅前の観光マップのようなものも、誰かに道案内するためにメモしたようなものでも「地図」だ。

 「ザ・地図」も、そこにどんな情報を盛り込むかは千差万別で、道路の接続を重視するか、土地の利用状況を記すか、土地の高低を表現する等高線を描くか、目的に応じて選ばれる。

 どの範囲をどの縮尺で切り取るかも自由だ。大抵の国では自国を中心にした世界地図を使う。あるいは、太平洋中心の世界地図か大西洋中心の世界地図か。南北が逆さであってもいい。


 では「先後」問題とは?


 普通は「もの」(意味)が先にあって、そこに後から名前(言葉)がつけられると思われるのだが、ソシュールは言葉が我々にその「もの」を認識させるのだと言う。

 商品に見合った価値の値段がつくのではなく、値段を見てその商品の価値がわかる。


 もちろん対象となる土地は物理的には既に存在する。

 だが我々は地図を通して、その土地を把握する。

 そういう意味で世界が先で地図が後なのではなく、地図が先で世界(の認識)が後なのだ。


 さて、これもまた「視点を変える」シリーズだということは、つまりスキーマとゲシュタルトの問題だ。

 まずはスキーマとゲシュタルトという概念の関係を確認する。これはつまり、一文をつくれ、ということだ。2種類以上。

 復習だ。迷ってはいけない。

  • スキーマが変わるとゲシュタルトが変わる。
  • スキーマにあてはめてゲシュタルトを構成する。
  • スキーマがないとゲシュタルトもできない。

 ここに地図を代入する。地図はスキーマか? ゲシュタルトか?


 勘の良い人はすぐわかるとおり、どちらでもある。

 どちらにもあてはめて、それぞれどのようなことを言っているのかが説明できれば良い。

 前の「メディアがつくる身体」に基づくと「メディア」=「スキーマ」=「地図」ということになる。文型を揃えてみよう。

  • メディアが身体観をつくる。
  • 地図が世界観をつくる。

 地図を通して人は「世界」や「社会」を捉える。

 これは、地図がスキーマであることを意味している。


 ここまでを総合していくと、言語・貨幣・広告・地図はいずれもメディアであり、記号であり、スキーマだということになる。

 そして、あるスキーマによってできたゲシュタルトが「社会的身体」であり地図だ。それらは実体ではなく概念・観念・イメージだとどちらの文中でも表現されていた。

 我々はそのようにして世界を、自分の身体を認識する。


視点を変える18 地図1 メディア・記号

 「ちくま評論入門」の松岡慧祐「グーグルマップの世界」を、若林幹夫「地図の想像力」と読み合わせる。

 共通項は「マップ=地図」だ。

 どんな論旨が共通して、それぞれにそこからどこへ論旨が発展しているか?


 まずは共通した論旨。単文で、しかも2文節の1文で言おう。

 主語と述語はそれぞれ何か?


 いろいろな言い方が考えられるが、2文節ということである程度は限定されてくる。なおかつ、前の文章からの流れを引き継いで、次のような文にしておく。

地図はメディアだ。

 どういうことか?


 解釈して作文するというより、それぞれの文中に、こうした記述が見つかる。だから、こうした一文が自然に想起されることが望ましいが、一方で、提示されたときにそれが説明できるようになっていることも必要だ。

 「メディア」とはもちろん「マスメディア」のことではなく、原義の「媒体」、つまり「媒介するもの」だ。

 地図は何と何を媒介しているか?


 人と世界あるいは社会を。

 地図は人と「世界」「社会」を媒介するメディアなのだ。


 この共通論旨を元に、それぞれの文章の論旨をみていこう。

 まず「地図の想像力」は、対比をとっていく。見出しで区切られた段落ごとに対比をとると、おおよそ次のような対比が見つかる。

写し取る/表現する

  複雑/単純

すべて・そのまま/まばら

そのもの/イメージ・概念

  内容/記号

  再現/意味

 これらを一直線上に書き出していくと、最初のうちはいいが、後半になって妙なことに気づく。

 「記号」は「意味」と対比されることが多い。なのにいずれも右にある。

 あるいは「内容/記号」というときの「内容」とはすなわち記号が示す「意味」のことだ。「意味」が左右のどちらにも出てきてしまう。

 それどころか、この文章の前半には次のような対比も出てくる。

 現前/再現

 これは上記の

 再現/意味

 と、どういう関係になっているのか。どちらも「~ではなく」型の対比だというのに。


 用語が厳密に選定されていないという意味では、これは若林の不注意でもあるが、それぞれの対比で言いたいことはそれぞれの文脈でわかるからいいのだ、とも言える。

 「地図は現前ではなく再現だ。」というときの「再現」は「表現」の言い換えであり、「現前」は「写し取る」の言い換えだ。

 一方「地図は再現ではなく意味だ。」という時の「再現」は上の「写し取る」「現前」のことであり、「意味」は「概念」や「解釈」に近い。

 混乱するからやめてほしいとも言えるが、このとおり、それでわかるようになっている、とも言える。


 さて「意味」が左右どちらにも出てきてしまうのは、もうちょっと厄介な問題ではある。

 とはいえ実は単なるミスリードでもある。

 列挙した対比は、いずれも「地図は」という主語に対して、右辺が述語になる対比だ。

 ただし、「意味/記号」以外は「ではなく」で左右が接続されるような対比になっているのに対し「意味/記号」は「地図は意味ではなく記号である」と言っているわけではない。したがって、それ以外の対比とは、対比軸が違っているのだ。

 単純には次のように書ける。

再現/意味/記号

 この二つの軸それぞれが文中にあるのだ。

 最も単純に言えば「地図は世界そのものを再現しているのではなく、それを解釈した意味を表す記号である。」という一文に翻訳できる。

 この「記号」を単に「地図記号」のことだと狭く理解してはならない。言語と地図が類比されているのだから、地図そのものが記号であると言っているのだ。

 記号とは何か。何かを表すもの、だ。地図は何を表すか。地表の姿を、世界を、表している。だから記号なのだ。


2026年2月1日日曜日

視点を変える17 メディアがつくる身体6 予期・義体

 さて、メディアが「つくる」のは「社会的身体」だった。この概念については、気になる表現が二つある。

 まずは、先に予告した次の一節。

社会的身体は(…)予期の織物のような存在である。

 「社会的身体」は、文中で何度も言い換えられているが、その中でもこの比喩はとりわけ含蓄があって「わかる人にはわかる」感じの表現になっている。これを説明してみよう。

 合わせて、具体例を挙げることも要求した(が、これがまた厄介だった)。

 まず、「織物」は比喩だ。これは何かが幾重にも組み合わされている様子を表しているのだろう。

 問題は「予期」だ。どこから出てきた?


 読解は、文中の情報を相互に結びつけることから始まる(そしてそれを構造化する=ゲシュタルト化する)。

 文中の他の表現と「予期」を結びつける。

 どんどん挙げて、と言って、何カ所も挙がるのは好ましいことだ。一人で何カ所も見つかるのは読解力が高い証拠だし、クラスで何カ所も挙がるのはそれだけ授業に対してクラス全体が活発であることを示している。

 例えば次のような一節。

  • あるコミュニケーション環境に適応するためには、さまざまな作法や慣習を身につけたり…
  • メディアを通じた特定の振る舞い方が学習されていく
  • そうした振る舞い一般化する
  • 「拡張された能力」が存在することを前提とする
  • 社会的に埋め込まれた「約束」になる

 これら「作法・慣習」「学習」「一般化」「前提」「約束」、あるいは「特定の」「文化的」などと「予期」は響き合っている。


 「予期」は「予期する」と動詞化できる。この場合、誰が何を「予期する」ことを言っているのか?


