2026年1月17日土曜日

視点を変える9 鳥の眼と虫の眼1 木を見る

 文化人類学者・石井美保の「鳥の眼と虫の眼」は、評論というよりは随筆というべき平易な筆致で書かれている。こういうのは難しい評論とは違った意味で手強いことがある。筑波大の国語の問題も、大問一の論理的文章より大問二の文学的文章(小説・随筆)の方がはるかに難しい。

 この文章も、当たりは柔らかいがその実、なまなかなことでは読み下せない懐の深さがある。味わい深く、感動的でもあるのだが、所々急に話題が跳んで、論理を追うのは難しい。すっきりと読み下せない。


 この文章が「視点を変える」シリーズなのだということは見当がつく。

 題名の「鳥の眼と虫の眼」がそもそも「木を見る、森を見る」みたいだな、という印象がある。

 どう対応する?


 「木を見る」は近づいて見ることを意味し、これが「虫の眼」に対応するのだろう。「森を見る」は離れて全体を見ることだから「鳥の眼」がそれに対応しそうだ。

 その上で「木を見る、森を見る」は「視点を変えると違う見え方がする」ことを語った文章だった。メッセージ風に言うと「いろんな視点からものを見よう」。

 「鳥の眼と虫の眼」はどうか?


 この文章も「視点を変える」というモチーフを共有していそうだと感じられるのは、例えば次のような一節を見ても明らかだ。

同じ風景が広がっているのに光の色が異なっているような

図像を反転させるように別の見方を取る

異なる光の下で別様に見えてくる

 もっとはっきり「視点が変わる」という表現も出てくる。

違う光の下で景色を見るように、こうした場面に昔は気づかなかった何かを感じ取ってしまうのは、自分の視点が変わったせいだろう。

 違う視点から石井さんに見えてきたのはどんな景色なのか?


 この文章の「森」の姿は、最後に各自でスケッチしてもらうことにする。600字の小論文として。

 授業では「木を見る」ことから始める。


 新年早々、贅沢な時間の使い方をする。「わからないところ」を出し合い、答え合う。

 わからないことがないのなら教わる必要もないのだから、「わからないないところ」があるかないかを確かめずに行われる授業というのはナンセンスだ。だから本当は、授業(教授)は、学ぶべき事柄を提示した上で(テキストなどを読ませて)、どこがわからない? とまず訊くべきだ。というより学習者自身が、そのテキスト情報だけではわからないことを教授者に問いかけるべきだ。

 実際にはそうした一対一対応をすることが時間的にも人的にも不可能だから、一斉に「授業」という形態で教授が行われる。それだけでなく、そもそも学習者は何を「わかる」べきか、どうなら「わかった」と言えるのかを判断できないから、教授者が「教える」べきことを判断して「教える」ことの有効性にも一理はある。

 だがそうして行われる「授業」が、実際は自分で「わかる」べき学習者を怠惰にしていたり、学習者自身が読めば「わかる」ことを、授業者が説明している無意味な展開に陥っていることはよくあることだ。特に国語の、特に現代文分野では。

 だから、やむをえず上のように行われる「授業」とともに、学習者の側も常に「わからない」ことを問いかけようとする必要がある。


 新年に始まったNHKのドラマ「テミスの不確かな法廷」の主人公である松山ケンイチ演ずる判事は、「わからないことをわかっていないと、わからないことはわかりません」と繰り返し言う。

 そう、真実に迫るには、「わからないこと」を明らかにしようとする姿勢が必要だ。「わかったこと」は「わかっていないこと」との対比によって輪郭づけられる。

 そこで、「何がわからないかがわからない」と言いたくなるのは人情だが、そう言わず、粘り強く自分の中の「わからない」が何なのかを見つめる。その「わからなさ」が適切な問いになった時には、半ば以上その問いは解けている。

 ただし「全体として何を言っているか?」は今回はナシ。それは「森」の問題でもあり、思考停止でもある。「全体=森」は自分で考えることを課題にする。

 授業では「木」の姿を明瞭にすることをめざす。


 だがやはり、何がわからないかがわからない、文章ではある。それでも、二人で一緒に「わからない」ことに安住して思考停止していないで、何かを投げかけてみれば、隣の人は、授業者は、何らかの反応をする。それらは思考を前に進めるために有益な情報のはずだ。


 いくつものクラスで、サン・テクジュペリが遊牧民に救われるエピソードの近辺が質問される。確かにこのあたりはなんだか「わからない」。問いも、何を問うべきか、はっきりしない。

 ただ、解釈を阻む要因として次の一節の読みにくさが問題ではある。

遊牧民はあくまで無言だ。それでもは、遭難した者たちに水を与えるという行為を通して、〈人間〉の顔を受け取っている。

 この「彼」とは誰か?