 がしかし、そもそも「予期」はもう一カ所、文中に登場するのだった。

(メディアは)自分が可能な振る舞いを変容させ、他人の振る舞いに対する予期を変容させ(る)

 もちろん「他人の振る舞い」だけでなく自分の振る舞いも「予期」される。それは「学習」され「一般化」した「約束」として「前提」されている「作法・慣習」だからだ。

 「社会的身体」とは、そのように「予期」された振る舞いをする存在なのだ。

 そうした振る舞いの例で挙げることにまた難渋した。ちっとも「振る舞い」でもなく「身体」でもない例を思い浮かべている者が多くて。

 「身体的」な「振る舞い」であり、「学習」された「文化的」「作法・慣習」の例を挙げることがそんなに難しいか?

 例えば、すれ違うときに会釈を交わし合うこと。相手に会釈をされたら、こちらもしないでいるのは居心地悪いと感じること。

 例えば日本家屋に上がるときには玄関で靴を脱ぐこと。外国人にはこの「予期」がはずれるかもしれない。

 これでは「メディア」っぽくないので、メディア的な例を挙げよう。みんながすぐに思い浮かべたのは、LINEの通知に既読スルーにならないよう、スタンプなりのリアクションを送ることだった。ただちにリアクションを返すという「振る舞い」が「予期」されているのだ。これはその前のEメールとか、さらに前の郵便による手紙では「予期」されない。

 あるいは画面の死角を見たいと思ったら思わず指でスクロールしてしまうこと。古いカーナビや多くのテレビ画面ではこれができないのがもどかしい。


 この段落の最初に生物学的身体は「もの」で、社会的身体は「言葉」だとある。「言葉」はわかりにくいが、実体を持たない概念として「観念」「イメージ」と並列していいのだろう。

 図らずも「言葉」と「予期の織物」が並ぶと、最近のホットな話題として連想されるものがある。LLM(大規模言語モデル)だ。

 これは生成AIが自然言語を操る仕組みのことだ。AIは、ある言葉の次に来る言葉(続く確率が高い言葉)を「予期」して、次々と言葉をつないでいく。たったそれだけで、自然な文章を書く。予期に反したら「不自然」になる。

 我々の振る舞いもほとんどは予期されたものであり、それに反すると不自然(挙動不審)と感じられる。

 生成AIが、我々の社会的身体と同じ「予期の織物」であるというのは奇妙でいて腑に落ちる認識だ。


 さて予告したのはもう一カ所。これもまた「社会的身体」について表現した一節だ。

今や、全ての身体は、象徴的な義体なのである。

 「義体」という言葉をこの世代の人が使うときは、間違いなく「攻殻機動隊」がイメージされている(3:40のカットがとりわけ有名)。

 上の劇場映画版第一作の監督をした押井守がインタビューで答えている。

 ここで1:14:00あたりから押井が喋っているのは、まるで上記の荻上の言葉そのものだ(2分くらい聞いてみて)。

 我々の身体はもはや単に血と肉と骨でできた生物的身体ではなく、ネットにつながって「電脳」を駆使し、半ばはネットの中でも生きている。それがメタバースであれ、「ポケモンGO」で一般化したAR(拡張現実)であれ、現実そのものであれ、我々はそこで生物的身体としてだけではなく、メディアを通じて世界と通じ合う「社会的身体」をもつ。

 「象徴的な」の解釈が若干揺れる。とりあえず二つ考えてみる。

 一つは、軽い、「比喩的な意味で」くらいのニュアンス。現実に身体に機械を埋め込んだ文字通りの「義体」ではなく、「義体」みたいなもの(=比喩的)、という意味での「義体」だ、と言っている。

 もう一つは、そうした身体の在り方が社会の在り方を「象徴している」ことを表す。「象徴」と言えば「具体物が抽象概念を表す」だから、ここでは「社会」とか「時代」とかを表していると言えればいい。

 どちらもそれほど違いはないが。たぶん荻上はそれほど厳密な意味を考えてはいない。


 「木を見る」ことに2時間かけた。それぞれに興味深い考察が必要な箇所ではあったが、一方で時間がかかりすぎるとも言える。

 これは荻上の文章の問題でもあるが、みんなの国語力の問題でもある。それは単に「読解力」とか「理解力」という問題だけではなく、どちらかというと「説明力」というか「問題の整理力」とでもいった問題だとも思う。

 上で解説したような解釈を、ほとんどすぐに「わかっていた」人も多いと思う。だがそれをそのように班員で共有することができたかといえばそうではないはずだ。いわば「議論力」が問われている。

 このあたりは今後の課題だな、と年度の終わりに心に留めておく。


視点を変える16 メディアがつくる身体5 「想起/記憶」

 「ソクラテスの文字批判」に続く一節はますます謎をはらんでいる。

文字によって私たちは…長文を「記憶」する必要もなく、いつでも膨大な情報へとアクセスでき、メディアを経由して「想起」することができる(もちろんこの「想起」は単なるインプットではなく、外部化された「記憶」の検索作業でもあるのだが。)

 考察対象としたのは括弧内。たぶんスッと意味が入ってくる言い回しではないはずだ。括弧内の内容がというだけでなく、なぜそれを言う必要があるかが納得されなければならない。括弧の前の部分に対して、括弧内のことを付け加える必要があると判断したのだ。なぜ?

 だが一方で「もちろん」というくらいには、読者が「わかる」ことが期待されてもいる。わからねばなるまい。


 さてこの部分が「わからない」と感じるのはなぜか?

 わからないと感じるのはなぜか? と考えるのは「I was born」の読解の時にも試みた。説明とは誰か「わからない」と感じている人に対してするものだ。その「わからなさ」がどのようなものであるかがわからなければ、適切な説明はできない。

 この括弧内の「わからなさ」を解消するには、次の3つの疑問に答える必要がある。

  1. 「想起」は「思い出す」のだから「インプット」ではなく「アウトプット」ではないか?
  2. ここにある「ではなく」型の対比では、何と何が対比されているのか?
  3. 「想起」と「記憶」になぜ括弧がついているのか?

 これらの疑問が解消するように説明をする。


 まず1。

 「彼は単なる高校生ではない」という表現で、彼は高校生か否か? もちろん高校生だ。

 とすると、「『想起』は単なるインプットではなく」と言うのはまず「想起はインプットである」ことを前提に「単に」それだけではない、と言っている。だが「想起」はインプットなのか? という疑問。


 2。

 対比されているのは何と何か?

 「インプット/検索作業」に見える。だとするとこの文は次の二文の合成であるということになる。

a「想起」はインプットである。

b「想起」は検索作業でもある。

 単にa「ではなく」bでもある、と言っているのだから、少なくともaでもあるのだ。

 そうして前の疑問に突き当たってしまう。


 3。括弧は単に強調ではない。結果的に強調されているとはいえ、符号の機能は「引用符」だ。どうしてここにそれをつける必要がある?

 さて、1の疑問が生じてしまうのは、そもそも2の文構造の把握が間違っている。対比されているのはそれではない。

 何か?


 対比されているのは「インプット/外部化された」だ。

 これが並列されて「記憶」に係っている。文脈を読むにはこの「係り受け」を正しく把握することが重要だ。

 この文の係り受けが把握しにくいのは荻上チキの文章が不親切だからであって、ここは「インプット(された)記憶」と「外部化された『記憶』」が並列なのだと、(された)を補って考える必要がある。

 それが把握できれば、この文は次の二つの文の合成であることがわかる。

A.想起とはインプットされた記憶の検索作業である。

B.「想起」とは外部化された「記憶」の検索作業でもある。

 つまり、脳内に覚えている記憶を検索して思い出す(A)のが普通の「想起」だが、それに加えて、文字で記録した情報(=「記憶」)を検索する(B)ことも「想起」だと言っているのだ。

 こうして文構造を把握してしまえば、言っていることは別に難解なことではない。暗記してあることでもメモしておいたこと(=「記憶」)でも、必要な情報が取り出せれば事足りる。それを「想起」と言おうというのだ。

 解釈が済んでしまえば、きわめて日常的に経験する事例であって、何か特に、抽象度の高い、深遠な、複雑な話をしているわけではない。

 「わからない」のは、その内容が複雑だったり深遠だったりするからではなく、単に文構造の把握が未整理だからなのだ(それを把握させにくくしている荻上のせいでもある。が、これくらい読み取ってくれよ、と言いたいのだろう)。


 このことをなぜ言い添える必要があるかといえば、括弧の直前の「想起」がそういう意味なので、念のため一応ことわっておこう、という身振りを演じつつ、そのようなメディアを通じた「想起」概念の拡張に読者の注意を促したいからでもある。

 このあたりのニュアンスも読み取りたい。

視点を変える15 メディアがつくる身体4 ソクラテス・感情的メンテナンス

 さて、ここまでは一文要約、つまり「森を見る」から入ったが、「メディアが作る身体」では、「木を見る」の方にも考えるネタが豊富にある。

 荻上チキの文章は、「わかる人にはわかるだろ」といったレトリックに満ちている。クールで切れ味がいいが、嫌味だと感じる人がいるかもしれない。

 そういう箇所をいくつか取り上げて考えてみる。


 次の一節は?

ソクラテスはタモスの言葉を借りて、文字を「記憶の秘訣ではなく、想起の秘訣」であると批判したが…

 これはなぜ「批判」なのか?


 もう一つ、次の一節を考える。

「昔に返れ。」といった説教が、感情的メンテナンスの役には立っても、システム構築の代案としては常に無効だったように…。

 それぞれの一節を説明するのも、それぞれに難しい。

 ところでなぜこの二カ所を同時に問うか?

 関連付けられるのだ。

 両者はそれぞれどのような趣旨のことを言っていて、どのような関係があるか?


 後者は、具体例を出して説明せよ、という条件をつけた。

 評論文の一節がなんだか「わからない」と思っている時には、具体と抽象の対応が不明確であることが原因であることがある。抽象的な記述は、どのような具体例を想起すればいいかわからないと「わからない」と感ずるし、具体例が挙がっていても、それが示す抽象的な意味がわからなければ「わからない」。

 実はこの、具体例の一つがソクラテスなのだ。

 どういうことか?

 そして条件の「具体例」はソクラテス以外に、最近の社会状況からも出す、という条件。


 さてソクラテスの批判は、一体どういう趣旨の「批判」なのか?

 この言い方のわかりにくさの原因の一端は「秘訣」だ。「想起の秘訣」? 「記憶の秘訣」?


 「秘訣」などと言わず、「文字は記憶に役立つ」「文字は想起に役立つ」と言ってみる。そして前者なら良いのに、実際は後者なのが好ましくない、と言っている。 

 これはつまり、文字で記録すると、思い出すときには役立つから、むしろ覚えることの妨げになると言っているのだ。書いておけば良いと思うと、人は覚えておかなくなる。

 そして(ここから先は本文からは読み取れないはずなので調べてしまうと)、ソクラテスの文字批判は、そうして文字によって伝わる情報は、本物ではない、という趣旨につながる。曰く、真実は対話によってはじめて伝わるのであって、文字を読んでわかったような気になるのは人間を愚かにする、のだそうだ。

 さて、これがなぜもう一方の一節に適用されるか?


 「感情的メンテナンス」はまず、どういう人のどういう「感情」?


 この人は「説教する/される人」のどちら寄りに立つ人?

 しばらく話し合った後でみんなにこう問うと意見が二分したのは、こちらの狙い通りで、しめしめと思いつつも困ったものでもある。これはどちらかに一致すべき問いだ。 


 「昔に返れ」という言い方から「初心に返れ」という「お説教」を連想している人が各クラスにいるが、この言い換えは見当外れ。


 「感情的メンテナンス」を必要としている人とはどのような人か?

 これを的確に言えることが適切な理解の条件。

 「時代に乗り遅れている人」は悪くないが、この文脈に必要なくらいに、もうちょっと解像度高く。

 「新しいメディアを使いこなせないことに不安や劣等感を抱いている人」と言えればOK。


 つまりソクラテスは「『昔に返れ。』といった説教」をしているのだ。

 「秘訣」という言葉は、ソクラテスの時代には、文字がまだ広く一般人に普及してはいない「新しいメディア」であったという時代背景を表している。文字という新しいメディアを批判し、文字のない「昔に返れ」と言っているのだ。文字などを頼っていると、人は馬鹿になる、と。

 「昔に返れ」という説教が「説教」であるためには、それなりの一理がなければならない。だから、新しいメディアの登場によって起こるマイナスの面を挙げなければ「説教」として成立しない。

 だからソクラテスの文字批判にも一理ある。文字を使うと人は覚えなくなるし、真実が伝わらないことに無頓着になる。

 ソクラテスは文字を操る一部のエリートに脅威を感ずる人々の不安な「感情」を「メンテナンス」する。だが世界はその後、否応なく、文字を使った「記録・伝達システム」を構築していく。いったん手にしたメディアを人々は手放しはしない。


 さて最近の例では?

 最も想起しやすいスマホでもAIでもいい。そんなものを使っていると馬鹿になるという主張=「説教」は世の中にある。それは、そうした新しい技術を使えないで不安を感じている人を安心させる(=メンテナンス)。

 だがそんな主張は、新しいメディアを組み込んだ新しいシステムの構築には役に立たない。

 時代は否応なく新しいメディアを組み込んだシステムによって動いていく。


2026年1月27日火曜日

視点を変える14 メディアがつくる身体3 メディアとは?

 一文要約をすると全体はそれなりにつかめる。だがもちろん隅々までクリアに、というわけにはいくまい。

 例えば「メディア」とは何か?


 題名にもあるこの言葉は、それが何を指しているのかを明示しないまま2ページあまり論が展開していくから、それが指しているものが具体的にイメージされない人には、何を言っているかがわかりにくいはずだ。

 後半に入って、たとえばそれはPCだったりスマホ(ケータイ)を指しているらしいことがわかってくる。だから問題はスマホが普及したネット社会のことを言っているんだろうと見当はつく。

 だが文中で最初に「メディア」の例として挙がっているのは「そろばん・電卓・コンピューター」であり、「紙や電子媒体」であり、「文字や数字」だ。

 これらはどういう意味で「メディア」なのか?


 「メディア」という言葉を我々が日常で目にするのはこんな用例だ。

・ そのニュースは、あらゆるメディアで一斉に報じられた。

・広報として、各メディアにプレスリリースを送った。

・ 彼女は有名人として、頻繁にメディアに露出している。

・メディアの報道内容が、必ずしも真実であるとは限らない。

 この「メディア」に「そろばん」を代入することはできない。「そろばんに露出する」って何だ?


 ここではメディアという言葉がそもそもどのような概念であるかを確認しておく。

 メディアは「媒体」と訳されている。「媒介するもの」という意味だ。媒介されるものの多くは情報だ。マスメディアは情報源と大衆を媒介して情報を伝えるものだ。

 日常使用される「メディア」の大半がこのマスメディアのことなので、我々はつい「メディア」と聞くとテレビや本やインターネットを思い浮かべてしまう。

 だがそれでは「文字はメディアだ」というのが何のことなのかわからない。

 だがこの文中ではマスメディアも含む原義の・広義の「媒体」という意味で「メディア」という言葉を使っているのだと了解したうえで考えよう。


 「そろばん・電卓・コンピューター」がメディアというのはわかりにくい。これらは道具・ツールとでも呼ぶべきものではある。でもまあ計算しようとする人の意志、頭の働き、手の働きを計算結果に「媒介する」ものであるともいえる。


 「紙や電子媒体」は? そもそもそのまま「媒体」と言っている。

 こういう時は例を想起できるかどうが問われる。しかも、概念の層を揃えるのが肝心。

 「紙」は、そこに文字や図、絵などを書いて(描いて)情報を伝える(媒介する)ことができる。

 それに対応する「電子媒体」は?

 PCとかタブレットとかいうのは概念の層が揃っていない。

 メディアとしての紙には文字や図が書ける。電子媒体には電子情報が載せられる。となると…。

 古くはカセット・テープ、ビデオ・テープなどのテープ類。その後継としてのCDやDVDなどのディスク類。さらにはHDや、メモリスティックやSDカードなどのフラッシュメモリ類などが想起できればいい。


 では文字はどのような意味でメディアなのか?