 これが問いとして発想されたりはすまい。それぞれの読者は、”どちらか”を代入して、そうでない候補の可能性を考えたりはしない。だからほぼ半分の人はこれを誤解している。そしてそのまま無理矢理解釈しようとしている。

 この誤解の可能性に、例えば話し合いの中で気づくかというとそれも難しい。いや、気づいてほしい。何か話が食い違うぞ、と思って、「彼」が指すものが違っているのだと気づいてほしい。

 だがそれはなかなか難しいことだ。相手の話を注意深く聞いて、自分の考えとすり合わせる、真摯な姿勢が必要だ。

 ではこの問いがどうして発想されたかと言えば、授業者自身の読解過程での誤解からだ。そう、「彼」が指す対象を誤解していたことに、しばらく考えてからわかったのだった。

 「彼」とは遊牧民か? サン・テクジュペリか?


 意見はほぼ半分ずつに分かれた。

 候補を二つ並べてさあどちらが適切か、と考えたら、結論は早急に統一されるにちがいないと思っていたのだが、いやはや簡単には決着しなかったのは、問題でもあり、面白くもある。”正しくない”方を代入しても、それはそれで解釈できてしまうのだ。

 考える手がかりは、「彼は」の述語が「人間の顔を受け取っている」であることと、「それでも」に含まれる逆接の論理をたどることだ。

 「彼」を「遊牧民」だと思ってしまうのはごく自然なことだ。「彼」という代名詞で代替される対象は近いところで候補が探される。そして「彼は」の直後の「遭難した者たちに水を与える」が明らかに「遊牧民」の行為なのだから。

 にもかかわらず、ここはサン・テクジュペリを指していると読むのが正しい。そう考えてこそ、「それでも」の逆接も「受け取る」の述語もしっくりとはまる。

 こういう誤解がほぼ半分(以上?)の読者に生ずるのは石井美保のミスだとも言えるが、読者の不注意でもある。広い視野で、やや長い文脈を読む必要あるのだ。


 「遊牧民は無言」なのだから、サンがそこから何かを(言葉を)受け取ることはできないはずなのに、でも「受け取っている」、という逆接の論理が「それでも」で示されていると読むのがしっくりいく。

 ここから、前の段落の「ただそれでも」に注目するのも有効だと気づいた。

ただそれでも、その物語から失われない人間性というものが、もしありうるのだとしたら。

 まずこの文末が不自然ではある。倒置法の可能性も考えてはみるが、それらしい候補がないので、これは省略なのだと考えよう。何が続く?


 いたずらに難しく考える者が意外と多くて困ったものだが、「~としたら」には「それはどういうものなのか?」あたりが続くのだろうということは自然にわかるはずだ。さらに読解が進めば「それはどういう状況で・条件であるのか?」くらいの疑問を隠しているのだと考えることはできる。

 さてこれが「それでも」の後にくるのだから、前には、それと逆の方向性があったと考えられる。となると、文章の論理展開は次のようになっているのだと考えられる。

失われそう

 それでも↓逆接

失われない人間性はあるのか

ある

 最後の「ある」の部分が上述の遊牧民のエピソードで示されているのだと考えられる。

 そして論理的に推測される「失われそう」だという方向は、その前の「人間の土地」「大草原の~」「オリエンタリズム」によって示されている。そう読むことができるだろうか? それらのエピソードがいずれも、幼い頃に疑問も持たずにいた「人間性」に対する信頼がグラつきそうなことを示すエピソードだと。


 この大きな論の展開を捉えるだけで、全体に対する見通しはかなりすっきりする。

 それでも「あるのか?」以降の展開はなお手強い。


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