 文字は人と人、過去と未来を媒介して、情報を伝えるものだから、確かに媒体だ。

 文中では文字と「数字」が並列されているが、これは的確な記述ではない。数字は文字の一種だから、「文字と数字」は「動物と犬」のような包含関係になっている。並列ではない。

 では、文字と並列されるのは、例えば何か?


 概念の「層」を揃えよう。「文字と数字」は層を混同している(大した問題ではないから荻上は看過しているが)。「数字」は、「数字以外の文字(漢字や平仮名、アルファベット)」と、同じ層に並ぶ。

 では、文字と並列されるのは、例えば何か?

 例えば話し合いの中であちこちで挙がっている「記号」も「文字」とは並列しない。文字は「記号」の一種だから、これも包含関係になってしまう。

記号>文字>数字

 「文字はメディアである」と言う場合、文字によって伝えられる情報とは言葉だ。人から人へ言葉を伝える手段として、文字と並んで日常的な場面で多用されるのは何か?


 そう考えれば自ずと想起されるのはだ。

 書いて伝えるか話して伝えるか。

 上の問いに、まず音声を想起できるできるかどうかは、「文字はメディアである」という命題を正しく把握できているかどうかの試金石となる。



視点を変える13 メディアがつくる身体2 スキーマとゲシュタルト

 ところで「メディアがつくる身体」は、「視点を変える」シリーズの流れで取り上げている。

 そうであることを納得するには、文型を揃えればいい。

 どんな文で表されるんだっけ?

視点が変わると世界観が変わる。

メディアが変わると身体観が変わる。

 どんなメディアを手にしているかで、世界の見え方は変わる。スマホが存在するのとしないとでは社会に対する振る舞い方は変わる。それは我々の世界観が変わることを意味する。


 さらに「視点を変える」シリーズということは、スキーマとゲシュタルトだ。何がスキーマ? ゲシュタルト?


 これも文型を揃えればいい。

スキーマがゲシュタルトをつくる。

メディアが社会的身体をつくる。

 題名がそのままそれを表している。

 つまりメディアによってつくられる「身体」がゲシュタルトだ。

 それはメディアのあり方に応じてそのあり方を変える。

スキーマが変わればゲシュタルトが変わる。

メディアが進歩すると身体イメージが変わる。

 次のような対応であることは以上のような文型の比較によって明らかだ。

視点=スキーマ=メディア

世界観=ゲシュタルト=社会的身体


 一方、「共に生きる」であるともいえる。

 どういうふうに言えばそうだと思えるか?


 例えば「共鳴し引き出される力」を思い出そう。

 能力というのは私一人が持っているものというより、周囲の人々との共鳴によって引き出されるものだった。

 同じように、この文章では、私の持っている能力は、メディアを使うことで、すなわち他人とのコミュニケーションによって形成されている。「社会的身体」とはそのような「能力」を持ったものだ。

 あるいは「ほんとうの〈わたし〉とは?」もいい。

 〈わたし〉とは完結した存在ではなく、他者とのつながりの中でさまざまな側面を持ったものとして存在している。そうした〈私〉を平野啓一郎は「分人」という概念で説明する。

 同様に、〈私〉は、メディアを介して世界・社会・他者とつながった存在だ。

 つまり「分人=社会的身体」なのだ。


視点を変える12 メディアがつくる身体1 一文要約

 「メディアがつくる身体」を読む。

 「鳥の眼と虫の眼」は「一文要約」や「問いを立てる」といったメソッドがまるで使えない文章だった。それでもう一つの常套手段「対比」をとっかかりとして文章を探ったのだが、それはそれで、だから簡単に読めるようになったとも言い難い。あれほど多様な対比が複雑に入り組んだ文章は珍しい。

 さて「メディアがつくる身体」はどうか。

 「鳥の眼と虫の眼」では歯が立たなかった「一文要約」は、こちらでは有効だ。

 一文で要約するというのは、その文章の主題材と結論を端的に、簡潔に組み合わせることを意味する。

 となると考えられる主語は何か?


 なんのことはない、候補となるのはまず「メディア」か「身体」だ。この安易な発想は有効だろうか?

 それぞれを主語とする一文を作ってみよう。

メディアは、その進歩にともなって人々の身体イメージを変える。

身体は人々が手にするメディアによって、そのあり方(機能・イメージ)を変える。

 ほとんど題名を文にしただけだが、確かにそういうことを言っている文章だ。

 試みにAIに依頼してみる。「メディア」「身体」以外の主語も考えるようにと条件を付けて、10個ずつ。


ChatGPT

1. メディアは、人々の欲望を拡張しながら社会的身体の在り方を組み替えていく存在である。

2. 社会的身体とは、メディアを通じて形成される学習された能力と期待の集合である。

3. 新しいメディアの登場は、生物的身体ではなく社会的に構築された身体像を変容させる契機となる。

4. 人々は、メディアによって外部化・拡張された能力を前提とする社会に適応して生きている。

5. 社会は、特定のメディアを使いこなす身体能力を人々に当然のものとして要求する。

6. メディアの利用は、一度社会に埋め込まれると後戻りできない約束として固定化される。

7. 身体の拡張とは、生物的進化ではなく振る舞いや期待や制度の変化として生じる現象である。

8. 現代の身体は、メディアによって機能を付加された象徴的な義体として存在している。

9. メディアをめぐる不安は、身体や精神が変えられるという想像を繰り返し呼び起こしてきた。

10. メディアが更新するものは、人々の行為だけでなく身体や世界に関するイメージそのものである。


Gemini

1. メディアは、人々の「社会的身体」を絶えず解体し構築する。

2. 社会的身体は、メディアを通じて獲得される文化的な身体イメージを指す。

3. 現代社会は、メディアによって拡張された身体能力を人々の前提とする。

4. 人間は、新しいメディアを使いこなすことで自らの身体機能を外部化していく。

5. 新しいメディアの登場は、社会が個人に期待する振る舞いや作法を変容させる。

6. 一度社会に埋め込まれたメディアの機能は、もはや容易に手放せない。

7. 私たちの身体は、メディアを伴うことで象徴的な「義体」へと進化する。

8. 社会制度の更新は、メディアによる身体能力の拡張を前提に進行する。

9. メディアの定着は、単なる欲望の充足にとどまらず新たな欲望を創出する。

10. 技術環境への適応は、私たちの世界観や社会観をその都度アップデートする。

 いやはや時間をかければこれくらいやれるだろうが、これを一瞬で出力してくるから敵わない。

 それぞれ、原文の微妙に違った断面を切り取って見せている。いちいち、うん、そういうこと言ってるよなあ、と思う。


 授業では「二文要約」を課したが、上記のAI要約のどれか二つを、なるべく内容の重複を避けて取りあげればよさそうだ。


 さて「対比」はどうか。

 主要な対比が「生物的身体/社会的身体」であることはすぐわかる。しかも「ではなく」型の対比だ。ということは「社会的身体」がどういうものかを把握することが求められているわけだ。

 それを説明するために、文中から関連する言葉をあれこれと挙げた。

 イメージ・観念・機能・能力・振る舞い…(「予期の織物」「象徴的な義体」も挙がるが、この二つは集中的に考えたい表現なので後述する。)

 これらをすべて使って説明する。

 「生物的身体」が血や肉や骨でできた物理的(生物的と言いながら)であるのに対し、「社会的身体」は「観念」的に「イメージ」されたものだ。それは、どういうはたらきをするか(機能)、何ができるか(能力)、どのように振る舞うかによって把握(イメージ)される。

 そしてそれはメディアによって社会に接続し、コミュニケーションによって形成される。


2026年1月17日土曜日

視点を変える11 鳥の眼と虫の眼3 まとめ

  小論文はうまく言いたいことが書けたろうか。600字はみじかすぎる。収めるのに苦しんだかもしれない。

 字数を気にせずに以下に授業者の読解を示す。


 この文章で最も重要な対比が「鳥の眼/虫の眼」であることは明白だ。

 そしてこの文章の最重要プレーヤーはサン・テグジュペリとアリスであることもまた明白であり、この二人が「鳥の眼/虫の眼」という対比に対応していることがまず指摘されなければならない。すなわちサン・テグジュペリが「鳥の眼」を持つ者、アリスが「虫の眼」を持つ者である。

 そしてこの対比は、どちらかが中心だったり、どちらかが肯定的/否定的であったりはしない。アリスもサン・テグジュペリも、どうみても肯定的な存在として描かれている。

 だから「鳥の眼も虫の眼もどちらも大事」ということになるのだが、それだけで終わってはならない。「木を見る、森を見る」なら結論はそれでもいい。だがこの文章ではどのような論理で、どちらも大事、と言っているのかが論じられなければならない。


 この文中には様々な、それぞれに軸の異なった対比が見てとれる。そうした対比の交錯がこの文章の読解の難しさの一つの表れではある。

 これを整理しよう。

 主要な対比を、さしあたり三つのグループに整理する。

  1. 「視点を変える」というテーマを表す、「主人公/異端者」「子供/大人」など、視点の相対性を示す対比軸。
  2. 『人間の土地』『大草原』『オリエンタリズム』で示される「西洋/非西洋」軸。 
  3. 「近年の人類学」で示される「鳥/虫」軸。

 1と2の違いを、前項で次のように表現した。

  1. 「主人公/異端者」は視点の違いを示す主観の対比
  2. 「西洋/非西洋」は客観的に存在する対象の対比

 これらは、多くの物語で、左辺同士/右辺同士が対応している。西洋側から見た物語は西洋人が「主人公」になる。

 「子供/大人」の対比は、この対応が逆でもいいことに気づいたきっかけを示している。大人になった石井さん、松村さん、ローラは、「非西洋」の側から物語を見直す可能性を示唆する。

 その時何が見えてくるか?


 すなわち「西洋/非西洋」が「征服者/被征服者」であること、そしてそれが多くの物語で隠蔽されていることだ。

 このことは文中で明示されない。「征服者/被征服者」という対比は文中に出てこない。

 ただ文章前半に出てくる「不帰順族」という語は、「帰順/不帰順」という対比を前提している。そしてそれはさらに「支配/(帰順/不帰順)」という対比を前提している。これがすなわち「征服者/被征服者」という対比だ。

 隠蔽されたこの対比は何を示すか?


 「それでも」の逆接から見えてくる前半部の趣旨は「人間性」に対する信頼がぐらついていることだった。上の対比=対立がそれを示している。「征服/被征服」という対立を隠したままで、一体どんな「人間性」を信じればいいのか。

 この疑問に対する答えが、まずは遊牧民に「〈人間〉の顔」を見出すサン・テクジュペリのエピソードで語られる。 

 そして続く「ルピナスさん」のエピソードもまた、同様に「〈人間〉の顔」が描かれているのだと解釈できる。

 アリスは征服者ではなく訪問者だ。文中に唯一「~ではなく」型の対比として語られる「征服者/訪問者」は、よく考えると捻れている。

 「征服者」の対立項目は上記の通り征服者」だ。

 「訪問者」の対比項目は訪問者」だろう。

 「訪問者」はアリスを指している。白人(アメリカ人)のアリスが南の島を訪れる。そこにいるのは「非西洋」の人々だ。

 西洋/非西洋

アリス/南の島の人々

 「西洋/非西洋」の関係は歴史上「征服者/被征服者」の関係だった。

征服者/被征服者

 西洋/非西洋

 だがアリスにとってそれは「訪問者/被訪問者」の関係だ。
 「アリスは征服者ではなく訪問者だ」というのは、アリスと南の島の人々は「西洋/非西洋」の関係だが、それは「征服者/被征服者」の関係ではなく、「訪問者/被訪問者」の関係だ、と言っているのだ。


 サン・テクジュペリと遊牧民のエピソードもまた、これと同じ構図なのだと考えられる。

 サンと遊牧民は「西洋/非西洋」の関係だ。だが遊牧民は「征服者」に対する「被征服者(=帰順/不帰順)」としてサンの前に現れるのではなく〈人間〉として現れる。

 つまり上記に合わせていうと次のような対比があると考えられる。

(征服者/被征服者)/(訪問者/被訪問者)

   (友/敵)/(人間/人間)

 どちらも「ではなく」型の対比、つまりはっきりした主張の表れる対比だ。

 上空から見るとすべての人々が「ともしびの一つ一つ」に見える。彼らと「心を通じあう」ことをサン・テグジュペリは希求する。そのとき、サン・テグジュペリにとって「西洋/非西洋」という対立は存在せず、灯火の下には同じ「人間」がいるだけだ。彼が救援する者と待つ者の「奇妙な役割の転倒」を確信するのは、自分を救援してくれる者が「人間」であるように、自分も同じ「人間」でありたいと彼が思っていることを示している。


 現実に存在する「西洋/非西洋」という対立構造を乗り越える可能性を「鳥の眼と虫の眼」という二つの視点から語るのがこの文章のメッセージである。

 「鳥の眼」によって、地上の全ての人を同じ「人間」として見ることで。

 「虫の眼」によって、全ての人々に同じ「人間」として接することで。


 以上、600字をはるかに超えるのでちょっとズルい。

 600字程度にまとめてみる。

 サン・テグジュペリとアリスは「鳥の眼/虫の眼」を象徴している。二人を通して、この文章はどのような主張を語るか。

 「視点」を象徴する対比「主人公/異端者」における「主人公」は多くの物語において、「西洋/非西洋」における「西洋」、すなわち「支配/被支配」における「支配者」である。だがそのことに気づいたとき、筆者の中で素朴に信じられてきた「人間性」への信頼に疑問が生ずる。「征服者」からのみ見た「人間性」は信ずるに値するのか、と。

 「鳥の眼/虫の眼」という対比は、現実に存在する「西洋/非西洋」という対立構造を乗り越える可能性を、二つの視点から語る。

 アリスと南の島の人々は「西洋/非西洋」の関係である。だがアリスは両者の関係を「征服/被征服」の関係ではなく「訪問者/被訪問者」の関係として捉える。それは「西洋/非西洋」という対立を超えた、同じ人間として両者を見る視点を示している。これを可能にしているのがアリスが体現している「虫の眼」である。

 一方「鳥の眼」を体現するサン・テグジュペリも、自分に水を与える遊牧民に「人間」の顔を見る。フランス人であるサンと遊牧民は「西洋/非西洋」の関係である。だがはるか上空から見下ろすとき、地上の人々は全て小さな「ともしび」である。空からの視点によって「支配/被支配」という対立を超えた「人間」への愛おしさに気づく。

 そしてこれら二つの視点を共にもつことが「人類」学者である石井氏の願いである。

以上、評価の参考に。

 もう一つ、3年前の1年生にも同じ課題を出した。
 その中で授業者が最も高く評価した文章を紹介する。

 黒人と白人、西洋人と非西洋人、世の中にはそんなあらかじめ決められた絶対的な対比が溢れている。そのため、ローラの父のように人々は自分の中に固定概念を確立し、物事を多角的に見られなくなる。
 絶対的な対比に対し、英雄と普通の人、主人公と異端者などのような相対的な対比も存在する。これらの対比は、視点を変えれば違った風に捉えることができる対比だ。例えば、物語の隅に登場する異端者も、その人物に焦点を当てれば主人公に変わる。
 視点を変えるために必要なこと、それは鳥の眼と虫の眼、その両方を持つことだ。飛行家という職業柄、鳥の眼で物事を見ることが多いサン・テグジュペリを筆者が征服者と表現しなかったのは、彼に小さなともしびと通じ合おうとする虫の眼の視点があったからであろう。また現地の人と親しみ、虫の眼で土地を歩いたアリスは村に花の種をまくが、そこには風に乗って運ばれ、遠い場所で花を咲かせたルピナスを見たという背景がある。もし鳥の眼で遠くに目を向けなければ、村に花が咲き誇ることはなかったであろう。
 筆者が調査地から遠ざかる瞬間、それは虫の眼が鳥の眼にかわる瞬間だ。虫の眼で人々と心を通わせたからこその相手に対する理解、鳥の眼への変換があるからこそ感じる懐かしさ、二つの視点があることによって、はじめて調査地の人々に対する愛が生まれる。二つの視点を持つことで愛をおくりたい、そんな筆者の想いが伝わる。
  論理も的確な上に、なにより文章が美しい。驚嘆すべきエッセイだ。

 さて3年前には到底できなかっただろう解釈を、今の無料AIがどれくらいできるのかと試してみると、これが驚くほどやってのける。これで無料。いやこういう作業は有料版でもあんまり変わらないのかもしれないが。

ChatGPT
 石井美保「鳥の眼と虫の眼」は、物語を読む視点の変化を通して他者理解のあり方を考察する随筆である。飛行士でもあったサン=テグジュペリの『人間の土地』や『星の王子さま』に描かれる人道的ヒロイズムは、かつては理想として輝いて見えたが、大人になって読み返すと、植民地主義的まなざしや「救う側/救われる側」という非対称性が浮かび上がる。同様に、『大草原の小さな家』などにも、先住民や黒人を周縁化する視点が潜んでいることに気づく。エドワード・サイードの『オリエンタリズム』は、こうした図像を反転させ、語られなかった側から物語を見る契機を与える。一方で、砂漠で水を与えた遊牧民の沈黙の行為には、立場を超えた〈人間〉の顔が現れる。俯瞰する「鳥の眼」と生活に寄り添う「虫の眼」は対立するだけでなく、両者を往還しつつ、小さな灯火のような他者とのつながりを見いだすことが大切だと説く
Gemini
 石井美保の「鳥の眼と虫の眼」は、サン=テグジュペリの『人間の土地』を起点に、他者をまなざす視点の変容と人間性の在り方を深く考察した一編である。著者は、幼少期に憧れた同作の「人道的ヒロイズム」に対し、大人になってから微かな違和感を抱く。その違和感の正体は、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』が示すように、物語が常に西洋的な中心視点から語られ、先住民や奴隷といった存在が「他者」として一方的に表象されているという事実への気づきであった。かつて主人公に心酔した視点は、図像を反転させるように、物語の隅に追いやられた人々へと向けられる。現代の人類学では、俯瞰的で支配的な「鳥の眼」よりも、個人の生活に寄り添う「虫の眼」が推奨されるが、著者はその二項対立に留まらない。サン=テグジュペリが上空から地上のともしびに見た孤独な人間の心への敬意や、絵本『ルピナスさん』に見られるような、征服者ではなく「つつましい訪問者」としての交流の中に、真の人間性の交感を見出している。調査地を離れる飛行機から見下ろす日常の風景が、遠ざかるほどに愛おしく、奇跡のように感じられるという実感を伴い、著者は語る。たとえ視点が変わろうとも、他者に対して小さな種をまくような、つつましい便りを送り続けること。その姿勢こそが、断絶を越えて人間としての尊厳を分かち合う鍵であると説いている
 冒頭に主題を簡潔に表現し、それと呼応したまとめを最後に置く。見事だ。

視点を変える10 鳥の眼と虫の眼2 対比

 評論を読むためのメソッドとして今まで意識して実践したのは、例えば「一文要約」「問いを立てる」だった。

 一文要約は、その文章の最も重要なエッセンスを単文で表現しようとすることで、論理を把握することに頭を使うテクニックだ。一文にしておくと取り回しが楽なので、それを「使う」にも便利だ。

 単文とは主語述語の組み合わせが一つであるような文のこと(重文や複文は二つ以上ある)。

 その単文における「主語」とはその文章の主題・モチーフであり、「述語」は結論だ。その文章は「何が―どうだ」と言っているのかを簡潔に表現する。そうしようとすることで頭を整理する。

 「問いを立てる」は、その結論が、どのような問題意識から導かれたものかを明らかにしようというものだ。「どうだ」という結論だけを言われても、だから何? という印象にしかならない場合もある。その時、「問い」が何であるかを考えることで、筆者の思考をたどることができる。


 さてこれらのメソッドを使ってみよう、と考えると、それが「鳥の眼と虫の眼」にはまるで使えないことがわかる。

 何を主語として取り立てるべきかも、述語が何かも、まるで見当がつかない。

 終わりの一文「つつましい便りを送ることができたらと願う」が何のことを言っているのか、まるでわからないのだ。これが結論かどうかもわからない。その前あたりの終盤も、どこかを結論として認定できそうな感触がない。

 同様に主語にすべき何事もわからない。「主語にすべき」とは、文中で明示されているか、結論から遡って設定されるかだが、それらしきものが明示もされていないし、結論もわからないから、取り上げようもない。

 そして結論がわからないから「問いを立てる」こともできない。


 ではどうするか。ここはもう一つ、ここまで最も頻繁に実践してきたメソッドを想起しなくてはならない。

 そう「対比」だ。


 ところが考え始めるとすぐに一筋縄ではいかないことがわかってくる。

 例えば題名から「鳥の眼/虫の眼」という対比がありそうだと見当はつくが、これが文中で登場するのは半ば過ぎだ。

 まずはサン・テクジュペリ「人間の土地」から次の対比が挙がる。

主人公/不帰順族・モール人

 その次は「大草原の~」から次の対比。

白人/黒人・先住民

 「オリエンタリズム」からは「西洋/東洋」の対比が挙げられる。「東洋」とは西洋から見た「東」という意味だから、アジアだけでなく中近東を含む地域・文化圏を指している。

西洋/東洋

 このうち

白人/黒人・先住民

西洋/東洋

は同じ軸上にあると言っていい。だがこれは最初の「主人公/」と同じではない。

 3ページ目に次の対比がある。

主人公/異端者

 「主人公/不帰順族」の対比は、これと同じともいえるが、「西洋/東洋」の対比と同じともいえる。だが、「主人公/異端者」と「西洋/東洋」の対比はまるで違った対比だ。

 なぜ?


 「白人/黒人」と「西洋/東洋」が同じ対比軸だと言えるのは、両者を並べたときに、左右は対応していて、それを入れ替えることはできないからだ。

 だが「主人公/異端者」と「西洋/東洋」は左右を入れ替えて対応させることもできる。「主人公」は「西洋」でも「東洋」でも、時によってどちらにも対応しうる。

 「主人公/異端者」と「西洋/東洋」の対比がどう違うかを端的に表現するのは難しい。がこういうときにこそ分析力や表現力を総動員した国語力が問われる。

 たとえばこんなふう。

「主人公/異端者」は視点の違いを示す主観の対比

「西洋/東洋」は対象の対立を示す客観的な対比

 最初の「主人公/不帰順族」の対比は、二つの対比が複合している。


 「大草原の~」からは次の対比も抽出できる。

子ども/大人

 だがこの「子ども/大人」は文中では二つの例を指している。

子どもの頃の松村さん/大人になってからの松村さん

ローラ/父親

 この二つの対比は、同じではない。

 なおかつ、これは上の対比のどれとも同じではない。


 一つの軸上に並んでいるわけではないいくつもの対比が次々と登場する。

 例えば次の二つの対比はどうか。

主人公/異端者

 英雄/普通の人

 これらはまたしても同一軸上には並べられない。

 「主人公」と「英雄」は同じ側に置かれそうにも感じられるが、「異端者」と「普通の人」は対応しそうな気配はない。

 例えば次の一節を参照してみよう。

その主人公はでも、いつも英雄だったわけではない。それはつつましい普通の人でもあった。

 「主人公」がある時は「英雄」であり、ある時は「普通の人」であるとすれば、軸の左右は時によって入れ替わってしまうということだ。


 後半、「近年の人類学」に話題が及ぶとようやく「鳥の眼/虫の眼」が登場する。

 その直前に、「征服者/訪問者」という対比も文中から見つかる。

 これはなかなかに解釈の難しい対比だ。

 英雄/普通の人

征服者/訪問者

 は並べられそうな感触がある。が「普通の人」と「訪問者」は対応しそうだが「英雄」と「征服者」には反対の印象がある。いや、共通性が見出せないこともないのだが。「反対」と見なすには共通の土俵が必要でもある。

 また「白人/黒人」と並べてみると、「黒人奴隷」に対する「白人」は「征服者」だ。では「黒人」は「訪問者」なのか?

 そんなことはありえない。「訪問者」とはアリスのことだ。アメリカ人である白人のアリスと「黒人」をひとくくりにする論理は見出せない。

 これは対比の軸が違っているということだ。


 対比の多くは「対立」であり、しかもその多くは否定/肯定の対比だ。ここまでに挙げたいくつもの対比のうち、これにあてはまるのは「征服者/訪問者」だけだ。「訪問者」であるアリスは肯定的に描かれている。

 では「征服者」とは誰か?

 「鳥/虫」軸を語る人類学のくだりに次の一節がある。

空からの視線は支配者の視線に通じる

 「支配者」は「征服者」の言い換えだろう。どちらも否定的な表現に見える。

 それに比べて「虫」の視点からは「細やかな機微」を捉えることができる。これは肯定的だ。そしてこの視点を持ったものが「訪問者」だろう。

 だがこのくだり、表現の、それこそ「細やかな機微」を感じ取る必要がある。

 「鳥瞰図への批判と虫の眼への接近」は左辺を否定的に捉える対比かと一瞬思えるが、続く一節は「それはきっと、ある意味で正しいのだろう。」という、微妙な保留のニュアンスがある。「ある意味で」という限定にしろ「きっと~だろう」という推量形にしろ。

 そして空から見ている人として登場するサン・テグジュペリはこの文章で「批判」されているようには思えない。「空からの視線は支配者の視線に通じる」に続く文の冒頭は「だが」だ。

だがサン・テグジュペリは、上空から見るともしびについても書いていた。

 ここが逆接になるのは、どのような方向で論を進めたいということの表れなのか?


 明らかにこの文章の最重要プレーヤーはサン・テグジュペリとアリスだ。

 二人は、この文章の論理の中でどういう位置付けにあるのか?

 二人の存在を通して、どのようなメッセージを伝えているのか?


 なんだか「鳥の眼と虫の眼」の本文のように、問題の投げかけばかりしている文章になってしまった。

 あとは各自、小論文執筆、健闘を期待します。


視点を変える9 鳥の眼と虫の眼1 木を見る

 文化人類学者・石井美保の「鳥の眼と虫の眼」は、評論というよりは随筆というべき平易な筆致で書かれている。こういうのは難しい評論とは違った意味で手強いことがある。筑波大の国語の問題も、大問一の論理的文章より大問二の文学的文章(小説・随筆)の方がはるかに難しい。

 この文章も、当たりは柔らかいがその実、なまなかなことでは読み下せない懐の深さがある。味わい深く、感動的でもあるのだが、所々急に話題が跳んで、論理を追うのは難しい。すっきりと読み下せない。


 この文章が「視点を変える」シリーズなのだということは見当がつく。

 題名の「鳥の眼と虫の眼」がそもそも「木を見る、森を見る」みたいだな、という印象がある。

 どう対応する?


 「木を見る」は近づいて見ることを意味し、これが「虫の眼」に対応するのだろう。「森を見る」は離れて全体を見ることだから「鳥の眼」がそれに対応しそうだ。

 その上で「木を見る、森を見る」は「視点を変えると違う見え方がする」ことを語った文章だった。メッセージ風に言うと「いろんな視点からものを見よう」。

 「鳥の眼と虫の眼」はどうか?


 この文章も「視点を変える」というモチーフを共有していそうだと感じられるのは、例えば次のような一節を見ても明らかだ。

同じ風景が広がっているのに光の色が異なっているような

図像を反転させるように別の見方を取る

異なる光の下で別様に見えてくる

 もっとはっきり「視点が変わる」という表現も出てくる。

違う光の下で景色を見るように、こうした場面に昔は気づかなかった何かを感じ取ってしまうのは、自分の視点が変わったせいだろう。

 違う視点から石井さんに見えてきたのはどんな景色なのか?


 この文章の「森」の姿は、最後に各自でスケッチしてもらうことにする。600字の小論文として。

 授業では「木を見る」ことから始める。


 新年早々、贅沢な時間の使い方をする。「わからないところ」を出し合い、答え合う。

 わからないことがないのなら教わる必要もないのだから、「わからないないところ」があるかないかを確かめずに行われる授業というのはナンセンスだ。だから本当は、授業(教授)は、学ぶべき事柄を提示した上で(テキストなどを読ませて)、どこがわからない? とまず訊くべきだ。というより学習者自身が、そのテキスト情報だけではわからないことを教授者に問いかけるべきだ。

 実際にはそうした一対一対応をすることが時間的にも人的にも不可能だから、一斉に「授業」という形態で教授が行われる。それだけでなく、そもそも学習者は何を「わかる」べきか、どうなら「わかった」と言えるのかを判断できないから、教授者が「教える」べきことを判断して「教える」ことの有効性にも一理はある。

 だがそうして行われる「授業」が、実際は自分で「わかる」べき学習者を怠惰にしていたり、学習者自身が読めば「わかる」ことを、授業者が説明している無意味な展開に陥っていることはよくあることだ。特に国語の、特に現代文分野では。

 だから、やむをえず上のように行われる「授業」とともに、学習者の側も常に「わからない」ことを問いかけようとする必要がある。


 新年に始まったNHKのドラマ「テミスの不確かな法廷」の主人公である松山ケンイチ演ずる判事は、「わからないことをわかっていないと、わからないことはわかりません」と繰り返し言う。

 そう、真実に迫るには、「わからないこと」を明らかにしようとする姿勢が必要だ。「わかったこと」は「わかっていないこと」との対比によって輪郭づけられる。

 そこで、「何がわからないかがわからない」と言いたくなるのは人情だが、そう言わず、粘り強く自分の中の「わからない」が何なのかを見つめる。その「わからなさ」が適切な問いになった時には、半ば以上その問いは解けている。

 ただし「全体として何を言っているか?」は今回はナシ。それは「森」の問題でもあり、思考停止でもある。「全体=森」は自分で考えることを課題にする。

 授業では「木」の姿を明瞭にすることをめざす。


 だがやはり、何がわからないかがわからない、文章ではある。それでも、二人で一緒に「わからない」ことに安住して思考停止していないで、何かを投げかけてみれば、隣の人は、授業者は、何らかの反応をする。それらは思考を前に進めるために有益な情報のはずだ。


 いくつものクラスで、サン・テクジュペリが遊牧民に救われるエピソードの近辺が質問される。確かにこのあたりはなんだか「わからない」。問いも、何を問うべきか、はっきりしない。

 ただ、解釈を阻む要因として次の一節の読みにくさが問題ではある。

遊牧民はあくまで無言だ。それでもは、遭難した者たちに水を与えるという行為を通して、〈人間〉の顔を受け取っている。

 この「彼」とは誰か?


 これが問いとして発想されたりはすまい。それぞれの読者は、”どちらか”を代入して、そうでない候補の可能性を考えたりはしない。だからほぼ半分の人はこれを誤解している。そしてそのまま無理矢理解釈しようとしている。

 この誤解の可能性に、例えば話し合いの中で気づくかというとそれも難しい。いや、気づいてほしい。何か話が食い違うぞ、と思って、「彼」が指すものが違っているのだと気づいてほしい。

 だがそれはなかなか難しいことだ。相手の話を注意深く聞いて、自分の考えとすり合わせる、真摯な姿勢が必要だ。

 ではこの問いがどうして発想されたかと言えば、授業者自身の読解過程での誤解からだ。そう、「彼」が指す対象を誤解していたことに、しばらく考えてからわかったのだった。

 「彼」とは遊牧民か? サン・テクジュペリか?


 意見はほぼ半分ずつに分かれた。

 候補を二つ並べてさあどちらが適切か、と考えたら、結論は早急に統一されるにちがいないと思っていたのだが、いやはや簡単には決着しなかったのは、問題でもあり、面白くもある。”正しくない”方を代入しても、それはそれで解釈できてしまうのだ。

 考える手がかりは、「彼は」の述語が「人間の顔を受け取っている」であることと、「それでも」に含まれる逆接の論理をたどることだ。

 「彼」を「遊牧民」だと思ってしまうのはごく自然なことだ。「彼」という代名詞で代替される対象は近いところで候補が探される。そして「彼は」の直後の「遭難した者たちに水を与える」が明らかに「遊牧民」の行為なのだから。

 にもかかわらず、ここはサン・テクジュペリを指していると読むのが正しい。そう考えてこそ、「それでも」の逆接も「受け取る」の述語もしっくりとはまる。

 こういう誤解がほぼ半分(以上?)の読者に生ずるのは石井美保のミスだとも言えるが、読者の不注意でもある。広い視野で、やや長い文脈を読む必要あるのだ。


 「遊牧民は無言」なのだから、サンがそこから何かを(言葉を)受け取ることはできないはずなのに、でも「受け取っている」、という逆接の論理が「それでも」で示されていると読むのがしっくりいく。

 ここから、前の段落の「ただそれでも」に注目するのも有効だと気づいた。

ただそれでも、その物語から失われない人間性というものが、もしありうるのだとしたら。

 まずこの文末が不自然ではある。倒置法の可能性も考えてはみるが、それらしい候補がないので、これは省略なのだと考えよう。何が続く?


 いたずらに難しく考える者が意外と多くて困ったものだが、「~としたら」には「それはどういうものなのか?」あたりが続くのだろうということは自然にわかるはずだ。さらに読解が進めば「それはどういう状況で・条件であるのか?」くらいの疑問を隠しているのだと考えることはできる。

 さてこれが「それでも」の後にくるのだから、前には、それと逆の方向性があったと考えられる。となると、文章の論理展開は次のようになっているのだと考えられる。

失われそう

 それでも↓逆接

失われない人間性はあるのか

ある

 最後の「ある」の部分が上述の遊牧民のエピソードで示されているのだと考えられる。

 そして論理的に推測される「失われそう」だという方向は、その前の「人間の土地」「大草原の~」「オリエンタリズム」によって示されている。そう読むことができるだろうか? それらのエピソードがいずれも、幼い頃に疑問も持たずにいた「人間性」に対する信頼がグラつきそうなことを示すエピソードだと。


 この大きな論の展開を捉えるだけで、全体に対する見通しはかなりすっきりする。

 それでも「あるのか?」以降の展開はなお手強い。


2026年1月9日金曜日

羅生門 補遺 ペリシテ人のモラル

 いくつかのクラスで触れたが、その余裕のなかったクラスもあったので、ここに書き留める。

 芥川本人が「羅生門」について書き残したメモが見つかったのは30年ほど前で、公開されたのは今世紀に入ってからなので、これに基づく「羅生門」解釈はまだあまり一般的ではない。

 Teamsにはアップしてあり、論考を提出する気のある人は目を通すことを勧めたのだが、読んでいる人は少数らしい。

 原文は英語で書かれた「Defence for “Rasho-mon”」。以下はその一節を和訳したもの。


「羅生門」への弁明

「羅生門」は私の人生観の一端を具現化しようとした短篇である。(略)ここで私が扱いたかったのは「モラル」である。私の考えでは、「モラル」(少なくとも、“moral of philistine”=「教養のない俗物のモラル」)は時々の情動や気分の産物であって、それもまた時々の状況の産物である。

 芥川は「羅生門」の主題を「moral」だと言う。

 なるほどそうだと、素直にのみこめるだろうか?


 「エゴイズム」がスキーマであるように、「moral=道徳」もやはりスキーマだ。だから「モラル」という言葉を使って、ある「羅生門」理解=ゲシュタルトを顕現させることはできる。

 これを「エゴイズム」というスキーマによるゲシュタルトと一致させてみよう。

 「モラル」と「エゴイズム」は馴染みの良い言葉だ。「生きるための悪は許されるか」というのは確かに「道徳」的な問いに違いない。

 通常「道徳」と「エゴイズム」の方向性は反対だ。だから「生きるためのエゴイズム」が許容されるということは、「道徳」が否定されるということだ。

 これは一体何のことを言っているのか?


 そもそも「エゴイズム」とは何のことか?

 言うまでもなく引剥ぎのことだ。引剥ぎという行為の根拠となる論理のことだ。己の必要の為に他人の物を奪う原理だ。

 では「モラル」とは具体的には「羅生門」の中の何を指しているか?


 この問いに適切な答えが提出されるまでに妙に手間がかかったのは、頭からの論理の辿り方のせいで、みんなが「引剥ぎ」と「道徳」を結びつけようとしていたせいだろう。「引剥ぎ」は上の通り「エゴイズム」に対応している。

 では、というと老婆に対する「憎悪」が挙がる。いやそれより前に挙げるべきことがあるはずだ。

 まず物語冒頭で下人が盗人になることを躊躇うのが「モラル」だと考えるべきだ。

 悪を為さないことで飢え死にの可能性があるのに迷っているのは「モラル」があるからだ。死人の髪の毛を抜く老婆を憎悪する心理はその延長にある。

 なぜそうした「モラル」を芥川は否定するのか?


 芥川のメモは、一度「モラル」と書いてから「少なくとも“philistine=ペリシテ人のモラル”は」と言い直している。「ペリシテ人」とは「教養のない俗物」を指す慣用表現だ。「知識人」が一般大衆を見下すときにつかう形容だ。

 芥川は、世間の人が口にする「モラル」を皮肉って、「俗物の道徳」と呼ぶ。

 「俗物の道徳」がどうだというのか?


 「俗物の道徳」は「時々の情動や気分の産物」だと芥川は言う。

 だからフラフラと変化する。生きるためには仕方がないという「老婆の論理」を得たとたんにあっさりと「意識の外に追い出され」てしまうほど浮薄なものだ。

 「ペリシテ人のモラル」が主題であるとは、そのような芥川の道徳観を下人の行為を通して表わしているのだ、と理解することができる。

 これは「エゴイズム」を主題とする「羅生門」把握と一致する。

 本来であれば悪であるはずの「エゴイズム」が、生きるためなら正当化されるというのなら、それを断罪するはずの「モラル」など、上記のように脆弱なものだという認識と一致する。


 さてでは「エゴイズム」をスキーマとする「羅生門」解釈ではなく、「観念」をスキーマとする「羅生門」読解と「モラル」というスキーマによる読解は一致するのだろうか?


 「羅生門」とは、空疎な観念による幻想から醒めて現実を認識する話、だ。

 つまり「ペリシテ人のモラル」、つまり世人の「モラル」こそ、空疎な観念の上に載っている脆い物だと言っていることになる。

 「モラル」とは「善」と「悪」をめぐる価値の対立だ。だが人々の言う「モラル」など、頭の中にある図式に過ぎず、それが現実ではなく空疎な観念でしかないから「時々の情動や気分」に容易く左右される。

 例えば下人の心に突如燃え上がる異様な「憎悪」はモラルの表れだが、その歪なありようを通して、我々の持っているモラルの歪さを描く。

 そのようなモラルが「観念的」だということが自覚されることで、盗人になることを止める力を失ったということが、結末の引剥ぎの実行で表現されている。


 ということで「観念」をスキーマとする「羅生門」理解は、そのまま「モラル」をスキーマとする「羅生門」理解に適用できる。

 「モラル」は「極限状況」と「老婆の論理」に敗れたのではなく、その観念的な脆弱さによって否定されたのだ。


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